File No.026 伝説または逸話
㊧伝説または逸話㊨
平安の頃、御所に武徳殿と云う殿舎があり、そこの東には縁の松原が広がっていた。
その松原の西を3人の美しい婦人が東へと向って歩いていたところ、松の下に美しい顔立ちの男がたたずんでいた。
男は一人の婦人を手招きすると婦人はうっとりとして男のほうへ行った。
彼女は男に手を取られて木の下で語り合っていた。
ところが、やがて話し声が全く聞こえなくなった。
怪しんで木の下を探したところ婦人の折れた手足だけが木のそばでみつかったが、首と胴体は何処に消えたのかなくなっていた。
御所の護衛を担当する物が知らせを受けて調べに行ったが、死体もそこにいた人々も姿を消していたと云う。
空海が唐から帰ってきて真言密教のさまざまな呪法で権力者たちの信任を得て、僧都の位に登った頃、共に護持僧を務めていた興福寺の守敏という僧都がいた。
ある日、守敏僧都が嵯峨天皇に「この栗を煮てみよ。」と命じられた時
それに対して守敏は、法力により栗を煮たという。嵯峨天皇はこれに大変感心されて、それからは薬湯なども温めさせた。
しかし、それを耳にした空海は「私にも見せて欲しい。」と頼み、守敏が加持をしてもそれを自分の験力でそれを阻止したという。
さらにどちらからともなく互いに殺そうと呪詛しあったという。
二人の験力は均衡して呪詛合戦は長期に及んだが、いっこうに決着がつかなかった。
そこで、空海は、弟子たちに自分の葬式道具を買いにいかせて「空海僧都が亡くなった。」と噂を流した。
それを聞きつけた守敏は喜び、呪詛を終えてしまった。
空海は守敏が罠にかかって結願したことを聞きつけるとさらにいっそう精進して祈祷したため、守敏は亡くなってしまった。
将門の首塚では、奇怪な事件が起きている。
関東大震災で、大蔵省の建物が焼け落ちたため、首塚は壊され、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられた。
しかし、大震災の3年後、蔵相早速整爾が突然病死し、さらにあいついで14人の役人が次々と死んでいった。
そこで将門の祟りだと騒がれ首塚は復元され、鎮魂祭も行なわれている。
さらに、終戦後アメリカ軍が取り壊そうとした時も、ブルトーザーが突如転倒して運転手が死亡した為、工事は中断した。
役行者:えんのじょうじゃ(役小角:えんのおづぬ)は、699年(文武3年)に「妖術を使って世間を混乱させた。」と云う理由により伊豆大島に島流しとなった。
だが、彼は、昼間はおとなしく伊豆大島で修行していたが夜になると雲に乗って天城や箱根、さらには富士山へと飛び、明け方になると島に戻っていた。
それどころか、大陸にまでも渡っていたらしい。
『日本霊異記』によるとある日本の僧が中国に行く途中に新羅で法華経を講じたところ、聴衆の中から日本語で質問してくる者があった。
そこで名前を尋ねると「役優婆塞:えんのうばそく」(役行者の別名)と答えたと言う。
小野篁は、遣唐使として選ばれたが、二度航海の途中で失敗し、三度目のとき藤原恒嗣と意見が対立して、仮病を使い乗船を拒否した。このため嵯峨上皇から絞首刑を命じられたが藤原良相が罪が軽くなるように頼み、壱岐への流罪に変更された。
その時に「和田の原 八十嶋かけて漕ぎいでぬと 人にはつげよ海士の釣舟」と詠んだ。
この歌は百人一首にも入っている。さて篁はそれから一年余りで赦免状が届き、都へ戻り出世して参議へ昇進した。
それから暫くして藤原良相が病気で死去してしまった。閻魔の使者に捕えられ、閻魔宮で罪を糾弾される事となった。その時に閻魔の臣の中に篁がいた。
篁は死罪を流罪にしてもらった恩義を感じており、閻魔に「この人は善心の持ち主で世のためにまだ必要な人です。」と懇願した。閻魔はそれを受け入れたため良相は蘇生した。
蘇った良相は篁に会い、「冥土で助けてもらって、かたじけない。でも何故そこにいたのか。」とたずねても篁は「他言無用」と答えるだけだったと言う。
出雲の国に調介と言う裕福な百姓がいた。或る日、調介は、友人の家に行ったが、床の間にたいそう美しい女性の姿絵がかけられているのに気がついた。
調介が思いつめたようにその絵を見ながら「もしこのような美人が生きている女だったら全財産を投げうっても惜しいとは思わないな。」といった。
「本当にそう思うのなら生きている女にする秘術があるのだが、ためしてみるかい?
その気があるのならこの絵をお前にあげよう。」
「まさか、そんな馬鹿なことが・・・。」
「試した事はないが、疑いながらやってもうまくいかない。本気でやらないと駄目だ。」
「悪かった。俺は本気だ。是非教えてくれ。」
「わかった。それでは教えよう。この絵に向って真剣に呼びかけるのさ。一日も欠かさずに誰の目にもふれない密室で、百昼夜つづけるのだ。
すると絵がお前の言葉に応じるようになる。
その時、八年ものの古酒を絵に注ぎかけるのさ。
その瞬間この美人は生きた人間になるそうだよ。」
調介は「まさか」と思ったものの、「ありがたい。恩に着るよ。」といい、友人から絵をもらうと急いで家に帰った。
それから、調介は一室に閉じこもり絵に真剣に呼びかけた。
すると不思議な事にちょうど百日目になって絵の美人は「私をお呼びになったのね。」と答えた。
調介は準備していた八年ものの古酒をその絵に注ぐと絵の中から美人が飛び出した。
調介は早速食事をを整え彼女の前に差し出したが、彼女は普通の女性と変わらないように食べた。
良く話をするし、笑顔型ならなく素敵だった。
調介はこの女性を妻にし、子供も生まれた。
絵をくれた友人にはお礼をし、恩に報いた。
やがて、疎遠になっていた従兄弟の進兵衛が訪ねてきた。
進兵衛は妻子がいることに驚き、「なんと美しい奥方だ。いつのまに何処から向かえたのか。いままで知らせないとは、ひどいじゃないか。」調介は「悪かった。」というばかりだった。
しかし、進兵衛が執拗に聞くので小声でいきさつを話した。
進兵衛は驚き、顔色を変え「それは、妖術に違いない。その女は妖婦だ。
幸い私は稀有の名刀を持っているのでそれを貸そう。
その刀であの女を殺しなさい
そうしないと、どんな災いがあるかわかりませんよ。」と進兵衛は忠告した。
調介は半信半疑でその名刀を預かった。
進兵衛が帰ると妻はいつもと異なる険しい態度で調介にいった。
「わたしは、南方に住む仙人です。たまたまあなたに望まれ、この数年妻として暮らしてきました。
でもあなたは進兵衛の言うことを信じて、私に疑いを抱いた。
こうなっては、此処にとどまる事は出来ません。」
そう云うなり、調介が注いだ古酒を吐き出し、子供を抱きかかえると、空中に消えてしまった。
調介は必死に妻を抱きとめようとしたものの、すでに妻と子供の姿はなかった。
調介は「なんと愚かな疑いをだいたものだ」と後悔した。
調介は妻の面影を求めて蔵の中からあの絵を取り出した。
なんと不思議な事にそこに描かれていたのは妻が子供を抱いている絵だった。
いくら眺めても、呼びかけても、絵の中の妻は何もいわなかったという。
あまりにも有名な果心居士の話
果心居士が京都で地獄絵をひろげて説法して評判になっていた。
それを聞き付けた織田信長が果心居士を自分の屋敷に呼び寄せて評判の地獄絵を披露させた。
迫力の或る絵だったので信長は欲しくなり「買い上げてつかわす。」といったが、
果心は「商売道具の絵だからゆずれない。もし買い上げるなら黄金100枚
を頂きたい。」といった。
信長はむっとしたがあきらめた。
ところが、信長の家臣で荒川と言うものが果心居士の態度が不遜だと立腹して町外れまでつけて行き、いきなり襲い斬殺した。
地獄絵を奪い、信長に届けたがそれは白紙だった。
数日後「果心居士が北野天満で説法している。」との噂が伝わり、荒川は確かに殺したはずだとそこに行くと確かに果心居士は生きていた。
荒川は果心を捕えて奉行所に突き出し「この妖術使いを処罰してほしい。」と申しでたが奉行はそれまでの経緯を聞くと果心居士に理があると判断して逆に荒川を拷問にかけて処罰した。
荒川には弟がいて兄の仇だとつけねらいある日討ち取り首を切落とした。
しかし、まもなく首のない死体が起き上がって歩き出し、いずこともなく姿を消してしまったと言う。
果心居士は戦国末期に大和の国に現れたという幻術師です。
人から「術を見せて欲しい。」と請われると気軽に術を見せたと云う。
たとえば、水際の笹の葉をとり、呪文を唱えて水面に散らしたところ、葉はたちまち大魚になって泳ぎはじめた
特に松永久秀や筒井順慶らの大名に依頼され探索や攪乱などの仕事したと言われている。
豊臣秀吉に招かれて幻術を披露したがその時に女性の亡霊を出現させた。
その女性は秀吉には思い出したくないような秘事だったので、怒って果心居士を磔にする事にした。
いよいよ刑が執行されようと云う時に鼠に変身した。
そして何処からともなくトビが飛んできてその鼠をくわえて大空へ飛び去っていった。
その後果心居士の消息は聞かれなくなったと云う。
山田風太郎などの忍者ものの小説にはよく出てきたりします。
江戸時代上州高崎に横田保庵という医者がいた。るんと云う妻と仲むつまじく暮らしていたが保庵の医者としての評判が高まるにつれ、「江戸へ来て欲しい。」との誘いがかかり「江戸で修行してくる。」と単身江戸へ出かけた。
当初は真面目に修行していたもののまもなくある女性と世帯を持ち、医者を開業した。
妻のるんが心配して江戸へ使いを出したが、その使いは保庵からの離縁状を持って帰ってきた。
るんはそれが信じられずに保庵に直接会って確かめようと江戸へ出かけたが、保庵はるんの話に耳を貸さずに「高崎へ帰れ。」というばかりだった。
るんは失意のまま一人で高崎に帰った。
その後江戸の妻が保庵の子を産んだものの一年もしないうちに病死し、しかも二人目、三人目とも子供が生まれてすぐに死んだ。
さすがに保庵もるんの怨念ではと恐れた。
やがてるんは嫉妬のあまり病を患い亡くなった。
その知らせを聞いた保庵はさすがに気がとがめたのか、るんを哀れにおもったのか墓参りに帰郷した。
るんの墓で花を供えて頭をたれた瞬間、るんの死霊が摂りついたものなのか、保庵は顔を恐ろしげにゆがめ、わけのわからない事を口走りはじめた。さらに自分で自分を殴りつけ、地面を転がった。
そばにいたものが保庵を取り押さえ引きずるようにるんが住んでいた家に連れて行った。
だが、保庵はさらに異常になり、うつろな笑い声をたてながら、自ら柱や壁に体をぶつけた。
そして数日後、熱病を患ったようになって息絶えた。
享保年間のこと、三河国にいわと云う25歳の女性が住んでいた。
彼女はひどく神経質で、夫の帰りが遅いときなどいらぬ勘繰りををして暴れた。
思い込みが強く、夫を誰にも取られたくないと暴れだし、ついに夫はいたたまれなくなり夫はひそかに逃げ出してしまった。
彼女は気づいてあとを追いかけたものの夫の姿は見当たらない。
やがて歩いていくと村人が林の中で死人を火葬しているのが見えた。
彼女は燃える火を見ているうちに神経が切れてしまい、誰もいないのをいいことに彼女はは半焼けの死体を死骸を火の中から引きずり出し、腹を裂いて内臓をつかみ出し鉢に入れるとまるで素麺でも食べるように貪り食った。
そこへ村人達が火葬の様子を見に来ると彼女の姿は、まるで地獄の餓鬼のように見えた。
村人達は驚いて彼女を追い払おうとしたが、彼女は獣のように唸り声をあげ、叫ぶように言った。
「こんな美味いものはないぞ。お前たちも食べるが良い。」
彼女は血まみれになって暴れたが、やがて内臓の入った鉢を持ったまま何処かへ行ってしまった。
その夜、僧が近くの山寺で内臓を食っている彼女を見つけ村中で彼女を追ったが、捕えることは出来ずに、その後彼女を見る事は無かったと云う。
村人達は「愛しい夫に逃げられ、生きながら鬼女になった。」と噂しあった。
大和国松塚村の大山川には陰火出るようになった。
松塚村の小右衛門と言う百姓が「怪しげな陰火の正体を確かめたい。」と思いある日、陰火がよく出没する所へ出かけた。
すると陰火が北から南へと飛んできた。
小右衛門の方向へ飛んでくる格好になったから、彼も誘われるように歩み寄った。
陰火が小右衛門の前に来ると不意に高く飛び上がり小右衛門の頭上を飛び越えていった。
小右衛門は手に持っていた杖で陰火を打ち据えた。
打たれた瞬間陰火は砕け散って数百の陰火となって小右衛門の周りにまとわりついて離れない。
小右衛門はおびただしい小さな陰火を杖で打ち払いながら家に帰った。
ところが、小右衛門はその夜から病になり、手当ての甲斐もなく、息を引き取った。
このため、人々は「陰火が小右衛門を病死させた」と噂しあい、この不思議な陰火は『小右衛門火』と呼ばれるようになった。
小倉藩主小笠原家江戸屋敷にうのという美貌の奥女中がいた。
ところがある日、突然行方不明になった。
門番は外出する姿すら見てなかったと云う。
親許に連絡すると両親も何も知らずに、おろおろするばかりだった。
屋敷の者達が心配したものの何の手がかりが得られぬまま20日ほどが過ぎていた。
そんなある日ある女中が手水を使おうとしてふと下を見ると手水鉢へ白い手が伸びて貝殻で水を飲んでいた。
女中は悲鳴をあげ、気絶した。その声を聞きつけて人々が駆け寄ってくると、怪しい女が縁の下へ潜り込もうとしていたので、男達はそれを取り押さえた。
驚いた事にやせ衰え、薄汚れてはいるものの、よく見ると行方不明になった奥女中のうのだった。
彼女に水を飲ませた後に「一体、何処に行っていたのだ。」
と問いただすと、うのは澄ました顔で「私は良縁があって嫁ぎ、今では夫のある身。
何一つ不自由はなく、楽しく暮らしているのです。」と答えた。
あまりにもおかしいので何とか言い含め嫁いだ先へ案内してもらうとそこは縁の下だった。
それもずっと奥の方へ筵を敷き、欠けた茶碗などを並べてあるだけ。
それでもうのは「此処が住まいです。」と言った。
夫の名前を聞いても「前に話した男ですよ。」と云うばかりで名前を告げなかった。
何かに憑かれたとしか思えなく、小笠原家ではしかたなく親許へ引き取らせた。
両親は、薬を与え治療させたがついに回復することなく死んでしまった。
771年11月15日肥後の八代に住む広公と云う男の妻が卵を産んだ。
生まれてきたのが卵とは異常で人の目にふれては具合が悪いので、山の中に隠しておいた。
しかし、気になってしょうがなくなった広公は7日目にそっと山に行って見たところ、卵がすでに割れていて女の子が生まれていた。
広公は女の子であれば問題ないと安心して女の子を家に連れて帰った。妻もそのことを喜んだ。
それ以来二人は女の子を可愛がり大事に育てた。
女の子は生まれながら賢く、7歳の頃には経を詠む様になった。
ところが、どうしたわけか成人しても、成人しても身長は三尺五寸(約1m5cm)しかなく顎もなく、女陰もなかった。
その娘はその後、尼になったと云う。
1952年に日本の漁船がある島に漂着した時に岩肌に角のある動物が彫られているのを発見した。
"ナガシマ"と云う日本人学者がそれに目をつけ、海賊記キャプテン・キッドの財宝の話を思いついた。
キッドのスペルは"Kidd"でコヤギは"kid"であることに着目したのである。
"ナガシマ"はそこを調査してある洞窟の中に入っていた。
そこには約5000万ドルの金貨や銀貨がはいった古ぼけた鉄の箱が、うず高く積まれていた。
彼はそれをひそかに日本に運んだが、その後なぜか、彼はその財宝とともに姿を消してしまったと云う。
それが本当にキャプテン・キッドの財宝かどうかは定かではない。
江戸時代中期頃、善右衛門はある武家から「五張の幕が欲しい」と注文をうけ、吉田の町を探したものの三張しか集まらず、やむなく名古屋まで足をのばすことにした。
途中で日暮れとなったが、空には月がかかっていたので知り合いの宿で少し休みしただけで、馬を仕立ててもらって名古屋に向った。
馬子が知っているという近道を急いで進んでいると、烏頭村という寂しい所にさしかかった。
突如として激しい旋風が吹きつけてきた。
善右衛門は思わず頭を抱えて地面にひれ伏した。
馬子も同じ様にしている。
息が出来ないほど苦しく、気が遠くなった。
まもなく、何者かが近づく物音がして、善右衛門はふと顔をあげた。
少し先の林ほうから仁王のような大入道が歩いてくるのが見えた。
大入道は強い旋風の中びくともせず坊主頭で身の丈は一丈三、四尺(約4m)ほどもあり、目が鏡のように輝き吸い込まれそうに怖い。
善右衛門は怯えて地面にしがみつき震えていた。
まもなく大入道は地響きを立てながら去っていった。
善右衛門は不審に思いながらもともかく名古屋へ向い、2張の幕を買い、宿に泊まった。
ところが、気分が悪くなり食事も喉を通らない。
体が熱っぽく、頭痛もひどくなったので、宿に医者を呼んでもらった。
医者は「流行病のようじゃ。薬を飲んでゆっくり休むが良い。」といい、帰った。
だが、薬を飲んでもさっぱり良くならず、翌日駕籠をやとって、吉田の自宅へ帰った。
それから医者に治療してもらったり、薬を飲んだりしたが、いっこうに効き目はなかった。
こうして、13日目に善右衛門は遂に帰らぬ人となった。
あまりの不思議さに人々は「善右衛門が出会った怪物というのは、疫病神だったのではないか。」と噂しあった。
清和天皇の頃の話
ある朝のこと、役人の一人が朝廷に出勤するとすでに上官の車があった。
上官より後に出勤するのはまずいと思い、急いで役所に駆け込んだ。
しかし、部屋を覗いてみると、明かりは消えているし、人の居る気配もなかった。
不思議に思い、下男に聞いたところ「すでに東の庁にお入りになりました。」と言った。
彼は、慌てて下役を呼んで灯りをつけさせた。中の様子がはっきり見えるようになると彼は驚いた。
なんと、上役の座る場所が真っ赤に血まみれになっていた。そればかりか髪の毛のついた頭皮があちこちに散らばっている。
上官の筆跡で今日の執務の順序などを記した扇があったから、上官が先に出勤して仕事に取り掛かろうとしていたのはまちがいない、と思われた。
やがて夜が明け人々が集まってくると大騒ぎになった。
いろいろ調べた挙句「夜明け前に出勤した上官が人気のないところで鬼に食われたのだ。」という結論になった。
讃岐の満濃池の主である竜があるとき、小さな蛇に化け、池の土手で昼寝をしていた。
ところが比良山の天狗が鳶の姿をして舞い降りるとその蛇を嘴でひっさらった。
天狗は飛びながら蛇を食べようとしたが、その正体は竜だから硬くて食べる事ができなかった。
やがて比良山に戻ると、天狗はその蛇を岩山に閉じ込めると再び餌を探しに飛んでいった。
一方残された竜は水がないため術が使えず蛇の姿のまま苦しんでいた。
天狗は比叡山に飛ぶと、ある僧が便所から出てきて柄杓で水を汲んでいる処を襲い、僧を足で捉えて飛び上がった。
天狗はこの僧も岩穴に閉じ込めた。
しかし、竜にとってはこれが幸運だった。
僧が手にしている柄杓に水が残っていたからだ。
蛇になっていた竜は僧に頼み、その水を頭にかけてもらった。
すると蛇はたちまち力を取り戻し、竜になった。竜は岩穴を破って脱出すると、雲を起こして僧とともに飛んでいった。
その後、竜はなんとか復讐しようと、空から京の町を探した。ちょうどその頃、天狗もまた荒法師に化け、獲物を求めて京の町にいた。
竜は天狗を発見するとすばやく舞い降り、天狗を蹴り殺した。
荒法師は正体を現し、翼を折られた糞鳶(鷹の一種)の姿になっていたという。
熊本藩には剣術師範を務めていた松山主水と云う男がいた。
彼の身軽さは常人を超えており、奇怪な術を使うといわれていた。
あるとき、主君の細川忠利から「これまで見たこともない怪しい術を見せよ。」と言われ主水は奇怪な術を披露した。
突如として足元の畳が一枚何の物音も立てずに宙へ浮上り、その中に主水が吸い込まれるように消えたのである。
やがて、畳は次々に宙に舞い始めた。
主水はその中を自由自在に潜り抜けていった。
忠利をはじめ居並ぶ人々はあまりの不思議さに、ただ唖然と息を呑むばかりだった。
人々がはっと気づいた時、主水はすでに向うの廊下に立っていたのである。
享和3年(1803年)常陸の国の沖合いに不思議な形の船のようなものが漂っているのが見えた。
浜の人々は不審に思いながら多くの船を出し、船のようなものを浜辺に引き寄せた。
よく見たところ、その船は丸く、直径は3間(約5.4m)で上部はガラス張りで、継目は松脂のようなもので塗り固められて、底部も丸く、鉄板を筋のように張ってあった。
人々はガラス張りの上部から内部を覗いたところ、異様な身なりをした女が一人だけ乗っていた。
女の顔は桃色をしており眉と髪の毛は赤く、長く背にたれている髪は白い入髪のようであった。
言葉は通じなかった。
この女は2尺(約60㎝)四方の箱を抱えていたが、よほど大切なのもなのか、ひと時も手から離さず人も近づけなかった。
船の中を調べてみると、敷物が2枚、瓶に入った2升ほどのほか、菓子のようなもの、肉の練物らしい食物があった。
浜の者たちが集まって、しきりに詮議したがその女性はのどかに微笑を浮かべながら眺めているばかりであった。
浜の人々は議論を重ねたが、この船を役人に訴えると面倒な事になりかねないので、女をもとの船に乗せ、沖へ出して海へ流してしまった。
寛政年間の頃、江戸の天守番頭の春日半十郎は自分の屋敷でいつものように飯を食おうとした。
半十郎が膳の前に座り、箸を手にすると不意にその膳が宙に浮き上へ昇っていき、ついに天井まであがってしまった。
半十郎は呆気にとられたが、やがて恐怖がつのり人を呼んだが恐怖のあまり声が出なかったのか誰もこなかった。
立ち上がろうとしたが腰が抜けて思うようにならず、すくみあがったまま天井まで浮上った膳を見つめていたが、暫くすると膳はゆっくりと下へ降りてきて、静かにもとの場所に元の場所に落ち着いた。
半十郎は恐る恐る膳を覗いたが運ばれた時と同じ様に料理が並んでいた。
誰かの悪戯かと思ったが部屋には誰もいなかったいし、膳にも何の細工もしてなかった。
それから半十郎の屋敷では家の中の道具が勝手に飛び回るようになった。
数人の男がやっと持ち上げられる大きな石臼も、誰もいないのに浮上り、道路に飛んで行った事もあった。
半十郎は怪事に悩んだが、ある老人が訪れて「この怪事は目黒の人を雇ったから起こったのだ。」と告げた。
半十郎は半信半疑だったものの、とりあえず数名の者に暇を出した。すると、怪事はぴたりとやんだ。
なぜ、目黒の人なのか理由はわからなかったという。
享和元年の6月1日に漁師たちが水戸浦で漁をしていたところ、海中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので怪しみながら船をとめ、そのあたりに網をおろしてみた。
すると、再び泣き声が聞こえてくる。漁師たちが刺網を引きまわしたところ、その中に十四、五匹がかかったので、引き揚げた。
これがなんと河童であった。河童は網のなかを逃げ回る。
漁師たちが棒や櫂で打ち据えたものの、体がぬるぬるしているせいか、棒や櫂が滑ってまるで効果がなかった。
そのうちの一匹が船の中に飛び込んできたので船の覆いにつかうむしろをかぶせ、打ち殺した。
その間河童は赤ん坊のような泣き声をあげ続けていた。
河童は死に際に放屁したが、それは耐えがたい悪臭で、それを嗅いだ何人かの漁師は病気になったという。
染殿の后は美貌だったもののどうしたわけか、幼少の頃から物の怪に憑かれやすかった。
ある時、天皇は日ごとに衰弱していく后を心配して、金剛山に住む聖人を招き、彼女への加持を頼んだ。
聖人は「后の侍女に老狐が憑いている為の物の怪の患いである」といい、侍女に憑いた老狐を追い出して、后の病を治した。
お礼として聖人をしばらく滞在させ、歓待した。聖人は屋敷にとどまり、のんびりとすごしていたが、ある日、突然后に恋慕してしまった。
聖人は暫くは自制していたものの、やがて欲望に負けて、女官たちがいないのをみはからって、后の寝室へ忍び込み、后に襲いかかった。
后は驚き抵抗した。女官たちはその物音に気づき、大声で騒ぎ立てた。
それを聞いた侍医はすぐに駆けつけると聖人を引きずり出し、縛り上げて、獄へ入れた。
しかし、聖人の后への恋慕は執拗で、「私は死んでも鬼となり、后と睦ぶ」といい続けた。
獄司がそのことを后の父である大臣に伝えたところ大臣は気味悪くなって聖人を放免した。
聖人は金剛山へ帰ると「わたしは心から願ったように、鬼になるのだ」といって、断食をつづけてついに死んでしまった。
まもなく聖人はその願い通りに鬼となり、后のいる几帳のそばに現れた。
その鬼の姿は、身の丈は八尺(約2.4m)、裸ではあるが肌は漆を塗ったように黒く、目は鋭く、口は広く開いて、剣のような歯が生えていた。赤い褌をして腰には槌を差していた。
鬼は后の正気を失わせ、狂わせた。このため后は鬼を御帳の中に誘い入れ、あられもなく鬼とともに、褥に身を横たえた。
その後も鬼は毎日のように現われ、后は親しく迎え入れた。
そればかりか、鬼が人に憑いたので、侍医とその息子達も狂って死んだ。
天皇と后の父の大臣は恐れおののき、高僧たちに鬼降伏の祈祷をさせた。
すると、鬼は3ヶ月ほど姿を見せず、后の気分も良くなった。
天皇もそれを聞いて安堵し、久しぶりに后のいる染殿へ出かけた。
后は以前のように元気そうに見える。
ところが、暫く話をしているうちに突然、片隅から鬼が姿を現し、勝手に御帳のなかに入っていった。
それを見て天皇は「なんとあさましいことだ」と嘆いたが、后はまったく意に介する様子もなく鬼のあとにつづいた。
まわりには多くの人々が見ているにもかかわらず、后と鬼は誰にはばかることなく睦つづけた。
天皇はなすすべもなく、嘆きながら帰っていった。
元禄年間のはじめ頃京都の上京に住むある男が夜、魚をとるために、川に出かけて網を打っていたところ、加茂のあたりでふいに狐火が手元に近づいてきた。
男は驚いたが、とっさに網を打ちかけた。狐火は一声鳴き、遠ざかっていったが、網のなかには正体不明の光るものが残っていて、それは玉のように赤く輝いていた。
男は不思議に思いながらも、それを大事に持ち帰り、翌朝じっくりと見た。
すると、それは薄白く、鶏卵のようで昼間は光を発しなかったが、夜になると光を発して輝いた。
提灯の中に移してみると、蝋燭の光よりずっと明るく、宝物として大切にしまっておいた。
ある夜、男は魚をとろうと、川に出かける時にこの光る玉を薄い紗の袋に入れ、提灯代わりに肘にかけながら網を打っていたところ、不意に大きな石のようなものが川に落ち、水があたりに飛び散った。
男はあわてたが、気がつくと玉の光が消え、暗くなっている。
急いで紗の袋を手探りで調べてみたところ、袋は破れて玉はなかった。
あたりを見まわすと二、三間(約4~5m)ほど離れたところに、光っているものがある。
取り返そうと追いかけたが、遂に取り逃がしてしまった。
北条高時が酒を飲んで酔っぱらい、一人で田楽を舞っていた。
すると、十数人の田楽法師がどこからともなく忽然と座敷に現われて舞い、歌い始めた。
暫くして妙な歌声になったのでよく聞くとこう歌っていた。
「天王寺のや、ようれいぼしを身ばや」
ある侍女がその騒ぎを聞きつけて、あまりの面白さにそっと障子の隙から見てみると田楽法師と見える者は一人もいない。
その代わりに、異形の天狗達がいた。
高時はそれと知らず、天狗に囲まれて楽しそうに舞い、歌っていた。
侍女はあまりに不気味なので、使いを出して高時の家来達に知らせた。
家来達が太刀をとり、急いで座敷に駆けつけてみると、怪しいものはどこかに姿を消してしまっていた。
灯りをかかげて見回すと、確かに天狗達が集まっていたと見えて、畳の上に鳥とも獣ともつかない足跡がついていた。
徳川家康は70歳を過ぎても常に若い側室をそばに呼んで寝ていたと言う。
その側室の中でも特にお気に入りだったのが家康より56歳も年下の美貌の少女・お六であった。
彼女が13歳の時に出遭ったといわれる家康はまるで孫のような彼女を溺愛し大阪冬の陣真で連れていた。
家康の死後全ての側室は頭を丸めて尼になったが、お六だけは尼にならずに、足利家に嫁入りした。その後、そこも飛び出すと自由な暮らしを送るようになった。
そして、家康の死から数年後、お六は日光東照宮に参拝し、家康の位牌の前で焼香をした。
すると、仏前にあった香炉が突然はじけて、その破片がお六の額にあたり、彼女はその傷がもとで亡くなってしまった。
人々は「東照大権現が嫉妬した」「家康の祟りだ」と噂しあった。
京に住むある男が美濃か尾張へ行こうとして、夜更けに家を出た。
まだ京の町を歩いている時ある四辻で、青い衣を着た女官にであった。
彼女には供の者がおらず、一人で立っている。男はこんな夜中に身分の高い女性が一人でいるわけがない。
物の怪かもしれないと早く通りすぎようとした。
するとその女官が「このあたりに、民部大夫の家があるはずなのですが、知りませんか」と聞いてきた。
男はその家を知っていたものの、教えてよいかどうか迷ったものの彼女があまりに思いつめた感じだったので、しぶしぶながらその女官をその家へ案内してやった。
彼女は喜び、自分の住んでいる所を告げると、門前で急に姿を消してしまった。
男は、不審に思いながらも立ち去ろうとしたが、突然家の中から泣き騒ぐような声が聞こえてきた。
暫く家の様子をうかがっていたが、後は静かになって、何が起こったのかわからない。
明け方になるのを待ってその家の者に事情を尋ねた。
そのものの話によると近江の国にいる女房が大夫に捨てられた事を恨み生霊になって取り憑いて二、三日患っていたのだが、この明け方急に亡くなったと言うのである。
しかも、大夫は息を引き取る時「生霊がいる」と叫んで亡くなったと言うのだ。
男はその話を聞くと出発を遅らせて、三日ほど家で休んでから出かけた。
途中、夜更けに出遭った女性の言い残した近江の住まいを訪ねてみた。
女主人は男を歓迎して御簾越しに対面すると
「この間の夜はありがとうございました。あの折の恩は、絶対に忘れません」といい、絹布などを送ったという。
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