組織とモラル

組織とモラル

アメリカが日本を戦争に引きずり込み、そして日本の軍隊というものを壊滅させ、挙句の果てに6年半にも及ぶ日本占領という事を、我々が行った中国占領と比較検討すれば、アメリカ人の合理主義と我々が感情のままに試行錯誤した不合理さの違いというものを納得せざるを得ない。
戦後の我々が歴史から何かを学ぶとしたら、この違いを徹底的に研究し、再び同じ轍を踏まないようにしなければならない。
ところがこの同じ轍を踏むという事は、日本以外の民族にとっては充分にありえる事であるが、我々・日本の場合に限っては、更々その同じ轍を踏むという事はありえないと思う。
同じ轍を踏むという事は、再び武力を備えて世界制覇に向かう、という野望を持つことであり、今日の我々にはそんな大きな野望というのは金輪際ありえない事である。
もしそういうものがあるとすれば、アジア諸国の謝罪要求にそうやすやす応じてはいないはずである。
アメリカが日本を戦争に引きずり込むにはそれなりの明確な目的と、その目的を達成する手順があったわけで、その意味からしても、戦争は政治の延長線上にあったわけである。
野村大使とハル国務長官の外交交渉もその手順の一つであったわけである。
外交交渉も日本側が怒り出すように仕向けられたもので、彼らにして見れば、目的達成の為のレールの上を走っていただけの事である。
その根底に流れていた思考は、一言で表現すれば差別主義であった。
「日本憎し」というレイシズムに他ならないわけであるが、世界のリーダーとしてアメリカ大統領のルーズベルといえども、それに関しては公の場では口にできなかったなかったわけである。
この過程を日本が行った日中戦争と比較してみると、我々の場合は全く泥縄式の後追い処置でしかなかったわけである。
常に試行錯誤の連続で、全く計画性が無いわけであり、行き当たりばったりで、それにもまして相手を研究するという発想は最初から欠落していたわけである。
日清、日露の戦いで辛くも勝利を納めたため、それで有頂天になってしまって相手のことを研究する、という「孫氏の兵法」中の初歩の初歩でさえも蔑にしていたわけである。
まさしく「奢る平家は久しからず」という諺通り、奢り高ぶって、慢心していたわけである。
我々、日本民族というのは、国家としての遠大な理想に向かって緻密な計画の元、その実現にまい進するという信念を最初から持ち合わせていないのかもしれない。
江戸時代の封建思想から明治維新を経過して近代思想を会得したとは言うものの、この成り行きを見ても、所謂、行き当たりばったりの泥縄式の政策が結果としてアジアの中では突出してしまったが、理想の社会を築くという目標に向かって合理主義に徹して出来あがったものではない。
現代のこの地球上において、国家の理想に向かって合理主義にもとづき、国民が一致団結して国を作る、ということは希有な事には違いない。
アメリカといえどもそういう過程を経て繁栄を築いたわけではない。
政治というのは、ある程度は周囲の状況に合わせて、泥縄式で試行錯誤する事がついて回るのも致し方ない面がある。
その意味では、旧ソビエット連邦や、中華人民共和国というような社会主義国というのは、国家の理想に向かって国民が一致協力する体制ではある。
しかし、その為には必然的に独裁政治になり、全体主義になり、異なった意見というものは力でねじ伏せない事には、その体制が維持できないということが歴史的に証明されたわけである。
主権国家の存立ということは、周囲との状況の中で、非常に大きな影響を受けながらの存立であるわけで、ある程度の試行錯誤乃至は日和見な在り方というのは致し方ない面がある。
ところが、主権国家が国の存亡をかけて他国と戦いをするということになれば、「やって見なければわからない」というような曖昧・無責任な気持ちではありえないわけである。
しかし、我々の先輩諸氏の行った事はこの事であったわけである。
日中戦争に関しては、当時の日本政府はあくまでも不拡大の方向であったが故に、軍部の方も遠慮しがちのダラダラとした戦略しか立てられず、まさしく泥縄式の戦線拡大となったわけである。
一方、アメリカとの戦いでは「やって見なければわからない」という暗中模索の中で、やれば負けるというデータを持ちながら見切り発車した感である。
日中戦争に関して言えば、軍部と政府の間で考えている事が離反していたわけで、これでは結果として良いものが出るわけがない。
昭和の初期の日本人というのは確かにどうかしていた。
日清・日露の戦いに勝ったという余韻に浸って、明らかに奢り高ぶっていたとしか言いようがない。
明治憲法下で軍部が統帥権をほしいままに振りかざして、独断専行したキライがあるが,この軍部の独走を阻止する発想が生まれなかったところに、日本の悲劇が潜んでいたわけである。
戦後の書物でも旧日本軍の悪行を糾弾するものは数限りなくあるが、軍部の独走が何故に起きたか、という点を追求したものはないにひとしいと思う。
その事を追求する事は、我々、日本民族の恥部をさらけ出すことになるからだと思うが、いまどきの日本人で羞恥心を持ちあわせた人はないにひとしいにもかかわらず、その点の追求がおざなりになっている。
昭和の初期において、軍部が統帥権を盾に政府の言う事を聞かず、独断専行した振る舞いというのも、やはり当時の軍部の奢りであったといわなければならない。
人が奢った気持ちになるということは、優越感という感情に支配されているからであって、感情の起伏のまま喜怒哀楽を体現するというのは、いわば素朴で純真な性格といわなければならないが、その分人間としては未熟なわけである。
人間であれば、冷静な頭脳で事の良し悪しを冷静な目で見極めて、知性で以って決断をし、知性で以って行動しなければならないわけである。
それが人の人たる所以である。
感情に支配されて、感情の赴くまま行動していれば、相手にしっぺ返しを食らう事も致し方ない。
知性で以って冷静に計画を立てて、それを着実に実行に移すということが人間として一番理想的な事には違いないが、これは言うは易いがそう簡単な事ではない。
だからこそそこに知恵を絞るということになる。
ところが我々、日本民族、大和民族というのは案外こういうことが不得意で、戦後の復興でも、その点から見ればまさしく行き当たりばったりの泥縄式できたわけである。
結果が良ければその過程は不問にふす、という点が我々に反省をおざなりにしきた理由ではないかと思う。
日清・日露の戦いで勝ったことが、我々をして戦略と戦術について反省する事をおざなりにしてしまったわけである。
民族の存亡に関し、周囲の状況に合わせて臨機応変に身を処すということも100%悪い事ではない。
時と場合によっては、そういう対処の仕方も価値を持つ場合も多々あるに違いない。
しかし、そういう環境に置かれたとしても、常に過去の失敗を研究し、失敗の本質を究明する事が大事なことは時代が変わっても変わらない真理だと思う。
ところが日清・日露の戦いに勝ってしまったということは、反省の材料がないに等しいわけで、我々が慢心するのもある面では致し方ない。
それに比べれば第2次世界大戦・太平洋戦争の敗北では、反省材料はゴマンとあるわけで、戦後50年以上も経過すれば、その反省も完成の域に達し、集大成が成されてしかるべきときになっていなければならない。
その意味からしても、戦後の日本の知識人があの戦争を糾弾する時、感情論が先に立って、国民に多大な苦労を強いたのは時の軍人とか時の為政者が極めつきの悪人であったからこういう結果を招いた、という論調になってしまうのは如何にも底の浅い発想だと思う。
苦労を強いた側と、苦労させられた側が、同じ日本人でありながらあたかも別種の人間がいたという論調になりがちである。
これはまさしくマルクス主義を信奉する階級闘争という形で捉えた姿である。
そこには自分達の民族を、科学的で、知性に依拠した合理的な分析を欠いた論調が繰り広げられているわけである。
明治維新以降の日本、我々の同胞、我々の先輩諸氏がアジアの人々に対して何故に優越感を持ち、奢り高ぶったのか、という心理学からの考察が抜け落ちている。
私の考察では、その当時の日本が未だに貧しく、貧困の裏返しが無節操な行動に走らせたのではないかと思うし、それと軍隊というのは巨大な組織なわけで、その組織というのものが腐敗堕落をきたしたことが、モラル・ハザードをもたらしたものと推測している。
モラル・ハザードの恐ろしい所は、本人がその事に気が付いていない点にある。
自分がモラルに反した事を行っているかどうかという反省は、日常生活のルーチン化した生活の中ではなかなか自覚出来るものではなく、何か事が起きてしまわない事には、その事に気が付かないという点がある。
平成12年の夏の時点で、雪印乳業が侵した異物混入事件とか、三菱自動車のリコール隠しの問題というのも、先の大戦の時の旧大日本帝國軍隊の組織疲労と全く同じ轍を踏んでいるわけである。
民間企業といえども、国の機関の軍隊と同じように、人と人が幾重にも重なり合った巨大な組織を形作っている事には何ら変わりはないわけで、その組織がモラルというものを喪失すると、あらぬ方向に暴走してしまうわけである。
巨大な組織のモラルの崩壊というのは、上意下達の不徹底ということが最大の原因ではないかと思う。
それは上からの命令を、自分勝手に恣意的に解釈する事とあわせて、不都合な報告を忌諱して、自分にとって都合の悪い事は上に報告しない、という事が重なり合って上意下達が不徹底に終わるのである。
一言でいえば、各級、各段階における責任回避行動である。
もう一つ戦後の日本の知識人の陥っている盲点に、国民とか一般大衆というのは総て善人で、為政者というのは総て悪人であるという思い込みである。
まさしくマルクス主義の唱える階級闘争というものを鵜呑みにした論調をそのまま声高に叫んでいる点である。
日本人がアジアの人々を虐げた事件で代表的なものは、例の南京大虐殺事件というものであるが、これの正確な検証というものは未だに成されておらず、被害者側の誇大宣伝をどこまで信ずるか、という点で人それぞれに捉え方が違っていると思う。
しかし、この当時、この場所で、日本人による無益な殺傷が行われた事はある程度本当のことではないかと思う。
それを我々・日本人の立場で振り返って見ると、そういう行為をしたのは一体誰であったのか、と新たに問い直せば、それは日本の旧帝國陸軍の下級兵士であったといわなければならない。
旧帝國陸軍の上級幹部や、高級参謀が部下に対して「中国人を無差別に殺傷せよ」と命令したわけでは決してないと思う。
しかし、現実に事件が起きたとなれば、これは軍隊の全体の意思とは無関係に、下級兵士達が独断専行して、自分たちで勝手な行動を起こしたと見なければならない。
まさしくモラル・ハザードであり、軍の規律違反であり、下級兵士の暴走であり、組織疲労の極であり、愚挙そのものであったわけである。
問題は、その実行者である所の下級兵士というものがどういう人々であったか、ということを考えなければならない。
この当時の下級兵士というのは、徴兵制のもと、1銭5厘のはがき1枚でかき集められた成年男子の一群であった。
今の言葉で言い表せば、国民大衆の一部であり、草の根の庶民の一部であり、名も無き人々の一部であり、あるゆる階層を網羅した一般社会の縮図であったわけである。
いわば我々、日本民族の先輩諸氏そのものであり、我々の兄であり、御父さんであり、農村の青年であり、漁師のアンちゃんであったわけである。
そういう人々が、中国という占領地において、そこに住む人々をむやみやたらと殺傷していたわけである。
この現実を、我々は今アメリカの占領の仕方と比較検討しなければならないと思う。
戦後の日本の知識人というのは、政治というものは統治する側とされる側に分類されて、統治する側は常に悪人で、統治される側は常に被害者であるという論法に依拠しているが、現実の生きた社会というのは、案外統治される側の無軌道が歴史の変節点を作っている節がある。
歴史の評価というのは、こういう名もない一般大衆の行為とか行動というのは記述しにくいわけで、どうしても時の政権の座にいる人に焦点が向けられ、その人が悪人にされがちである。

官僚の基本的欠陥

南京大虐殺に関していえば、これは日本の軍隊の下級兵士の暴走と云う事がいえるが、ここでも明らかなことは日本の軍隊には戦略という思想が最初から欠落しているという事である。
アメリカの対日占領を見ると、彼らは占領するについて、基本方針とするポリシーを持って日本占領を行ったが、我々の場合はただただ戦術的に武力で占領はしたものの、その後それをどうするのかというポリシーに欠けていたわけである。
その間に下級兵士が暴走をしてしまったわけで、その意味でも、この当時の日本の軍隊というのは、泥縄式で、行き当たりばったりの施策しか持ち合わせていなかったわけである。
その場その場の戦闘では勝つことのみに神経を集中させるあまり、勝ったあとには如何なる施策をするか、という点にまで心の余裕が無かったわけである。
つまりここで再び「戦術と戦略」の問題に立ち返るわけである。
アメリカの場合、日本を戦争に引き込む最初の段階から、日本を壊滅するまで徹底的に、計画的に、且つ合理的に施策を進めてきたわけであるが、我々の場合はまさしく行き当たりばったり、その場その時の状況で一喜一憂しながら奈落の底に転がり落ちて行ったという構図である。
戦後の復興においても、きちんとした計画に基づいて理論整然と合理的に推し進めてきたわけではない。
周囲の状況に身を任せた挙句、川の中の浮き草のように、紆余曲折の末、今日の日本があるわけで、この今の姿も決して我々日本民族が世界に誇れる主権国家として屹立しているわけではない。
まわりの主権国家からすれば、利用するに価値ある存在であっても、尊敬に値する主権国家ではない。
かっての日本の軍隊というものは完全なる官僚組織であったわけで、この人間の作った組織というのは経年変化で必ず組織疲労することも人間の歴史が証明している。
その反面、その組織疲労が必然的なものだとすれば、それを予防する手法も、人間の側の知性で見つけ出せれるわけである。
その究極の思想が民主主義であるような気がする。
共産主義というものは、人間の理想を実現することを目指したものであるが、人間が人間を管理又は統治する限りにおいて、必ずその機構としての組織は人間の本質、つまり欲望とか利己心、乃至は人としての属性によって、その理想が侵食されてしまって、理想の社会というものはだんだん遠くなってしまうわけである。
この人間の本来持っている性癖を包含した上で、人が人を管理する機構を機能的に維持しようとしたものが民主主義だと思う。
民主主義というのは管理する側・統治する側が常に交代するという特徴を備えているわけで、その機能を持っているが故に、常に人事の刷新ということが行われている。
ところが官僚組織というものには、この人事の刷新ということがないわけで、一度入ってしまえば一生涯その組織の中で生息するというのが普通に行われきたわけである。
特に日本の場合、明治維新を経過したとはいうものの、日本全体としてはまだまだ貧しく、出来立ての官僚システムの中に運よく紛れ込めれば、一族郎党、路頭に迷う事はなかったわけで、当時の日本人がそういう過程に憧れを抱くのはある意味では致し方ない面があったことは否めない。
官僚組織の構成員となったものは、折角自分の地位を確保したからには、自分の地位を脅かす人事の刷新ということを事の他嫌う風潮ができたわけである。
戦後の日本でも3権分立という立派な民主主義のもとにあるとは云うものの、立法府のみが民主主義を実践しているだけで、他の司法府と行政府というのは官僚システムそのものである。
行政府の首長のみは選挙の洗礼を受けなければならないが、その下の組織というのは全く選挙の洗礼を受ける事がないわけで、選挙の洗礼を受けた首長といえども万能ではないわけであり、その下の官僚の意見を全く無視するわけには行かない。
つまりは人事の刷新の全くない官僚の言うなりにならざるを得ず、革新的な行政アイデアは実施しえないわけである。
こういう状況のもとでは、国家としてのビジョンというものはなかなか確立しえないわけで、又逆に確立したとしても、それは往々にして誤った道に引きずり込まれてしまいがちである。
21世紀にさしかかろうとした今日、人々の記憶から忘れ去ろうとしている事ではあるが、かって満蒙開拓団とか、海外雄飛のスローガンのもと、南アメリカに移住した人々が沢山いた。
彼らは明らかに国家の国策に乗っ取って、国家の言う事を心から信じ、その途についたはずであるが、実質は棄民に等しかったわけである。
これらの事例においても、その事業の趣旨はわからないでもないが、その計画を実施するに当たって、用意周到な検討がどこまでなされたか、という点では実に曖昧模糊としていたわけである。
つまりこの場合にも「戦術と戦略」の発想に欠けていたし、官僚が考える事には一般大衆のことなど眼中にない、という官尊民卑の思想が随所に散見していたのではないかと想像する。
日本の貧しい農山村の人々を広大な大地に移せば、受入先も、我々の同朋も、益するに違いないという発想は極めて官僚的で,官僚は自分でその労をとることを最初から考えていないので、美辞麗句のみを鼓舞宣伝し、無知な大衆を煽ったわけである。
そしてこういう体質そのものが大衆も官僚もひっくるめて戦争というものを肯定していたわけである。

他民族支配の巧妙さ

思えば日米関係の根本のところにあるペリー提督の浦賀来航そのものからして日米の間には「戦略と戦術」の相克があったわけで、ペリーの黒船に驚いて大慌てで東京湾にお台場を築き、それに寺の鐘を大砲に見たてて対処するということなど、まさしくB−29に竹槍で立ち向かおうとした事に匹敵する。
この当時からアメリカにおいては国家戦略というものが確立していたわけで、その信念に基づいて日本という東洋の成金を糾弾しようとしていたわけである。
その事に今日の我々も誰一人気が付いていないわけで、彼らアメリカ人というのは歴史が浅い分、合理主義というもので理論武装しているわけである。
日本とか中国乃至はそれ以上に歴史の長い民族では、人間の摂理というものを身に備えているので、合理主義に徹しきれないわけであり、人の世のならいとして栄華盛衰は常に付きまとう、という観念に縛られて人間不信に陥っているわけである。
よって刹那的なその場その場の対処で危機を乗り越えて、自尊心も、自負心も、民族の誇りも、主権の存在も二の次に考えてしまうわけである。
戦略的思考と戦術的思考では結果は大いに違って当然である。
戦術的思考で物事を処理するということは、別の表現をすれば何もしないで時の流れに身を任せている内に周囲の状況の方が変わっていくに違いないという発想がその根底にある。
それに反し、戦略的発想というのは、そんな受動的な志向ではなく、まわりの状況をも自分に有利に変えてしまう、という積極果敢な発想である。
先に日本の国策として海外雄飛を国家が奨励した話をしたが、国家がもっともっと真剣にその事を考えれば、その為の下準備というのは用意周到でなければならなかったわけである。
ところがそれを管理していた官僚というのは、自分が海外雄飛をするわけではなく、あくまでも行く人は自分以外の、名もなき人民であるが故に、自分はただただ笛を吹くだけで、それに躍らされて行くのは一般大衆であり、庶民であり、名もなき貧乏人であったわけである。
これが典型的な官僚の思考である。
戦争を始めるについても、軍の高級参謀は自分が敵の前線に貼りつくわけではなく、一番危険なところで格闘するのは、徴兵制でかりあつめられた兵卒たちであったわけである。
死のうが生きようが、如何に苦労しようが、自分とは全く関係のない国民大衆なわけで、自分の身は何一つ痛まないわけである。
自分で痛みを感じない者が人の痛みがわかるわけがない。
それで積極果敢な計画というものを作ろうともせず、ただ何もせずに時の流れに身を任せて、成り行き任せの行き当たりばったりの事後処理になってしまうわけである。
第2次世界大戦が終わって55年が経過した今頃になって日本はアジアの国々から先の戦争の謝罪を要求されているが、これは明らかにアジア諸国のやっかみがそうさせていると思う。
ところが日本の知識人の中には、この人間の本質を突く現象、裕福な者に貧乏な者がやっかみを抱く、という人間の本質にもとづく心理を棚に上げて、綺麗事に終始しようとする機運がある。
人の側面の内の汚い面よりも綺麗な面を見たい、というのも人間が普遍的に持っている深層真理は違いないが、それは安易な生き方で、物の本質を追求しようとすれば、我々は人間の汚い部分にメスを入れなければならないと思う。
汚い手法には汚い方便で対抗する以外に道はない。
「目には目を、歯には歯を」というキリスト教の教えがあるが,これは「目を取りにきた者には目を、歯を取りにきたものには歯を与えよ」ということで、自己犠牲を強いる教えであると聞き及んでいる。
つまり自己を殺してまでも他人を救いなさいという事であるが、現実のキリスト教徒でさえも「目をやられたら目に、歯をやられたら歯を奪い取れ」という報復の観念として生きている。
この方が本当の人間の心理を表しているように思う。
自己犠牲というものは口で言うほどそう簡単に出来るものではなく、人間は人間の持つ普遍的な深層心理によって動かざるをえない。
普遍的な深層真理で動くとしても、その動き方には戦略的なものと戦術的な違いはあると思う。
そしてそれはそれぞれの民族によってその動き方に大きな特徴を備えているような気がしてならない。
我々の場合は今まで述べてきたようにその場その場を上手に切りぬけて、川の流れのように、あっちに寄ったり、こっちに寄ったりして、まるで浮き草のように時の流れに身を任せてきたわけであるが、アメリカという国は歴史が短い分、そういう刹那的な生き方は取らず、綿密な計画のもとに一つ一つその計画を達成しながら階段をよじ登るような行き方を示している。
日本と戦争をするについても、戦争を始める前から日本の研究をして、資料を集め、その弱点を研究し、その弱点を突く戦法を取っている。
それに引き換え我々の方は、面子をつぶされたから「やれば負けるかもしれないが、そこは敢闘精神さえあればなんとかなるであろう」という感情論以外の何物でもない思考によって、その場の雰囲気で罠に嵌りこんでしまったわけである。
戦争中に英語を適性語として禁止したり、竹槍で敵を倒す事を真剣に考えたり、人間の理性のかけらが微塵も見当たらない対処の仕方であった。
そういう条件を備えつつ19世紀から20世紀にかけて日本が飛躍的に向上した事は実に不思議な事であるが、これも我々の民族の持つ不可思議な面といわなければならない。
明治維新にしろ、戦後の復興にしろ、我々は何年計画とか、何ヵ年計画という計画のもとで、その偉業をなしたわけではない。
ただ富国強兵とか、西洋に追いつき追い越せというスローガンのもと、再建計画となどとは全く無縁のまま、ただただしゃにむに走った結果が今日の日本の姿になったわけである。
無計画、無節操、無秩序、ただただがむしゃら、アメーバー的自己増殖、洪水のような輸出攻勢、自分さえよければ人のことなど構っておれない、という支離滅裂な思考の中で、金だけは豊かになってしまったわけである。
金だけが豊かになる、つまり経済だけが成功して、国家としての基調が失われてしまったわけであるが、この国家としての基調を失うという事の本質を戦後の我々はほとんど認識せずに生きているわけである。
人が生きる為には食料の確保ということが不可欠な事は論を待たないが、敗戦という無一文の状況に置かれた我々は、ただただ生んがために食わなければならなかった。
今、60代以上の人々は、その状況をつぶさに経験しているが、そのひもじさを経験したが故に、そうならない為の対処方法というものを身につけてしまったわけである。
敗戦という状況を今一度振り返って見ると、これは新生日本にとって最大のチャンスでもあったわけである。
アメリカ占領軍によって旧来の我々の価値観というものはそのことごとくが否定されてしまって、新しい民主主義という価値観をなかば強制、なかば自主的に採用させられてきたわけである。
アメリカの占領政策の巧妙であったところは、この価値観の強要を、半分は日本人自身の選択に任せた、という風に仕向けたところにある。
実質は自分達で強権を握っていながら、表向きには日本人自身の手で改革を推し進めた、という錯覚に陥るように仕向けたところにある。
我々がその前に中国大陸で犯した過ちは、何もかもを日本人の手で管理運営しなければならない、という思いあがった態度で統治しようとしたところにある。
このことは即ち、他民族を統治するに際して、戦略的な発想の欠如と同時に、他民族の深層心理を研究することを怠った結果である。
この当時の中国の表面の動きのみに注意を払い、その場その場で戦術的に対応していれば、一時的には敵を征圧できたとしても、それを併合した時に恨みを残し、真の味方に組み入れることができなかったわけである。
そもそも戦術的に成功を収めたら、その相手を同胞とか、同志とか、同盟国にしようと思うところが浅薄で、他民族を自分と同じ待遇で遇しようと思うことが浅はかな発想である。
アメリカのマッカアサーは決してそんな事を考えていなかったわけで、ただただ戦勝国として、日本という民族を如何に合理的に管理し、統治するのが一番リスクが少ないか、という発想が彼の心の隅には潜んでいたわけである。
それに反し我々の方の発想は、台湾や朝鮮を統治するのに、これらの民族を丸々日本人と同じ待遇として扱えば、彼らも喜ぶであろう、という思いあがった先入観があったわけで、日本が強い時には彼らも我々の側に迎合していたが、日本が敗戦という憂き目に遭えば、掌を返したように「強制的に併合させられた」という難癖になるわけである。
地球規模で人類の進化を考えたとき、ヨーロッパというのはアジアに比べ一歩、も二歩も近代化に先駆けていたわけである。
その彼らがアジアに進出してきた時、彼らはアジアに住む人々を決して同じ人間とは扱っていなかったわけである。
まるで牛か馬、ひいては犬ぐらいにしか見ていなかったわけである。
顔かたちが同じだとしても、自分達と同じ人間だとは決しておもわなったわけで、あくまでも使役の対象としか見なかったわけである。
それに反し、我々、日本人の場合は、最初から、言語は違っても同じ人間だから同じように扱わねばならない、という強迫観念にとらわれており、我々と同化しなけれならない、という発想に陥ったわけである。
我々の側にして見れば、近代化に至るまでの過程においては、アジアの人々の方が我々の文化の先生にあたるわけで、その事を日本人の誰もが承知しているので、日本人の全部が朝鮮や台湾を我々と同化する事になんの違和感も感じなかったわけである。
そのことが彼ら朝鮮や台湾の側からすれば植民地主義の押し付け、という捉え方をされるわけで、その意味からすれば、我々の側に他民族を統治する手法に稚拙さがあったとしかいいようがない。
マッカアサーが成した日本占領政策というのは、その点も実に巧妙で、実質天皇陛下以上に強権を持ちながら、それを表面に出さず、あくまでも日本人の政治家を使って、日本人の自主的な判断で事が行われているように仕向けていたわけである。
日本が中国で満州国を作った手法とは雲泥の差であり、月とスッポンほどの違いがある。
済んでしまった事は致し方ない。
問題はこの先21世紀に向けて、我々・日本人の生き様を如何に築くかという事である。

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