知識人のノブレス・オブリッジ

平成12年11月16日

知識人のノブレス・オブリッジ

先日、岐阜で行なわれた中日新聞主催の「21世紀・日本人の生き方」と称するシンポジュウムを聞いた。
講師陣には国際日本文化研究センター     河合隼雄、
     日本国際問題研究所理事長     小和田恒、
     ライフスタイル・プロヂューサー、 フランソワーズ・モレシャン、
              ロンドン大学           ロナルド・ドーア
氏と、そうそうたるメンバーがそれぞれに自分の意見を開陳していた。
この人達の意見を聞いてそれぞれに「尤もだ」と納得させられたが、逆にいうと私のような庶民が、こういう話を聞いて納得するようでは、講演のレベルが相当に低いといわなければならない。
今の日本というものが非常な混迷の中にいるのは誰の目にも明らかの事で、それを今更、日本の有数な知識陣が大衆に向かって言うほどのことでもないはずである。
共産主義のいう階級闘争ではないが、人間の集まりとしての社会というものを冷静な目で眺めてみると、あらゆる領域において階層というものが透けて見えてくる。
共産主義というのは、この階層を富裕なものと貧乏なもの、という分け方で括って、こういう金持ちと貧乏人の格差は是正しなければならない、と思い込んだ所に彼等の思い上がりがあったわけである。
この階層というのは、人間を取り巻くあらゆる環境に潜在的に潜んでいるように思われてならない。
この講演をする側としての知識人というのは、知識の面で一般大衆とは大きな格差を持っているわけで、その格差が大きければ大きいほど、それを聞く大衆の方では畏敬の念が大きくなるわけである。
ところが私に言わしめれば、この講演の論拠は、日ごろ私が思い、思索し、雑文に記したことばかりで、私にとっては何らそこに知識としての格差を感じない。
私の奢りかもしれないが、私がそういう奢りとも受け取れるような事を敢えて言うのは、日本の知識人というのは、もっともっとと知識を万民の向上のために使わなければならないと思うからである。
この構図というのは、共産主義者が労働者を教育して革命を成さなければならない、と説く事と全く同じであるが、知識人というのは、市井の凡人とは違うわけで、知識人が万民と同じレベルで物事を語っては、知識人としての意味が成さないように思う。
知識人というのは、無産階級の者が汗水垂らして働いている時に学問に励んでいたわけで、そうして得た学問は再び万人のために還元しなければならないと思う。
こういうシンポジュウムで講演するという事は、汗水垂らして働いて、納税させられている大衆に対して、それを還元している事になるが、問題はその中身である。
知識人というのは、普通の人が汗水垂らして働いている時に学問に打ち込んできただけあって、その知識体系というのは、普通の大衆よりも広範であり、尚且つ深いものであり、それこそあらゆる思考が頭の中には詰まっているはずである。 同時にそれは本人の努力も大いに関係しているわけで、その意味からすれば、普通の人と変わらないわけであるが、普通の人の前で講演するということが生業になっているとすれば、その中身についってもっと自信を持たなければならないと思う。
昨今の社会の不祥事の多くは社会的に優位な位置、乃至は立派な社会的地位にある人々が犯しているわけで、それが仮に官僚であれ、民間企業の役員であれ、無教育な人ではないわけで、その全てが立派な教育を受けた人々が司直の裁きを受けるような事をしているわけである。
一般大衆の前で講演をするような生業の人は、ある意味では純真で、徹頭徹尾金儲けに徹する、という思考は持ってはいないと思うが、今社会を賑わしている高級官僚の腐敗、民間企業の経営者のふしだらな営業、等々をしでかしているような人々というのはまさしく金の亡者に違いない。
人の欲望には、昔から金銭欲というもので表されているように、「金が欲しい」という欲求は、生きた人間には潜在的に内在している要因かもしれない。
こういう講演を生業にしているような人というのは、その金銭欲というものを自分の倫理観である程度セーブしているわけで、そうそう金銭欲を露骨には露さない様に自己管理が行き届いている。
しかし、社会で話題になっている官僚や民間企業の経営者というのは、その金銭欲を実に露骨に表しているわけである。特に官僚が汚い。
官僚というのはボランティアで役所に勤めているわけではない。
彼等の給料というのはきちんと法律で決められているわけで、その法律の枠内でしか給料というのはもらえないわけであるが、それが決して少ないわけではなく、民間企業に較べても遜色はない。
それでも自分の給料に不満で、袖の下を欲しがるわけである。
しかもそういう立場になるには、相当な年数が経たないことには袖の下にあずかる地位にはなれないわけで、別な言い方をすれば、いい年をした者が警察のお縄になるということである。
講演を生業にしている知識人も、会社の経営者も、高級官僚も、今その地位を維持しているということは、すべからく知識人、インテリゲンチャとしての評価の上にその地位があるわけで、その事を思えば自分は知識人であるという自覚を持つべきだと思う。
小学校の先生や、弁当屋の店員や、マクドナルドの店員とは違うわけで、彼等は一般大衆に対して精神的な範を示さなければならない立場である、と云う事を自分自身で自らの行動の規範にしなければならないはずである。
ここでいう金銭欲というのは、自分自身の金を貯めるという狭い意味の金銭欲ではなく、自分の生活をより豊かにしたい、生活のレベルを下げたくないという意味での金銭欲である。
紀伊国屋文左衛門が嵐をついてミカンを積んだ船を出し、大儲けをし、その金で放蕩するという意味の金銭欲ではないわけで、良い家に住みたい、良い車に乗りたい、ゴルフ三昧にふけりたい、という意味での金銭欲なわけで、こういう物欲というのは、若い世代なら仕方のない面があるが、分別盛りの大人になれば自然とそういう単純な欲望というのは精神的な葛藤を経て変化するのが普通の大人の精神構造でなければならない。
汚職に浸る官僚、企業を倒産させるような杜撰な経営をする経営者というのは、大人としての倫理観というものが全く存在していないにちがいない。
倫理というものは教育で向上するものではない。
けれども、こういう風に世間を騒がしている高級官僚、企業経営者というのは無学文盲の人たちではないわけで、立派に高等教育を受けた人達で、極端に目の細かい篩によって振り分けられた文字通りの選民であるにもかかわらず、こういう行為をすると云う事は、日本の今までの教育というものが全く効果を表していないという事に他ならない。
高等教育というものが教養を高めるのではなく、ただただ学歴社会の箔をつけることにだけ傾注しているということだと思う。
そこにもってきて、講演を生業にしているような人は、大衆に迎合する事で人気を博し、真の倫理というもの大衆に説こうとしない。
大衆に迎合するような事を話せば、自分の人気が高まり、よって次の講演では講演料のアップが計れる、というわけである。
日本の知識人、いわゆるインテリゲンチャといわれる人達は、大衆に対して物事の本質を語らねばならないと思う。
物事の本質というのは綺麗事ばかりではないはずで、本当の事を語るということは、その暗部をも人の目に晒さねばならず、その暗部を人間の倫理でもって懐柔することを説かねばならないと思う。
本当の事とか、倫理的におかしな事というのは、人間の暗部を内在しているわけで、綺麗事では済まされないわけである。
もともと人間の本質に根ざす行為というのは、倫理的には汚いことばかりの筈である。
人を殺してはいけないという事は、倫理的に許される事ではないが、これが戦争という特殊な状況下では、相手を殺さなければ自分が殺されてしまうわけで、人として普通に生きたいと思えば、倫理では悪行とされる事でも敢えてしなければならない状況があるわけである。
ところが日本の知識人というのは、物の本質を人間の側の倫理で、倫理のみを綺麗事で解き明かそうとするものだから、矛盾が露呈してしまうわけである。知識人というのは大衆をリードしなければならない。
その事は大衆の上に君臨するという意味ではないが、人をリードするからには自分の襟も正さなければならないわけで、いわゆる範を示すということをしなければならない。
それを言い表す言葉にノブレス・オブリッジという言葉がある。
「貴族には貴族としての努めがある」という意味であるが、知識人には知識人としての責務があるはずである。
そのことは知識人というのは大衆に迎合してはならない、という意味の裏がえしの表現である。

メダカや鰯の方向転換

江戸時代の身分制度において、士農工商の士というのは士分の事で、いわゆる武士階級を指し示しているわけでるが、この武士というのは、「今は禄を食んでいなくても、自分は農民や商人、職人を統治する立場の人間である」、という自覚を持ち続けて生きた集団ではないかと思う。
「武士は食はねど高楊枝」という俚諺は、武士というものは腹が減っているのにやせ我慢して楊枝を使っている、という風に解釈されているが、あれはきっと「武士というものはいくら貧乏しても汚職や収賄には決して手を染めないぞ」という決意をあらわしたものではないかと思う。
これは先のノブレス・オブリッジと同じ事をいっているわけで、そのことを現代の知識人に当てはめれば、知識人には知識人としての誇りがあってしかるべきであるし、又当然そうあらねばならないわけである。
知識人が大衆に迎合した未曾有の事例が、あの太平洋戦争、大東亜戦争に荷担した当時のマスコミの存在である。
戦後は「反体制こそ革新的な事だ」と日本の大衆は勘違いしているが、人が集団で生活していく上で、便宜的に国家というものを作っている以上、それに属する人々、一般大衆というのは、基本的にその国家の方針には従順で、且つ積極的に関与しなければ成らないと思う。
戦前の日本のマスコミというのは、そういう認識の上に立って、率先して戦争遂行を鼓舞したわけであるが、そのマスコミというのは、常に知識人の集団であった、ということを考えねばならない。
我々は戦前も戦後も一貫して表面上は民主主義的な政治体制を持ちつづけたわけで、その意味からしても、我々のリーダーというのは、我々自身が選んだ人物がなっているわけである。
天皇が天皇の権限で総理大臣を指名したわけではない。
選挙権を持つ過半数の人が選んだからこそ、内閣総理大臣というものがあり、閣僚というものが存在しているわけで、その人がたまたま個人的には気に入らないにしても、他の大勢の人が選んでその人をリーダーとした以上、気に入ろうと入るまいと、それには従はなければならない。
反体制というのはそれに異を唱えるわけで、異を唱えているだけならばまだしも、それを行動に移すことが許されるという思い込みに浸っている点で大いなる勘違いがあるわけである。
悪法でもそれが改正されるまでは立派な法律なわけで、悪法だから従う必要がない、というのは共産主義者ならばともかく、普通の倫理をわきまえている人ならば、そんなルールが通用しない事は理の当然である。
しかし、大衆というのはそれを理解しようとしないので、非合法な活動となるわけであるが、そこで知識人と称するグループが、一斉に大衆の側に迎合して、大衆の気持ちを煽るような発言をしてはならない。
大衆、大勢の人、数多くの人達が言っていることが正しい、という事は決してないわけで、知識人が大衆に迎合するということは、それを鵜呑みにするということである。
戦前の日本のマスコミというのは、大衆に迎合するあまり、軍国主義をことさら吹聴し、国家の戦争遂行を美化したわけである。
政治というのは大なり小なりその時々の大衆の気持ちを反映するものである。
大衆の気持ちを反映させない政治といえば、独裁政治に他ならないわけで、戦前の日本においても民主主義に不備があったとはいえ、一応、議会制民主主義が機能していたわけで、それを運用したのが軍人という職域の人々であったが故に、未曾有の戦争に転がり込んでしまったということがいえるわけである。
戦前の政治もいわゆる独裁制ではなかったわけで、戦争という選択をしたのは明らかに軍人達が国民感情として、戦争という政治手法も止むなし、という雰囲気を感じ取っていたからに他ならない。
戦後の安保闘争というのも岸信介がアメリカとの不平等条約を少しでも双務的なものにしたい、という願望を持って遂行した事は確かであるが、これこそ政治家のリーダーシップの具現化であったわけで、あの時反体制の側に身を置いた人々というのは、それこそ一般大衆の大部分であったが、民主政治が多数決原理で動くものとすれば、あの時日米安全保障条約というのは批准されず、不平等なままで今日に至っていなければならない。
今振り返ればあの時強行に推し進めた岸信介の行為が「善」であり、国民の大部分が反対したことは「間違っていた」といわなければならない。
この時、日本の知識人の集団というのは、こぞって反体制であったわけで、いわゆる間違いを犯していたわけである。
あの場面では、知識人というのは、大衆を教導する方向に世論を導く事が知識人としての責務でなかったのか?
その事は、ある意味で政府に肩を持つという形にならざるを得ないが、日本というものがきちんとした自主国家であるとすれば、その中で自分自身が祖国に帰属する人間として、自分の国家体制に自分自身を埋没させる事が祖国に忠誠を誓う事だと思う。
国家とか政府、行政機関のする事が全部正しいというわけではない。
そういうものに対する批判というのは常にしなければならないことは言うまでもないが、それを食いものにする事とは又別な次元ではないかと思う。
60年代安保の時の日本のマスコミというのは、反体制を売り物にして、反体制でなければ人であらず、という雰囲気を醸し出していたわけで、これが我々、日本民族の最大の欠陥であるように思う。
日本のマスコミというのは戦前は大衆に迎合し、国家に迎合し、戦争賛歌を極め、戦後は180度方向転換をして反体制、反政府、反岸でメダカの群れのように大同団結し、自己の意思、自分はどう考える、個の確立ということを微塵も考えていなかったわけである。
いわゆる付和雷同、あいつがやれば俺もやる、隣がやれば自分もやる、あれが反体制だから自分も反体制の振りをする。
その事は、人の振り見て我が身を正しているわけで、もの本質を知らずして人の後を追っかけているのである。
人が自殺すれば自分もそれにくっついて死ぬようなものである。
先のシンポジュウムでも個の確立ということがいわれたが、個人の自立ということが民主主義の基底になければならないことは論を待たないが、我々は有史以来、個の確立ということを自覚した事がない。
何百年も前の我々は農耕民族として部落単位で運命共同体をなしていたわけで、そういう環境下では個人の自覚ということはありえなかった。
人は生きて行く為には隣人、同胞、家族と一心同体となって働かねばならなかったわけで、そういう中では個の確立、個人の自覚ということはありえなかった。
ところが戦争に負けた途端、アメリカ占領軍からその事を強いられると、それこそ民主主義の本質も知らずに、戦争中には全国民が軍国主義者だったのと同じ状況を呈し、民主主義者でなければ人であらず、という風潮が蔓延してしまったわけである。
その事はつまり我々、日本民族というのは、理性でものを考えるという習慣が全くなかったという事に他ならない。
付和雷同で、人がやればそれについていけば事足りたわけである。
農耕民族として隣の人が種をまき、隣の人が収穫を始めるを見て、それを真似していれば大過なく生きてこられたということである。
それが戦争に負けた途端、自分のことは自分で考えなければならない、ということを教え込まれたものだから、そこで「自分が損する事は声高に叫べば相手が引っ込む」という事と勘違いして認識してしまったわけである。
個人主義と言う事を、我侭を言う事が進歩的な事と勘違いしたわけである。
このシンポジュウムでは個人主義の前提にはキリスト教の精神が内在しているという事をいっていたが、それは「個人の我侭はキリスト様が許さない」という倫理の上に立った個の確立という意味であろうと思う。
しかし、我々にも「お天道様が見ている」とか「お天道様に顔向けできない」という表現があるように、我々にも個人の我侭を許さないアニミズムのようなものはあるわけで、その意味からすれば、西洋の個人主義が絶対的なもので我々、日本民族には個人主義というものは成熟しきれないという論法は成り立たない。
要は、ここで問題となってくるのが高等教育の問題である。
高等教育を受けた人々というのは、実際問題として、「お天道様が見ている」などという説話めいたものを信ずるわけがない。
ここが問題の核心である。
水飲み百姓の田舎のばあさんやじいさんならともかく、高等教育を受けた世代が、お天道様とか、八百万の神とか、村の八幡様を信ずるわけがない。
彼等の信ずるものといえば、外来の部厚い本に書かれた難解な言葉で解かれた哲学であれば少しは信ずる気持ちになるが、日本古来の説話や御伽噺など鼻で引っかけもしないわけである。
その事は、彼等の倫理を律する根拠をなにも持たないということで、人として、して良い事と悪い事を判断する、乃至はセルフ・コントロールする基準というものをなに一つもっていないという事に他ならない。
西洋の個人主義というのは、個人の我侭はキリスト様が許さない、という潜在意識を前提として成り立っているわけで、して良い事と悪い事を律する潜在意識の下にある個人主義なわけである。
我侭を律する意識として、キリストのゴッドがあるわけで、その存在を意識の下に内在した上での個人主義なわけである。
ところが我々の場合、そういうものがないものだから、個人主義というのは個人の我侭を最大限に引き出すものだ、という認識になってしまったわけである。
そこには公の意識というものが欠如してしまったわけで、「他人はどうでもよくて、自分さえ良ければそれで良し」という思考になってしまったわけである。
昔は滅私奉公ということが言われ、これは自分を犠牲にしても、公に奉仕しなさい、という儒教の教えの最大の特徴であるが、それを戦争遂行に利用したものだから、日本の占領に従事したアメリカは、これが日本人をして戦争遂行に走らせた精神的バックボーンだと思って、これの駆逐に奔走したわけである。
滅私奉公という言葉は、民主的な思考を表す究極の言葉だと思う。
今の日本には一番求められるキーワードではないかと思う。
ボランテイアなどという言葉は、まさしく滅私奉公を英語風に言ったに過ぎない。
しかしあの戦争中は、この言葉で無謀な戦争をおし進めた経緯から、戦後は言葉そのものが死んでしまったわけである。
あの当時、我々、日本民族全体がこの滅私奉公という言葉に踊らされて、戦争遂行に素直に順応したわけである。
その反省からか、戦後は極端に行政サイドのいうことには耳を貸さなくなったわけで、この極端から極端に走るところが、主体性がないという事の最も顕著な事例である。
自分で物事を考え、自分で推考し、自分で判断して、自分で決断を下すということが出来ないわけである。
メダカというのはこの頃見掛けなくなったが、昔は何処の小川にも沢山いた小さな魚である。
このメダカの群れというのは、なにかの拍子に群れ全体が一斉に向きを変える。
それとは別に、時々テレビの映像でも見掛ける鰯の群れでもそうであるので、個体の小さな魚というのは、こういう群れで生きるものらしい。
こういう小さな魚というのは、群れを作る事で、その群れ全体で大きな魚に見せているのかもしれないが、何かの拍子に群れ全体が一斉に方向転換するというのは、我々日本民族の方向転換と全く同じである。
我々、日本民族の方向転換がメダカや鰯の方向転換と類似しているのかも知れない。
まさしく戦後の我々の方向転換というのは、メダカや鰯の方向転換とうりふたつである。
全部が一斉に180度の方向転換である。
見事というべきか、節操がないというべきか、自主性に欠けたというべきか.なんとも言い様がない。
こういう民族的な意識改革の際に、その運動が大衆による下からの支えによって起きているとは言い難い。
こういう方向転換にもやはり旗振り役というのはいたに違いないと思う。
知識人のノブレス・オブリッジと言うのは、こういう時の旗振りに徹しなければならないと思う。
ところが我々の場合、その旗振り役が大衆の中に埋没してしまって、責任が曖昧になってしまっている。

『籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人』

この責任の曖昧さというものは、今回のシンポジュウムでも指摘された事であるが、私は前々からこの責任の曖昧さというものには注目をしていた。
60年代の安保闘争の時、その時の首相であった岸信介は行政側の責任者として、安保条約が紆余曲折の末批准された時点で、その席を潔く禅譲した。
それに反し、それを阻止しようとした側、つまり反体制の側はどういう風にその責任を果したのであろうか?
彼らから見れば、あの闘争は失敗したわけで、阻止しようとした条約は批准されてしまったわけで、その闘争を指導した側としては、当然、その失敗の原因を追求して、誰かを糾弾しなければならなかったように思う。
しかし、あの闘争が挫折したことに対して、その失敗の糾弾ということは全く無しのままきてしまったわけで、その意味からすれば、あの太平洋戦争、大東亜戦争の失敗を我々の内側からなる糾弾をせずに来た事と軌を一にしている。
責任者の探索とその糾弾が宙に浮いてしまっているわけで、我々はそれをなんとも思わず今まで来ているわけである。
それを「安保闘争の挫折」という言い方で一括りにしたまま、失敗の原因追及ということを論理的に、そして歴史への教訓とすべく、過去の過ちを再び犯さない為にも、その失敗の原因究明ということを全くしないということは、一体どういうことなのであろう?
あの戦争の場合は、我々は負けた側に身を置かされたので、勝った側が勝った側の論理でそれを行ってしまったわけであり、我々の側はそれを追認するというか、不承不承認めざるを得ないという状況であった。
人間が集団として生息すれば必然的に社会というものが出来、その社会はその役割分担という意味からして「籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」ということになる。
これは社会の必然だから致し方ないことである。
そういう社会において、知識人というのは籠に乗る側の人になるわけである。
問題は、籠に乗る側の人は、それだけのノブレス・オブリッジを持っていない事には、その籠はどちらに進んでいいのか迷ってしまうわけで、籠に乗る側の人は、それだけのきちんとした矜持をもっていないことには、担ぐ人以下の者が困ってしまうわけである。
籠に乗る立場の人というのは、何も知識人ばかりではなく、いかなる組織でも、組織のトップ近辺にいる人はすべからく籠に乗る側の人である。
そして現代の社会というのは、組織無しの社会というのはありえないわけで、籠に乗る人というのはその組織の数だけいるわけである。
その籠に乗る人が明確な指示を出さない事には、その籠は何処に行ったらいいのか皆目見当がつかなくなるわけで、その明確な指示を出す事が、籠に乗る人の社会的な使命のはずである。
そういう立場の人が、籠を担ぐ人のご機嫌を伺っていれば、籠掻きというのは、乗る人を舐めてかかるわけである。
籠に乗る人が「あっちに行ってくれ」といえば「あっちは道が悪いから行けない」とか、「こっちに行ってくれ」といえば、「こっちは崖があるから行けない」とか、いるいろと屁理屈を並べて、乗る人の言う事を聞かなくなるわけである。
この俚諺「籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」というのは封建制度を比喩する言葉のように聞こえるが、案に相違して、これは民主主義の具現化を指し示しているとも取れる。
これは人間の社会の役割分担を指し示しているわけで、身分制度を固定化するものではないと思う。
この3段階の階層を固定化しなければならないという発想であれば、それは身分制度を擁護する事になるが、社会のありのままの姿だ、と捉えればそれは本人の努力次第で、その階層を登る事も可能だ、という啓示になる。
私は後者の立場をとるものであるが、昨今の日本社会の乱れというのは、この籠に乗る側の人があまりにも自堕落な精神状況に置かれていることを嘆かざるを得ない。
高級官僚の腐敗、民間企業の経営者の経営理念の喪失、教育界の乱れ、等々の現象はすべからく籠に乗る側の腐敗堕落としか言い様がない。
戦後50年の日本の在り方は無からの出発であったことは日本人ならば誰もが納得する状況であるが、その状況というのはゼロからの出発であったが故に、常に右肩上がりの成長であった。
それが何時までも続くと思ったところに今の我々の苦悶が潜んでいたわけであるが、この右肩上がりの成長というものが、何時の日にか平衡になり、更には右肩下がりになる、と云う事を誰も啓示しなかった所に、当時の日本の籠に乗る側の人々の怠慢があったと思う。
籠に乗る側の人々というのは無学文盲の人々ではないわけで、彼らは日本でも有数の高等教育を受けた人々のはずである。
そういう人達が、自分達の行く末が解らないということは可笑しいわけで、ゼロから出発した経済が、どういう状況になれば上げ止まりとなり、後は下降線を辿る、という事はわかっているはずである。
経済の事は誰にもわからないとか、先の事は誰にもわからないとか、将来は予想し切れない、という事を高等教育を受けた人々が言うということは、ただの言い逃れに過ぎない。
無学文盲の大衆が、「先のことなど誰にもわからない」と言うのならば、まだ言い分も通るが、高等教育を受けた社会のリーダー的な人達、つまり籠に乗る側の人達が、「先の事がわからない」では教育を受けた意味がない。
何のための教育であったのかと問いたい。
先のことは確かにわからないと思う、しかし、自分の倫理観というものを確立していれば、どんな状況が来ても慌てる必要はないわけで、わからないのではなく、わかろうとしないのである。
人がマネーゲームに現を抜かしている時に、自分だけ「これは危ない」といって慎重になる勇気を持っていないだけのことである。
そして人と同じ事をしていれば何とかなるに違いない。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」という精神状況なわけでる。
籠に乗る人というのは、こういう状況下において、籠を担ぐ人、はたまた草鞋を作る人に対して、先のことを啓示する事が必要なわけで、それをして始めて籠の行列というものが真っ直ぐに前に進むわけである。
組織のリーダーたるものが、周囲の喧騒に巻き込まれて、先の見とおしというものに関心を失ってしまい、人がやるから我もやる、行き詰まったら行政に泣きつけば最期には何とかなるであろう、という甘えがあることも事実であろうと思う。
高度経済成長からマッ逆さまに転がり落ちても、転がり落ちた仲間が多ければ多い程.転がり落ちた数と量で、政府なり行政も何とかしなければならない状況に立たされるわけである。
自分達が勝手に杜撰経営をしたのだから、行政は預かり知らぬ、とは言いきれないのである。
「自分の尻拭いは自分ですべきである」と突き放せない所が我々の曖昧な所であり、甘い所であり、ここに相互扶助という美意識が頭をもたげるわけである。
本当は言い切って良いのであるが、そこが政治資金という糸で結ばれているわけで、要は、政府も、官僚も、企業も同じ穴の狢であったわけである。
人間というのは人生も円熟してくると、自己の欲望というものも達観してくるのが尊敬に値する人物である。
儲かるからといって、そう何時までも闇雲に金儲けに奔走する姿というのは、醜いものという観念になるのが本当の教養人であろうと思う。
教養と高等教育とは全く別物で、高等教育というのはある意味で人生を生き抜く為の手段に過ぎず、人生のノウハウの為にあるように思える。
それに反し、教養というのは精神の滋養であるわけで、心の豊かさに比例するものだと思う。
その事は、人が生きて行く為の立身出世には何ら貢献するものではなく、教養があることによって、組織の階段を上るには邪魔になることさえある。
高等教育を受けたからといって、その人に教養があるとは言い切れないものがある。
高等教育というものが立身出世の手段なり、手法と成り下がっているのに対し、教養というのは、その対極にあるもので、そういうものとは異質であり、人生の階段を上る手段とは全く別の物である。
ある意味で立身出世にとっては無用の長物でしかない。
しかし、これのある人とない人では人間の評価では正反対になるわけで、これのない人から見れば、その評価そのものに価値を置かないので、まるで空気のように、あってもその存在に気が付かないわけである。
日本の知識人のノブレス・オブリッジとは、そういう教養にウエイトを置いた発言をしなければならないにも係わらず、大衆に迎合する事ばかりに気を使って、真の教養というものを啓示しないところがある。
日本の戦後の思想界で、この教養の本質を説くということは、ある意味で異端なわけで、思想界の流れというのは、反政府の旗印を高々と掲げ、共産主義に迎合したり、大衆に迎合する事で糊塗をしのいでいるのである。
反政府の旗印を高々と掲げても飯が食える、という状況は極めて民主的な社会であり、有り難いことの筈である。
ところがそういう人に限って、その有り難さというものが理解し得ず、何時も何時も不平不満ばかりを募っているわけである。
不平不満というのは致し方ない。
人間である以上、不平不満というのはどんな状況下でもついてまわる事で、人間というのは満足する事がないわけである。
この不平不満を如何に慰撫するか、ということが政治の主題でもあるわけである。
万人が納得する社会というのはありえないわけで、何処かに多少の不満というものが鬱積するのが、ある意味で人の作る社会としては正常なわけである。
だとすれば、反体制を旗印として飯を食っている人達の存在意義というのは何処にあるのかと問えば、それは現行政府のチェック機能をはたすという点にあると思う。
その事は、何でもかんでも政府や行政の計画には反対すればそれで可とするものではない。
政府や行政が良かれと思ってする行為というのは何処に大衆の側の欲求を内在しているわけで、昔の独裁者が自分の酒池肉林のために好き勝手な事をしているわけではない。
当然、そういう決定の裏というか、行為の前提には、選挙民の作為というか、欲求と言うべきか、そういうものがあって始めて具体的なプランというものが浮上してくるわけである。
その時に、計画の案作成の過程において、参画し得ない人も当然いるわけで、「その計画が密室の中で決められたから納得できない」という言い分は、不合理である。
私は大衆というものは基本的に愚民だと思う。,br> 自分にその結果が振りかかって来るにもかかわらず、天に唾するのが大衆だと思う。
行政が一つのプロジェクトをその計画の段階から公開したとすれば、その計画の段階から反対意見が噴出するし、その案を先取りして、土地の買占めに走って、自分だけ儲けようという魂胆の人間が現れることは必定である。
大衆と言うのは思っているほど善人ばかりではないはずで、狡すからい人間がうようよいるわけである。
そういう状況を考えてみれば、施策する側がこれからしようとするプロジェクトをある程度非公開で決定すると言う事にも必然性が有る。
案の内から反対するというのも明らかに個人主義であり、先走って儲けようとする人間も、個人主義なわけで、有る意味で我侭な人達であるといわなければならない。
「自分さえ得をすれば良い」という発想が、その根底にはあるわけで、こういうのが大衆の本質である。
これに反し、知識人というのはこうであってはならないはずであるが、案外知識人の中にもこの類の人間がいるわけで、そこに彼等のノブレス・オブリッジの存在が問われるわけである。

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