問われる国際信義

日本とアジア10 平成13年6月7日

新しい世代の連帯

日本は日露戦争に勝利して、朝鮮半島の支配権と同時に遼東半島の租借権を得て、ここからいよいよ満州経営に乗り出すことになったわけであるが、この遼東半島というのは先の日清戦争によって、一度は手中に収めたものを、3国干渉で再び手放したと云ういきさつから見ても特別な思い入れがあったに違いない。
自分は血を流すことなく、口先で日本に干渉して、労せずして手に入れたロシアは、この遼東半島を要塞化してしまったわけで、日露戦争では、それを取り戻すだけでも相当な血が流されたわけである。
日本から見れば、その思い入れが相当に強かったとしても不思議ではない。
この大連、旅順を含む遼東半島全域を関東州といっていたようだ。
日本は、日露戦争後のポーツマス条約によって、その租借権と長春・旅順間の鉄道の移譲ということで、この地にその地歩を固めたわけである。
この長春と旅順の間というのは760kmに及び、これはおおよそ東京から倉敷ほどの距離であった。
しかし、この時代の国際関係というものは実に不思議で、この満州を実質支配していたのはロシアであったにもかかわらず、この権利を日本が行使するには、清の了解を取り付けねばならず、「満州に関する日清条約」俗に北京条約を締結して、初めて日露戦争の効果が出たというわけである。
この事は、この当時の日本が非常に律儀に国際信義に応じていたということである。
ロシアと戦ったとは云うものの、ロシアは自国の領内で戦ったわけではなく、清という外国に勝手に入ってきて、そこで戦争をおっぱじめたわけで、ロシアにしてみれば、自分の領土を一歩足りとも損なったわけではない。
遼東半島を日本が取ったとはいえ、もともと清の領土だったわけで、ロシアにとっては痛くも痒くもなかったわけである。
日本が朝鮮を保護国化するといったところで、ロシアにとってみれば、自国の権威が少し減るだけのことで、主権が侵されたわけでもない。
日露戦争でロシアが敗北したといったところで、ロシアは領土的には何一つ失うものはなかったわけである。
日本とロシアが戦ったことで一番損をしたのは、結局のところ清であったわけである。
朝鮮というのは、損をするもしないも、最初から存在意義を国際的に認められていなかったわけで、日本が保護国化しないことには、民族の存続すら出来なかったわけである。
日本が日露戦争で得た権益というものが、清の承諾無しには生ないということは、この時点で、まだまだ清の存在感というのは大きかったわけである。
「腐っても鯛」という諺のとおりであったわけである。
そして日本は、まだこの時点では、清に仁義を切っていたわけである。
それが北京条約というものであったが、清の了解を得て、段々、満州の経営に本腰を入れる段階になると、日本の側にも慢心が出てきて、国際信義を省みない風潮が蔓延してきたわけである。
日露戦争が終わって、ポーツマス条約が結ばれた年が1905年、明治38年ということからすると、明治元年に生まれた人でも38歳になっていたわけである。
ということは、明治維新に奔走した世代が段々と交代して、新しい世代が社会の中枢に出だした時期ではないかと想像する。
1909年、明治42年、伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺された時、彼は69歳であった。
ということは、政府にしろ、軍隊の内部にしろ、実質的な仕事をおし進めている世代というのは、明治時代にとって第2の世代ではなかったかと思う。
ポーツマス条約に反対して、日比谷で焼き討ち事件を引き起こした世代も、やはり明治時代の第2世代ではなかったかと想像する。
そして、このころから日本は段々とコントロールの効かない、常識的な思考を失った方向に走り出すことになるわけである。
日本の近現代に関する書物というのは、掃いて捨てるほど存在しているので、いまさら私が不確かな記述を述べるより、正確な史実を知りたい人は、そういうものを読んでもらえばいいが、私は私なりの独断と偏見に満ちた見解を記述してみたい。
この明治時代というのも、明治末期に近づくにつれて、だんだんと世代交代するのは致し方ない世の流れである。
ところが、その世代というものが、どういう世代だったのか、という考察は案外見落とされているような気がしてならない。
例えば、ポーツマス条約に不満を露にして、日比谷公園を焼いてしまう世代というのは、やはり明治初期の世代とは異質ではなかったかと思う。
世代というものを考える時、日本人をマスとして、団塊として、一つの塊として捉えなければならないと思う。
日比谷公園焼き討ち事件などというものは、個人の行為ではなく、集を頼んだ団体行動であったわけで、それを行ったのは、はっきりとした確証を持っているわけではないが、若い世代ではなかったかと思う。
50代60代の成熟した世代ではなく、若い世代が集を頼んでマスとして、そういう行為に走った、と推測するが、このことは明らかに意識下には若い世代の連帯というものがあったように思う。
その若い世代の連帯というものが表面化することによって、世の中というものが段々と意識改革をなしていくのではないかと思う。
それは明治維新という、大変革の時でも同じで、やはり若い世代が率先して意識改革をしたわけで、それと同じ事が明治後半の時期にも起きたわけである。
ところが、この意識改革というのは、明らかにアジア人蔑視の方向を向いていたわけである。
と、同時に、帝国主義的植民地支配のグルーバル化した世界の常識、世界の潮流に乗り遅れるな、ということでもあったわけである。
それに反し、時の政府の内面では、このアジア蔑視の方向が、すこしニュアンスの違った方向を向いており、大衆の側はその違いを認識することが出来なかったわけである。
ポーツマス条約に反対して、日比谷公園を焼き討ちした人々の望んでいたことは、当然、領土の拡大と賠償金の搾取であったわけで、これが無かったものだから、こういう行為に走ったわけである。
ところが政府部内では、「もうこれ以上の戦争遂行は不可能だ」と思っていたからこそ、不利な条件でも条約を締結しなければならなかったわけである。
今日的な言い方をすれば、この当時は大衆のほうが戦闘的で、政府のほうが妥協的であったわけである。

学校秀才の台頭

戦後の我々は、何時も何時も数の多いほうが正しいという認識に立ちがちであるが、事実というのは、数の多いほうが必ずしも正しいことを証明しているわけではない。
それは統治する側とされる側では、統治の裏側の事情を知らない、知らされていない、という面から判断が間違う事が多々あるわけである。
明治時代も後半になってくると、こういう間違った思い込みに嵌った世代が現出するようになってきたわけで、それがその後の日本の発展に大きく影響したように思われてはならない。
江戸時代に体制を維持していたのはいうまでもなく武士階級であったが、明治以降というのは、四民平等というわけで、この階級というものが否定され、いい意味では能力のあるものが、その能力というものを十分に発揮できる環境が与えられたわけである。
ところが人間の能力というのは、見た目や外見からは分かるわけではなく、一応の目安として、学校の成績というもので推測するほかなかったわけである。
学校の成績がよければ、これは優秀な人物に違いない、という判断しか人間の能力を測る手段というものがないわけである。
それで明治になり、日本各地に初等教育をする学校が増え、学校が増えれば、その一つ一つに学校一番の秀才というものが生まれたわけである。
そしてそれは武士階級だけに限られた世界ではなく、日本全国から、商人の子や、農民の子や、職人の子の中からも現出してきたわけである。
いわゆる学校の中では、従来の身分制度というものが完全に平等化してしまったわけで、そこではノーブレス・オブリッジというものが存在しなくなったわけである。
江戸時代の武士というのは、経済的には豊かでなかったにしても、人々を統治する存在だ、という気概というか、ノーブレス・オブリッジというものは堅持していたわけであるが、明治維新以降に出来た学校という中では、そういうものの存在しない平等社会になっていたわけである。
学校という社会は、成績だけが価値観を独占しているわけで、その成績というのは、記憶力に依存する部分が非常に多いわけである。
成績のいい人間というのは、多分に記憶力の良い者とダブっているわけである。
明治時代もこの辺りにくると、そういう世代が社会の中枢に進出しだしたのではないかと思う。
体制側には入れきれなかったそういう世代が、日比谷公園の焼き討ちに走り、体制側に入り込めた世代は、朝鮮の支配や、満州の殖産事業に入り込んでいったのではないかと想像する。
豊臣秀吉の藤吉郎ではないが、農民の子が学校に行くと、運がよければ校内で一番になる機会が得られる。
親も先生も近所の人も、その子を嘱望し、更に上の学校に行かせる。
そうして世間に出てみると、周囲はまだまだ貧乏で、その子は責任感と周囲から受けた恩恵に応えようと考えたとき、「社会全体を豊かにしなければならない」と考えるわけである。
その時、どういう手法があるのかと、自問自答してみると、「すぐ隣には朝鮮があるではないか」、「その向こうには満州があるではないか」という発想になったものと思う。
そういう学校秀才から、朝鮮の人々や、中国の人々を見ると、これは明らかに蔑視に繋がると思う。
話は飛躍するが、昭和のクーデターで有名な2・26事件を引き起こした青年将校の述懐の中には、徴兵で集められた下級兵士の家のことを心配しているものがあるが、あれにも学校秀才の純情可憐さが見事に露呈している。
純情可憐というのは感情表現なわけで、物事を感情で見ると、こういうことになるものと思う。
国際間の国益を競い合う修羅場では、感情で物事を判断するということは最悪の選択だと思う。
やはり、冷静に研ぎ澄まされた理性というもので処さないことには、不利益をこうむってしまう。
理性でものを見るということは、孫子の兵法の基本中の基本で、「相手を知り、己を知る」ということだと思う。,br> そういう意味で、まだまだこの時代の日本の為政者と言うのは、国際信義を重んずる理性を有していた。
ところが段々と学校秀才の数が多くなると、その理性的な判断というものが少なくなって、ただその場の感情で事を処すケースが多くなった。
頭脳明晰、学術優秀な学校秀才が、感情に流されて理性を失い、理知的な判断力を失うということは、それだけ人間として未熟なわけであるが、自分が優秀なことを自分自身で知っているがゆえに、自分の未熟さに気が付かないわけである。
それが思い上がりにつながっているものと思う。

当時の満州の状況

日本がロシアと戦争をして、その戦利品を得るのに、清の了解を得なければならかったというところまでは、日本も国際信義を重んじていたわけである。
ところが、この北京条約というのは、清にとっては非常な屈辱であったに違いない。
何となれば、満州の土地というのは、もともと清の発祥の地であったわけで、漢民族からすれば「化外の地」であったかもしれないが、女真族、満州族にしてみれば、父祖の土地であり、清という国にしてみれば、国の発想の地であったわけである。
それを日本が管理するということになれば、内心面白いはずがない。
しかし、日本が管理する前に、既にロシアが鉄道を敷いてしまっていたわけで、その鉄道を日本が譲渡するに際して、日本はその鉄道を守るための、という口実でそこに軍隊を置く権利を得たわけである。
いわゆる鉄道守備隊の配置であったが、鉄道守備隊を置かねばならない状況というのは、国家主権が何ら機能しない無法地帯であったということに他ならない。
アメリカ映画の「明日に向かって撃て」と同じ状況を呈していたわけで、そこには山賊、夜盗、馬賊、反乱兵士とうとうが無秩序に存在する無法地帯であったということである。
今の時点で我々は満州を支配したと云う時、その地が如何にも近代化した都市空間で、行政も警察権も正常に機能しており、東京や名古屋と同じように、治安の優れた都市という印象を前提として話をしているが、実際は無法地帯で、西部劇に出てくる列車強盗が出没しても不思議ではないような「無主の地」で、大自然のままの人間の存在であったわけである。
日本の東海道線と山陽本線で、東京と倉敷の間に、鉄道を守るための鉄道守備隊を設置するという状況が考えられるであろうか。
そういう「無主の地」であるからこそ、国際条約でも鉄道守備隊の存在というものが大まじめで論じられたわけである。
ところが、この鉄道守備隊というものが、その後の日本の鬼ッ子になってくるわけである。
北京条約では、鉄道の中心から62mの幅で付属地が含まれ、駅にも広大な付属地がついていたので、ここに日本は居留地を設定していったわけである。
鉄道守備隊はその治安維持もその守備範囲に入っていたわけである。
そして遼東半島というのは「租借された」と云ういきさつから、日本内地と同じ扱いを受けることになり、軍隊を駐留させるについても何ら制約を受けなかったわけである。
当初は、ここに1万4千の兵力を置いたわけである。
そして統治の手法として、関東総督府を置いた。
これは天皇直属の機関で、いわゆる軍政であったわけであるが、この軍政というのは、どうしても周辺地域の利害得失を露にしがちなため、民政に切り替えたのが関東都督府である。
これは民政と軍政を分離したものであるが、この辺りに明治憲法の齟齬が露呈しだしたわけである。
明治憲法というものが完璧ではなかった、ということはある面では致し方ないところがある。
出来た当初においては完璧であったとしても、時代が移り変われば、その時代にマッチしない部分が出て来ると云うことは、避けようがないことであるし、時代に合わせて憲法を小刻みに是正する、という知恵もなかったわけで、誰もが知らないうちに、その憲法の不備という齟齬の中に迷い込んでしまったわけである。
いくら作戦部門と民生部門を分けたところで、軍政が優先する限り、民政部門というのは日の目を見ないわけで、それは今日的な視野からすれば、全く意味をなしていなかったわけである。
そして、ロシアから移譲を受けた鉄道にしても、いくら半官半民の経営にしたところで、軍の意向が何にも増して優先するのであれば、半官半民の意味がないわけある。
しかるに、この鉄道というのは、ただ単にレールと車両を確保しただけではなく、先にも述べたように、駅周辺とか、レールの周囲には、付属地というものがあり、これの維持管理というのは、そのまま殖産興業につながっていたわけである。
というのも、この東清鉄道(日本側の満鉄)の移譲ということは、鉄道にかかわる付帯事業として、撫順・煙台の炭鉱の経営と、鴨緑江の森林伐採事業、遼東半島付近の漁業権なども含まれていたわけで、これらを移譲するということは、外交問題と、そしてその延長線上にある軍事問題とも直結していたわけで、とても字句通りに半官半民ではありえない存在であったわけである。
こういう国策会社というものは、国家が直接管理しなければならないわけであるが、それをすればあまりにも帝国主義的植民地支配というものが露骨になりすぎるので、半官半民というポーズを取ることによって、諸外国の目をくらませるのが目的ではなかったかと推測する。
この南満州鉄道株式会社が正式に発足したのは、1907年、明治40年4月1日であるが、この半官半民の鉄道会社は、鉄道と炭鉱の経営だけではなく、鉄道付属地内の土木、教育、衛生という面まで負わされていたわけで、それは一つのミニ国家を形成していたわけである。
ある意味では、独立採算制を強いられていたわけで、費用を賄うための徴税権まで移譲されていたわけである。
そして、ホテル経営から学校経営、病院経営まで、あらゆるものが南満州鉄道の名で施行されたわけである。
ところが南満州、いわゆる遼東半島の統治権を掌握している関東都督と、行政権を委譲された南満州鉄道、鉄道付属地内の外交・警察権をにぎる領事館との調整がうまい事いかずに、この3者の軋轢が絶えず内在化していたわけである。
それは無理もない話で、諸外国に良い顔をしようとして、満州の植民地経営を民間企業にさせているというポーズを取ろうとする限り、同じ同胞同志で利害の対立が深刻化するのも致し方ない。
このアイデアはイギリスの東インド会社を見本として出てきたものであるが、イギリスの場合は、被抑圧者の側の信条というものは全く無視して、只ただイギリスのみの国益を優先させればよかったが、我々はどうしてもそこまでドライには割り切れなかったわけである。
アジアの人々の心象を少しでも損なうことにないように、という配慮から、冷徹に徹し切れなかったわけである。
今までの歴史書のなかには、日本の満州開拓がアメリカ人の西部開拓と同じ軌跡を歩んでいた、という見解を述べたものはないが、これはアメリカの西部開拓と全く同じ奇跡を歩んでいたのではないかと思う。
満州という地にもともと居た人々を、アメリカ・インでイアンと置き換えて眺めてみると、西部劇と同じ光景が浮かび上がってくるような気がしてならない。
ただ違うところは、アメリカの西部を制覇した白人というのは、ネイテブな人々を居留地というところに押し込もうとしたが、我々はそういう人々を対等に扱おうとしたという違いがある。
只、こちらがいくら対等に扱おうとしても、相手がそれに応じなかった、という事は否めない事実として残っている、といわなければならない。
そして、こういう荒野に、社会的基盤を作るということは、非常にやりがいのあることでもあり、人々の気持ちを高揚させるものでもある。
既に出来上がった町をリニューアルするのと違って、思いのままの設計が出来、思い通りの仕上がりが期待できるわけで、それはまさしく夢の実現というものであった。
しかし、ハードの面ではそういうことが可能であったが、ソフトの面となると、色々な障碍があるわけで、それは取りも直さず、軍と行政機関としての満鉄というものと、警察権の領事館というものがうまく噛み合わないというものであった。
中でも軍の管理というか、軍の処遇というのが一番難問であったわけで、とにかくこの当時の憲法が、軍というものを天皇直属としている以上、軍の専横というのは誰にも止められなかったわけである。
その上、この時代の中国というのは、清王朝の末期的現象を呈していたわけで、1911年の辛亥革命というのは明治44年のことで、このとき中国では東三省の張作霖と、その南では直隷軍閥の袁世凱が覇権を争っていたわけである。
この事はどういうことかといえば、清という国には主権が既にないという事に他ならない。
その主権のない国と、いくら条約を結んだところで、実効あるものではないわけで、それはただの紙切れに過ぎない。
しかし、我々の側は、あくまでもその紙切れに依存することによって対面を保とうと思っていたが、実質的にはそれは何の効力も持ちえなかったというわけである。
大体、軍閥とは一体なんなのかと問えば、これはあくまでも私兵に過ぎないわけで、それは日本でいえば、戦国時代の織田信長や今川義元、武田信玄の群雄割拠の時代と同じであったわけである。
そこに持ってきて、ロシアまで入り込んでいたわけで、その事は完全にこの満州という土地が無法地帯で、頼りになるのは銃しかない、という状況であったのである。その軍閥ということで云えば、満州というのは張作霖のテリトリーであったわけで、彼は彼なりに北京を脅かして覇権を取ろうと画策していたわけである。
これは今で言うところの地方分権とは完全に異質なもので、中央政府の下の地方組織というものではなく、一種の張作霖帝国であり、袁世凱帝国であったわけである。
張作霖というものが、満州の基盤の上に帝国を築いていたとすれば、同じ満州族の統一国家としての清王朝に協力すればよさそうに思うが、そういう動きは全くないわけで、一言でいえば、この当時の中国はばらばらであったわけである。
だから辛亥革命で中華民国となったら、この中国各地に散在している軍閥を、一つ一つ潰していかなければならなかったわけである。
それが北伐というものであった。

日本の信用の失墜

ところが満州、中国東北部には、張作霖という強烈な軍閥がおり、その上ロシアがおり、日本が居たものだから、この地は混沌としていたわけである。
混沌としていたが土地は広かったわけで、農業の余地は残されていたわけである。だからこの地には、漢人をはじめ、朝鮮の人も、日本の人も、開拓に入り込んだわけである。
北京条約で、日本と清が取り交わした条件は、遼東半島の租借権は25年間、ということは1933年大正8年、満鉄の租借権は1903年から36年間となっていた。
つまり昭和14年までということで、これでは恒久的な設備投資をしても意味がない、ということになるわけである。
当然、「これではならぬ」という発想は、自然に出てくるわけで、それが日本側の国民的総意となってしまったわけである。
日本中の人が、皆一つの考え方に集中してしまう、ということは非常に恐ろしいことで、この時には、その恐ろしいことが起きたわけである。
その下地には、ポーツマス条約で、何一つ目に見える形で戦利品を得ることが出来なかった、ということが大きく尾を引いていたことはいうまでもない。
その事は同時に、日本の人々が、政府に楯突く事を覚えた、ということでもあったわけである。
自由民権運動がぼちぼちと功を奏してきて、反対政党をこき下ろしてもいいんだ、という風潮が蔓延したということである。
反対政党はいくらこき下ろしてもいいが、その上に君臨している軍というのは、何とも制御の仕様がないわけで、これが明治憲法の持つ最大の欠陥であったわけである。
その最大の欠陥が露呈してくるのは、もう少し先であるが、この時は不思議なことに、神風が吹いて、日本の窮地を救ってしまった。
その神風とは、ヨーロッパで始まった第1次世界大戦である。
このバルカン半島で口火を切った第1次世界大戦というものは、この当時の世界を戦火に巻き込んだ、未曾有の大戦であったが、日本はこれにイギリスとの同盟上、ドイツに対抗する側に立ったわけである。
そして、イギリスからの再三にわたる要請を受けて参戦した。
ところが例によって、イギリスもしたたかな外交戦略に長けた国であるので、最初は要請したにもかかわらず、その後それを取りやめたりして、紆余曲折の後、結果として日本が参戦することになった。
そして中国はといえば中立を宣言したわけであるが、日本はこの中国の沿岸に割拠しているドイツの軍港を最初の血祭りに上げたわけである。
渤海湾を挟んで、遼東半島の反対側にある山東半島の付け根、そこにある膠州湾の青島を攻略して、ここを占領してしまったわけである。
ドイツにしてみれば、本国から遠く離れた遠隔地なるがゆえに、充分な手当ても出来なかったので、致し方ない面があろうが、中国は日本がドイツに参戦してしまったので、この山東半島付近を交戦区域に指定し、戦争はこの中でやってもらいたい、ということを言っていた。
ということは、中国としては中立を宣言していたので、こういう成り行きにならざるを得なかったが、日本はここで明らかに国際信義を踏みにじる行為を行ってしまった。
というのは、中国が交戦区域と指定したよりも、もっともっと奥地まで軍を進めて、斎南と言う奥地まで入り込んでしまったわけである。
これは即ち軍の独走である。
指揮権を逸脱して、現地司令官の独断専行で既成事実を作っておいて、事後承認を得るという、その後の日本軍の基本的な行動パターンが、このときにも出ていたわけである。
中国は当然日本に抗議してきたが、日本はこれを全く無視したわけである。
そして事もあろうに、対華21か条要求というものを、出来たばかりの中華民国大統領袁世凱に突きつけたわけである。
これは当時の外務省政務局長小池張造の作文といわれているが、それが日本の正式な要求事項となるということは、当時の日本政府、及び行政システムとしての外務省、及び各官界から、国民全般の空気としても、何ら不自然さが感じられなかったわけである。
21世紀に生きる我々は、過去の日本の歴史の反省を真摯にしなければならないが、このときこういう侮蔑的な条約を中国に対して行った、ということは当時の日本の人々は、それを正しいことのように感じていたわけである。
それは政府だけではなく、官僚だけではなく、日本の国民全部がそう思い込んでいたわけである。
これがこの当時の日本の大衆、民衆、知識人層を含めた日本民族の総意であったわけである。
ある意味で、世界大戦というドサクサに紛れての、火事場泥棒的な帝国主義的植民地主義の具現化に他ならない。
日清・日露の戦争では、世界の人々、特に西洋列強というのは、アジアの動きというものを良く見ていた。
朝鮮の実体、中国の実体、日本の実体というものを良く見ていたが、第1次世界大戦というドサクサの中でも、世界の目というものは誤魔化せなかったわけである。
このあまりにも露骨な、帝国主義的要求というのは、後々になって、世界の国々が日本を警戒する因子になったことは否めない。
それは同時に、日本が世界の中で段々と思い上がって来た、ということでもあり、孤立化に進むということでもあったわけである。
特に、国際信義を踏みにじったということは、大きく日本の信頼性というものを損なったわけであるが、この当時においては、すぐにその影響が出たわけではない。
この、少し日の目を見るとすぐに舞い上がり、思い上がる、という民族的な行動パターンというものは、戦後でも全く同じ軌跡で起きているわけである。
戦後の混乱期をどうにかこうにか糊塗をしのいできたと思ったら、次の世代は、そういう前の世代の苦労を知らず、イージーな経済発展を夢想して、経済というのは常に右肩上がりの発展があるものだ、と思い込んだ故に、バブルを助長し、そのバブルがはじけるということを考慮に入れていなかったのと同じパターンである。
「歴史は繰り返す」とは良く云ったもので、我々は、成功した後には、それが当然と思い込んで、慢心に陥るわけである。
人間が慢心すれば、他人が馬鹿に見えるわけで、この1910年代の日本人も、完全にその宿命に落ち込んでいたわけである。
この対華21か条要求というのは、中国の側では屈辱記念日として排日、抗日、侮日の日となっているが、無理もない話で、それにしても中国の人々というのは情けない民族である。
中国が4千年の歴史を誇る民族であるとしたら、21世紀においては、アメリカ合衆国以上の発展をしていても不思議ではないはずである。
アメリカ合衆国というのは、ヨーロッパからの移民で成り立っている国家であることを思えば、中国というのは4千年も昔から優れた民族が連綿と生きてきた国であるわけで、人類の知恵の集積が、右肩上がりに累積するとすれば、当然アメリカをしのいでいても不思議ではない。
ところが現実はそうなっていないところが不思議である。
1910年代の日本は、自分達が貧乏なるがゆえに、広大なアジア大陸に進出して、アジアの人々と共に発展を分かち合わなければ生きられない、と思い込んだ節があるが、第2次世界大戦が終わって、日本民族が古来からの4つの島に閉じ込められてしまうと、我々が生きられないと思い込んでいたことが間違いで、4つの島だけでも充分に発展し、アジアにも貢献できているわけである。
それには世界が開かれており、物も人も自由に行き来ができる、という前提条件が必要なことはいうまでもないが、戦後の我々は、そういう条件下において生かされていたわけである。
アメリカ人と中国人の生き様の違い、そして日本の中でも、戦前と戦後の人々の生き様の違い、というのは一体どういう所にその原因があるのであろう。
中国が新興国日本から、対華21か条要求を突きつけられた、という事は、屈辱記念日などといっている場合ではないと思う。
そんなことを言う前に、自らが団結して、打倒日本として、戦争を仕掛けるぐらいの気力を持たないことには、20世紀という時代に乗り遅れてしまう。
事実、乗り遅れていたが故に、こういう体たらくを演じていたわけであるが、彼ら中国の人に対して、一番要求されることは、多民族国家として、民族の融和を最優先にしなければならないと思う。
第2次世界大戦後、共産主義というもので統一されて、中華人民共和国というものが出来たが、この中華人民共和国から共産主義というものをなくし、民主主義共和国にならなければアジアの安定は難しいように思う。
国の基本的指針が共産主義にある限り、党利党略が最優先するわけで、それがあるうちは民族の融和というものが後回しにされ、物事が全て共産党という怪物の存在に左右されるからである。
日本がこの対華21か条要求を出した本当の狙いというのは、満州に関する利権の維持ではなかったかと思うが、それに付随して、様々な考えられる限りの希望的状況を全部盛り込んで、駄目モトで、先方に示したことが、日本の信用を失墜させる原因ではなかったかと思う。
当時の日本の当面の問題は、遼東半島の租借権と、満鉄の租借権が期限付きであったことで、それを恒久的なものにしないことには、安心して植民地経営が出来ないという危惧から、こういう要求が出てきたものと想像する。
しかし敵もさるもので、こういう日本側の理不尽な要求を、小出しに西洋列強にリークすることで同情を買い、日本の信用を貶める手法に使ったわけである。
けれども、それを日本は武力的に威嚇することで、袁世凱に認めさせ、遼東半島及び満鉄の租借権というものを半永久的に確保したわけである。
半永久的といっても、正確には1997年、平成9年ということになるわけで、もしこの条約が第2次世界大戦後も生きているとしたら、朝鮮半島と中国東北部の発展というのは、今の日本と同じ状況であったに違いない。
満鉄には新幹線が走り、高速道路は縦横に走り、鉄道沿線と高速道路の沿線は工業地帯となり、途中の沿革としては大きな公害問題も起きていたかもしれないが、基本的に今の日本と同じ発展が期待できたに違いない。
そうならなかったのは彼らの選択であったわけである。
中国東北部が共産党に占領され、朝鮮半島の北の部分が共産党に蹂躙されたのは、彼らの選択であったわけで、日本の関知したことではない。
この選択の違いがアメリカ合衆国と中華人民共和国の違いとなっているわけである。日本は戦後、日本を敗北させたアメリカに組したわけで、その選択があればこそ、今日の繁栄があるわけである。
日本においても、戦後の混乱の時期に、アメリカに組みするよりも、共産主義の社会にした方がベターだと思い込んで、そういう運動をした知識人というのが掃いて捨てるほど居たが、国民の選択としては、アメリカに組みするほうを選んだわけである。
対華21か条要求で、日本は満州の地歩を完全に固めたわけであるが、それでも基本的には、中国の土地を借りているということに変わりはなかったわけである。
それを完全に自分のものにしたい、というのは極めて日本人的な発想ではなかったかと思う。
そしてその方向に進んでしまうわけであるが、このことが完全に日中戦争という泥沼に嵌り込んでしまうことになった。

前に戻る

目次に戻る

先に進む