大正から昭和初期

日本とアジア11 平成13年6月11日

軍閥にかき回された中国

20世紀の日本とアジアの関係において、中国との関係を抜きには語れないわけであるが、この時代において、この中国というのが混沌としていたわけで、日本の政局もこの中国大陸の混沌の渦に引きずられて、低迷のうちに紆余曲折を経るということになってしまった。
その中国の状況というのは、1911年、明治44年の辛亥革命で、清王朝が廃帝に成ったのはいいが、その後が例によって不安定で、共和制が不確実のまま孫文は袁世凱に大統領の座を譲ったりして、混乱を極めていたわけである。
その混乱に輪をかけたのが、中国各地に割拠している軍閥の存在であった。
清帝国という中央政府のもとで、各地に軍閥が割拠している状況というのは、我々には理解しがたい状況であるが、日本の近現代史の研究では、この軍閥の研究というのがいささか不調ではないかとさえ思えてくる。
21世紀の今日において、中国サイドから我々日本に要求される諸事項というのは、我々の加害者責任としての謝罪に事寄せての補償問題であるが、この時代の中国では人間の命の値段などというものは無に近いわけで、日本が第2次世界大戦後アメリカに次ぐほどの経済成長をしたものだから、このただの命に高額の値段をつけて日本から金を引き出そうという魂胆である。
この20世紀初頭における中国の軍閥の問題を研究すれば、彼らの命が如何に無に近い存在であったかが理解できると思う。
中国各地に軍閥と称する武装集団が群雄割拠していたものだから、孫文も袁世凱も蒋介石も、中国を統治する立場に立ったものは、その統治の前提条件として各地の軍閥を退治する仕事が最優先になったわけである。
ロシアが清に侵入した満州という土地は、もともと張作霖という軍閥の拠点であったわけで、日本がロシアを追い出したということは、張作霖の地盤を平定したということである。
日本が満州の権益を得て満蒙開拓をするということは、張作霖の地盤の社会的基盤整備をするということに他ならないわけである。
事ほど左様に、満州という土地は中国本土にして本土ではないわけで、中国の主権が何処まで行き届いていたのか、はなはだ不可解な土地であったわけである。
今でこそ「日本が中国を侵略した」という言い方が整合性を持っているかのように言われているが、この当時、この満州という土地が果たして本当に中華民国の土地であったかどうかは疑問である。
第2次世界大戦後、中国共産党というものが中国大陸を統一して、中華人民共和国という版図を作り上げたので、その統一前の日本の行為を以って「侵略した」と言い募っているが、中華民国と中華人民共和国の関係からいえば、後者は前者を侵略したという他ない。
清朝を倒した中華民国は、中国の各地に跋扈している軍閥というものを平定しないことには統一国家としての対面がもてないわけである。
それで北伐という軍閥退治に掛かったわけであるが、張作霖というのは、この当時の関東州、いわゆる満州に跋扈していた最強の軍閥であった。
この軍閥というのは、暴力団組織のようなものといってもいいが、それは日本国家に匹敵するほどの大きな組織で、現にこの時期のドサクサには独立を宣言した軍閥も数々あったわけで、北伐というのはそういうものを一つ一つ潰していったわけである。
張作霖の軍閥というのも、まるまる満州国の版図を全部内包していたわけで、日本の暴力団の概念では測り切れないものである。
その事は中華民国も統一国家としての体を成していなかったわけで、それに内包されるべき張作霖の北洋軍閥も、民族国家としての体を成していなかったということから考えると、逆に満州という土地はあくまでも「無主の土地」で、漢民族からすればあいかわらず「化外の地」であったわけである。
だからこそロシアも入ろうとしたし、日本も入ろうとし、アメリカのハリマンも鉄道経営をしようとしたわけである。
統一国家の体は成していないが、この土地においても太古から人間は生きつづけてきたわけで、その人々もかっては清という国家なり、明という国家の中に内包された時代もあったわけである。
しかし、それは近代国家としての概念ではありえなかったのである。
20世紀という時代になって、清という国家の中に軍閥という小国家が内包され、中華民国という国家の中に軍閥という小国家が内包されるということになったわけである。
その小国家が、小国家の独立を維持しつつ連邦制のもとで統一されれば、アメリカ合衆国のような巨大な連合体が出来上がるに違いないと思うが、その連合体を形成するには共産主義という接着剤が入用であったわけである。
共産主義というものは、個の存在という事を全否定しているわけで、個人の否定、個としての小さな集団というものの否定、小集団としての個の存在というものを否定しているわけで、そういう強力な思考統一で以ってしか、この広大な国土の人々を統一することが出来なかったわけである。
20世紀の初頭に西洋列強、及び日本という帝国主義というものが、中国という土地に版図を広げようとした背景には、この時代における中国の「無主の土地」という概念があったからだと思う。
それはアメリカ大陸の開拓の状況と全く同じであったわけで、各国が中国の地に居留民を置けば、それらを守らねばならないという近代国家、国民国家としての義務が必然的に湧き上がるわけで、日本もそういう意味の近代化に沿ってアジアに地歩を固めようとしたわけである。
荒野に入植した居留民の保護というとまさしくアメリカの西部劇の舞台であるが、日本の場合、この時代においてはやはり近代国家としての礎が不十分であった。
居留民の保護という観点で、国民国家としての意識が完全には浸透しておらず、民間人を守るという大命題よりも、軍部が軍部のための利害得失を優先させたという反省は必要である。
日本と中国の関係においても、外交とか国際関係と言う場合、相手の出方というものがあるわけで、日本の側としても最初からアジアに君臨する気はなかったが、相手がこちらの意向を少しでも汲み取ろうとする気配を示さない場合は、力でねじ伏せなければならない状況に陥るわけである。
よって、明治以降の日本と中国の関係においても、最初から力を誇示してねじ伏せるつもりはなかったが、先方には先方の思惑があって、こちらの言うことをそのまま鵜呑みにするわけにもいかないことは十分承知しているが、その意味で日本側も中国の政治状況というものは充分に考慮していたつもりである。
そして、こちらの側にもやはり同じような政治上の確執があり、独裁的な君主国家ではないので、手続き上の齟齬があったりして、様々な手違いが起こり、その手違いが外交にも影響した部分というのがあり、その点は素直に認めざるを得ない。
孫文が辛亥革命で清王朝を倒し、中華民国を立ち上げ、それを袁世凱に譲り、各地の軍閥を退治しようとしていたころの中国東北部の状況というのは、やはり張作霖という軍閥が巨大勢力を伸ばしていたころであった。

三つ巴の思惑

日本は彼を取り込んで懐柔しようとし、中華民国としての中央政府とも調整を図ろうとしたけれど、ここで本来居留民保護の使命に限定されなければならない軍部、大日本帝国陸軍の内の関東軍というものが、独自の判断をし、独自の行動をしてしまったわけである。
この大日本帝国の陸軍の一部であるべき関東軍というものが、独自の行動に出たということが、日本を奈落の底に転がり落とした最大の原因であった。
この関東軍というのは、もともと満州の鉄道の権益を守るための鉄道守備隊であったが、それが異常増殖してしまったものである。
もともとは、満州の鉄道経営に携わる人々を、いわゆる邦人居留民を保護するのが目的の守備隊であったわけで、それが様々な理由で増大していった結果として、泣く子も黙る関東軍になってしまったわけである。
明治時代の後半、そして大正時代を経て昭和初期のころの日本の政府というのは、そうそう露骨に帝国主義というものを表面の出だしていたわけではない。
国際関係においても、国際信義というものを尊重する方向を向いていたし、相手を気使う配慮も持っていたが、やはり我々の側にも世代交代というものが免れず、世代が変わるとともに、ものの考え方も変わっていったという自然の流れ、時の移り変わり、歴史の推移というものは避けられなかったわけである。
日本がアジアの人々を侮るようになった、というのは自分たちの見識が高くなると、昔のままの状況におかれたアジアの人々を見た場合、優越感と裏腹に蔑視思考が芽生えてきたものと思う。
21世紀においては、中国の人々が日本に対し歴史教科書とか靖国神社参詣の問題を提起して、大国意識を振りかざしているが、これもかっては我々がしてきたことの繰り返しなわけで、相手が弱いと見ると、虚勢を張ってでも強がりたいというのと同じで、人間の潜在意識なわけである。
人間の持つ潜在的な感情の一つなわけで、これに応えるのは理性しかないわけであるが、この理性というものが往々にして感情に押し流されてしまうわけである。
満州に日本の楽園を作ろうとしても、その土地はあくまでも中国の一部なわけで、中国との折衝なしではありえないわけである。
張作霖を懐柔しようとしても、中華民国とも話をつけねばならず、そうすると孫文や蒋介石のしようとしている北伐にも干渉しなければならなくなるわけである。
張作霖は、彼は彼なりの手法で自分の王国を維持したいと思っているわけで、日本ともつながりを持ちつつ、中華民国の中でも覇権を維持したいと思っているわけで、別の言い方をすれば、我々の側が手玉に取られた部分もあるわけである。
日本は日清戦争及び日露戦争というものに勝利したとは言うものの、この二つの戦争に勝利したが故に、その後においては戦争というものを全く研究してこなかった、ということが言えていると思う。
というのは、これらの戦争での勝利というのは、いわば関が原の合戦や田原坂の合戦のように、拠点を人海戦術で奪還するという前近代的な戦争であったわけであるが、第1次世界大戦というのは既に近代化された戦争であった。
その戦争というのは、海洋における戦いでは日本もその域に充分達していたが、満州という広大な土地での戦い方というのは、明らかに時代遅れであったわけである。
ところがこの中国という土地では、この時代遅れの戦法でも充分に通用していたわけで、それが通用していたという現実から、先の見通しに失敗してしまって、その後の研究を怠ってしまったわけである。
海洋での戦いというのは、海軍ということになるが、この海軍というのは、近代科学の粋を集めた合理主義の戦いになるわけで、ハードもソフトも常に前向きに改革改善が成されている。
しかし陸軍というのは、人の数さえ揃えばそれで事足りる、という暗愚な発想から脱却できないでいたわけである。
けれども戦場が中国である限り、それで通用していたわけであるが、ヨーロッパの前線では、もう既にそういう戦争は時代遅れになっていたわけである。
そしてこの時代の日本というのは、なまじ海外に植民地というものを維持しようとしていたので、そこには政治の延長として、軍隊というものの存在と、外務省としての在り方と、それに付随して日本の国内政治というものが三つ巴に絡んでいたわけで、この三つ巴の鼎に天皇というものの存在が大きな重石として効いていたわけである。
そしてそれに輪を掛けて、民主主義の不備というか、憲法の不備というものが重なりあって、このバランスの中から軍隊の独走というものが出てきたのではないかと思う。
民主主義の不備というか、民主主義の未発達というか、又憲法の不備というものを、今日の価値観で「悪」と決め付けるのは、やはり歴史を歪曲するものではないかと思う。
この時代には無かった価値観を、今日の視点から見て、今日の価値観から見て、「あの時代の行いは間違っていた」と言ったところで、それは意味をなさないことではないかと思う。
例えば、今日の我々は、人権と言う事を充分に認識したうえで、毎日の生活が成り立っているが、中国では人権という概念は今でも希薄なわけで、約100年ぐらい前ならば、中国人に人権という概念すらなかったわけである。
大日本帝国軍人の兵隊一人の値段が、赤紙一枚の値段だとしたら、中国人の値段など無以下であったに違いない。
今でも昔でも、人の命を大事にしなければならないことに変わりはないが、我々の尺度で世界各地の人間が皆同じ価値観を持っている、と思い込むのも世間を知らないことにつながっている。
日本の近代化とともに、我々はアジアの周辺地域の人々に対して非常な苦痛を強いた、と思い込んで謝罪外交を繰り返しているが、同国人による同国人の殺傷というのは果たして本当に「善」なのか、という反問をアジアの人達にはしてこなかった。
日本人が中国人にしたことは「悪」で、中国人が中国人にしたことは「善」なのか、という反問をすることを遠慮してきた。
ただただ相手の言ったことに対して謝罪するのみで、ならば「あなた達は同胞に苦痛を強いたことはなかったのか」と問い直せば、彼らは答えに窮するに違いない。
しかし、彼らは「それは内政問題だ」と逃げるに違いないが、彼らの価値観からすれば、人権などという概念は最初から存在していないわけである。
相手が持っていない価値観をこちらは持っているわけで、その価値観で自分たちのした行為を眺めるから、そこに我々の側は贖罪の意識が抜け切れないわけである。

驕りの本質

中国大陸では日本の戦国時代よろしく各地に軍閥が群雄割拠しているのを、織田信長のような役割を担った、中華民国、国民党の蒋介石が平定しようと巡幸の旅に出たわけであるが、中国東北部では張作霖が勢力を張ってなかなか従おうとしなかったわけである。
この状況を見て、日本側では軍部の思惑というか、軍隊の行動というか、政府というか、外務省というか、それぞれの立場持ち場でおのおの勝手な解釈をし、勝手な思惑を持っていたので、その対応は混乱を極めていたわけである。
日本の政治の悪しき慣習で、いわゆる縦割り行政というか、横の連携が一つではなく、窓口が幾つもあったわけで、その一つ一つで思惑が違っていたので、混乱を招いたわけである。
その混乱の源というのが民主主義の不備というか、明治憲法の不備というものにあったわけであるが、そのもう一つ奥には、日本の大衆の願望が潜んでいたということを忘れてはならないと思う。
戦後の日本の左翼系の人々は、大衆というものは頭から「善」で、為政者というのは頭から「悪」だと思い込んでいる節があるが、これは案外逆転しているように思える。
左翼系の人々の見方というのは、為政者が大衆を結果として加害者に仕立てたという見解を取りたがるが、加害者として暴走するのは常に大衆の側で、その暴走にブレーキを掛ける役割を果たしたのが為政者の側である、というケースが往々にしてある。
張作霖を列車ごと爆破して殺したのは、大日本帝国軍人のうちの関東軍参謀の河本大作という人間であるが、この事件は当初内密にされて、日本の国民は知ることが出来なかったが、「張作霖を懲らしめよ」という雰囲気は、日本国民の全部が持っていたと思われる。
当時の日本国民の全部が「張作霖など殺してしまえ」と思っていたにもかかわらず、当時の為政者としての天皇と日本政府というのは、この事件の究明を命じ、厳正な処分を希望していた。
にもかかわらず、それを歪曲して報告し、処分を曖昧にしたのは大日本帝国軍人の高級幹部の人たちであったわけである。
この件に関し、軍人の横暴を抑えきれなかったという点で、民主主義の不備であり、明治憲法の不備があったわけである。
今、中国や韓国の人々が言う「戦争への謝罪が足りない」ということは、厳密にいうと妙なことになるわけで、昭和初期の軍人の横暴という件に関しては、我々日本人も手を焼いていわけで、我々こそ被害者のはずである。
この軍人の行動に拍手喝采を送ったのは紛れもなく日本の大衆であり、日本の無産階級の人々であり、日本の労働者であったわけで、それを煽りに煽ったのが、当時の朝日新聞を筆頭とするマスコミであったわけである。
大日本帝国の軍人達が、明治憲法という天皇制のもとで、天皇に嘘を言って、天皇を騙して、好き勝手なことをした、というのが昭和初期の日本の国体としての在り方であったわけである。
こうなってみると、戦後の極東国際軍事法廷で裁くべきは、本来我々日本国民が大日本帝国軍人たちを裁かなければならなかったわけである。
それともう一つ忘れてならないのは、もうこの時代になると国際関係というものを抜きに国内政治というものも存在しきれないということである。
先に日本の大衆というものが「張作霖に懲罰を加えよ」と思っていたということは、国際関係を背景とした日本の姿であったわけで、国内政治というものは国際関係と緊密にリンクしてしまっていたわけである。
中でも第1次世界大戦後のヨーロッパは、戦力を消耗して国力が疲弊し、日本はその代替需要で大いに潤ったわけである。
その事は、好景気に支えられた国内産業の隆盛と、その反対側で官僚と農民、そして労働者の貧困というものの格差の増大したわけである。
一言で表現すれば、成金との軋轢ということになるが、一部の成金は潤ったが、その成金路線の恩恵にあずかれなかった人々は依然貧困であったわけである。
そういう状況下で、国際間のバランスと言う事を考えると、軍備にはもっともっと金が必要であったわけである。
ところが国家としては、その軍備にまわす金がそう潤沢にあるわけではなく、国際間のバランスを維持するために回す金は常に枯渇していたわけである。
地球上のあらゆる近代的な主権国家で、軍備にまわす金が潤沢にある国家というのありえないわけで、あらゆる主権国家は軍備費と民生部門に回す金というのはシーソーのように上がったり下がったりするわけである。
この当時の日本も、この当時の普通の国家と同じように、軍備費というものは必要最小限にとどめなければならなかったわけである。
ところがここでも利権ということが幅を利かすわけで、軍人の専横がその利権獲得の大きな要因となっていたわけである。
それにはやはり民主主義の未発達と明治憲法の不備が絡んでいるわけで、その上に我々の国民の側に、富国強兵が何にも増して優先されるべきだ、というこの時代の風潮としてのコンセンサスがあったわけである。
この時代の我々の側にあった富国強兵を願うコンセンサスというのは、何も日本人だけの特異な思考ではなく、この当時の世界の先進国では、どの国の国民も同じようなコンセンサスを持っていたわけである。
我々だけが富国強兵という願望を持っていたから「悪」だという言い方はありえないわけである。
その願望を実現させるために、軍人達の独断専行をチェック出来なかった、という点では我々は大いに反省すべきであるが、その時代の風潮とか雰囲気というものを糾弾することは意味をなさない。
天に向かってつばを吐くようなものである。
昭和初期の時代に、我々は国際関係の中で生きざるを得なかったわけであるが、明治初期の時代においては、こういう国際関係の中においても、国際間の仁義というものを重んじ、信義を尊重して、相手を傷つけないように気を配りながら利害得失を探していたが、昭和の時代になると、明らかに日本の行為というのは横暴になり、国際間の仁義も信義も敬意も踏みにじるような態度に出てきたわけである。
これは我々の側の驕りとしか言い様がない。
今我々が歴史から何かを学ぶとしたら、この時代の日本の側の驕りの本質を極め、その本質が何処から来たのかを究明すべきだと思う。
私はその驕りの本質は官僚主義にあると思う。
官僚主義というのは前例主義で、前の成功に学び、前の失敗に学ぶことだと思うが、これが結果のみを単純に喜ぶだけで、その過程を研究しないものだから、成功例だけを注目する点にあると思う。

客観的な視野

成功例だけを見て、前と同じ事をすれば同じ結果が出ると思い込んだところに、思慮の欠けた点があるものと思う。
これは典型的な学校秀才の軌跡であったわけで、常に優秀でありつづけ、幸運に恵まれてきたので、失敗や挫折から学ぶことがなく、自分の実力の程をわきまえなくなった若造の姿というものである。
明治維新から昭和の初期の時代の日本の姿というのは、こういう学校秀才の若造の姿と瓜二つではなかったかと思う。
1919年、大正8年、第1次世界大戦が終了して、パリ講和会議が開催され、日本はドイツから南洋諸島の委任統治の権利を委譲されたが、中国の山東半島における権益の確保には失敗したわけである。
この第1次世界大戦における日本の活躍から、シベリア出兵の日本の活躍というのは、ヨーロッパの白人社会には明らかに脅威と写ったわけで、その事によって彼らは日本に対して警戒感を強めたわけである。
そして1921年、大正10年のワシントン会議では、そのヨーロッパの日本に対する恐怖感というものが具体的な形となって表面化してきたわけである。
それはアメリカがイギリスに言い寄って、日英同盟の破棄を強要したわけで、イギリスはアメリカから言われたからその破棄を決心したわけではなかろうが、アメリカとイギリスの関係からすれば、双方が日本を警戒しだしたというシグナルであったに違いない。
イギリスはアメリカから言われたからそうしたのではなく、イギリスはイギリスなりの国益を踏まえての判断からそうなったに違いないが、明治維新からわずか50年で世界の一等国になる日本の底力というものに彼らが恐怖感を抱いたとしても何ら不思議ではない。
これも一つの見識であったわけで、イギリスもアメリカもフランスも、西洋列強というのは日本のこの力というものを客観的に見ていたわけであるが、アジアにおいて朝鮮の人々、中国の人々というのは、日本に対してこういう客観的な視点で見ることが出来なかったわけである。
それでワシントン会議というのは、ヨーロッパ諸国というものがグルになって、新興国日本の頭を抑える働きをしたわけである。
日英同盟を破棄して4カ国条約というものにすりかえたわけで、これは日英二国間の結びつきを3カ国間に分散させたわけで、拘束力も求心力も共に分散させるということであったわけである。
そしてその次の段階として、4カ国条約にイタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国を加えて9カ国条約として、中国の門戸開放、機会均等をとりきめたわけである。
その狙いは、中国の主権、独立、領土的保全を補償し、中国が自らの力で安定した政府を樹立できるようにする、というものであるが、この奇麗事の裏側はアメリカの中国進出を念頭においた野望の隠れ蓑であったわけである。
逆にいえば、日本が中国でしようとしていることを頭から押さえつけ、否定するということであったわけである。
日本を取り巻く諸外国、西洋列強が、日本の在り方というものを客観的に見ていたということは、彼らは理性で以ってアジアの行く末を予測していたわけである。
こう考えてみると、彼らが中国の門戸開放、機会均等を狙うというのは、所詮は、日本の思うがままに中国を料理されてはかなわない、という意思の表れでもあったわけである。
1917年、大正6年、石井・ランシング協定というものが日米の間で取り交わされて、アメリカのフイリッピンにおける権益を認めるのと交換に、日本の中国における権益を承認するという、いわば植民地の分捕り合戦のようなものが取り交わされて、日本は大手を振って中国をほしいままにできるように思われたが、ここで中国の側がそうはやすやすと応じなかったわけである。
しかし、この時代、誰の目から見ても中国は混迷を極めていたわけで、中国の軍閥というのは、それぞれ独自のルートで西洋列強とつながりを持っていたわけである。中国国内において蒋介石率いる国民党が各地の軍閥を退治しようとしているとき、日本の側の政局も混乱を極めていたわけで、そういう近代化の過渡期であったという意味では、中国も日本もたいした変わりはなかったわけである。
そして、この混乱からの脱却を図るには、日本側では満州の安定が不可欠だと思ったわけであるが、それに反し、ヨーロッパの諸国は、蒋介石の北伐が成功するほうに賭けたわけである。
ヨーロッパの経験した第1次世界大戦というのは、国民国家同士の戦いであったわけで、それはまさしく国家の総力戦であったわけで、従来の戦争とは様相を一変したわけである。
そういう経験から中国の現況というものを眺めてみると、中国では国民国家というものが成り立っていないわけで、ワシントン条約というのは、中国を一人前の国民国家とみなしておらず、「無主の地」として、未開拓の地として、フロンテアの地としてみなしていたわけである。
それに反し、我々の日本というのは、既に国民国家を成して、その国家の利益追求の手段として、中国の地に足を踏み入れようとしていたわけである。
ヨーロッパの人々から見て、日本が台湾を手中に収め、朝鮮を手中に収め、そして次には中国大陸本土に植民地としての地歩を築くとなれば、自分たちの取り分が圧迫される、という大きな危惧に陥るのも致し方ない流れである。

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