前田の算数

算 数 コ ラ ム
やってよかったと思える「授業研究」のつくりかた@

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 1、なぜ「授業研究」か?
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 先日、「ああ、この本と10年前に出会っておきたかった」
と思える一冊と出会った。
 「授業研究を創る」鹿毛雅治・藤本和久 編著(教育出版)という本である。
 この本を参考にしながら、授業研究の在り方について考えてみたい。

 本書の冒頭に書かれていた問いが、
「何のための授業研究か?」
「誰のための授業研究家?」

という問いだった。
 恥ずかしながら、これまで何十回と公開研究授業を行ってきたが、そうした根本的な問いについて、じっくりと考えてこなかったように思う。
 授業研修を企画したこともあるが、「グループ協議を取り入れてみよう」「付箋を使ってみよう」といったハウツーばかりを試案してきた。、「どうしよう」ばかり考え、「何のために」が抜け落ちていたのである。
 この本に10年前に出会っておきたかったと思ったのは、そういうわけである。

 「何のため?」「誰のため?」という問い自体は、決して難しいものではない。
 「何のためか」といえば、よりよい授業をつくるためであり、よりよい授業を通して、よりよい学びをつくるためである。
 「誰のためか」といえば、目の前の一人一人の子供のためである。
 答えは自明であるのだが、難しいのは、それを忘れずにいることである。
 私の苦い経験からいえば、一生懸命になればなるほど、根本を忘れがちになる。
 方向を違えたまま突き進めば、悲惨な結果を招く。
 参観者のためのショーと化した授業は、見ていて悲しくなってしまう。

 ここからは、そうした根本を踏まえながら、研究授業の現状と改善策について考えていきたい。



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 2、研究授業の現状
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 まずは、研究授業の現状について考えたい。
 本書では、授業研究の残念な実態として、
 「業務化」「形骸化」「非日常化」の3点を挙げている。
 どれも、その通りだなと痛感させらえることである。

@業務化

 本来、授業研究は、子供のよいよい学びのためにある。
 しかし、本書において鹿毛雅治先生は、
 「授業研究」は教師の仕事の一部であるため、日常にこなすべき「業務」と化し、いつの間にか「授業研究」それ自体が自己目的化してしまう。(本書p4)
と指摘している。
 授業研究をこなすことが目的となり、よりよい学びのためという目的がどこかにいってしまうというのである。
 授業研究を「こなすべき業務」の1つととらえるなら、授業研究を担当することは、仕事の負担が増えることとなる。
 ましてや自分の授業が同僚にさらされ、まな板の上の鯉になるなど、避けたいものである。
 結果、授業研究が「やらされ仕事」となってしまうわけである。

 確かにそうである。
 小教研で授業者を選ぶときの光景を思い浮かべてみる。
 誰もが「自分は授業者になるまい」と必死になり、授業を断る言い訳合戦が起こる。
 そして、授業者に立候補した先生には、「誰もが嫌がる業務」を引き受けたことへの感謝と賞賛の拍手が沸き起こる。
 研究授業が業務化しているという現状は、どうやら否めない。
 
 若い頃、年配の先生から、
「小教研は、もともとは教員が交渉して勝ち得た権利だったんだよ」
と教えられた。
 考えてみれば、学校を休みにして、勤務時間中に給与をもらいながら研修できるなんて、ありがたいことである。
 それが、いつしか当たり前のことになり、やがて、やらされ仕事と化したのは、悲しいことである。

 


 

A形骸化

 業務化は形骸化を招く。
 鹿毛先生は、
  ただでさえも多忙な日常に加えられた特別な「業務」であるため、ともすると優先順位が低まり、労力をかけずに済ませようとしたり、「形だけ整えてやったことにする」といった態度でお茶を濁したりする傾向がなきにしもあらずである、(本書p4)
と指摘している。
 業務と化してしまった授業研究は、多忙な日常の中で
労力をかけずも済ませよう
形だけ整えよう
となり、形骸化を招くというわけである。
 鹿毛先生は、形骸化の観点から、とりわけ評判が悪いものとして、「事後協議会」を挙げ、次のように指摘している。

  会の進行が定型化し、授業者は「針のむしろ」の上で一方的にコメントを受ける。

 参観者は同僚に対して意見することになるために遠慮がちになり、何気なくほめて波風が立たないようにする「配慮」が優先される。 

 どちらも、全くその通りの現状で、耳が痛い。
 確かに、代案のない批判が授業者に向けられ、あまりに授業者がかわいそうな協議会を目にしたことがある。
 特に、昔はそういう協議会が多かったように思う。
 最近は、そのような協議会がなくなってきた反面、波風は立たないものの、学びも深まらない協議会が増えたように思う。
 時代のせいにすればそれまでだが、みんな不必要にぶつかり合いたくないのである。
 私自身、初対面の先生方が多い協議会では、波風立たない意見でお茶を濁すことがある。

 形骸化の対義語を辞書で調べたところ、「活性化」だということだ。
 授業者が「やってよかった」「またやりたい」と思えるような、実りある授業研究の形を模索する必要がある。

 

 

 B 非日常化

 本書で、残念な実態の第三に挙げられているのが「非日常化」である。
 鹿毛先生は、
  「特別な仕事」として研究授業が実施されるため、日常の授業との関連性がむしろ希薄化してしまうという皮肉な自体も生じている。(本書P5)
と指摘している。
 また、
  授業研究を日常的な実践と切り離して「イベント化」してつまう傾向が見られる。
  普段は絶対に行わないようなパフォーマンスが奨励されたりする。
  研究授業がいわば「教師の発表会」のような「晴れ舞台」と化しているのである。
とも指摘している。

 研究発表会で、教室の壁中に模造紙が張り巡らされ、これまでの授業の流れが事細かに掲示されている教室を見ることがある。
 正直ぞっとするような光景なのだが、当の授業者は、頑張る自分に陶酔しているので、そのことにまるで気付かない。
 そういう光景を見ると、
「一体その掲示は、誰のためのものなのだろう」
 と思わざるを得ない。
 果たして、本当に、子供のためのものになっているのだろうか。
 教師の自己満足のためのものになってはいないだろうか。
 或いは自分の頑張りを参観者へひけらかしているだけではないだろうか。

 私は決して、たくさん掲示することが悪いと思っているわけではない。
 子供のためになっている掲示が存在するのも確かである。
 子供が掲示を指さしながら「あの時の授業でこうだったから・・」と発言していたり、子供が自力解決で掲示をヒントに考えている姿を見ることもある。
 ただ、残念なことに、そういう授業に出会う数は少ない。
 子供が一瞥もしない掲示に出会うことが多いのである。

 授業が終わった後には、参観者からは、「よく頑張ったね」という声がかけられ、拍手が送られる。
 そして、授業者は、がんばった自分に自己満足を覚える。
 決して、それが悪いわけではない。
 頑張った授業者へ拍手を送りたくなるのは、当然のことである。
 頑張れば、達成感を覚えるのは、当然のことである。
 ただ、そこで終わってはいけないと思うのである

 授業研究は、「努力賞」といった類いのものではない。
 授業後のリフレクションがなされてこそ意味がある。
 授業研究が、「一日限りの打ち上げ花火」となり、打ち上げたことに満足しきってしまい、次につながる十分なリフレクションがなされないまま終わってはいけないと思うのである。

 非日常化への警鐘といえば、野中信行先生が真っ先に思い浮かぶ。
 野中信行先生は、「味噌汁・ご飯」授業という言葉を用いて、日常授業の大切さを訴えておられる。
 野中先生は、研究授業で行われる日頃やっているのとは全く違う特別な授業を「ごちそう授業」と呼んでいる
 そして、日頃やってない「ごちそう授業」を検討し合っても、毎日の「味噌汁・ご飯」授業が変わっていかなくては意味がないと主張している。
 簡単な論理なのだが、そこに気付くことは案外難しく、非日常化した授業研究が、各地で行われているのが現状である。
 かくいう私も、附属小で何十回もの「ごちそう授業」を行ってきた。

 ただし、勘違いしてはいけないのは、野中先生は「ごちそう授業」を全否定しているわけではないということである。
 むしろ、年に1、2回の「ごちそう授業」は必要だとも述べられている。

 私もそう思う。
 車会社がF1に参戦することで、技術が向上し、その技術が大衆車に生かさせることがある。
 それと同じように、最高の「ごちそう」を作ろうとして得た技術が、日常の「味噌汁:ご飯」に生きることだってあるのだ。
 私自身、附属小時代に、研究授業で発問の一言一句にこだわって何時間も費やしてきた経験が、現在、日常の授業でちょっとした発問を考える時に生きていると実感している。

 「ごちそう授業」も大切だ。
 ただし、「ごちそう授業」のための「ごちそう授業」であってはいけない。
 「味噌汁・ご飯」授業をよりよくするための「ごちそう授業」でなくてはならない。
 そう思うのである。
 結局、話は冒頭に戻る。
 つまりは、「何のための研究授業か」「誰のための研究授業か」という根本を常に自分に問い正す姿勢が大切なのだと思う。

 
 

 
 
  鹿毛先生は、「非日常化」を促す、もう一つの背景として、我が国の伝統的な「授業研究観」を指摘している。
 本来は、よりよい授業をつくることが目的である。
 しかし、研究という側面が過度に意識されるあまり、授業が「理論」を検証するための「手段」となり、「報告書をまとめること」が目的になってしまうというのである。

 確かに、思い当たることは多々ある。

 研究授業では、研究仮説を立てられ、その仮説に基づいて、授業が行われる。
 仮説の検証を大切にするあまり、指導案に縛られ、本来ならもっとその子の話に耳を傾けるべき局面であるにもかかわらず、展開を急いで次の活動へ移る光景を見ることがある。
 協議会では、子供の動きを無理矢理仮説に当てはめて解釈する屁理屈のような発言を聞くことがある。
 そもそも、たった1回の授業で、仮説を検証するなど、あまりに無茶な話である。
 しかし、「研究」である以上、致し方のないことなのだろうか・・・。 

 附属小時代には、
 「研究授業である以上、提案性がなければ意味がない」
 と言われた。
 そうでなければ、参観者にわざわざ時間を割いてもらう価値がないというわけだ。
 確かに、一理ある。
 しかし、本当にそうなのだろうか・・・。
 
 そんなことを考えながら、「研究」という言葉を辞書でひいてみた。
 「研究」とは「物事を深く考えたり、詳しく調べたりして、事実や真理を明らかすること」とあった。
 そこには何も「仮説を立てて検証しなければならない」「提案性がなければならない」というきまりはない。
 よりよい学びを目指して、子供の事実を明らかにしてさえいけばよいのである。
 つまり、授業研究の形は、1つではないということである。

 大学で行うような研究を真似るあまり、提案性、仮説といったものに縛られ、1つの授業だけで理論を成り立たせようとする「研究ごっこ」に陥ってはいないだろうか。
 そうではなく、単純によりよい学びを目指して授業を行い、そこから子供の姿を解釈し、そうした事例が数多く集まったところで、共通点を探って一般化する
 そういう授業研究のスタイルがあってもよいのではないだろうか。
 仮説検証型ではなく、事実解釈型の授業研究である。
 「味噌汁・ご飯」授業の研究には、そういうスタイルが合っているように思う。

 
 

 
 
 ここまで、授業研究の課題について考えてきた。
 それでは、授業研究を 「やってよかった」と思えるものにするには、どうすればよいのだろうか。
 次のページでは、その改善策について考えていく。

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