大正から昭和初期

学校秀才と選良意識

これは世界の帝国主義としての流れであったわけであるが、それとは別に、日本の中の政治としての流れ見てみると、やはり我々は完全なる民主政治と言うものには程遠いところにいるようだ。
大正デモクラシーという言葉があるが、この時の政治というのは、民主主義という立場からいえば、非常に未熟なものであったわけである。
いわゆる政党政治というものが未熟なる故に、その隙間に軍部の独断専行がを許す隙が出来たといってもいいと思う。
政党政治が未熟ということは、民主主義というものを完全に理解していない、ということに他ならないわけである。
その意味においては、戦後に至っても我々は真の民主主義というものを理解しているとは言いがたい面がある。
政党政治というものが未熟ということは、政治が理性で動いているのではなく、感情で動いているということである。
この理性と感情の峻別ということが我々は不得意で、可愛そうな人間は、理由の如何を問わず救助しなければならない、という性善説に依拠しているのではないかと思う。
理性で物事を判断するということは、冷徹な合理主義で物事を推し進めるということであるが、我々の場合は、感情論で物事を決めようとするものだから、合理主義の対極に立っているようなものである。
日本の政党というのは昔も今も、厳密にいうと民主主義政治の目指す政党ではないような気がしてならない。
ただ単なる仲良し倶楽部の感がする。
いわゆる政治結社とは程遠い存在で、政党に党員の心を拘束する毅然たる政治的綱領を持ち合わせていないような気がしてならない。
「そんなことはない、きちんとした綱領を掲げている」という反論は当然あるが、この綱領に対する人々のかかわり方に、日本人特有のものがあるように思えてならない。
例えば、イギリスには憲法というものが無いと言われている。
実際にはあるのだけれど、それは成文法とはなっておらず、慣習法で文字にはなっていないというだけのことであるが、我々ならば文字になっていないものは一切信用しない、という風潮というか、因習というか、性癖というようなものがある。
「ならば契約社会か?」といえばそうでもなく、下々の生活では結構口約束というものが幅を利かせているわけで、全体的に見ればどちらが本当か定かに断定できないところがある。
まさしく曖昧なる日本ということである。
この曖昧さが政党にもついて回っているわけで、その曖昧さ故に、政治結社というような強固な塊としての政党ではなく、アメーバーのようなふわふわとした組織になってしまっている。
擬似政党政治において、自分の政党が政権を取ることによって、自分の夢を実現するための政治を行う、という形は存在するが、その夢の実現に向けての運動が、ただただ反対党を政権の座から引きずり落として、自分がそこに座ることにのみエネルギーが集中してしまって、その後で如何に自分の政治綱領を実現させるかという方向に向かわないわけである。
この背景には、我々の民族が農業を主体とした農耕民族である、という民族としての潜在意識が大きく作用しているのではないかと思う。
我々の民族の生き方というのは、農耕民族として稲作を基本的な生命維持のシステムとして生きてきたわけで、その為には集落ごとの共同作業というものを抜きには生きて来れなかったわけである。
その集落の中では、長老の独断政治というものは存在せず、合議制のコンセンサスを基調とするものの決め方が幅を利かせていたわけである。
村人の誰でもが交代で首長の役割を担って、個人の失敗は皆でかばい合い、責任者を徹底的に追及することを避ける風潮が支配的であったわけである。
仮に、或る人が首長を勤めていたとき、その人が責任を取らなければならない失敗を犯したとしても、「彼は一生懸命やったのだから、皆でホローしてやりましょう」という発想になるわけである。
その前提には、彼も自分たちと同じメンバーで、失敗は誰でもしがちであるから、仲間としてカバーしてやろう、という温情主義があるわけである。
これが我々の組織にはついて回るわけで、官僚の世界にも、政党の世界にも、会社の中でも、軍隊の中でも、もちろん農村の運命共同体の中でも、この意識というのはついて回るわけで、それが政治の場面でも同じように露呈するわけである。
政党というものは、同じ志を持った者同士が寄り集まって、その志の実現に向けて政治活動をする組織でなければならないが、日本の政党というのは、その政治活動というものを相手の政権の足を引っ張ることにのみ奔走して、政策を戦わせるということが下手である。
政策の優劣を公衆の前で競い合って、その判断を選挙という形で具現化する、という本来の民主主義というものを真に理解することなく、形式だけを取り繕って、形だけの民主主義をしているにすぎない。
大正デモクラシーというのは、戦後の教育では、日本の民主主義が一歩前進した時代という捉え方をしているが、これは政党政治に名を借りた愚直な時期であったわけである。
この時代の社会というものを、庶民の目というか、皮肉なひがみ根性で見てみると、日本の社会の上層階級を成している階層というのは、官僚と軍の幹部であったわけである。
政治家とか経済界の人々というのは、金持ちなるが故にその心が邪で、心が邪なるが故に政治家であり、財閥である、という歪曲された先入観で見られていたように思う。
それには当然左翼思想というものの影響が社会に浸透しかけ、金持ちと貧乏人の階級闘争というものの見方が広まりかけた時代でもあったわけで、金持ちは金持ちなるが故に「悪」で、経済界というのは額に汗して働かないが故に「悪」である、という認識がひろがりつつあった時代である。
一方官僚と軍隊というのは、この時代の日本の優秀な人材を全部かき集めてしまっていたわけである。
陸軍にしろ、海軍にしろ日本の学校から最も優秀な人材を集めてしまっていたわけである。
当然、官僚の世界にも日本の優秀な人材が集まってきたわけで、その意味からすれば、ここで知識による階層が出来上がってしまっていたわけである。
官僚、軍人の側から政治家、経済界の人たち、自由民権運動家という人たちを見た場合、卑下し、唾棄し、鼻持ちならない愚民に見えたのも当然だと思う。
その事は逆に「俺達は優秀なんだ」「俺達はエリートなんだ」「俺達こそ日本の大衆をリードすべき存在なんだ」という選良意識の醸成につながっていたように思う。
昭和初期のころの日本の軍隊の中には、こういう意識が多分にあったように見受けられる。
官僚と軍人が選良意識をもつということは、彼らは厳密な国家試験を潜りぬけて選抜された、という自負があるからであって、その事は同時に、彼らは全員が学校秀才であったということである。
学校秀才から現実の社会を動かしている政治家とか経済界の人を見ると、いかにも不純に見えたわけで、その理由は、学校というものが成績だけがものを言う世界で、その中の価値観というのは、一般社会ではなんの価値もないということを知らずに、温室育ちの学校秀才の勝手な思い込みにすぎなかったわけである。
そしてこの思い込みが、彼らの世界だけでなく、世間一般にもその思い込みが浸透してしまって、高級官僚のいう事や、高級将校の言うことには間違いが無いのだ、という錯覚に陥っていたわけである。
ところが学校に入る時や、官僚になる時の選抜というのは、それこそ完全に民主化された四民平等という平等主義のもと、その出自や門閥には一切関係なく、ただただ試験の成績のみで評価されたものだから、個人の持つ精神の卑しさというものを測る術を持っていなかったわけである。
品行方正、学術優秀、眉目秀麗という形容詞を並べ立てると、人々はその精神の卑しさまでは考慮に入れず、その表面だけを見て納得してしまったわけである。
一方、評価の対象となるべき選ばれた人々は、案外、この世の中の矛盾というものを深刻に受け止め、心の卑しさというものは、私利私欲の追求という卑しさとは別のものを持っていたわけである。
私利私欲とは別の心の卑しさというのは、権勢欲であり、自己達成欲であり、人の為にしなければならないという過剰なる奉仕欲であったわけである。
選ばれた人々の受けた試験という関門は、それこそ万人に門戸が開かれていたわけで、そこでは情状とか、貧富による差別とか、出自による差別というものは一切なかったわけで、その意味では実に公明正大、平等主義の典型的な例といわなければならない。
しかしそれは入る時だけの問題で、狭き関門を潜って選抜された人たちが、その後の生涯で世間の荒波にもまれることなく、軍の組織とか、官僚の組織に中において、飼い殺しにされたという点が大問題なわけである。
国家という立場からこれを見てみると、軍の高級将校、乃至は高級幹部というのはプロフェッショナルなわけで、最初からそういうプロを養成するための機関であったわけだから、それで整合性があるということになるが、問題は10代の前半から後半にかけた世代が、4,5年という特殊な教育を受けた後、何十年と同じ組織の中で起居するということの弊害なわけである。
同じ組織に中で何十年と行動を共にしていれば、否応なくマンネリズムに陥るのが人間ではないかと思うし、それは自然の成り行きとして、官僚主義にも陥るわけである。
そしてそういう内なる変革、この場合、悪い意味での変革で、組織の硬直化の進行という意味での変革であるが、と共に外側の状況も日進月歩の勢いで変革しているわけで、その開きというのは可及的速度で大きくなってしまうわけである。
前にも述べたが2・26事件を引き起こした青年将校というのは、ここでいうところの純情可憐で尚且つ学術優秀な連中であったが、そういう青年達をああいう行動に走らせたのは、現実の社会には歴然と存在する階級への反発であったに違いない。
ああいう純情な青年から一般社会を見た場合、金持ちというのは、そこに存在するだけでも罪悪に写ったわけで、この考え方というのは、そのまま共産主義に直結しているわけである。
自分も貧しい環境にありながら、たまたま頭が良くて軍の学校に入れたものの、社会の不平等は一刻も早く是正しなければならない、という思い込みがああいう行為に走らせたものと思う。
そのことを思うと、我々傍観者としては、彼らの気持ちに同情したくなる。
事実、同情的な視点で語る人もいるわけで、ここで同情の気持ちが起きるということが、そもそも我々が情緒的な民族であるということの証拠なわけである。
こういう人たちから政治家というものを見た場合、彼らは私利私欲だけしか眼中にない唾棄すべき人間と映ったに違いない。
その唾棄すべき人間というのが、政党という徒党を組んで、足の引っ張り合いに明け暮れているわけで、この政党政治の堕落というものが、青年将校の反発をより大きくしたわけである。

軍部のモラル・ハザード

日本の政党政治の堕落というのは、日本民族の生い立ちから考えると、これから先いくら精進しても真のデモクラシーには近づけないように思う。
というのは我々、日本民族というのは、討論ということ、デスカッションということが出来ない民族で、演説で人を魅了する術というものを持ち合わせていないからである。
我々の物事の決め方というのは、村の寄り合い方式で、議長持ち回りで、暗黙の了解のうちに、結論が出たやら出ないのやら分からないうちに何となく方向が定まり、曖昧模糊のうちにそれを文書化したりしなかったり、したとしてもそれを平気で反故にしたり、という具合に川の流れの浮き草のような意思決定の仕方としていたわけである。
ところが国際社会というのは我々よりも民主主義の度合いうものが進んでいたわけで、これは国内政治の民主化の度合いとは又別の次元の話になっていたわけである。主権国家の代表が、主席全権として会議に臨むということは、ある意味で非常に民主主義の原則に則った手法であったわけであるが、それは国内政治でもそのような民主的手法で政治が成された、ということとは別な話であったわけである。
日本国内の政治の混乱というのは、そのまま中国にも通じるわけで、この当時、日本と中国の違うところは、日本は統一国家であったが、中国の方はその統一がおぼつかなくて、国家の求心点が定まっていなかったわけである。
その意味からすれば、日本がいくら中国に仁義を切って、理に沿って話をしようとしても、その主体がつかめきれなかたわけである。
そこにもってきて、日本の軍隊のトップにモラル・ハザードが出始めて、軍隊という組織がモラル・ハザードに陥るということは、既にこの時点から組織というものが形骸化して、組織の結束力というものが粘着力を失いつつあったわけである。
軍隊という組織の中で残っていた意識というのは、階級による上下の差別意識のみで、天皇の名を語って、天皇の為にしている風に振舞いながら、その実、自己の権益の保持に汲々としていたわけである。
今の日本では軍隊というものが存在しないので、それと同じ事を日本の省庁が展開しているわけで、国民の名を語り、国民のために行政をしている振りをしながら、その実、各省庁がそれぞれに自己の省益を追求している図と同じなわけである。
1921年、大正11年のワシントン会議におけるもう一つの重要事項は、海軍軍縮協定であった。
この会議で軍艦の保有量を英米10に対して日本は6という比率で纏まったが、こういう軍縮というものが、昔も今も現実性に乏しいのは何ら変わりがない。
逆にいうと、いくら軍縮会議をしたところで、それは意義あるものになりえないということに他ならない。
現実の人間の生き様というのは力が左右するわけで、軍備をすれば金が掛かるのはあたりまえのことで、片一方で軍拡をしておきながら、片一方で軍縮しようとしても、全く整合性が伴わないわけである。
しかし、お互いに軍縮協定をするということは、時間稼ぎ以外のなにものでもないわけで、偽善そのものである。
その間に軍拡の手を緩めて、少し経済力を蓄えた後、再び軍拡をするという、狐と狸の騙し合い以外の何者でもない。
それで日本はこの軍縮協定で新しい軍艦の建造を見送ることになったが、それに見合うだけの陸軍の縮小も要求されたわけである。
中国の現況に晒されている陸軍にとっては、陸軍の縮小などということは呑めるはずもなく、その切っ先を制するには、既成事実を作ってしまわなければならない、という思いに至ったわけである。
それをするには正当な手続きを踏んでいては埒があかないわけで、一番手っ取り早い実力行使ということになったわけである。
問題は、こういう発想が、陸軍の部内で整合性を持ったものとして、大勢の高級幹部の中で違和感がなくなったという事実である。
一言でいえば、モラル・ハザードがモラル・ハザードでなくなったということを考えて見る必要がある。
何故、日本の優秀な若者達が、大日本帝国という官僚制の中で、何十年という歳月を経ると、民主主義というルールから逸脱し、法を遵守するというルールを無視し、国際信義を捨て去るような発想に至ったのか、ということを謙虚に掘り下げて考える必要があると思う。
ただ私がここで旧陸軍の人たちに多少同情的なことを言うとすれば、この当時の中国の側に、果たして民主主義とか、守るべきルールとか、遵守すべき国際信義というものがあったかどうか、という点になるといささかおぼつかない。
この満州という地域は、それこそ「無主の地」で、法も、ルールも、秩序も、主権もなかったわけで、全域が治外法権の地であったことを考えると、その中でこちらだけが法を遵守し、ルールを守り、信義を重んじよと言われても難しいことであったに違いない。
中国側の事情がそうであったとしても、我々のした行為に整合性があったのかと言えば、いくら中国の人々が野放図な人たちであったとしても、抑圧したという事実から免れることは出来ないわけで、それと同時に、彼ら大日本帝国に軍人達が、我々の内側からの指揮命令系統に従順ではなかった、という内側からの告発には答えなければならない。
1928年、大正3年の張作霖の爆殺事件は、日本側の策略であったということは明らかになったにもかかわらず、その犯人、河本大作の処分が曖昧のまま、そしてこれは個人の犯罪ではなく、明らかに組織犯罪であったにもかかわらず、その究明の不正確さ等々のことは、明らかに大日本帝国陸軍の部内のモラル・ハザード以外のなにものでもない。
1931年、大正6年の、柳条糊の発砲事件というのは、共産主義者に嵌められた事件であったが、当時の政府の方針というのは、明らかに不拡大方針であったわけであるが、そういう政府の方針を無視してどんどん深みにはまり込んでいったということは、まぎれもなく大日本帝国軍人の中間管理職の越権行為であり、不服従であり、独断専行であったわけである。
組織内においてこれが止められなかった、という点に組織疲労が見えるわけである。張作霖殺害事件に関し、その息子の張学良の取った処置というのは、小憎らしいくらい見事な対応であった。
というのは、一切の抵抗を禁止し、何処までも無抵抗のまま逃げるという手法であったが、我々の側はまんまとこの罠に嵌ったわけで、相手が逃げると、勝った勝ったと有頂天になっていたわけである。
張作霖の取った作戦というのは、後にソビエット連邦のスターリンが同じ手法でドイツを撃退した手法と酷似しているが、こういう大陸を後背地に持つ国は、奥に奥に逃げ込めば、攻める方は補給線が伸びきってしまって、自滅に追いやられてしまうわけである。
こんなことは赤子でも知っているわけで、それを戦争のプロとしての大日本帝国陸軍軍人というエリート集団がまんまとその罠に嵌るということは、これらの集団が全く人間というものの持つ常識というものを持ち合わせていなかったということに他ならない。
自分たちが選別された特殊な能力を持ったエリート集団としての誇りに塗れて、人としての常識というものを失ってしまった結果だとしか言い切れない。
そしてこの時代には、日本人の中でも、支那浪人とか、大陸浪人などといういかがわしい同胞が暗躍していたわけで、戦後の高度経済成長のときに、土地投機をしない人間は馬鹿だというような風潮が流行ったが、まさしくあれと同じ状況が海外の植民地で起きていたわけである。
然し、不思議なことに悪い事をする日本人ばかりではなく、真に現地の人々の生活の向上を心に掛けていた邦人もいたが、こういう人たちも十把一絡げで、日本帝国主義者として加害者の一員と見られ、同じ扱いをされてしまうのはなんともやりきれない気持ちである。
日本が中国を支配したというとき、確かに日本の軍隊というのは、中国の人々を抑圧し、虐げ、731部隊の被害者になった人々もいた事は否めない事実であろう。
しかし、この日本の軍隊の横暴というものを、今我々はどういう風に理解したらいいのであろう。
政府の方針も、天皇の方針も、決して中国の地で戦争をすることを推薦したり、推奨したり、賛美したりしたわけではない。
満州国の建設ということは、又少し軍隊の独走の中でも意味合いが異なっているように思われる。
当時の日本政府も、天皇陛下も、満州国建国の意義というものを民族解放の一環という立場で理解していたのではないかと思う。
日本政府も、天皇も、この時代の中国が軍閥の抗争の上に、中華民国の国民党軍の北伐の意義も充分に理解していたわけで、という事は、中国国内というのがぐちゃぐちゃの状態だということを知っていたわけである。
そういう状況下において、日本が中国の東北部において、日本の支援のもとに、安定した満州人の国ができることは悪いことではないという認識に至ったものと推察する。
この満州という地に、日本の軍隊が、新しい国家を作ってしまう、ということも考えてみればむちゃくちゃな発想であるように思う。
007シリーズのジェームス・ボンドの世界である。

糸の切れた凧・関東軍

基本的に、明治憲法の統帥権の元で、大日本帝国の陸軍軍人である限り、こんなことが出来るはずがない。
いくら軍人が下克上をしたところで、明治憲法下の軍隊で、天皇の元でこんなことはありえないことである。
そのありえないことが起きたということは、一体どう解釈すべきなのであろうか?このありえないことが起きるということは、実に不思議なことである。
最近の事例でいえば、銀行の不良債権の問題がそうである。
銀行たるものが、担保以上の金を貸し付けて、それが回収できないということの不思議さというのは、我々凡人には理解しがたいことである。
それと同じことが大正の終わりから昭和の初期の時代には起きたわけで、天皇の統帥権の元で、大日本帝国の軍人が、天皇の言う事を聞かずに暴走するなどということが不思議でならない。
それは無学文盲の下級兵士が集団脱走するような次元の問題ではなく、きちんとした軍の基幹学校を卒業したエリート軍人達が、政府の言う事や、外務省の言う事を無視して、好き勝手なことをしたということである。
そして、その大儀は国益のため、天皇陛下のため、ということであれば天皇が怒るのも無理ない話である。
張作霖の殺害に関して、天皇は時の総理大臣田中儀一に真相究明を命じられたが、陸軍がその真相を本当に報告しないものだから、田中儀一は天皇の叱責を食い、総辞職しなければならなかった。
それでも軍は真相を隠し続けたわけで、ここまで来ると、もう軍というのは暴力集団と同じレベルの落ちてしまっていたわけである。
政治の中の軍の存在というのは案外と難しい問題で、例えば蒋介石の国民党軍と言ったり、毛沢東の赤軍、ソビエット連邦の赤軍と言った場合、これらは不思議なことに党の軍隊であったわけで、中華民国という主権国家の軍隊ではなかったわけである。
同じように、中共の赤軍でも、ソビエット連邦の赤軍でも、その成り立ちは党の軍隊であったわけで、そのことを考えると党が軍隊を持つということはどうも理解しがたい。
大正から昭和の初期にかけて、日本の軍人達が糸の切れた凧のように、中国という大陸で好き勝手なことをするということは、まさしく日本の末期的症状を呈していたわけである。
政府の手綱を切って、勝手に振舞っている軍というものを、誰も抑えきることが出来なかったわけである。
こういう風になった原因は、私の推測では、政党政治の堕落だと思う。
政党人の政治意識の低下が軍人を跋扈させる遠因を作ったように思えてならない。
主権国家の政府と軍隊のあり方というのはなかなか難しい問題で、先に述べたように、党の軍隊と政府との関係、君主制の国家の軍隊と政府の関係、等々軍隊の在り方というものは、それぞれの主権国家に独特のものがあるようだ。
この当時の日本の軍隊というのは、従来天皇の軍隊といわれていた。
明治憲法による限りそうなっている。
戦後の左翼系の人々も、天皇の軍隊だったからこそ、天皇の為に戦争をするのはご免だ、という論法を展開していたが、ここでその軍隊というものが天皇の言うことを聞かなかった、ということを当てはめてみるとどういう風に理解したらいいのであろう。
大日本帝国の陸軍というものが、主権者たる天皇のいうことを聞かない、政府の言うことを聞かない状況というのは、まさしく彼らが軽蔑してやまない中国の軍閥と同じ状況を自ら作っているわけである。
ただの暴力集団、武装集団と何ら変わるものはないわけで、それは21世紀の視点から眺めればそういうことになるが、その渦中にある彼らにしてみると、一生懸命、日本のために血を流し、汗を流しているつもりになっていたわけである。
この矛盾こそが日本の悲劇であったわけである。
関東軍が中国の地で行っていたことは、天皇も日本政府も承認したわけではないが、軍の中間管理職クラスの人間がどんどん既成事実を積み上げていってしまったことである。
大日本帝国陸軍の最大の欠陥は、そういう中間管理職の軍人の行動をきちんと処罰しなかったところにある。
軍人勅諭というものが1882年、明治15年に出されて、日本の軍人というのはこれを軍隊の中の憲法とも位置付けていたわけであるが、これに厳密に従っていれば、軍隊内の下克上などということは起こり得ないはずである。
そして軍隊内において、この軍人勅諭が形骸化した原因というか、遠因というか、そういうものの追求に組織のトップが気がつかなければならなかったわけであるが、組織のトップ自らが下克上の渦の中に巻き込まれて、自分自身の座標軸を見出せなかったに違いない。
軍人勅諭が軍隊内の憲法として息づいていれば、組織内の下克上というものはありえないわけであるが、組織の中で下克上が起きるということは、いわゆるトップが堕落したということに他なららない。
トップがきちんとして良識を持っている限りにおいて、下のものが勝手な行動をするということはありえない。
トップとしての存在意義というものは、下のものの行動をきちんと管理することも職務の中にあり、違反したものにはきちんとした処罰をし、それに応じた処遇をするということも職務の中にあるわけで、トップがこの職務を放棄した、乃至は曖昧な判断をしたとなれば、これはトップの堕落としかいいようがない。
事実この当時の日本の陸軍のトップ、いわゆる将軍と呼ばれた連中は堕落していたと思う。
軍人勅諭という言葉を聞くと、私たちは上等兵が下級兵士をいじめるために使った「上官の命令は天皇陛下の命令と思え!」というフレーズを思いだすが、確かに軍人勅諭の中にはこのフレーズがある。
しかし、この軍人勅諭というのは、軍隊の下層クラスのものにだけ適用するものではなく、軍隊という組織全体を拘束するもので、組織のトップは適用除外というわけではない。
しかし現実には、トップに行くほどこの精神を踏みにじっていたわけである。
そしてもう少し時代が後になると、日本の内地にいた軍隊の中堅クラスというのは、軍事クーデターの方向に走り、中国にいた出先機関では、それが軍隊による傀儡国家の建設という具体的な行動となって表面化してきたわけである。
日本の昭和初期の悲劇というのは、軍人勅諭の精神を踏みにじった青年将校の行為を、後から為政者としての政府なり、軍部というものが事後承認をしてしまったところにある。
事件の後で、その行為を承認してしまえば、例え悪いことでも、それは悪いことではなかった、というふうになってしまうわけである。
昭和初期の事件は全部これと同じパターンで、先に既成事実を作ってしまえば、後から整合性が付いてくるという感じで、軍隊の中の青年将校、中間管理職クラスの人達が、どんどん既成事実を積み重ねてしまったわけである。
これは我が民族のもつ実に不思議な形態で、これと同じ事は戦後にも起きているわけで、1960年代以降に起きた高度経済成長というのは、我々の得意とする物作りの精神を忘れ、土地投機に走り、額に汗して働くことを卑下し、借金をしないものは馬鹿だという風潮を招き、銀行の不良債権を累積化させたところにも、我々のこの不思議な民族的な行動が見られる。

同胞の間の競争心理

水の中に住むイワシとかメダカという魚は、自分が弱い存在だということを知っているが故、巨大な群れをなして生きている。
この群れは何かのきっかけで一斉に見事に方向転換するが、我々日本民族の価値観の転換というのも、全くこれと同じで、何かのきっかけで日本全国民が一斉に同じ方向を向いてしまう。
その方向転換に何らかの理由があるのかないのか、何がきっかけになるとそういう行動になるのか、その根本のところが分かっていない。
大正時代から昭和の初期における大日本帝国陸軍の中でも、そういうわけのわからない何かの衝動に駆られて、奈落の底に転がり落ちたのではないかと思うが、その衝動がどういうものであったのか、ということがいまいち分からない。
官僚や軍隊が堕落したということは理解できるが、何が堕落に追いやったのか、何故、良心の抵抗がおきなかったのか、その辺りの研究というのはまだなされていないのではないかと思う。
政治が悪かったとか、軍人が独断専行したとか、天皇に責任があるという論調は姦しいが、問題はそんな表層的なことではないと思う。
21世紀の今日において、朝鮮の人々は創始改名のことを今でも恨みに思っているが、あの件に関しても、日本政府が強制的に推し進めたわけではなく、本人の意思で行わすよう指示がなされていたにもかかわらず、日本の行政組織の中間管理職の仕業で、朝鮮における日本の官僚、出先の行政担当者が、お互いの成績を競い合ったために末端では実質的な強制的になってしまったわけである。
これも突き詰めれば、上からの指示命令というものを曲解していたわけで、より多くの朝鮮の人を日本流の名前に変えさせれば、褒美の一つももらえるのではないかと勘違いしたわけである。
褒美というのは誇張にしても、隣との競争ということは、無意識のうちに我々は行っているわけで、農村社会で合議制で物事を決めているのならば、隣との競争心など持たなければよさそうに思うが、それが実際の行為となると「隣に負けるな」という心理になるわけである。
競争心を露骨に出さずに、「皆揃ってゴールしましょう」となると、これが談合となるわけである。
この時期の大日本帝国の陸軍というのが、中国の奥に奥にと転戦していった深層心理には、案外こういう競争心理に煽られた部分あったのかもしれない。
隣に駐屯している部隊があそこまで行ったら、我々はもう100m先まで確保しよう、という競争心が潜んでいたのかもしれない。
何処の国の軍隊でも、その根底のところでは闘争心を涵養しているわけで、教育訓練というのは中隊対抗で行われ、対抗意識を極限まで高めることが行われる。
すると、中国というような広大な土地で行われた関が原の合戦に毛の生えたような戦闘方式で、相手は無抵抗主義でどんどん奥に逃げ込む戦法をとっていたとすれば、そこに進駐した日本の部隊というのは、敵と戦うよりも味方の部隊を出し抜く事に血道を上げていたのではないかと思う。
そして奥に進めば進むほど、それが戦果となるわけで、いわば勝ち戦として賞賛されたわけである。
今歴史の教訓として学ぶべきことは、こういう状況において、同胞の中の誰一人その異常さに気が付かなかったということである。
これは戦後のバブル崩壊のときにもそのまま通用するわけで、今現在ある状況がどこかおかしいぞ、と気が付く人が誰もいなかったということである。
これは戦中の話であるが、戦争も末期になってくるとB−29の爆撃が激しくなってきたとき、銃後の守りとして竹槍訓練が婦女子に課せられたことがあるが、この馬鹿らしさに誰一人異議を挟まなかった、という事実を我々は歴史の教訓として学ぶべきである。
戦時中はお上に対してそう安易にものが言えなかった、という論があるが、この策を決める段階で、お上の中でその馬鹿馬鹿しさを指摘するものがいなかったのが不思議だといっているわけである。
向こう3軒両隣の女将さん連中に抵抗せよ、といっているわけではなく、行政のトップがそういう案を練っている段階で、その馬鹿馬鹿しさを指摘するものがいなかったかと言いたいわけである。
その馬鹿馬鹿しさを誰も口にしなかったということは、明らかに全体責任になると思う。
その空気が天皇を中心とする宮廷の中にも、大日本帝国陸軍、海軍という軍部の中にも、外務省の中にも、行政機関の中にも蔓延していたが故に、我々は国を滅ぼしてしまったわけである。

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