||||| おでこの傷 |||||


歩行器に捉まって歩くことができるようになると、自分で排泄ができ、そして洗面も可能となるこの喜びは何物にも変えがたいものがあった。
多少の制約があるとは言え、自分の意思で行動できるのである。
コルセットが到着し、歩行を許されてから、まず初めに私が取った行動は、勇躍自力でトイレに行くことであった。
1週間もの間、私のふにゃららには(苦笑)尿感が入っていたので、この爽快な気分は経験した者でなければ分からないのは致し方あるまい。

そして、用を足し、大満足で手を洗っていた時、目の前の鏡に映る若干頬がこけた自分の顔を見つめていたのであるが。

ひげがきちんと剃れていないのできったないなぁーとか、
頬の肉が落ちたなぁーとか、感慨深く我が見慣れた顔をチェックしていたところ、右の眉約1センチ上方に傷を発見!!

なんだ、こりわ?

その傷は、ちょうど何か固いものにぶつけた後に出来るようなもので、皮膚が少し破れたところに薄っすらと血が固まって治りかけのように見えた。
こんな傷を受けたのなら気が付かぬ筈はない......。
いくら寝相が悪いとは言え、この術後の状態では熟睡していても身体を捻ってしまうと目が覚めてしまうし、増してや例えばベッドサイドの転落防止用の柵に向かって豪快にヘディングシュート(笑)を決めたとしても、その痛さで目が覚めてしまう筈である。

ねえねえ、この傷なんでー?......とナースに聞けども、その返答は決まって、「自分でどっかにぶつけたんとちゃうのー?うひゃひゃ。」となる(うぅっ)。
そう、この程度では忙しい彼女達にとって、所詮は他人事なのである(涙)。

ここは一発、あの優しい研修医が来た時に聞いてみることにしよう。
それが最も精神衛生上最適な手段というものである。

せんせー。ほら、ここ(指を当てながら)。ここに傷があるんですけど、何か手術の時にあったんですか?

「えっ?なんもなかったよー。麻酔が切れる時には暴れる人もいるけど、猫ぢぃさんはほんま大人しかったしねー。」

でしょでしょ、やっぱり育ちが違うんですのよ。せんせー(にやり)。

「でもなぁ(角度を変え何度も私のおでこを見ながら)、なぁーんもなってないよー。気のせいちゃうの?」

そんな急に傷が治癒してしまうことってあるのだろうか?
悩める私を後にして、研修医は笑顔を残して立ち去っていったのである。
しかし、この研修医は優しかったなぁ。
普通の医師なら相手にしないか、途中で怒り出したかもしれないのに......。

そんなことがあった後は、傷のことも忘れて安静に過ごし、暫しの間忘れていたのであるが、たまたまトイレに立った時にこれを思い出し鏡におでこを映してみたのであった。

あるやん、傷っ!(怒)

どうして......どうしてこの傷が彼には見えなかったのか?
光の反射で見え辛かったのだろうか。
いや、そんなことはない。
こんな薄暗いトイレでもはっきりと見えるではないか。
何故だ。何故なんだ!
何か言えない事があって、知らぬ振りでもしているのではないか?
例えば、手術台に乗せる時に、私の身体を放り投げたとか......。
その時にできた傷だから、黙っておこうとか......?

いろいろと疑念が湧いてくるのであるが、それはさて置き。
私の脳裏には、ふと、ひとつの疑念が浮かんできたのであった。

ひょっとして......。いや、そんなことはない筈だ。しかし......。
こともあろうに、私は傷を指したつもりの自分のひとさし指で、おでこの傷を自ら隠してしまっていたのではないか?

なんたる不覚......(涙)。
もう一度、尋ねようとは考えてみたが、何とも大人気ないのでやめておいた......と言うのは嘘で(苦笑)、そのとても優しい研修医が回診で来た時に再びこの疑惑について聞いてみたのである(笑)。

「この傷の原因ですか?んー、考えられることとしては、手術中は長時間うつ伏せで同じ姿勢ですからねぇ、その時におでこがずっと手術台に押し付けられて、自分の頭の重みで傷が付いたのかもしれませんね。」

やるな.....。流石、説得力のある明快な答えだ(笑)。

「でもね。患者さんの身体の負担を考慮して、頭や肘、膝など、脂肪が薄いところにはクッションを置いているんですよー。そう言や、猫ぢぃさん。この間は膝が痛いって仰ってたでしょ?あれもきっとそうだと思いますよ(微笑)。」

......参った。これではお手上げどころか全面降伏ではないか。
しかし、快い気持ちでこの短い説明を聞いていたのは確かである。謝罪のひと言が欲しいなどと、取り立てて騒ぐつもりはさらさらなかったのであるが。

私が退院する直前に異動されたこの研修医に、お世話になった心からの感謝の意を伝えることが出来なかったことが、未だに心残りである。


  

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