File No.026 伝説または逸話

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白河天皇は延久四年(1072)20歳で皇位に就いたが、なかなか皇子が誕生しない。
そこで頼豪と云う僧に皇子誕生を祈祷させた。
この時天皇は、「成就しれば、褒美は望みのままにあたえよう」と約束した。
まもなく中宮の賢子が懐妊した。
承保元年(1074)12月、めでたく皇子が誕生し、敦文親王と名づけられた。
白河天皇は約束を果たそうとして、頼豪にたいし、「どのようなものを所望するのか」とたずねた。
頼豪は即座に、「ぜひとも圓城寺に戒壇の建立をお許しいただきたいのです」戒壇は僧徒に戒を授けるための式場で、当時は延暦寺にしかない。
延暦寺のライバルである圓城寺にとって、戒壇の県立は悲願であり、頼豪もその設立運動にかかわってきた。
それだけに、頼豪の願いは格別のものだった。
ところが、戒壇の県立となると、両寺の紛争の種にもなっていたし、おそらく延暦寺から反対の声があがるに違いなかった。
天皇としてもおいそれと許可するわけにはいかない。
天皇は「褒美は望みのまま」と約束したにもかかわらず、やむなく「存外の所望だ」といい、却下した。
天皇は延暦寺の反対を恐れたのである。
頼豪は約束を反故にされて怒り、延暦寺に帰ると、憤死してしまった。
頼豪は天皇を怨み、百日間、髪を剃らず、爪も伸びるにまかせ、顔や手などは炉壇の烟にすすけて黒ずんだ。
怒り怨む心の炎に骨を焦がし、「我が願いは大間縁となって、天子を悩ませ、山門(延暦寺)の仏法を滅ぼす」と悪念を起こし、ついに壇上で死んだ。
その怨霊は邪毒を放ったので、頼豪が祈祷して生まれた敦文親王は疱瘡にかかり、4歳で夭死した。
その後、頼豪の亡霊は鉄の牙、石の身をもつ八万四千匹の鼠となり、延暦寺へ向った。
この鼠の大群は延暦寺に忍び込むとつぎつぎに仏像や経典を食い破っていく。
これを防ぐ術が無いので、一社を建立し頼豪の怨霊を鎮撫した。
参議三善清行の息子に浄蔵という僧がいた。
延喜九年(909)、左大臣藤原時平が菅原道真の怨霊に苦しめられ、病に伏せった時、怨霊調伏の祈祷をした僧である。
天暦年間のころ、浄蔵は八坂の坊に住んでいたが、ある夜、八坂の坊に数人の強盗が乱入してきた。
彼等は火をともし、剣を抜き、目を怒らしていたが、不意に立ったまま固まったかのように動こうとしなくなった。
さらに言葉を失いものをいわなくなったし、まるで失心したかのように茫然として顔もこわばったままであった。
実をいうと浄蔵が盗賊達を呪縛したのである。
それから長い時間が過ぎ、まもなく夜が明けようとする頃、浄蔵は本尊に向って、「早く赦してあげてください」と祈った。
すると呪縛が解け、盗賊達はやっともとの状態に戻り、浄蔵に非礼を詫びて立ち去った。

浄蔵はまた、飛鉢の法を自在に使うことができた。
飛鉢の法とは、ある場所へ鉢を飛ばし、その中に物を入れて運ぶという呪術である。
浄蔵が比叡山いた若い頃、飛鉢の法をつかい必要なものを手に入れ、暮らしていた。
しかし、どうしたわけか、三日間も空の鉢が戻ってくる。
これは奇妙な事だし、暮らしにも事欠くので困惑した。
なぜ、鉢が空なのか、その理由を知ろうとして、四日目に鉢が戻ってくる方向の山の峰を見続けていた。
やがて、鉢は物を入れ、王城のほうから飛んでくる。
ところが、北のほうから別の鉢が飛んできて、浄蔵の鉢のなかから移し取ると、飛び去っていった。
これには、さすがの浄蔵も怒って、自分の鉢に加持を行い、これを道案内として犯人探しに出かけた。
北へ向って2,300町(約20~30km)も歩いたと思われるころ、谷間に川が流れているのが見え、そのほとりに方丈の草庵があった。
浄蔵は草庵に近づき、中を覗くと、一人の老僧が脇息に寄りかかり、読経していた。
だが、とうてい普通の人間とは思えぬ気配が漂っている。
浄蔵は鉢の中のものを取った犯人はこの老僧なのかと疑いの目を向けた。
すると老僧は不意に振り向き「どなたかな。此処は滅多に人のこない所じゃが」と声をかけてきた。
浄蔵が鉢のいきさつを話すと老僧はそれを聞き、困った顔をしたが
「それは気の毒なことじゃ。だが、わしはそんな事があったとは、まったく知らぬ。ちょっと調べてみよう」といい、小声で人を呼んだ。
姿を現したのは唐装束を見につけた天童だった。
天童とは護法の鬼神などが少年の姿をして人間界に現れたものである。
老僧は天童の顔を見てすべてを悟ったらしく厳しい口調で天童を叱った。
「この方が話されたことはお前の仕業に違いあるまい。今後はしてならぬ」天童は申し訳なさそうに頭を下げ、退いていった。
「これからは、もう鉢の物がなくなることはあるまい」老僧の言葉を聞いて納得して帰ろうとしたが老僧はひきとめ瑠璃の皿にもった唐梨(林檎)を馳走してもらった。
天の甘露とはこのようなものを云うに違いない。
浄蔵はそう思った。
たちまち身が涼しくなり、疲れも消えてしまった。
浄蔵はこうして比叡山へ帰ったがそれからは、飛ばした鉢が空で戻ってくる事はなくなったという。
平安中期の頃、安部清明は宮廷の陰陽師だったが、清明が活躍していたのと同じ頃、蘆屋道満という民間の陰陽師がいた。
あるとき、清明の評判を耳にした道満は、術くらべを挑むため、都へやってきた。
道満は大柑子(夏みかん)を加持し、殿原や中間に変え、木の枝を加持して太刀や長刀にに変えるとそれらを従えて、清明をたずねてきたのである。
一方、清明は占いによって、すでに20日も前から道満が上洛してくる事を知っていたので道満が訪ねてきても少しも驚かなかった。
道満から術比べを挑まれ、内裏の白洲で優劣を決することにした。
もし、どとらが負けても、勝った者の弟子となる事を約束した。
当日、天皇は大柑子を16個入れた長持を運ばせ、「この中に何が入っているかを占うのだ。」と命じた。
道満は「16個の大柑子です」と答えた。
しかし、清明は密かに加持をしたうえで「鼠が16匹入ってます」と答えた。
大臣達は清明を勝たせてやりたいと思っていたので長持を開けるのをためらったが道満がしびれを切らせて蓋を開けるように促し、清明も同じ様に促すのでしかたなく長持の蓋を取るとどうしたわけか中から鼠が飛び出し数えてみると16匹だった。
道満は負けた為、約束通り清明の弟子となった。

その後、清明は陰陽道をきわめる為に唐土へ出かけていく。
妻の利花と弟子になった道満が留守を預かった。
清明は唐で伯道上人の弟子となり、修行に励んだ。
伯道の命令で三年三ヶ月も萱を刈りつづけたが、伯道は文殊菩薩の像を作り、萱葺きの寺院を建てた。
ところが、清明が留守のうち、道満は利花に言い寄り、密通してしまった。
そればかりか、清明が秘蔵にしていた卜占の書『金烏玉兎集』を無断で写し取ったのである。
やがて10年後、清明は唐から帰国したが、道満は利花の手を借り、殺してしまった。
一方、唐では伯道が不吉な予感をおぼえ、術を用いて占ってみたところ、清明の死相が見えた。
そこで伯道は急いで日本へ渡り、清明を訪ね歩き、彼の死を知ったのである。
伯道は清明の塚を訪れ、掘ってみた。
遺骨はばらばらになっていたが、一つずつ拾い集めると、すべてが揃った。
伯道が生活続命の法を執り行うと、清明はすぐ蘇生した。

やがて伯道は道満を訪れ、清明と会った事を告げると道満は「清明はもう三年も前に死にました。それなのに会ったなんて、夢でも見ているのではありませぬか。
もし、清明が本当に生きているのなら、私の首を差し上げましょう」とまで言った。
それを聞いた伯道は、清明を呼び寄せた。道満は清明の姿を見て驚いたが、もう遅い。
道満は清明に首を切られてしまった。
西行が高野山の庵で修行していた頃、親しくしていた修行僧が京都へいってしまったので、西行はその友を懐かしく思うあまり、昔聞いた恐ろしい話を思い出した。
それは、荒れ果てた広野の闇に鬼が現われ、白骨化した死骸の骨を拾い集め、人間に復元したという話である。
西行はその秘儀の手順など、復元する方法を聞いていたのについぞ思い出す事も無かった。
その話を思い出すと、西行はつい広野へ出かけてみた。
しばらく歩くうちに、明るい月光のなかで、捨て置かれて白くなった人骨を見つけたのである。
西行は聞き知っているとおりに、散らばっている骨を集め、蔓草などで結びあわせ、秘術を行じて、なんとか人間を復元した。
ところがどうしたわけか、人の姿をしているものの人の心が無く、肌色も悪い。
そのうえ声が悪く、まるで吹きそこなった笛のように何をいっているのか理解出来なかった。
西行は恐れ、困惑した。
身近に置いてもおけないし、抹殺することも出来ない。
やむなく西行は、そのものをだれも足を踏み入れることの無い高野山の奥地へ連れてゆき置き去りにした。
井上皇后は養老元年(717)、聖武天皇の皇女として生まれ、30代なかばに白壁王の妻となった。
称徳天皇が神護景雲四年(770)に53歳で死去すると、白壁王は左大臣藤原永手、右大臣藤原良継その弟百川らに擁立されて即位し、光仁天皇となった。
光仁天皇は即位すると、妻の井上内親王を皇后とし、翌年一月には二人の間に生まれていた他戸親王を皇太子に立てた。
当時、藤原一族が主導権を握り、政治を動かそうとしていたが、光仁天皇は高齢ゆえに気力も衰えており、積極的に行動できない。
井上皇后には、それがもどかしく何かと口をはさむ。
それが百川には煩わしく、さっそく光仁天皇と高野新笠との間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)を擁立しようと陰謀をめぐらす。そのためには井上皇后と他戸皇太子を廃する必要がある。
百川は宝亀三年(772)、ひそかに光仁天皇に「皇后と皇太子が天皇を呪詛なさった、との密告がありました。おそらく他戸皇太子を早く皇位につけようと、望んでのことでしょう」と告げた。
光仁天皇は、百川の話をすぐには信じられなかったが呪詛したという巫を生き証人として、天皇の面前に引き立てた。
こうなっては信じない訳にはいかない。
それに天皇は、自分を擁立してくれた百川に感謝をし、信頼していた。

井上皇后と他戸皇太子は庶人に落され、さらに翌年に天皇の姉の難波内親王を呪い殺したと言う理由で、大和国宇智郡に幽閉されたのである。
しかし、井上皇后と他戸皇太子は、そこから出る事はなかった。
二年後の宝亀六年四月の同じ日に二人は死んだ。
二人が同じ日に死ぬというのは奇妙なことで、これは殺害されたと見るのが自然だろう。
宝亀六年五月十四日、白虹が天にかかる天変があり、六月二十二日には疫病の流行を防ぐため疫病を畿内諸国にまつらせ、大祓を行なった。
さらに宝亀八年二月、宮中に妖怪が現われるという事件が続発した。
大祓をしたほか、六百人の僧、百人の沙弥を集め、宮中で大般若教転読を行なわせた。
しかし、それでも怨霊の祟りは鎮まらない。
十二月には井戸が枯渇し、多くの川が干上がった。
同じ頃、二人を死に追いやった藤原百川、光仁天皇、山部親王は百余りの鎧武者に追われ命を取ろうと驚かせる悪夢にうなされ続けた。
宝亀十年七月五日、ある巫女が百川に「この月の九日、物忌をきびしくしなさい」と教え百川も夢見が悪かったので、この日は篭っていた。
そのとき、百川の帰依する僧が、井上皇后を殺したために百川が首を切られるという夢を見て驚き、百川に告げにいったものの、物忌中で会えない。
しかし、この日、百川は急死してしまう。四十八歳だった。
菅原道真失脚事件の時、反道真派の藤原時平に加担し、道真に政界引退を勧めたのが文章博士の三善清行である。
清行には僧になった道賢という息子がいた。
天慶四年、八月二日にその道賢が金峰山で無言断食の修行をしているうち、突如、高熱を発して体が硬直し、呼吸困難となって気を失い、まもなく息絶えた。
道賢の霊魂は、肉体から離脱して冥界に行く途中、いつのまにか姿を現した僧に案内され、冥界の金峰山へつれていかれるのだが、そこで菅原道真と出会った。
道真は道賢にこう告げた「私は、菅相公だが、今は太政威徳天と呼ばれている。
これから私が住む大威徳城を、そなたに見せてやろう」道真はそういうと、道賢を白馬に乗せて数百里の天空を走り、巨大な王城へつれていった。
そこで道真はこう語った。「私は怨みから、疫病や災厄、天変地異を起し、この国を滅ぼそうと思ったが、菩薩たちが慰めてくれるので、祟りはしなくなった。
それでも十六万八千の悪神、眷属がいて災難を起してくれる。だが、私の形像をつくり、名号を唱えて心から祈れば、決して祟ることはない」

さらに道真は道賢に「いまから名を日蔵と改めるが良い」という。
道賢は金峰山に戻り、蔵王菩薩に道真から聞かされたことを話した。
すると、菩薩は「延喜王(醍醐天皇)が身体六腑を焼かれて死んだのは、道真の配流を認めたからだ。延喜王はいま、地獄の苦しみにあえいでいる。
そなたに、その様子を見せてやろう」といい、道賢を地獄へつれていった。
確かに醍醐天皇は、地獄で苦しんでいた。
醍醐天皇はそのとき、道賢に「私は在位中に犯した罪の報いで、このように鉄窟地獄に落ちた。
その罪とは、藤原時平の讒言を信じ、無実の道真を配流したことだ。
そなたは、まもなく蘇生されるだろうが、どうかこのことを朱雀天皇に伝え、私の罪業消滅のために、法要を営むように頼んで欲しい」と涙ながらに訴えた、という。
道賢は醍醐天皇に帰路を教えてもらい、八月十三日に息を吹き返した。
在原業平はあるとき、都の西に住むある人の娘が美女だったので、ぜひ自分のものにしたいと近づいた。
ところがその人は娘をたいそう可愛がっていて、誰かにやる気はない。
まして業平は悪名が高かったので、業平の申し出を一蹴してしまった。
だがそうなると業平も意地を張り、ひそかに屋敷から娘を盗み出した。
しかし、残念ながら、せっかく娘を手に入れたのに、隠して置く場所が無い。
あれこれと探しまわったところ、やっと北山科で人が住んでいない荒れた山荘を見つけた。
業平は「これは手ごろな隠し場所だ」と思い、女を連れてその中に入ろうとしたもののあまりの荒れように驚いた。
床板は朽ちているし、柱もところどころが折れ、おまけに蜘蛛の巣が張りめぐらされており、仮寝するどころではなかったので、やむなく外へ出て適当な隠れ家を探した。
裏手にまわったとき、校倉が目に付いた。

業平は女に「さあここに入るのだ」と声をかけ、校倉の中へ連れ込んだ。
床板はまだ残っており、横たわっても大丈夫のようだった。
業平は薄絹を敷くと「こっちへくるのだ」と女をうながした。
女の顔は青ざめてはいたが、もはや観念したのかいわれるままに薄絹のうえに身を横たえた。
業平はすばやく着物を脱ぐと、女のうえに体を重ねていった。
ところがその瞬間、それまで月光が輝き、澄み渡っていた夜空が一変した。
稲妻が光ったかと思うと雷鳴が激しく轟き始めたのである。
「なにか異変が起きるのか」とさすがの業平も身をふるわせた。
つぎからつぎへと稲妻が光り、夜だというのに昼のように明るい。
そのせいかどうか頬が熱くなり、ひりひりと痛む。
業平は「さては物の怪のしわざ!」と叫ぶなり太刀を抜き去った。
女はおののき、体を小さくしている。業平は女を片隅に押しやると太刀で空を斬りはじめた。
かなりの時間がすぎ、やがて稲妻や雷鳴がやんだ。

静かな夜明けである。業平はふと気づいてあたりを見渡したが、女の姿はない。
「物の怪を相手に太刀を振るっているあいだに、逃げ出したのだろうか」と思い後ろを振り向いてみた。
業平は悲鳴をあげ、へたり込んでしまった。そこにあるのはなんと目を見開いた女の首と、胴体の抜けた着物である。
あまりの悲惨さに業平の体を悪寒が走った。
物の怪の仕業ならじっとしてはいられないが、腰がくだけて立つ事ができなかった。
杖になるような棒切れでもないかと、あたりを見渡すといやでも女の首が目に入ってくる。
女の目は恨みがましく業平を見ていた。
業平は誰もいない山荘で、恐ろしさのあまり、絶叫し続けていた。
その後やっとのことで助け出されたが、土地の人から聞いた話では、あの校倉にはいつからか鬼どもが棲み付き、知らずに入り込んだ人間を食い続けたという。
そのため、人々は「人を食う倉」といって、恐れていたとも事であった。
家康の祖父、松平清康は戦の最中に家臣の一人である弥七郎に切られて亡くなった。
その時に使われた刀は切れ味が抜群なことで知られる村正の名刀だった。
のちに家康の父、広忠も家臣岩松八弥の村正で殺されたし、家康の嫡男信康が織田信長の命で自刃させられたとき、介錯人が使ったのも村正だった。
また、関ヶ原合戦の時、織田長孝が戸田重政の兜を槍で突き通したと聞いた家康は、長孝を呼び寄せ、その槍を検分した。
ところがどうした事か家康の指がその槍に触れると血が流れ出たのである。
まわりにいた者は驚き、騒いだが、家康は平静にこういった。
「この槍は村正の作だろう」 調べてみると案の定村正だった。
長孝は後になって、村正は徳川家にとって忌まわしい刀であり、家康が家臣達に村正の使用を禁じていると知らされ、驚き、その槍を切り刻みすててしまった。
やがて、村正が徳川家の禁忌になっていることが知れ渡り、世間では「徳川家に祟る刀」とか「妖刀」などと噂した。
幕末になると倒幕の志士たちが「徳川家に祟る」という言い伝えから、好んで村正をもつようになったという。
寛政七年(1795)摂州岸和田(大阪府岸和田市)の荒れ果てた武家屋敷で、古井戸からおびただしい数の虫が這い出るという変事があった。
その虫はこれまで見た事もない不思議な虫で、あたりを飛んだり、這いまわっている姿は不気味というしかない。
これを捕えてみると、玉虫か黄金虫のような形をしているが虫眼鏡でよくよく見ると、なんと後ろでに縛られた女の姿をしていた。
大阪の素外という俳諧の宗匠がその虫を秘蔵していたが、素外が諸国を旅している途中『耳袋』を書いた根岸鎮衛もその虫を確かにみたと書いている。
この不思議な虫には元禄年間頃として、青山喜督が尼崎五万石の城主だったとき、喜多玄蕃という家臣がいた。
暮らしぶりも裕福で玄蕃の妻も容姿にはすぐれていたもののたいそう嫉妬深い女だった。
玄蕃はお菊という女を心にかけ、召し使っていた。

お菊は16歳で温厚な性格である。
ところが妻にしては面白くない。
ある日お菊を落としいれようと密かに飯椀のなかに針をいれて配膳させた。
玄蕃が飯を食べ始めるとなんとしたことか針が突き出す。
玄蕃は怒ったが「菊の仕業ですよ」と讒言する。
玄蕃は妻の言葉をうのみにしてお菊を後ろ手に縛り上げると、庭へひきずって古井戸へ突き落としてしまった。
まもなくお菊は古井戸の中で息絶える。
お菊の死を知った母は、嘆き哀しみ、自分も古井戸に身を投げて命を絶った。
その後、玄蕃の屋敷では怪し火が現われたり、古井戸から女のすすり泣きが聞こえて来る。
など、奇怪な事がつづいた。
やがて玄蕃の家は絶えてしまったという。
その百年後に井戸から『お菊虫』がでたのであると噂された。
根岸鎮衛は『番町皿屋敷』はこの虫の事件を元にかかれたものだと記している。
仁平年間(1151~54)の頃、近衛天皇が夜な夜な物の怪に脅かされる、という怪事が起こった。
夜もふけた丑の刻(午前2時)になると、東三条の森の上空に不気味な黒い雲が湧き出し、風もないのに流れてきて御殿を覆う。
天皇はそれとともに怯え、発作を起して苦しんだ。
朝廷は天皇を脅かす物の怪の正体をつきとめ、退治しようと、高僧達に加持祈祷を行なわせた。
しかし、物の怪の正体はわからずに天皇の怯えが消える事も無かった。
そこで堀河天皇の先例により、鳴弦を行い物の怪を追い払う事にした。
当時、弓の名手として有名であった源頼政がよびだされ鳴弦を行なう事になった。
頼政は正殿につめ、夜を徹して警護にあたった。
しばらくは何事も起きなかったが丑の刻頃になると、人々がいったとおり、突如として東三条の森のほうから怪しげな黒雲が近づき、御殿の上にたなびいた。
頼政が見上げると、その黒雲の中に怪しい物の姿が見えた。
頼政は迷わず、それをめがけて矢を放った。
「仕留めたぞ」頼正が叫ぶと同時に大きな音が響き、巨大な怪物が落ちてきた。
頼政の家来の猪早太がそれを取り押さえ、明かりを灯してみるとなんとも奇怪な姿をしている。
その頭は猿で、胴体は狸だが、尾は蛇、手足は虎という複合妖怪だった。
鳴き声はトラツグミに似て怪しげである。人々はこれを鵺と呼んだ。
この妖怪はくり船に入れ、海へ流した。頼政が鵺を退治したことで天皇の悩みは癒えた。
吉備真備が唐に留学していた頃、唐の学者達は彼の才知を妬み、夜な夜な鬼が出没する高楼に幽閉してしまった。
その鬼の正体は、かつて留学生として唐に渡ったものの、同じ様にこの高楼に閉じ込められ、餓死した阿倍仲麻呂だったという。
真備は訪ねられるままに日本の事情等を鬼に語ると、鬼は真備が帰国できるように援助を約束する。
唐の学者達は真備に『文選(漢詩文集)』を読ませ、字句の間違いをあざ笑ってやろうとした。
ところが真備は鬼から「飛行自在の術」を学び、皇帝の宮殿で30人の学者が『文選』を講ずる処へ飛んでいき、講義のすべてを暗記して、難問を解決した。
次に唐の学者達は、囲碁をまったく知らない真備に勝負をしかけ、負かそうとした。
真備は鬼に囲碁の奥義を習うと翌日、唐の囲碁名人に勝つのである。
唐の学者達はそれでも懲りずに、食べ物を与えずに真備を殺そうとするのだが、真備は鬼を使って双六を取り寄せ、これを呪具にして太陽と月を封じ込める。
世の中が暗闇になって困ったのは唐人だった。
彼らは真備の帰国を許し、太陽と月をもとに戻してもらった。
江戸後期、一人の日雇いの男が古道具屋からかまどを買った。
二日目の夜になにげなくかまどを見るといかにも汚れた坊主が、かまどの下から手を出している。
男はビックリして腰を抜かすところだった。
一体あれは難だったろうかと思い、次の夜もかまどを見ると、前夜と同じ様に汚れた坊主がかまどから手を出していた。
かまどの下には人が入れる隙間など無いのに坊主が手を出しているのだ。
奇怪な出来事に男は気味悪くなり、かまどを買った古道具屋に持っていった。
追い銭をだしてかまどを新しい物と取り替えてもらった。
それ以来、不思議な出来事はピタリと止まった。
ところが、やがて日雇い仲間の一人がそのかまどを買った、という話を小耳にはさみ、仲間に変な事が起きていないか訪ねてみた。
仲間は、毎晩かまどの下から怪しい物が出てきて寝むれないと答えた。
それを聞いて男は自分も買った事があり、同じ様にかまどの下から汚い坊主が出ていた事を話して古道具屋へ持っていき取り替えてもらうようにそそのかした。
仲間も気味悪がって古道具屋で当たらしい物と取り替えてもらった。
男は自分だけでなく、仲間も同じ様な目にあっているので不思議でならずに古道具屋に事の次第を話して、尋ねてみた。
主人は最初は信用していなかったが、そのかまどが何度も戻ってくるので、自分の台所に置いてみた。
やがて夜になると男の話の通りに汚い坊主がかまどの下から手を出してきた。
主人は不気味さに体を震わせた。
こんなかまどを置いておくといつまでも奇怪なことがつづくかわからなかい。
主人は夜が明けるのを待って、そのかまどを打ち壊したのである。
すると、かまどの片隅から五両の小判が零れ落ちてきた。
古道具屋の主人には、なぜかまどに五両のも金が埋められていたのか、不思議だった。
ただ、妙な事もあるものだと思っていたがある人はこう話した。
「おそらく坊さんが金を貯え、かまどに塗りこめたまま死んだのでその執念が残ったのかもしれない」
古道具屋の主人はそれを聞き、奇怪な出来事が起きたのも無理はないと、妙に納得した。
秋田県湯沢市の町外れに清涼寺という寺がある。
その寺の11代の住職・竜国寿金禅師の話である。
代々、この寺の住職は京の都から高僧が派遣されてくるのが習いだったが、禅師の場合は様子が違っていた。
禅師はある日突然、門前に姿を現し、「わしは新しい住職の竜国寿金禅師である」と名乗ったのである。
早飛脚で都に問いただそうと、寺内で論議をしているのをよそに、禅師は本堂にどっかと座り、読経を始めてしまった。
ところが、その読経の素晴らしさに、それまで半信半疑だった寺僧たちも、やはり都から遣わされた高僧は違うものだと信じ、禅師が住職となるのに異論を唱える者はいなくなった。
やがて、その名僧ぶりは近隣に鳴り響くようになり、はるか都まで届いたのである。
ところが、突然に異変は起こった。
ある夜に「みな、起きろ!火事だ!」と禅師の大声が響いた。
寺僧はじめ、近在の人が駆けつけたが、寺には火の気は無く、勿論火も炎も浴びてはいなかった。
ところが禅師は「火事だ、火事だ」と庭石に水をかけている。
それどころか集まってきた僧たちに「何をぐずぐずしておる。寺が丸焼けになってしまうではないか」と火を消すように命じるのだ。
やむなく、庭石に水をかけながら、寺僧たちは、正気の沙汰ではないと小声で言い合った。
勇気ある僧の一人が、何処が火事なのかと尋ねると、禅師は大真面目に「唐土の金山寺が燃えているのじゃ」と答える。
いよいよ頭がおかしくなったのだと、誰もが顔を見合わせた。
ところがそれから暫くして、驚いた事に、唐の金山寺からなんとも見事な錦織の幕と竜の髭の払子が届けられた。
添えられた書状には「先般、当寺が火災を起した折には、力を貸して頂き厚く御礼を申し上げる次第である」と書いてある。
寺はこの幕と払子を丁重に扱い、寺宝として厳重に保管する事になった。
禅師が不思議な力の持ち主だった事を伝えるのは、金山寺の火事事件だけではない。
雨乞いに関しては百発百中といえるほどの霊力を持ち、禅師が祈祷すると、どんな日照続きの時も、たちまちかき曇り、滝のような雨が降ってくるのである。
但し、不思議にも、禅師は「どんなことがあっても、絶対に自分が祈祷中の姿を見てはならぬ」と固く命じていた。
ある時、僧の一人が祈祷中の禅師の姿をのぞき見ようとしたところ、堂の中には人の姿は無く竜がとぐろを巻くようにして座り、一心不乱に読経しているではないか。
仰天した僧が思わず大声を出した為、禅師は自分の真の姿を知られてしまったと気づいた。
すると次の瞬間、すさまじい風が吹き、竜はその風に飲み込まれるようにして、天の高みに消えてしまった。
巨大な竜巻の中に竜の頭がのぞき、名残惜しそうに何度も清涼寺を振り向く姿が見られた。
そしてそれを最後に、禅師は二度と寺に戻らなかった。
紀伊国名草郡貴志の里(和歌山市貴志)に道場が一つあり、貴志寺といった。
光仁天皇の世に一人の優婆塞がその寺に住んでいた。
そのとき寺の中で「痛い、痛い」とうめく声がした。
その声は老人の呻き声のようであった。男は午後8時頃には、旅人が病気になって泊まっているのだろうと思った。
そして起きて堂のまわりを探したけれど誰もいなかった。
ただ、塔を作るための木材があったが、まだ造られないで長い間倒れて腐っていた。
男は、この塔の霊がうめいたのか、と思った。
呻き声は夜じゅうやまなかった。
男は聞いてられなくなって起きて探してみたが、やはり病人はいなかった。
明け方頃にはそれまでの声よりはるかにまして、大地に響くほどうめいた。
男はいよいよ塔の霊がうめくのではないかと、と思った。
翌朝、早く起きて堂の中を見ると弥勒像の顎が土の上に落ちて、千匹ほどの大きな蟻がその顎を噛み砕いていた。
男は不思議な事もあるものだと思い、檀家の人たちに知らせ、新たに弥勒像を作り、うやうやしく供養した。
宝亀九年(778)の12月下旬のこと、備後国葦田郡(広島県芦品郡)大山の里の人、品知牧人(ほむちのまきひと)は、正月用の物を買うために、市へ出かけたが、途中で日が暮れ途中の竹林に泊まったところ、「目が痛い」と言ってうめく声がした。
牧人はその声を聞いて、一晩中眠る事が出来なくてうずくまっていた。
翌朝見ると、髑髏が一つあり、目の穴に竹の子が生え刺さっていた。
牧人は竹の子を抜いてやって、自分が食べるはずの食べ物を供えて、「私に幸福を与えてください」と祈った。
市から帰って来て、同じ竹林に泊まった。
そのとき、髑髏は生き返り、牧人に「私は芦田郡屋穴国の里の穴君弟公(あなのきみおとうとぎみ)と申します。賊の伯父秋丸に殺されたものです。
風が吹いて動くたびに目がひどく痛みました。貴方様のおかげで、痛みがすっきりとれました。
今又十分にいただいて、このご恩は忘れません。
この有り難さは限りなく、貴方様の御恩に報いたいと思います。
私の両親の家は屋穴国の里にあります。
今月の晦日の夕方に私の家に来て下さい。
その晩でないと、御恩返しができません」といった。
牧人はこのことを聞いてますます不思議に思い、他の人にも話さなかった。
月の晦日の夕方、約束どおりに牧人はその家に行った。
弟公の霊は牧人の手をとって家の中に引き入れ、供えてあった食べ物を牧人にすすめて一緒に食べ、余りはみなつつみそれと一緒に他の品物を与えた。
しばらくしてその霊は急に見えなくなった。
両親が死んだ人たちの霊をおがもうとして家の中ににはいり、牧人を見て驚いて、はいってきた理由を聞いた。
牧人はそこで詳しく話した。
両親はそこで秋丸をつかまえて弟公を殺したわけを聞いた。
秋丸はすっかり恐れて去年の12月下旬に正月用の物を買いに一緒に出かけた時に殺した事を白状した。
両親は自分の弟でもあることから役所に突き出し暴露する事まではしなかったという。
牧人には礼をつくし、さらに飲食を出し御馳走した。
牧人は帰ってこの様子を話して語り伝えた。
大和国十市郡菴知村(奈良県天理市庵知)の東の方に大変裕福な家があった。
姓を鏡作造といった。
一人の娘がいた。
万の子という名前で、まだ結婚せず、男と交際もしていなかった。
容貌は美しかった。
近くの高い家柄の人が結婚を申し込んだが、娘は断り続けて何年かすぎた。
ところがある男が結婚を申し込んで、急に物を送ってきた。
いろいろの色に染めた絹を三台の車にのせてある。
娘はそれを見て心動き、男に近づき親しんだ。
男のいうことを許し、寝屋で交わった。
その夜、寝屋の中で、「痛い、痛い」と言う声が三度した。
娘の両親はこの声を聞いて、「まだ慣れないので痛いのでしょう」と話し合って、我慢して寝た。
翌日の明け方に起きて、母が戸を叩いて起したが、何の答えもなかった。
母は、不思議に思って戸を開いて見ると、娘は頭と一本の指だけを残して、その他はみな食べられていた。
両親はこれを見て恐れ悲しみ、結婚のしるしとして送ってきた絹を見ると、動物の骨になっており、絹をのせてあった3台の車もぐみの木に変わっていた。
付近の人々は聞き伝えて集まったが、これを見てみな不思議に思った。
天正の末年(1585頃)備後の沼隈郡神村に石井又兵衛と言う男がいた。
又兵衛は潔く武士を捨てると弟と力を合わせて荒地を開拓し、ついにはこの地きっての富豪になった。
そして安芸の宮島の遊女おややを身請けすると、正式な妻の座にすえた。
これは、遊女としては破格の厚遇だった。
だが、おややは又兵衛の目を盗んでは男遊びにうつつを抜かすばかり。
ついには村の修験者長覚と人目をしのんで逢引を続けていた。
二人の仲は誰一人知らぬ者はなく、コケにされたのは亭主の又兵衛。
ある日又兵衛はおややの後をつけ、長覚と密通の現場を押さえた。
こうなっては、おややも申し開きはできない。
「どうぞ、お気にすむようにしてください」と殊勝に申し出たが、それは、言後を絶するものだった。
又兵衛はまず、大きな桶を用意させた。
中には百足と毒蛇がうようよと詰め込まれている。
ここに真っ裸にしたおややと長覚を放り込み、さらに上から酒をつぎ込んだのである。

酒気を帯びた百足や毒蛇はあたりかまわず蠢きまわる。
無論、手と言わず脚といわず、体中食い荒らされ、おややも長覚も遂には狂って死んでいった。
この様子を見物していた村人達も、あまりのむごたらしさに目をそむけたと言う。
長覚の命乞いに駆けつけた山伏達は、憤死した二人の無念をはらそうとおややの血を長覚の法螺貝に注いで吹き鳴らした。
其の血しぶきをあびたものはことごとく、奇妙な行動をするようになった。
おややと長覚の二人は伊勢山の麓に埋められたが、この塚のあたりでは、夜毎に、青い人魂が燃え、人魂はやがて中空に浮かび上がると、石井家の屋根に泊まり、一晩中動こうとしなかった。
屋敷の中でもわけのわからない異変が相続いた。
又兵衛が客を招いて、馳走をしようとしすると、突然、膳のものが赤く血にまみれてしまう。
しかも、血に汚れた器や膳はいくら洗っても絶対に落ちなかった。

さらに又兵衛の家に、近隣では評判の色男が招かれたところ、男はその夜から一言も物を言わなくなり、日に日に石のように固くなり、遂には死の床についてしまった。
そして、今際の際に又兵衛の屋敷で起こった出来事をようやく語り始めた。
宴席の途中で尿意を催し、厠を借りた。
ところが厠に入ったとたん、眼の前に女がいたばかりか、女は、股を開いて強引に男に迫ってきたのだという。
逃げようにも逃げ場は無く、しかたなく女の誘いに応じると、女は思うまま男をむさぼり、ようやく男を解放したにのだが、別れ際に凍りつくような声でこう言った。
「このことは誰にも言うてはならぬ。もし、口外すれば、お前の命はその場で耐えるぞ」どうやら、こうした目にあったのはこの色男だけでは無いらしく、又兵衛の屋敷に招かれ、帰宅すると床につき、やがて無くなるという怪奇な例が相次いだ。

そして、ある日、おややは又兵衛に襲い掛かった。その日宴席を開いていた又兵衛は、満座の客の眼の前で突然「おやや、化けてでたな」と叫部なり悶絶し、そのまま乱心してしまったのだ。
又兵衛はその日から空を見つめては「おややが髪振り乱して私に食らいつく」と口走るばかりになってしまった。
こうした出来事からついに神村平の常福寺では、おややと長覚の二人のために夫婦塚をつくり、二人の霊をねんごろに供養した。
だが、それでも怨念は消えないのか、不義密通している者がこの塚の前を通りかかると何処からともなく青い人魂が現われ、家に着くまでつきまとい、その上男も女も知らぬ間にもとどりを切られ、ざんばら髪になってしまうのである。
それが怖さに、この塚の前を大きく遠回りして通る人が少なくなかった。
村人はおややの怨霊を慰めようと、今度は神村八幡神社の中におやや大明神を祀って供養したという。
山城国紀伊郡(京都市伏見区付近)に一人の女性がいた。
生まれつき慈悲の心が篤く、因果の道理を信じ、五戒十善を保って生き物を殺さなかった。
あるときその里の牛飼童が山や川で八匹の蟹を生け捕って、焼いて食べようとしていた。
この女はそれを見て牛飼にたのんで「どうかこの蟹を私に下さい」といった。
牛飼は聞かないで「やはり焼いて食べよう」といった。
女はていねいに頼んで、衣を脱いで買った。
そこで牛飼童たちは許した。
女は義禅師にたのんで、蟹のために呪文を唱えてもらって放してやった。
そののち女は山に入って見ると、大蛇が大蛙をのんでいた。
女は大蛇に頼んで「この蛙を私に下さい。沢山のお供え物をあげましょう」といった。
蛇は許さなかった。
女は供え物をふやして、祈って「お前を神としてまつろう。どうか、私に下さい」といった。
蛇は許さないでなお蛙を飲み込んだ。
また蛇に向って「この蛙のかわりに私を妻にし、私に免じ、蛙を許して下さい」といった。
蛇はこのことを聞いて、首を高く上げ、女の顔を見つめて、蛙を吐き出して許した。

女は蛇に約束して、「今日から七日後にきなさい」といった。
女は蛇のことをくわしく父母に告げた。
父母は悲しんで「お前はたった一人の子なのに、何に狂って出来ない約束をしたのですか」といった。
そのとき行基大徳は紀伊郡の深長寺にいた。
女はそこに行って事の次第を告げた。
大徳は「ああ、どうしようもないことだ。
ただ仏法を信じるだけだ」といった。
女は教えをうけて、家に帰り、約束した日の夜、戸を閉じ、身を固くして、いろいろ祈願して仏法を信じた。
蛇は家のまわりをはいまわって尾で壁を叩き、家の屋根に登って、草を食い破って穴をあけ、女の前におちた。しかし蛇は女に近づけなかった。
ただ、ばたばたという音がした。
とび上がってかみ合うようであった。
翌日になって見ると八匹の大蟹が集まって、その蛇をずたずたに切っていた。
考謙天皇の世に紀伊国牟婁郡熊野村に永興禅師がいて、海辺の人々を教え導いていた。
その頃の人々は禅師の行いを尊んで、菩薩と褒め申上げた。奈良の都より南にいるので南菩薩といった。
そのとき、一人の僧が菩薩の所にきた。
持っている物は、法華経一部と白銅の水入れ、縄を張った椅子であった。
僧はいつも法華経を読み唱えていた。
一年ほど過ぎて、僧は菩薩と別れて去ろうと思い、菩薩にうやうやしく頭を下げて、椅子を与え「いま、ここを去って山の中に入って、伊勢国に越えて行きたいと思います」といった。
菩薩はこのことを聞いて、炊いたもち米を粉にした粉にした食物を二斗僧に与え、俗人の男二人に見送らせた。
僧は一日の道のりを送ってから、法華経と鉢、もち米の粉などを男に与えて帰らせ麻の縄二十尋と水入れだけを持って去った。
二年過ぎて、熊野村の人が熊野河の近くの山にはいって、木を伐り倒して船を造っていた。
すると法華経を読む声がした。
何日もたち何ヶ月も過ぎたが、なお読む声はやまなかった。

船を造る人は経を読む声を聞き、信心を起して尊び、自分の食べる分の食物を与えようと思い、声の主を捜したが、姿を見る事ができなかった。
そこでもどると、経を読む声は依然としてやまなかった。
のち半年すぎて、船を引き出すために山にはいった。
聞くと、経を読む声はなおもやまなかった。
不思議に思って、このことを菩薩に話した。
菩薩も不思議に思って行って聞くと本当に経を読む声がした。
菩薩は声の主を捜してみると、一人の死人の骨があった。
麻の縄で両足をしばって、岩に身を投げて死んでいた。
骨のそばに水入れがあった。
そこでこの骨は別れて去った僧である事が分かった。
永興禅師はこれを見て、なき悲しんで帰った。
その後三年が過ぎて、きこりが菩薩に「経を読む声は前と同じくやみません」と告げた。
菩薩はその骨を取ろうとして、されこうべを見ると、三年過ぎたのに舌は腐らないで、そのまま生きていた。
平井利市という60代の料亭の監査役(つまり太鼓持ち)がいた。
彼は陰毛占い師としてその名をはせた。
彼は京大の経済学部を卒業して虎ノ門で自動車会社の社長になっていたが、戦災ですべてを失い、昔、通っていた料亭で太鼓持ちをする事となった。
平井老人はその昔遊びなれていたが顔は上品で、エロ話をしてもちっともいやらしくなく、料亭での話で最も受けていたのは女性の陰毛で「こう云う形は、いい性格で、・・・こういう形は情が深くて・・・」などの話であった。
芸者達もその話を聞きつけ、自分の陰毛を見せて平井老人に占ってもらうようになった。
彼は占った記念に写真を一枚とり、千種もの写真を資料にデータを出して占っていたので、百発百中だったたと云う。
来月良縁に結ばれるとか、来月にには亡くなりとかまで当てていたという。
ある時良家のお嬢さんがその噂を聞きつけ平井老人に見てもらい近く良縁の話が出ていると占った。
しかし、その事を聞いた母は、嫁入り前の娘のあそこを覗くとは・・・と怒り心頭で二度と家の敷居をまたぐなと塩をまいて追い出したが、数日後願ってもない良縁が2つも来た事に驚愕し、平井老人に謝り、二つのどちらを選んだほうが良いか訪ねたが、さすがにそこまでは分からずにいいかげんに答えたが、断ったほうが偶然にも経営が破綻して行方不明となり、ますます平井老人の陰毛占いは評判を得ていった。

ただ、平井老人の死後、その極意を伝えるものもなく、貴重な資料も散逸してしまい、それ以後陰毛占いをおこなうものはいなくなったという。
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