File No.026 伝説または逸話

㊧伝説または逸話㊨
伊予宇和島の伊達秀宗の家臣・松根新八郎弘親が宿直番に当たっていた時に、城中の詰め所で同じ宿直番の者と四方山話に花を咲かせていた。
そんな時ふと外で怪しい物音がした。
宿直の者一同で外に出ると何処から入ってきたのか見知らぬ男が立っていた。
男は顔面蒼白で着ているものはあちこち破れ、しかも手には血がしたたる生首を下げていた。
男は消え入るような声でこう言った。
「この首どうぞ預かっていただけないか」
宿直の者達は一様に尻込みして、宿直部屋に逃げ込む者さえいた。
その中で一歩前へ出たのが松根新八郎弘親だった。
「わしが預かろう」
男は何度となく頭を下げ、くどいぐらいに礼を言うと何処へともなく姿を消した。
その夜、弘親の夢枕に現われ「実は、あの生首は私の仇なのです。私はあの男に 命を奪われたが、なんとしても仇を討ちたく、魂はこの世に止まってあの男をつけねらい、遂に今夜長年の思いを遂げたが、仇を討ったとたん、無常感に襲われました。
私はこれで思い残すことなく成仏できるでしょう。
でも、あの男はきっと私と同じ様に無念をはらすまでは成仏できないでしょう。
しかし、男の仇である私は冥界に旅立つのです。
どうか、あの生首をねんごろに弔ってくださりませぬか。
お礼に、貴公の家の隆盛は固くお約束申し上げる」
幽霊と約束したとおりに弘親はこの生首を手厚く葬り、さらに幽霊との言葉を信条とする証拠に、生首をの図を家の旗印とした。
その後松根家は、隆盛をつづけ、弘親の代では侍頭、その子の代には城代奉行にまで上り詰めたという。
室町時代の中頃、筑波山の麓の名主の一人娘でおしのという女性がいた。
一人娘だった為婿をもらった。
婿は仕事も良くできれば夫婦仲も良かったが、姑と仲が悪く、ある日婿は家を飛び出してしまった。
この時、おしのは妊娠しており臨月が迫るに連れて夫への思いはつのり、夫の後をおい家を飛び出した。
ところが途中で道に迷って、寂しい古寺で産気づいた時にその寺に住み着いていた夜盗に襲われ、身の回りの者を奪われ、殺害されてしまった。
それから、数日たったころ、このあたりの茶屋の戸を深夜に叩く者があった。
店主が不思議に思いながらも戸を開けると白い顔をした女性が立っていて団子を売って欲しいと懇願した。
それが、数日続いたため茶屋の主人が不審に思ってそっと女の後をつけてみると女は古寺に入っていったが中からは赤子しかいなかった。
元気そうな赤子ではあったがなぜか頭髪は真白であった。
茶屋の主人はこの赤子を保護すると小田の寺に預けて育ててもらった。
この赤子は長じるにつれて、類まれな明晰さを発揮するようになり、遂には天台宗の高僧となり、頭白上人と名乗るようになった。
頭白上人は全国行脚を終えた後母の供養といって五輪の塔の建立をした。
この塔の建立式のの最中に小田城主・小田左京大夫が鷹狩りで殺生をしてしまい、式を台無しにした。
これを見ていた頭白上人は、「左京大夫はやがて自分の愚かさに復讐される。
我は、次の世では必ず武人に生まれ変わり、小田の城を我が物にしてみせる」とひそかにつぶやいた。
この言葉は側近の耳に焼きつき、周囲の者に言い伝えられた。
その言葉通り戦国時代になると常陸における小田氏の地位は次第に佐竹義宣にとって変わられた。
佐竹義宣自身も「我は名僧・頭白上人の生まれ変わりであり、仏の加護を得ているため、どれほど無茶をしても怪我もしなければ、死にもしない」と豪語していた。
佐竹義宣が頭白上人の母を祀った五輪の塔の前で祝宴を張り、塔に祝の酒をそそぐと白い顔の女の姿がふんわりと姿を現し、一瞬慈母さながらのやさしい笑顔を浮かべたという。
源頼家は朝霧高原(富士の樹海の南)で狩りをしていた時、好奇心から新田四郎に人穴という洞穴を探索するように命じた。
四郎は5人の配下ををつれ、人穴を探索したが、配下の者は全て亡くなり、四郎もやっとの思いで帰ることができたという。
四郎は人穴の中で地獄と極楽を巡ったといわれる。地獄では、生前の悪行のために責め苦を与えられている人々を見て、そのあと大菩薩が現われて極楽浄土に導いてくれた。
それは、あまりにも美しい世界だったが、大菩薩は人穴から出る時に四郎に
「この中の事は3年間は他言すべからず。それが出来ぬ時はお前の命はないぞ」と誓わせた。
四郎は、鎌倉の江ノ島弁天の岩屋から地上にもどった。ところが頼家から人穴の様子をたずねられ、大菩薩との誓いを思い出し苦慮しながらも、とうとうその記録を頼家に差し出した。
その3ヵ月後に四郎は命を落す事になった。
聖武天皇の母・宮子皇太夫人は、子供を生んですぐ我が子と引き離され精神に異常をきたしてしまった。
だが、学問僧として唐に渡っていた玄昉が宮子のために祈祷するとたちどころに長年の気鬱が治り、にこやかかな笑顔さえ取り戻した。
当然、宮子から取り立てられるようになり、玄昉は宮中で思いのまま振舞うようになった。
この玄昉の振る舞いを快く思わない者も出てくるようになった。その筆頭が藤原広嗣であった。
広嗣は当時九州の大宰府に左遷させられていたが、都の情報には誰よりも通じており、宮子と玄昉の異常接近の噂も早くから耳に入れていたため、「玄昉を排除しなければ、朝廷を乱される」と上奉文を都に送ると筑紫で兵を挙げた。
しかし武運つたなく、玄昉追放の願いがかなわぬまま、死んでいった。
しかし、死んでなお呪詛を送り続けた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの玄昉の運勢は広嗣の死を境に次第に落ちていた。
聖武天皇は玄昉に僧正という最高位を与えていたにもが、急にその上に大僧正という位を設けると行基という僧を指名した。
その上、玄昉に筑紫の観世音寺の修復という理由で九州に左遷した。
さらに観世音寺の拝殿で供養の読経をしていた玄昉を突然、何者かが現われ空中から現われると彼を捕えて、そのまま空高く連れ去ってしまった。
その後、八方手を尽くしてさがしたが、何処に行ってしまったのか誰にも解らなかった。
やがて、月日は流れその噂を誰もが口にしなくなった頃、奈良の興福寺に突然、空から首が落ちてきた。
みえば玄昉の首であった。人々はこれは、広嗣の亡霊の仕業であると噂しあったという。
越後国の和野村に百姓で権七という男がいた。
ある年の10月頃このあたりはすでに雪が多く降り積り、寒気も厳しく、家族が囲炉裏をかこみ火にかけた大鍋で雑炊を炊いていた。
ようやく炊き上がり、権七が柄杓をとりあげ、鍋をかき回そうとした時不意に屋根の上で大きな物音がして、家中がら鳴動しはじめた。
地震かと思ったが少し気配が違う。
不安そうに家族で顔を見合わせたとき、天井から多くの手が伸びてくると、権七の手からすばやく柄杓を奪い、雑炊の大鍋を引き揚げた。
家のものは奇怪な出来事に驚き、転がるように外へ逃げ出した。
すぐさま変事を村人に知らせたが誰もまともに取り合おうとしなかったが、権七の家の前に集まり、とりあえず家の中を見てみることにした。
数人の村人が権七の家に入ろうとすると、何処からともなく大量の砂利がつぎつぎと飛んできて、大騒ぎになり、中には小石に当たって怪我をするものもいた。
やがて半時(1時間)ほどするとまた家が鳴動し、それを境に砂利は飛んでこなくなった。
あたり一面、雪に覆われていたのになんと砂利に埋まってしまった。
村人は怖気づき誰も権七の家に入ろうとはしなかったが、豪胆だといわれる男がおそるおそる入ってみると、部屋は何事もなかったかのように静かだった。
ただ、不思議な事に雑炊の大鍋が空になっていた。
騒ぎがおさまったので権七と家族は家の中に戻った。
その夜は何事もなかったものの翌日の夜囲炉裏で茶を沸かそうとしたところ、前夜と同じ様に家が鳴動した。
権七たちはすぐさま外へ逃げ出し、騒ぎがおさまるのを待った。
幾日も同じ様な事が起こったので、やむなく権七は別のところへ引越した。
それ以来何も起こらなくなったという。
村人達は、「一体、あれはなんだったのか」と噂しあったが、怪事の謎はついに解かれなかった。
埼玉県の熊谷に夫婦で細々と営んでいた薬屋があった。
ある日、主人が急死し、残された妻は途方に暮れていた。
夫に先立たれた悲しみばかりか、残された家業のやりくりも考えていた。
明けても暮れても心を痛めて、体を休めようと早めに床に入るのだが中々寝付けない。
夜中に厠に行った時に小用を足していると、何かが股間に触れたような気がする。
いつもなら大騒ぎをするところだが、悩み疲れてぼんやりした頭では、気のせいかも知れないと思えて、その晩はそのまま寝てしまった。
ところがその翌晩やはり厠で用を足しているとなにかが尻に触ったような気がした。
怖さよりも昨夜の事が間違いではないとわかりこの次は確かめようという気持ちがむくむくと湧いてきた。
その翌晩には小刀を持って厠に向った。厠で用を足すふりをして様子を窺っていると、下からにゅっと飛び出してきたものがある。
そこでつかさず引き寄せると、もってきた小刀ですっぱりと切落とした。
「ぎゃああ~」という悲鳴と ともに、えたいの知れない何かは逃げ去った。
その場には切落とされたものが転がっている、それは手のように見えるが、人間のそれとは違う。
どうやら河童の手のようだ。
厠の悪戯は河童の仕業だった事がわかった。

その翌日、一人の若者が悲しそうな顔で薬屋を訪れた。手土産に大きな鯉を持参している。
話を聞くと「昨日切落とした手を返してほしい」というではないか。
これには妻も驚いたが、持ち前の気の強さを発揮して少しもひるまない。
「はて、お前がこの手の持ち主かどうかは分からない。
それを確かめるまでは返す事は出来ませぬ」と話すと、若者はいっそう肩を落して、私がその本人ですと詫び、袖をまくると確かに右手の先がなくなっていた。
間違いはないようだが、切り落とした手など役には立たないではないか。
いまさら返してもらってどうするつもりなのかと、妻は気になって尋ねてみると、特別な薬を使って元どうりに戻せるのでございますと、思いもかけない事をななした。
そのような妙薬は珍しいのでこの場で見せて欲しいと頼むと、若者はその場で薬をふりかけて手を元どうりにしてみせた。
そのうえ、手を返してもらった御礼ににと、薬の作り方を教えて、その場を去っていったのである。
薬屋の妻は、思わぬことで妙薬の作り方を伝授された。
この薬は『河童の妙薬』として熊谷あたりに広く知れ渡るようになった。
能登の国に友忠という若侍がいた。
能登の領主の畠山義統に仕え、学問にも武芸にも優れているうえに性質もよく人気者だった。
20歳になったある冬、京都の細川政元の処に使いを仰せつかった。
道中猛烈な吹雪に見舞われて、ひとまずどこかで吹雪がおさまるのをやり過ごしたいと思っていると一軒の小屋が目にとまった。
手入れが行き届いて誰かが住んでいるらしい。
小屋のそばには柳が生えていた。
そこには年寄り夫婦が住んでいて、突然舞い込んできた若侍を迷惑がりもせず迎え、温かい食事と酒をすすめてくれた。
おかげで、すっかり冷え切った友忠は元気を取り戻し、先を急ごうといとまを告げると、泊まって行ったほうがいいとしきりにすすめる。
急ぐ旅ではあったがここで無理をしても仕方がないとありがたく泊まらせてもらう事にした。
すると何処にいたのか美しい娘が現われて酒の酌をしてくれた。
青柳という名前の娘で、ふすまの陰に隠れていたらしい。
友忠はたいそう美しく、身のこなしは上品でしとやかで一目で青柳が好きになってしまった。
そのうえ、酒をすすめられ、いい気分になった時に思いがけなく、娘を嫁にもらってくれないかとたのまれた。
そこで旅の途中ではあるが青柳を京に一緒に連れて行き友忠は青柳と結ばれた。
ところがそんな日が続いたある日、突然の不幸が襲いかかった。
青柳が突然苦しみ始めて倒れたのである。
抱きかかえて介抱する友忠に青柳は「実は、私は柳の精でございますが、たった今、その木が切り倒されてしまいました。
私はもう生きていることは出来ません。
どうか念仏を唱えてください」と言うと青柳の体から力が抜け、まるで溶けるように姿が消えてしまった。
友忠は青柳の死後、仏門に入って全国を行脚してまわった。
その途中、越前に寄った時にぜひともあの家に行ってみようと思い、探し訪ねてみると、家の前には三本の柳の木の切り株だけが残っていた。
2本は老木で一本は若木だった。
文化七年(1810年)7月20日の夜、浅草南馬道竹門の近くで青年が不意に空から降ってきた。
男の姿は、足に足袋だけははいていたものの、着物は着ていないし、下帯もつけぬ真っ裸である。
彼は強烈な衝撃をうけたらしく、ぼんやりと佇んでいた。
この異変を目撃した近所の若者は町役人に彼を届けた。医者にみせ介抱して、役人は彼に事情を聞いた。
男は「わたしは京都油小路二条上ル、安井御門跡の家来、伊藤内膳の倅で安次郎というものだ。ところでここは何というところだ。」
町役人が「江戸の浅草というところだ」と答えると男は驚きしきりに涙を流した。
経緯を詳しく聞くと「今月の18日の朝四つ時(午前10時)頃私は友人の嘉右衛門と言う者と、家僕の庄兵衛をつれて、愛宕山へ参拝した。
ところがものすごく暑い日だったのでやむなく衣を脱ぎ、涼んでいた。
すると一人の老僧がそばにやってきて、私に『面白いものを見せてやろう。ついてきなさい』といった。
興味があったから老僧についていった。
その後のことは全く覚えていない」
手がかりは男の足袋しかないので調べると確かに京都の足袋であった。
ただ、京都から飛んできたとは信じがたかったが草履や履物を履いていたわけではないのに足袋には少しの泥もついてはいないことが不思議だった。

後日談としては奉行所につれて事の次第を届け出て、結局どうしようもなく浅草溜(病気になった犯罪者や15歳以下の犯罪者を入れた獄舎)にお預けとなった。
その後の消息は不明との事です。
滝沢馬琴がまとめた『兎園小説』に実際にあった話として記録されている者です。
江戸時代の話
火葬場に置いて早桶(棺桶)を火にくべていると中から男が蘇生してきた。
その男は慌ててそこを飛び出すと追ってきた男達を振りきって川に飛び込み姿をくらましたという。
なぜなら、その時代早桶を火にくべた時点でそのものは人扱いされなくなり蘇生してきてもまわりに居る男達が撲殺してそのまま燃やしても良い事になっていた事をしっており、撲殺されはかなわぬと逃げ出した者と思われる。
近江国のある屋敷で若い男達が集まり、世間話に花を咲かせ、飲み食いに興じていた時安義橋を無事に通った者がいないと言う噂話が話題にあがった。
するとある男が「評判の名馬を貸してもらえてればわけのない事だ」と言った。
屋敷の殿様はそれを聞きつけると名馬を貸してくれた。
ところが広言した男はすっかり怖気づき辞退しようとしたが他の者達は「いまさら見苦しいぞ」と言って実行を迫った。
結局広言した男はその名馬に乗り、出発していった。
いよいよ安義橋に近づいてくるとなにやら恐ろしい気配が感じられて、男は身がすくんだ。
やがて陽が西の山に沈みかけてくる。
人里離れた場所だけに、心細い事おびただしい。それでも男は、橋を渡り始めた。
橋の中ほどまでくると、前方に何やら物影が見え「鬼ががでたか」と思ってびくついた。
しかし、それは苦しそうにうずくまっている女だった。
若くておだやかな女に見えたが、考えてみると、そのような女がこのような場所に一人でいるわけがない。
男は「やぱっり鬼だ」と思い急いで通りすぎようとした。
ところが女は不意に声をかけてきたのである。
織田信長の死後織田家の重臣は三男である信孝を跡目として押したが豊臣秀吉は信長の長男・信忠の子三法師が織田家の後継者として強く押した。
また秀吉は信長の次男信雄の後見として天下人の座を虎視眈々と狙っていた。
信孝は柴田勝家・滝川一益等と秀吉・信雄の撃退の計画を練り始めたが、どうした事かこれがもれ、信孝の居城を取り囲みその退路を断つと伊勢の一益を落し、勝家も滅亡させた。
信孝はこの報を聞くとやむなく城をして尾張・内海まで逃げ延びた。
秀吉は主君の信長に対する恩義からさすがに信孝に手をかける事はせずに自決するするように説得した。
信孝は、鎧の下に『むかしより主をうらみの野間なれば、むくいをまてやしばし筑前』と辞世の句を残し、腹を切ると腸をつかみ出して、掛け軸に向って投げ始めた。
掛け軸は梅の花が天を望むように直立している珍しい構図の絵で、確かに掛け軸の左上には血痕らしいシミが残っていると言う。
この掛け軸は不思議な事に季節の変わり目になると毎年、花の色がさまざまに変わり、ほのかに血の色を帯びる事もあれば、死人のように青ざめた色になる事もあるという。
正法寺では「死んでもはらせないほど信孝の怨念が残っているに違いない」と掛け軸を大切に保管し、何度となく丁重な供養を営んでいるという。
又この寺では信孝が自刃の際に使用した短刀には自害した5月初旬にうっすらと血の跡がにじみ出るように浮かび上がってくるという。
嘉永五年(1852)岡崎近くの村の常蔵という若者が病気で亡くなった。
それから八年経ったある夜、常蔵がいとこの夢に現われた。どうにも気になり、常蔵の母親に話すときちんと葬式も出しているから何かの間違いだと言われた。
すると今度は、兄嫁のところに現われ、「あの時は立派に葬式をを出してもらったがそれから、さっぱり供養もしてくれない」と嘆いた。
兄嫁は単なる夢だとしか思わなかった。
すると、常蔵は次の夜も現われ、「つまらぬ夢と思われては困るから此処に証拠を置いていく」と言った。
確かに翌朝目覚めると、着物の片袖が置いてあった。
それは確かに常蔵のもので鍵のかけてあった長持の中から常蔵の着ていた着物の片袖が引きちぎられいるのが見つかった。
遺族は着物を木箱に入れて九品院に納め、供養した。
その時、常蔵の亡霊が本堂の前に現われ、「確かに供養して頂きました。これで成仏できます」と礼を述べたと言う。
九品院には、この着物は保管されているが一般には公開してはいないとの事である。
文化九年(1812)寅吉と云う少年が、江戸上野の池之端、五条天神の境内で遊んでいるときに奇妙な薬売りの老人を見かけた。
その老人は仕事を終えたのか、道端に並べていた薬などを片付けるところだった。
老人は全てのものを小さな壷に入れ、みずからも壷のなかに姿を消していずこともなく飛び去っていった。
寅吉は腰を抜かさんばかりに驚いたが、好奇心が旺盛だったから、また境内にきてみると例の老人がいた。
老人は寅吉に「わしと一緒に壷に入らぬか」と誘った。
寅吉は好奇心に駆られ老人と壷に入ると常陸国の南台丈へつれていかれたのである。
こうして寅吉はたびたび老人につれられ各地へ飛行した。
やがて岩間山へ飛び、その山中で諸武術、書道、祈祷術、医薬の製法、占術などを四年間にわたって修行し、その間、岩間山と家とを往復しながら超能力を身につけていった。
しかし、あまり何度も家を留守にするので世間では天狗にさらわれた少年ということになり、"天狗小僧寅吉"とか"仙童寅吉"と呼んだ。
実際、失せ物を探し当てるなど、占術では異能を発揮した。

その後寅吉の超能力に興味をもった江戸下谷長者町の薬種問屋長崎屋の主人新兵衛に気に入られ彼の家で暮らすようになった。
新兵衛の屋敷ではしばしば超能力研究会を開くようになったが、そこには幕府祐筆をつとめた国学者の屋代弘賢、その友人の国学者平田篤胤、農政学者佐藤信淵らが顔をそろえていた。
彼等が関心を抱いたのは、超能力少年の寅吉だった。
特に興味を持ったのは篤胤で何度も話を聞き『仙界異聞-仙童寅吉物語』を発表した。
不思議な事に20代後半になると仙人からさずかった異能は消え失せ、平凡な人物になり、晩年は風呂屋の主人になったという。
天正八年(1580)豊臣秀吉は鳥取城の吉川径家を兵糧攻めにした。
兵1,800人、城に逃げ込んだ町民を合わせると4,000人あまりが城内に立ち篭ってから1ヶ月も経つともはや食べられるものはすべて食べ尽くし、木の根、草の根はおろか死んだ馬の肉までも食べ、それでも飢えは容赦なく襲ってくる。
城主の径家さえ一日に口にするのはわずかに木の皮をひいた粉の団子と野草の水ゆでだけであった。
家臣は勇気さながらにやせこけてしまっている。
ついに戦には欠かせない馬までも殺して食べるようになった。
鼠も蛙も虫も、口に入れるものならなんでも食べた。
だが、それも一時凌ぎに過ぎず、やがて子供や老人など、弱い者から餓死者が出始めた。
すると、人々はその肉まで食べ始めた。
はじめはこわごわと死人の肉を口にしていたのだが、少し慣れると、肉をあぶって食べるようになった。
あぶった肉の味は格別で、人々は争うように人肉を食べ始めたという。
いまだに死なない虫の息の者まで食べたとの記録すらある。
とりわけ美味だったのは首だったようで、奪い合って食べていた。
毎日のように自室の窓から降伏勧告が届き、径家の助命も約束するとあったが、家臣や城下の人々に此処までの苦しみを与えた罪は城主の自分にあると秀吉の助命を断り、径家は切腹して城を明け渡した。
篭城は実に4ヶ月にも及んでいた。
それから夕暮れともなると何処からか「なにか口に入れるものを。人の肉ではない物を・・・」とかすかに聞こえると言う。

「もしもし、どうしてそんなにつれないのですか。このような寂しい所に捨てられ、難儀しております。どうか人里まで連れて行ってください」
男はその声を聞くと、恐ろしさがつのり、夢中で馬を走らせた。だが女も「ああ、情けない」と大声で叫びながら追いかけてくる。
男が振り返ってみるとなんとしたことか、その女はいつのまにか鬼に変わっていた。
身の丈は九尺(約2.7m)で体は緑青色である。真っ赤な顔に琥珀のような大きな目が一つ。
手の指は三本、爪は五寸(約15cm)ほど伸び、刀のように鋭くなっている。
一目見るなり身も凍りつくような恐怖が湧いてくる。
男はかろうじて人里へ逃げ込んだが、一つ目の鬼は「いつか必ず命を奪ってやると言って姿を消した。

男は命からがら家へ帰ったもののその後も怪しいことが続いた。
陰陽師に尋ねるとこの日には物忌みをしなければいけないと教えてくれた。
指示された日に男は門を閉ざして厳重に物忌みをしていたところ、弟が訪ねてきた。
男は門の外にいる弟に物忌みの事を話し「明日になったら対面しよう」といったのだが、弟は「実は母上がなくなられたのだ」といって開門を迫った。
男はやむなく門を開き、弟を入れて食事をさせた。
暫く二人は静かに話をしていたのだがやがてにわかに取っ組み合いを始めたのである。
妻が心配して声をかけると、弟を組み伏せた男が「早く太刀を取ってくれ」と叫ぶ。妻はためらっていたが
そのうちに弟が男を跳ね除けて上になると、いきなり鋭い歯で男の首を食い千切った。
逃げる時「うれしや」といったが、それは弟ではなく男が安義橋で追いかけられた一つ目の鬼だった。
鳥取県の日野郡に黒坂の竜王滝という滝がある。村はずれの滝山神社にある滝で天狗や妖怪が出るとの噂が絶えず、そのため幽霊滝とも呼ばれていた。
村人達はめったに近づかなかったが、ある日竜王滝で肝試しをしようという話になった。
しかも、本当にいったかどうかをはっきりさせるために滝山神社の賽銭箱を持ってこようではないかとの話までまとまった。
ところがいざとなるとみんな怖がって誰一人行こうとしなかった。
そこへ負けん気が強いお勝と云うおんなが名乗り出た。
お勝は自分の子供を背負うとみぞれ混じりの天気のなか竜王滝へと向った。
いざ歩き出すと、夜道は真っ暗でみぞれも冷たく、さすがのお勝も不安になってきた。
こんな事をして何になるのかと自問自答しながら進んでいくと水音が聞こえてきた。
どうやら竜王滝の近くまで来たようだ。
ここまできたら、さっさと済ませてしまおうとお勝は最後の勇気を振り絞って、無我夢中で賽銭箱を抱え、一目散にかけ戻った。
気のせいか背後で野太い笑い声が響いていたような気もしたが一刻も早くその場を離れたくて無我夢中で村へと引き返した。
戻ったお勝は賽銭箱を投げ出し、得意げに頷いてみせた。
ところが村人達はまるで凍りついたように震えて声も出せない。
ようやくひとりが声をあげた。
「お前、その背中の子はどうした」お勝が慌てて背中の子を見てみると、首から上が食い千切られていたと言う。
元禄年間の頃、増上寺での話。あるとき檀家が「湯灌と剃髪をして頂きたい」といって死人を連れてきた。
あいにく住職が不在で、弟子の僧が行なう事になった。
僧は人々を奥へ案内すると落ち着いた様子で剃刀をとり、死人の髪を剃り始めた。
ところが、どうしたわけか手元が狂って、死人の頭の肉をわずかに削ぎとってしまった。
周囲には檀家の人々が頭をうなだれて、じっとしている。
慌てた僧は、とっさに死人から削ぎ取った肉片を自分の口に押し込み隠してしまった。
誰にも気づかれなかかったがはじめは死人の肉を気味悪く思っていたのに、ふいにたとえようのない美味に感じられ体が震えた。
僧は周りに人がいるのも忘れ、肉片を噛みしめると、喉を鳴らして飲み込んだ。
これまでに味わった事のない美味さで僧はすっかり人肉のとりこになってしまった。
その後、何とか忘れようと思った物のどうにも我慢が出来ずに、ひそかに墓地に出かけ、埋めたばかりの土を掘り返すと、死骸の肉を切り取り貪り食った。
その欲望が満足すれば冷静さが戻ってくる。
僧は己の所業が情けなくなって後悔するもののそれは、長くは続かず、また何日かすると自然に脚が墓地へ向っていく。
こうしてたびたび墓地が荒らされると住職が狐か犬の仕業ではないかと不審に思い、墓地の隅に身をひそめて様子をうかがっていた。
僧はその事に気づかずに新しい墓の土を掘り起こすと、脇目もふらずに死骸の肉を食いはじめた。
住職はその凄惨な光景に仰天して声も出ずにどのようにして寺へ戻ったのか、わからないほどだった。
翌朝、住職は弟子の僧を呼び、昨夜見たことを率直に訪ねてみた。
僧は震えるばかりで答える事が出来ない。
だが、やがて「申し訳ございませぬ」というなり平伏して詫びた。
さらに死人の肉を食ういきさつを語り、「このうえは人間としてのつきあいもできません。何処かの山に篭って修行いたします。」といって寺をでていった。
その後、その僧の行方はまったくわからないという。
昭和23年新橋の芸者まさ次姐さんは"猫芸者"と呼ばれるほどの猫好きだった。
上客の「囲い者にならないか?」にも猫を理由に断り、毎晩猫とひとつ布団で寝るほどの猫好きだった。
しかし、戦前の御贔屓筋だった旦那達がみな公職を追放されたりしてまさ次姐さんはだんだん生活が苦しくなっていった。
そこで自宅で三味線教室を開いたが、その教室もパッとせずに生活はさらに苦しくなった。
その三味線教室を開く時に人の紹介で吉井と云う金貸しから金を借りていたが、その借金をなかなか返せずにいた。
吉井と言う男はクロという犬をいつも連れて歩き、まさ次姐さんに借金が返せねば自分の妾になれと強要していた。
ある日遂にまさ次の家に上がりこみ、無理にでも自分の女になれ、それが嫌ならこの場で貸した金を全額返せと脅迫した。
するとまさ次姐さんが飼っていた猫のみい公が吉井に飛びかかった。
怒った吉井は連れていたクロをみい公を噛み殺すようにけしかけた。
みい公はクロの攻撃をかわすとクロの目を爪で引っかき、さらに吉井の顔に飛び掛り吉井の目に爪をつきたてた。
吉井とクロは病院に担ぎ込まれたが爪から黴菌がはいったものか高熱を出し翌々日には主従して息を引き取った。
一方まさ次もその凄まじい光景をみて気を失い、昏睡状態だったが、吉井とクロが死んだ時にむくりと起き上がり「わしは、あのみい公の母猫じゃ。今から一年前数寄屋橋のたもとに住んでいたわしと子供達をあの吉井の飼い犬クロが遊び半分に噛み殺しおった。
その時一匹だけ生き残ったのがみい公じゃ。
わしは魂でこのまさ次に乗り移りクロに仕返しをするため、今まで機会をうかがっておったのじゃ」と同じ事何度も繰り返しつぶやいた。
お払いをしても効果はなかったが、一月後まさ次はストンと正気に戻ったがまったく猫には興味がなくなってしまっていたという。
平安時代は、重病人が出ると地獄からの使者に供える為、門の左右に食べ物を置いておくという習慣があった。
このようにすれば、疫病神をもてなした事になり、病気を治してもらえると信じられていた。
讃岐国山田郡の女の家でも、女が重い病にかかると、さっそくさまざまな美味の料理をつくり、門の左右に出しておいた。
やがて地獄からの使いの鬼がやってきて、重病の女を呼び出した。
しかし、鬼は冥土から急いでやってきたために疲れていたし、腹もすいていた。
そこで鬼は、門の左右に置かれた料理につい手を出し、食べてしまった。
鬼は女を連れて行こうとしたが途中でためらった。
「先に御馳走を食べてしまったのでこのまま連れて行きくのは気がとがめる。お前と同姓同名の女が他にいれば、御馳走の恩返しにその女を連れて行っても良いのだが」
女はどうしてそうなるのか、わからないまま「讃岐国の鵜足郡に同姓同名の女がいます」と答えた。

鬼はそれを聞くと山田郡の女を許し、鵜足郡へ飛んでいった。
そこには確かに同姓同名の女がいる。
鬼はその女を呼び出し、連れ去った。
一方、許された山田郡の女は家に帰り、すぐ行き帰った。
ところが閻魔王は鬼が連れてきた鵜足郡の女を見るなり、「お前は人違いをしたな」と鬼を叱りつけた。
「これは、わしが呼び出した女ではない。もう一度娑婆にいき、山田郡の女を連れてくるのだ」命じられた鬼は、やむなく、また山田郡へでかけ、女を連れてきた。
「わしが呼び出したのはこの女のほうだ。間違って連れてきた鵜足郡の女は、もとの家にかえしてくれ」閻魔王にいわれたおり、鬼は鵜足郡の家に鵜足郡の家に帰しにいった。
ところが女の亡骸はすでに火葬にされたあとである。
女は戻るべき体が無いので閻魔王に苦情を言うと閻魔王は暫く考えていたが、山田郡の女の亡骸がまだそのままになっているのを確かめて、山田郡の女の体を与える事にした。
鵜足郡の女は正直なところ、事情が飲み込めぬまま山田郡に連れて行かれ、女の亡骸に入って息を吹き返した。

ところが鵜足郡の女にはどうにも居心地が悪い。
「ここは、私の家ではありません。私の家は鵜足郡にあります」突如としてそう言うものだから「娘が生き返った」と喜んでいた両親は驚き、うろたえた。
それからまもなく、女は不意に家を飛び出し鵜足郡の家へ向った。
しかし、両親は見知らぬ女がやって来たので、訝しげに見ていた。
女は家に近づきながら「ここが私の家です。お父さん、お母さん…」と言ったので両親は吃驚した。
「違うよ。お前は何処の誰なんだね。うちの娘はもう火葬にしてしまたから娘はいないんだよ」
当初、良心はなかなか信じなかったが、両親は生前の娘の事を尋ねると、女は実際にあったとおり、間違いなく答える。
赤の他人なら知るはずのない事まで正確に話すので、両親もようやく信じるようになった。
「体は娘と違うが、心はまさに我が娘だ」両親はそう思い、それ以来、この娘を大事にしてかわいがった。
一方、山田郡の両親にしてみれば、心は鵜足郡の娘かもしれないが、体はままぎれもなく我が娘である。
かわいという思いには変わりなかった。
このため、娘は双方の両親のもとで交代に暮らしたという。
NEXT
BACK
TEXT