前田の算数

算 数 コ ラ ム
「やってよかった」と思える授業研究のつくりかたA

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 3、協議会で何が語られるべきか
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★発言は「事実」「解釈」「代案」の3点セットで

 授業後の協議会では、何が語られるべきだろうか。

 ときに、授業者に、厳しい批判ばかりを投げつける人がいる。
 批判ばかりで、代案が伴わないのであれば、野次と同じである。
 そうした批判を受けた授業者は、「やってよかった」と思うどころか、「もう2度とやるまい」と思ってしまうだろう。

 では、代案があればよいかというと、そうでもあるまい。
 例えば、オムレツをつくった人がいたとする。
そんな人が、
「卵を使えば、目玉焼きもつくれますよ」
とアドバイスされても、
「だから、なんなのだ」としか思えないだろう。
 オムレツをつくった人は、目玉焼きのつくりかたではなく、オムレツの美味しいつくりかたを知りたいのだ。
 授業者の願いを無視した代案は、授業者の心に響かないのである。

 では、オムレツについての代案ならよいかというと、そうでもあるまい。
 根拠のない代案も、授業者の心に響かない。
例えば、「もう少し塩を入れた方がよかったと思います。」
と言われても、授業者は薄味が好みかもしれないのだ。
「食べ切れない子が多かったので、もう少し小さくしてみては」
「付け合わせにキャベツを添えると、栄養のバランスがとれるのでは」
といったように、代案には根拠が必要だろう。

 私は、協議会の発言は、「事実」「解釈」「代案」の3つがセットになっているべきだと考えている。
 「○○さんは、○○という反応をしていました。」
という子供の姿(事実)。
 それに対する
「そういう反応のなったのは、○○が原因だと、私はとらえます。」
という意味づけ(解釈)。
「だから、○○という方法をとったらよかったのではないかと思います。」
という改善策(代案)。
 この3つがセットになって初めて、授業者にとって建設的な意見となり得る。

 もちろん、子供の素敵な反応も、協議会で話題にすればよい。
 「こういう子供の姿があったのは、こういう理由だと思う。」
 「だから、今後も○○といった手立てをしていきたい。」
といった具合である。
 「事実」「解釈」の次が「一般化」になるわけだが、3つセットという点は変わらない。


 付箋を使って協議会をするなら、付箋の色を「事実」「解釈」「代案」で色分けするのもよいだろう。
 子供の事実から協議を進めようと意識化されるからである。
 私の場合、初めてやってみた時、さあ書こうと思って付箋を手にとったものの、なかなか書き出せなかった。
 私の頭に浮かんだ言葉は、「板書の構成が・・・」「発問の言葉が・・・」といった教師の姿ばかり。
 自分が如何に「子供の事実」を見ていないかに気付かされたのである。

 貼られた付箋を見れば、協議をしながら、深まりを自覚することもできる。
 一つの「事実」に対して、複数人の「解釈」が貼られていれば、協議が深まったといえるだろう。逆に、一つの「事実」に対して、一つの「解釈」しかなければ、「違った解釈はありませんか」と尋ね、協議を深めていくこともできる。



★子供の姿で語る

 さて、本書において、大島崇先生は、 授業研究が教師の専門性を向上させる条件の第一に、
 授業における子供の具体的な「姿」への着目(本書p47)
を挙げている。
 子供の具体の姿で授業を語ることは、我が富山県の小教研でも大切にされてきたことである。
 本書ではさらに、協議会の中で、子供の個人名具体的なエピソードが飛び交いたいと述べられている。
「子供たちは、活気があってよかったです」
といったように漠然と子供を捉えるのではなく、
「○○さんの○○○という発言を聞いて、△△さんは、□□と書いていたノートを一旦消して・・・」
といったように、具体の姿を捉えていくということである。
 「個人名」「エピソード」という視点は興味深い。
 協議会の中で「個人名」「具体的なエピソード」がどれだけ出たか
 それを、「協議会が子供の具体の姿で語られているかどうか」のバロメーターにして、協議会の善し悪しを振り返ってみるのも面白いかもしれない。


 参観者が、「子供を理解しよう」という構えで授業研究に臨み、「子供の授業中に何をどう学んでいるか」を観察し、協議し合って解釈する。
 そういう協議会であれば、授業者がまな板の上の鯉となって責められ、心的苦痛を感じることもなくなるのではないだろうか。

 
 
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 4、事前協議会で何が語られるべきか
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★事前研のゴールは「授業者の願い」を共有すること

 事前協議会では、何が語られるべきだろうか。
 大島崇先生は、授業研究が教師の専門性を向上させる条件の第二に、
 教師一人ひとりの自立性の尊重
を挙げ、「授業者の願い」を大切にするよう、繰り返し主張している。

 授業者の願いを大切にする。
 確かにその通りである。
 しかし、言葉でいうのは簡単なのだが、実際は難しいことである。
 というのも、そもそも、「願い」を大切にするには、大前提として、授業者が「願い」をもっていなければならないからである。
 若い教員がどんどん増えている中、
「この授業で子供にこんな力をつけたい」
「この授業でこんな子供を育てたい」
そんな明確な願いを抱ける教員ばかりではない。
 私自身、這いずり回ったあげく、
「結局、何がしたかったの?」
と尋ねられるような授業を、何度も経験してきた。
 それほど、「願いをもつ」ということは、難しいことなのだ。

 附属小時代には、事前研において、同僚の先生方から、あらゆる方向から教材を厳しく否定された。
 というのも、
 「否定されて、否定されて、反論し、最後に残ったものが、本当に自分のやりたいものだ。」
 というのが、当時の附属小の方針だったからである。
 そういう厳しい事前研をかいくぐって、ようやく自分の願いらしきものが持てたものである。

 こうした附属小のやり方が最良だというつもりはないし、そっくりそのまま公立の小学校に取り入れられるわけはない。
 ただ、生かせることもある。
 それは、自分一人の力では、「明確な願い」に辿り着けないということである。
 そして、同僚との議論の中で「自分の明確な願い」に気付くことができるものだということである。

 私は、事前協議会のゴールを
授業者が願いを明確にもてること
授業者の願いを参観者が共有すること
とするのがいいように思う。

 もちろん授業者に、
「あなたの願いは何ですか」
とダイレクトに尋ねるわけではない。
 そんな哲学的な問いに答えられるはずはないだろう。
 扱う教材や発問の言葉など、具体的な手立てについて議論しながら、
つまり、あなた(授業者)の大切にしてることって、○○なんじゃない?
と司会者が整理していくのである。

 何も事前研において、ワークシートの文言や板書の構成といった、細かなところまで決定する必要はないように思う。
 料理方法は授業者の自由にすべきことであるし、授業者が困っているようなら、個別に相談に乗ってあげればよいことである。
 それよりも、事前研では、授業者の願いを共有することの方が大切ではないだろうか。
 
 事前研は、「授業者の願いを共有すること」を目的に開き、
 参観者は、「授業者の願いを理解しよう」「授業者の願いを引きだそう」という思いで、質問し、意見を述べる。
 そうした議論を、司会者が整理する。
 そういうスタンスがいいのではないかと、私は考える。

 
 
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 5、参観者が当事者意識をもつために
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★学年でチームになって、当事者意識を高める

 大島崇先生は、授業研究が教師の専門性を向上させる条件の第三に、
 教師集団の同僚性の構築
を挙げ、本書の中で、参観者が「当事者意識」をもつことの大切さについて述べている。

 当事者意識をもたせるための一つの参考として、私が現在勤務している学校の校内研修のやり方を紹介したい。
 学年でチームになって研修を行うやり方である。
 我が校には、1学年に3クラスある。
 例えば、2組の先生が研究授業を行うとする。
 事前に、まず、1組の先生が、授業者が作った指導案を使って、自分のクラスで授業をする。
 それを3人で見合って協議する。
 その協議を生かして、今度は授業者が3組の子供たちを借りて授業する。
 それを3人で見合って協議する。
 その協議を生かして、授業者が自分のクラスで公開授業の日を迎える。

 このやり方だと、自分も授業を行うので、適当な代案は言えない。
 1組、3組の先生は、2組の先生より先に、同じ単元の流し方で、同じ発問、同じワークシートを使って学習を進めているので、改善案を伝えることができる。
 半分強制的ではあるが、当事者意識を持たざるを得ないシステムである。
 本来は、何もしなくても自ら当事者意識をもつのが理想かもしれない。
 しかし、そうはいかない現状を考えれば、現実的で有効なシステムだと思う。

★授業研究がチーム性を高める

 学年でチームになって授業研究を行うことは、授業力を向上させるだけでなく、学年のチーム性を高めることにもつながる。
 学年主任になれば、学年のチーム力を如何に高めるかが問われる。
 チームで仕事をする場合、「まずは、仲良くなろう」とすることが多い。
 「仲良くなることで、仕事の質が高まる」という考えからくる行動である。
 もちろん、そういうやり方もあるだろう。
 一方で、
 「やりがいのある仕事をすることで、仲良くなる
ということもあるように思う。
 よりよい授業を共に目指して授業研究を行う中で、同僚性が高まっていくのである。
 実際、私の場合、附属小時代には、同僚と授業についてとことん語り合い、苦しみも共有した。
 そんな同僚たちとは、いまもまだ飲みに行く仲である。
 やりがいのある仕事を共に行ったことで、絆が深まったのである。

 学年主任になったならば、学年の仕事に「やりがい」を与えなければならない。
 授業研究においても、「やってよかった」「力がついた」と思えるようにしていく必要がある。

 

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 6、おわりに
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 私は、10年間、富山大学附属小学校に勤務した。
 そこでの協議会は、厳しくもあったったが、楽しかった。
 先輩方の意見は鋭く、勉強になった。
 毎回新たな学びがあり、わくわくしながら協議会に臨んだのを覚えている。

 当時、附属小の教員間には、「きびしい なかよし」という合い言葉があった。
 協議会では、納得できるまで本音でとことん議論し合った。
 当時は、「働き方改革」などという発想はなかった。
 納得できなければ、何時まででも議論し合った。
 そして、協議会が終わったら、駅前の居酒屋へみんなで繰り出した。
 
 しかし、それは附属小という特殊な小学校だからできたことでもある。
 附属小に勤務することを承諾した時点で、授業研究に身を捧げることを覚悟しているわけである。
 誰もが、「厳しい意見をもらい、成長しなければ、せっかく授業をした意味がない」と思って授業をする。
 いわば、教員全体が同じ思想をもった集団なのだ。
 
 公立の学校だと、そうはいかない。
 小さなお子さんをもつ教員もいれば、年老いた両親を抱える教員だっている。
 部活動に全力をを注ぐ教員もいれば、行事に全力を注ぐ教員だっている。
 
 附属小での授業研究のやり方を、そっくりそのまま公立の学校に持ち込むことはできないだろう。
 しかし、形を変えつつも、生かせることはあるに違いない。
 「やってよかった」と思える、あの楽しさを、共に感じられたらと願っている。

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