日本とアジア12 平成13年6月2日
彼等ヨーロッパの人からアジアの人たちを見れば、アジアの人間というのは犬か猿以下であったわけである。
このことをアジアに住む人々はよくよく覚えておかなければならない。
それは差別意識だ!という反論は当然沸き起こる。
しかし、この差別意識というのは20世紀になってからの産物で、その当時はそれが人間としての真理であったわけである。
まさしく価値観の相違というほか言いようがない。
そしてこの価値観の相違というのは、地球規模で普遍化していたわけである。
つまり差別というものは地球上の何処でも転がっていたわけで、その差別されないようにする、差別を乗り越えるには富国強兵しかなかったわけである。
というわけで、西洋人、ヨーロッパ人というのは、最初からアジアの人々を差別して、それが当然と思い、それが普通だと思い、それが常識だと思っていたわけである。
19世紀の後半から20世紀の初頭において、日本が清国を下し、帝政ロシアと戦って勝ったと言うことは、ヨーロッパ人の持つ常識というものが覆されたわけである。
常識が間違っていたとなれば、彼等は何を信じていいかわからなくなったわけで、日本の動向に一喜一憂していたわけである。
日清・日露の戦いで日本が台湾を得、朝鮮を得たわけであるが、これを統治するに際して、日本は西洋列強のような、ヨーロッパ人がアジアの植民地にしたような統治の仕方をしなかったわけである。
つまり、西洋伝来の帝国主義というものに、日本的な付加価値を入れたというか、日本的なアイデアで以ってそれを実施しようとしたわけである。
戦後の日本民族論では、我々は猿真似の国だ、という自虐的な発想で貫かれているが、我々は非常にアイデアに富んだ民族で、決して猿真似だけに終わることはなかった。
この時代、我々は西洋流の帝国主義で台湾と朝鮮を支配したわけではない。
これは西洋の帝国主義の猿真似の統治ではなかったわけである。
帝国主義のようではあるけれども、そこには日本独特のアイデアが埋設されており、かっての歴史、西洋列強の重商主義を経由した帝国主義と同じものではなかったわけである。
その最大の特長は、植民地を被支配者という視点で見ないという点である。
あくまでもお互いが同等で、対等な民族同士という視点に立とうとしたわけである。
ところが武力で押さえ込まれた相手側にしては、そうそう日本の言っていることを頭から信用できないわけで、当然そこには抵抗運動というものが自然発生的におきてくるのは致し方ない。
この当時でも日本人による反政府運動というのはいくらでもあるわけで、日比谷公園の焼き討ちとか、米騒動とか、民衆の抵抗というのは掃いて捨てるほど起きているわけで、海外で日本政府に対する抗議行動が起きてもこれは何ら不思議ではない。
このように日本の植民地支配というのは、ヨーロッパ人がアジアで行ったような典型的な帝国主義とは位相が異なっているわけで、我々の行おうとした植民地統治の背景には、アジアの人は共に手をつないで、共存共栄を図りましょう、という遠大な思想があったわけである。
ところがこれが中々理解してもらえないわけで、理解してもらえないことを敢えて行うというところが非常に日本的である。
ある意味で唯我独尊的であり、独り善がりな発想ととられたわけである。
昭和の初期において、日本の軍人達が満州に日本の傀儡国家を作ろうとしたのも、西洋列強の行ってきた帝国主義に日本的なアイデンテテイを組み入れた思考の延長線上にあったわけである。
西洋流の発想に立てば、何も傀儡国家を作るなどという手間隙かけた小細工を労しなくても、軍事力で占領しておいて、必要なものだけ収奪して、それをせっせと日本に送ればそれで事は足りたわけである。
そういう単純明快な手法をとることなく、わざわざ傀儡国家を作って、それを一応独立国の形を取らせ、その独立国と対等の付き合いをして、相互に利益を折半するという発想は、明らかに西洋列強のしてきた帝国主義とは異質であり、位相の相違が横たわっているわけである。
そこに西洋列強の帝国主義を日本流に租借し、醸成し直した形跡が見られる。
私がここで不思議に思うことは、これを具体的に推し進めた主体が軍部であった、という点である。
これも歴史の後追いかもしれないが、こういう状況下では、やはり力として実行力のある組織でなければ、それがなしえなかったのではないかという考えである。
今まで縷縷述べてきたように、この時代のアジアというのは、まさしく混沌としていたわけで、力、武力、軍事力しか頼るものがなかったわけである。
今の価値観で、「戦争はいけない」などといっていたら一日足りとも生きておれないわけである。
そうは言うものの、我々の側が明らかなる侵略戦争を仕掛けたとなると、今に生きる我々、日本人としては実に居心地の悪い思いをしなければならない。
それは大日本帝国陸軍・関東軍の高級参謀の石原莞爾と板垣征四郎という人物が瀋陽郊外の柳条湖という所で、先に中国軍に対して戦争を仕掛け、15千対25万という兵力差にもかかわらず、満州全域を占領してしまったことがある。
1931年、昭和6年9月18日のことである。
満州建国の一年前のことであるが、この件に関し日本政府はあくまでも不拡大方針をとっていたにもかかわらず、石原莞爾と板垣征四郎の二人はこれを既成事実として政府に認めさせてしまったわけである。
時の総理大臣若槻礼次郎、外務大臣幣原喜重郎はさぞかし困ったに違いない。
出先の機関が勝手によその国を侵略し、占領してしまったわけである。
いくら中国が混沌としているとはいえ、それはあくまでもよその国なわけで、そこに政府の出先機関としての部隊が勝っ手に戦争をおっぱじめてしまい、よその国を占領してしまったわけである。
政府としてもいまさらそれを相手に返せともいえなかったに違いない。
しかし政府の立場というのは、日本のことだけを考えていれば済むものではなく、対外的な国際関係というものを考慮に入れると頭の痛い思いをしたに違いない。
しかし、このとき石原莞爾たちも、又日本の国民も、それが張学良の戦術であったということを終戦になるまで知らなかったわけである。
父親を日本軍に殺された張学良は、この時からどういうわけか無抵抗主義になってしまって、中国東北部の軍閥の中でも一番勢力を持っていながら、日本とは正面から戦うことを避けるようになった。
ある意味で、自分の兵力を温存していたとも言えるし、国際世論というものを味方につける意図があったのかもしれないが、とにかく日本と対峙したら、一目散に逃げる戦法を採ったわけである。
日本側から見れば、勝った勝ったの喚起が沸き起こるわけで、それが先方の作戦だとも知らないで浮かれていたわけである。
このときの石原莞爾と板垣征四郎の行為というのは、天皇の意思に背いたばかりでなく、政府にも苦渋を飲ませたわけで、今の価値観からすれば売国的行為であったわけである。
ところが結果が富国強兵という時流に迎合していたものだから、天皇の意に反したという事実が雨散霧消してしまったわけである。
そして後の2・26事件にも、この石原莞爾は関与しているわけで、ここでは天皇に都内に戒厳令を敷くことを進言しているわけである。
この変わり身の早さというのは実に見上げたもので、戦後の極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判でも被告を免れているわけである。
運のいい男というか、先を見るに機敏というか、抜け目がないというか、あの軍人勅諭が幅を利かせている時代に、正面から天皇の言うことに逆らっていながら、終戦でも被告席につくことなく天寿を全うするというのはまさしく超人的であった。
日本が太平洋戦争に嵌り込んでいった最大の要因は、こういう石原莞爾、板垣征四郎、辻政信のような陸軍の高級幹部の失政の結果であったということをもっともっと研究すべきである。
戦争の責任は国家の責任とされがちであるが、陸軍の犯したこういう間違いというのは、21世紀の今日どういうふうに評価したらいいのであろう。
日本政府が不拡大方針で行く、と言っているときに、出先の軍隊がどんどん戦線を広げていったわけで、これを今日どう評価したらいいのであろう。
明治憲法下では主権というのは明らかに天皇にあるわけで、その主権者としての天皇の言うことを聞かない軍隊というものを、どういう風に考えたらいいのであろう。
明治15年に制定された軍人勅諭の第1項には「軍人は忠節を尽くすを本文とすべし」とあり、その後段では「世論に惑わず政治に拘わらず」となっているのに、忠節は尽くさず反抗し、世論には大いに惑わされ、政治に関与しつづけたわけで、これでは軍人勅諭を真っ向から否定しているようなものである。
こういう人物が大日本帝国の陸軍の高級幹部、高級参謀を勤めていたわけである。
日本が負けるのもむべなるかなである。
そして中国大陸の中の戦争というのは、いみじくも関が原の合戦の延長のようなものであったが、これの相手がソビエットとなるとそうはいかないわけで、ソビエットの脅威というものを常に感じていたにしては、ソビエット陸軍の研究を怠っていた。
相手が中国人の場合は、張学良の命令でもあり、先方は追えば逃げたわけであるが、相手がソビエットとなると、そんな生易しいことでは治まらないのに、そこのところの研究を怠っており、精神主義に頼っていたわけである。
これら旧日本陸軍の高級幹部というのは「敵を知り己を知る」ということを天から信用しておらず、日清・日露の戦いの時点で思考がとまってしまっていたわけである。
小泉首相は8月15日には靖国神社に参詣することを表明しているが、あの中に祭られているのは、こういう我々にとって国賊級の軍人も、無辜な兵隊も、ともに祭られている。
日本国民にとっての真の反逆者、日本を奈落の底に引き落とした張本人、日本政府や天皇の意に反して戦線を拡大した旧陸軍の将官というのは墓を暴いて別にしなければならないのではなかろうか。
それでなければ前線で戦った同胞が浮かばれないのではなかろうか。
石原莞爾や板垣征四郎が獲得した満州の地というのは、ある意味ではユートピアであったわけで、新天地である限りにおいては、銃こそが正義であったわけである。
この時代のアジアの大陸では、まさに銃こそ正義であったが、それは日本の国内においてもそれに類した状況になっていたわけで、井上準之助、団琢磨、5・15事件の犬飼毅などと、テロに倒れる要人が後を絶たなかったわけである。
この血盟団とか、5・15事件の海軍将校というのは、国家革新を目指すグループとみなしていいと思うが、この時代はそれほど急速に国家革新を目指さなければならない状況があったのであろうか。
第1次世界大戦で一部の成金はしこたま儲けたが、そのあとの世界恐慌では、世界中がインフレに苦しめられたということは言える。
ならば軍縮というのは歓迎されてしかるべきであるが、この当時の日本の大衆というのは、軍縮に反対であったわけである。
これを今21世紀という視点から俯瞰して眺めてみると、日本が西洋列挙の帝国主義というものをそのまま真似て、植民地からの搾取のみに徹し、収奪のみを行って、台湾でも朝鮮でも、現地の人々を我々と対等に扱うことなく、徹底的に奴隷として搾取しつづければ、昭和の初期に日本の政局がこれほど混乱することはなかったのかもしれない。
日本の植民地経営というのは全て赤字経営で、今で言えば膨大な不良債権を抱えていたようなものであった。
獲得した植民地から富を収奪することなく、逆に社会基盤整備・インフラ整備を日本の納税者の金で行っていたわけである。
日本が同胞の血を流して獲得し、確保した旧敵地、いわゆる植民地に、その血を流した側が金を出して道路を作り、学校を立て、農業の振興を図り、土地を区画整理したわけで、こういうところに日本の政府の金がまわっていなければ、日本の国家改造をしなければならない、と思い込むほどの人間は出てこなかったかもしれない。
昭和初期の日本の国家財政が非常に苦しかったのは、軍備に要する金もさることながら、植民地経営に回す金が大きかったことも一因であったと思う。
西洋列強からこの日本を見れば、「彼等は馬鹿か!」と思われても致し方ない。
彼等の発想に立てば、折角血を流して取った植民地に、金を掛けるなどとは信じられなかったに違いない。
同胞の血を流して獲得した旧敵地の人々を、自分たちと同じように扱おうという発想は、我々が西洋流の帝国主義というものを、日本流のものにしようとした過程ではないかと想像する。
その日本流の帝国主義というものの底流には、やはり我々はアジアの一員として、皆同じである、という思想が横たわっていたに違いない。
豊臣秀吉が朝鮮征伐をしたことが、朝鮮の人々にとっては怨恨の元になっているようであるが、もしあれが成功したとしても、秀吉は朝鮮を奴隷とするのではなく、尾張とか、三河とか、美濃というような藩として扱ったのではないかと思う。
我々には、他民族を隷属させるという発想は最初から全くないわけで、ヨーロッパ諸国のように、征服した他民族を奴隷として使役に使う、という歴史が最初からなかったわけである。
武力で相手をねじ伏せても、相手がこちらに言うことを素直に聞けば、同胞と同じに扱うという歴史が連綿と続いていたわけである。
戦国時代の歴史というのはまさにそれで、征服した相手の首謀者を2,3人血祭りに上げれば、あとの者はほとんど命を取られるということはなかったわけである。
まして末端の民衆に至っては、前の生活とほとんど変わらない生活が補償されていたわけである。
その発想で以って、帝国主義的植民地支配をしようとしたものだから、それが第2次世界大戦後日本の力というものは消滅した時点で、仇となって我々に跳ね返ってきたわけである。
但し、そうは言うものの、それを推し進めたのが日本の軍部であったという点は大いに考察する必要がある。
日本が近代化を決心した明治維新で、政府閣僚の中に陸軍大臣と海軍大臣というものの設置ということは、当時の国際環境というか、当時の常識というか、当時のものの考え方というものを勘案すると、致し方ない面がある。
それよりもその後の民主主義の発展の中で、その憲法の不具合個所を是正できなかったところに問題がある。
しかし、これも非常に難しい問題を孕んでいるわけで、明治憲法で統帥権というものがきちんと明記してある限り、この憲法を改正しようという発議というのは、なんびとも成し得なかったに違いない。
明治憲法を多少とも変更しようということは、そのまま天皇制を変更するということにつながってしまうわけで、明治憲法というものを遵守しようとする限りにおいて、軍部を抑える機能というものはありえないようの思える。
それが出来るのは唯一人天皇しかいなかったわけであるが、天皇がそうしようと思っても、その言うことを聞かなかったのが軍部であったわけで、こうなるともう誰も手がつけられないわけである。
戦後の日本の左翼系の人々は、先の大戦は天皇陛下が独裁者のように日本国民を戦争に駆り立てた、という論法で天皇制批判をしているが、この当時においても天皇はあくまでも象徴天皇に近い存在であったわけである。
その事は日本の左翼よりも、敵方のマッカアサーのほうがよく知っていたわけで、こういう情報の在り方から見ても、日本は負けるべくして負けたわけである。
冒頭の年表にもある通り、この年の1月6日には陸軍、海軍そして外務省というものが満州国独立について協定をしているわけである。
その事は、この満州国が最初から傀儡であったことの立派な証拠であるが、日本が植民地を確保するのに、こうした小細工をしなければならなかった背景というのは一体なんであったのであろう。
やはりそこには植民地支配は「悪」だ、という認識が芽生えていたのかもしれない。19世紀流の植民地というのは、あくまでも本国があって、そのほかに富を収奪する場として、海外に植民地を持つことであったわけである。
この植民地を、本国と同じ主権の及ぶ範囲に入れてしまうと、逆に費用対効果を考えた場合、大赤字になるわけで、そうならないように万一の時には何時でも切り捨てられるように、植民地というかたちで富の狩場を維持してきたのがイギリス流の植民地支配であったわけである。
ところが我々の場合は、そこまで露骨に徹し切れず、合理主義に徹し切れなかったたわけで、形だけでも相手を独立国として、その国と対等の貿易関係を作るか、乃至は100%同胞として扱うかの選択をしたわけである。
台湾と朝鮮に関しては後者のほうで、満州に限っては前者の選択をしたわけである。満州を一つの独立国家にしようとした背景には、やはりこの地が一つの民族で統一されていなかった、という点が大きなファクターになっているのではないかと想像する。