File No.026 伝説または逸話

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イギリスでは、絞首刑台から生還した例が、十数例あるという。
1740年には、処刑後に移送された解剖室で息を吹き返して、直ちに監獄に送り返された例があった。
中には、生き返ったついでに芝居見物をして帰った、という冗談のような例もある。
18世紀には、タイバーンで処刑された男の遺体を買って解剖しようと外科医が安置して いたものをお手伝いが好奇心から解剖室に見にいったところ、裸の男が酷い形相で睨んでいたという話が伝わっている。
彼は生き返っていたのである。彼女が驚いて逃げ出したのは言うまでもないが、外科医はこの男を哀れに思い、アメリカに逃がしてやった。
男は新世界で成功を収め、恩人の外科医に財産を残して死んだ。
ヨーロッパで猛威をふるった魔女狩りは、北アメリカ大陸にも飛び火し、ニューイングランドのセイレムで、黒人奴隷が密かにブードゥ教の儀式を幾度となく見せられていた10代の娘たちがものに取り憑かれたようなしぐさを見せ始めたため、周辺の村に魔女の妖術にかかったと云う噂が広がった。
教師のサムエル・パリスは魔女狩りの先頭にたち、1692年3月に裁判に訴えた。
容疑者は次々に逮捕され、200人近くにふくれ上がり、最初に有罪判決を受けた者のうち20名が絞首刑にされた。
その中のセアラ・グッドは絞首刑台に立ったとき、ニコラス・ノイズといういう牧師に自白を勧められた。
「お前は魔女だし、このことを自分でも知っているではないか」
「嘘もいいかげんにしな。あんたが魔法使いでないように、あたしは魔女でも何でもありはしない。
あたしの命を奪ってごらん。神様はきっとあなたに生き血をたっぷり飲ませる事だろうよ」
群れ集まっていた観衆はこの言葉を耳の底にしっかり刻み込んだ。
これから25年後ニコラス・ノイズが臨終の床にあったとき、喉が詰まって口からおびただしい血があふれ出た。
これを聞いたセイレムの人々はセアラ・グッドの祟りだと噂した。
1386年フランスのノルマンディ地方のファレーズで雄豚が赤子を噛み殺した事件が起きた。
その雄豚を裁判にかけ、死刑の判決を受けさせた。
死刑囚となった豚は、鼻を切落とされたうえ、人間の仮面をかぶせられた。
さらに服に合うように前足を多少切落とされ、上着を着せられた。
前足には手袋をはめられ、後足には半ズボンをはかせられた。
そのような姿で絞首台に吊り下げられて絶命した。
当時動物も処刑となる人間と同様に扱われていたから人間と同じ様に恩赦などで減刑を宣告されることもあった。
16世紀前半スイスに近いフランスのオータン司教区では、穀物を食い荒らす鼠たちが農民達に告訴された。
裁判所は鼠に通告し裁判所に出頭を命じたが鼠たちは公判を欠席した。
欠席裁判で敗訴となったが、鼠側の弁護人はおびただしい鼠では1回の召集状発令では、全ての鼠に届かない事、裁判所までの遠い道のりの間には猫が虎視眈々と狙っており、裁判所まで来るには容易ではないと言って裁判所に主張を認めさせた。

1685年にドイツのニュルンベルグの西にあるアンスバッハ市で市長が死亡した後に彼が人狼となって家畜を襲い、子女を襲って貪り食った。と言う事件が起きた。
事実はただの狼ではあったが市民はそう思い込んでその狼を殺害し、死体に人間の皮膚と同様にこしらえたピッタリとした皮を着せ、そのうえに市長が着ていたのと似た服を着せた。
頭には市長の髪型に似たこげ茶色のかつらをかぶせ、白い口髭をつけ、狼の鼻を削り取って、元市長の特徴をかたどった仮面をかぶせた。
そうしてから裁判所から死刑の判決を仰ぎ、絞首刑に処した。

これらの動物達はこのまま放置しておけば悪魔の介入を許してしまうと考えられていたため、処刑された家畜は食用とされずにきちんと埋葬された。
19世紀最大の霊媒師と言われるダニエル・D・ヒュームは1833年にスコットランドのエジンバラに生まれた。
彼の霊能力は並外れており、トランス状態になり重い家具などを宙にうかせて、それを又もとの位置に戻す事などをした。
交霊会では、必ず何か不思議な現象が起きた。
彼が一旦トランス状態に入ると、雷鳴がとどろくように床が振動したり、花瓶の中の水が噴水のように噴出したり、タンバリンが空中を泳いだりした。
そして、彼が19歳の時、絹商人のチェニイの自宅で交霊会を行なった時にテーブル実験
ラップ現象、トランペットの空中浮遊などを披露している時に突然、彼自身が宙に浮いた。
この時交霊会に超常現象に懐疑的な『ハートフォード』誌の編集長が来ており、彼はこの出来事をこう書いている。
「そこにいた人々は予想もしていなかったが、ヒュームが突然、空中に舞い上がったのだ。そのとき私は彼の手を握っていたが、あまりに驚いたので放してしまった。
すると次に彼の足が私の手にふれた。彼の足はなんと床から30cmのところに浮いていたのだ。
ヒュームといえば、喜びと恐れが入り混じった感情に身をふるわせ、声も出ないありさまだった。
一回、二回と彼の体は床からはなれ、三回目には天井までのぼり、手や足が天井に軽くふれた」
ヒュームは、一生の間に少なくとも1万回以上の交霊会を開いたがそれが他の霊媒師と異なるのは、他の霊媒師が固執するような暗がりのなかではなく、明るい光の下で行なわれた事である。
彼自身が「暗がりのある所にはごまかしの可能性がある」と言っていた。
ヒュームは「私が空中に浮かぶのは、目に見えない何者かが、私を上に引張あげてくれるからだ」と何かの霊の力であると主張していた。
しばしば彼の交霊会に出席したクルックス教授も何度か雲のようなモヤモヤしたものが何処からか現われ、しだいに固まり手の形になるのを見たという。
それは触ってみると冷やりとして、握ると向うからも生きているかのように握りかえしてきた。
けれど教授が握った手にギュッと力を入れるとスーッと消えていってしまったという。

"霊手"の出現はヒューム特異のレパートリーで、ナポレオン三世に招かれた時には、あのナポレオン・ボナパルトの手まで現われて、自分の名前をサインしたという。
さらにヒュームが霊を呼び出すと亡霊が姿を現して、霊界からの伝言を喋りだすのだが、この時部屋の中は真冬のように寒々としてきて、周囲の人々はガタガタ震えあがったともいう。
しかし、1872年彼は自分の能力が限界にきた事を感じて突然引退し、1886年53歳で、多くの謎を残したままこの世を去ってしまった。
世界一の悪女と言われているのはイタリアのカトリーヌ・ド・メディチである。
何しろ彼女の一存で殺された人の数は5万人とも10万人とも言われている。
カトリーヌは、メディチ家の政略結婚の為に13歳でイタリアからフランスのアンリ二世の元に嫁いだ。
アンリ2世はもともと容姿のパッとしなかった(かなりブスだったと云う説もあるが知性的な魅力に溢れていたとの説もある)カトリーヌを露骨に馬鹿にし、愛人であるディアーヌ・ド・ポワチエのもとに入り浸ってカトリーヌには見向きもしなかった。
彼女は今は、じっと耐えているしかないと思い目をつぶっていた。
しかし、思春期を過ぎて日一日と肉体が熟していく彼女にとってセックスなしの生活は絶えがたかったのか、お小姓の美少年や腰元の美少女達を縛りつけ鞭で打って喜んでいるとの噂がたったのもこの頃である。
この間彼女はメディチ家より妖術師、毒薬使いなどを密かに呼び寄せ、自分の腹心として脇にはべらせていた。
そうこうするうち、夫のアンリ二世が槍試合での事故で目を突き、世を去る。
この事故はノストラダムスが予言したと云う事でも有名だが、或いはカトリーヌが呼び寄せた妖術師の力が働いていたのかもしれない。
夫の死後よりいままでネコを被っておとなしくしていたカトリーヌは本性を表わす。
まず、ポワチエをはじめとする夫の愛人を全員追放し、15歳だった長男のフランソワ一世を王位に就ける。
だがこの長男は病弱で、しかも無能であり、カトリーヌの道具としてはどうも役に立ちそうになかった。
そのためか王位に就いて一年もしないうちにポックリ死んでしまう。
次に王位に就いたのは次男のシャルル九世。彼は兄と異なり明晰な頭脳と経験な信仰心をもった優秀な青年だったが、未だ幼すぎると云う理由でカトリーヌが摂政となって、実質にフランスの国政を取り仕切るようになる。
そしてカトリーヌは此処で本性を表わす。当時新教が勢力を得て、旧来のカトリックとの間に一種の宗教戦争があちこちで勃発していた。パリ市長を呼び出したカトリーヌは8月24日、聖バルテルミーの祭の日、新教徒達を全員虐殺するようにと軍に命令を下した。
これが有名なサン・バルテルミーの虐殺である。
パリの街は新教徒達の悲鳴と絶叫、そして断末魔の呻き声で溢れかえった。
銃声がとどろき、街路には新教徒達の死骸が山と積まれた。
逃げ惑う新教徒達を屋敷のベランダから狩りの様に狙い撃ちにするカトリック教徒もいた。
セーヌ川は血で染まり、歩いている人は殺されて窓から投げ落とされる新教徒の死体に当たらぬように用心せねばならないありさまだったという。

この大虐殺の詳報を宮殿の奥で聞きながら、カトリーヌは眉一つ動かさず、自分で作成した虐殺予定者リストと報告を冷静に検討していたと言われる。
彼女は冷静だったが、シャルルには相当堪えたと見えてその衝撃から人格が変わり、酒びたりの毎日を送るようになった。
それから暫く後、シャルルもまた24歳の若さで急死する。
兄と同様に王にふさわしくないという母親の判断で毒殺されたと密かに噂された。
続いて王座に就いたのは三男のアンリ三世だった。彼は生まれついてのホモで女装趣味があり、おまけに幼児殺害に興奮する異常性格者の持ち主だった。
カトリーヌはこのアンリ三世を王位に就けてからほどなく、70歳の生涯を閉じる。
アンリがその同性愛の趣味を改めようとしなかったため、傷心のあまり死期を早めたと言われるが、彼女の性格を考えればちょっと信じがたい。
兄達の運命を見ていたアンリが、逆に母を毒殺したとも言われている。
いずれにしても十万の新教徒を殺害した事を彼女は後悔するどころか、一生を通じて最も誇らしい事業として自画自賛しながら死んでいった。
1892年の夏フランスの歴史学者ルノートルはふとしたことからテオドール・ティフローという奇妙な老人と知り合った。
その老人、テオドールは自分が作った黄金として10グラムほどの黄金の塊をみせた。
テオドールの話によるとこの最初の10グラムが成功したもののそれいらい、二度と成功しないというのであった。
1845年28歳のテオドールはナントの専門学校で化学の実験助手として働いていた。
ある日彼は、メキシコに研究旅行を行い、メキシコ各地の鉱山を訪れ、地層を調べたり、標本を集めたり、鉱山で働く坑夫に直接話を聞き、それらをもとに論文を書こうと思っていた。
ある時、一人の砂金採集人がテオドールに川で見つけたばかりの小さな金塊を見て、
「ほら見ろよ、こいつはよく熟しているぜ!」といった。
よく訪ねてみると彼らは黄金になりきってない物は川に捨て、丁度良い加減に熟した黄金のみを採取するというのである。
それから、出遭う採取人事に聞いても同じ答えが返ってきた。
つまり「黄金は、よく熟すまで待たねばならない」と言うのだ。

そこでテオドールはもしかしたら鉱物も植物や動物などと同じ様に成熟するものかもしれないと考えた。
それならその証拠として"熟していない"黄金をどうしても見てみたくなった。
そこで採取人に数週間観察したが、"熟していない"黄金はいつまでたっても見ることは出来なかった。
そこで、彼らにからかわれていると思ったテオドールは黄金採取人に別れをつげて、旅を続けた。
ところが、数週間後、硫黄温泉近くのゴンザレスの銀山を訪れた時、テオドールは鉱石片のなかに、ところどころ錆びているものが混じっているのに気づいた。
持ち帰って調べると、それは酸化作用の所為ではなくて、まぎれも無い金属変化によるものであることがわかった。
これが"熟していない"黄金であろうと思い、俄然興味をもちだした。
ホテルに急ごしらえの実験室を作ると銀山で見た現象を人工的に作り出そうとした。
合計10グラムの銀と銅をヤスリで削って細かい粉にして、これを小瓶に入れて亜硫酸をそそぎ、窓の日当たりのいい場所に置いたのだ。

変化はすぐに起こった。
亜硫酸ガスが大量に発生し、小瓶の底に黒い沈殿物が溜まったのだ。
つぎにテオドールは別な方法もやってみた。
銀と銅のヤスリクズに蒸留水を加え、これを瓶に入れ、ガスコンロで沸騰させるのだ。
水が全部蒸発してしまうと、すぐに沸騰した亜硫酸をそそぐ。
ガスが発生し、それが消えると瓶の底に何か黒いつやの無い物質が出来ていた。
がっかりしたテオドールは、結局、実験をそこで中止して、又旅をつづけた。
2週間ほどあちこち鉱山を見て回り、もとのホテルに戻ってくると窓の近くに放ったらかししておいた瓶には相変わらず黒い物質が溜まっていた。
何の進歩も見られないので、捨ててしまおうかとも思ったが、もう少し待って見ようとそれから2日ぐらいたったころ、何気無く小瓶に目をやった時、黒い物質に緑色のシミが現われていたのだ。
それから数日後には、物質全体がすっかり緑色になっていた。
そしてさらに24時間後、それは褐色がかった黄色に、それから明るい黄色に変わり、そしてとうとう・・・なんと黄金色に変化した。

まだ、半信半疑だった彼は、その夕方実験の成果を金銀細工の店で鑑定してもらうと、何処の店にいっても正真正銘間違いなく純金ですという答えが返ってくる。
数週間後、テオドールは自分が作った10グラムの黄金をスーツケースに入れ、祖国フランスへの帰途についた。
そして、フランスに戻ると大量の銀と銅と亜硫酸を買い込んだ。
そして、同じ様に実験を行なったが最初は順調にすすみ17日目には緑色の物質が出来、それはやがて褐色がかった黄色にかわったが、それ以上は変色しなかった。
なんとそれは黄金ではなく銅だった。もしかしたら銀と銅の配合を間違えたのかも
もう一度実験を最初から行なったが何度やっても黄金は出来なかった。
失敗の原因を何度もかんがえたが、きっとフランスの気候風土が金属変化に向いていないのかもしれない・・・
多分、メキシコのような熱帯気候と熱い太陽が黄金変成には必要なのこも知れない。
そう思ったテオドールはメキシコ行きの資金援助を集め始めた。

しかし、誰もが馬鹿にして相手にしてくれない。テオドールはアルバイトでなにがしかかの金を稼ぎ、それで実験結果をパンフレットにして自費出版した。それが話題になり、マスコミの連中がインタビューにやってきた。
そして1889年国際博覧会の事務局が、新しく出来たエッフェル塔近くの展示会場にテオドールが造った10グラムの黄金を展示してくれるというのである。
これぞ絶好のチャンスとばかりに張り切ったが、見物人はそれに何の関心も示さずに、ただケースの前を通り過ぎるだけである。
あまりのことにテオドールは開いた口がふさがらなかった。
展覧会が終った時彼に残されたのは苦い絶望感だけだった。
こうしてテオドールの黄金変成の話は、次第に人々から忘れられていった。
その後もテオドールはただ一度の夢が忘れられず、極貧の中で死ぬまで実験を続けたが、とうとう二度とその手で黄金を作り出すことは出来なかった。
しかし、彼が作ったという10グラムの黄金の塊はいまもなお、歴然たる証拠として存在している。
14世紀後半のパリ、エクリヴァン街のサン・ジャック・ラ・ブーシュリー教会の隣にニコラ・フラメルという書籍販売業者がいた。
とくに普通と変わった事などない小柄でパッとしない老人だった。
1330年にポントワーズに生まれたフラメルは、13歳のときパリについた。
挿絵画家のゴベールのもとで学んだ後、ラテン語の熟を開く傍ら、祈祷書の写本販売業をいとなむようになった。
当時のパリは、百年戦争やペストの流行で不穏な空気がただよっていた。
追剥事件が頻発し、サン・セヴラン寺院で聖母の像が血の涙を流したり、死んだ男に聖水を振り掛けると生き返ったりなどという、超常現象がいくつも起こった。
1357年のある夜、フラメルは奇妙な夢を見た。夢の中に天使が現われて、一冊の本を差し出してこう言った。
「この本を見よ。これはお前にも、他の誰にも理解することの出来ない本だ。
しかし、お前はいつの日か、他の誰にも分からない秘密をここから発見するだろう」

数日後、一人の男がふらりとフラメルの店を訪れた。彼はフラメルにこの間夢で見たのと瓜二つの本を見せて、売り渡した。
それは、古い分厚い手稿本で、なにかやわらかい若木の樹皮に書かれていた。
フラメルには全く理解できない、古代言語がぎっしり書かれていて、どのページも錬金術らしい奇妙な記号や用語でいっぱいだった。
フラメルはその本を熱心にめくってみたが、読めば読むほど何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。
最初のページには金文字のラテン語の序文があり、この本はユダヤ人の始祖アブラハムによって書かれたもので
「屠殺人と公証人をのぞいて」これを読んだ者は呪われるだろうと書かれていた。
20数年の月日をかけたが書物の解読は依然として進まなかった。ある日のこと彼はふと
この本がユダヤ人の始祖アブラハムに書かれたものなら、もしかしてユダヤ人なら読めるかもしれないと考え、妻に留守をまかせてスペインへの巡礼を口実にユダヤ人学者の多いスペインへと旅立った。
スペインに着いてユダヤ教の礼拝堂を足しげく訪れて、例の書物の事を聞いてみたがなんの効果も得られなかった。
がっかりしたフラメルは帰途についたが、帰りの旅でマイトル・カンチェスという改宗したユダヤ人のカバラ学者にあった。
彼は医師でもあり貧民を無料で治療しいて彼の住む町では尊敬されていた。
フラメルは例の書物の中から絵図の写しを見せるとカンチェスは急に目を輝かせて身を乗り出してきた。

「それはきっと、ラビ・アブラハムの『アッシュ・メザレフ』に違いありません。
カバリスト達が、もう数百年に失われてしまったと諦めている物です。」
話はとんとん拍子にまとまり、カンチェスはその書物を自分の目で見るため、フラメルについて パリまで着いて行く事になった。パリまでの道中の間、カンチェスは練金術について 自分が知っている限りの事をフラメルにさずけた。
ところがカンチェスは高齢の上に旅の疲れが重なって、途中のオルレアンで病気になってしまいあえなく世を去ってしまった。
死の直前にカンチェスはフラメルに卑金属を金や銀に変えることのできる"賢者の石"の秘密を教えたという。
こうして"賢者の石"の秘密はカンチェスからフラメルに受け継がれたのだ。
当時、セーヌ河の水にユダヤ人が毒を投げ入れたという噂が立ち、大量のユダヤ人が投獄されたり、殺されたりする事件が起きていた。
危険が迫るのを感じた隣家のユダヤ人シモンがドイツへ逃げる際に迫害者達に奪われないようにと持っていた財産を親ユダヤ人であるフラメルに預けに来た。
それと前後して、フラメルは錬金術に成功したらしい。
1382年1月17日正午頃、妻ペンネルの前でついに一塊の銀を火の中から取り出して見せた。
半ポンドの水銀を純銀に変える実験に成功したのだ。
さらにそれから3ヵ月後の4月には半ポンドの水銀を純金に変えることに成功した。

フラメルが実験に成功している間にもユダヤ人迫害は続いており、ユダヤ人は次々と亡命したり殺されたりしていた。
そしてそのたびに親ユダヤ人として名高かったフラメルのもとに、つぎつぎとユダヤ人達の財宝や遺産が持ち込まれたらしいのだ。
そのせいかどうか、このころからフラメル夫妻はパリ市内の数軒の教会に寄付を行なっている。
急速にフラメル家が裕福になったのは確かだが、それが練金術のおかげだったのか、それとも亡命ユダヤ人たちから譲られた遺産のおかげだったのかは分からない。
フラメルが練金術を行なっているという噂が広まると、金の造出にあやかろうとする者も現われた。
その筆頭がフランス国王で1400年初頭、請願書審理官クラモワジが王命によってフラメルの家を捜査した。
しかし、クラモワジが見たフラメル夫妻の生活は予想に反してひどく質素なものだった。
食事は野菜と粥だけの質素な食事を土器で食べるというもので、とうてい練金術を使って好きなだけ金を作り出している人間とは思えなかった。
ニコラ・フラメルは1417年、90歳近くで世を去り、遺骸は聖ジャック教会の聖クレメンス礼拝堂に葬られた。
妻はすでに死んでいたので遺産は数軒の教会に寄進され、遺著は甥の一人に継承された。
何代かあとに、フラメルの子孫であるデュ・ペランという医師が、ルイ13世の為に金粉を造ったという話が伝えられている。
1937年7月のある午後、ジャック・ベルジェは師ヘルブロンナーの使いでパリのガス会社の実験室に出かけ、そこで一人の不思議な人物と出会った。ベルジェは、その男の顔がどこか普通ではないことに気づいた。
男の顔はまるで大理石のように無表情で、そして奇妙にも、見る角度によって老人のようにも若い娘のようにも見えるのだ。最初に口を切ったのは、その男だった。
「あなたは、アンドレ・ヘルブロンナー博士の助手だそうですね」ベルジェがうなずくと
「あなたがたは核エネルギーを研究していられますね。しかも成功を目前にしていられるようだ。
しかし、あなた方が進められている研究は、大きな危険をはらんでます。それもあなた方とってだけでなく、全人類にとっての危険なのです。
核エネルギーの開放は、実はあなた方が想像するよりずっと容易な事です。
ただ、そうやって作り出された人工放射能は、数年後には地球を完全に汚染してしまいます。
さらにごく数グラムの金属から作られる原子爆弾は、数個の都市を同時に破壊してしまうほどのエネルギーを持っているのです。
これは練金術師なら、誰でも昔から持っている知識です」男はそう言って、机上にあったフレデリック・ソディの『ラジウムの解釈』という本を手にとると、アトランティス文明が原子放射能によって破壊された事をほのめかす下りを声にして読み上げた。

「私は太古の昔、すでに原子エネルギーを駆使していた文明が、エネルギーを誤った目的に用いられた為、滅びてしまった事を知っている。
そもそも近代物理学は18世紀、一部の王侯貴族や自由思想化達の遊びのなかから生まれたものです。
だからそれは、きわめて危険な学問なのです」若いベルジェは興味をそそられて、こう問い返した。
「あなたは、錬金術の事を言っていられるのですね。
あなたご自身は、その古代の知恵を用いて黄金を作り出した事がおありなのですか?」男はベルジェを見てニヤリと笑った。
「どうやらあなたは、私が生涯を賭けて追求してきた学問に興味がおありのようだ。
しかし、それをほんの数分間で、誰にも分かる言葉で話すなど、とても不可能です。
もし知りたいなら、あなた自身が時をかけて研究するほかないでしょう」
「しかし、賢者の石はどうなんですか。それによる黄金の製造は?」
「それは応用の一つに過ぎません。重要なのは金属の変成ではなく、練金術師その人の変容なのです。
これは古代から受け継がれた神秘で、1世紀に、ほんの2,3人しか成功できないものです」
そう言うと男は突然夕闇のなかにスーッと吸い込まれるように姿をけしてしまった。

たった今起こった事がすべて夢だったかのような思いにかられて、ベルジェはそのあとに呆然と立ち尽くした。
ベルジェ自身は、名前も言わずに消えてしまったこの男の事を、いつかすっかり忘れてしまった。
第2次大戦が始まり、ドイツ占領下にあるフランスでベルジェはナチス・ドイツへの抵抗運動に参加していた。
そんなある日、原子物理学者として有名になっていた彼のもとに、ドイツが計画中の原爆開発計画をさぐる連合諜報部から、こんな依頼がとどいた。
練金術師フルカネッリなる人物と接触して"金属変成のある方法"をつきとめてくれというのだ。
渡されたフルカネッリの肖像画を見たベルジェはビックリした。それこそ8年前にガス会社の研究室で会ったあの不思議な男だったのだ。
フルカネッリとの再会はベルジェの人生観を大きく変えた。
彼は原子物理学に疑問を抱くようになり、第2次大戦後は、練金術の研究に熱心に取り組むようになった。
現代では、この分野に世界に名をとどろかせる研究家である。
フランスでは、フルカネッリの名は、すでに16世紀から文献に現われている。
べりジェの話が本当ならフルカネッリは何百年も生きていた事になる。

フルカネッリは最近は、フルカネルリと記されるほうが多いみたいですね。
私が持っている本にはフルカネッリと記されていたもので。
スペルは、どうなんでしょうか。

彼は、1926年に『大聖堂の秘密』という奇書をパリで出版して有名になった。
ジャック・ベルジェのベストセラー『魔術師の朝』で大きくとりあげられたのもフルカネッリの名をフランス中に知れ渡らせる原因となった。
当時フランス最高の電子工学者のアンドレ・ヘルブロンナーの弟子の中に一人の天才的な練金術師がいたが、その男はフルカネッリというペンネームで『賢者の住居』と『大聖堂の秘密』という奇書を発表した後、世俗との関係をすべて断ち切って、突然何処かに姿を消してしまった。

フルカネッリが出版した『大聖堂の秘密』は彼の弟子を自称する、ユージェーヌ・カンセリエなる人物が編纂したものであるが、カンセリエによると、彼自身も師フルカネッリから"金属変成の粉"なるものを少し分けてもらい、自分もそれを用いて鉛を黄金に変成したことが在るとの事である。
カンセリエによるとフルカネッリは裕福なブルジョワの家に生まれ、最初の頃はごく普通の家庭をいとなんでいた。しかし、あるとき練金術師による神秘的変容を遂げてしまうと世間との一切のつながりを断ち切って、突然どこかに姿を消してしまったのだ。
フルカネッリが姿を消してから30年後に、カンセリエは一度だけ彼に再会した事がある。
そのときフルカネッリは奇妙な事に、30年前より逆に30歳若返って見え、しかも女のような外観をしていたという。
師フルカネッリから連絡を受けたカンセリエは、指定された山の中の古い城館に出向いた。
そこでフルカネッリに丁重に迎えられ、一室を与えられた。数日後の早朝、カンセリエは階段を降りて中庭に散歩に出ようとした。するとその時、中庭に16世紀の服装をした女性が三人見えた。
そのうちの一人が歩きながらこちらを振り向いた時、彼はそれがフルカネッリであるのをみとめたという。
「世界リンチ残酷史」より
ローマ皇帝マクセンティウスの時、伝説上の受難者とされているカタリナは、エジプトのアレクサンドリアに住み、キリスト教を信仰する王族の若く美しい女性であった。彼女が公然とローマ皇帝を非難していたので皇帝は五十人の哲学者を送り込んで論戦を挑んだが、帰って彼女に論破され、五十人の哲学者たちはキリスト教に改宗してしまった。
皇帝はこの敗北を認めた五十人の哲学者を捕えて火刑にしてしまった。
マクセンティウスは結婚を申し込んで懐柔しようと図ったが、彼女はキリストと婚約していると言って煙に巻いて断った。
ついに皇帝は実力行使に出た。彼女を捕えて牢獄に下し、拷問吏たちに長期にわたる鞭打ちを命じた。
彼女の豊かな尻や背中に朱のような線が走っていったが、改心させることはできなかった。
それどころか、警備をしていた兵士たち二百人がキリスト教に改宗してしまう事態に至った。
そしていつの間にか、皇帝の后までもがその仲間に加わっていたのであった。自分の足下こそが危ういことに皇帝は気付いた。
一刻の猶予もならない。
皇帝は、車輪の横に釘が突き出た拷問具の間にカタリナを引き据え車輪を回して大根すりのように引き裂いて処刑することに決めた。
こうすれば、釘を打ち込むよりさらに悲惨な状況が出現するはずであった。
処刑当日、野次馬が取り囲む中で車輪が回されたが突然車輪が壊れて周囲の観衆を負傷させてしまった。
皇帝はそれを知って失望したが、待つことは出来なかった。
彼女はその場で斬首によって処刑され、醜い姿にならずに絶命した。
『脳天気教養図鑑』―唐沢商会著―より・・・もとネタは中国の「捜神記」

シンセンという男が曲阿県に住んでいたが、ある時鼻の穴から蛇が脳の中にはいってしまった。
脳の中でゴソゴソと何か食べる音がする。
二、三日たって蛇は出て行ったがしばらくするとまたもどってきて頭の中にはいる。
それで何年もたったがシンセンは頭がうっとしいだけで別に大した病気にもかからなかった。
唐の玄宗皇帝が病気で寝ていると片足だけ靴を履いて、赤い褌を締めた小鬼が現われた。
小鬼は御殿の中を歩き回って、玄宗をからかった。玄宗が小鬼をとがめると
「私は他人のものを盗んでふざけ、人の憂いをつくって喜ぶ虚耗(きょこう)というものですよ」と答えた。
玄宗は警護の兵を呼んでこれを捕えようとしたが、突然巨大な鬼が現われて、虚耗を捕えて食べてしまった。
びっくりした玄宗が「お前はなにものだ」とたずねると、
鬼は「私は科挙に落ちて故郷に帰れず、宮中の階段に頭をぶつけて自殺した鍾馗(しょうき)というものです。
陛下が手厚く葬ってくださいましたので、御恩に報いるために参上いたしました」と答えた。
ふと玄宗が夢から覚めると病気はすっかり治っていた。玄宗は喜んで絵師に鍾馗の絵を描かせた。
また、鍾馗は邪気を払い妖気をしずめる力のある者だから、各屋で除夜にその絵姿を貼るようにと命じた。
1685年にドイツのニュールンベルグの西にあるアンスバッハ市で、市長が死亡した後に彼が人狼となって家畜を襲い、子女を襲って貪り食ったと言う事件が起きた。
実際は、ただの狼であったが、少なくとも市民はそう考え、その狼を殺害し、狼の死体に人間の皮膚と同様にこしらえたピッタリした皮を着せ、その上に市長が着ていたのと似た服を着せた。
頭には市長の頭髪に似たこげ茶色のかつらをかぶせ、白い口髭をつけ、狼の鼻を削り取って元市長の特徴をかたどった仮面をかぶせた。
そうしてから裁判所から死刑の判決を仰ぎ、絞首刑に処した。
オーストリアの作曲家シェーンベルグは、ナチスに追われてアメリカに亡命してカルフォルニアのハリウッドに住んだが十三という数字を異常に恐怖していた。
かねてから心臓が悪く、自分はきっと十三日に死ぬだろうと信じ、毎月十三日が来ると不安におびえ、十三日の夜は妻がそばに座って手を握っていてらやなくてはならないほどだった。
1951年七月十三日の夜夫妻はいつものように二人でじっと座っていた。
そして時計が午前零時になったので、シェーンベルグは安心して二階の寝室に上がっていった。
妻は台所に行って催眠用の飲物を作り、しばらくして寝室に上がってみるとシェーンベルグは手折れて死んでいた。
妻はビックリして寝室の時計を見た。するとその時計はまだ零時になっていなかった。
階下の時計は何分か進んでいたのであった。
イギリス人の学校教師ユージン・アラムは、多額の持参金を持ってきたという靴屋の話を妻から聞いて彼を殺害したが、死体が発見されても当局から怪しまれる事は無かった。
しかし、寝言で夫の犯行を知った彼の妻は当局に密告してしまった。
彼は10cmほどの鉄板を縦横に張りめぐらして作られた鉄の吊り篭に立ったまま入れられて、そのまま朽ち果てる刑に処された。
彼は何日も喉の渇きと飢餓に苦しんだあげく、やがて動かなくなった。
妻はその下に毎日通いつめ、夫の体が腐ってやがて干からびて骨だけになるのを見続けた。
そして落ちてくる骨を拾い集めては、観光客の記念品として売って生活の足しにしていた。
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