満州のコンセプト

満州建国の波紋

だからこそ傀儡という手法の間接統治を目指したのではないかと思う。
具体的には、清朝の最後の皇帝溥儀を据えることで、満州国というものを作り上げたわけである。
溥儀にしてみれば、自分たちの先祖伝来の土地に、再び皇帝として迎えられたわけだから悪い気はしなかったに違いない。
しかし、この宣統帝溥儀という人も数奇な運命を背負った人であった。
1908年、明治41年11月14日、清朝の光緒帝が死に、翌日西太后も没してしまった。
西太后の意思で、わずか3歳の溥儀が清朝の皇帝の座につき宣統帝溥儀と号した。そして1911年、明治44年の辛亥革命である。
溥儀が清朝最後の皇帝として在位したのは3歳から6歳までのわずか3ヵ年であった。
革命後の当初は孫文が中華民国臨時大統領になったが、その後それを袁世凱に渡して、中国の国内は益々以って混迷の渦に巻き込まれていった。
革命によって共和制政府が出来た時点で、溥儀は退位を余儀なくされたが、この辛亥革命というものがヨーロッパの革命とは違っていたから命は取り留め、案外恵まれた待遇におかれたことは彼にとって幸せなことであったに違いない。
これがヨーロッパの革命であれば、彼の命はなかったに違いない。
革命後も、いずれ頤和園の方に移るという条件付ではあるが、紫禁城に居ることを許され、待遇もそう悪くはなかった。
しかしこの時彼はまだ6歳であったわけで、その後の中国の政治的状況の混乱の中で20年という歳月を過ごしたわけである。
そして天津の静園に身を寄せていたところに、日本側から復辟の声が掛かったわけである。
この工作をしたのが関東軍奉天特務機関長土肥原賢二大佐であった。
溥儀のほうに異存があるはずもない。
しかし、これは日本と中国という敵対している中での行動であったわけで、そう安易な行動ではなかった筈である。
007のジェームス・ボンドばりのスリルとサスペンスに富んだ行動であったに違いない。
満州では日本の陸軍が大きな顔して闊歩できたが、中国本土ではそうはいかなかったわけで、秘密裏の行動にならざるを得なかった。
そういう工作のもとで1932年、昭和7年という年に、満州国建国というところまでこぎつけたわけである。
ところがここで国際連盟というものが動き出したわけで、その意味するところは、日本の植民地経営、いわゆる帝国主義というものが、西洋人の利害得失に如何に関わりあうか、という裁定をしようとしたものである。
その10年前のワシントンにおける9カ国条約では、中国の門戸開放がうたわれているわけで、日本が中国東北部において傀儡国家を作るということが、この門戸開放を閉ざしてしまうのではないか、という危惧から調査団を派遣してきたわけである。
これがリットン調査団であったわけである。
日本が満州でしようとしていた事は、当然西洋列強の中国進出とは真っ向から衝突しているわけで、日本が日本の国益のことだけを考えて行動している限り、それは西洋列強の国益とぶつかり合うのは理の当然である。
国際連盟がリットン調査団を派遣するということは、西洋列強の日本押さえ込みの意思を内在するものに他ならない。
しかし、西洋列強というのは、この時点では、第1次世界大戦の事後処理で青息吐息のときであり、この利害得失というのはその大部分がアメリカの利害得失であったわけである。
日本が満州を広大な市場と見たのと同じように、アメリカにとってもそれは大きな市場と映ったわけである。
その市場を日本だけに独占されてはたまらない、という心境ではなかったかと思う。この当時の世界各国の為政者の立場にたってみると、日本が満州を得て、ここで経済成長に成功すれば、それは益々日本の軍事力を高めるに違いないという危惧は当然持つにいたるわけである。
アメリカをはじめとする西洋列強には、それが一番怖いわけで、そうなってはならじとリットン調査団を派遣してきたわけである。
問題は我々の内側でこういう国際関係の動き、これはまさしく日本を孤立化させるための外堀であったわけであるが、こういう世界の動きというものを何処まで認識していたかということである。
これまでの日本の外交の立役者小村寿太郎、幣原喜重郎クラスの人たちが、このリットン調査団の派遣をどういう風に受け止めていたか、ということであるが、それが政治に反映されなかった、ということが日本の進路を暗示していたわけである。

歯止めの効かない軍部の行動

こういう為政者の側の先輩諸氏の言うことを全く考慮することなく突き進んだのが日本の軍部であったわけで、今つらつら、この当時のことを考えてみると、この当時に生きていた明治憲法下では、軍部の独断専行というものを制御する術が我々には無かった。
法的には軍部の独走を制御する法律というものは一切存在していなかったわけで、かろうじてそれを阻止しうる可能性のあるものとしては、明治15年に出された軍人勅諭の中の「軍人は忠節を尽くすを本文とすべし」という項目ぐらいしかない。この中で「世論に惑わず政治に拘わらず只ただ己の本分を忠実に守り」となっている部分でしか、軍人の横暴を制御する文言は無いわけである。
然るに軍のトップ・クラスの人達が、その組織のトップとしての天皇に、嘘の報告をするような按配では、それ以下の「世論に惑わず政治に拘わらず」の部分が遵守されないのも当然である。
いわゆる組織崩壊である。
組織が崩壊するということは、意識の堕落だと思う。
人の組織という意味では、軍隊も官僚も同じであるが、その中でその組織の存在意義を見失って、自分がその組織の中で何のために存在しているのか、という意味を見失うと、その組織の目的から外れた方向に関心が向くわけである。
軍人勅諭の中でいっている「軍人は忠節尽くすことを本文とすべし」ということは組織としての軍隊の中の忠節であったわけで、それを逸脱したからこそ、「世論に惑わず政治に拘わらず」ということに踏み込んでしまったわけである。
「世論に惑わず政治に拘わらず」ということは、明らかにシビリアン・コントロールを目指したものであるが、これは非常に微妙なところである。
戦争というものが政治の延長線という観点に立てば、この「世論に惑わず政治に拘わらず」ということは、大きな矛盾をはらんでいることになるわけで、しかもこれは法律ではなく、あくまでも勅諭というもので、ひとつの倫理を指し示しただけのものでしかない。
しかし、当時の日本の精神状況というものを勘案すれば、当時の天皇制のもとであってみれば、勅諭というものは法律以上に人々の精神を拘束するものであったように思う。
そういう状況下において、大日本帝国軍人のトップ、およびトップに近い人々の間で、この軍人勅諭の精神が踏みにじられていたという事は、その後の日本の足跡を指し示していたわけである。
それで本論に戻ると、土肥原賢二大佐が溥儀を満州国の皇帝に据え、一つの独立国を作ろうとしたときに、国際連盟からリットン調査団というものが派遣されて、その整合性を確認にきたわけである。
日本側からすれば、日本の国益の為に傀儡国家を作ったわけで、それを連合国側、特にアメリカの立場に立ってみれば、相容れないのは当然のことで、ならば日本のしたことは制裁を受けても仕方のないことかと言えば、それは非常の微妙なところである。
有史以来これまで続けてきた西洋列強の植民地主義はどうなのか?という反問をすれば、先方も答えに窮するわけである。
答えに窮すればこそ、正面から制裁を加えることも出来ず、その後じわじわと真綿で首を締めるように、日本に対する制裁措置を講じてきたわけである。
昭和の初期日本ではまだまだ議会制民主主義というのは生きていたわけで、日本の陸軍の行動を快く思わない勢力というものは健在であった。
この人達から陸軍のしていることを見ると、国際信義というものを無視した彼等の行為は鼻持ちならなかったに違いないが、なんともそれを止めさせる術がなかったわけである。
良識派というのは、日本という国が、自分一人で立っているのではないということを知っていたが、当時の軍部というのは、国際関係とか外交ということに全く気を配ることがなかったので、まさしく井戸の中の蛙であったわけである。
そしてヨーロッパでは既に国家総力戦という考えが普及していたにもかかわらず、日本の発想というのは、あくまでも泥縄式の発想で、対処療法から一歩もでるものではない。
即ち戦略という概念が欠けていたわけである。
日本の軍隊には戦術はあっても戦略という概念は終戦に至るまで現れていない。
戦術というのは対処療法であるが、戦略というのは徹底的な合理主義に基づく作戦計画でなければならないわけで、我々は敗北するまで合理主義というものを学ぶことはなかったわけである。
連合国側の最初の戦略が、後の経済のブロック化というもので、ABCD包囲網として、日本の首を締め付けるようになってきたわけである。
日本の軍部が中国大陸で自分勝手なことをしているものだから、外側からは締め付けられてしまったが、日本の内側からは金が植民地の方に流れていたわけである。
戦前・戦後を通じて、日本の側ではこの植民地主義が日本独特のもので、日本が西洋から学んだものに改革改良を加え異質な発想に至った、という視点が完全に抜け落ちている。
日本は台湾を支配し、朝鮮を圧迫し、満州では好き勝手なことをした、という歴史認識から一歩も出るものではない。
第2次世界大戦の前の大日本帝国というのは、日本古来の小さな四つの島の住人の血税を、台湾と朝鮮そして満州に注ぎ込んだ、ということを全く知ろうとしない。
そして先方の被害者意識のみが前面に出て、我々の税金が台湾、朝鮮、満州に流れたという事実を知ろうともしない。
これらの地域を実質的統治していたのが日本の軍人であった事は紛れもない事実であるが、悪いことは何もかも軍人のせいにしておけば誰も傷つくものはいないが、直接先方の民衆とかかかわりを持つ社会的基盤整備という点では、日本の民間人も血を流し、汗を流したことを我々日本人も、先方の人々ももっともっと知るべきである。
社会的基盤整備も、最初は利用者が日本人だけであったかもしれないが、理念においては差別はなかったと思う。
その時点で日本と台湾、朝鮮の人々の間には大きな経済的な格差があったわけで、鉄道を作ったとしても、当初はそれを利用しえるのは日本人だけで、現地の人々は利用しうるだけの経済力がなかったわけである。
大学を作っても、現地の人々にはそれを利用しうる経済力および学力というものがなかったわけで、どうしても日本人だけが利用するという形になってはいたが、そのコンセプトとしては、現地の人たちも平等に利用しうるものであったわけである。
それにつけても当時の日本の軍人の横暴というのは何とも致し方ないことで、今歴史の教訓を探るとしたら、この部分にスポットを当てなければならないと思う。
これは過去に何度も私の持論を述べているが、やはり我々の側の貧乏がなした技ではないかと思う。
それと平等主義である。
この年、1932年、昭和7年、5・15事件というものが起きている。
その後、1936年、昭和11年、2・26事件というのも同じように事件が起きている。
これらは軍人によるクーデターまがいの事件であり、表面上は純情可憐な青年将校が国家改革を狙って旧弊に鉄槌を加える、という主旨であったが、それほどにこの時代の日本というのは乱れていたわけである。
乱れているというよりも政情不安であったわけである。
その乱れの一翼を、軍部の腐敗堕落と独断専行ということが占めていたわけである。
その政情不安の中には中国の混沌とした状況もあり、リットン調査団が日本に対して厳しい評価をしたということもあり、日本国内でも共産党の活動は活発になり、その背景には不況という経済的な面もあったわけである。
そういうものが幾層にも重なりあった状況の中に、純情可憐で純粋培養された青年将校の跳ね返りが起きたわけである。
テロが流行る時代というのは暗黒の時代なわけで、この時代はまさしく暗黒であったわけである。
満州国の建設というのは、こういう暗い憤懣のやり場の無い状況の蒸気抜きの安全弁の効果があったのかもしれない。
青年将校がテロに走るということは、もう少し掘り下げて考えて見なければならないと思う。
世の中が閉塞感に陥り、何処にも希望の灯かりが見えないと思われるようなときには、純情な青年ほどこの状況を何とかしなければならない、という熱情に駆られるわけである。
そうした状況下で、この時代のそういう純情可憐な青年をひきつける思想に共産主義というものがあった。
世の中の諸悪の根源は金持ちが富を独占しているからであり、金持ちを殺して、その富を貧しい人に公平に分配すれば、この世にユートピアが実現するに違いないという考え方は、若い青年に強力にアピールする力を持っている。
そしてそういう考え方に感化された人たちは、文字通り、滅私奉公で共産党に貢献するわけである。
法にかなっていようがいまいが、貧しい人々を救うためならば、自分の身を挺して貢献し、滅私奉公したわけである。
しかし、貧しい人々を救うために滅私奉公したつもりでいたが、これが案外共産党の共産党のためのセクト争いであったりしたわけである。
一方、この世を憂いているのは同じであるが、体制側に身を置いた人々は、猪突猛進型のテロという行為に走ったわけである。
共産党の主張する革命も、国粋会風のテロ行為も、元は同じなわけで、それは政情不安という状況下で起きるわけで、この時代の政情不安というのは、政党政治の行きつまりのみではなく、それに軍部の意向が2重にも3重にも重なりあっているところが厄介なところであったわけである。

「バスに乗り遅れるな!」

国内が非常に暗い雰囲気であり、インフレで物価が高騰しても職はなく、アメリカに移住しようとすれば、排日法で行けないし、それならば満州があるではないかというわけである。
アメリカという国を作った移民たちというのは、元の国家から支援を受けたことは全くなかったわけで、建国そのものから彼等自身が勝ち取ったものであった。
鉄道を敷き、町を作り、学校を作り、裁判所を作り、教会を作って、自分達のことは自分達で決めるという自治の精神が旺盛であった。
ところがこの時代の我々の移民というのは、最初は棄民のようなもので、「行きたい奴は勝手に行け」という無愛想なものであった。
ところが海を渡る人の数が多くなると、同胞のための治安とか、学校はどうしようということになったわけで、これは海を渡った人たちの甘えでもあるが、同時に居残っている側からすれば、国力の伸長でもあったわけである。
つまり我々の発想の中には、自分達のことは自分達で決める、という自治という概念が全くなかったわけで、あくまでもお上の思し召しを期待する精神構造であったわけである。
そして先方には原住民もおり、同胞の安全も原住民の慰撫も同時にかなえなければならないわけで、それが西洋列強にはない日本独特の帝国主義となったものと推測する。
それをスローガン化すると「5族協和」となり「共存共栄」というものになったわけである。
これは今のイスラエルという国のプロトタイプであったわけである。
もし満州という国を本当の独立国としようとすれば、イスラエル並みの武力を揃えなければならなかったわけである。
ところが本国政府はそれまでの腹つもりはなかったものだから、太平洋戦争の雲行きが怪しくなると、この地の精鋭部隊をどんどん転出させて、もぬけの殻にしてしまったわけである。
後に残った4つの民族が一致団結すれば多少は持ちこたえたかもしれないが、日本抜きではそれも時間の問題であったわけである。
そうしてみると溥儀の属する満州民族、女真族というのは、この時代実に過酷な運命を背負わされていたわけである。
辛亥革命で追われ、再びソビエット連邦の赤軍、それに代わって中華人民共和国の共産主義者に追われたわけで、まさしく往復ビンタである。
そして彼は東京の極東国際軍事裁判では日本を売ったわけで、そういう信念の無さが彼の身の処遇にも現れていたわけである。
この年の3月1日、満州国の建国宣言をしておいて、9日に溥儀を執政に迎え、9月15日に日満議定書を取りかわして、満州国を承認したということは、具体的にどういうことなのであろう。
これまでの段取りを全て軍人が行ったという事を、我々はどう解釈すればいいのであろう。
軍人達が行ったということになると、先に述べた軍人勅諭との関連が問題になってくるわけで、その中でこの当時の大日本帝国軍人の中で、高級幹部、高級将校にとって軍人勅諭はなんであったのかと問いたい。
確かに法律ではないわけで、法によって拘束されたり、強制を行使される筋合いのものではないが、少なくとも旧帝国陸軍内の倫理観の一つであった事は確かである。
そうであるにもかかわらず、旧陸軍内では現役将校のテロが何度もあったわけで、そのことで以って組織崩壊したという論旨は先に述べたが、問題はそんな表層的なことではないように思う。
テロが日常化するについては、何かそこに深い原因があったに違いない。
人間の集団というのは、その場その時の雰囲気に流されるという状況が往々にしてあるのではないかと思う。
この状況に陥ると冷静な判断力を失ってしまい、誰も彼もが隣の人に付いて行ってしまい、「バスに乗り遅れるな」という状況になってしまうのではないかと思う。
このバスに乗り遅れまいとする心理は、日本民族独特のものではないかと思う。
我々は古来から農耕民族で、農業というもの、つまり水耕栽培で米を生活の糧にしている我々は、必然的に封建制度、封建思想というものを醸成しつつこれまできたわけであるが、その中では日本独特の意思決定の仕方をしてきたわけである。
つまり長老政治というか、村の長を回り持ちで努め、個人の責任は曖昧にして、仲間内から落ちこぼれというか、異端者というものを極力出さないように気配りをしながら集落をまとめてきたわけである。
ところが文明開化の明治維新になって、四民平等であれば、この農村的村思考の生き方が否定され、個の意識が強くなり、チャンスが皆平等になれば、人を出し抜いてやろうという発想が人々に芽生えたように思う。
そういう環境の中で、人を出し抜くための最短距離が学問を身に付けることであったわけで、この学問を身につけたものは必然的に体制側に身をおくことになるわけである。
体制側に入れなかったその他大勢の口は、一部のエリートを除いて「烏合の衆」にならざるを得なかったわけである。
この「烏合の衆」というのは、個々では力を持ちえないので、固まって団結するわけである。
このときに団結する求心力が「バスに乗り遅れるな」という心境になっているのではないかと思う。
そしてこの「烏合の衆」の一般大衆の側も、時代とともにレベル・アップしているわけで、明治初期の大衆と昭和初期の大衆、そして戦後の大衆というのは、意識の面で大きく違っているのである。
その変化の要因には、当然、近代化の成果というものがあるわけであるが、その時代時代のバスというものも、時代とともに大きく変化しているわけである。
昭和初期の時代において、一部の過激な国粋主義風の跳ね上がりが、テロによって政府の要人を多々血祭りに上げたということは、テロを容認する雰囲気がその時代にはあったということではなかろうか。
つまりその事は、張作霖爆殺事件や、満州事変というものが、天皇や政府の不拡大方針にもかかわらず、事後承認されたわけで、それならば結果さえ良ければ何をやっても許されるのではないか、という風潮を助長したように思う。

精神的に腐敗した軍人

この軍人の独断専行を押さえ付ける手段がなかったということは、日本の歴史の悲劇であったが、この悲劇の種は明治憲法の中に潜んでいたわけで、そうだとすれば余人を以ってしても、それを回避した歴史というのはありえないことになる。
そしてもう一つ気がかりなことは、当時の大日本帝国陸軍というものが、中国という大陸を舞台として、中国の軍閥を目前の敵として認識していたということである。
日本の陸軍というのは、潜在的にロシアを仮想敵国としていたにもかかわらず、現実の目前の敵が中国の軍閥であったがため、兵器の研究を怠ったことである。
中国の現状をつぶさに見れば、中国の軍隊というのは、どれが正規軍で、どれが軍閥で、どれが匪賊、夜盗、馬賊かわからないわけで、そのうえ国民党政府軍と共産党の軍隊と、強盗、もの取り、こそ泥と、それこそ混沌としていたことを考えると、それと対比すれば我々の側はきちんと組織立った秩序ある軍隊であったわけで、そういうものが一つの塊として中国の地に足を踏み入れれば、最初のうちは戦果がえられたわけである。
少々旧式な銃でも、一斉にときの声を上げて突撃すれば、先方はびっくりして後退をする。
しかしこの戦法は、関が原の合戦を少しばかり近代化しただけのことで、中国以外では時代遅れな戦法であったわけである。
中国ではそれが通用したが、その通用したということが逆に仇となって、それ以降兵器の研究も戦法の研究もおざなりなってしまったわけである。
その後ソビエットと対峙するようになると、それは歴然と証明されたことになる。
我々の場合、物資が足りないということは日本人ならば赤子でも知っているわけで、物を作るということは、それだけ国力を消耗すると思えたに違いない。
それをカバーするために、物に頼らずに相手を倒す戦法を考え出したのが、後の細菌兵器であり毒ガスであったわけである。
細菌戦というのは、第1次世界大戦ではまだ登場していなかったが、毒ガスというのは既に第1次世界大戦で使用されたわけである。
こういう戦法を研究するということは、銃とか、戦車とか、軍艦という物に頼らない戦法ということで鋭意研究がなされたわけである。
旧日本陸軍というものは、その創立のときからロシアを仮想敵国とし、革命後はソビエットというものを仮想敵国としながら、相手を研究するということを全く怠っていた。
日露戦争で勝ったと言う過去の実績の上にあぐらをかいて、ロシア・ソビエットというものを全く見くびっていた節がある。
国際間の折衝というのは全くパワー・ゲームであって、力、軍事力がものを言うわけで、これは今でも全く変わっていない。
旧ソビエット、現ロシアが未だに日本の北方4島を返さないのも、所詮そのもてるパワーのなせる技である。
パワーのない日本がいくら声高に叫んでも、先方は聞く耳を持たないわけである。日本がいくら平和裏に話し合いで解決しようとしても、向こうはパワーに物を言わせて、馬耳東風と聞き流しているだけである。
戦後の日本人は、外交における力の行使ということを極端に怖がって、話し合いでの解決と言う事を金科玉条としているが、それでは物事の解決にはならないわけで、ただ血の雨が降らないように本質の解決を先延ばしにしているだけである。
これも旧ソビエット、現ロシアという国民性を充分に研究すれば、その糸口ぐらいは見えてきそうなものであるが、その見えてきた糸口というのが力の行使しかなかったわけである。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というのは、何時の時代でも、何処でも普遍的な真実であると思う。
ところがこの昭和初期の日本陸軍というのは、当面の敵である中国の民衆というものを全く知ろうともせず、押せば相手が引っ込むのを勝利と思い違いをしていたわけである。
相手が引っ込んだのは、張学良の作戦であったことも知らないで、どんどん奥に入り込んで、補給線が伸びきってしまったわけである。
補給線が最大限に伸びきったところで満州国というものを作り、その範囲を日本の版図、厳密にいえば満州国としたわけであるが、日本の軍隊の補給線が最大限に伸びきったところであるので、相手から見ると一番弱いところでもあったわけである。
そこで起きたノモンハン事件というのは、日本がソビエットに完敗した戦争であったにもかかわらず、その事実は日本に知らされていなかったわけである。
これも日本の旧軍隊の一番悪い慣行である。
結果が悪いときは報告を棚上げして、まともに報告しないということは、次の政策なり、作戦なり、対処の仕方を狂わせてしまうにもかかわらず、悪い結果というのは報告せずに済ませてしまったわけである。
自分の遂行した仕事が十分な成果を上げられなかったときは、誰しも報告しにくいものである。
心情的には誰もが経験のあることで、理解できるが、冷静に考えれば、いくら結果が悪かろうとその事実を報告しないことには次の仕事に取り掛かれないわけである。
失敗なら失敗で最善の処置を取らなければならないことは、組織に身をおくものならば体で感じなければならない。
頭で考えていては遅いぐらいのことである。
しかし旧日本軍というのは、それをひた隠しに隠したわけである。
事実を隠していたものだから次の処置に不具合をきたすわけである。

戦いに敗れた責任

しかし、軍隊の内部では戦争の失敗、つまり敗戦の責任というのは一体どうなっているのであろう。
日露戦争で旅順の死守に失敗して降伏したロシアのステッセルは、対戦相手の乃木稀介とは武士道に則って降伏したが、本国に召還されたら死刑にされてしまった。
モスクワまで攻め込んで、最後に詰め切れなかったナポレオンは流刑地に流されたわけで、それぞれに敗戦の責任を負わされたわけである。
ところが日本の場合、ノモンハンで敗北した辻政信は敗戦の責任を負わされたであろうか?
天皇や政府の不可大方針を無視した石原莞爾はどういう責任を負わされたのであろう。
太平洋戦争に関与した東条英機は連合国側によって裁かれたが、それで我々は彼を免罪していいものだろうか。
戦争に勝ったときは、英雄というものが生まれて不思義でないが、負けたときは誰もその敗戦の責任というものを負わなくてもいいものだろうか。
軍の行為というのは、組織としての組織的な動きなわけで、個人が個人の恨みで殺人をしているわけではない。
しかしその動きに中には、司令官としての判断による指示で行動しているわけで、その判断と指示が間違っていたからこそ、敗北という結果になるわけである。
だとすれば間違った判断と指示を出した司令官というのは、その責任を追及されてしかるべきである。
この組織における責任の追求ということ対して、我々は実に曖昧で寛大な処置しかしてこなかったわけである。
その事は、我々の潜在意識に中に、同じ仲間が一生懸命やったことだから大目に見てやりましょうという同胞をかばう気持ちがあるように思う。
これは21世紀の今日においても一向に抜けきれていないわけで、というのは銀行の不良債権の問題で、これを立て直すのに公金を投入して銀行を救わねば、日本経済が破綻してしまう、という強迫観念を国民の側に植え付けながら、銀行だけが得をするような処置が公然と行われているわけである。
銀行の不良債権は銀行の経営が失敗したわけで、銀行の判断力、先を見通す予知能力が不足していたわけで、それは銀行自身の身から出た錆びの問題である。
債権が正常化するまでその銀行は無給になっても、株式の配当が出来なくなっても、不動産を手放してでも、自力更生をしなければならない、という常識の中の常識で以って対応するのが常道である。
それを給料は今まで同様に支給しながら、日本経済が破綻するから公金を投入せよなどという発想は、甘え以外のなにものでもない。
しかしこういう事態に対して、我々、日本民族というのは案外寛大で、日本経済が破綻したら大変だから何とか公金を入れてでも救済しなければならない、という発想に陥るわけである。
経営に失敗したのだから倒産もやむなし、というドライな発想をすると、如何にも人でなしというという印象をあたえる。
これと同じことが軍の行為にも出るわけで、ノモンハンでいくら敗北しても、勝負事だから負ける事もある、というような按配で、司令官の責任の追及ということまで思慮が回りきっていない。
そこにあるのは合理的なものの考え方の欠如である。
我々、日本民族というのは、合理的なものの考え方ということには実に疎い民族である。
費用対効果、最小の投資で最高の利益を出すという発想、最小の努力で最高の効果を出すものの考え方、というものを遺棄する傾向がある。
その最大の「悪」は、合理主義を否定するあまり、精神主義を前面に出して、徒手空拳で近代的な戦争をしようとしたところである。
昭和初期に旧日本陸軍が中国という戦場だけにとどまっていたものだから、近代の戦争という概念を最後まで持ち得なかったところに、日本の悲劇、大日本帝国陸軍の悲劇が潜んでいたわけである。
近代の戦争というものが、国家総力戦になるということは、これら旧陸軍の首脳も頭では理解していた。
しかし国家総力戦をするということは、いわゆる国家の経済活動というものを統制経済にしなければならないわけで、その事は共産主義社会に限りなく近寄るということでもあったわけである。
昭和初期の日本の経済というのは、不況にあえぎあえぎの状況で、共産主義者にとってはそれこそ細胞培養に一番適した状況であったわけである。
その事は同時に、共産主義社会に近似した統制経済にとっても好都合であったわけである。
物の流れを国家が統制してしまえば、金持ちが買いだめするということも出来なくなるわけで、物価は固定され極端なインフレというのは克服されるかに思えたわけである。
国家総力戦ということは、戦争というものがもはや軍隊とか兵隊という専門家だけのものではなくなって、国内で銃や大砲、はたまた軍艦を作る人々をも、戦時体制という環境下に置くということであったわけである。
5体満足な成人男子は全て前線にかりだされ、銃後で産業活動を担うのは婦女子になってしまうということである。
こういう戦争を昭和初期の日本の軍人は頭では理解していたが、それを合理的な視野で見る視点にかけていたわけである。
面子とか、対面とか、序列とか、派閥とか、こういうもので重大な作戦を決めていたわけであるが、こういうことは全く身内だけの儀式にすぎないわけで、軍事行動を見るにはなんの足しにもならなかったわけである。
満州というフロンテイアの土地に、日本の軍人が新しい国家を建設し、それを後から日本の政府が承認するという事態は、如何にも不具合、不都合、整合性に欠けた矛盾に満ちたことであった。
しかし、それは日本の国民の富国強兵を願う潜在的願望を充分に満たすものであったわけで、人々は満州へ満州へと草木もなびく勢いであったわけである。
ここでも我々は「バスに乗り遅れるな」という国民的合意のもと、中国大陸に渡ったわけである。
そしてその土地が大日本帝国政府の政策によらないで、軍人達の独断専行の末出来上がった、という大矛盾には頬被りして、政府もマスコミも海外雄飛を大宣伝したわけである。
その宣伝に飛び乗った大衆は、その後1945年、昭和20年の夏には手痛いしっぺ返しを受けることになったわけである。
私は昭和15年生まれの人間で、まるまる戦後に生きた人間であるが、第2次世界大戦において日本の軍人、つまり我が同胞の軍人の犯した失敗というものに対して許せない気持ちが非常に大きい。
戦争・戦いというものは、確かに勝負事である以上、勝つこともあれば負けることもあることは十分承知している。
が、しかし国費でまかなわれている軍人である限り、常に勝つことを研究し、勝ってもらわなければならないわけで、「勝負事だからで負けることもある」と済まされては、納税者としてはたまったものではない。
負けたら負けたなりの責任というものを負ってもらわなければならないと思う。
それは死を以って報いれば済むという単純なものではないはずである。
ミッドウエイ海戦、ノモンハン事件、インパール作戦等々の失敗は、誰がどう責任を取ればよいのであろう。
1945年、昭和20年、日本がポツダム宣言を受け入れなければならない状況に至ったという事は、こういう失敗の集大成であったわけである。
一つの失敗には必ず一人以上の司令官の判断ミス、決断ミスがあったわけで、そのミスによって尊い同胞の命が無為に失われたわけである。
同胞の命の損失ということを考えると、ミスとか、失敗とか、そういうレベルの話では済まされないような気がする。
日本の旧軍人達、特に職業軍人、高級参謀といわれる人々というのは、そういう事態を前提として、日本中の秀才を集めた特殊な教育機関で、特殊な訓練を受けてきたわけで、そういう人たちがプロとして作戦を失敗をするということは許されないことだと思う。
そういう人々がなんの責任も問われず、戦後のうのうと生きていること自体、世の中の大矛盾だと思う。
戦後の左翼がかった人々は、戦争批判の際、国家の罪悪という捉え方をしているが、国家という言い方では漠然としすぎている。
もっと的を絞り込んで、天皇とか、政府とか、官僚、軍部というふうに細分化しないことには真の戦犯というものが炙り出せないのではないかと思う。
戦犯という言葉も、連合国側から見れば戦犯という言葉も成り立つが、我々内側からは敗戦責任者という言い方をしなければならないのではないかと思う。
日本を敗戦に導いた者達というのは、我々・日本国民にとっても敵であったわけである。
戦争を始めたからには勝ってもらわなければ、軍人達は責任を果たしたことにはならないわけで、その意味からしても、旧日本軍というのは無責任体制であったわけである。

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