清々しい風が吹き抜ける。 よく晴れた空。 出立にはこの上のない善き日だ。 デュナン統一戦争が終結し、長年隣国の脅威に晒されていたこの国に平和が訪れた。 これからは勝利した同盟軍の拠点の城のある、この街が中心になって新しい国が造られていくのだろう。 きっと、平和で穏やかで、そして商業に活気のある国になるだろう。 傭兵である自分達はここには留まらず旅に出ようと相棒と話を決めた。 もう自分達の役目は終ったし、出来る事、やるべき事も成し遂げた。 ここを発つ事に関して心残りはない。 ただひとつを残しては。 「ビクトール。」 旅立ちの前、振り返って街を眺める相棒の名を呼んだ。 この街は、ビクトールの故郷だった。 過去に滅び、けれどまた活気を取り戻し、昔の姿とは違えどそれは変わる事はないだろう。 ただひとつの心残り。 それは、この相棒が故郷に留まる選択をするべきではないのだろうか、という迷いだ。 故郷を失い旅に出るしかなかった男が、全く元通りとは言えないまでもやっとまた帰るところを手に入れた。 ここで、また。 本来の人生をやり直す事が男の幸せなのではないのだろうか。 そんな思いがじわじわと足元からこの身に忍び寄る。 感慨深気に街を見詰め続ける男の背を見れば尚更に。 「なあ、やっぱりここに残りたいんじゃないのか?」 思い切って、声に出してみた。 もっと震えるかと思った声は、自分も意外な程にするりと喉を滑って出て行った。 さあ、と風が流れて。 ビクトールは黙ったまま、ゆっくりと振り返く。 その表情は自分が想像していたものとは全く違って、穏やかで、瞳は優しい光をたたえていた。 そうして、自分を見て。 柔らかく、けれどどこか困ったような顔でもって笑った。 「なんだよ。」 「いや…」 問い返すと、目線は外され地に落ちる。 そしてまた街の方へと吸い込まれるように流れた。 「おい、なあ、フリック。」 心地よく響く、聞きなれた声が耳に馴染む。 「故郷ってのはいいもんだよなあ。」 「……」 「ここを昔飛び出した時にはよ、もう二度とここへは戻れねえもんだと思ってた。けどよ、こうしてまたここに人々が集まって、新しい街になって蘇ってよ、そしてまた俺の故郷ってのが出来ちまった。」 全く昔の姿とは違ってしまったけれど、この地にそびえるあの大きな城の地下には、かつてここで生き暮らした人々の亡骸が埋まっている。 ビクトール本人にとっても、ここはノースウインドウという故郷たり得る街なのだと。 だったら尚更、この地に留まりたいのではと心に冷たい風が吹く。 また、ビクトールが振り向いた。 まっすぐ、自分を見据えてる。 「なんだかなあ…ここにはよ、辛ぇ思い出ばっか残ってると思ってたんだがよ、そうじゃなかったんだよな。」 自分もまた見返して。 目で続きを問う。 「ここでの思い出ってやつぁよ、子供の頃の楽しかった事とか嬉しかった事とか、しょーもねえ事で叱られたとかよ…懐かしくて、どっかあったけえ思い出んほうが多かったりすんだよな。」 こちらを見ながらも、どこか遠く、きっと遥かな記憶の彼方を見詰めるようにしてビクトールが笑う。 「なあ、フリック、帰るところがあるってのはいいもんだよな。お前も…戦士の村って故郷があるんだから、ちっとは気持ち解るだろう?」 言われて、脳裏に故郷の姿が浮かび上がる。 赤く染まった夕暮れの空。 金色に輝き風にさざめく草原。 自分の、友達の明るい笑い声。 懐かしい風の匂い。 暖かに身を包む誰かのぬくもり。 複雑だった生い立ちや、母の死など。 辛く耐え難い思い出だってある筈なのに、どうしてだろう、思い出すのは泣きたくなるくらいに温かい。 そんな思い出ばかりだった。 「ああ…解る。」 きっと、ビクトールも同じなのだろう。 それが痛いくらい解って、そしてだからこそあんな顔をしていたのだと納得する。 胸を焦がすほどに懐かしい、優しいあの場所。あの人達。 帰られる。帰ってもいい。 そう思える故郷がある、その安心が心の内にある。 ただそれだけで充分なのだ。 その思いが胸にある限りは、どこまでだって行く事が出来る。なんだってやる事が出来る。 だって、帰るところがある。 たとえ何もかも失くしてしまったとしても、ちゃんと帰る場所はあるんだから。 不意にビクトールの肩が揺れた。 明らかに自分の顔を見て、込み上げるのを抑え切れられずに小さく笑ったのだ。 「なんだよ?」 あまり気分のいいものではない、というか正直ムカつく。 むっとして聞き返した。 「ああ、いやな…」 悪ぃ悪ぃと肩を竦めてビクトールが手を振った。 お前を笑ったんじゃねえ、自分自身に笑ったのだと。 そして。 「思い出って名の付く奴を胸ん中探ってみりゃあよ、その半分はお前が居るんだよなあ。」 「……」 思わぬ台詞に絶句させられた。 「だから、もし心の故郷ってやつがあんのならよ、そいつはお前の事なんだろうなと思った訳だ。」 「何…言ってんだ。」 目の前の相棒は、真面目な顔して人生の半分の思い出に自分が居るという。 そんなにも長い間一緒に居た覚えはない。 ああ、だけど。 この男と一緒に過ごした日々は苛烈極まりなくって記憶に酷く焼き付いている。 そして思い出すのは、だけどやっぱり温かくて泣きたくなるくらいの懐かしさを持っていて。 自分の胸の内を開けてみれば、やはりビクトールが言ったように。 思い出という名のその半分には、必ずこの相棒の存在がある。 「よく、そんなくさい台詞言えるもんだな。」 「旅立ちの日には、こんくれえドラマチックなのが丁度いいだろ?」 キツイ物言いに、いつもの笑顔で返すビクトール。 確かに、今日はよく晴れてて風向きもいい。 旅立ちには最良の日だ。 「…そうだな。じゃあ俺も乗ってやるよ。」 「お?」 「いつでも帰りを待っててやる。俺がお前の故郷だ。全てを赦し温かく迎えてやるよ。」 「おいおい…ノリすぎじゃねえか?」 「そのかわり忘れるなよ。」 おかしな顔をして頭を掻くビクトールに笑って告げる。 「俺を、お前の故郷である俺を。お前の帰りをいつも待っている、その事を絶対に忘れるな。」 俺もお前を忘れないから。 それは告げずに心の中で付け足した。 目を見張ったビクトールの顔が一瞬だけ緩んで、そしてまた元に戻る。 そうして、いつもの明るい笑顔になって応えた。 「おう!」 その声は、青く澄み切った空に響き渡って大気に溶ける。 この瞬間もまた、思い出とやらに変わるのだろう。 そしてこの胸に残り続ける。 温かく優しく懐かしく。 その心地よさに。 自分も笑って、二人して遠くどこまでも広がる空を仰ぎ見た。 |
思い出は、いつも胸に優しく切なく温かくあるもの。だと思う。
2005.08.19