「ビクトール?」 フリックは僅かに首を傾げた。 自分を引き寄せた男の名は、確かに今自分が呼んだものであるはずだ。言うことも、耳にすることも今はすっかり慣れた名前だ。 なのに、今それが全く違う男のように思えるのは何故なのだろうか。 「……ビクトー……ル……?」 名を繰り返そうとして、声は立ち消えてしまった。 口ごもったまま、青い眸はおずおずと男を見上げた。 腕の中に収めた青年は、しばらくの間動かなかった。 こういうことに慣れていない、ということは知っている。昔はちゃんと恋人がいたというのに、この手のことは未だに奥手だ、というより不器用なものだ。 「……ビクトー……ル……」 口にする自分の名も、何度目かで小さく途切れた。小さく身じろぎをして、それから彼はおずおずとこちらを見上げた。 空のような色の眸が、真っすぐに男を見ている。 落ち着かないような、困ったような感情が、取り繕うこともできずその面に浮かんでいる。隠し事のできないこの性格は、ともすれば彼自身をいつもよりずっと幼く見せる。 「──フリック」 驚かせないように、男はゆっくりと名を呼んでみた。目が逸らされないのをいいことに、幅広い手をその頬に添える。思いもかけず滑らかな肌を辿り、指先で唇の端に振れた。 びくり、と腕の中の体が大きく跳ねた。 けれど、腕が振り払われたのではない。自分の胸元からまだ逃げ出そうとしない相手の反応を、ビクトールは都合のいいように取ることにした。 「フリック」 男は耳朶に触れることのできる距離で、相手の名を囁いた。 白い肌に、血の気が見る見る内に昇っていくのが目で分かる。 紅を引いたような色に染まった耳に、そのまま歯を立てたくなる。衝動めいたこの欲求を、ビクトールはこらえることにした。 「フリック」 なあ、と息がかかるように名を呼ぶ。 「なあ。……聞いてるか?おい」 目も唇も硬くつむり、返事もしない相手を揶揄するように、男は相手の髪の中に指を差し入れた。驚かさないように、ゆっくりと梳く。 何度か繰り返す内に、腕の中の青年はこくりと一つ頷いた。 いい子だ、と男は小さく笑う。 「な。頼みがあるんだけどな」 もう片方の手で、青年の頬を包んだ。いつもはひやりとする肌が、火照ったように熱い。 そのことにほくそ笑みながら、彼は親指の腹で形の良い唇をなぞった。 「口」 ぴくり、と身じろぎをする相手に低い声で囁く。 「口、開けれるか……?」 「……?」 「このままでもできないことはないけど、やっぱり閉じたままじゃな……。いい子だから、開けてみな?」 子供のような触れ合いで満足する気はなかった。腕に囲い、触れることを許されたというのなら、何もかもを自分のものにしたい。この青年がその手のことに慣れていないというのは分かっていたが、だからといって自分まで彼のレベルに合わせるつも りはなかった。 自分の知るやり方で、彼の何もかもを貪りたい。 フリック、と囁きながら、彼はくすぐるように唇に悪戯を続ける。 青年はしばらく、俯いた形で立ち尽くすばかりだった。目も開けずに、ただ眉根を寄せているばかりだ。 「────!!」 いつまでも続くかと思った時間は、唐突に破られた。フリックの手が、痛みを覚える程強く男の腕を握った。 そして、彼は顔を上げると口をあけた。 「……」 確かに口は開いた。それはビクトールも認めざるを得ない。 「……あのな……」 だが、物ごとにはその場に合わせた状況というものがあるのではないのか。 顔を真っ赤にして、青年は確かに口を開けている。だがそれは、お世辞にもくちづけをねだるものではない。 それは何かを食べさせてもらうか、というよりもホウアンの診療所で喉の奥を見せて下さいと云われている時にも似た仕草だ。 彼の奥歯の数までしっかりと数えることが出来る。 ここまで大口を開けろ、というつもりはなかったのだが。 「……ああ……」 ビクトールは、自分の中の力が抜けていくことを感じていた。彼は青年の体に縋るように、ずるずると膝から崩れていった。 「ビクトール?」 男の態度に、青年は目を開けた。きょとん、とビクトールを見る青い眸はやはり透明で、何の濁りもない。 決して、自分をかわそうとしてしたことではないのだ。 「……あーあー……」 彼にもたれたまま、ビクトールは苦笑した。この素っとぼけた天然振りを見て、かわいいと思う自分がいる。 「……もう、駄目だな俺は……」 惚れたら負けだ、ということを彼は自覚して苦笑していた。 男は自分にもたれるようにして、笑っている。 自分とは違って迫力のあるいかつい輪郭は、笑みに彩られると途端に人好きのする形に変わる。誰もがつられて笑ってしまうような、──自分の好きな顔だ。 先ほどまで、全く知らない男がよく知っている男に戻っている。 「……ビクトール?」 フリックは相手の名を口にした。見知らぬ男が元に戻ったのかどうか、確かめたかったのかも知れない。 ああ、と返事をしながら男が顔を上げた。黒い髪よりも濃い色の瞳が見上げてくる。どこか子供めいた色が覗く、憎めない顔だ。二人で旅を始めて以来、よく見かける顔に他ならない。 なんだ。 フリックもまた、男に笑いかけた。なんだ、やはりこの男はビクトールだ。何を考えているのかも分からない、見も知らぬ男などではない。 自分の元に戻ってきた現実は、安堵となって彼の胸の中に落ちた。フリックは喉を鳴らすように小さく笑い続けた。 抱きしめられたまま笑っている青年の前で、男もまた笑っている。 「フリック」 笑いながら男は身を起した。幅広く肉厚な手のひらが、柔らかく笑み崩れている相手の頬に触れる。 かさついた感触がくすぐったくて、フリックは更に身を竦めて笑った。 「何だよ、ビク──」 男は良く知る男のまま、彼を引き寄せて口付けた。 最初は目を閉じることさえ、忘れていた。 自分の唇を覆うぬくもりが何であるのかさえ、分からなかった。青年は目を軽く見開いて、ぼう然と立ち尽くしている。まだ閉ざしていない視界は、間近にいる男ばかりを映し出す。 良く知っている男が、自分を抱きすくめている。 ビクトール、と名を呼びたかった。名を口にしてそれから何を語りかければいいのか分からないまま、とにかく相手の名を声にしたかった。今ここにいる男が誰なのかを、確かめたかったのかもしれない。 まだ合わせの解かれない唇を動かそうとした。 「──!」 するりと滑らかな感触が、緩んだ口元へと忍び込む。歯列もやんわりと押し開け、男の熱は口内へゆっくりと潜り込んだ。 自分の舌が、からめ捕られる。 しなやかな身体は、初めて身じろぎをした。自分が今、誰に、何をされているのかが分かった。 よく知っている男だからこそ、その感覚は鮮明だ。自分のものよりも高い熱さが、現実よりもなおはっきりとした生々しさで神経を鷲掴みにする。 ぞくり、と熱病にも似た震えが背を走った。 自分を囲う腕を、それでも払いのけることが出来なかった。交わす口付けだけではなく、抱きしめられている全ての箇所が、まるで相手の体温を移されたように熱くなっていくのが分かった。男の舌が口内に降れるたび、舌を絡めるたび、吸って甘く噛むたびに、理由もなく身体がぴくりと動く。 名を呼ぶことも許されないまま、口付けだけが続けられる。まるでこうすることで、相手が誰かなのかを理解しろと言わんばかりに。 確かに、と青年はほとんどを熱に奪われた意識のどこかで思う。 この男は、──ビクトールだ。 自分が動けなくなるほどの力で抱きしめることも。名すら呼ばせないほどに自由を奪うのも。自分をここまで強く求めるのも。 この世界で、この男しかいない。 自分には、この男しかいない。 首を振ったのは拒絶したいからではなく、息が苦しかったからだ。ほんの僅かに唇が離れ、またすぐに引き戻される。前のものよりも更に深く、激しく貪られる。 きつく抱きすくめられ、もはや動くこともできなかった。相手の背を抱きしめ返すこともできない。 フリックは身体がそうしたがるのに任せ、力を抜いた。自分の身の全てを男の腕にゆだねた。 ──それが終りであり、また始まりとなる。 |
樹林コメント お絵描き掲示板に描いた絵(一番上の)に、有涼さんがお話を考えて下さいました!! いやーメールで触りの部分が送られて来た日にゃああなた! ついつい調子こいて、次を次をとせがんでしまいました…すみません… でもでも絵描き冥利に尽きます。ほんとに嬉しかったですー 有涼さん、お忙しいのに、ほんとに有難う御座いました。 とってもとっても幸せで御座います〜! また気が向いたら宜しくなのです(こらこら) |
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