その日の夜も、傭兵隊の砦は賑やかだった。
周囲を森に囲まれたここは娯楽という娯楽がなく、唯一の楽しみといえば酒。レオナが取り仕切る食堂兼酒場にて、毎晩誰かしらが集まり、酒を飲んでは笑いあう。
敵国ハイランドとの小競り合いも活発化し、油断を許さない状況下の中、それでも男たちは飲む。その場を見れば、ただの酒好きの集まりだ。だが、たとえ今この時に夜襲を受けようとも、男達は武器を取り、戦える。実際、その程度の酒量なのだ。
継続する緊張がほぐれるのは、ほんの僅かな時間でしかない。
それが今だった。
ビクトールはカウンターに座り、近くのテーブルで交わされている話に時折加わりながら、普段よりものんびりとしたペースで飲んでいた。カウンターの向こうでは、レオナが煙管を咥えてぼんやり何処かを見つめている。
その日の食堂兼酒場は、全ての椅子が埋まっており、空いているのはビクトールの隣のみ。
今、まさにその席の主が入り口の扉を開いた。
吹き込んできた冷たい風に、誰かが「うー、さみぃ」と呟く。
フリックは扉がしっかり閉まったのを確認して、振り返った。
カウンターのビクトールが顔を上げる。軽く上げられた手に、フリックは真っ直ぐカウンターに歩み寄る。
彼が歩くたびに、纏わりついた冷気が払われてゆくようだ。
「副隊長、見回りお疲れ様です!」
腰を浮かせる傭兵達を手で制し、フリックは微笑する。
「おつかれ」
それだけ短く答えると、空いた席に腰を下ろした。
隣に座るビクトールが、今まで自分が口をつけていたグラスを寄越す。中身は一口分ほどしか入っていないが、フリックは受け取り、そのまま飲み干した。
少し濃い目。
ビクトールの好みに合わせて、レオナが作ったお湯割りだ。まだほんのり温かい。
「どうだった?」
フリックがグラスを置いたのを見計らって、ビクトールが訊ねる。
その間に、レオナが新しいグラスをふたつ、カウンターに置いた。ふたつのうちひとつからは白い湯気が立っている。
「寒かっただろ?フリックのはお湯割りにしといたよ」
「ああ、すまない」
かじかむ手で手袋を外し、フリックはグラスを受け取った。手のひらに温もりが染み入るようで、しばらく両手で包み込む。
「異常なしだ」
最初のビクトールの問いに、今更答える。相手も慣れたもので、そうか、とだけ返した。
近頃は休戦協定が結ばれるという噂も耳にする。事実、ビクトールとフリックはジョウンストン都市同盟、盟主アナベル本人から、そういう方向へ進んでいると聞かされていた。
本当に実現すれば傭兵隊の仕事はぐんと減るが、無駄な血を流すことも無くなる。
だが、ハイランドには狂皇子と名高いルカ・ブライトがいる。二つ名で呼ばれるからには、それ相応の振る舞いをしてきたということ。諸手を上げて、安心は出来なかった。
そういう意味でも、夜の見回りは欠かせない。
いつも、隊長、副隊長である、ビクトールとフリックが交代で見回りに出る。それだけは、どんなに有能で信用の置ける傭兵が居ようが、人に任すことはなかった。
彼等は彼等なりの、信念と責任を持っている。
ビクトールは手の中の水割りを眺め、ちらり、横目でフリックを見た。
フリックはようやく暖まってきたのか、マントを外してそれを膝の上に無造作に乗せている。その、赤味の差した頬から視線を逸らし、レオナを見遣る。レオナは黙って、造り付けの流しでグラスを洗っていた。
テーブルに座る何人かが連れ立って席を立ち、カウンターの隊長・副隊長に声を掛ける。
「奴等、そろそろ動きますかね?」
ハイランド軍のことだ。
一人が真剣な顔をして問うのに、二人は腰をずらして酒場内を見渡した。見れば、全員がこちらを見つめている。
苦笑しながら、ビクトールは答えた。
「そうだなあ・・・。まあ、そろそろだろうな」
「休戦前の様子見、といったところだろうがな」
フリックの言葉に、傭兵達は俄かにざわめきたった。
「それじゃ、あの話は本当なんスか?」
「お偉いさん達が休戦協定を考えているっていう、アレが?」
「まさか!」
ビクトールは片眉を上げて、フリックを見た。お前が話せ、ということらしい。
フリックはひとつ息をついてから、改めて傭兵達を見渡した。
「いや、本当だ。近いうちにそういうことになるだろう」
部屋中のそこここから様々な呟きが洩れる。
一番近くに座っていた会計係の兵士が「また赤字だな・・・」と愚痴を零した。
「まあ、そういうわけなんで」
ビクトールの一声に、場が静まり出す。
「お前等も充分体を休めて、そん時に備えてくれ。いざ体が動きませんじゃ、俺の面目丸潰れだからよ」
「お前にそんなモノ、あったのか?」
真剣な顔で問うフリックに、傭兵達はどっと湧いた。
にやり、笑うフリックに、ビクトールも苦笑する。
「・・・・・あることにしておけ」
「だ、そうだから、ビクトールの顔に泥を塗るようなことは、なるべくしないでやってくれ」
再び湧き起こる笑いに、カウンターの向こうのレオナも笑って言った。
「さあさあ、アンタ達!そういうことだから、今日はもう店仕舞いだよ」
「レオナさんにそう言われちゃ、寝るしかねえなあ」
「それじゃ、お先に!」
「おやすみなさい!」
「おやすみ」
「ゲンゲンももう寝るぞ!!!また明日な!!!」
「おう、風邪ひくなよ」
「ビクトールもな!!!」
「・・・・おう」
男達はそれぞれカウンターに残った二人に声を掛けて、自分の寝床へ引き上げていった。あっという間に、酒場内にはレオナとビクトール、そしてフリックだけとなった。
既にフリックのグラスも冷えている。底に残った一口を飲み干して、レオナに返した。ビクトールもグラスを空けたところで、同じようにレオナに手渡す。代わりに、カウンターの下から一本の酒瓶が取り出された。
「なんだ?その酒」
ビクトールが手に取り、ラベルを眺めて言った。
「南方の、カナカンのワインさ。部屋に帰ったら寝酒にするといいよ」
「見たことのない銘柄だな。新しく取り寄せたのか?」
フリックが脇から首を伸ばして、ビクトールの手元を覗き込む。手の位置はそのまま、ビクトールはほんの少し腰を退いた。
「まあね。安いんだけど、味は保証するよ」
「いいのか?」
「今度入れるヤツだから、一番最初に大将に飲ませないとうるさいだろ」
「そうか。そいつはすまないな。んじゃ、ありがたく・・・・」
ビクトールは、にやり、笑って立ち上がった。
フリックも腰を浮かせる。
「いただくとするか」
「・・・・ちょっと待て」
マントを肩に掛け、いざ部屋へ戻ろうとするフリックの背中を、ビクトールは呼び止めた。
フリックは小首を傾げ、振り返る。
「なんだ?」
「お前も飲むのか?」
意外そうな顔をしているビクトールを、呆れた風で見返す。
「・・・お前、一人で飲む気だったのか」
「二人仲良く飲めばいいじゃないか。生憎、その一本しか入ってないからね」
レオナの言葉に、ビクトールは渋々ながらも了承する。
「・・・ちぇ。はいはい、分かったよ!二人仲良く飲めばいいんだろ!?」
「そんなに嫌か」
「じゃ、レオナ!明日も頼むわ!」
「無視かよ」
傍目から見ればじゃれているようにしか思えない会話を交わしながら、二人は酒場を出ていった。
階段を登る間も何事かを言い合う二人の声を聞きながら、レオナは忍び笑いを洩らす。
「よくやるねえ」
仲が良いのか、悪いのか。
「まったく、見ちゃいられないよ」
最後のほうは苦笑混じり。
レオナは随分小さくなった暖炉の炎に水を掛けていった。
炎は小さく音を立て、灰に変わってゆく。
テーブルを片付ける音以外、砦の一階は静寂に包まれていた。
ビクトールはレオナの言葉を胸の内で反芻しながら、舌打ちする。
さすが、気づいてやがる。
「・・・・・女は怖いな」
「なんか言ったか?」
階段を登りきったフリックが、首だけ振り返った。
「・・・・なんでもねえよ」
「お前、そんなに独り占めしたかったのか」
「誰も言ってねえだろ、そんなこと」
「・・・・・・ふーん」
深くは問わない、そのフリックらしさがありがたい。
ただでさえ、気まずい。
その辺りはフリックも気づいているらしい。
アレでなかなか勘が鋭い。
ビクトールは指で顎を掻きながら、視線を巡らせた。
明かりの少ない二階の広間で目に止まったのは、昼間は開け放してある板戸。今は閉められたその隙間から、細く銀色の光が差し込んでいる。
「今夜は満月か」
僅かな明るさではあるが、出来た影の濃さでそうと分かる。
見回りから帰ったフリックは当然知っているはずだ。
「・・・・・そうだ」
意識された低い声には気づかない振りで、ビクトールはぼんやり呟いた。
「月見酒ってのもいいよなあ」
「・・・・俺はせっかく暖まったトコなんだぞ」
「よし、そうしよう!」
「人の話を聞け」
それでも、フリックは板戸を開けた。
冷えた空気と共に板敷きの廊下に月光が落ち、砦を囲む木々がざわめいて、風のあることを告げる。深い闇色の空にほのかな色をつけた星々が煌いて、その中心を黄色味がかった大きな月が飾る。
導かれるように、フリックはベランダへと足を踏み入れた。
何度見上げても飽きることない。
静かに全てを見下ろすその姿は、とある女性に似ている。フリックはそう思っていた。
月に吸い寄せられたかのようなフリックの背中を、ビクトールは戸口から眺めていた。
月の光を全身で受け、銀色に輝く彼の男。
ふと、今までのことが思い浮かぶ。
出会ってから5年が過ぎようとしている。
様々な出来事があったが、今では笑い話にしかならない。
苦い笑いを噛み締めながら、ビクトールはフリックの背中に問う。
「寒くないか?」
「・・・・・ん?あ、ああ・・・・そうだな」
マントがあるとはいえ、一度外したものをもう一度つけなおすという気にもならず、肩に掛けただけにしている。
「少し、寒いかもな」
そこで、ようやくビクトールは動いた。
フリックの肩に掛かっているだけのマントを取り、代わりにワインをその手に持たせる。
何も言わずに砦の中に入った男は、然程時間もかからず戻って来た。その手には毛布が二枚とグラスが二つ。
ビクトールは毛布を一枚、投げて寄越した。
「ほらよ」
「ああ、悪いな」
自分の分の毛布を素早く肩に羽織ると、幅広い手摺にグラスを置いて、フリックの手からワインを受け取る。少ない明かりの中でも器用にコルク栓を抜くと、小さな音を立てながら赤い液体を注いだ。
微か、鼻孔をくすぐる香り。
ビクトールは酒瓶の代わりにグラスを持たせてやった。
ほんの一瞬。グラスの縁を触れ合わせる。
見慣れない仕草を不思議に思いながら、フリックは毛布で身を包んだ。途端、慣れた匂いに眉を顰める。
「おい、これ、俺の毛布じゃないか。あ!そっちのもそうだろ!」
「まあ、いいじゃねえか。別に減るもんじゃねえだろ」
「いいや、減る!お前は、いつもそうやって俺の物を持っていくんだ!ちゃんと返せよ!」
「・・・・・・はいはい」
「よく見たら、このグラスも俺のじゃないか!」
「自分の部屋が遠かったんだって。お前がマントを邪魔そうにしてるから、ついでに置いてきてやったんだ、ありがたく思え」
「・・・・親しき仲にも礼儀あり、って言葉を知らねえのか」
「勝手知ったるなんとやら、とも言うな」
「言うか、馬鹿」
そこまで言うとすっきりしたのか、フリックは黙ってグラスを口に運んだ。
舌の上で転がすように味わう。目を閉じたその横顔を、ビクトールはじっと見つめた。
フリックは満足げに頷く。
「・・・ああ、旨いな」
「・・・・・だな」
ビクトールはワインの瓶を手摺の上に乗せると、背中を預けて室内の方へ向き直った。ワインを挟んで隣では、フリックが両肘を手摺に置いて、立てた左肘の手のひらに顎を乗せている。
フリックの視線は、一際明るい満月に定められたままだ。
気づかれないよう、ビクトールは隣に立つフリックをそっと見つめた。
誰のことを考えているかなんて、すぐ分かる。
普段は見せない、穏やかに柔らかく笑んだ表情。それが僅かに憂いを帯びて、歪められる。そして、再び、また笑む。それを長い時間を掛けて、何度も繰り返すのだ。
ビクトールは視線を逸らし、フリックに倣って月を見上げた。
月は何も言わない。
笑わない。
怒らない。
悲しむこともない。
だのに、何故、こんなにも誰かの影を想わせるのか。
フリックが思い浮かべているのだろう女性とはまた別の誰かの影を、輝く月の中に見出す。それらから目を逸らしてグラスの中を覗き込むが、そこにもぼんやり月の影が映り、ビクトールは静かにグラスをあおった。
飲み込んでしまえばいい。
自分も、フリックも。
改めて、ビクトールは隣の青年を見つめた。
視線に気づいたフリックが横目で見上げ、また月へと戻す。
「月見酒となかなんとか言い出したわりにはおとなしいな」
そう言って、軽く笑う。
人の気も知らないで。
「男は、時に黙って酒を飲むもんなんだよ」
「ははは、よく言うよ!」
フリックは更に笑った。
屈託のない笑顔を見ていると、胸を掻き毟られるような。
そんな気持ちに気づいたのは、いつのことだったか。
フリックはよく笑う。
冗談も言って、傭兵達の笑いも取る。
だが、こんな風に、柔らかく笑うのは、俺の前だけじゃないのか。
特別、だと。
自覚していないだけで、本当はそうなんじゃないのか。
いっそのこと、口にしてしまおうか。
もういいだろう?
この、生温い、腐れ縁とかいう関係も悪くはないと思うんだが・・・。
変えてみないか、この距離を。
あとは簡単だ。
その腕をつかんで、引き寄せればいい。
不思議と、拒まれない自信があった。
「・・・なんでだろうな」
「なにが?」
フリックは、ほんの少し首を傾げてみせる。
その迷いのない瞳を見つめ返すと、知らず知らずのうちに笑いが込み上げてきた。
何故笑われているのか分からないフリックは、眉間に皺を寄せて、なんだよ、と問う。
ビクトールは手摺から身を起こし、真正面からフリックを見つめた。
もしも、もしもの話だ。
拒まれたなら、冗談だ、と笑って離してやればいい。
そんなことを考えながら、愛しい人の名を呼ぶ。
「フリック」
「だから、なんだよ」
フリックの頬に、銀色の光が落ちている。
彼自身は、その輝きに気づいていない。
俺だけの。
手を伸ばせばすぐ届く。
その距離、目測60センチメートル。
ビクトールは苦笑しながら、その大きな手をゆっくり伸ばした。
end
H14.10.14
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キリ番777番「腐れ縁で、二人の『距離』」樹林様からお題をいただきました。 今まで何気なく、二人の距離を書いてきましたが、ちゃんと考えたのは初めてでして・・・。ついつい直接的に60センチと表しました(芸がない)会社で使ってる定規が、15センチ、30センチ、50センチ、60センチとありまして。全部並べてみて、ウチの二人は60センチぐらいが丁度いいかな、と(笑)
・・・なんだか、熊さんが始終フリックさんを狙っているような、そんな話になってしまいました…(苦)こんなものでもよろしいですか…?(不安)少しでも、気に入っていただけたらな、と願うばかりです。樹林様、777番ヒット、ありがとうございました!!(平伏)
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