ボクの背中には羽根がある。3



ここ数日、フリックは困惑の日々を送っていた。


ビクトールが、自分の事を『好き』だと云う。
そして、どうやら自分もビクトールの事が『好き』なのらしい―――


らしい―――とは、そうビクトールに指摘されたからであって。
そう云われてみると、成る程彼の存在は他の人間とは明らかに違っていて、自分の中で大きく居座っている。
けれど、ビクトールの言う『好き』の意味で考えた事など未だかつて無かったから・・・今でも、ぴんとこない。
『好き』か?と、問われれば、間違い無く『好き』だと答えるだろう。しかし、それは相棒として、友人としてであって。恋人として・・・『好き』なのかどうかは今一自信が持てないでいる。ビクトールはどうやっても女には見えないし、その・・・に・・・肉体関係を持ちたいなんて、思った事など一度も無い。

けれど―――

確かに自分はビクトールに『好き』だと言われて、嬉しかったのだ。『お前と、ずっと生きていたい』そう言われて、自分もそれを望んでいるのだと思い知った。一緒に居たい。側に居られなくなるのは、嫌だと。
そして、ビクトールが誰かを想っているのだと、知った時に感じたあの胸の痛みや、自分以外の誰かがビクトールの隣で笑っている事を思って、逃げ出したくなった気持ちは・・・今になって思えば、ビクトールが『好き』だからこそだったのだろう。
そう、思ってみても、やはりぴんと来ない。
何故なら、自分はもうこの先誰かを『好き』になれるとは、思ってなかったから。

まだ、2年しか経っていない―――彼女が、逝ってから。

彼女・・・オデッサは自分にとって、かけがえの無いとても大事な人だった。
愛していた。
とても、とても、心から。
自分の命を掛ける事さえ厭わない程に、愛していたのに―――自分では無く、彼女が先に逝ってしまった。
それが運命だったなんて言葉でなんか、片付けてしまいたく無い。側を離れた事を酷く悔やんで、守り通せなかった自分を責めた。だから、他の誰かを『好き』になる事は、赦されない事の様な気がしている。それに―――まだ、その傷は癒える事が無くて・・・今でも、いや、きっと一生自分に刻まれて消えないのだろうと思う。オデッサへの想いと共に。そんな自分が他の誰かを好きになるなんて、信じられない。



フリックは書類の上でペンを握った手を止め、大きく溜息を付いた。執務室で報告書を作成していたのだが、ついついうわの空になってしまって、一向に進んでなかったのだ。これでは仕事にならないと、一息入れる事に決め、大きく伸びをした。
窓からは明るい日差しが、大きく切り取られて床に光を落としている。垣間見える空は青く澄んでいて・・・こんな日に部屋で閉じこもっているのは、勿体無い気分にさせられる。フリックはその窓の外の景色に目をやって、もう一度溜息を吐いた。
本当は自分だって、こんな机に向かう仕事は向いて無いのだ。だが、隊長であるビクトールが全く手をつけないものだから、仕方無くやってるだけで。こんな仕事をやってるのも、仕事が全然捗らないのも、全部ビクトールのせいだと気付いてフリックは、今もどこかでサボっているかも知れない相棒を恨めしく思った。
どうして何をどう間違えて、自分はあの男と今こうして一緒にいるのだろう―――?
確か、解放軍時代はビクトールの事を胡散臭い奴だと、あまり良くは思ってなかった筈なのに・・・

「解放軍時代―――か・・・」
仕事を続行する事を諦めたフリックは、その当時へと想いを馳せた。





その時フリックは故郷の戦士の村のしきたりである、成人の儀式の途中だった。
成人の儀式とは―――特に何か決められた事をする、というのでは無く、自分で戦士として納得のいく成果を上げる事を指す。決められていないから、何をするのか、どこで終わりとするのかは本人の気分次第なので、早々に切り上げて村に帰る若者もそう少なくは無かった。しかし、このフリックという男、根が真面目なモノだから、その『何か』を果たすまで修行に明け暮れながらも流浪の旅を続けていたのだ。
そして、そんな時―――彼女、オデッサ・シルバーバーグに出逢ったのだった。
当時かつては『黄金の皇帝』と呼ばれた男が帝位に就いていたにも係わらず、赤月帝国は腐敗の一路を辿っていた。政治を顧みず私腹を肥やす官僚達、盗賊・魔物の類の横行に、民衆の不満は高くなっていく。そんな中でとうとう反乱の目ともいうべき組織が出来たのだと噂されているのが、フリックの耳にも届いていた。


偶然は、当たり前だが突然やって来るもので。


その、反乱軍のリーダーであるオデッサと出会ったのは、ほんの些細な出来事から。
何やら数人の男たちに乱暴に連行されそうになっていた女性を、見るに見かねたフリックが助け舟を出したのがキッカケで・・・
「ありがとう、とても助かったわ。ねぇ、貴方とても強いのね!もしよかったら私達に力を貸してくれない?!」
そう言って、強引にフリックは地下にある組織のアジトへと、引っ張って行かれたのだった。
最初、巷で噂される物騒な集団の頭を張るとは、とてもでないが思えなかった。彼女は美人で柔らかい物腰をしていて・・・身体だって腰なんか細くて折れそうだったから。ただ、瞳には強い強い光が宿っているのには、とても印象付けられたけれど。
どうせお嬢様の道楽か何かだろ・・・と思っていたフリックは、初めて闘うオデッサの姿を見てその思い違いに気付く。側にいる背丈に近い程ある大きな剣を構えたハンフリーという男に、守ってもらうのだとてっきり思っていた彼女は、自ら剣を取りその身を戦いの場へと晒していた。女伊達らに気丈に剣を振るう彼女の瞳は、怒りと哀しみとで益々宿していた光を強くしている。道楽でも気紛れでもなく、真剣そのものであると思わざるを得ないその姿に、フリックは自分もこの闘いに本気で参加する事を決意したのである。
オデッサという女性は知れば知る程、奥が深くて・・・
普段は貴族のお嬢様然としていて、少し惚けているもののふわりと笑うと辺りに花が咲いた様で。その温かい雰囲気は一緒に居るととても穏やかな気持ちにさせられた。けれど、その裏側にある強固な意志の力と頑なまでの真っ直ぐな精神。優しくて温かであるにも係わらず、厳しく冷徹な彼女。
気が付けばフリックは、オデッサから目が離せなくなっていた。


一度だけ、その彼女に訊いた事がある。

「どうして、解放運動を始め様と思ったんだ?」
「―――婚約者を・・・帝国に殺されたの。その、仇を討ちたかった・・・」
「・・・・・・」
「ふふ・・・自分の復讐の為だなんて、幻滅した?私だって・・・ホントはそんなお綺麗な人間じゃ無いんですもの。でも・・・でもね、それだけじゃ、無いわ。」
誰かが・・・誰でもいいから、『キッカケ』を作る事が大事なのだと、彼女は言った。ほんの小さな石コロでもいい。それを元に大きな礎をきっと周りの人達が築いてくれるから。
「あなたも、その内の一人なのよ?出来れば私の代わりに、リーダーになって欲しいくらい。」
その力があるのだから―――とオデッサはフリックに微笑んで見せた。その笑顔が何だかとても儚くて、フリックは思わず抱き締めたい衝動に駆られる。こんな気持ちは初めてで・・・けれど、本当に抱き締める事なんか出来はしなくて、一歩も動けなくて佇むばかりだ。
「いや、リーダーはやっぱり、君しか考えられないよ。俺は、その君を守りたいんだ・・・」
守りたい・・・そう、守りたいんだ。今迄彼女はそんな素振りを見せなかったから、気付かなかったけれど、きっと自分を奮い立たせて生きているのだろう。弱くて逃げ出したくなる自分を、必死で隠して不安など微塵も見せない様にして。
それを―――支えてやりたいと、想う。出来るならば、自分が・・・彼女の安らぎになりたい、と心から想った。
そして、この時からフリックはオデッサに忠誠を誓う。彼女を守る為、支える為に。




月日は流れ―――解放軍がその勢力を強めていく頃には、リーダーを守る『青雷のフリック』の名は世間に広まっていた。いつも寄り添う様に戦場で戦う二人は、自他共に認める恋人同士として解放軍の中でも認められていた。そう、フリックは全身全霊を掛けて、オデッサを守りサポートした。その真摯な態度に心打たれてか、オデッサはフリックの気持ちを受け入れてくれた。『好き』だとも、言ってくれたのだ。

けれど―――

周りがいかに認め様とも、オデッサ本人が何と言ようとも、拭いきれない不安がフリックの心の内にはあった。
『婚約者の、仇を討ちたい』
あの、オデッサの言葉がどうしても頭を離れない。それに最近オデッサと、言い争う機会が多くなっていたから。
「お願い、もっとリーダーとしての自覚を持って欲しいの。」
「リーダーは君だろ?俺は、その君を守りたいんだっ!」
何度となく交わされた会話。
恋人同士―――と噂されても、実際はそんな甘い空気を分かち合う事は少なかった。
いつもいつも解放軍を優先するオデッサ。
解ってはいる。
彼女は自分の恋人である以前に、幾人もの命を左右する重大な責任を負っている。この帝国の未来ですら、彼女の細い両肩に掛かっていると言っても過言では無いだろう。そんな彼女の肩の荷が少しでも降りれば―――と、副リーダーの立場を渋々ながらも、引き受けたのだから。

けれど、どうしても思ってしまう。
オデッサが解放軍を優先させるのは、殺されたかつての婚約者を想っての事なのでは、と。
今でも・・・その男の事を自分より愛しているのではないか、と。
自分を好きだと言う、オデッサが信じられないという訳では無い。
けれど、けれど・・・




フリックが拭い切れない不安を抱えたまま、葛藤の日々を過ごしていたその頃に、その男はやって来た。
「今日から解放軍の仲間になった、ビクトールよ。仲良くしてね。」
「おぅ!よろしくな。」
オデッサが連れてきたそいつは、デカイ体に幾つかの傷を飾りにしていて見るからに傭兵くずれだと分かる。人懐こい笑顔を浮かべているものの、その鋭い眼光に、フリックは直感的に油断なら無いヤツだと、眉を顰めた。
「私達、似た者同士なのよね〜」
分かっているのかいないのか・・・オデッサはそう言ってクスクスと笑って、ビクトールを覗きこんでいる。何やら、親しげな雰囲気にフリックはムッとして、そんな二人を見遣った。
「ふぅん。そいつが、あんたのイイ男かい?」
「あら?どうして解っちゃったの?」
「そりゃあ、あんなおっとろしい顔で見られたんじゃ、解らない方がどうかしてるぜ?」
「・・・!嫌だわ、フリックったらっ!!」
ビクトールにくいと顎でフリックの方を指されたオデッサが、振り返って弾かれた様に吹き出した。笑い者にされてフリックは、益々むっとしてビクトールを睨み付けた。
「ま、そう睨みなさんなって。取ったりしやしねぇからよ。」
「なっ・・・!」
「もうっ!仲良くしてねって、言ってるでしょう?!」
にやにやして人を喰った様な態度で言うビクトールに、フリックが思わず掴みかかりそうになるのを、慌ててオデッサが間に入る。
「いい?もし喧嘩なんかしたら、二人共罰としてトイレ掃除一週間してもらいますからね!」
ぴしゃりと言われた男共は、うっと詰まってその動きを止めた。その二人の手を取ったオデッサが、無理矢理その手を握らせてにっこりと微笑むのに、渋々とフリックは握手を交わす。その手は大きくて分厚くて堅かった。ただ、それだけの事にフリックは何故か無性に腹が立っていた。
こうして、最低最悪なビクトールとの出会いは、果たされたのである。




ビクトールがここへ来て1ヶ月程が経った。彼は直ぐに解放軍とのメンバー達に打ち解けていった。新参者であるにも係わらず、年下の者からは頼りにされていたりして、もう古くからの住人であると錯覚する程に。かと言って、別に大きな顔をする訳でも無いビクトールは、皆からとても慕われている様だった。
フリックには、それが面白くなかった。面白く無い訳はもう一つある。オデッサが異様にヤツを気に入っているからだ。勿論、それは男としてでは無く、友人としてなのだが。しかし、それがフリックを余計に苛立たせていた。
オデッサの事は、一人の女性として愛しているだけでは無く、尊敬もしている。そのオデッサが友人として、心を開く数少ない相手として、ビクトールを認めている。あの・・・でかくて、うるさくて、ずうずうしい事この上ない男を、だ。その事が酷く気に入らない。
最近そんなこんなで、いつも一緒に居るフリックとオデッサに、当然の様にビクトールが付いて回る事が多くなっていた。そんな時、ビクトールはフリックをよくからかった。その度に剥きになるフリックをオデッサが宥める、というのが解放軍では日常茶飯事になっている程。

声を上げて笑うオデッサに、むっとして真赤になったフリック。それをどこか幸せそうに見るビクトール。

フリックは気付いてなかったが、解放軍の人々は、そんな彼らをとても微笑ましく見ていた。端から見ると、仲の良い友人がじゃれ合っている様にしか見えない。そんな楽しくて幸せな時間。早く日の当る場所で皆がこうした時間を過ごせる様にと、励みになっていた事。
しかし、こんな時フリックは酷く自己嫌悪に陥ってしまうのだ。楽しそうに笑うオデッサ。きっと自分ではこんな風に笑わせる事なんか出来ないのだろう。特に最近は、二人になると例の口論が始まってしまう事が多くなっていたから。
もしかすると、オデッサには自分では無く、このビクトールの様な男が必要なのではないのか、と思ってしまう。自分では、オデッサを癒す事なんか出来ないのではないか、とも。

『ビクトールもね、昔にとても大事な人を亡くした事があるの。』
それを訊いた時、最初にオデッサが言った『似た者同士』という意味が解った。
確かに、似ているのだろう。境遇も、その強さ、も。
二人共、普段はそんな事おくびにも出さない。けれど、きっとその癒しきれない傷を抱えて、孤独と闘っているのだろう。そして、それでも他人を思いやれる気持ちがあって・・・とても敵わないと、思う。
ビクトールにも、オデッサにも。
そう、解っているのだ。
ビクトールが気に入らないのは、自分に無いものを持っているから。その強さと、人を惹きつける何か。
オデッサが気を許すのも解るのだ、ホントは。




『人にとって、真実ってのがひとつじゃなきゃいけねぇって、事はねぇだろ?』
その後、こうも言われた。
『人ってのは変わってくもんだろ。けど、それは悪い事じゃねぇ。変わる前の気持ちだって、無くなるって訳でもねぇ。』
『大事なもんが増えるってだけだ。そん中で今、オデッサにとって一番大事なヤツってのが、お前さんだって事じゃねぇのかよ。』
ついうっかり酒の席で洩らしてしまった愚痴に、普段の不真面目な態度とは打って変わった真剣な面持ちで、ビクトールは応えてくれた。
『オデッサは今でも、死んだ婚約者の事を好きでいるんだ。』
『馬鹿な事言うもんじゃねぇよ。大体、オデッサはお前の事が好きだっつってんだろ?』
『ああ、言ったさ!でも、そんな簡単に忘れられるもんかよっ?!帝国相手に復讐しようって位、好きだった奴なんだぞ!!』
ビクトールの解った風な口振りに、かっとなって叫んだフリックに返された言葉。結局、その時は解った様でいて、解らなかったのだが。ただ、ビクトールのその台詞を否定してはいけない気がして、その場は黙っていたに過ぎなかった。その言葉がビクトール自身の経験からくるものなのかは、訊けず終いだったが彼はオデッサとその気持ちを共有する事が出来るのだろう。だからこその、言葉。
この男ならば、オデッサの気持ちを解ってやれるのだと、フリックはそう思って悔しくて泣きたくなったものだ。
敵わない、と思う。
けれど、負けたくない。
譲れない事もあるんだと、フリックは意地とプライドでビクトールに張り合っていた。




―――そして、その日は訪れた。


『すまない。フリック。』
フリックはカクの街で、ぼんやりとビクトールの顔を思い出していた。今迄一度だって見た事が無い様な、傷ついた顔をしていた。
オデッサが死んだ。
何だか、まだ現実味が沸いてこない。
けれど、それは真実なのだろう。本拠地にいた人々が嘘を言ってる様には見えなかったし・・・あの、ビクトールが謝っていた。
怒りにまかせて飛び出して来てしまったフリックだったが、穏やかな街の様子に少しづつ、冷静さを取り戻していた。抜ける様な青い空の下、子供たちが楽しげに鬼ごっこに興じている。長閑な街の風景の一角に自分が突っ立っているのが、酷く似つかわしく無いと思って、フリックは空を仰ぎ見た。
『何だって、おいビクトール!どう云う事だ!お前が付いていて、どうしてっ?!』
つい怒鳴ってしまったが、きっと、ビクトールは悪く無いのだろう。
ビクトールはオデッサの良き友人だった。ビクトールにとっても、そうだっただろう。
そのビクトールがオデッサを守らない筈は無い。そんな男じゃ無い事は嫌になる程、知っている。きっと、何かどうしようもない訳があったに違いない。
「・・・・・・っ!」
覚悟は、しているつもりだった。
戦場に身を置くのであれば、万が一の事が有り得るのだから。
けれど―――まさか、それが自分の居ない間に起こるなんて。
命を懸けて守りたい、と思っていたのに。あの時、何を言われてもついて行けば良かった。
なくしてから気付く事がある。
こんなに早く二度と逢えなくなるのなら―――
もっと側にいればよかった。
もっと愛せばよかった。
もっともっと優しく出来た筈なのに・・・
見上げる空が滲んで良く見えなくなって来た。気が付けば、自分でも知らない内に奥歯を強く噛み締めている。体が震えているのも解る。痛いくらいに拳を握り締めても、溢れてくるものを押し留める事は出来なくて。
耳に届く子供たちの声や、体を柔らかく撫でてゆく優しい風が、より一層フリックに哀しさを与えていた。道端で泣くだなんて、普段のフリックからはとても想像出来ないけれど・・・ここには誰も自分を知る人も居なくて、この世には一番の自分を見せたかったその人も居なくて。行き交う人々が自分を盗み見る姿が目の隅に写っても、フリックは涙を拭う事をしなかった。

もう暫くすると・・・あの、おせっかいが新しいリーダーを連れて、此処へやって来るだろう。

だから、せめて―――
せめて、その間まではオデッサの事だけを考えさせて欲しい。

『ねぇ、フリック。私ね、貴方に逢えた事・・・ほんとに感謝してるの。貴方を好きになってよかった。』
『今、とても幸せなの。だからこそ、思える事もあるわ。』
昔の自分の様に辛い思いをする人を、もうこれ以上作りたくは無いのだと。自分はフリックに出逢えて、救われた。けれど、皆が皆そんな人に巡り逢えるはずも無くて・・・きっと今も悲しい想いを抱えている筈だと。そして、それは自分だったかも知れないから。
『皆が安心して笑って暮らせる、平和な国・・・そこで、貴方と生きる事が、私の望み。』
叶えてやりたかった。いや、自分もそれを夢見ていた。もう決して叶う事が無い願いだけれど・・・ならばせめて彼女の望んだ世界だけは、この手で掴み取りたい。その為に、自分がすべき事は―――

『お願い、もっとリーダーとしての自覚を持って欲しいの。』
解ってるさ。
かつて幾度となく言われた言葉。オデッサは事ある毎にフリックをリーダーへと推していた。今思えば、不思議な処のある彼女は自分の死を悟っていたのかも知れない。それに対して自分は、感情だけで反発して―――オデッサの気持ちなんて考えられずにいたんだろう。その期待には全然応えられていなかったに、違いない。
なくしてから気付く事がある。
けれど、ちゃんと気付いたから。
今度こそは、きっと彼女に胸を張れる様な自分に、なれるよう生きていこう。
涙はいつの間にか枯れていて、その名残を柔らかな風が癒すように触れていく。取り敢えずは、ビクトールが来たら謝ろう。新しいリーダーも、まだ心から歓迎は出来ないけれど・・・オデッサが認めた人間なら、自分も認めてやりたいと思う。
フリックは大きく息を吸い込んで、深呼吸すると両手で頬を思い切り叩いた。痛みで冴えた瞳は、今日の澄んだ空を思わせるような色を湛えている。マントをふわりと翻すと、フリックは力強く歩き出したのだった。




それから―――解放軍は躍進を遂げ、遂には皇帝バルバロッサと帝都グレッグミンスターに最期の時を、迎えさせた。
崩れ落ちる城。その中を新リーダー達と共に脱出しようとしていた、その時。ビクトールが残党兵を引き受けると言い出した。ああ、そうだ、こいつはそういう奴だったと、何故かのん気に思ったものだった。そんな事は出来ないとリーダーの少年が立ち止まるのに、ビクトールは笑って応える。
「なぁ〜に、大丈夫だ。心配するな。直ぐに後を追う。」
その直後に『たのむ』と言われたフリックは、素直にその言葉に従った。不思議と、ビクトールが死ぬかもしれないという考えは浮かばなかった。この男なら、きっと瓦礫の中からでも這い出て来る事だろう―――では、自分は・・・?まだ不服そうにしている少年を促しながら、フリックの頭を掠めるある考え。
自分とオデッサとの約束は今、果たされた。これから新しい国を造るのは、この若いリーダーの役目だろう。
では、自分は―――この先どうすればいいのだろう?

「馬鹿野郎!気をつけろっ!」
目の端に飛び込んできた弓矢に、フリックは慌ててその少年を突き飛ばして叫ぶ。脇腹に鈍く走る痛み。不覚にも怪我を負ってしまった。このままでは彼を守りながら逃げるのは、とても出来そうに無い。そう思ったフリックは、先に行くよう少年に告げる。やはり嫌がる彼に自分で首を切るとまで言って、フリックは突き放した。怒こった様に踵を返した少年の背を見送りながら、死ぬのはまだ早いから・・・と言った自分の言葉を思い起こす。本当にそう思っているか?自問して笑ってしまった。本当はもう、此処でこのまま死んでもいいとさえ、思ってる。帝国は滅んで・・・自分の、そしてオデッサの復讐も遂げた。オデッサの存在しないこの世界に、未練もあまり残ってはいない。
傷口が激しく痛んで・・・血が出ていくのが解る。もう本当にやばいと思ったフリックの瞳に、先程別れたあの男の姿が映った。
やっぱり、生きていたんだと思ったフリックに、何故か嬉しさが込み上げてくる。
「これで、思う存分戦えるな。」
リーダーは?と尋ねたのに、先に行ったとフリックが告げると、ビクトールはにやりと笑った。どこかビクトールも嬉しそうに見えるのは、自分の気のせいだろうか―――?フリックは朦朧とする意識を必死に引き起こして、足を踏ん張った。
「ああ、お前と一緒というのは、気に入らないが・・・」
こいつにだけは、弱いトコロを見せたくないと、フリックは気丈にも憎まれ口を叩きながら、剣を構える。そんなフリックに、ビクトールはもう一度笑い掛けた。今度はとても―――この場には不似合いな程に優しい瞳で。それを見取ったフリックが、おや?と顔を顰めたのと同時にビクトールは背を向け、後ろの敵兵に剣を翳す。フリックも目前の兵に気を引き締めた。
「行くぞ!星辰剣!」
「我が剣オデッサに掛けて、ここは通さんぞ!」
剣を振るい戦う最中、背中にビクトールの存在をひしひしと感じる。大きくて力強くて安心できる。自分も、ビクトールにこんな安心感を与えられるといいのに・・・と、フリックはふと思いついて、大きく首を振った。馬鹿馬鹿しいと自分に憤って、我武者羅に相手兵に剣を打ち下ろした。『このまま死んでもいい』という考えは、ビクトールが来てからはフリックの中から姿を消していた。ただ、生きる為に・・・仲間を生かせる為に戦っていた。

そして―――
フリックの意識は途絶える。その直前まで、ビクトールが自分を庇いながら戦っていた事だけは、記憶に残されたままに。




「あれからだったよな・・・さんざんな目に逢ったのも・・・」
一通り、回想を終えたフリックが可笑しそうに笑って、独り呟いた。崩れ落ちる城からビクトールが担ぎ出してくれた事は、3日後ぐらいにベッドの中で聞いた。それまで眠ったままの自分に、ずっとついててくれたのもビクトールだったらしい。とても心配してくれていたそうだ。
そこまでは、いい。
その後・・・砂漠を3往復もする羽目になって、死にかける目にあった。せっかく助かった命をこんなトコロで無くしてたまるか―――と必死に生きる事に専念させられた。ビクトールのお陰かどうか・・・今の自分は死ぬ事なんてとてもじゃないが、考えられなくなってしまっている。
気が付けば、ビクトールは自分の心の中に土足で踏み込んだだけじゃなく、居座って胡座を組んで寛いでいる。でも、それが・・・全然嫌では無く、むしろそのずうずうしくもふてぶてしい奴に、お茶でも出してやってる気分だ。
「・・・くっ・・・は、ははははははは」
ここまで思ったフリックは、その変な場面を想像してしまって、笑いが堪えきれなくなってしまった。泥棒姿のビクトールに、エプロンにほっかむりしてお茶を出す自分―――
「はぁ、はぁ、馬鹿みてぇ・・・」
笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、顔を上げたフリックはぎょっとして、その動きを止めた。噂をすればなんとやら・・・では無いが、戸口にビクトールが馬鹿みたいに突っ立って、自分を怪しげに見詰めていた。
「大丈夫か?お前―――」
驚いたのはビクトールも同じで・・・何しろ、笑い声がするなと思いながらドアを開けてみると、そこには独りで笑い転げるフリックがいたのだから。気でもふれたのかと、訝しんでもおかしくはないだろう。
「うっ、うるさいっっ!何だっ?!何か様かっっっ!!!」
トンデモナイ処を見られたと、フリックはビクトールに八つ当たりで怒鳴り散らした。そしてそのままフリックは羞恥で顔を真赤にして、そっぽを向いてしまう。どうやら、まともな様子のフリックに安心しながら、ビクトールは扉を閉めて部屋に入った。
「何だぁ?何がそんなに可笑しかったんだよ?俺にも教えろよ、なぁ。」
「うるさい・・・こっちの話だ。」
背中を向けたフリックの正面に回りこんで、ビクトールはわざと顔を大仰に覗き込んで見せる。それにフリックは出来る限り平静を保って、冷たくあしらった。あんな馬鹿らしい事、いちいち説明する気にもならない。
「ふぅん。ま、いいケドよ・・・」
ビクトールは頭をぼりぼり掻きながら、まだ目を合わさないフリックに続けた。
「でもな、お前がそうやって楽しそうに笑ってんの見んと、俺の方まで嬉しくなっちまうってのは、変な話だよなぁ・・・」
「・・・・・・」
まだまだからかわれるのだと思っていたフリックは、思いもよらない言葉に、ビクトールの方を振り向いた。窓を背にしたビクトールの周りから、光が洩れている。影になったビクトールの表情は、とても優しげで・・・フリックは思わずどきりとした。
何時の間に、彼の存在がこんなにも大きくなっていたのだろう?
もう他の誰かを好きになる事は、一生無いものだと思っていたのに―――


―――人にとって、真実ってのがひとつじゃなきゃいけねぇって、事はねぇだろ?
―――人ってのは変わってくもんだろ。けど、それは悪い事じゃねぇ。
―――変わる前の気持ちだって、無くなるって訳でもねぇ。
―――大事なもんが増えるってだけだ。そん中で今、一番大事なヤツってのが・・・


「ビクトール。」

「ん?何だ?」
フリックの声のトーンが微妙に変わったのを、ビクトールは聞き逃さなかった。きちんと瞳を合わせて来るのは、何かとても大切な事を言う時のフリックの癖だ。ビクトールは気を引き締めてその次の言葉を待った。
「俺はやっぱり、オデッサの事・・・今でもとても愛してるんだ。」
「・・・・・・」
「それでも、いいのか?お前は。そんなの・・・嫌じゃないか?」
「・・・今更、何言ってやがる。そんなこたぁとっくの昔に百も承知よ。」
俺の目は節穴じゃねぇからなと、ビクトールが付け加えて笑った。そして、手を差し伸べる。フリックはそれに素直に従って、ビクトールの胸の中に収まった。
「オデッサの事、忘れろなんて言わねぇよ。それに、忘れちゃいけねぇもんだって、ある筈だろ?」
「ああ・・・そうかもな・・・」
人を愛しいと想う気持ち、守りたいと想う気持ち、共に居た時の楽しくて幸せな気持ち、失った時の悲しみ・・・
全部忘れてはいけない気がする。記憶として心の中に留めて、また、他の誰かと恋に落ちた時、同じ過ちを繰り返さない様に・・・
もう、その恋に落ちている気はするんだけれど―――
ビクトールの腕の中は、とても温かくて・・・ずっと、こうしていたい気持ちになる。
オデッサを今でも愛してる。けれどそれとは違う処で、ビクトールはもっともっと大切な存在になってしまっていて。
気が付けば、好きになっていた。自分でもどうしてなのか解らないけど、この男がとても大事に思えてしまう。

今になって、オデッサの気持ちが解る気がした。
彼女もこんな風に、自分を受け入れていてくれたのだろう。きっと、死んだ婚約者の事は忘れないまま、自分の事を本当に好きでいてくれたに違いない。今頃になって漸く解る事が出来た。信じ切れなかった自分を、それでも愛してくれたオデッサの事はきっと一生忘れない。そして、その思いを胸に、これからはこの男と人生を共に歩いて行きたいのだと想う。
氷が溶けて行くかの様に、心の内の蟠りが消えていくのを感じながら、フリックはビクトールの背に腕を廻した。その途端、ビクトールの背に緊張が走ったのに、フリックはくすりと笑ってその腕に力を込める。それに応えるかの様にビクトールも、フリックを抱く腕をぎゅうと締め付けた。
「んで、フリック。俺は?俺の事も愛してるよなぁ?」
唇を耳元に寄せて低く囁くビクトールに、今度はフリックがびくんと体を堅くした。その唇がそのまま頬へと伝って、ちゅっちゅと音を立てて何度も押し付けられる。体を強張らせて黙ったままのフリックに、焦れたビクトールが悪戯っぽく耳朶を軽く噛みながら答えを促した。
「なぁって、フリック?」
「・・・言わなくても、解るだろ。お前の、その節穴じゃ無い目で見てればよ。」
ぞくりとする感覚に身を震わせたフリックが、逃れ様と体を捩りながら応えた言葉に、ビクトールはにやりと笑って言った。
「じゃあ、無茶苦茶愛されてんな、俺は。」
「・・・言ってろよ、この、馬鹿熊・・・」
怒った様な口振りの割には、否定をしないフリックに、嬉々としてビクトールは幸せそうに、満面の笑みで腕の中の愛しい人を見た。少し赤くなった頬と耳に吹き出しそうになるのを堪えながら。


今になっても、この男には敵わないと思う。いろんな意味で。
こんな風に言わなくても解ってくれるところや、オデッサへの想いですら笑って受け止めてくれるところ。
きっと、ビクトールが側にいてくれたからこそ、今こうして生きていて・・・幸せを感じる事が出来ているのだと。
フリックはそう思って、瞳を閉じた。温かい彼の体温が安らぎを与えてくれる。自分も彼にこんな風な想いを、与える事が出来たならいいのに。
さっきまでの、釈然としなかったビクトールへの想いを、今フリックは漸く受け入れる事が出来た。足りなかったピースの欠片を、過去の回想から拾い上げて。


『ねぇ、フリック。私ね、貴方に逢えた事・・・ほんとに感謝してるの。貴方を好きになってよかった。』

自分も、感謝してる。
オデッサに出逢えた事。
オデッサを好きになった事。

そして―――
ビクトールに出逢えた事。
ビクトールを好きになった事。


『お前と、ずっと生きていたい』
この先、きっと辛い事があっても二人でなら、乗り越えられる気がする。この想いが胸にある限り。
ビクトールの温もりを感じながら、フリックは『幸せ』に触れた気が、した。



                       続きます。まだまだ・・・ 2001.05.27



 な、難産でした・・・私にしては。この話では、本当に言いたい事が沢山あって…一体どれだけ皆様に伝える事が出来たのでしょうか?

 私はビクフリを書く上で、オデッサの事は必ず触れなければならないものだと、思っています。
フリックはオデッサと出逢っていたからこそ、今のフリックな訳で・・・勿論、ビクトールも然り。
これは私の考えで、押し付けるつもりは無いのですが、心の中には沢山の愛する人が存在して、その中で順番があると思う。で、一番の人が複数いても、いいのではないかとも、思っています。オデッサも一番。ビクトールも一番。でも、今共に生きて行きたいと思うのが、ビクトールなのです。まぁ、オデッサは死んじゃってる訳ですが。かと言って、オデッサが死んだから、ビクトールを好きになったという訳でもなくて。
う〜む、何を言いたいのかうまく、説明出来ない・・・(涙)

 で、この話の一番伝えたかった事は『フリックがビクトールを好きになってもいいんだと、自分で納得出来た』という事でした。真面目なフリックは死んだオデッサに操を捧げかねないですよね?でも、かつてオデッサが、自分を死んだ恋人を偲びながらも受け入れてくれた様に、自分もビクトールを受け入れてもいいのだと、思える様になった。とゆーお話でした。

 今回作成に当り幾つか資料見ましたが、オデッサとフリックの出会いについてはまったくの私の想像です。事実と違ってたらゴメンナサイです。
 ちなみに、ここに出て来るオデッサは、フリックから見た彼女なので、きっと実際よりかはかなり色眼鏡入ってます。続きはビクトールから見たオデッサをちょこっと書こうかな、と思ってます。って、まだまだ先は長そうですな・・・何時になったら初夜(笑)迎えるんでしょうかねぇ〜この二人は。






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