外来思想の咀嚼

外来思想の咀嚼

先に述べた滅私奉公という言葉が戦争遂行に使われたので、戦後の知識人は、それを頭から否定しかかっているが、これは今でも立派に通用するキーワードである。
滅私という部分を「死んでも」という言葉に言い換えて戦争中に使われたので、戦後の左翼系の人々は、そのイメージから脱却することが出来ず、この言葉を死語にしようとしているが、この言葉を現代風に言い換えれば「個人の利己心をほんの少しセーブして、公の為に貢献しましょう」ということになり、それはそのままボランテイア活動の推進の言葉として通用してしまう。
先に、行政サイドが密室の中で物事を決めてしまうから民主主義に反するということに言及したが、この民主主義というものは何でもかんでも善であるという認識も、本当は間違っているのである。
民主主義にも欠陥があるわけで、我々はその欠陥を内在したままの現行の民主主義というものを受け入れているわけである。
民主主義といえども全能ではないわけである。
ところが我々、日本民族というのは、アメリカ占領軍から押し付けられた民主主義なればこそ、欠陥などあるはずがない、という思い込みから抜け切れていないわけである。
先の長野県の知事選挙で、作家の田中康夫氏が知事に選出された際、最初の挨拶で名刺を折り曲げた幹部に対する論争でもわかるように、民主主義というのは全能ではないわけである。
これは選挙で選ばれた人を地方官僚が侮辱した事である。
もう一つうがった言い方をすると、県民から選出された人物を、長年地方官僚をしてきた官僚の代表が拒否しようとした事件である。
アメリカの大統領選でも、民主主義そのものが揺らぎかねない様相を呈しているわけで、民主主義だから何でもかんでも良いのだ、と言うことにはならないわけである。
田中康夫氏の名刺の件については、どっちもどっちである。
会社の社長が部下に名刺を渡す事はない、というのも論理的に正統であるし、人からもらった名刺を本人の前で折る、という事が非常識であると言うのも論理性があるわけで、どっちもどっちである。
詰まる所、両方ともが愚民であるということである。
その愚民が、民主主義というものならば、何でもかんでも無批判に万全であると、思い込む事もこれまた愚行に輪をかけたことになる。
行政が密室の中で事を決める、という事に対して批判が姦しいが、ならば「ゴミ処分場を何処の作りましょうか」、と行政サイドが住民に問い掛けたとしたら答えがありうるであろうか。
「発電所を何処に作りましょう」、「公民館を何処に作りましょうか」、「病院は何処にしましょうか」、ということを全く白紙の状態で市民に提示した時に答えが出てくるであろうか。
これはおそらく永久に出てこないと思う。
昔はこういう場合、「そういう事情ならば我が家の土地を使ってくれ」という篤志家というものが現れたものであるが、今日では下手に寄付を申し出ようものなら、税務署が真っ先に駆け込んでくるに違いない。
こういう状況を踏まえて考えれば、反対する側が「密室で決められたことだから協力し得ない」という言い分は、補償金の値上げが目的の口実としか言えない。
これは個人主義の仮面を被った利己主義でしかないが、戦後の日本の知識人というのは、こういう愚民に対する真摯な批判を避けて、こういう人々に迎合する事が流行となっている。
これは、「はやり」だから又時代が変われば、新しい流行に擦り寄るわけで、いわば時代の流れを敏感に感じ取っては、その本流にまぎれ込む事が彼ら知識人の生き様になっているわけである。
その為には、大衆を敵に回せないものだから迎合する他ないわけで、知識人が知識を売り物にして生きて行く為には、大衆が喜ぶような事だけを吹聴しなければならないわけである。
政府や行政というのは、いくら批判しても相手が損害を受けるということはないわけである。
いくら補償金をせしめても、それは公務員の給料から差し引かれるのではなく、納税者の金から支払われるわけで、目に見える形で損をするものがいないわけである。
民間同志ならばすぐに裁判沙汰になりかねない事でも、相手が行政であれば、いくら批判してもその心配はないわけである。
だから戦後の民主主義の風潮のもとでは、政府や行政を攻撃していれば、誰も傷つかないわけである。
そしてそれが格好いい知識人としてのポーズでもあった。
自分の行いに対して責任をとらなくてもいいという思う、その背景には、戦後の民主主義において、個の確立の意味を、我侭が許される事と思い違いをしたことにあるわけで、そこには個の確立の前には絶対正義がある、という概念が欠如しているからである。
そもそも我々にとっては、民主主義そのものが外来の思想なわけで、そういう外来のものを日本流の考えに咀嚼するということは、我々の長い歴史の中でしばしばあった事である。
だから基本的にその思想が外来のものであるかどうか、という点はさほど問題ではないが、それが未消化な点に一抹の不安があるわけである。
西洋の民主主義が日本には入ってきて、日本流の民主主義に生まれ変わったとしても何ら問題はないが、その日本流の民主主義で我々は幸せを掴み得るかどうか、という点では再考をする値打ちがあると言うものである。
日本に入って来た民主主義が正統なもので、真正なものでなければならない、ということにはならないが、仮にまがい物でも、我々が全体として幸せになるものであれば一向に構わないわけである。
長野県の知事選において、県民から選出された知事と、任期の間中彼を担がねばならない立場の地方の官僚たちで、名刺を折る折らないという茶番劇を見ても、日本流の民主主義の限界が露呈しているわけである。
そこには双方ともに節度というものがない。
極めて個人主義的な思考で、「人は思っていることを誰にも憚ることなく思ったまま行為に移しても良い」という思い上がった思考が垣間見れている。
思ったことを思った通りに行なう、思った通りの事を行為に移してしまう、ということはいわゆる節度の欠如なわけである。
それが戦前には無く、戦後、進駐軍から与えられた日本の新しい民主主義だと思い込んでしまったわけであるが、彼等の民主主義は、現地では節度によってコントロールされていた事を知らずに、その表層の部分のみ、鵜呑みにしていたものだから、こういう陳腐な現象が起きるわけである。
節度という問題は、人に説いて教える事の出来る筋合いのものではないわけで、それを理解するのは、その人の持てる教養しかないわけである。
前にも言及したように、この教養というのは高等教育を受ければ誰でも覚醒し得るとは限らないわけで、勿論、金を掛ければ買えるという代物でもない。

曖昧さ故に風見鶏

外来の思想を日本流のものにしてしまう、という点では我々は非常な実績をもっているわけで、同時にその事は、我々の精神が如何に曖昧か、ということを物語っているという事でもある。
物事の本質を厳密な意味で解釈するのではなく、物事の本質を、ある時は拡大解釈し、ある時は過小評価して、自分の都合に合わせて、自分の都合の良いように、勝手に解釈するということは、これほど曖昧な行為も他にない。
これは戦前戦後を通じ、我々、日本民族の歴史には歴然とその軌跡が残っている。
戦争に負ける前はそれが統帥権というものであり、戦争に負けた後では、それが憲法第9条にこの現象が現れている。
この現象は日本民族が潜在的に内在している根源的なものに違いない。
だからいくらそれから免れて、物事の本質を厳密に理解し、その本質に忠実足らんとしても、それは画餅に終わってしまうわけである。
我々の日常生活そのものが、それに律せられてしまっているわけで、我々はそれから免れて、新しい規範を作るという事は、将来にわたっても成し得ない事であろう。
この曖昧さというものは、裏を返せば、日本の文化、ないしは日本民族の懐の深さにも通じているわけで、この曖昧さがあるが故に、我々は明治維新というものを経験し得たわけであるし、戦争に負けたゼロの状態からも立ち直れたわけである。
これが硬直した精神構造と持った民族ならば、西洋列強の物質文化に対抗する術を克服できないという事になり、近代化はもっともっと後回しになってしまったに違いない。
その意味で、太平洋戦争、大東亜戦争前のアジアの諸国は、いずれも我々日本人ほどの精神の曖昧さを持たず、従来の思考に硬直に順じていたが故に、近代化に取り残されてしまったわけである。
我々、日本民族というのは、屋根の上に乗っかっている風見鶏のように、この地球上に吹きすさんでいる風というものを敏感に感じ取り、その風向きに合わせて、己の向きを変えることが出来たわけである。
ところが今世紀初頭のアジアの諸国、いや当時は国を形成していないアジアの民族は、世界に吹きすさんでいる風というものを感知し得なくて、感知したとしても、その風向きに合わせて自ら生き方を合わせる、という芸当が出来なかったわけである。
それは、これらの民族に根ざしている根源的な精神構造、あるいは潜在意識というものが柔軟性が欠けており、硬直的な思考から脱却できないでいたからに他ならない。
それに較べると我々、日本人の場合、この曖昧な思考によって、世界に吹きすさんでいる風というものに対し、自分達の思考をそれに合わせることになんの抵抗もなかったわけである。
だから、この我々の持つ曖昧な精神的基盤というのは卑下する必要はないが、大いなる矛盾を内包している、ということを意識して持っていなければならないわけである。
冒頭から述べている私の知識人への攻撃は、日本の知識人というのが、この矛盾を突く事で飯を食っている事になんとも言えない腹立ちさを感ずるからである。
我々の曖昧さというものは、まさに雑草のようなたくましさ持っているわけで、踏まれても踏まれても芽生える、という意味では、まさしく雑草のようなものである。
今回のシンポジュウムの最初に行なわれた河合隼雄氏の基調講演の中で、柳田邦男氏の「この国の失敗の本質」という本が紹介されたが、我が民族というのは、有史以来、何度も何度も失敗を重ねてきたわけであるが、その失敗の本質を研究して、さらなる成功に導こうという発想は、まさしく雑草の民の発想ではないかと思う。
我々の失敗の本質というものを合理的な精神で研究し、そういう失敗は2度と繰り返すまい、と思うところまでは非常に合理的な思考であり、健全な精神の発露である。
それで、その研究に根ざして一応の結論が出るとする。
そして、その結論に従って次なる方策を思考する段になると、その結論というものの価値を否定する発想が、アメーバーの自己増殖のように涌き出てきて、折角解明した結論というものを台無しにしてしまうわけである。
この過程が感情論であり、合理的な思考で導き出された結論というものを、今度は感情論というメガネで見ようとするものだから、それの行き付く先は、精神主義になってしまうわけである。
この過程が曖昧そのものである。
我々の失敗の研究というものを、感情論を抜きにした合理主義で究明して行っても、その結果を見る時には、それを感情論というメガネをかけて見ようとするものだから、その先が成り行きに任せる、という支離滅裂な思考になってしまうわけである。
この過程そのものが曖昧そのものである。
物事が一貫して合理主義で貫かれていないわけで、ある時は合理主義で進むかと思うと、次の瞬間には感情論が台頭し、情緒主義が幅を効してしまう、という状況に陥るのである。
河合氏の話の中でも出てきたが、日本が太平洋戦争、アメリカと戦争するかしないかの決定も、細密な状況判断による苦渋の決断のもとになされたわけではなく、「戦争をやれ」と明確に指示したものは一人もいないうちに、なんとなく始まってしまった事を述べていたが、まさしくその通りだと思う。
あの戦争を始めるについては、アメリカの国情をつぶさに探求した研究があったわけで、その結論では「対米戦は勝ち目がない」という結論に達していたことも知られている。
それでも戦争に踏み切ったのは「戦いはやって見ない事にはわからない」という漠然とした妄想というか、合理主義の対極にあるいいかげんな思考で、このいいかげんな思考が、天皇も臨席した御前会議の空気を支配していたからに他ならない。
そして我々の会議の仕方というのは「物言えば唇寒し」で、誰一人自分の本音を語らないわけで、結局の所、誰が会議をリードしたかわからずじまい。
よって、会議の結果の責任も曖昧のままで終わってしまったわけである。
馬鹿げた発想というよりも無責任極まりない行為といわなければならない。
20世紀という時代において、世の中というのはすべからく合理主義で動いているわけで「如何に小さな努力で大きな効果を引き出すか」という発想が根底にないことには、この現代という時代は生き延びれないわけである。
「やってみなければ解らない」という状況であれば、やらないほうに賽の目を転がさない事には、民族は滅んでしまう。
だから我々、日本民族も消滅の危機に瀕していたわけであるが、50年経ってみると、その事実さえも忘れてしまっている。
我々は、今、ゼロからの復興、ゼロから再生に成功したと思っているが、このゼロの状態というものをもっともっと深く考えてみると、ゼロ以下の数字というのは実在の世界には存在していないわけで、その事はまさしく民族の消滅の危機に瀕していたということである。
日本民族が絶滅の淵、絶滅のがけっぷちに立っていた事になるわけで、身の毛もよだつほどの恐ろしい状況に置かれていた事になる。 我々、日本民族というのは、あの昭和20年8月15日を境にして、古い日本民族は死滅して、今の我々というのは、そこで断絶した民族とは別の民族であるのかもしれない。
しかし新日本民族も旧日本民族同様に、あらゆる思考の中に曖昧さや甘さというものを内包している点を考えると、全く別の人種ではないわけで、やはり民族としてのDNAを引きずっているわけである。
旧日本民族のDNAを引きずっているとはいうものの、やはり昭和20年8月以降の日本人というのは、戦前の日本人とは大いに異質な日本民族になっていることは否めないように思う。
それは良い意味ばかりではなく、悪い意味でも日本人は変わったと言わなければならない。
その最大の特徴は、日本人の大半が高等教育を受ける機会に恵まれた事もあって、昔の知識人、インテリゲンチャ以上の知識を持ってしまったということである。
それにもかかわらず、こういう立派な知識を持ちながらも、警察沙汰を引き起こすリーダーが後を断たないという事である。
高等教育と倫理とは全く別のものである、ということは今までの記述に縷縷述べて来た事ではあるが、それには戦後の日本の教育というものが倫理の向上には何一つ寄与していないということの現れである。
日本の教育というものをほんの少し掘り下げて見てみると、そこには戦後の占領政策としてのアメリカの政策が横たわっている事を知らなければならない。
私個人としては、アメリカという国に恩義も感じ、アメリカという国が好きでもあり、アメリカの恩恵を忘れてはならない、という思いも持っている。
しかし、それとアメリカの日本愚民化政策というものとは話の次元が違うわけで、我々はもうすぐ21世紀に入ろうというこの時代になって、アメリカの呪縛から逃れる方策を考えなければならない時期に来ていると思う。
日本が戦争に負けた年は昭和20年であるが、これを西暦で言えば1945年なわけで、今から54年前の事である。
その年から約6年半というものがアメリカの占領下に置かれたわけで、この時アメリカが取った日本統治の理念というのは「日本が金輪際アメリカに立ち向かう程の力を持ち得ない国にする」ということであった。
そしてそれは完全なる成功を収めているわけで、その事は逆に、占領された我々、日本民族の側から見れば「何時までもアメリカの隷属のもとに主体性を出し得ない国」になっているということである。
事実、我々の国際社会での立場というのは、その通りの状況を呈しているわけで、昔の西洋列強からは良い様に利用されている、というのが今日の我々の姿である。
日本から海外の旅行に出る人というのは年間一千万人以上だと聞く。
その人達が海外で金を落とす事が、彼等の側からすれば観光資源として外貨の獲得になり、産業として成り立っているわけで、それはそれで結構な事であるが、だからと言って、国際社会で日本の立場が有利になるということは全くないわけで、彼らからすれば金を落としてはくれるが、ただそれだけの事で、日本という国を尊敬しているわけではなく、逆に軽蔑さえしているわけである。
目下、我々の周囲ではグローバル化ということが声高に叫ばれているので、その意味からすれば、日本人が海外に行って金を落とす事はグローバル化に大いに貢献している事になる。
しかし、それは日本の中だけの掛け声であって、世界的な視野に立てば、「日本から如何に金を引き出させるか」ということが彼等の関心ごとのはずである。
我々も金持ちになったのだから、大いに金をばら撒く事は良い事である。
理由がどうであれ、相手が喉から手の出るほど欲しがる金を景気よくばら撒けば、相手は喜ぶわけで、人が喜ぶ事はどんどんすれば良いわけである。
しかし、そんなことをしても、我々の方が金欠になってしまっては何にもならないわけで、バブル崩壊以降というのは、そういう状況になってしまった。
そのうちに相手にばら撒く金が底をつくと、手の裏を返したような仕打ちに出る国が現れないとも限らない。

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