問われる国際信義

思い上がりと差別意識

それともう一つ日本の信用を失墜させる決定的な事件が起きた。
それは、小村寿太郎がポーツマス条約を締結して帰る直前に、アメリカの鉄道王ハリマンとの満鉄共同経営の案を、日本側の勝手な思惑で反故にしたことである。
日本が日露戦争で勝利を収め、満州経営に乗り出すであろうという予測のもとで、アメリカのハリマンは、日米共同でその満鉄(東清鉄道)の経営をしようという案を提出し、日本の井上馨、伊藤博文という元老、そして桂太郎総理という連中は、その案に関心を示し、その気になっていたにもかかわらず、アメリカから帰国した小村寿太郎が、この案をひっくり返してしまったわけである。
その事は、小村寿太郎にしてみれば、アメリカの中国に対する門戸開放の一環の流れと捉えたのかもしれないが、日本の資金不足に悩む当局者としての立場に立ってみると、ハリマンの提出した案には非常な魅力があったに違いない。
しかし、その事は、その両方にそれなりの整合性があったわけで、資金不足に悩んでハリマンの案に乗りたかったのも、それをアメリカの門戸開放の一環と見る見方も、正しいことではあったが、如何せん、それ反故にしたということは、信用の失墜をきたしたことは否めない。
アメリカという国も、基本的には帝国主義的経済発展というものを潜在意識としては持っていたわけで、その意味からして、アメリカのアジアへの進出というのは、イギリスと比べると、かなり遅れていたわけで、その分、中国大陸に対する潜在的な願望というものは大きかったわけである。
アメリカの現実というものを目の当たりにしてきたばかりの小村寿太郎が、ハリマンの提唱する満鉄の共同経営というものが、ただの資本主義的商業活動とは見えなかったとしても無理からぬことであったわけである。
アメリカが日本に対して不信感を募らせたのは、この事件がきっかけではないかと思う。
その点、イギリスというのは、外交ということには長けているわけで、不信感を承知で条約を結ぶという芸当もできるが、アメリカはそうは行かない。
そして我々の側も、ロシアとも手を結ぶわけで、国益というものをめぐって各国が虚虚実実の駆け引きを展開するわけである。
それというのも、アジア大陸で、中国という巨大空間が、原始社会のように群雄割拠の状態を呈して、無法地帯と化していたが為に、誰でもが、先に入り込んで、先に利権を確保したい、という欲望を駆り立てられたわけである。
中国が共産主義という思想で、人々をがんじがらめに束縛しているとはいえ、一つの統一国家として、厳然と存在していれば、20世紀前半のアジアの混迷というのはありえなかったわけである。
日本というものが、日清・日露の戦いに勝ち、朝鮮と台湾を支配下において、慢心してしまったことは否めない。
この日本の慢心というのは、政府のみの責任ではなく、日本の国民の全部が、民族として慢心してしまったわけで、中華民国の袁世凱大統領に屈辱的な条約をさせておいて、良心に咎めなかったという事は、如何に我々の心が地に落ちていたかということである。
それに気づくのは、第2次世界大戦が終わったときで、そのときは既に我々は国家存亡の危機に立たされていたわけである。
こういう風に日本を導いたのは、やはり明治維新を成した世代から次の世代に移って、新しい世代が日本をリードしようとした点にあると思う。
苦労して産を成した世代というのは、苦労した分、人の痛みも理解できるわけであるが、そういう苦労をしてこなかった次の世代というのは、人の痛みというものが全く分からないわけで、自分の思い込みのみで判断するものだから、相手の心象を斟酌する術を知らないわけである。
明治初期の日本人は、自分の経験から、中国人や朝鮮人を蔑視していたが、次の世代というのは、最初から自分達と比較検討するまでもなく、既成事実として差別意識をもっていたわけである。
そして、先の世代が築いた事実を当然のことと思い至ったわけで、そこに大きな落とし穴が潜んでいたわけである。
青島攻撃に際して交戦区域を逸脱して軍を進めたり、21か条要求を押し付けるということは、ある意味でモラル・ハザードなわけで、そういうことをしておいて、良心の呵責を感じないということは、明らかに思い上り以外のなにものでもなかったわけで、これが日本の民族全体の空気となっていたわけである。
中国の実態を知れば知るほど、そういう傾向が強くなったわけで、中国に対してはそうであっても、世界は日本の行動というものを注視していたわけである。
その後の日本の歴史というのは、そのしっぺ返しを受けたわけである。
我々がアジアでこういう思い上がった思考に陥っていたとき、太平洋の向こう側では、日本人を排斥する運動が盛り上がっていたわけで、それはアメリカの日本人排斥運動して漁火の如く広がっていたわけである。
ここでも面白い現象は、アメリカで排斥されたのは日本人ばかりではなく、中国人も同じように排斥されたにもかかわらず、中国にとっては外国に流れていった人たちを救ったり、支援したり、援助するという発想が全くないものだから、祖国から捨てられたようなものであった。
ところが日本はあくまでも同胞として支援しよう、という気があるものだから、この問題は、日米間の懸案事項となったわけである。
アメリカが日本人を排斥するというのは、日本がアジアにおいてあらゆる戦争に勝利を収めたことが、「日本人は好戦的な民族だ!」という風に受け取られたからに違いない。
そして朝鮮を支配下に収め、今満州に出ようとしている、その勢いに驚いて、その勢いでアメリカ大陸に来られたらたまらない、という危惧で、日本人の移民が、かの地で社会問題化したわけである。
移民というのは、社会の下層部分の人たちが主体となっているわけであるが、日本の国内で下層でない人々の間では官僚化が進行していたわけである。
軍隊という組織も完全に官僚システムなわけで、そういうシステムでなければ、軍隊たりえないわけである。
ところが中国の軍隊というのは、無頼漢の集合であったわけで、中国各地に散在している軍閥というものは、その全てが、この無頼漢の集合団体としての軍隊を、私兵として各自に維持していたわけである。
解りやすく言えば、暴力団であったわけで、暴力団の組長が張作霖であり、袁世凱であり、段祺瑞であったわけである。
これを統一しようとしたのが孫文であり、蒋介石であったわけであるが、その統一は第2次世界大戦後までありえなかったわけである。
日本は第1次世界大戦に参戦して、ドイツを下して新たな領域を確保したかに見えたが、これは紆余曲折の末、必ずしもそうとはならなかったが、そのことによって満州の権益を確たるものにした事は確かである。
この第1次世界大戦の最中に、ロシアでは革命が起き、ロマノフ王朝は倒れ、ボリシビキーが政権を握り、反革命勢力を制圧しだしたわけである。
このボリシビキーの勢力の拡大を阻止しようとして、アメリカをはじめ西洋列強というのはシベリアに出兵した。
日本もイギリスやアメリカから請われて出兵したわけでるが、ここでも一途に働きすぎたわけである。
当然、我々の側には、あわよくば領土の1坪足りとも得られるのではないか、という野心が有ったことは否めないと思う。
この西洋列強がはるばるシベリアまできて出兵するというのは、チエコスロバキアの軍隊を救出する、という口実であったが、実際のところ何の意義もないわけで、出兵はしたもののすぐに撤兵してしまったわけである。
ところが、日本は下心があったものだから、撤兵するのにぐずぐずしていたため、逆に国際世論という世間から疎まれてしまったわけである。
やはり、国際社会においても、世間の目というものは誤魔化せないわけで、アジアの異端児としての日本も、その下心というものを見透かされてしまっていたわけである。
この下心を見透かされていた、ということは非常に大事なポイントであったわけである。
20世紀初頭のアジアにおいて、中国大陸というのは、散々西洋先進国に食い散らかされたとは言うものの、この1世紀の間というのは、結果的に西洋先進国というのは中国に同情していたわけである。
日本に対しては敵愾心を秘めて、面従腹背であったが、中国に対してそれが逆になっていたわけである。
逆の意味からすれば、それは日本からは取るものはなにもないが、中国からはまだまだ取れるところがある、ということであったのかもしれない。
しかし、20世紀という百年間に、中国に同情を寄せ、中国を支援し、中国に軍事援助をした国は、全部裏切られてしまったわけで、その意味からすると、日本も中国には相当は借款をしているが、それも全部淡い夢と消え去ってしまったわけである。
そして、それは21世紀に至ってもなお続いているわけで、日本からODAを受けながら、その金で先方は兵器を作っているわけである。
中国の中華思想によれば、中国こそ世界で一番えらい民族であるから、借りたものは返さなくてもいい、人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの、という理屈であろうが、地球上の先進国家が一番恐れていることは、中国から人が洪水のように押し寄せられることである。
そうならないように、返って来る当てのない金をつぎ込んでいるわけである。

海外雄飛の真の理由

この時代の日本人の海外移住熱というのは実に恐ろしい勢いを持っていたようだ。
アメリカには行くし、満州には出て行くし、当然朝鮮にも出て行ったわけで、人々がこれだけ海外に出向くということは、その当時の日本が如何に貧しかったか、ということであろうと思う。
明治維新で、日本の全国津々浦々に学校が出来たとはいうものの、その恩恵に浴せたのは、やはり限られた恵まれた人々ではなかったかと思う。
学校にも行けない人々が大勢いたわけで、そういう人々は、新天地を求めて、海外雄飛という甘い言葉につられて、海を渡ったのではないかと思う。
海を渡ったのは何も農民ばかりではなく、あらゆる職業の人々が、海外に職を求めて渡ったものと思う。
海外に日本人が行けば、それに付随して、その子弟のための教育機関も必要になるわけで、学校を作れば、それに要する教員も必要になってくるわけである。
そういう形でどんどん日本人が海外に出たものと思う。
出れば出たで、先方で又新たな問題が出てくるわけで、それが国際化したものが、アメリカにおける日本人排斥運動ではなかったかと思う。
日本人がアメリカで嫌われた理由というのは、低賃金でよく働くから、アメリカの労働市場をかく乱する、という理由であったらしいが、これは民族に違いを考慮に入れて考えた場合、極めて人間的な彼らの欲求であったに違いない。
日本人も、彼らのようにサボりながら、だらだらと仕事をしていれば嫌われなかったか、と云う反問になるが、恐らく彼らと同じ事をしたとしても、又別な理由で嫌われたに違いない。
というのは、かれら白色人種には、潜在的に差別意識があるわけで、自分たちと肌の色の違う人間を、潜在的に嫌悪する何かがあるわけである。
それは案外宗教かもしれない。キリスト教が差別を助長しているのかもしれない。そして日本は、アメリカのこういう人種差別には正面から堂々と抗議をしているわけで、第1次世界大戦が終わって、パリで講和会議が行われた際、堂々と人種差別の撤廃を議題にしているわけである。
このパリの講和会議では、中国は山東問題を提起して、日本が約束を破って不当に中国の領域を侵害している、という事を糾弾しようとしたが、中国の実体は西洋列強には知れ渡ってしまっているので、さっぱり相手にしてもらえなかったわけである。
朝鮮にしろ、中国にしろ、こういう国際会議の場で、自分の愚痴を言うものだから、西洋列強としては頭から問題にしないわけである。
それに反し、日本の人種差別の問題というのは、アメリカにとっては非常に痛いところを突いたわけであるが、痛いからこそ避けては通れないわけである。
避けて通れないから容認しかといえば、容認するよりも、問題を逸らせて、答えを回避したわけである。
がしかし、そのことのよって、日本は侮れないということを実感したわけである。そのことによって、日本は存在感を世界に知らしめたわけであるが、これはこれで日本がその後苦難の道を歩む嚆矢でもあったわけである。
日本が朝鮮や満州、はたまたアメリカにまで移民を奨励したというのは、当時の日本があまりにも貧しかったわけで、あちらに行けば努力次第でばら色の人生が待っている、というような宣伝というか、政府の勧奨によって、それを信じ、そういう開拓団に応募したに違いない。
特に農民というのは、他に特別な技術をもっているわけではないから、開拓民としか海外雄飛の道がなかったわけで、その開拓のつもりでアメリカに行ったところ、アメリカは日本人の土地取得を禁じてしまったので、やむを得ず肉体労働にしか生きる道がなかったわけである。
満州に行った人は、確かに広大な農地を見ることは出来たが、あまりに広大すぎて、人力では不可能ということになり、ここでも大きなジレンマにさらされたわけである。
この時代に多くの日本人が海外にあこがれた背景には、やはり我々の持っていた民族的な因習からの脱却という要素もあったのではないかと思う。
長い封建制度のもとで、日本の農村というのは、封建思想としての儒教やら仏教やらに縛られており、我々が民族として持つ古い因習から逃れたい、という願望も多分にあったのではないかと思う。
例えば、この当時の農村の生活というのは、日本の農業の持つ共同作業としての運命共同体としての隣人との付き合い方などにも見られるように、個の確立ということが全否定されていたわけである。
個の意思というものは全く無視され、全てが共同体としての生活に埋没されてしまっているわけで、その中では個人のわがままというものは全く許されず、全体への奉仕しかなかったわけである。
人々の意識改革が進むと、こういう生活からの脱却という事が、人々の夢となり、願望となってきたに違いない。
運命共同体の生き様として、その典型的な例が部落差別であり、長子相続として農家の2,3男の問題等々であったわけである。

感情ではなく理性で判断

これらの問題に見られるように、それまでは旧弊にがんじがらめに縛られていたわけで、それからの脱出として、海外雄飛ということが彼らの潜在意識をくすぐったのではないかと思う。
その一方で、学校に行けた運の良い人々というのは、学校で立身出世の糸口をつかむと、故郷には帰らないわけで、これもいわゆる口減らしの一環であったわけで、日本の農村というのは、下からの口減らしと、上からの口減らしの両方で、均衡を保っていたわけである。
1945年、日本が壊滅したとき、この下からの海外雄飛した人々は棄民とされてしまったわけで、上からの立場で海外に出た人々というのは、まず第一に自分の身の安全を確保しておいて、それから同胞の救出に奔走したわけである。
棄民された人々が救われたわけではない。
21世紀の今日において、今の日本の知識人というのは、従軍慰安婦のことには姦しく議論を展開しているが、1945年、終戦のときに日本の同胞を放り出して先に逃げ出した同胞、当時の関東軍の軍人兵士達に関しては不問のままであるが、これはおかしいと思う。
まさしく歴史というものを知らないのではないかと思う。
同胞が同胞にした、仕打ちと言う事を、全く考えていないのではないかと思う。
そして国家が自分の国の国民に成した行為、不作為の行為に対して、金で解決しようとしているが、これはおかしいと思う。
話が少々それるが、自然災害等でも国家の責任ということが問われ、国家の責任として被害者には金が支払われるが、こんなことはおかしいのではないかと思う。
そこには自己防衛という概念が全くないわけで、なんでもかんでも悪いのは国家であり、どんな被害も国家から金が出るということになれば、人間としての生きるための知恵、自己保存の知恵、自己防衛のノウハウというものを全否定する事になるわけである。
水害に何度でも遭うところに懲りずに何時までも住みつづけても、水害に会えば国家が補償してくれるということであれば、自ら水害の対策を講じようという発想は生まれないわけである。
水害のあるところは土地が低い、土地が低いから地価が安い、地価が安いから金のない人しか住めない、金のないあさましい人達だから、国家から金を引き出す、という悪循環ではないかと思う。
自然災害で被害にあった人は可愛そうだ、だから助けてあげなければならない、というのは人間の極自然な感情であるが、その感情で、国家の金が支出されては、人間の理性のほうが押し流されてしまうことになる。
1945年、昭和20年8月の大日本帝国崩壊のとき、満蒙開拓団を始めとする邦人の民間人を放り出して逃げた関東軍の将校と兵士達の責任は、誰がどういう風に追及すればいいのか、再考する必要があるのではなかろうか。
慰安婦というパンパン、乃至は売春婦の云うことに耳を貸すよりも、こちらの方がよほど深刻、且根の深い、人間の洞察を突き詰めることになるのではなかろうか。
満蒙開拓団も、政府の宣伝に乗って、それを信じたほうが悪い、というのではあまりにも可愛そうであり、これは自然災害ではなくまさしく人災である。
そして関東軍という、大日本帝国の軍人達が、民間人を放り出して、自分たちが先に逃げ出した、ということを我々は同胞としてどういう風に受けとめたらいいのであろう。
関東軍というものが、終戦間際には実質空洞化しており、皆南方の戦線に移動してしまった、ということは理解できるが、一人もいなかたっという事は信じられないし、残留部隊というものは現実にいたわけである。
この時の日本の軍隊というものには、同胞を守るという使命が全く無かったということは言えていると思う。
それは沖縄戦にも露呈しているわけで、ここでも軍人は市民を守る意識は毛頭見られないわけで、これが大日本帝国軍人の真の姿だったわけである。
そのことは、当時の我が同胞というのは、近代の戦争というものの意味を全く理解していなかったという事に他ならない。
この戦争の意味とか意議というものを全く理解しようとしない態度というのは、この21世紀に至っても全く変わることがない。
戦争というものが、関が原の合戦の延長ぐらいにしか思っていないわけで、そういう定義を欠いたまま、戦略や戦術のみを論じているので、同胞を放り出して逃げるような軍隊に仕上がってしまったわけである。
これは基本的には、明治憲法の欠陥であったわけである。
明治憲法にはシビリアン・コントロールという概念が全く入っていないわけで、これは歴史というものが、時の流れとともに変化する、という必然性を持つものである以上避けがたいことである。
人間の英知でもってしても、なんとも仕様のないことである。
しかし、戦後においても、この21世紀に至っても、我々、日本人というのは、戦争という意義を考えようとせず、その定義も概念も深く考察する事なく、戦争という言葉に畏怖の念を抱き、その言葉さえ避けるようにし、平和という念仏さえ唱えていれば、平和が来ると思い込んでいると、再び同じ轍を踏むに違いない。

理想と現実の乖離

我々は歴史を学ぶとき、その時々に、歴史の変節点においてキー・マンというものが存在することに気付くべきである。
1915年、大正5年、対華21か条要求を起草した外務省の小池張造政務局長というのは、この当時の日本外交の信頼性を著しく損なったキー・マンであったわけである。
こういう歴史上の大きな変節点には、必ずキー・マンというものが存在する。
その後、満州事変を引き起こす原因となる張作霖爆殺を企画した河本大佐、真珠湾攻撃の際、宣戦布告の文書を遅延させた駐米日本大使等々、歴史の変節点には必ず事件のポイントとなる人物が介在しているわけであるが、我々はこういう人物に対して、非常に扱いが寛大である。
2・26事件でも実行当事者は厳罰に処された風に見えるが、その後ろ盾の黒幕に関しては藪の中で、のうのうと生きていたわけで、そういう場面で非常に扱いが寛大なところが、我々の民族的欠陥ではないかと思う。
この対華21か条要求というのも、ある意味で、日本の優越さを相手に対して誇示している部分があるわけで、それが為、日本の政府当局も、その後の影響というものを深く考えていなかった部分がある。
国際関係というのは、お互いの国の国益を最大限に維持、維持するだけではなく、より膨らませる方向に向くわけで、その為には、あらゆる手練手管が使われるのであり、故意にリークするというのもその一つの手法なわけである。
この場合も、中国側がこの手を使って、日本の信用を貶めたわけであるが、これも日本の要求というものがあまりにも国際信義を踏みにじったものである以上致し方ない面がある。
そして、これを起草した人もさることながら、それを容認した人も同罪でなければならない。
ところが、この時の我々の側の対応というのは、全国民こぞってこの要求を指示したわけで、このことは国民的規模でモラル・ハザードに陥っていたわけである。
このモラル・ハザード、つまりモラルの破戒、国際的な信義の消滅ということが、この礼節を誇る大和民族の上に暗雲のように漂っていたわけである。
日本が日清戦争に勝てるかどうか不安なとき、日露戦争に勝利し得るかどうか不安なとき、台湾の統治がうまくいくかどうか不安なときは、我々は周囲の諸国家の思惑を慎重に捉え、そして誤解のないように充分に根回しをして、国際信義を充分に遵守することに気を使っていた。
ところがそういうものがすべて順調に進んでしまうと、そういう慎重な態度というものが、取り越し苦労であったという風になってしまったわけで、我々は充分に力を備えた1等国である、といううぬぼれに変わってまったわけである。
そのうぬぼれの端的な例が、先の対華21か条要求というものとして現れたわけで、もしこのとき我々の側に良識というものがあれば、これは行き過ぎだから少し控えなければならない、という反省が出てこなければならない。
それと同時に、人がうぬぼれるということは、同時に自分自身の実力をよく知っていない、ということでもあったとわけである。
自分の実力を知り、相手の実力を知っていれば、うぬぼれということにはならないわけで、冷静な理性で物事を判断できるということになる。
理性を見失うということは、感情に流されるということでもあるわけで、明治維新以降のここまでの日本の歩みと言うものが、右肩上がりの高度経済成長のような雰囲気であったものだから、人々はモラルというものを見失ってしまったわけである。
日本がモラルを失うと同時に、他の国からは、日本に対する締め付けが増してくるわけで、アメリカ本土から日本人を追い出したいと思っていたアメリカは、日英同盟というもの崩壊を画策するようになってきたわけである。
日本が第1次世界大戦でヨーロッパの期待に応えて十分な働きをしたということは、戦争が終わってみると、逆に彼らの恐怖に変わってしまったわけである。
イギリスに請われて地中海にまで派遣した艦隊が、ドイツの攻撃受けて全滅するとか、シベリア出兵した部隊が全滅するとかすれば、世界の人々は安心したかもしれないが、日本は期待以上の成績をあげてしまったわけで、その事が逆に彼らの心に恐怖心と警戒心を植え付けてしまったわけである。
そしてパリ講和会議では、1等国として発言し、山東問題の決着を試みようとしたが、この第1次世界大戦の反省会の感のする国際会議では、アメリカのウイルソンは理想主義者なるが故に、日本の意見を無視することが出来ず、中国の主張を退けてしまったわけである。
そして彼の提唱する国際連盟というものは、その理想と理念は高尚なものであったにもかかわらず、現実の世界というのは矛盾を内包していたわけで、その矛盾の一つが人種差別問題であったわけである。
ところが日本は、この問題を現実に即して、正面から取り上げたものだから、高い理想と理念を掲げるアメリカは、より以上に日本というものに対抗心を内在させてしまったわけである。
よってアメリカというのは、理想と理念があまりにも高尚なるがゆえに、このベルサイユ条約の批准を議会が承認することなく、提唱しておきながら調印できないという、ねじれ現象が起きてしまったわけである。
第1次世界大戦のときの日本の対応というのは、その現実の対応と、その理想主義との高潔さゆえに、世界の国々にとって非常な脅威と感じたことは事実であろうと思う。 アメリカという国は、もう既にこのころから日本を将来の仮想敵国として意識しだしたのではないかと思う。
そしてそれと同時に、ドイツも将来は日本と組めばアジアの安定すると思ったに違いないし、ソビエットは何が何でも日本を敵に回してはならない、と思ったに違いない。
アメリカが日本を将来の仮想敵国として認識しだした、というのはやはり日本の信義を欠いた行動であったと思う。
アメリカ側から見て、一番腹に据えかねたことは、満鉄の共同経営を反故にしたことと、人種差別政策に干渉しだしたことではなかったかと思う。
アメリカの民主主義というものは下からのボトム・アップで成り立っているわけで、人種差別というのも、アメリカ国民の願望の具現化であったわけである。
アメリカの市民がそれを望んでいたわけである。
自ら提唱した国際連盟に入れなかったというのも、大統領の願望とアメリカ国民の願望とが一致していなかったわけで、我々の国とは政治システムというよりも、政治の概念そのものが異なっていたわけである。
その意味からすれば、民主化の度合いがはるかに進んでいたわけである。
ボトム・アップの政治システムと、アップ・ダウンの政治システムの違いであったわけで、我々の場合は極めつけのアップ・ダウンのシステムであったが故に、上から流れてくるべき指揮命令が、途中でわき道のほうに流れてしまったことが、20世紀の日本の苦難の道に迷い込んだ最大の要因である。
明治維新を経、日清日露の戦いを経、台湾、朝鮮を支配下に入れ、殖産興業が次々と軌道に乗ってくるということは、生まれたばかりの近代国家というものが、段々と骨格が固まり、強固な国体になりつつあったわけで、その事は同時に、行政というものが段々と官僚化していく過程でもあったわけである。
官僚化する中でも一番の問題点というのが、軍隊の官僚化であったわけで、大日本帝国の陸軍と海軍という組織が、最も強固に官僚化してしまった事が、その後の日本の命取りになってしまった。
そうなる要因として、明治憲法の不備というものも、大きく関わりあっていたように思う。
そして、物事が順調に進んでいるときは見落としがちであるが、官僚主義というものが定着してしまうと、チェック・アンド・バランスという機能が失われてしまい、その時々における小さな過誤の修正という事を怠ってしまうわけである。
小さな過誤があっても、大事には至らないであろう、という発想がシステム内を覆ってしまうわけで、自分がここで修正しておかなくても、誰かそれをするに違いない、というある種の無責任さが蔓延してしまうわけである。
今の言葉で言えば、縦割り行政ということになってしまうが、横の連携よりも、上下の関係が大事になってしまうわけである。
組織が硬直化してしまい、組織内の常識と世間一般の常識が乖離してしまい、それが表面の出てくると、なんとも非常識で、鼻持ちならない事柄となってしまうわけである。
それが大衆という無責任な雰囲気と融合してしまうと、国際的に非常に不都合なアイデアとなって露呈する、という事態に至るわけである。
対華21か条要求とか、国際連盟における人種差別撤廃という要求というのも、そういう背景から出てきたものと思われる。
これらのことは、相手の立場というものを全く考えないから、こういう発想が出てくるわけで、相手の立場というものを少しでも斟酌すればありえないことである。
今日の価値観からすれば、人種差別の撤廃など、人類の理想を先取りした発想で、まことに崇高尚且つ高尚なアイデアということになるが、あの時代の状況下においては、時期尚早であったわけで、そのことは我々の側の完全なる思い込みであったわけである。
対華21か条の要求についても、こんなものを出せば相手はどういう反応を示すか、という考察が全くないわけで、相手を力で抑えきれる、という思い上がり以外の何者でもなかったわけである。
国際関係の中にも信義がある、ということを完全に忘却した、思い上がった態度であったが、これをその当時の日本は、国民的に容認してしまったわけである。

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