<act.7> フリックが交易のお供から帰ったのは、もう、夜半に差し掛かってからだった。 自室の扉を静かに開ける。 ランプの炎が揺れて、微妙な陰影を醸し出した部屋に。 見慣れた背中が。 「おう、お帰り。」 「…ただいま…」 椅子に座ったまま振り返って、穏やかな低い声で、ビクトールが言った。 それにフリックは、どこかほっとして返事を返す。 「シュウに聞いた。お前も、今日まで出張ってたんだってな。」 「ああ…ま、そっちと違って随分楽な仕事だったけどな。」 「ふうん?カミューと一緒だったって?」 「ああ、あいつ荒れちまって大変だったんだよなー」 「荒れる?何でだ?」 「……」 旅具やマントを自分の寝台に置いて、フリックが振り返る。 しかしビクトールはそれには答えなかった。 テーブルに置かれた酒瓶を手に取って軽く持ち上げる。 「お前も、やるか?」 「?…あ、ああ。」 答えがなかった事を、少し疑問に思いながらもフリックは頷く。 そして、酒瓶を見て思い出した。 「そうだ、これ…」 荷物を漁って包みを取り出す。 それはコボルト村で買った、あの珍しい酒だ。 「お?土産か?」 渡された包みを受け取って、がさがさと紙を開けながらビクトールが訊いた。 「ああ、懐かしいのがあってさ。」 「へえ…って、おい、これ…!」 出てきた酒の銘柄を確かめて、ビクトールが驚いた声を出す。 「お前、よくこんなの憶えてたな!」 嬉しそうに目を輝かせたビクトールを見て、フリックも嬉しそうに目を細める。 「お前こそ…よく憶えてたな。」 旅の間の、ほんの些細なひと時の。 たった一本飲んだきりの酒だった。 何十、何百分の一の一瓶。 それを、憶えていたなんて。 フリックは、本当に意外に思ってビクトールを見遣った。 ビクトールは、感慨深そうに瓶をしげしげと見詰めて応える。 「そりゃお前…だってこれは…」 昔、一緒に飲んだ。 コボルトが好むものであるのに、人の味覚にもよく合う。 そんな話をしてやると、コボルト村には言ったことがないと告げられた。 簡単にどんな所か話してやると、興味を引かれたのか、とても熱心に話しに聞き入っていた。 その、あまりに幼さを思わせる表情に。 思わず、笑みが漏れた。 途端に、むっとした顔になる。 それを宥めるように。 『いつか、一緒に行こうぜ。』 そう、言ったら。 凄く、嬉しそうに笑ったのだ。 その時の笑顔が。 酷く印象的で。 目に焼きついて離れなかった。 今でも。 時折、思い出す程に。 「ん?」 「あ、いや…」 慌てて手を振ったビクトールが、何でもないと頭を掻く。 そしてフリックに、まあ座れと椅子を引いてグラスを差し出した。 促されて腰掛けたフリックは、どこか機嫌が良く見えて。 その瞳は、嬉々としてビクトールの注ぐ酒を見詰めている。 波々と注いだグラスを手渡されると、柔らかい笑みが漏れた。 「ん、美味い。」 「ああ。」 二人してグラスを傾けて。 穏やかに笑い合う。 そうして、一本のワインにとても満たされた気分になって。 暫く、その空気に安堵しながら浸りきった。 「そういえば、明日じゃなかったのか?マイクロトフとの約束。」 「え?ああ…そういえばそうだったっけ…」 土産物のワインはとっくになくなり、追加の酒瓶を2本程空けた頃。 ぽつ、とビクトールが漏らした。 その言葉に顔を上げて、フリックが思い出したように頷く。 「……」 「……」 「…どこ、行くんだって?」 「さあ?クスクスとか言ってた気がするけど…」 もう、幾分酒も入っている。 3本を空ける間に、お互いの近況などは話終わってしまっていて。 口数も少なくなっていた。 そんな時分だからだろうか。 何故だか、口が重い。 「…まぁ…頑張って来いや…」 「何を頑張れってんだよ…」 ビクトールの台詞に、フリックががくりと項垂れる。 そのまま、フリックはどっとテーブルに突っ伏してしまった。 ビクトールの側からは、顔が見えなくなる。 ただ、流れる髪と、そこから見え隠れする青いバンダナと。 長い指と、少し下がった袖から見える日焼けしてない肌とだけが見える。 「なあ。」 「ん…」 掌を。 伸ばして、フリックの頭に乗せる。 そして、ビクトールは指を差し入れて、髪を梳く。 微かに、びくりと肩が揺れた。 が、フリックは大人しくそのままにさせていた。 小さな、沈黙が続いて。 それは不意にビクトールによって破られた。 「…ほんとに、マイクロトフと付き合うのか?」 「……」 もぞ、と動いて。 くぐもった声が。 「ヤマトに…付き合ってる奴も好きな奴もいないのなら、誰かと付き合ってみたら、って言われた。」 「ああそりゃまた…」 その言葉は効くだろうな、とビクトールが心で思う。 フリックは殊更、城主の少年に甘い傾向がある。 「…で…?」 「……」 フリックの髪を弄んだまま。 ビクトールは尋ねる。 「……いるの、か?好きな奴…」 噛みそうになって、ビクトールは内心焦った。 何て事はない。 ただのちょっとした質問だ。 なのに。 どうして。 自分はこんなに強張ってしまっているのだろう。 「いる。」 その一言で。 ビクトールは冷水を浴びたように固まってしまった。 そして、次の言葉で。 「オデッサ。」 全身が脱力した。 「…ああ、だろーな…」 どこかほっとしたような、がっかりしたような。 そんな気持でビクトールから溜息が出た。 しかしすぐに慌てて首を振る。 そんなビクトールを、自分を呆れでもしたと思ったフリックが顔を上げた。 「何だよ?俺が好きな奴って言ったら、他に誰がいるって言うんだよ?」 「俺が知るかよ、そんなもん。」 「……」 ビクトールを睨むように見ていたフリックだったが。 ふっと視線を落として俯いた。 「そうだよな。」 「あ?」 「お前にとっては、俺が何を思って何をしてるかなんて、どうでもいい事だもんな。」 「おい?」 フリックは顔を上げて、小さく笑った。 「もう俺は寝る。おやすみ。」 言った後、すぐさまくるりと向きを変えて寝台に向う。 その背中は追随を許さないと語っている。 だから、ビクトールはただ、見てるだけしか出来なかった。 フリックは、笑っていた。 いた、けど。 辛そうに、見えたのは気のせいだろうか。 さっきまでは、共に酒を飲んで、楽しい穏やかな時間を共有していた筈だ。 久しぶりに会った、相棒同士なら、そうなって当然だ。 それなのに。 どうして、今、こんなうすら寒い思いをしているのだろう。 普通なら、色恋沙汰なんて一番盛り上がる酒の肴である筈なのに。 どうして。 フリック相手には。 こんなにも苦い思いをしなくてはならないのだろう。 ビクトールの胸に、ちくりと刺さる棘がある。 その、痛みが、数日前のカミューとの遣り取りを思い出させた。 けれど。 「そんな事ある訳ねぇだろ…」 そっと、自分に言い聞かせるように。 ビクトールは呟いて寝台に横たわるフリックを見た。 |
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