File No.026 伝説または逸話

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これぞフォークロアみたいな好爺氏の話が面白かったので、まとめさせて頂きました。
十字架上のキリストのわき腹をついたロンギヌスの眼にキリストの血が飛び込んできた。
すると、ロンギヌスがそれまで患っていた眼病が治ってしまった。
その事に感動したロンギヌスは、騎士をやめキリスト教に改宗した。
その後、カッパドキアで修道士として28年暮らしたが、一部の反対者に密告され処刑された。

その後、彼の殉職を記念して建てられた聖ロンギヌス教会で神に捧げるパンが肉に、赤葡萄酒が血に変化するという奇跡が起きたと言う。

パラケルススの"ホムンクルス"の伝説
製造法は、男性の精液をレトルトに入れて密封して生きた馬の子宮の中に置く。
温かい子宮の中で精液はまもなく生動しはじめる。
40日後にいよいよ人間らしき形のものが現れるが、それは透明でまだほとんど実体がない。
これを人間の血の中で40週間、馬の胎内と同じ温度で養うと小さな人造人間"ホムンクルス"が誕生する。
伝説によればパラケルススは自分の精液を用いて、実際に造ったという。

パラケルススは大法螺も吹きまくった一方で医者として奇跡の治療を行なったエピソードも多い。
1526年スイス、バーゼルで他の医者が足の切断を提案するほどの疾患を持った男の足を切断することなく治療したり、街中の医師が見放した少女(生まれつき体が麻痺していた)を歩けるまでに治療したりしてた。
1527年にはスイスのバーゼルに医師兼医学教授と言う名誉ある地位で招かれた。
彼の代表作でもある『大外科学』第一部、第二部は数ヶ月もたたぬうちに売り尽くした。
ただそれと同時に予言書をだしたり、大学と喧嘩をしたりとか・・・。
結局、教授職も捨てる事になる。
こう云う素地が"ホムンクルス"の伝説を生むのです。

ただの馬鹿の独り言ではないのです。

パラケルススは死後蘇生術を実験してたとの伝説がある。
自らの死期が迫ったことを予感した彼は、助手に霊薬を渡し、自分の死後
その死体を細かく刻んでこの薬にまぶし、それを容器に密封して九カ月後に開くように命じた。
死後、助手はそのとおりにしたのだが、好奇心から七カ月後に容器の蓋を開けてしまった。
中を覗くと容器の底には小さな胎児のようなものが蠢いていたが、外気に触れた為に絶命してしまったと云う。

1534年ごろ、パラケルススがインスブルック郊外の森を歩いているとどこからか彼を呼ぶ声がした。
「カシの実を閉じ込められているんだ。頼むから出してくれよ」
見ると、傍らの大きなカシの木に三つの十字架で封印された小さな実がかかっている。
なんと哀れにも、悪魔がその中に閉じ込められているのだ。
パラケルススは、悪魔を助けてやるお返しとして「あらゆる病を治せる薬」と「すべてのものを黄金に変えられる秘薬」を要求した。
悪魔が同意すると、彼はメスでカシの実の封印を解いてやった。
彼があとずさりして何が起こるか待ち受けていると、一匹の蜘蛛が穴から這い出してきて苔の上に落ちた。
その直後、蜘蛛の姿は消え、あとには痩せこけてしかめっ面をした悪魔が立っていた。
悪魔がハシバミの枝を折って岩に叩きつけると、岩は真っ二つに割れ、その裂け目の中から二つの小瓶が現われた。
「黄色いのうが黄金製造剤、白いほうが万能薬だ」
悪魔はそういうと、パラケルススにこれから自分を封じた悪魔払い師に復讐をしにいくが一緒に行かないかと持ちかけた。
しかし、パラケルススはこう言った。
「悪魔払い師は、お前をこんな穴の中に閉じ込められるほどの能力の持ち主だ。
だが、お前の力では、小さな蜘蛛に変身して、この穴にもぐりこむような真似はとうてい出来ないたろう?」彼がけしかけると、悪魔はみるみる小さくなって、再びカシの実にもぐりこんでしまた。
それを見たパラケルススはさっさと穴を封印して十字架を刻んでから、その場を立ち去っていった。
騙された悪魔が助けを求めて泣き叫ぶ声を後ろに聞きながら・・・。
19世紀初めバイエルンの通りにボウボウの髪に泥だらけの服と言う格好で酒に酔ったようにふらふらと歩く奇妙な少年が発見された。
やがて彼は警察に預けられた。
言葉は片言で名前を聞くと「カスパール・ハウザー(カスパー・ハウザー)」と答えた。
16歳にしてはあまりにも無知であったが、ニュールンベルクの名士であるダウマー教授に預けられるて教育をうけると数ヵ月後には読み書きや計算は言うに及ばずピアノを弾けるようになでなった。
しかし、1年後に黒い覆面の男に襲われ、表れてから5年後の1833年12月14日何者かに襲われて命を落した。
各地で彼の出生や生い立ちを調べたが未だになにもわかっていない。
彼の名前をとって"ひきこもり"を『カスパール・ハウザー症候群』という。
伝説として書くにはあまりにも有名な呪われたホープのダイヤ
最後の持ち主は事業に失敗して破産寸前になりその呪われたダイヤをスミソニアン博物館に寄付した。
『そのためイギリスは呪われた。』は有名なジョークだがスミソニアン博物館に寄付する時ダイヤを普通小包郵便で送りつけた。
ダイヤの横にはその小包も展示してある。
1885年ピレネー山脈のフランス側に位置するレンヌ・ル・シャトーという寒村にソニエールという司祭が赴任してきた。
彼は大変貧しかった。
ところが、1891年教会の祭壇を修復する途中、柱の中から木製の筒に入った文書を発見し、その文章を解読した後、祭壇の下の石板をはずすと宝がぎっしり詰まった壷を発見して一躍大金持ちとなった。
その金額がどれほどかは不明であるがパリの銀行が司祭の為だけに村に連絡員を駐在させたくらいだった。
司祭は、村人の為に道や水道を整備し、教会を改装して自分自身は別荘を建てたりした。
しかし、司祭は金の出所については一切口をつぐんだ。
噂は噂を呼び、テンプル騎士団の財宝を手にしたのだとか、キリスト教カタリ派が隠した財宝であるとか噂された。中には財宝ではなく、鉛を金に変える賢者の石を手にしていたと噂す者もいた。
1917年彼は息を引き取る直前、隣の教区の神父を呼び、最後の告白をした。
部屋から出た神父は顔面蒼白となり、告白内容があまりにも衝撃的だった為笑顔を失ったとの記録がある。
だが、その告白内容についての記載はない。

最も有力な説は、テンプル騎士団の財宝説である。
その理由は、木製の筒の中の文章を見つけた後に有名な音楽家ドビュッシーに出会っている事である。
ドビッシューはテンプル騎士団の残党による秘密結社の一人とも言われているからである。
ちなみにテンプル騎士団とはキリスト巡礼者を警護する為に12世紀に結成され、巡礼者からの寄付により、巨万の富を蓄えたとされる組織である。
次はキリスト教カタリ派の物ではないかとの説である。
言い伝えによるとカタリ派はキリストが磔刑になったことを信じなかったために、強行に抹殺されかかり、難をのがれた4人が大量の財宝を持って姿を消したと言われている。
又この司祭以外に古来から大量の金貨が発見されたとの噂や20kgもの金の延べ棒や、大きな黄金の像のかけらが発見されてもいる。
18世紀のヨーロッパで宮廷に自由に出入りし、社交界で人気を集めていたカリオストロ伯と云う男がいた。
彼は、交霊術、魔術、予言などを行い錬金術で非金属を金に変え、ペテルブルグではロシア皇帝の侍医さえ見放した病気を治したという。
また、この男はマリー・アントワネットの男子出産を予言し的中させたという。

カリオストロ伯は、パリのタンブル地区で数多くの病人達を治療したが、相手が金持ちだろうと貧乏人だろうと一切治療費を取らなかった。
病人の脈を取りながらその人が患った病名を過去にまで遡って当て、予防法や治療法を教えていた。
その処方箋は、植物の樹皮や根を配合した物であったと言うが、彼自身は医学的知識はゼロに近かったというから不思議という意外に言いようがない。

カリオストロ伯の不思議な事はもう一つあって、有力者とは関係をもたず銀行や手形ともまるで縁はなく、生まれもシチリア島の貧しい商人の生まれでありながら、おそろしく金を持っていたということである。
贅沢三昧を続け、召使いまで侍らせていた資金源が何処にあったのかは、不明である。
彼は、マリーアントワネットの首飾り事件という詐欺事件に巻き込まれ、バスティーユに投獄され、何とか無罪は勝ち取るものの、フランスを逃げ出す事になる。
以後は落ち目の人生をたどり、1795年イタリアのサンレオ要塞で獄死する事となる。
1900年7月イタリア国王ウンベルト一世はモンツァ市の小奇麗なレストランで食事をしている時にレストランの主人が自分とそっくりなのに気がついた。
近くに呼びはな死をすると似ているのは顔だけでない事に驚いた。
名前、生年月日、出身地、結婚した日、妻の名前、子供の名前まで同じであった。
しかも、彼がレストランを開いた日が自分が王位についた日と同じであったのに気を良くして次の日の競技会に一緒に観る事を約束した。
次の日になかなかレストランの主人が来ないのを不審に思い侍従に迎えに行かせた。
侍従が戻ってくると彼が自分の銃を掃除している最中に事故で亡くなった事を告げた。
ウンベルト一世はあまりの事にガックリし葬式の花を贈ることを頼んでいる最中に暗殺者によって射殺された。

19世紀にイギリス中を震撼させた"ばね足ジャック"と云う犯罪者がいた。
被害者や目撃者の証言によると彼はマントをはおり、角の生えたヘルメット(もしくは帽子)を被り、表情は人間の物とは思えず瞳はまるで火の玉のように光り、手は氷のように冷たく、鋭いカギ爪形をしていたと言う。
それだけでも不気味であるが口からは青い炎や白い炎を吐き出したと言われている。
彼は夜の闇から突如として飛び出しては人々を襲い、時には脅かし、時には乱暴して、あっという間にたかい塀を飛び越えて屋根に飛び移り、人間とは思えぬ身軽さで、逃げさてしまうのである。
その並外れた跳躍力と身のこなしから、悪魔か怪人の仕業と恐れられていた。
襲われた番兵が発砲した時には銃を放っても軽々と逃げおおせたからジャックは不死身だともささやかれた。
第一次世界大戦中ベルギー造船中のUボートの一台U-65の船体に巨大な鉄材を取り付けていたとき、鉄材が突然落下して2人の作業員を無残にも押しつぶした。
この事件は原因もわからず、作業中の事故ということで処理されU-65は最終整備にまわされた。
その最終整備で作業員三人が機関室に閉じ込められ死亡した。
さらに、潜水テストを行なう直前に各所の点検を命じられた作業員がふらふらと海中に落ち、二度と姿を現さなかった。
これほど事件が続いていても少しでも戦力の欲しかった為U-65は戦闘にかりだされた。
初仕事のパトロール航海を終えて帰港して食料や弾薬を詰め替えている最中に突然、弾頭が爆発して5人の作業員が犠牲となった。
その中に「シュヴァルツェ(黒い奴)」というあだなの2等航海士が含まれていたが、その後たびたびU65に姿を現すことになった。
それ以降U65は敵艦を撃沈するなどのいくつかの功績をあげながらも、「シュヴァルツェ」の幽霊が出るとの噂が絶えなかった。
幽霊騒動のほかにも、艦長が飛んできた爆弾の破片によって首をもぎ取られた。
一人の魚雷砲手は正気を失って海に身を投げた。機関主任は滑って脚の骨を折り、砲兵の一人が波にさらわれて海に消えた。
奇妙な事件を起こし続けたこのUボートは、敵のアメリカ軍の潜水艦の眼の前でいきなり大爆発して海に沈んだ。
1930年11月カナダのチャーチルから500マイル北にあるイヌイットの村で30人の村人全員がいなくなると言う事件が起きた。
もぬけの殻になったテントや小屋を調べると火を使った跡には手付かずの食べ物がたくさんかけられて、ドアの横にはライフル銃が立てかけられていた。
食器に残っていた穀類を調べると彼らがいなくなってから2ヶ月は経っており、さらに村から100ヤードほど離れた場所では7匹の犬が飢死にしており、村のそばの墓地では墓が暴かれて遺体が運び去られていた。
襲撃の後もなく、ライフルも犬も置き去りにしながらなぜ遺体のみを持ち出したのか全く理由のつけようもなかったが、ツンドラを越えたのではないかと判断され、捜索隊が出されたが足跡一つ発見できなかった。
アブラハム・ジョンソン博士が或る日、或る名家の若い娘を診察にゆくと若い娘は妊娠していた。
両親は家の恥だと悩んでいたが娘は自分が絶対に処女であり、恥ずかしい事は何もしていないと主張して譲らなかった。
博士はこの娘の真剣さに思わずほろりとして交合なしでも妊娠する場合があることを証明してやろうと思った。
博士は苦難の末"女性を受胎させる有機体の分子"を採取する為の機械を作った。
博士は一人の小間使いを実験台にする事にした。
彼女の口から例の分子入りのスープを慎重に飲ませた。
それから病気という口実で、彼女を修道院に監禁した。
彼女のそばには牡の犬さえ近づけなかった。
やがて彼女に妊娠の徴候が現れた。
すると彼女は博士に告白した「実は3年前ある牧師に誘惑された事があります。」これで実験の結果の子供である事が判明したので博士はその子供が生まれると自分の子供として認知した。

1637年4年間も夫と離れていたのに男の子を産んだマドレーヌは姦通罪で起訴された。
彼女の供述では『夢の中に夫が出てきてまるで現実と変わらない愛撫をくわえたので、確かに自分でも妊娠したという感覚を味わった』と言った。
裁判所はこの供述を全面的に信用して無罪となった。
このときのモンペリエ大学の医者たちの意見は、『おそらく夫人の夢見た夏の夜で部屋の窓は開け放たれ、彼女の夜具は乱れていて、そこへ西風が吹いてきて、空気中を漂う小さな人間の胎児を彼女の体内に送り込み、彼女を受胎させたのである』
当時は西風が雌を受胎させる"有機体の分子"を運んでいると思われていた。
当時は科学者もロマンティクだったんですね。
オカルトとは少しずれるけど面白い話なので・・・。
1935年ニューヨークの近代美術館でゴッホの大展覧会が行なわれた。
その頃、ゴッホはまだ今ほど有名でなくゴッホの作品よりもむしろ例の耳切事件などをはじめとするこの作家の狂気のエピソードに猟奇的興味を寄せているにすぎなかった。
そのため展覧会には連日のごとく人々が大挙して詰め掛けたが、壁にかけている絵よりも『ゴッホの自ら切断した耳』に殺到していた。
だがそれは、無論本物ではなくヒュー・トロイと言う男の作った偽物であった。
『チュイルリー宮殿の赤い男』と呼ばれている赤い服の男がいる。
彼は、チュイルリー宮殿の主に良くない事が起きる前に現れると言う。
アンリ四世の時は暗殺される日の早朝に現れ、マリー・アントワネットはフランス革命の前夜にこの赤い服の男と会っている。
ナポレオンは、この赤い服の男と会話した数ヵ月後にエルバ島へ流された。

この赤い服の男は、"サン・ジェルマン伯爵"ではないかといわれている。

1750年頃ルイ15世に在オーストリア大使のベイアイル元帥がサン・ジェルマンと名乗る不思議な男がフランスに来ているので一度宮廷に招いてみたらとすすめた。
ベイアイル元帥が言うには「何者かわからないが、恐ろしく博識で化学や錬金術に関する知識は他に並ぶものがなく、黄金や不老長寿の薬まで作っていて、その上途方もない大金持ちでもあるそうです。」
物はためしにとサン・ジェルマンを宮廷に呼んだ。
見るところ、年のころ40歳ぐらい。
小柄な体を白いサテンのネクタイと黒いビロードの服につつみ、高価な宝石をふんだんに身につけている。
物腰も洗練されており、なかなかの美男子ではあるが、特に変わっているようにも見えなかった。
ところが次の瞬間、挨拶したかと思うと突然ポケットから無造作に一掴みのダイヤモンドを取り出し、テーブルにばらまいた。
「どうぞ、お受け取りください。贈り物です。」
「こんな素晴らしい物をどこで・・・」
「買ったのではありません。私が作ったものです。」
これ以来サン・ジェルマン伯の名はパリ社交界に知れ渡ったと云う。

サンジェルマン伯は暇があるといろんな突拍子もない話をして人々を煙に巻いた。
200年ほど前スペイン王国のフェルナンド五世の大臣をしたことがあると言い張り、当時の極秘文章を懐から取り出して見せたたと云う。
また、彼の話しは聖書の時代まで遡り、キリストやシバの女王と親しく交際していたとか、アレキサンダー大王がバビロンの都に入場する時も自分もその場にいたとか云った。
ある日、彼にあったジェルジ伯爵夫人がしばらく彼の顔をまじまじと見た後
「あなたは私が40年前にヴェニスでお会いしたかとそっくりですわ。
でもあの時あなたは45歳ぐらいでした。きっと人違いでしょう。」
「いいえ、マダム。確かにあなたが40年前にヴェニスであったのは私です。
あの時、あなたのご主人は確かイタリア大使でしたね。」と彼は言った。
この話しは、たちまち宮廷中に広まった。これが本当なら彼は90歳以上になっているはずだが、見た目には40歳ぐらいにしか見えないのだ。
此処まで来て人々はサン・ジェルマン伯がフランスにきて何年も経つのにまだ誰も彼が食事をしている所を見たことがないのだ。
晩餐会に招いても断るし、たとえ出席しても、一切物を食べないし、酒すら飲んだ事はない。
そこで人々は、彼が不老不死の霊薬を持っているのではないかと噂しあった。

サンジェルマン伯の最後は明確ではないがドイツのエッケンフェンデの教会に
「世にいうサン・ジェルマン伯又はヴェルダン伯爵。1784年2月27日死亡」と記されている。死因はリューマチと鬱病ではなかったかと言われる。
しかし、1789年マリー・アントワネットにサン・ジェルマン書名の「最後の警告です。ルイ16世を退位させなさい。」と云う手紙が届いている。
また、彼女が捕えられた頃
彼女の侍女の一人がサン・ジェルマン伯を見かけている。
ほかにも、ナポレオンが彼に忠告を受けたとか、イギリスのチャーチル首相が彼に会って助言を受けたとも言われている。
さらに最近では、1972年のフランスでリシャール・シャンフレーと云う若者がTVに出演してキャンプ用のストーブで鉛を金に変えて見せた後、自分はサン・ジェルマン伯爵だと名乗ったと云う。

サン・ジェルマン伯の不死性は、いかがわしいものはあるもののその他の技術は相当な成果をあげているといっても良い。
有名な色事師のカサノヴァは「彼はひどく博学で、いろんな国の言葉が話せた。
大音楽家で、化学者でもあり、それに美容効果てきめんの不思議な化粧水を惜しげもなくばらまくので女達の人気者であった。
彼は人々の度肝を抜く事を平気で口にした。
溶かしたダイヤからもっと良質のダイヤを1ダースも作ることが出来るとか、エリクシールと云う特別なものを飲んでいるので自分は老いる事もなくもう何千年も昔から生きているだなどと・・・。」
哲学者ヴォルテールは「サン・ジェルマン伯と云う男はあらゆる事を知っている」と感嘆している。
彼等ほどの文化人がこうも言っているということは只の変人ではないと思われる。

あるときサンジェルマン伯は、ルイ15世から傷のあるダイヤを預かると一ヵ月後にはその傷を消してしまったと云う。
また、オーストリア領ネザーランドの総督コベンツルはサン・ジェルマン伯のさまざまな技術をベルギーのトゥルネー工場で実用化することになった。
彼の秘術の数々、卑金属を貴金属に変える錬金術、絹などをカラフルな色に変える染色技術、皮をなめして驚くほど滑らかにする皮革技術などである。
これらの秘術を提供すると言う約束でサン・ジェルマン伯は10万グールデンを受け取ったが秘密の全てを渡さないでさっさと姿を消したものの秘術の一部のみで
その工場は大成功だったと云うからその秘術は実践的であっと考えられる。

ナチスドイツはヨーロッパ各地でユダヤ人を収容所に送り込んだが、その時に財産の全ても没収した。
そのためユダヤ人も財産を貴金属などに換えて所持していたが、ナチスも囚人を丸裸にして没収した。
例えば、たった一人の人間から数万ポンドの紙幣が発見された事もあったという。
手荷物の二重底や衣服の縫い目、靴の底、生殖器をはじめとして体のあちこち考えられる限りの場所が隠し場所として利用されたがドイツ兵の検査は徹底をきわめ、ことごとく発見され奪われた。
また、ガス室送りとなった死体からも金歯やプラチナの歯まで回収された。
これらの資金はドイツ降伏時にもまだ残っていたはずだが、それらの行方は現在に至るも分っていないと云う。

ナチスドイツの財宝は戦後ほとぼりが冷めた頃各地で一部が見つかっている。
1947年ある農民がゴミの山から2個の鉄製の箱を見つけた。蓋を開けるとなんと約1万枚以上の金貨が入っていた。
その翌年にはある湖で魚を釣っていた男達が重い木箱を釣り上げた。
中にはドル札がいっぱい詰まっていたという。
1952年には鉱山の廃坑で遊んでいた少年が金塊50tを見つけたこともあった。

ナチスの犠牲になったユダヤ人は、600万人とも1000万人とも言われるから彼等から奪った財産は莫大なものであるからその十分の一でも相当の額になると思われる。
1967年にはテープリッツ湖で二人のCIA調査員が死体で発見される事件が起きている。
一説には、ナチスの残党に殺害されたとも言われるが未解決のままである。
しかし、この事件以後この湖にナチスの財宝が隠されているとの風評がたち、一躍秘宝探しでごった返した。
金貨や宝石が入ったトランクなどが十数個も引き上げられたという。
ただし、秘宝探しに出かけた人々の多くが行方不明になったり、殺されたりしているという。
ドイツやヨーロッパの各地にはナチスドイツの財宝が未だに眠っていると思っている人は多いという。
ドイツ降伏の1ヶ月前の1945年4月にザルツブルグへと向うドイツ軍爆撃機がアルプス上空で撃墜された。
爆撃機が撃墜されたアッター湖周辺にいたハルトと云うドイツ兵は救助に向ったが、誰一人助ける事が出来なかった。
しかし、そのうちの一人が死の間際に「この爆撃機で800万ドルの金とプラチナの塊をザルツブルグに運ぶ途中だった。」と言って亡くなった。
ドイツ降伏から10年もの間そのことを秘密にしていたが1955年にほとぼりが冷めた頃ノーランという潜水夫を雇い、引き上げた財宝の3割を与えるという条件で一緒に財宝を引き上げる事にした。
財宝の引き上げの途中に「財宝に手を出すな。お前らの命はないぞ」という脅しの手紙が届いたが無視して財宝を引き上げる途中にハルトはボートの上で何者かに射殺された。
警察はノーランをハルトを逮捕したが警察署長にも「事を大きくするな」という脅迫状が届いた為、3日後にノーランを釈放した。
湖からプラチナの塊の一部を引き上げていたらしいのだがその行方は不明のままだったらしい。
ドイツのロンメル将軍は北アフリカ戦線で連合軍から"砂漠の狐"と呼ばれる勇猛果敢なドイツの軍人であった。
彼は、恐れを知らない勇気ある将校であったがヒットラーの為にアフリカ各地で次々と黄金、宝石、美術品などを奪っていた。
1943年頃から戦いの流は連合軍側へと流れた為、かき集めた莫大な財宝を当時はまだ安全だったコルシカ島へ一旦移した。
ところがコルシカ島へも戦火は迫っておりナチ親衛隊長ヒムラーの提案により、北アフリカを通過してドイツ本国へ移送する事になった。
ヒムラーの片腕と言われたシュミットが指揮官に任じられ、わざわざ嵐の日を選び、夜陰にまぎれて出航した。
しかし、コルシカ島を離れてまもなく連合軍の航空機に発見され、財宝を積んだままあっけなく海中に沈められた。
乗船員のほとんどは亡くなったがシュミットは助かった。
一旦は、連合軍の捕虜となったがその後釈放され姿を消した。
実は、彼は連合軍と密約を結び、財宝の沈んだ位置を示す地図を渡す代わりに自分を釈放して、チェコ国籍のパスポートを発行するように要求したのだ。
連合軍はシュミットが釈放された後彼がくれた地図を頼りに海中をさらったところ引き上げられたのは、古ぼけた陶磁器のかけらだけだった。
これを機会にロンメルの財宝が地中海に沈んでいるという噂が広まった。
1950年頃地中海のイビサ島に滞在していたベーカーという船長のもとにガンサーという男からロンメル将軍の財宝を引き上げないかとの以来があった。
宝捜しなどという荒唐無稽な話に不審をもったが、シュミット将軍にあわせる。
とまで言われたので、実際にシュミット将軍に合うことにした。
実際に新聞で見たことのあるシュミット将軍に出会いそのシュミットに「9月7日、サルディーニア島のアルゲロに来てください。」といわれた。
これで本当に財宝が手に入るかもしれないと思い、急にこの計画に乗り気になった。
ところが彼が8月末にコルシカ島のアジャクシオ港にヨットで立ち寄った時に酒場でグラスを傾けていると一人のサングラスをかけた男が近づきこう言った。
「ベーカーさんだね。命が惜しかったら、今すぐ此処を引き上げたほうが身のためだよ」
ベーカーは怖くなり、急いで出航したが、突然船のエンジンが突然止まった。
見るとエンジンに細工した跡があった。懸命に直して一息ついたがすぐに船が座礁した。
何とか岸について命だけは助かったものの、不思議な事にそれからはガンサーに連絡が取れなくなってしまった。
もしかしたらガンサーはもうこの世にはいないのかも知れないと思い急に怖くなり、この計画から離れ、この事をめったに人に語らなかったという。
18世紀フランスに"デオンの騎士"と呼ばれるスパイがいた。
伝説によるとデオンの騎士は生まれながらの両性具有者で、女には男として男には女として巧みにとりいって、ヨーロッパ社交界を征服し、次々と重要機密を盗み取った、国際スパイである。
本名はシャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・ド・ボーモンで1728年ブルゴーニュ地方のトルネードで生まれ、父はそこの市長で、国王の子門でもある下級貴族であった。
彼は大学で法律の博士号をとった後は、パリ財務局経理部の秘書を務めた。
その一方でパリ社交界に出入して、当代の有名芸術家や詩人と交流を結び、自分でも詩を作ったりした。
国王ルイ15世がある舞踏会でデオンをみかけ夢中になり、彼の美貌と女装癖を利用して秘密の外交任務に当たらせた。
ロシアに女装して宮殿に入り込み女王エリザベータとの間にフランスとロシアの同盟条約に調印させた。
が、プロセインから嫁いだエカテリーナがエリザベータのあとを継ぐとフランスとの条約を破棄した。
1703年11月19日パリのバスティーユ監獄で鉄仮面を被せられたままの囚人が獄死した。
彼はバスティーユ監獄にいた時は特別待遇で専用の部屋や食器が与えられていた。
食事する時や医者に診察する時ですら鉄仮面をはずさなかったが34年の獄中生活のうちに16人の人々がその秘密を知ってしまった。
そのうち8人は口が軽かったのか、命を落した。そして完璧に口外しなかった者の中には高額の恩賞に与ったものがあったという。
ただ、彼の死亡台帳には"無名"と記入されてサンポール墓地に埋葬された。
彼の正体はマスコミが発達していなかった当時みんながその顔知っている顔つまり国王の親族ではないかと言われている。
ルイ14世の双子の兄弟とか腹違いの兄弟とか言われている。

フランス、太陽王ルイ14世の時代にラ・ヴォワザンという宝石商の妻だった女性がいた。
彼女は、占星術やタロット占いに通じており、自分の豪邸でパーティを催したり、悩み事のある貴婦人の身の上の相談にのってやったりしていた。
彼女は此処で媚薬を渡したり、堕胎をしたりしていた。
さらに黒ミサを行い10年間で2000人以上の赤ん坊を殺したと言われる。
彼女は警察に捕まり、足の甲を木槌で叩き潰すと言う拷問により全てを告白したが、捜査線上にルイ14世の愛人モンテスパン候妃の名前があがったため、それまでの捜査資料を全て焼却させ、ラ・ヴォアザンも火焙りの刑に処した。

ロシアとの接近を諦めたルイ15世は次にイギリスとの和解工作に乗り出し、そこにデオンは大使秘書の名目で入り、そこでも目覚しい活躍をとげ「王の夜会」の常連となり、この夜会にもしばしば女装して現れ、人々を驚かせては喜んだという。
ルイ15世は彼の仕事振りに喜び、彼に騎士の称号と6000ポンドの報奨金を与えた。
しかし、デオンの浪費ぶりに次第に国王や政府は負担を感じるようになり彼を首にした。
重要書類を彼から奪い取ろうとさまざまな策を弄したが、うまくいかず、フランス国内の彼の全財産を没収した。
そのことに怒ったデオンは持っていた重要書類の一部を一種の暴露本として刊行した。
それは、パリやロンドンなどの各都市で売れまくったという。

ルイ15世が死去し、ルイ16世が王位につくと機密文書と引き換えに年金1万2千ポンドという条件でフランス国内に戻る事を許された。
しかしそれにはもう一つ条件が付け加えられており、今後死ぬまで女装を続けることだった。
彼がフランスへ帰るとまさにスター扱いで、マリー・アントワネットからもドレスを送られたりした。
フランス国内では彼の性別に対しての賭けすら行なわれた。
また、彼はフェンシングの名手でもあり、スカートをまくってフェンシングの試合をした。
しかし、1796年の剣の試合で相手から左胸を突かれて、お乳のあたりが腫上がり、デオンのバストは女性のように膨らんでいると噂された。
デオンはフェンシングの傷がもとで1810年83歳でなくなった。
遺体は解剖されその書類には「肉体は異常な丸みを示す。髭の伸び具合は微弱。
顎部は男性のそれとははなはだ遠い。胸部著しくふくらみ、腕、手、指は女性のそれである。男性性器は正常に発達している」と記されている。
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