平成13年7月7日
ここまでの文章において、明治維新から太平洋戦争前夜までの日本の姿を自分なりに再現したつもりであるが、この中でどうしても納得の行かないことは、どうして軍部が政府の方針を無視するようなことをしたのかという点である。
明治憲法における統帥権というものの存在は何とも致し方ないものであり、それに基づいて発せられた軍人勅諭というものの存在を合わせて考えると、軍人がこのように政治に関与してくる接点というものは全く無かったように思う。
起きてしまった現実を組織疲労という一語で括ることは簡単であるが、何故そういう組織疲労に至ったのか、という解答を出したことにはならない。
まさしく官僚主義の典型的な現象であるが、軍隊というものが完全なる官僚主義に陥ったのは如何なる理由があるのか、という答えを誰一人提示していないのではないかと思う。
その答えを探ることは、日本の民族性を探る事に直結しているのかもしれないが、歴史の奔流として、昭和初期の日本人がある種の思考に惑わされていたということは言えていると思う。
特に大正デモクラシーというものが不完全燃焼したので、その地殻変動が人間の欲望というものを剥き出しに、表面化しだしたということではないかと思う。
デモクラシーというものは、当然、日本の古来からある封建主義とは対峙する性格のもので、この二つは全く相反するものか?というと、案外そうでもなく、日本の古来の物事の決め方の中にもデモクラシーの要因は含めれていたわけである。
但し、それはものの考え方のことで、物事の決め方の過程のことであって、制度としてはデモクラシーというものは表面に出ることがありえなかった。
明治維新から太平洋戦争までの日本の在り方というのは、ものの決め方の問題ではなく、ものの実施の仕方の問題であったわけで、物事の決め方とそれを実施する側とが食い違ったところに日本の過誤があったのではないかと思う。
私のこれまでの論旨は一貫して中国や朝鮮の人々を蔑視する傾向を有していることは自分でも気がついているが、彼等の精神的支柱というのは、儒教に依拠しているが故に、目上を尊重したり、老人を敬うという儒教思想から脱却できないでいるという事を縷縷述べてきたわけである。
我々、日本人も案外そういうものから綺麗さっぱり脱却できたわけではなく、そういうものを引きずっていたのではないかと思う。
温情主義というか、ドライに割り切れないという点では、我々の真の心根と言うのは案外暖かいものを持っていたのではないかと思う。
日本の植民地支配というと、人々は西洋列強の植民地支配と何ら区別することなく同じ尺度で見ているが、その内情というのは全く違うわけである。
言葉から受ける印象としては、西洋の猿真似の植民地主義と同一視しているが、その相違を比較検討した研究というのは全くなされていないのではないかと思う。
我々は基本的に温情的で、ドライに割り切ってビジネス・ライクにものごとを処理するという才覚には長けていなかったわけである。
私もここまでの文章の中で散々旧日本軍人の悪態を述べてきたが、我々日本人の潜在意識としては案外暖かい心根の持ち主であったように思うが、にもかかわらず同胞が二人いると、その暖かい心根を吐露するのに躊躇するわけである。
自分一人ならば少々哀れみを施そうと思っても、周りに同胞がいると、その同胞の手前、その善行をすることが恥ずかしく思い、同胞の雰囲気に迎合してしまうわけである。
逆に、その反対側に位置する者もいるわけで、周りに誰も見ている人がいないと、悪事を平気で行う人がいるのも、社会というものが人間の集団である限り当然で、戦争という渦中では、この極端な例が枚挙に暇が無いくらい露呈したわけである。
そして戦後の日本の知識人というのは、かって自分が同胞から迫害された跳ね返りと合わせて、アメリカの押し付けた民主主義に迎合する意味合いからも、我々の同胞のした善行には故意に目をつぶり、悪行のほうにのみスポット・ライトを当てたわけである。
台湾の統治にも朝鮮の統治にも、我々は彼等を奴隷として扱う気は毛頭無かったわけであるが、そのことを彼等は理解していなかったわけである。
その事は本文中に縷縷述べてきたので、ここでは再度繰り返すことは控えたいが、問題は、我々の側で、政府の考えを無視して、出先の機関が好き勝手なことをした、その深層心理を突き止めなければならないと思う。
歴史に「もし」という仮定のことを言っても始まらないことは重々知っているが、あの満州帝国というのは状況如何では日本から完全に独立していたかもしれない。アメリカ合衆国というのは、日本と満州のような関係、つまり植民地として本国の要求を拒否するという段階を経たのち、独立戦争を経、本国から分離独立したわけである。
満州国に赴任した日本の官僚乃至は軍隊というのも、案外そういう意識を秘めていたのかもしれない。
ところが日本と満州というのは、時代的にもアメリカ独立戦争のときとは違うし、交通手段も当時とは比較にならないほど発達していたわけで、人々の往来が容易であっただけ、そういう事態には至らなかったが、本国と離れていたが故に好き勝手なことをしえたということはありえると思う。
そして今日から考えるとなんとも不思議なことは、日本の全国民が富国強兵に憧れ、軍国主義に被れていたということである。
日本の人々が軍国主義でなければ生きておれなかった、ということはどういう風に説明すべきであろう。
確かに治安維持法があり、思想警察として特別高等警察つまり特高というものが目を光らせていたということは状況証拠としては頷ける。
しかし、この法律というのは軍部が作らせたわけではなく、あくまでも議会制民主主義の中で国会を通過して出来たもので、その裏側の事情というものを斟酌すれば国民の側がそれを求めていた、ということにならなければならない。
治安維持法乃至は特高というのは歴然と共産主義者に対して向けられたもので、それを拡大解釈することで、軍国主義者以外のものを共産主具の疑いがあるという口実を流用することで取り締まったわけである。
官尊民卑と言う言葉があるが、この時代、官僚とか軍人がやたら威張ったということは一体どういうことなのであろう。
威張るという事は、極めて個人的な性癖のはずであるが、それが日本の官界ばかりでなく、軍隊の中にまで蔓延したということは、やはり人間の弱さの露呈といわなければならないと思う。
卑近な例でも、弱い奴ほど虚勢を張るわけで、個として自分に自信がないから虚勢を張って他人に対して威張り散らすわけであり、日本中にそれが蔓延したということは、我々の先輩諸氏の全てが非常に自信喪失に陥っていたのかもしれない。
昭和11年、1936年の2・26事件でもって、日本から政党政治が消滅したといわれている。
これも今から考えると実に不思議なことである。
その元凶はあの明治憲法にあるわけで、あの憲法のもとでは陸軍と海軍の軍人を閣僚に据えなければならないというところにあったわけで、これを今日の視点から善悪という価値基準で論じることは出来ない。
しかし、政府も軍部も、テロを容認した軍人達を厳重に処分し切れなかった、という点でも明治憲法の不備が問題となってくるわけで、そこに外圧としての海外事情が加わってくると、当時の日本の政府としては、それこそ挙国一致の内閣とせざるを得なかったわけである。
まさしく他に選択の道がなかったわけであるが、そういう事情の中で、中国にいる日本の出先機関としての軍部が益々中国の奥地に侵攻するのであれば、日本の政府としては何とも手の施しようがなかったに違いない。
この時代の日本人では、誰一人シビリアン・コントロールという概念を持ち合わせていなかったに違いない。
こういう状況下で、一人松岡洋右というのはアメリカで教育を受けていたにもかかわらず、その教育の効果というものの片鱗をも日本に落としていないのが不思議でならない。
英語の弁舌は巧みで、外交的な張ったりは上手に駆使しえるが、アメリカで教育を受けたわりには視野が狭いのが不思議だ。
松岡洋右というのは外務大臣を務め、満鉄の総裁という地位を得たにもかかわらず、人格としての人間の精神の核の部分では、如何にも下衆な思考しか持ち合わせておらず、自己顕示欲のみが表面に出たような人間にしか見えない。
彼がドイツとの3国同盟に血道を上げたのは、その彼の表面的な外交手段、張ったりやブラフを掛けて相手を翻弄するということにのみ現を抜かしていたのではないかと思う。
当時の日本の知性として、ある程度の人たちは全てこのドイツとの連携を危惧し、ナチズムの信頼性に疑問を呈していたときに、彼のみはそれを疑うことなく信じきっていたということは、自分の受けたアメリカの教育というものに信頼を失い、表層的な現象に惑わされてしまったとしか言いようがない。
彼のような人こそ、この混迷した国際社会を的確な視野で以って洞察しなければならなかったわけで、その彼がナチズムという絶対主義に惑わされたということ程不思議なこともない。
満州国を建国してからというもの、日本の関東軍がどんどん周辺の地域にアメーバーの自己増殖のようにその触手を広げていったわけで、その過程と同じ現象が戦後も繰り返されている事に、日本の知識人のうちどれだけの者が気がついているのであろう。
言うまでもなくそれは日本の高度経済成長にともなう不良債権の累積にある。
時の勢いにかまけて、隣がやるから内もやる、という安易な発想でもって無思慮に突き進んだのが、今日の不良債権の問題である。
素人が考えても明らかにおかしいと思われるようなことを、その道のプロたちがイケイケドンドンと、考えるということ、反省をするということ、自分を振り返ってみるということを全く無視して、ただただ結果も考えることなく、前に進むだけ前に進んで、行き当たったのが不良債権問題である。
日中戦争というのは、戦後の出来事に例えれば、不良債権問題と同じである。
こういう現象というものを我々は民族的な自己反省の上から徹底的に調査する必要があるように思うが、それはある意味で日本の恥部をさらけ出すような作業であるので、誰一人それに取り掛かろうとするものがいない。
明治憲法が欠陥を持っていたので、その欠陥の穴から軍部の独断専横という果実が出てしまったが、仮に明治憲法に欠陥があったとしても、軍部に人間としての良心が残っていれば、こういう事にはならなかったに違いない。
悲しいかな、この当事者というのは、誰一人悪い事をしているなどとは微塵も思っていなくて、全ての行為が日本人のため、日本民族のため、日本人居留民のため、日本人の子孫のためという、大命題に報いることだと思い込んでいたことである。
戦後の不良債権の件でも、窓口氏は会社のため、日本経済のため、ひいては自分のため、家族のためと思って一生懸命金を貸し付けたわけで、それが悪いことだとは全く思っても見なかったに違いない。
問題は、そこで自分の良心に立ち返って眺めてみたことがあるかどうかという点である。
当事者達というのは、そういう観点から自己の反省をしたことを恐らく一度もなかったに違いない。
だからこそ行き着くところまで行って、ねっちもさっちもいかなくなったわけである。
不良債権問題というのは国を滅ぼすところまでは行っていないが、大日本帝国軍人の独断専行というのは国を滅ぼすところまで行ってしまったわけである。
戦後50年以上経って、21世紀に一歩足を踏み入れえた時点で、あの第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争というものを振り返ってみると、やはりあのときの世界情勢というものから勘案して、遅かれ早かれ日米開戦というのは起きていたに違いない。
日中戦争というのも、遅かれ早かれ中国共産党というものが中国全土を席巻するにつれて、日本との摩擦は避けられなかった違いない。
その背景にあるものはと言えば、それば文明の発達であって、20世紀後半の人類というのは、いままでの歴史の延長線上にいるのではなく、日進月歩の物質文明の発達に左右されるわけで、発達のスピードに差異があったとすると、級数的な差となるわけで、それは押しなべて均一化されることはない。
その事は、地球上の如何なる地域においても、過去の歴史というものが将来の参考になることはなく、民族の生き様というものが断絶するということで、その事は明らかに価値観の転換をもたらすことになる。
今までの歴史上に君臨していた上流階級というものは、数の上では少数であったが、物質文明が向上してくると、底辺の人々の生活が向上することにより、貧富の格差が消滅してしまう。
それを具現化しようとしたのが共産主義による社会主義の諸国であるが、貧富の差が消滅して、働いても働かなくても食うに困らないということになれば、人々は安逸な生活を選択をするわけで、その実験はすでの結果を出してしまった。
言わずと知れたソビエット連邦の消滅である。
1941年、昭和16年の日米開戦の経緯を見てみると、あの状況下では日米開戦というのは避けられないシナリオであったようだ。
開戦の時期が多少変わっていたとしても、その結果は大した違いはなかったように思われる。
その第一の理由は、我々の側には全く資源がないということと、我々は相手を研究するいう合理的な発想を持っていないということである。
合理的な発想に欠ける、ということはいわば資源のないことと連動しているわけで、物がふんだんにないから、そのない部分をアイデア、つまり創意工夫でカバーしなければならなかったわけである。
その最高傑作というものが風船爆弾だったと思う。
相手は密かに原子爆弾を研究しているときに、我々の側は風船爆弾を研究していたわけである。
日本の戦闘機が近寄れないほど高空を侵入してくるB−29に対して、我々の側は竹槍で戦うということを訓練していたわけで、この「馬鹿らしさ」というものはどう表現したらいいのであろう。
第2次世界大戦の遠因というものは、基本的には世界の経済がブロック化の方向に向かうようになったことだと思う。
その事は、世界の先進国が、地域の連帯よりも国益を優先させて、グローバルな経済を自国本意の国益を優先させる方向に向かったからだと思う。
その波長に合わせるように、日本も満州という地域を自分の国益を満たす地域にしようとしたが、その事が中国に出ようとしたアメリカと利害が衝突したわけである。
アメリカという国は、基本方針が決まるとそれに政策を合わせるように国民をリードするという政治スタイルであったわけであるが、我々の側はそれと逆に、国民の願望を具現化する方向に政府が動く、というボトム・アップに類似した政治スタイルであったわけである。
我々の政治というのは、このボトム・アップとドップ・ダウンを、時と場合によって上手に使い分けているので、非常にわかりにくい面が拭い切れない。
アメリカと戦争をするのに、南方や満州から資源集めながら戦争を継続するなどという発想は、泥縄式もいいところである。まるでトヨタの看板方式である。
平和な時代の物作りならこれでもいけるが、戦争中にこんなことがありうるわけがない。
しかし、「この有り様では戦争が出来ない」という事を、言う人が一人も出てこなかったわけである。
出てきたとしても黙殺されるわけである。
先に述べた風船爆弾でも、竹槍の件でも、国民にそういうことを強いる前に、そういうことを考えついた段階で、そのことのナンセンスさというものを誰一人指摘しなかったことの不思議さである。
ルーズベルト大統領が日米開戦に踏み込むとき、アメリカ議会を納得させ、アメリカ国民を納得させる手段として、真珠湾攻撃のあることを真珠湾の司令官にも知らせず、日本に先に攻撃させておいて、日本の評価を極端に貶めたのち、国民の承諾を得るという政治手法は、紛れもなく大統領の政治的リーダーシップの発露である。
こういう政治手法というのは我々の側には全くといっていいほど存在していない。政府全権が外交交渉で決めてきたことを「統帥権の干犯」と称して、人の功績の足を引っ張ることは出来ても、国民をリードするという芸当はできない。
日本の場合はそれをしてはいけないのかもしれない。
日本の政治の場合は常に国民の利益を守ることが最優先で、その国民の利益というものが非常に広範囲にわたるわけで、軍人の利権から地主の利権、財閥の利権から官僚の利権まであり、そこに含まれていないのが小作人や労働者というような社会的弱者の利権のみであったわけである。
というのも明治憲法のもとでは、小作人とか労働者というような今日の言葉でいう社会的弱者を代弁する制度がなかったわけであるし、政治のシステムとしてもアメリカのような大統領制ではなく、立憲君主制の元で、天皇が日本の主権者であるという憲法上の問題からして、政府がリーダー・シップを発揮するという概念もなければ、手法もありえなかったわけである。
明治憲法のもとでは政府が主権者である天皇を差し置いてリーダー・シップを発揮するという概念は成り立たなかったわけである。
憲法で主権者が天皇であると規定されている以上、なんとも致し方なかったわけである。
それにもまして、そういう状況下で、日本の主権者であるところの天皇が不拡大方針といっているにもかかわらず、兵を進めた関東軍というものを、我々はどう解釈すればいいのか、という問題は避けて通れないと思う。
明治憲法下では日本の主権は天皇にあり、戦後のマッカアサーが押し付けた憲法では、主権在民として主権は国民の側にあるが、戦前の憲法ではそうなっていなかったわけである。
ところが現実の日本の人々の動きというのは、天皇一人を主権者として崇め奉っていたわけではなく、憲法上主権者は天皇になっていたが、案外天皇の存在というのは象徴的な存在であったわけである。
この「象徴的な存在」ということが、天皇の言う事をそれほど真摯に受け止めなくても、天皇の赤子としてその他大勢の日本人がより幸福になれば、それが天皇に報いることになるのだ、という考え方に摩り替わっていたのかもしれない。
昭和初期の日本の青年将校のテロ行為とか反乱というのは、当時の日本の現状を憂い、その標的としてはその時代の政治家であり軍首脳であったわけで、その憤りというのは、今まで私が述べてきたことを集約したような内容であったわけである。
彼等青年将校の矛先が政治家に向けられたことは、現実の政治というものが言葉を弄ぶだけで、それが国益に直接つながっていないし、庶民の救済につながっていなかったわけで、それに対する憤懣が嵩じた結果である。
軍部に対しては、軍の首脳が政治家と同様言葉を弄するのみで、人事を弄くるだけで、目に見える形で軍の存在意義を示さないことの不満であったわけである。
日本の政治というものが仲間うちの揚げ足取りか、足の引っ張り合いか、派閥争いでしかないことへの鉄槌であったわけである。
軍人というのは常に武器を携行しているわけで、丸腰の政治家からすれば、何時自分がテロの対象になるのか解らないわけで、その恐怖感から軍部の発言に対して黙ってしまったわけである。
それが挙国一致内閣と言う形で、政党政治を葬る最大の原因となってしまったわけである。
挙国一致して内閣に協力するという形ならば誰一人反対できないわけで、政党人が自ら自分の口にふたをしてしまったわけである。
明治憲法が不備であった、ということは歴史の流れという観点から見て何とも致し方ないことで、それは日本が敗戦という大きな代償を払うことで是正されたわけであるが、この時新しくなった憲法も50年という年の経過を経ると、やはり時代にあわせた微調整というものは必要になっていると思う。
国の指針として憲法というものを捉えるとすれば、やはり周囲の状況、つまり世界の状況に照らし合わせ、自国の置かれた状況に合わせ、その時代時代に合ったものとして微調整をすることは必要だと思う。
人間の理想の理念というものも時代とともに変わっているわけで、やはり時代にあった理念というものを掲げるには、小刻みな改善ということは当然のことだと思う。昭和初期の歴史を見てみると、やはりこの時点で生きていた明治憲法というものが大きな要になっているような気がしてならない。
戦争が政治の延長線にある行為だとすると、出先の軍隊が本国からの指令を全く聞かないということは、この時点で既に国家が解体していることに等しい。
第2次世界大戦後の朝鮮戦争では、アメリカ大統領トルーマンは出先のマッカサー司令官の思惑を思いとどまらせるために彼を解任している。
マッカアサーは大統領の指令に忠実に従って、本国まで帰っているわけであるが、これを日本の満州事変のときに当てはめて考えたらどういう事になるのであろう。
我々の場合、出先の軍隊の独断専行に対して、政府は不拡大方針を口で言うだけで、誰一人その時の司令官を召還する勇気をもっていなかったわけである。
陸軍省なり、参謀本部というものが「政府は不拡大方針だからすぐに現状復帰せよ」ということを言わなかったわけである。
このことは既に日本の軍隊そのものが完全にモラル・ハザードしていたということである。
ところがこの組織の中で、個々の人間はそれぞれに一生懸命職務に服しているわけで、自分たちがモラルに反しているということに気がつかなかったわけである。
出先機関の前には、つまり敵陣と対峙している前線には敵がいるわけで、その敵の動向のことを考えると、自分たちがモラルに反しているかもしれないと思ったとしても、政府の指示だからといって、「はいそうですか!」と言って、素直に聞き入れなかったに違いない。
敵の存在を考えれば、そんな甘いことは言っていられないという状況であったに違いない。
このモラル・ハザードというのは我々、日本民族の民族的欠陥なのかもしれないと思う。
例えば、戦後の例でもあの不良債権の場面にそれが垣間見れるわけで、個々の銀行の行員は担保以上に金を貸し付ければ焦げ付くことは知っているわけである、知っていても尚そのまま進まねばならないと思ったところに不良債権の問題があるわけで、そこのところが政府の不拡大方針を無視しても尚前に進まねばならないと思い込むところと共通しているわけである。
このモラル・ハザードというのは相手に対するハザードではなく、同胞に対してモラルがハザードするわけで、それはお互い同士の競争心理がそうなさしめているのではないかと思う。
前にも記したように、隣の中隊よりも1mでも10mでも100mでも先に出ていきたいという心理であり、その事は取りも直さず戦果をほんの少しでも周囲の仲間よりもあげたいという認識になっていたのではないかと思う。
不良債権の問題に言い換えれば、担保の審査はいいかげんに杜撰にしておいて、一銭でも多く貸し付ければ、他行よりも一銭でも収益が上がるに違いない、という発想でもって、基本的モラルを無視してまで同じ銀行内の支店間、同業他社としての他行との競争に明け暮れた結果だと思う。
これは生きることの問題意識が、同胞との間の競争に摩り替わってしまっていることの現われで、冷静に考えればこれほどナンセンスなこともまたとないわけであるが、渦中にいるとそれに気がつかなかったわけである。
この我々の民族的欠陥というか、同胞としての隣人とさえも暗黙のうちに競争するという心理は、我々の日常生活の中でも往々にして垣間見れる。
というのは卑近な例でいうと、私は今町内会長をしているが、町内の大掃除を回覧版で回すと実に町内の人々は積極的に参加してくれる。
真夏のうだるような暑さの中、朝から積極的に参加してくれるということは非常に素晴らしいことであるが、その裏側の心理を掘り下げてみると、参加しないと後で何を言われるか解らないから、陰口を言われないようにミニマムの義務を果たしていこうとするものではないかと勘ぐっている。
この状況というのは、我々日本民族というものが農耕民族としてその潜在意識を未だに引きずっているということで、現代流の言い方をすれば個の確立が出来ていないということに他ならない。
自己の信念より隣近所の視線が気になって、暑いのを我慢して付き合うということは、我が民族の美徳でもある。
しかし、それは美徳と同時に自主性の欠如という見方もできるわけである。
「この糞暑いのに大掃除なんかやっていられるか」という我ままを通せないわけである。
隣と歩調を合わせていれば大過なく過せるというところにモラル・ハザードの源があると思う。
要は、我々の民族が大挙してモラル・ハザードの方向に向かうことなく、モラル向上の方向に向かう時は、それは大きな社会的な規範となりうるが、それが逆の方向を向くと、日本を奈落の底の転がり落とすエネルギーになってしまうわけである。
昭和の初期において、我々の同胞はあまりにも日本人のため、日本民族のためという大命題を表面に出してしまって、周囲の、つまり朝鮮の人々や、中国の人々のことを忘れてしまった故に彼等の反発を招いたわけである。
その事は、ある意味で民族主義であったわけで、我々が日本人のためにと思えばそれは我々のナショナリズムになるが、それは朝鮮の人々や中国に人々からすれば当然反日であり、抗日であり、侮日という形で彼等のナショナリズムになりうるわけである。
しかし、出先の軍部が日本政府の言う事を聞かないというのは、あくまでも我々の側の問題であったわけで、そのことに対して我々は非常に甘い思考に陥っているように思う。
5・15事件や2・26事件の実行犯というのは確かに死刑に処せられ、一件落着を見たように片付けられているが、この時本当はその事件の真相をもっともっと掘り下げて考察しなければならなかったわけである。
ところがこの時代においては、明治憲法の統帥権というものは立派に生きていたわけで、これがある限り軍部のシビリアン・コントロールというのは、その概念さえ誕生していなかったわけである。
それと同時に、明治時代にはまだ残っていた武士道の精神というものが薄れ、ノーブル・オブリッジというものが廃れ、シビリアン・コントロールが生まれる前という空白の時期であったが故に、軍部の政治に対する関与というものが排除できなかったわけである。
あの時点で日本が戦争を避けようとすれば、天皇陛下が立憲君主制を捨てて、専制君主として統帥権をフルに活用する以外に、日本が戦争を避ける道はなかったわけである。
これは我々が民族の同胞として内側から見た反省材料であるが、外側から見た場合、あらゆる状況が日本を戦争に巻き込む方向に向いていたことも知らなければならない。
その遠因は、第1次世界大戦というものが従来の考え方、人間の生き方というものを根本から換えてしまったことである。
主権国家というものが他の主権国家との連携の中で生きてきたものをブロック化したことにより、ナショナリズムの勃興を来たし、そのナショナリズムというものが益々自国のみの国益というものを重視するようになったことにある。
日本が台湾を統治し、朝鮮を統治するまでというのは、西洋列強という国々は、日本の行為を是認してきたわけで、それが満州国の独立、経営ということに日本が着手するようになると、自分たちの権益が犯されるのではないか、という懸念を持つにいたったわけである。
そういう深層心理にもとづいて、日本を国際社会からつま弾きするような方向に導いたわけである。
その深層心理にある彼等の日本に対する恐怖というのは、矢張り我々のあまりにも素晴らしい発展の状況だと思う。
今流の言葉で表現すれば、あまりにも輝かしい経済成長であり、GNPの伸びであったわけである。
彼等の認識からすれば、日本は猿並みの扱いでしかなかったものが、彼等をしのぐような目覚しい発展をするものだから、その恐怖心が根底に横たわって、日本をあらゆる舞台から排除しようとする気持ちになったわけである。
特にアメリカにとって中国大陸の東北部、かっての満州の地というのはフロンテイアであったわけで、そこに日本が好き勝手に進出するということは、自分たちのテリトリーが荒らされるというふうに受け取れたわけである。
ところが彼等の政治はその国の成り立ちからして基本的に民主主義であったわけで、完全なるシビリアン・コントロールのもとで、合理的に運営されていたわけである。
アメリカ本土における日系人排斥というのは、アメリカ市民の要望を具現化したものであった。
民主主義の基本は国民の要望を国家が素直に聞くとこういうことにあるわけであるが、これはある意味で衆愚政治にもつながりやすいが、民主主義の典型的なものでもある。
民主政治の極めて合理化された姿とも言えるわけである。
それに反し当時の我々の場合、満州に進出して新しい国土を取得したいというのは、当時の日本国民の普遍的な願望であったが、それを具現化するのに軍隊が天皇の命令、政府の命令を裏切ってまで、独断専行しなければそれが実現できないという非合理的な政治形態であったわけである。
昭和初期の軍隊というのは世俗的な、世襲的な軍人だったわけではない。
過去の西洋列強の貴族が職業軍人を世襲するような、そういう軍隊ではなかったわけである。
軍部の高官になっている人たちというのは、いわゆる明治維新で確立された四民平等という中で、厳しい選抜を受け、厳しい訓練を受けた人たちがなっているわけで、その出自は多枝にわたっているわけである。
だからこそ基本的にはその大部分が庶民の出身ということが言えるし、事実庶民感覚を身につけているわけで、その事は同時に庶民の願望を体現するに値する資質を持っているわけである。
惜しむらくは、出自は庶民の多枝に渡る階層から出ていたにもかかわらず、あまりにも長い間軍部という井戸の中に居すぎたため、官僚主義に汚染されてしまったということである。
人間はあまりにも長い間、一つの組織に呪縛されていると、それ以外のものの考え方が出来なくなってしまうわけで、中国や朝鮮の人が儒教思想にあまりにも長い間依存しつづけたために、近代化に遅れをとったような状況に陥るわけである。
一つの組織に20年30年という単位でその中に身を置けば、発想もその組織特有のものが身についてしまって、視野が狭くなってしまうのは理の当然である。
昭和初期の軍人というのは、明治・大正という時代を軍隊という中で営々と過ごしてきた人たちの天下であったわけで、その視野の狭さというものが、世界の動きと見る目を鈍らせてしまったに違いない。
第1次世界大戦後の世界というのは、今までの帝国主義的殖民地支配ということが、意味をなさなくなってきたわけである。
植民地から富を収奪してきてそれで本国を富ます、という経済の方程式が成り立たなくなって、主権国家同志は助け合わなければならない、という考え方に代わったわけである。
第1次世界大戦というのはヨーロッパが主舞台で、アジアというのは日本がドイツの植民地を少々攻撃したという程度で、ほとんど戦争の舞台になりえなかった。
そしてそれはヨーロッパ人にとっては未曾有の殺戮であったわけで、その反省から鑑みて、もう戦争はこりごりだと思っていた矢先に、ドイツというものが再度ナチズムというものを掲げて勃興し、その勢いに日本が便乗しようとしていたものだから、彼等ヨーロッパ人というのは一斉に日本というものの本質に疑いを持ち出したわけである。
日本という国が、日清戦争や日露戦争というもので失敗をしておれば、彼等は我々に対して恐怖心を抱かなかったが、我々はその意味で彼等の意表をつく行為をしてしまったわけである。
そういう動きの中で、ヨーロッパ人というのは、ドイツのナチズムに警戒心を募らせていたところに、のこのこと日本が擦り寄っていったものだから、彼等は日本に対する警戒を厳しくしたわけである。
白人同士で「手を結び合いましょう」となるのは必然的な動きであった。
こうなると肌の色の違う日本というのはつま弾きされるわけで、歴史の軌跡はその通りの過程を歩いてきたことになる。
我々は彼等のした事と同じことをしているつもりであるが、これが前にも述べたように、微妙に違っているわけで、その違いに彼等は反発をしたわけである。
問題は、我々の側が西洋列強と同じ植民地主義ではないというポーズを取り、その理念には5族協和とか、王道楽土とか、ばら色の理念を掲げながら、実質彼等と同じ帝国主義的植民地支配をしたものだから不信感を招いたわけである。
彼等の目から見て、日本が朝鮮と台湾のみで満足しておれば、日本をボイコットする理由は存在しなかったが、日本が中国というフロンテイアに触手を伸ばすとなれば、自分たちの取り分が心配になってきたわけである。
戦争が政治の延長線上にある人間の行為ということであるとすれば、我々が戦争に敗北したということは、取りも直さず政治が下手であったということである。
その中でも、非常に情報ということに疎く、外交交渉において、その暗号を完全に相手側に解読されてしまっていた、ということは完全に我々の失敗であった。
その失敗の上塗りとして、その解読されていたことを終戦に至るまで知らなかったという点である。
これは政治の本質を知らないということに他ならない。
民族というものが間違った判断をするということはしばしばあるわけで、国全体として、運命共同体全体として判断を間違うということは、人類の歴史にはしばしはありうることである。
我々が太平洋戦争に入っていった歴史もその中の一つである。
こういう歴史の反省として、情報というものの意義を考える必要がある。
歴史というのは、華やかな部分と、その裏側の日の当たらない部分というものが折り重なって存在しているわけであるが、我々、恐らくこの世の人類というのは、誰しも陽の当たる場所には行きたがるがるが、陽の当たらない部分は敬遠されがちである。
暗号の研究というのは、この陽の当たらない部分になるわけで、日本はこういう部門には人も金も注ぎ込まない面がある。
航空機の発達で、飛行機を使った戦争が主流を占めそうだというときでも、大鑑巨砲主義に凝り固まって、時代の趨勢というものを見誤ったのは、巨大な軍艦には過去において陽が当たっていたが、航空機の方にはこれから先同じように陽が当たるかどうか大いに迷ったわけで、陽の当たる場所には人々は雲霞の如く集まるが、その裏でこつこつと研究するという陰のような部門を軽視する傾向がある。
自分たちが西洋列強にいささかも見劣りすることのない軍艦を酷使しているという自負の元に、その通信系統の秘密性を厳重にするという、組織の神経系統に注意を払うということに誰も気がつかなかったことは返す返すも残念なことである。
それを怠ったが故に、我々は敗北を帰したわけである。
戦争のときの軍の暗号のみならず、平時においても相手国の政府の暗号を解読するということは、非常に大事なことに違いないが、これはいわゆる汚い仕事である。
ダーテイーな仕事なわけで、如何なる主権国家も、それを自分たちがしているということを公の場では言うことが出来ない。
今では太平洋戦争を始める前からアメリカは日本の外交通信を傍受していたということは公然の秘密になっているが、主権国家が相手国の通信を傍受するなどということは何時の時代がこようとも倫理的に許されることではない。
何時の世でもそれはダーテイーな仕事でありつづけるわけである。
ここで問題は、そんな仕事はダーテイーなるが故にしなくてもいい、という発想である。
戦いならば双方名前を名乗って、正面から堂々と渡り合うのが武士の戦いだ、などと粋がっていると戦争に負けてしまうわけである。
昔の日本の海軍にはこういう気風が残っていたものと思う。
日本の暗号が解読されていたということは、軍の首脳部が、一度確立された暗号体系が万全なものだ、という確信に陥っていたからだと思う。
そのことから思いを巡らしてみると、明治憲法についても、一度確立されたものは万全で、如何なる瑕疵もないと思っていた、ということと軌を一にしている。
暗号体系というのは、その性質上、国民の前に公にされるものではないので、より独善に陥りがちであったわけである。
世の中の変化につれて、微調整をしつづけるという発想にいたらなかったものだから、自分たちの暗号が漏洩しているということに終戦に至るまで気がつかなかったわけである。
この秘密の保全ということに関しては、我々は実に民族的にもろい性癖を持っている。
秘密保全というと、我々はそれを大義名分として、あらゆる書類に「秘」の刻印を押して、そうする事によって秘密が守られていると勘違いしがちであるが、これはある種の優越感に浸っているだけのことで、秘密ということの真の意義を知らないものの自己満足に過ぎない。
私は若いころ米軍の片鱗を見る機会に恵まれ、その後日本の民間企業でも同じような機会に恵まれたが、秘密というものの取り扱いには、根本的な相違を見ることが出来た。
そのことに関して、日本人の中では、まだ誰一人として、この日米の秘密の取り扱いの相違に言及する発言を聞いたことがない。
そのこと自体が国民の前には隠さなければならない事項であるので、致し方ないともいえるが、秘密ということに関する日米の差というものは、今でも一向に縮まってはいないと思う。
その根本のところにも、日本民族固有の民族意識が横たわっているのではないかと思う。
民族の坩堝としてのアメリカという国と、ほぼ単一民族としての日本では、秘密というものに対する概念が最初から開きがあるわけで、そうであるとすれば、我々の側は外交交渉という場において、常に本音で話し合わねばならず、本音で話をすれば、それが実施されないときには結果として嘘を言ったということにならざるをえない。
アメリカ人の国民的なゲームとしてポーカーというものがあるが、これはまさしく嘘つきゲームなわけで、如何に上手に嘘をついて相手を騙すかというゲームである。手の内を隠して、相手の手の内を推測しながらハッタリをかませて相手を貶めるゲームである。
その点、日本の将棋でも囲碁でも、これは常に正攻法のゲームで、正面から堂々と手の内も相手に見せて知恵を競い合うゲームである。
日米のものの考え方の違いがこれらのゲームに如実に現れている。
秘密の保持とか暗号の解読という作業は、まさしくダーテイーな仕事なわけで、清廉潔白な人士にとっては厭な仕事に違いない。<
しかし、これが国運を左右するとなれば、そんな奇麗事は言っていられない。
綺麗事で済ますか、ダーテイーと知りつつそれに金と人を回すかの違いだと思うが、その選択をするときに、合理主義かそうでないかの違いが露呈するわけである。
我々の側は、戦争をする前から相手に暗号を解読されていたということを、その後の我々の生き方の大きな教訓としなければならない。
戦後の我々の生き方というのは、戦争を念頭においた考え方をしなくてもよかったわけで、その意味からすると、もう暗号とか秘密ということに頭を悩ます必要はなくなってしまったので、恐らく今でもそういうものの概念は一向に改まっていないのではないかと思う。
民間企業では同業他社との過当競争に明け暮れているので、企業内での秘密ということがあるかもしれないが、その秘密にまつわる話を暴露すれば、面白い現象が起きているに違いない。
我々は実に秘密の漏洩ということに寛大な民族で、太平洋戦争の開戦前夜、ゾルゲ事件というものが起きた。
1941年、昭和16年10月、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実が日本政府の動向をソビエットのスターリンに知らせたというものであるが、戦後の左翼系の歴史家というのは、この事実を一向に歴史上の事実として認識していない。
又、我々、一般国民の側も、このゾルゲ事件というのを頭の隅からどこかに追いやってしまって語ろうとしない。
あくまでも一過性の事件として忘れ去っているが、彼等が命を賭して推し進めたスパイ行為というものは、充分に研究する余地がある。
戦後の左翼系の人々が、このゾルゲ事件というものに眼をつぶっている背景というのは、この犯人達がいずれも共産主義に組みする行為をしていたことで、良心に忸怩たるものを感じているが故に、回避して通っているものと推測する。
ここで問題となることは、時の首相近衛文麿が自分のブレーンに尾崎秀実というスパイを抱え込んでいた、という事実に注目しなければならない。
あの特高が暗躍し、治安維持法の厳しい時期に、首相の周りに共産党員の尾崎の正体を見破れなかった、という事実に我々は大いなる反省をしなければならない。
これを以って私は日本人には秘密保持がありえないといっているわけである。
首相という高位高官が、日本の行くべき進路というものをスパイに漏らしている一方で、それを突き止めて逮捕に踏み切った特高という組織の末端の人たちというのはよくやったと思わなければならない。
特高、特別高等警察というものは、戦後一貫として評価されたことはないが、ゾルゲ事件に関しては、大いに評価すべきだと思う。
しかし、当時のソビエット連邦というのは、連合軍側にいたわけで、連合軍からすれば、自分たちの情報網を特高によって壊滅させられたわけで、それは面白くない出来事であったわけである。
よって特高の名誉というのは未だに回復されないわけである。
日本の軍隊でも、日本の警察でも、日本の官僚でも、組織の末端というのは実に健気に職務を遂行している。
先に述べた町内の大掃除でも、組織の末端というのは実に健気に職務を遂行している。
恐らく戦後の不良債権の問題でも、組織の末端の人々というのは、忠実に過った職務を遂行したわけで、組織の末端があまりにも忠実に職務を遂行したが故に、その過誤が大きな乖離をきたしてしまったのではないかと思う。
天皇陛下を頂点とする明治憲法下の日本という国家組織の中で、国民一般というのは実に忠実にその職務を遂行していたが故に、その中間において少し軌道がぶれたものが、そのぶれを修正することなしに末端まで行き着いてしまったので、結果として大きな齟齬をきたしたのではないかと思う。
組織の中間における指揮系統のぶれが、当時の日本の軍部の独断専行としてモラルの崩壊であったわけである。
当時の明治憲法を厳密に解釈し、忠実にそれに則れば、これほどの災禍、つまり日本の敗戦という災禍は回避できたかもしれないが、しかし、私の推測によれば、一時的に回避できたとしても、遅かれ早かれ一度は対米戦争というのは回避できなかったに違いないと思う。
西洋列強、アメリカを含むヨーロッパ系の白人というのは、日本におけるアジアの開放と言う事を、座して見ているということはありえなかったに違いない。
第1次世界大戦というものがヨーロッパ人の大量殺戮であったという結果を鑑みても、アジアというのはほとんど無傷であったわけで、そこでは日本だけが気炎を上げていたわけである。
自分たちが殺しあった結果として、ほとんど無傷のアジアで、日本だけが利権漁りをしていれば、遅かれ早かれ彼等からの挑戦はあったに違いない。
第1次世界大戦後のアジアというのは、ヨーロッパ人の植民地の版図の移動は多少あったとしても、従来の秩序はほとんどそのまま維持されていたわけである。
そういう環境の中で、新興国の日本のみが版図を広げようと躍起になるのを見れば、彼等としては、それを我慢ならないという思いに駆られるのも致し方ない。
特に我々はヨーロッパ人とは異質の民族で、肌の色の黄色な野蛮人と思われていたものが、アジアのフロンテイアを自分勝手に料理していると思うと、彼らとしては矢も盾もたまらなかったに違いない。
我々の側は、ヨーロッパ人がそういう思いに駆られているなどとは想像もできず、ただただ自分たちの貧困からの脱出のみを夢に描いていたわけであるが、この時点において、既に世界というのは孤立主義では成り立たない状況に陥っていたわけである。
特に貧乏からの脱出、富の蓄積という観点に立ってみると、自国のみではその夢の実現はありえないわけで、他の国との連携がどうしても必要であったわけである。ところが、この時点で世界に人々はそのことに気がつかず、自国のみがよければ後はどうでも良い、という孤立主義というか、独り善がりな思考に陥ったわけである。
それがブロック経済となり、それぞれにブロックを作って仲良し倶楽部を作り、日本を排除する方向に向かったわけである。