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<act.18>



「起きてたのか…」
フリックが部屋に戻ったのは深夜もとうに回って、どちらかといえば朝方に近い時刻だった。
故に、まだテーブルに突っ伏すようにしてグラスを握っているビクトールの姿には驚いた。
「…ふん、悪ぃかよ…」
「いや、別に悪くはないけど…」
のそり、と動いてビクトールが呻くように言った。
その掠れた声にフリックが応えを返す。
「ただ、珍しいなと思って…お前が部屋で一人で寛いでるなんてな…」
普段なら、いつも酒場で遅くまで。
部屋に帰るのなんて、荷物を取りに戻るか、寝に帰るくらいのものだ。
しかし思い返してみれば、最近はいつもビクトールは部屋にいるような気がする。
その、ビクトールが。
まだテーブルに伏したまま、くぐもった声を。
「…そんな気分の時だってあらぁ…それに…し…心配するだろうが…」
「心配?」
身に付けていた防具を外していたフリックが顔を向ける。
まだ、ビクトールは突っ伏したままだ。
一瞬思案を廻らせたフリックだったが、思い当たって肯いた。
「ああ、ナナミの事だな。」
「……」
執務室を泣きながら飛び出したナナミをマイクロトフと追った時の事を、まだビクトールに話していない。
何かにつけてはあの姉弟の面倒をみるこの男にすれば、気を揉んで仕方ない事なのだろう。
『フリックさんに慰めて貰ったから。』
そういえば、ナナミがああ言った時に自分に不審な目を向けていた。
思い出して少しムカ付いたが、抑える。
「ビクトール。」
向いの席に腰を落ち着けて、フリックはテーブルの上で手を握り合わせた。
「あの時…」
そして。
まだ顔を上げないままのビクトールに向かって。
フリックは、屋上であったナナミとの遣り取りを話し始めた。





「俺は…お前とは違って上手い言葉で慰めてやる事なんて出来なかったけど…」
一部始終を話し終えて。
途中で顔を上げたビクトールを見る。
「でも、俺は俺の言葉で思ってる事を伝えた。それで…ナナミは解ってくれた筈だ。」
「…そうか…」
最後に、涙を拭って笑ったナナミ。
その笑顔を思い出したフリックが、優しい表情になった。
それを見るビクトールも柔らかく笑んでいる。
けれど。
「…で?」
「え?」
「その、後はどうしたんだよ…」
「後?後って、あの後すぐお前等と会っただろ?」
「だから、そのまた後だ。お前マイクロトフにどっか連れて行かれたじゃねえか。」
「あ…」
尋ねた後、ビクトールは頬杖を付いてそっぽを向いた。
「ま…言いたくねぇなら別にいいけどよ…」
「……」
「……」
重い圧し掛かるような沈黙の中。
フリックは逡巡した。

マイクロトフに抱き締められた事。
キスをされた事。
そしてそれに。
自分は少なからず感じてしまった事。
そしてそれが、酷く。
自分に罪悪感を齎した事。

それらをビクトールに話すべきか。


フリックが口を開く。
そして、小さく。
「……た。」
「あ?」
「俺に、一度、ナナミみたいに泣けって。マイクロトフが…」
「…っ」
ビクトールが振り返った。
どうしてか、険しい顔をして。
「それで、ヤツの胸の中で泣いてたってか?!こんな遅くまで!」
抑えた声だった。
けど、どこか責めるような。
「なっ…にを、馬鹿な事言うなよ!泣く訳ないだろ、俺が!!」
むっとして。
叫び返したフリックの腕を。
ビクトールが掴んで立ち上がった。
「な…」
「だったら、ここで泣け。」
言って、ビクトールがフリックを引き寄せた。
胸に抱き込んで、耳許で囁く。
「ほら、泣けって。」
「離せっ!!」
本気で、渾身の力を込めて。
フリックはビクトールを引き剥がそうとする。
しかし、それ以上の力で以って益々強い力で抱き締められる。
「やめろって、この…酔っ払いっ!」
「そういうお前だって酒臭いじゃねえか。」
「俺は酔ってなんかない!!」
「俺だって酔ってなんかねえよ…」
我武者羅に暴れて逃れようとするフリックを、ビクトールが抑え付ける。
それでもフリックは躍起になってもがいていた。

解っている。
単純な力だけではビクトールには叶わないことくらい。
けれど。
早く、離れなければ。

さっき、マイクロトフに抱き締められたのとは、全く違う。
あんな、穏やかさなど微塵もない。

自分は酔ってなどいない。
でも、体が熱い。
何故だか、もどかしいような、切ないような。
居ても立ってもいられなくて。
だから。
体が、勝手に暴れるのだ。



「なあ、フリック…俺は、お前とずっと一緒に居たけどよ。隠れてでもお前が泣いてることなんざ見た事ねえ…」
「……」
「オデッサを守れなかった俺に気兼ねして…ってんだったら謝る。」
「別にっ…」
「けどよ…お前が泣いてる姿なんて誰にも見られたくねえんだ…だからよ、泣くならここで泣いてくれ…」
「……」
「頼むから、他の奴には絶対、そんなの見せないでくれ…っ!」
ぎゅうぎゅう締め付けて、ビクトールが搾り出すような、声を。
苦しそうだ、と思って、自分もまた苦しいと思う。
息が、心臓が。


「…俺が、誰の前で泣くって言うんだよ…」
ビクトールの胸を押し戻す。
何とか、呼吸の出来るスペースを作り出して。
「それに…オデッサの事は、俺に取ってはもう泣く事じゃないんだ。」
顔を上げて、真っ直ぐ、ビクトールを見る。
見下ろす瞳は、伺うように見詰め返す。
「マイクロトフに言われた。ナナミに告げた言葉は俺の気持なんじゃないのかって。」
「……」
「そうだ、その通りだ。もう、逢えない事は辛くて悲しい、けど…いつもまでもそれに囚われているのは、違う。あいつもきっとそんな事望んでない筈だ…」
黒い瞳に、懸命に語り掛ける。
口下手な自分の気持ちが、上手く伝わるように。
「オデッサに出逢って、過した日々は一生忘れない。今でも、そしてこれからも、あいつは俺にとっては大事で、大切で、愛すべき女だ。」

忘れる事など、叶う筈もない。
あんなにも。
衝撃的で、強く、優しく、温かく、切なかった日々は。

「けど…他に、誰かを好きになる事は、悪い事じゃないと思えるようになったんだ。」
「……」
「あいつとの日々は決して無駄じゃなかった。教えて貰った色んな事…それを胸に刻んで生きていきたんだ。」

好きな人と共にいる、喜びや幸せ。
そして苦しみや痛みも。
優しくされる事で満たされた心。
愛する事で強くなれる想い。
そして犯してしまった過ち。
それらを忘れないで、これからを生きたいと。

「そう、思えるようになったんだ。だから、もう、悲しんで泣くなんて出来ない。あいつのためにも、笑って、前を向いていたいんだ。」

そんな風に思えるようになったのだと。
伝えたい。

「こんな風に思えるようになったのも、全部…」

それは、お前のお陰なのだと。

そう、ビクトールにフリックが告げる前に。

「それで…だからこれからは、マイクロトフと一緒に居てぇってか?」
「…え?」
「あいつの事が好きになったんだろ?それで…」
思ってもなかった台詞が、耳に届いて。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
そして。
反射的に言葉が出た。
「何言ってんだ!!バカ、俺が好きなのは…っ…?!」
出た、ものの。
自分が、何を言おうとしたかに驚いて口を噤む。
ビクトールの瞳が、自分を見詰めている。
伺うように。
いや、問い詰めるように。
「フリック…?」
掌が。
耳元から髪に挿し入った。
指が、生え際をなぞる。
途端、ぞくりと、甘痒いような感覚が体の奥の方から駆け上がって脚を震わせた。
脳裏に、マイクロトフが唇で同じところに触れたのを思い出す。
けれど、それの比ではいない程。
燃えるように、熱い。


「っ!!!」
「うおっ…?!」
今、持て得る全ての力を使って。
気付けばビクトールを突き飛ばしていた。
不意を喰らった体が、よろめいて数歩後ろに退く。
体が離れたその隙に、慌ててベッドに潜り込んだ。
毛布を頭から被って身を縮める。

「おい、フリック?」
背中の方からビクトールの、心配したような声がする。
「どうした?」
「何でもない!眠くなったから寝るだけだ!!」
「眠くって、お前な…そんな急に」
「煩い!ほっとけ!!」
「でもよ、ブーツくらい脱いだらどうだ?」
「ほっとけって言ってんだろ?!!」
暫く、躊躇いがちにあったビクトールの気配は。
それでも、溜息と共に遠くへ去った。
がたがたと椅子の鳴る音がする。
また、テーブルに着いて酒を飲むのだろうか。



顔が熱い。
頭がくらくらする。

頭も、体も、酷く混乱しているみたいだ。
でなければ。
説明出来ない。
ただ、触れられただけで。
こんな。

ヤマトやカミューがあんな事を言うから。
マイクロトフがあんな事をするから。




こんな時は寝てしまうに限る。
何も考えず。
深く深く眠りに就く。
大丈夫だ。
自分は、その術を知っている。
何もかもを忘れて泥に塗れるようにして、眠ればいいのだ。
そうすれば。
また、朝になれば何もなかったように、戻れる。

大丈夫だ。


フリックは毛布に包まったままブーツを脱いでベッドの下へ放り出した。
そして、目を閉じる。
嫌がおうにも呼び覚まされる。感覚を。
無理矢理押し殺しながら。



<act.19>に続く 2003.12.08



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