ロビー活動と収賄事件

平成13年1月30日

ロビー活動と収賄事件

年が明けて21世紀にはいったと思ったら、外務省の機密費横領事件が発覚した。
その前にはKSD中小企業経営者福祉事業団の受託収賄事件が起きていて、それと合わせて日本の政局は混迷をきたしているが、全くこれには開いた口がふさがらないというか、ばかばかしくて論評する気にもならない。
事件の発生の順序からいうとKSDの事件のほうが先になるので、これから論を進めるが、この理事長の地位にあった古関忠男という男は一体どういう男か理解に苦しむ。
そして、それの命を受けて国会で質問をした小山孝雄という参議院議員も全く人を馬鹿にした人間である。
日本の政治が乱れているとはいうものの、その乱れの根本のところに有るのは、やはり人間としての心が乱れがあるからに他ならない。
中小企業経営者福祉事業団というものが財団法人であるところまでは問題はない。
この財団はいわゆる中小企業から金を集めて、それを中小企業の福祉に流用しようというものであるから、その存在意義は大いに認めざるを得ないが、その集まった金を、さも自分の金の如く思い込み、参議院議員を抱え込んで、自分の都合に合わせてその議員を使う、という根性は民主主義というものの何たるかを全く理解していない人物である。
私が何時もいつもこういう事件の時、切歯扼腕するのは、こういう事件を引き起こすのが10代や20代の若者ではない、という点である。
世の中の酸いも甘いも知り尽くした、闊達すべき世代の人間が、こういうふしだらというか、破廉恥というか、恥知らずな犯罪をしでかしているというところである。
古関忠男は金を渡した方であるが、受け取った側の小山孝雄にしても、10や20の餓鬼ではないわけで、国政選挙できちんと選出された国会議員なわけで、そういう選良たるべき人間が、下賎にも劣る犯罪人として裁かれることの哀れさである。
小山孝雄の選挙というのも、案外いいかげんなものがあるように報道はされているが、それにしても手続き上はきちんと選出されたということであり、それでなければ国会議員たり得ないわけである。
私の倫理観からすれば、小山孝雄が準民間企業としてのKSDの古関忠男から、議会で自分に関心のある項目について質問させる、ところまではさほど問題にする必要はないと思う。
こういうことは民主主義の手本であるアメリカの議会では普通のことで、国会議員と普通の市民との橋渡しをするロビーストというものの存在は認められているわけで、アメリカの政治ではこれがあたりまえの姿である。
ロビーストというのは、民間企業なり、利益団体から金を受け取って、その団体のために有利な発言をするよう議員に働きかけることが許された人たちである。
KSDの古関忠男と小山孝雄参議院議員の関係というのはこういうものであると理解していいと思う。
ところが日本の常識では、この間に「金銭の授受があったからけしからん」という発想であるが、これはある意味で民主主義の未成熟な部分ではないかと思う。
但し問題がないわけではない。
というのは、この小山の発言で、官僚が動いたというところに問題があるように思う。
国会というところは立法府なわけで、そこでは法案を審議することが主であって、業者の言いなりに官僚が通達の類を弄くる、ということは明らかに民主主義に反していることである。
マスコミの報ずるところから推し量ると、中小企業で働く外国人労働者というのは、従来2年契約で雇用されていたが、この2年という契約期間では、仕事を覚えた頃になると本国に帰らなければならなくなり、非常に不合理だから、それを3年に延長するというものであった、と報じられている。
となると、それに関連する法律は元の労働省の所管であろうと思うが、その「2年から3年に変更」するというものは法律で制定されているのか、それとも通達の類で制定されているものか、は定かには知らない。
もし仮に、法律ではなく通達の類で決められているものだとすれば、これは官僚の側にも問題が波及してしかるべきである。
日本ではロビー活動というものが悪の温床のように言われているが、アメリカでは普通に行われているわけで、その為には当然政治献金が横行するわけであり、この辺りが日本とアメリカの政治の大きな違いである。
資本主義というものの伝統の違いとでも言うほかない。
ロビーストが猛烈に国会議員に働きかけて、自分の都合のいい法案を通そうと躍起になり、その結果として議員立法が多くなるわけである。
ロビーストが国会議員に働きかける過程では、当然政治献金が必要になるわけで、それは資料集めから、反対議員の買収から、懐柔、はたまた足を引っ張る為のあら捜しに使われるわけで、自分達の議案に反対しそうな連中を黙らせるために使われるわけである。
我々は、こういう政治手法には不慣れなるがゆえに、アメリカ政府の言うことを丸呑みせざるを得ないが、ロビー活動を有効に行えば、アメリカの対日政策をかなりコントロールすることが可能だと思う。
例えば、貿易摩擦等でロビーストを上手に使えば、その摩擦を最小限に食い止める事が可能だと思う。
但し、我々とアメリカ人では政治感覚が根本から違うので、金を使った割に効果が期待できない、というリスクも同時に負うはめになる。
KSDの問題は、そういう政治そのものを問い直す要因を含んでいるにもかかわらず、日本のマスコミというのは、その根本のところにある政治の本質を正そうとしていない。
日本とアメリカの政治的土壌はかなり違っている。
クリントン大統領のスキャンダルについても、日本ならば国民がこぞって辞任を要求するところであるが、クリントンはとうとう最後まで任期を全うしてしまった。
この辺りを考えても、日本とアメリカの政治の本質が大いに違っていることが伺える。
日本ならば、下ネタで完全に政治生命が絶たれてしまうが、考えてみれば、政治と個人のスキャンダルとは全く関係のないことで、セックスにだらしがないから政治的手腕が全くない、とは限らないわけで、セックスと政治とは全く別の時限のことである、という大人の感覚、大人の認識が我々の側にはない。
セックスの後始末を公金でした、というのならば政治的にも糾弾しなければならないが、個人のスキャンダルを個人の金で解決している分には、政治とは全く関係ないことである、という大人の感性が欠けている。
問題の焦点がアサっての方向を向いているわけである。
今回のKSDの問題でも、国会議員が金をもらって質問した、ということがさも背任行為かのように印象つけようとしているが、その事自体はさほど問題にすべきことではない。
問題は財団法人の理事長たるものが、国会議員を私利私欲で動かしている、という点であるし、又逆に国会議員たるものが、個人の私利私欲で動くという点にあると思う。
そして国会議員が質問して正すと、その通りになっていくというシステムの方に問題の焦点を当てるべきである。
KSDの古関忠男のばら撒いた金が、自民党議員ばかりでなく、他の与党、及び政府閣僚にまで、かなり広範囲にわたっているということがだんだん暴露されてきて、1月31日から始まった通常国会が大いに波乱含みになりそうであるが、日本の政治というのは、何時まで経っても同じことの繰り返しで一向に良くならないのはどういうわけであろうか。

機密費横領事件

そして外務省の公金横領という馬鹿な話まで浮上してきて、森政権というのも足元を掬われた形である。
こちらの方は外務省の松尾克俊という男が、要人外国訪問支援室長という立場を利用して、機密費を自分の銀行口座に振り込ませて、その中から一部を私用に使っていた、というものであるが、この事件のもっとも馬鹿らしい点は、公金を私用の個人名義の口座に振り込む、という常識では考えられないことが6年以上も罷り通っていたということである。
もっと具体的に言えば、首相が外国に行ったとき、それに随行して、首相や随員のホテル代とか飲食代を現地で自分の口座から引き落としていた、ということだろうと思う。
これほど公私を混同した発想というのも聞いたことがない。
これは機密費という名目で、領収書の要らない金であったので、こういう馬鹿な話になったものと思うが、それにしてもいくら領収書が要らないといっても、本来の意味の公金としての機密費を、自分の口座と一緒にしてしまうという発想は、普通の常識では考えられない事である。
そこにもってきて、この機密費なるものが、内閣官房室と外務省との両方に存在して、首相の外国出張ないし、首脳会談に出るときは、内閣のことだからというわけで、内閣官房室の方にその機密費をのこのこ取りに行っている、と言うのだから、ここでも金の流れが不透明なわけで、一体これはどうなっているのだ、という問題に発展しているわけである。
この疑問は当然のことで、その部分をマスコミの報道した範囲で言えば、外務省の方の機密費というのはかなり膨大で、内閣官房室の方の機密費というのはかなり枠が小さいため、その多い方から少ない方に金を上納しておいて、必要の都度そこから引き出す、というようなシステムになっていたらしいが、この省庁間にわたる金の移動に関しては国会の承認がなければならない、ということに問題が発展してしまったわけである。
もともと外務省の金を内閣官房室に移管しておいて、必要の都度、そちらから使うというのは一見整合性があるように見えるが、手続き上の不備がある、ということである。
考えてみればこれは当然なことで、そのために予算というものがあるわけで、一旦予算として決まったものを、後で省庁間で融通しあうということになれば、予算の意味がなくなるわけである。
話の筋書きとしてはこの程度のものであるが、私がもっとも憤慨することは、公金を私用の口座買に振り込んで、それから経費として落とす、というような馬鹿なことが何故許されたか、という事である。
この松尾克俊という男は、その公金で以って贅沢な生活をしているのが発覚して、この事件そのものが暴露されたわけであるが、いくら外務省の職員であるとはいえ、一介のサラリーマンが競走馬を買ったり、8千万もするマンションを買ったりすれば、裏に何かがあるということを悟れない方がおかしい。
この部分で、外務省は松尾克俊個人を、背任行為で告発し、被害者の振りをしているが、以上見てきた経緯から察すれば、松尾のしたことは当然刑事告発に値することは言うまでもないが、それを許していた外務省にも監督不行き届き、という反省材料というものは残る。
それでこの事件が発覚すると、外務大臣の河野洋平は、幹部職員の処罰として、自分も含めて減給処分にしているが、そんな小手先の処分では納得できるものではない。
機密費というものの存在価値というものはある程度理解できる。
つまり内容によっては領収書の取れない金というものがある程度必要なことは万人が認めている。
これは民間企業でも大なり小なり存在するわけで、領収書が取れないからこそ、その運用の仕方には十分に注意を払わねばならないわけである。
この松尾克俊という男は、それを逆手にとって、領収書の要らない金を自分で管理できる立場を利用して、贅沢三昧に耽ったわけで、まさしく泥棒に追い銭であったわけである。
ここで問題となってくることが例の監督責任というものである。
河野洋平が事件発覚後直ちに幹部職員を処分した、ということは多少ともその監督責任というものを忸怩していたわけであるが、事件がおきてしまってからでは遅いわけである。
それに、この問題そのものが8年も前から継続的に行われていたわけで、河野洋平というのは、たまたま発覚したときにトップにいたというだけのことで、彼に監督責任をうんぬんすることには少々無理がある。
しかし、立場上そうしなければならないことに変わりはないが、8年も前からこういう事が罷り通っていた、というところに我々は外務省の常識というものに疑問を差し挟まなければならない。
行政改革が叫ばれて久しく、その結果として、省庁再編が起動したとたんにこういう醜態が暴露されたわけで、そのことは行政改革というものが全くの表層的なものに終わっているということである。
ただ単に、看板の架け替えに終わってしまっているわけで、その中身は少しも改革されていないということである。
官僚システムというものを、その根底から変えようとすると、まるでブラック・ホールをつつくようなもので、一朝一夕ではなしえないように思われる。
こういう事件が起きないことには、我々は官僚のやっている馬鹿らしさ、というものが理解できないわけである。
官僚の不祥事と、国会議員の不祥事というのは同一には語れない。
KSDの古関忠男の手先となって利益誘導をし、小遣い銭をせしめていた国会議員の小山孝雄は、国会議員として見下げた男である。
しかし、彼は国民から選出された議員であって、本来ならば国民から選別されたという意味からして選良でなければならない。
選良であるべき人が、一組織の私利私欲の為に官僚を動かした、というわけであるが、これはある意味で民主主義というものが行き詰まったということでもある。
特に日本の民主主義というのは完全の行き詰まっている。
民主主義の閉塞状態といってもいいように思う。
民主主義の基本定義はやはりあのリーンカーンの言った「人民の、人民による、人民のための政治」であろうと思うが、我々の今の日本の政治というのは「国民の、官僚による、国会議員のための政治」ということになってしまっている。

民主教育の結果

話題が突然飛躍するが2001年、平成13年1月15日の各地の成人式は、非常に荒れたところが多かった、と報道されている。
マスコミ報道で何度も繰り返して報道されているので、日本の全部の人が何かしらその報には接していると思うが、あれは今日本の小中学校が荒れているのと全く同じ構図で、小学校や中学校で生徒が授業を受けられないのと同じ構図である。
学校関係者ではないので、学校の実態を十分に知っているわけではないが、今の学校では、授業中にうろうろ歩いたり、私語をしたり、途中で出たり入ったり、養護室に行ったりとか、我々の子供の頃には考えられないような事態になっていると報道されている。
そういう子供がそのまま20歳になった、というだけのことで別に驚くにはあたらないが、問題は、全く別のところにあるように思う。
というのは、こういうニュースは確かにニュースを報ずる側からすればニュース・バリューというものがある。
生徒が真面目にきちんと授業を受けていればマスコミとしては全くニュースにならないわけで、荒れた学校、荒れた成人式だからニュースになっているのである。
視聴者というのはそういう悪い場面だけ見せられているわけである。
だからマスコミというのは全社、全テレビ局が同じようなシチュエーションで、同じ報道を何度も何度も繰り返して報じているが、問題は、それを見た大人の世代が、「この現状をどうにかしなければいけない」という前向きな思考を少しも喚起させないところにある。
成人式というものが、行政側が無理やり押し付けた形式に過ぎない、という発想で、「そういう物に金をかける必要が有るや否や」、という点に終始しているが、「ああいう子供を育てたのは我々大人の側である」という反省が、全くなされていない。
小学校や中学校でおとなしく授業が受けれない子供が、もう少し年を取ると、ああいう成人式すら満足に出来ない、大人というか子供というか、要するに「大人に成り切らない子供」とでも言う他ない人間になってしまったわけである。
小学校や中学校で生徒が何故授業をまともに受けることが出来ないのであろうか。
ここをきちんと考えるべきである。
私が素人なりに思いつくことは、これは各家庭の子供の数が少なくなって、その結果として、過保護が原因ではないかと思う。
いわゆる子離れ、親離れが不十分で、親が何時までも甘やかした結果であると思う。
そういう精神の成長とか、自意識の目覚めとか、自我の確立が不十分とか、社会性の発達が未熟とかで、自然界の摂理についていけないまま体だけが大きくなったものに対して、世の知識人は子供の目線で見なければならないとか、子供の悩みを聞かなければならないとか、子供も大人も一緒くたにして倫理を説くものだから解決の糸口が迷宮入りしているわけである。
片一方で「子供に厳しく」というと幼児虐待になってしまうわけで、まさしくこの世の末の状況、ハルマゲドンの状況である。
これはまさしく戦後民主主義の集大成が今ここに実現したわけである。
民主主義の名のもとに、我々は戦後半世紀というもの、ハルマゲドンに向かって突き進んできたわけである。
民主主義に名のもとに子供を甘やかし、それは戦後の出生率の低下と共振しあって、教育の荒廃という結果を導き出したわけである。
第2次世界大戦、つまり太平洋戦争、または大東亜戦争というものに敗北した我々は、まるで原始社会のように何もかもを失って、食うものもなく、職もなく、住む家もなかったわけで、そういう中から立ち上がって半世紀の間に、我々は世界1、2を争う経済大国にはなったが、その過程で精神的な面では非常にいびつな発達をしてしまったわけである。
それにはアメリカによる占領政策が大きく作用していると思う。
それと同時に、共産主義というものが潜在的に人々の心の中に進入して、アメリカの占領政策と妙なところで融合してしまったところに、日本の愚民化政策というものの成功があったわけである。
アメリカの日本愚民化政策というものは、日本が再びアメリカに立ち向かう事のないように、徹底的に日本の潜在意識としての大和魂・民族意識というものを抜き去ることにあったわけである。
一方、日本に逐次侵入してきた共産主義・コミニズムというものは、従来の規範、規律、秩序というものを破壊することにその存在意義があったわけで、この両者は日本人からその潜在意識としての大和魂というもの、つまりは日本人の民族意識というものを抜き去るということで利害が一致したわけである。
私は敢えて極論を言うが、このアメリカの占領政策と、共産主義というものが持つ潜在価値としての日本国民の愚民化政策というものは、彼ら双方が、我々に押し付けた部分が多分にあるとは思う。
不思議なことに、これら双方は、お互いに干渉することもなけば協力し合うこともなく、全く別の価値観でそれぞれの道を歩んだが、結果として日本の愚民化政策の成功という、一つの効果を持ち、それは明らかにこられ双方の勝利である。
しかし、基本的には我々日本人が自らそういう道を選択した部分もあると思う。
自ら進んでそういう選択をし、それを臆面もなく実施し、経済成長にのみ活路を見出してきたこの半世紀というものが、結果としての愚民として、今の若者を作り出したものと思う。
愚民というのは今の若者ばかりではなく、今の大人もれっきとした愚民である。
日本民族の愚民というのは、戦争をおっぱじめた世代と、それを遂行した時代と、戦後の混乱期を経済にのみ目を奪われていた世代と、その次の世代と、これで4世代続いたことになる。
戦争をおっぱじめた世代と、それを遂行した世代というのは、確かに我々の判断力が未熟だったが故の結果であるが、戦後の選択は、我々が自ら好んでそういう選択をした部分であると思う。
アメリカの占領政策と共産主義のもつ基本的指針は見事に日本で花開いたことになる。
アメリカは日本に戦争では勝ったが、その勝った彼らが一番恐れていたことは、一度は負けた日本が、再び国力を盛りあけて、アメリカに歯向かってくる可能性であった。
一方、共産主義というのは、それがいかなる国であろうとも、既存の秩序を壊してしまえば、共産主義者としてのユートピアができるわけで、人民が豊かであろうとなかろうと、それは関係のないことであったわけである。
革命があろうとなかろうと、それはどっちでもよく、旧秩序さえぶち壊せば、そこには無機質な人間の社会が出来上がるわけで、それが最終目的であったわけである。
戦後の焼け野原から我々の社会が今日の様相を呈するようになった過程では、アメリカの占領政策としての日本の民主化というものが先導をしたわけであり、その民主化の過程で、共産主義というものがそれに便乗して、今日の様相を呈するようになったわけである。
我々の子育ての過程で言えば、日本の教育を牛耳っているのは一見文部省(省庁再編の前の話)のように見えるが、これは表層的に見ただけのことで、深層部分では、明らかに日教組という共産主義者たちが我々の子供の教育を左右してきたわけである。
どの民族でも、いやいかなる野生動物でも、つまり生きとし生けるものすべからく、赤ん坊のときは純真無垢である。
そういう純真無垢な子供を育てる過程において、共産主義者たちが、共産主義に凝り固まった教育をすれば、その子供が成人したときにはまともな人間の社会が出来上がるわけがない。
子供の目線でものを見よとか、子供の人権を尊重しよとか、一見もっともらしいことを世の知識人たちは言っているが、そもそも白紙の子供の視点に立って物を見て良いわけないし、人権が不十分だから未成年として保護する必要があるわけで、これでは子供を野放しにして育てるという事に他ならない。
現実に、子供を野放しのまま育ててきた結果として、今学校が荒れているわけで、生徒が授業中に先生のいうことを聞かない、ということは家に帰れば当然親の言うことも聞かないわけで、これでは躾の出来ていない犬と同じなわけで、犬が人間の形をしているに過ぎない。
つまり、教育そのものが成り立っていないということである。
高校生ともなると制服の問題が出てきて、制服の是非が取り沙汰されるが、世の識者達は「制服は個性を埋没させるから強制すべきではない」という論法で、これが進歩的な意見かのように主張をしているが、そこには校則としての「規則をきちんと守りなさい」という思考は全く感じられない。
その事は、もう少しその発想の奥底を敷衍すると、法律は守らなくてもいい、ルールは権力者が勝手に決めたものだから守る必要はない、という事につながる。
これは民主主義と真っ向から敵対する言辞である。
こういう教育が半世紀も続いたとなれば、もう日本人というのは完全なる愚民になってしまっても不思議ではない。
世界中が、この日本の愚民化した人民というものを喜んでいるに違いない。
アメリカにしろ、旧ソビエット・ロシアにしろ、中華人民共和国にしろ、朝鮮人民共和国にしろ、大韓民国にしろ、フイリッピンにしろ、日本が経済では世界で1,2を争っていながら、その国民が全部馬鹿ときていれば、これほど有り難いこともないわけで、「友人は馬鹿で金持ち」が良いに決まっている。
ちょっと脅かしたり、ちょっと恫喝したり、ちょっとゴマをすれば、ざくざくと金を出す日本を友人にしていれば、彼らにとってはこれほど便利なものはないわけである。

大衆、民衆という愚民

話を本来の筋に戻すと、KSDの問題も外務省の機密費横領の話も尽きるところは、この日本人の馬鹿さ加減にたどり着くわけである。
どの民族でも、悪い事をする人というのは、根絶できないというのは、人類のもつ業であるかもしれないが、日本は近代国家としてのモラルという点では非常に進んでいるわけで、又進んでいなければならないはずである。
そういう中で、アン・モラルな行為があるということは、非常に嘆かわしいことだ、といわなければならない。
昔の日本、明治時代以前の江戸時代というのは、士農工商という身分制度がきちんと機能していた。
その中の武士という階級は、全人口の一割にも満たないといわれているが、この武士というのは、いわゆる誇りに生きた人々であって、ノーブル・オブリッジそのままに生きていたわけである。
自分のもらう俸禄がいかに少なくとも、自分たちは他の階級、いわゆる商人、職人、農民を管理する側の人間である、という誇りを持って「武士は食わねど高楊枝」という風に、貧困に耐えていたわけである。
もっとも武士の中でも大名というのは、今でいう高級官僚であったわけであるが、高級官僚といえども充分なる俸禄をもらえていたわけではなく、その体面を保つためには四苦八苦していた事は下級武士と何ら変わるものではなかった。
それでも、この武士階級というのは、自分たちは人を管理する側の人間である、ということを自覚して、他の階級の人間とは一線を画した生き方をしていたわけである。
ところが明治維新という事になると、四民平等というわけで、この階級制度というものが崩壊してしまったわけである。
人材登用という意味からして、士農工商の中の士のみではなく、農工商の中のからも優れた逸材を探し出そうという趣旨であったが、階級制度の崩壊という事は、その志の優劣を無視して、玉石混交を促してしまったわけである。
そして大衆の中から優れた人材を掘り起こそうという大義名分の元、中国の科挙のような国家的統一テストで人材を掘り起こそうとしたが、これがその後100年以上続いたことになる。
この国家統一テストというのは、いわばペーパー・チェックでより分ける手法なわけで、これでは倫理観とか道徳観とか、職業への誇りとか、ノーブル・オブリッジというものは全く測れないわけで、心卑しき人間もペーパー・チェックさえクリアーすれば、後はところてん式に官職が保証されたわけである。
国家統一テストで優秀な人材を確保するということは、今流の言い方をすれば、非常に民主化された手法ということになるが、民主化というのは、いわば愚民化と裏腹なわけである。
その一番典型的な例が軍隊の徴兵制度である。
この徴兵という制度は、非常に平等な社会なわけで、太平洋戦争当時、一銭五厘のはがきで召集された兵隊というのは、大学教授から今でいうところのホームレスにいたるまで、全く平等に扱われていたわけである。
階級の上下の違いというのはあったけれど、それは職能の違いとでも言う類で、同じ階級同志では全く差別はなかったわけである。
今流に言えば、まことに平等化された差別意識を払拭した社会であったわけであるが、その組織の中で長い年月が経つと、だんだん階級が上になってくるわけで、その上になってきたときは、他の組織に対して優越感が出てきてしまい、それが軍部の独走を許す、という環境を作り上げてしまったわけである。
階級制度をつぶして、皆平等にするという事は、民主化ということで良いことのように言われているが、何事にも裏側というものがついて回るわけで、メリットとデメリットというものがあるわけである。
日本を負かしたアメリカは、日本が再び軍事力を持たないように、日本の旧弊を全部ぶち壊して、日本の隅々にまで民主化というローラーを掛けていった。
このことは、日本を共産化したいと思っている人々の利害と完全にマッチしていたわけで、この両者が共に手を取って喜びそうな現況が今の日本の状況である。
太平洋戦争前までの我々の国は、四民平等意識で以って当時の日本の舵取りに大きな力を行使しえた軍隊という組織が、その志の邪な人を内在した玉石混交の人達で占められ、その結果として無知蒙昧な軍人が輩出したことにより、その軍人達が日本を奈落の道に引きずり込んだわけである。
階級制度を払拭して、完全に平等化した人々が、全員で手に手を取って奈落の底になだれ込んだという感じである。
軍隊という組織が、人材確保のため、広く国民の中から逸材を探し出そうとして、平等意識による統一ペーパー・テストで人を採用したがゆえに、心の卑しい人間が紛れ込んでしまい、それが軍隊という組織の中でアメーバー的に増殖して、日本を奈落のそこの引き落としたわけである。
そして戦争に負けたことで、一旦はペーパー・チェックだけで公務員を採用するという手法が断絶するかに見えたが、国の行政を遂行するには、どうしても人材を登用しなければならず、そのためにはペーパー・チェックしか人を選別するその手法がないわけで、再びその制度が復活したわけである。
そして一旦そのチェックを通過すれば、あとはレールの上を大過なく転がっていくだけで、つつがなく職務が遂行されるというわけである。
これは完全なる民主化の具現化であって、その事は、制度のデメリットとして、悪貨を見分ける事が不可能なわけである。
これが官僚というものの本質であるわけで、一度官僚になってしまえば、後はよほどのことがない限り、食いはぐれるということがないわけである。
こういう民主化を良しとする気風が戦後の日本を覆っていたが、その事は、民主化という衣の下には、共産主義という鎧が隠されていたことを日本人の誰もが知ろうとしなかったところに今の日本の苦悶があるわけである。
今の日本で、「共産主義の影響など無い」、と思い込んでいる人がいたとしたら、それは非常におめでたい人といわなければならないが、日本の国民全部が、このおめでたい人となってしまっているわけである。
青島幸男が東京都知事になって、前知事が計画していた湾岸副都心計画というものを御破算にしたことがある。
あれは湾岸副都心の開発計画に反対していたグループの声を代弁して、その声に応えた結果の行為であるが、都知事という政治家が、ある特定の目的をもった利益団体の利益を肩代わりする形で政治的決定を行っていいものだろうか。
もっとも、青島幸男というのは、最初からそういう目的のために選出されたから、政治的にも立派な整合性がある、ということも可能であるかもしれない。
しかし、大衆の望む方向に政治を引っ張っていくという事が民主政治であるとすれば、これはまさしく愚民政治ということになってしまう。
大衆というものは、常に自己の利益にのみ動くわけで、自分以外の公益というものには全く感心を持たないわけであり、先の成人式で若者が言っていたように「自分さえ楽しければそれでいいではないか」という発想と全く重なりあっている思考である。

心の貧困のもたらしたもの

この事と、KSDの古関忠男の依頼を受けて小山孝雄が国会で質問した、ことと何処がどう違うのであろう。
確かに、この問題に関して金の授受があったことが悪いとされているが、金の受け渡しさえなければ、通常の政治活動の一環として、そのまますんなり通ってしまう事になる。
外国人労働者が1年余分に日本で仕事ができる、ということは中小企業の利益になっているわけで、そう目くじらを立てる必要は無いわけである。
マスコミの報道の仕方というのは、問題の争点をそこにおくのではなく、古関忠男という人物が、KSD中小企業経営者福祉団体というものを私物化しているところにもってくるわけで、そういう人物が国政に関与してきた、というところにある。
そして国会議員が国会で問題を提起すると、それを官僚が先取りして行政に反映させる、という点も考える必要がある。
しかし、これも諸刃の刃で、本来国会議員というのは法案を審議するのがその職務であるはずのものが、行政にまで関与しているという点で違和感もあるが、政治家のリーダーシップという言葉もあるわけで、その整合性が今ひとつすっきりしない。
ところが、巷の識者の間では、国民から選出された国会議員たるもの、官僚を手足のように使って、行政にリーダーシップを示し、積極的に関与すべきである、という議論もあるわけで、それを言えば、小山孝雄の行った行為というのは是認されてしかるべきである。
ところが、この事件を報ずるマスコミというのは、一向にそのところに言及するものはないわけで、あたかも極悪非道な犯罪人という扱いである。
国会議員たるものが支援団体から金をもらう、という事では非難されてしかるべきであるが、金をもらわなければ何をやってもいいのか、という答えには何一つ答えていないのが今のマスコミの在り方である。
民主主義の中で、大衆の望むものと、統治する側の理念とは、明らかに相反するわけで、大衆の望むものというのは、あくまでも自己を中心とした発想なわけで、仮に愛知万博を例にとっても、反対派というのは自然保護を前面に打ち出して反対しているが、自然保護さえ維持できれば、人間の英知の結集として、全世界に向けた日本のPRというものは無視していいのか、という反論にはなにも答えていないわけである。
愛知万博の場合、結果として、その両案を折衷した形で規模を縮小して開催とはなったが、反対派が全面的に納得したわけではない。
もっと具体的な身近な例をしめせば、ごみ処分場の建設に対する反対運動など、明らかに住民エゴそのものであるが、「地域住民が反対するから取りやめましょう」ということではなにも解決したことにはならない。
何処かに作らなければ全部が困るわけで、住民の声を尊重するあまり、何処にも作らず放置しておけば、我々はごみの中で生活するということになってしまう。
これも住民の選択だから致し方ない、で済む問題であろうか。
住民の反対をいくらかでも懐柔することが政治家の使命ではなかろうか。
住民の声を聞くだけの政治家ならば誰でもできるし、自分達の声を全部聞いてくれる政治家ならば、自分達にとっては好ましい人であろうが、それは裏を返せば全体のことを全く考えない無責任な政治家でもある。
日本の政治の悪いところは、政治に金がかかるという点である。
基本的に言えば、政治に金がかかる事自体が、そもそもおかしいことである。
そういう弊害があるからこそ、政治資金規正法が出来て、政党に政治資金が割り振りされるようになったわけで、それでもなおKSDのように国会議員に金をばら撒くという行為が後を絶たないということは、我々の選んだ政治家というものが如何に腐敗しているかという事である。
国会議員というのは議員宿舎もあり、郷里に帰る交通費というのも免除されており、秘書まであてがわれているわけで、それ以上に金のかかる事はありえないように思うが、それでも砂糖に群がる蟻のように、金には汚い連中ばかりである。
国会の審議だけならば、それほど金はかからないはずであるが、金がかかるその根本のところは、次の選挙に対する選挙運動がらみの行為に金が要っているに違いない。
この点も、選挙制度改革で、一応は金のかからないシステムになったはずであるが、それが公約どおりに機能していないわけである。
民主主義という名のもとに、日本では選挙がある種の人気取りとなっているわけで、その人気を維持するのに金がかかるわけである。
その人気を維持するシステムとして、後援会というものや、勉強会というグループを作って、そのグループが親分としての被選挙人を擁立すれわけで、その被選挙人の方は、次も次も選挙してもらいたが為に、そのグループへの義理を欠かさないようにしなければならないわけである。
その義理の維持の為に金がかかるわけである。
表向きはこういう交際は禁止されているので、個々には行えないため、後援会活動と称し、勉強会と称して行っているわけであるが、この現実というのは、日本の社会の古い因習の形骸にすぎない。
21世紀になっても、我々、日本国民というのは、こういう形骸を綺麗さっぱり払拭しきれないでいるわけである。
これというのも利権が絡んでいるわけで、KSDの古関忠男が小山孝雄という国会議員を使って利益誘導したというのも、そのことによって古関忠男の中小企業経営者団体には金が集まってくるわけである。
そして我々の政治的感覚というのは、国民の声を集大成して一つの法案をつくると、それと同時にその抜け穴も考えるわけで、いわゆる方の網を潜るという行為が大手を振って罷り通るわけである。
国会議員というのは自分たちで法案をこねくり回して作るわけで、その過程で、その法案の盲点も十分熟知しえる立場にいるわけである。
そのため、世の中というのは何時まで経っても浄化されないわけである。
外務省の松尾克俊という男は、これはこれで又別の問題を抱えている。
この男の件に関して言えば彼は官僚である。
ノンキャリアであるので、高級官僚といえるかどうかは微妙なところであるが、機密費なるものを自分の私的口座に振り込ませて、そのキャッシュカードで決済をするなどという事が許されていいものかどうかは、普通の常識をもっていればおのずと理解しえる事である。
当然、彼には分かっていたに違いない。
分かっていたからこそ、最初から彼は悪事をするために、自分がそのポストについたときからそれをしていたわけである。
外務省というのは泥棒を飼っていたようなものである。
モラルもなにもあったものではない。
そしてもっと悪いことは、組織としてのチェック機能というものが全く機能していなかったということである。
組織として金の流れを全くチェックせず、彼の行為を何ら咎めることなく過ごしてきたということである。
こういうことは民間企業でもしばしばありうることで、近年あまり話題にならなくなったが、銀行の不良債権の問題というのは、こういうことであった。
領収書の要らない金で私服を肥やしたというわけではないが、上司の監督不行き届きが不良債権を大量に抱え込んだ、という意味で類似していたわけである。
普通の常識で、普通に業務に携わっていれば、起こりえることではない。
そういう意味で、上司の監督不行き届き、という点では全く同じ軌跡を歩んでいるわけである。
このことは明らかに組織疲労をしているということである。
組織が硬直化しているわけで、チェック機能というものが麻痺してしまっているわけである。
巨大な組織で、末端の方では一生懸命仕事をしていても、組織のトップがザルで水を掬うようなことをしているわけで、末端で働いている人には本当に気の毒であるが、組織が疲労してくると、こういうことがあちらでもこちらでも噴出してくるわけである。
これもノーブル・オブリッジの問題だと思う。
組織のトップにいる人は、その地位にふさわしい気概というものを持たなければならないのに、そういうものをいささかも持ちあわせずに、乞食根性丸出しで、組織のトップに居すわっているものだから、こういう事件が後を絶たないわけである。
KSDの古関忠男も、参議院議員の小山忠男も、外務省の松尾克俊も、それぞれに乞食根性丸出しの行為をしているわけで、そこにはノーブル・オブリッジのかけらも見当たらない。
人間としての誇りがあれば出来ないことである。
自分に自尊心があれば、こんな卑しい行為などできるものではない。
自分に自尊心も無ければ、誇りも無く、普通の人間としての常識も無く、たまたま運が良くてその地位を得ただけの人間であればこそ、破廉恥にも乞食としての欲望そのままに生きてきたわけで、それが司直に見つかって捕縛されたわけである。
松尾忠俊のしていた行為というのは、横領した金で女にマンションを買い与えたり、競走馬を何頭も買ったりして、こういう行為というのは昔の博労・馬喰うの行為そのままではないか。
職業に貴賎はないとは言うが、職業そのものには貴賎は無いが、それに携わる人間の方には、大いに貴賎があるわけで、外務省職員という職業はもっとも高貴な職業のはずであるが、それに携わっていた松尾という男は、もっとも卑しい盗人と同じ心根の持ち主であったわけである。

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