■  交差 ─初回─  ■





 質素なこの部屋の中は、外と同じ薄暮の中に沈んでいた。

 明かりは消されたのではなく、まだ灯されぬままなのだろう。窓から差し込む斜光の名残も立ち消えていくこの時間、宿の部屋はかなり見通しが悪くなっていた。扉を開けた大男は己の足下を確かめるように、ゆっくりと床を踏みしめる。後ろ手で閉めた木の扉は、ぎぃとくたびれた軋みを上げ、押し黙った。
 室内はしんとした音が鳴り響くばかりで、物音の一つも立たぬままだ。誰もいない部屋のような奇妙な間があると、――錯覚しそうになる。ここにある人の気配は今、そのくらいにささやかなものとしか感じ取れない。
 耳を澄ませても分からないほどひそとした寝息は、男の耳にはか細いもののようにさえ聞こえた。ビクトールは舌打ちをしたい気持ちを抑えて、テーブルの上にある陶製の燭台に火を灯した。
 灯心に宿ったオレンジ色の光は狭い室内と、寝台に横たわる者の形を浮かび上がらせた。
 燭台はテーブルの上に置き去りにして、ビクトールは寝台の枕元へと歩み寄った。掛布の端から覗いている青年の顔は端麗とも言える面立ちだが、決して安らいではない。何かを堪えるように、眉間には皺が刻まれている。

お絵描きBBSにあった絵


 部屋の変化に気付かないまま、痩せた身体は眠りの中に堕ちている。身じろぎもしないその様は、気を失っているようにすら見える。実際にこの様子なら、彼は気を失うかのようにここへ倒れ、そのまま眠ってしまったのだろう。
 なのにこの青年は、誰の手も借りずにこの部屋まで戻ったのだ。自分にも周囲にも頑なな彼は、今日の不調を誰にも気取らせることがなかった。
 いつも彼は弱音を吐くこともなければ、助けを求めることもない。ここに味方はいないかのように、自力で何とかしようとする。
 たとえ、己の身体が未だこのような状態であってもだ。
 触れるまでもなく、熱いと分かる身体だった。



 街道から外れたこんな寒村にも、王都落城の話は伝わってくるようになった。炎に包まれた宮殿、国を意のままに操っていた女魔術師の素性、真の紋章の相克、――名君と謳われた皇帝の末路と、運命を担った少年のその後。
 村の酒場で囁かれる話は、どれも憶測混じりのあやふやなものだ。事実から随分とかけ離れたものもある会話が交わされる時、多弁であるはずの男は黙って耳を傾けることを常とした。他愛もない噂話に、解放軍の幹部は横槍を入れることもない。
 全ては一月ほど前の話になるのだろうか、と感慨に浸る。
 あの戦いを経て仲間の元へ戻る代わりに、道中見つけたこの村で過ごした時間は、ビクトールの身体から傷と疲れを拭いさるのに充分な長さがあった。風来坊の名の通りどこでも生きていける男は、この村でもすっかり馴染み、今や重宝される存在となっている。
 だが、男と共にこの村へ到った青年の調子は一向に思わしくない。
 燃えさかる敵城からの脱出劇の際、フリックが腹部に負った矢傷は最初彼の命にも食い込もうとした。鍛え抜かれた身体だからこそ死地を脱することができたのだ、と村の医者は言ったものだ。彼自身の若さと戦士としての体力は、じれるほどゆっくりとした速度ではあったが、確かに傷を塞いでいった。
 だが、完全に癒えるにはまだ時間が足らないのだろう。痕の消えない傷はこうして熱を発し、ともすれば青年を昏倒させる。
 大人しく寝ていればまだましかもしれないが、あいにくとこの患者は大人しい性格ではなかった。筋肉が萎えるからと動きたがり、目を離せば外へと出かけてしまう。剣の訓練を始めようとした時は、さすがにビクトールは羽交い締めにして止めた。
 だが、懲りている様子は全くない。ビクトールから見て戦士の村出身であるこの青年は、己の傷の状態よりも、身体が衰えることを恐れている節がある。戦うための腕が鈍ることを、もしかすると死ぬことよりも嫌がっている。寝台に伏せるしかない状態になっても、その目にあるものはいつも焦りと苛立ちの光だ。
 彼はいつも、一刻も早く起きあがろうともがいている。この部屋から出られるように、無理をしている。
 何のために、と思えば、ビクトールの頭にはただ一つの答えが浮かぶ。
 見知らぬこの村から離れるためだろう。親しい仲間たちのところへ、あるいは故郷へと戻るためだろう。
 以前から仲の悪かった男と、早く別れたいからだろう。
 この結論はいつもビクトールを憮然とさせる。だが、過去は覆しようがない。
 この青年と自分は確かに仲が良くなかった。性格も違えば価値観も全く違うのだ、知り合った頃から、決して親しいとは言えなかった。それが今こうして共にあるのは、あの戦いの中一人の少年を逃がすために戦場に留まったためであり、こうして同じ部屋にいるのは、青年が深い傷を負ったからだ。
 あの戦いがなければ、もう顔も会わせることはなかったかもしれない。フリックが負傷して倒れることがなければ、彼はきっと自分の足で男の元からとうに離れていたことだろう。
 今のこの状態とは、何もかもが偶然の積み重なりであり、前からの約束事など一つもない。
「――ちっ」
 ビクトールは、伸びすぎている自分の髪を乱暴にかきむしった。窓硝子に映る己の顔は、かなり不景気なものだ。熱にうなされている怪我人といい勝負かもしれない、と思うと更に気は滅入ってきた。
 フリックが今というこの状況を、甘受していないことは知っている。己もまた、この状況を決して最良のものだとは思っていない。
 けれど、自分の不満と彼の不満は違うのだ。
 約束事など知ったことか、と男は呟く。共にあることを約束してないというのならば、別れることもまた定めていたわけではないではないか。
 かつてのことはかつてのことだ。今は、この青年を手放すつもりは己にはもうない。
 その理由は、と問われれば自分にもよく分からない。だが、自分がそう思っているということは確かな事実だ。看護をしている内に情が移ったとか、まだろくに歩けもしない負傷者を見捨てるのは夢見が悪いとか、そういう程度のものではない。
 解放軍にいた頃は気付かなかった己自身が、平和であり退屈なこの村で過ごす内に見えてくるようになっていた。自分でもよく分からない、もっと濃度のあるこの青年に対する感情が、自分の奥深くに巣くっている。
 手放せないのではない。手放したくないのだ。この青年からもまた、己の手を握り返してほしいのだ。
 だからこそ、今フリックがこのようにあることを腹立たしく感じるのだ。
 解放軍時代の自分は、周囲からそれなりに頼りにされてきたつもりだ。部下たちからも、仲間からも、リーダーであった女性や少年からも、話をもちかけられることは多かった。
 しかしこの青年にとっては、ビクトールという男の価値は今でさえも変わらないのだ。昔と同じように、自分の手を借りようとしたことなど一度もない。相手の存在自体がないかのように振る舞い、何もかも自分だけで済まそうとする。その結果、無理を重ねてこうして倒れたとしても、態度を改めることはない。
 そんなに俺は頼りない男に見えるのだろうか。そう考えると、情けない気持ちになってくる。
 大の大人が他人に甘えかかるというのは、確かに薄ら寒いものがある。これが他の人間であるならば、自分はおそらく相手を受け入れるのではなく、はね除けていることだろう。
 けれど、フリックの場合は事情が違う。一度は死にかけた、今もまだ傷の癒えていない怪我人だ。
 つい先日まで、身体すらろくに起こせなかったというのに。今でさえ、少し動けば熱を発するような調子だというのに、彼は頑として他人の手を頼らない。
 今ならば、甘えかかってもらってもよかった。むしろ、もっと頼ってほしかった。
 自分にはそのくらいの力があるとうぬぼれていたはずなのだが。――本当にただのうぬぼれだったのだろうか。
 ビクトールはふと、自分の腕を見た。
 この村にいる男の誰よりも逞しく太い両腕は、この青年を支えることに何の苦労もいらないはずだ。実際、気を失い脱力した身体を抱えたこともある。もっとも、その後に返ってきたのは激しい罵声ばかりだったのだが。付け加えたような謝意の言葉が、あの時はむなしく聞こえたものだ。
 自分はこの青年にはまだ、信用されていないのだろう。認められてもいないのだ。
「……ちぇ」
 目を覚まさない整った横顔を、ビクトールはしばらく眺めていた。どんな空よりも高く青い眸は、まだ自分を映そうとはしない。
 自分などはもう、気付けばこの頑固な青年の姿を追ってしまっているというのにだ。
 一体いつになったら、彼は自分を見てくれるのだろうか。
 果たしてそんな日がくるのだろうか、――ぼやきたくなるのをこらえて、ビクトールは枕元から踵を返した。ケトルを上に置いたストーブの向こう側には、備え付けの戸棚がある。男はその中から、自分の装備を取り出した。
 このままではよくない、と言うのは今日診察に来てくれた村医者の台詞だった。
 自分の力ではこれ以上の治療は無理だから、と医者はビクトールに隣町の噂を教えてくれた。話によると、隣国から医術の修行に赴いている医者が、この辺境の地に滞在しているというのだ。
 神医と呼ばれた男の弟子だ、という言葉にビクトールは膝を打った。弟子の話は初めてだが、師匠の方は自分たちの顔見知りだ。あの老人の名声と腕の確かさは、自分たちの身体で既によく知っている。
 その弟子と言うくらいなら、どうにかなるかもしれない。
 明日の朝出かける、とビクトールが言えば、弁当を作ってやるよと宿の女将は買って出た。村医者は紹介状をしたためておこうと言ってくれる。
 素朴な人となりの村人たちは、突如現れた満身創痍の戦士二人を、何の詮索もなく受け入れてくれた。彼らは男によく声をかけるばかりではない。未だ部屋にいることの方が多い青年の体も、こうして心配してくれている。
「……もうちょっとの、辛抱だからな」
 それは、自分もまた同じだ。
 怪我が治り、彼が自分の足で立てるようになった時のことを考えれば、胸は決して弾むばかりではなかった。おそらくは、一人で旅立とうとする青年と色々とやりあうことになる。
 それでも、この青年の身体が元のように癒えることを願うのは、紛れもない事実だ。
「今度はきっと良くなるぜ」
 少しでも苦しみがなくなればいい。
 顔に浮かんでいる痛みと熱が、早く消え去ってしまえばいい。遠出をするための荷物を点検しながら、ビクトールは無意識に呟いていた。
「ビクトール……?」
 呼びかけは小さなものだったはずだが、声が返ってきた。
 己の名を呼ばれて、ビクトールは振り返った。体こそ起きあがってはいないものの、寝台の上では、フリックが目を開けていた。
 半開きになった瞼の向こう側には、青い色が覗いている。
「よお。目が覚めたのか」
 ビクトールは枕元まで近づいて、屈み込んだ。まだグローブをはめていない手を伸ばして、額に滲んでいる汗を拭う。
 そのまま髪の毛をもてあそぶ指を、フリックは咎めようとしなかった。彼は男と、その背後に散らばっている旅の支度をぼんやりと見つめている。
 やがて、彼はぽつりと言った。
「……行くのか?」
「おう」
 ちょっとな、とビクトールは笑いかけようとして失敗した。
 療養の間にかなりやせた身体が、寝台から起きあがろうとして呻いている。
「おい馬鹿」
 ビクトールは手を伸ばして、よろめいた熱い背を支えた。
「何してんだよ。もう夜だぜ、今日はこのまま寝てろ。何か欲しいんだったら取ってきてやるから」
「……だったら、……俺の装備を、取ってくれ」
 苦痛を飲み込んでいる声は、彼の元の声よりも低い。
「すぐに支度する。俺も行く」
「……はあ?」
 脈絡もない相手の台詞に、ビクトールは付いていけずに絶句した。多弁であるはずの男であっても、とっさに言葉が思いつかなかったのだ。ひょっとしたら寝ぼけているのだろうか、と最初は疑ったくらいだ。
 ビクトールは、自分の腕の中にある相手を見た。見返してくる青い眼差しは熱のために潤んで、あるはずの怜悧さは欠いている。
 けれど、その力は決して弱くない。
「馬鹿か。お前は」
 触れるだけでも熱い体を、男はもう一度敷布に横たえようとした。
「無茶言うな。大体だな、熱が」
「一晩もあれば、熱なんか引く」
 自分の肩に置かれた手を、フリックは払った。
「この頃はそうだ。だから、平気だ」
「――馬鹿か、お前はっ」
 ビクトールは払われた手で、相手の両肩を鷲掴みにした。
 怪我人が相手だと分かっていても、声が荒立つのを抑えられなかった。大人しく寝ていたはずの相手がいきなりこんなことを言い出す理由を、彼は思いつくことができなかった。
 自分は戦いに出向くわけでもない。解放軍時代のように、危険な任務を引き受けた訳でもない。例えそうだったとしても、自分は五体満足の身体であり、フリックはまだ傷を治してもない怪我人だ。
 それなのに、付いて行くのだと彼は言う。まるで、ビクトール一人では心許ないとでも言いたげに、この状態であっても無理に起きあがろうとしている。
 あてにならないと、信用できないと、口で言われた方がまだマシだった。
「怪我人に気遣ってもらうほど、俺様はまだ落ちぶれちゃいねえよ」
 そんなに頼りなく思われているのか。――ビクトールの胸に過ぎったやるせなさが、彼の言葉を遠慮のないものにする。
「そもそもてめぇは、人んこと気遣えるような上等な身分かよ、ええ?――こんな身体でふざけんじゃねえよ!また棺桶に足をつっこむ気か!?」
「もう平気だ」
「フリック!」
「平気なんだ」
 気色ばむ男を前に、青年は一歩も引かなかった。聞く耳を持たない、という方が正しいかもしれない。自分をねじ伏せようとする力に抗い、身を起こしたまま顔を上げている。
 表情は俯くこともなく、ただ時折歯を噛みしめる。
「ビクトール」
 発熱するほどの傷なのだ、痛まないはずがない。無理をしていると自覚がないはずがない。
 なのに彼の声だけは静かで、震えすらない。
「本当に平気なんだ。もう」
 まるで言い聞かせるかのように、フリックは同じ言葉を繰り返している。その様子は、彼がただ頑固だからというばかりでは言い表せないように見えた。
 本拠地でよく見せられた、ビクトールへの不信感や対抗心から発せられていたものとは違う。とりつく島もないような、あの冷たさとは違う。
 何かが違う。そう感じるのは、触れている彼の身体が熱いからだろうか。
「今日だって、昼間は一日起きてられた。もう横になってなくたって平気なんだ。俺が一人で毎日動き回ってたのは、……お前だって、見てただろ?」
 まるで、懇願しているようだ。
 自尊心の高すぎるこの相手に最も相応しくない単語が、ビクトールの頭に浮かび上がった。フリックから頼まれ事などされたことは一度もないのに、今そんなことを思ってしまう。
 男のものよりも白い手が、自分の肩を押さえる腕に縋るように触れた。
「もう傷は塞がってるんだ。俺は。あと少ししたら、前と同じようになる」
「フリック」
「剣も。紋章も、本拠地にいた時と同じように、扱って――」
 いや、と金茶色の髪を揺らして首を振る。
「それ以上に、扱ってみせる。今だってきちんと、握ってみせる。今すぐにでも、戦ってみせる」
 戦うこと以外を知らない彼は、懸命にそのことだけを口にする。一途な性格のままに綴られる言葉は、訴えるようにビクトールには聞こえた。
「だからもう、大丈夫なんだ」
 己の身体の不調子を嘘にしてみせるほどのひたむきさで、彼は繰り返す。
「お前の迷惑には、絶対にならない」
 いつしかその眼差しは、真っ直ぐにビクトールへと当てられている。
「だから、俺も」
 固く強い意志を持つ声が、思いもよらずしっかりと響く。
「俺も、行く。お前が行くなら」
「……お前、……?」
「俺もお前と、旅に出る」
 待ってくれ、とも言わない。連れていってくれ、とも言わない。
 誰かの手を借りることもない、彼自分の意志だけで申し出る。
 かつての頃と同じように、意固地なほど頑なな口調だ。相手の妥協を許さない響きは、以前のビクトールにとっても時には腹立たしくなるものであったが、けれど決して嫌いにはなれなかった。
 彼の本質である凛としたこの純粋さを、いつも綺麗だと感じていた。
 そして、今もまた変わらない濁りのなさで、以前とは違う意志を告げられる。
「――フリック」
 ならばその意志を、どうして受け取れないわけがあるだろうか。
 思いもしなかった言葉を告げられたことに、ビクトールは狼狽えたりすることはなかった。フリックの理由など、どうでもよかった。仲の悪い男とどうして旅立とうとするのか、いつから心が変わったのかも気にならなかった。
 彼の本心の直ぐささえ変わらなければ、それでいい。
 昔のことはどうでもよかった。彼がこう口にする以上、これが今の彼の本心なのだ。
「落ち着けよ。ちょっと話を聞けって」
 もう一度身を起こそうとする青年を、ビクトールは前よりもやんわりとした力で押しとどめた。肩を抱きかかえ、宥めるように背をさすった。
「俺はちょっと、使いに出るだけだ」
「……え?」
「明日、隣の町まで出かけるだけだ。二日、――いや一日あれば、戻ってこれる」
「……」
「旅に出るわけじゃねえよ。用事さえ済めば、すぐにまた戻ってくる」
 ビクトールは笑いかけながら、相手の身体を寝台へと戻そうとした。
 フリックは戸惑った表情を浮かべているが、それでも男の手の動きには抗った。身をよじり、分厚い胸板に手を当てて押し返そうとしている。
 風来坊の名の通り、そのまま帰ってこないと思われているのだろう。
確かにこの村の滞在時間は、ビクトールとしては長い方だ。この国に留まっている時間を考えるなら、長すぎると言ってもいい。追い求めた仇を討ち、女から少年へと受け継がれた戦いの結末も得て、なお留まる理由はない。
 理由などない。だからこれも、自分の意志だ。
 全てのしがらみが消えた今、自分はこの青年と共にありたいと思っている。
「フリック」
 相手の胸の内を知らぬまま、フリックはまだ起きあがろうとしている。聞き出すことも問いただすこともできない拙さは、こんなところでも彼に無理をさせている。
 自分の言うことを聞かず、寝ることを拒み続ける青年は子供のようだと思った。
 まだ本調子でない抵抗をあしらうのは、ビクトールにとってそれこそ子供を相手にしているのと同じだった。男は相手の腕を特に封じるまでもなく、太い両腕でその背を包み込んだ。
「フリック。だから落ち着けって」
 子供に対するものと同じように、相手の髪に、額に男は口づけた。
「お前を置いて行きやしねえよ。行きたくねえ」
 動きの止まった相手の耳元に、噛んで含めるように囁きかける。
「俺はお前と、旅立ちてえんだ」
 やがて、腕の中で細い身体の力が抜けた。くたり、と張り詰めていたものが切れたような手応えの身体を、両腕は難なく支える。
「なあ。だから今慌てて無理することなんかないだろ?それまで俺は待つつもりだ」
「……俺は……」
「俺と行くつもりなら、信用してくれよ」
 きかん気を起こした子供を宥めるように、何度も繰り返し口づける。触れるだけに留まるそれらは、先程の腕のように拒まれることはなかった。
 腕の中でゆっくりと、溶けるように体中の緊張がなくなっていくのが分かる。
「……ビクトール」
 それまで見上げるばかりだった顔が、ふと俯いた。額を分厚い胸元にすりつけるように、そのまま表情を隠してしまう。
「……俺は、子供じゃない……」
「知ってるって」
 ビクトールから、子供のようにただ庇護されることを避けようとした。背に守られるのではなく隣に立てるのだということを、口で説明するのではなく、行動で証明しようとした。そのために重ねてきた無理を思うと、ビクトールは思わず苦笑を漏らした。
 この青年は確かに、子供ではないだろう。ただし、子供よりもある意味不器用で純粋だ。
「お前は大した奴だよ。今更だけどな、思い知らされたぜ」
「……だったらっ……」
「そうだよな」
 子供じゃないんだよな、と耳にわざと吹きかけるようにして囁く。
 思わず上げられた顔に、ビクトールは手を添えた。手のひらに触れる肌の温度が、先ほどよりも熱くなっているのは気のせいだろうか。気のせいでないとするならば、その理由は何だろうか。
 この青年よりも人を聡く読む男は。相手にその理由を問い質すことはなかった。彼に言葉で求めることは、愚かなことだともう分かった。
 共に旅立ちたいのだと言葉にできなかったような相手に、そんなことはもう求めない。
 だから男も、自分の気持ちを言葉にすることはなかった。自分が今まで何を思い、何を願っていたかを言って聞かせることもなかった。
 ただ、上げさせた顔の、額でも頬でもない箇所に触れた。
「なあ」
 かすめ取るだけの接吻にも、みるみる内に上気していく顔に笑いかける。

体温の上がる青いのと余裕の熊

「子供じゃないんなら、俺の頼みを聞いてくれよ」
 覆い被さるようにして、自分よりも細い身体を寝台に倒した。
「今日はこのまま寝ちまえって」
「……」
「俺が戻ってくるまでに、熱くらい下げておいてくれよ。な」
 戻ってくる、という言葉に力を入れたことを、気付いてくれただろうか。
 シャツの襟元を掴んでいた手が、おそるおそる、という所作で離れた。とさり、と敷布の上に二つの腕が落ちる。
 腕も手も、相手の身体から離れた。青色の眼差しだけが、まだ男から離れない。
 瞬きもせず己に見入っているその目元に口付けると、瞼が閉じた。大人しくなった体を、力を込めないようにして抱きしめる。
「早く一緒にいこうぜ。なあ」
 囁いた声に対する返事は、もうなかった。目を閉じたことで、身体がまた眠りを思い出したのだろう。繰り返された吐息はやがて、寝息へと変わる。
 再び眠りの域に落ちた寝顔から、苦痛が取り除かれたわけではない。熱の下がらない身体はやはり辛いらしく、眉間は僅かに寄せられたままだ。
 けれどビクトールはその中に、今まではなかった安堵を見出す。
 寝台から離れた男は、散らかしていた己の荷物の元へと戻った。点検するためだけに取り出していたそれらをまとめ、手早く身に纏う。
 今の時刻は昼間ではなく、夜だ。暗がりはこれから深まるばかりで、朝に払われるまではまだ時間がある。
「かまうもんかよ」
 彼は全く気にすることなく、己の剣を腰に差した。足取りは何の悩みもなく、手は躊躇いもなく部屋のドアを押した。
 ビクトールはこのまま、出発した。少しでも早く戻るために。



20030321/途中までは表に載せられる話だと思ってたのですが、「子供じゃない」発言辺りから筆が滑りまして……裏格納決定〔笑)
今月サイト二周年を迎えられました、KIRIN ONLYさまへ。裏話ですいません〜


樹林コメント
ひゃー!お祝い、有難う御座いますー!!
いやー読んでてどきどきしてしまいましたよー
まだくっついてなくて、フリックが凄い純粋でひたむきで、ちょっとすれ違いとかあって、
甘くて、おでこや頬にちゅーとかしてたりして…大変私好みなお話でとても嬉しいですー!
えと、このお話は、お絵描きBBSにあった絵を元に書いて下さったそうです。
それもまた嬉しいですよねぇ。いやーはっはっは(←調子に乗ってます)
お仕事やオフ活動でお忙しい中、ほんとにほんとに有難う御座いました。
このご恩にいつか報えればいいなぁ…


有涼さんのサイト




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