<act.28> フリックが宿屋の廊下をどんどん進んで階段へと差し掛かった時。 その踊り場から降りてくるビクトールと鉢合わせた。 驚いた顔で見下ろすビクトールと、それを見上げるフリック。 互いの動きが止まってしまったのは一瞬で、ビクトールは慌てて駆け下り、フリックは黙々と階段を上っていく。 「おい!」 「……」 無言で擦れ違おうとしたフリックの腕をビクトールが掴んで止めた。 掴まれた腕をフリックは振り解こうともがく。 「お前、そんな荷物持ってこれから何処へ行こうってんだ?」 「…お前には関係ねーだろ」 「関係なくねえよ!って、おい?」 「…つっ」 冷たくあしらわれたビクトールの手が強く握られた。 腕を締め上げられて、フリックは思わずビクトールを睨み付ける。 そうして見えたのは、明らかに涙目のフリックで。 ビクトールの胸に、どしっと重い塊が落とされる。 「…マイクロトフに何かされたのか?」 「っ!」 カミューとの遣り取りを思い出したビクトールの、血の気がざっと下がる。何かをされたのか、何かをされそうになってきたので逃げてきたのか、を問い質そうと声を荒げようとして。 「おい、どうなんだ?!フリッ…っ」 「うるせえ!!」 「っぎゃああああ!!」 ビクトールは言いたい事とは違う叫びを上げる羽目になった。 フリックが怒鳴ったと同時に、全身に電撃が走ったのだ。 「何かってなんだよ?!マイクロトフが、俺の嫌がるよーな事をする訳がねーだろ!あいつは、すごく優しくて真面目で、本当にいい奴なんだ!」 「だったら、何でそんな面して、そんな荷物持ってどっか行こうとしてんだよ?」 衝撃で足が崩れそうになるのを必死に耐えてビクトールは訊いた。 ここでフリックを逃す訳にはいかない。 そのフリックは。 放電をしたからだけではなく、全身からぴりぴりとしたものを発している。 そして、怖い顔をしたまま。 「さっき、マイクロトフを振ってきた」 「………はあああ?!」 フリックの発言に、ビクトールはたっぷりと呆然とした後で、素っ頓狂な声を上げた。なにしろ、たった今褒めちぎった相手を振ってきた、などと聞こえてきたもので。 「な、何で?」 「俺は、マイクロトフとじゃなくてお前と一緒に居たいからだ」 「は…?」 ビクトールの、動きが止まる。 フリックはまだ、怒った顔のままだ。 「どうせ、自分でもすげえ馬鹿だと思ってるよ」 「……」 「マイクロトフは真面目で誠実で優しくて、強いし格好いいし本当にいい男だと思うけど。だけど」 フリックの、怒ったままの瞳が切なく揺るぐ。 「中年で飲んだくれでいい加減で、調子いい事ばっか言って何もかも 俺に押し付けて自分ばっか楽しやがって、その上俺の事なんかちっとも全然何とも思ってねーけど…、っそれでも、俺は…っ!」 「っ!」 「…だから、そう言ってきた。そんなんで一緒の部屋になんか居られないだろ」 それでどっか別の寝床を探しに行こうと思っていた。 と、フリックは付け足して、また歩き出そうとした。 けれど。 その踏み出した足は宙に浮いて、そのまま上へ。 「なっ?!何やってんだ?!」 フリックの体がビクトールに担がれている。 暴れるフリックを気にするでもなく、ビクトールは階下へと歩き出した。 「降ろせ!このバカ!!」 「そのバカってのも、中年で飲んだくれでいい加減で…後なんだ?調子いいだっけか?それは全く否定するつもりはねぇよ」 階段を降り切ったビクトールは廊下へと進む。 そしてすぐ近くの部屋へと入る。 「お、おいっ?!」 「でもよ、お前を何とも思ってねえってのは訂正させろよ」 「……」 担ぎ上げていたフリックをそっと降ろして。 目の前に立たせると、ビクトールはその顔を覗き込んで。 「俺は、お前の事が好きだ。他の奴に取られんのが、死ぬ程嫌なくれーにな」 「……」 「ここは俺とお前の部屋だ。まあ、改装するまでの仮のやつだが…」 「でも、」 「さっきシュウに言って替えてもらってきた。また宜しく頼むぜ」 「…お前、誰とでもいいって言ってたじゃないか」 「よくねえから、こうして替えて貰ってきたんだろ」 「……ほんと、お前、調子いい奴だな…っ…」 ビクトールが、憮然としてしゃあしゃあと言ってのけた台詞に。 フリックが少し笑って。 そして俯いた。 その、伏せられた瞳からぽろりと涙が零れる。 「…悪かったよ。でも俺だってよ、自分の気持ちとかよく解ってなかったっつーか」 言いながら、ビクトールはフリックを抱き締めた。 びくっと一瞬肩が震える。 けれど抵抗する事もなく、そのまま大人しくなって。 力を抜いたフリックはビクトールの胸に凭れ掛った。 しばらくはそうして寄り添っていたけれど。 フリックが小さく声を出した。 「じゃあもう、今は解ったってのか?」 「おう、お陰様でな!」 「うわっ?!」 狭い部屋なので、そこにもうベッドが置いてある。 そこへビクトールは返事をしながらフリックごと飛び込んだのだ。 驚いた声を上げるフリックに、ビクトールが圧し掛かる。 ぎしっ、とスプリングが大きく軋んだ音を立てた。 「フリック…」 ビクトールが、愛しく名を呼んで。 フリックの頬にキスを。 「ちょっ…」 ますます驚いたフリックの体が硬直する。 ビクトールの唇が、何度も頬に触れる。 その感触にフリックは身を震わせた。 いつの間にか、ビクトールの息は熱く荒く。 頬を伝った唇は耳の付け根を強く吸い出した。 「っ、あっ…!」 「好きだ、フリック」 ビクトールは熱に浮かされたようにそう言って。 「俺も…好きだ」 フリックの甘い声が耳に届いて、体を痺れさせた。 体を巡る熱に任せ、柔らかい耳朶に噛み付こうとして。 「けど、ちょっと待て」 先程の甘さはどこにも見当たらない声が聞こえて動きを止めた。 「…へ?」 「だから、待てと言ってるんだ」 見下ろしたフリックの顔はもう冷えている。 「な、何でだよ?」 「お前はそういう気なのかも知れねーけど、俺はまだそこまででもねーかな、って…」 「はあ?!」 「いや、お前の事は好きだと思うし、ずっと一緒に居たいとも思うんだけど、そーゆー事したいと思う好きなのかはまだちょっと…」 「……」 「だから俺、今はする気はねーんだ。悪いが退いてくれ」 「……」 「…退けって言ってんだろ!」 「…いや、お前、さっきのアレはその気になってたって」 「なってなんかねーよ!」 「いや、自分じゃ気付いてねえかもしれねえけどよ、さっきのは絶対感じ…でっっ!」 「いい加減な事を言うな!」 「殴る事ねえだろ!」 「いいから早く退け!」 「い、いや待て待て!じゃあよ、解んねんならいっぺん試してみるってのはどうだ?そしたらっ…っ、だから殴んなって!!!」 「お前がさっさと退かないからだろ!」 「〜〜〜〜っ…なあ、どうしても…」 「駄目だ!」 「そうか………お前、酷ぇ奴だな…」 「…嫌いになったか?」 「なる訳ねえだろ!」 ビクトールが情けない声で叫んだのを最後に、二人の動きが止まる。 フリックが今にも泣きそうな顔になっているのを、ビクトールは何とも言えない表情で見下ろした。 体を許す事は出来ないくせに。 ビクトールに嫌われるのも泣く程に嫌なのだ。 そんなフリックに。 心底惚れてるらしいビクトールは無理強いできる筈もなく。 「解ったよ」 「…ビクトール」 「待たせて貰うとするぜ」 「ごめん…」 「いいって、その代わり」 圧し掛かったままだったビクトールが、ぐっと顔を寄せた。 フリックの目が見張られる。 「キスはさせて貰うからな」 「なっ?!」 「マイクロトフとはしたんだし、いいよな?」 「うっ…」 返答に詰まったフリックの答えは聞かずに。 ビクトールはフリックの唇に噛み付いた。 舌を捩込んで奥まで犯す。 息吐く暇も与えない程貪って。 かと思えば、唇をもどかしく甘噛みしたり。 何度も軽く啄ばむように触れてみたり。 確かにそれはキスだけだったけれど。 その熱さに、フリックが翻弄されて背にしがみ付く。 そして。 ビクトールは想いの丈を込めてキスを送ったのだった。 その後で。 口吻けで乱れたフリックを目の当たりにして。 欲情を押さえ込むのに大変苦労するのも知らずに。 そしてフリックはといえば。 寄越される熱に、流されるのを必死で耐えていた。 ビクトールの舌に応えながら。 このままひとつに溶け合ってしまいたいなんて。 そんな想いが湧き上がって体を震わせるのを。 そして。 そーゆー事したいと思う好きなのか。 その答えがもう出てしまっている事を知ってしまったのだ。 ビクトールには言える筈もなかったのだが。 |
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