この発想が甘かった、と言われればそれ以上反論は出来ないが、その根底にある思考の相違というものは、彼らの側に潜在的に刷り込まれている儒教思想であったろうと思われる。
この儒教というものの殻がなかなか破れなかったが故に、彼らは民族の自尊自立という近代化の波に乗り遅れたわけである。
それに引きかえ、我々の側は、民族的な思考を束縛するほどの強烈な宗教意識というか、精神の自由を拘束する規範を持っていなかったわけで、自由に自分の身を処す、柔軟な思考を持っていたわけである。
考えても見よう。
死んだ人や、先祖様や、もうろくした年寄りを後生大事に敬うよりも、これから先自分達の社会を築くであろう若者のありかたに注意を払い、そういう人々に教育の機会を与え、見聞を広めてもらい、そういう人々に夢を託す、という発想に立てば社会というものはよりよい方向に転がっていくに違いない。
この考え方の違いが、朝鮮や中国の人々の潜在意識の根底に横たわっていたわけである。
その上、朝鮮の人々というのは、今までの社会的制約からして、他の世界の様子も、その存在すら、全く知らないものだから、人間というのは何処に住んでいても、こんなもんだ、という小宇宙に閉じこもっていたわけである。
その殻を、日本という外圧でこじ開けられたものだから、それこそ蟻の巣を突付いたように、蜂の巣をつついたように、大混乱を呈してしまったわけである。
21世紀の今日でも、日本の支配を糾弾している彼らは、日本の行った支配と、西洋列強の行った植民地支配というものを比較検討することなく、ただただ被害者意識のみで、井戸の中から天を覗いたような状況下で、ただただ声さえ大きければ世間は納得すると思い込んでいる節がある。
日本が朝鮮を併合したということは、1989年の東西ドイツの併合に匹敵するものだと思う。
この場合は、同じ民族同志であったわけで、それは素直に目出度いと言えたが、我々の成した日韓併合というのは、異民族同士の併合であったわけで、こういうことは地球上の歴史にはこれまでに例のないことではなかったかと思う。
朝鮮の人々が、兄貴とも思い親とも思っていた清という国は、朝鮮の人々を対等に扱ったかと問えば、答えは否である。
清は朝鮮の人々を属国として扱ったではないか。
清が朝鮮領内に学校を作ったか、清が朝鮮の社会的な基盤整備を行ったか。
答えはいづれも否である。
なのに我々は何ゆえに侵略者なのか。
民族というものは、あくまでも人間の集団としてあるわけで、人間の集団というものは、長い歴史の中では失敗というものも数限りなく繰り返すわけである。
朝鮮の人々が日本の支配下におかれてしまった、ということは当時の朝鮮の人々の選択の失敗であったわけであるし、日本が大東亜戦争に敗北したというのも、日本人の選択の失敗であったわけである。
21世紀において、朝鮮の人々や、中国の人々が、日本の軍国主義の復活を危惧するというのも、再度、彼らが失敗を犯しかねない予兆であると思われる。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法は、普遍的な真理であるように思う。
そして今、彼らが日本にそういう空気があると思っているということは、相手を本当に理解していないという事になるわけで、そういう齟齬が積み重なって、危機が生ずるようになるのではないかと思う。
1991年の湾岸戦争の時に、朝鮮、韓国の人々は、兵員を提供してクエートから感謝されているではないか。
にもかかわらず、我々は金だけ出して、世界の笑いものになっているではないか。我々は、アメリカから押し付けられた憲法を後生大事に抱え込んで、世界の笑いものになっているではないか。
憲法で、自国を防衛することも放棄して世界の笑いものになっているではないか。それでも、内閣総理大臣が靖国神社に参ると軍国主義につながると思う、などということは、全く今の日本というものが分かっていないということに他ならない。
これは無知蒙昧にそのまま通ずるもので、こういう無知が、かって日本に支配された原因であった、ということに思いを致さなければならない。
朝鮮の人々が日本の支配下に下ったのは、李王朝とその政府が、清という張子の虎を信じ、儒教思想という精神の束縛から逃れようとせず、中華思想の思い込みから脱しようとしなかったからである。
考えてみれば、明治という時代に、我々は清と戦い、ロシアと戦って、我々の同朋の血を流した結果として、朝鮮半島というものを支配しようとしたが、このとき西洋列強のように、徹底的に富の搾取に没頭すれば、今日、朝鮮の人々や、中国の人々から謝罪を要求されることはなかったかもしれない。
なまじ日本人の浅知恵で、「彼らを人間として扱えば、彼らは感謝してくれるに違いない」と思い込んだところに我々の不幸であったわけである。
これは我々、日本人の選択の失敗であったわけである。
それ故に、90年後には飼い犬に手をかまれたような按配になっている。
我々の先輩諸氏というのは、支配した人々を、我々の同胞と同じような扱いをすることによって、アジアの民族はより発展をして、平和を享受できると思い込んでいたが、これはアメリカの押し付け憲法を念仏のように唱えていれば平和が来ると思うほど、世界的なセンスでは陳腐なことであったわけである。
現在生きており、そして将来生きるであろう人間よりも、死んだ過去の人間の方に価値を置く人々にとっては、過去の一部を切り取って、それを金科玉条のように、外交のカードに使うという発想がある限り、そうたいした発展はありえない。
これも彼らの選択である。
そういう日本も、これからは明治時代のような、右肩上がりの隆盛はありえず、段々と没落の方向に向かうことは確実で、地球規模で歴史を敷衍したとき、繁栄しつづけた国家というのはありえないわけで、そのことを思えば、自然の成り行きというほかない。
日本が韓国を併合して真っ先に行ったことは、土地調査局を作って、土地を調べ上げることであった。
これは日本に進駐してたアメリカ軍が最初に行ったことと軌を一にしている。
もっとも、このとき日本側の意図としては、自分の支配した土地が果たしてどれほどものものか、ということが知りたかったという部分もあろうかと思う。
アメリカ軍が日本で行ったことは、土地の調査というものではなく、当時の日本の人口の大部分を占める小作人が貧乏なるが故に、太平洋戦争をおっぱじめたのではないかという危惧から、日本の農民を裕福にする手段として、土地所有者を追放するのが目的であったわけである。
まさしく共産主義革命そのものであったわけである。
それを為政者としてのアメリカ軍が行ったわけで、それをすべき使命を持っていた日本共産党というのは、全く蚊帳の外に置かれ、傍観していただけである。
但し、このことで朝鮮の人々や中国の人々に注意してみてもらいたいことは、GHQが地主の土地を没収、小作人に分け与えるという施政を日本の行政に命令したら、それが一滴の血も流さずに実施できたという実績である。
これは軍隊の解散の時と全く同じなわけで、行政システムというものが完全に機能し、為政者の命令が日本全国の隅々にまで、完全に毛細血管のように行き渡っていたということである。
共産主義者が土地改革を行ったところは、それこそ血の雨が降ったわけで、同胞同志が殺しあったわけである。
農地解放というものは、本来共産主義革命について回るもので、日本の共産党員というのは、同胞が戦地で死闘を繰り返しているとき、頑丈なコンクリートで囲まれた中で、三食昼寝付きで一番安全な場所に隔離されていたわけである。
そして戦争が終わってみれば英雄として歓迎を受けたわけである。
日本が経験した明治維新と、敗戦後の進駐軍による5大改革というのは、まさしく共産主義革命そのものであった。
アメリカという、共産主義とは対極の立場にいるアメリカ軍が行ったことなので、我々は、それが共産主義革命とは気が付かなかったが、彼ら米軍のしたことというのは完全に共産主義革命であった。
敗戦後の改革がアメリカ軍によるものだとしたら、明治維新というのは、日本の為政者の側の、いわゆる上から大革命であったわけである。
支配層が率先して革命を起した明治維新というのは、実に不思議な革命といわなければならない。
徳川幕府というのは、自らの為政権というものを、自らの意思で、天皇に返還したわけで、そしてそれを受けた天皇というのは、これまた独裁者として君臨したわけではなく、立憲君主体制を敷き、前の為政者の首を取ることもなく、新しい秩序を作り上げていったわけである。
こんな不思議な革命というのは、人類の史上に稀有なことではないかと思う。
体制が変われば、そこには血の雨が降るのが普通で、パリ革命などは200万からの血が流れたといわれている。
王侯貴族は皆ギロチンで首をはねられたわけで、中国などでは屠城という言葉が示すとおり、城ごと皆殺しにするのが歴史上の変革であったわけで、それに比べると、江戸城の無血開城ということなど、不思議なほど平和的な変革を我々は経験したわけである。
戦争というのは、人の殺し合いに他ならないので、戦場では殺戮行為というのは致し方ない。
しかし、戦場以外の場では、我々、日本民族というのは、無用な殺生という事を好まない。
マッカアサーが厚木に降り立ったときでも、武装解除の前の旧日本軍の中には、「最後の反抗をしよう」という機運があったことは確かであるが、これは我々の同胞が説得して、そういう無謀な抵抗を表面化させなかったわけである。
このとき、この一部の跳ね上がりの同胞が、無謀な抵抗に立ち上がっていたら、我々は更に大きな災禍に見舞われていたに違いない。
こういうときの判断力というものが、トータルとしての日本人の知恵であったわけで、時の流れというものを大きなスパンで見ると、我々の民族の失敗というものは数え切れないほどあるが、その失敗の中にも、珠玉のような民族の団結力というか、適切な判断というか、対処療法が、ちらちらと存在する。
しかし、歴史というものを時間の流れとして捉えてみると、我々が戦争に負けたということは、我々の判断力が第2次世界大戦に関してはトータルとして間違っていたということにならざるを得ない。
それと同じ事で、1910年に朝鮮民族が日本の支配に屈しなければならなかったということは、トータルとしてこの時点までの朝鮮民族の判断ミスであったわけである。
日本が朝鮮を支配下に入れた時の最初の仕事が土地の調査であった、ということは当然の成り行きだと思う。
そして調査を進めていくと、隠し田が一杯出てきたわけで、その事は、朝鮮の行政が如何に杜撰であったか、ということの裏づけでもある。
朝鮮の民衆の立場からすれば、それも生活の知恵で、正直に申告すれば、租税も多くなってしまうので、少なめに申告するということもあったに違いない。
しかし、これを目の当たりにした我々の側は「なんとレベルの低い人々か」と思うのも当然なことである。
こういう事が重なれば「朝鮮人は一体何をしているのか?」という蔑視にストレートに繋がってしまうわけである。
日本が朝鮮を支配しようとして、最初に土地の調査からしなければならなかったということは、そのまま朝鮮の政治の劣悪さを物語るものであったわけである。
朝鮮民族が誇りある民族ならば、このことを恥じなければならない。
日本は抑圧したのではなく、管理しなければならない状況がそこに露呈していたわけである。
戦後、マッカアサーが日本で行った農地解放というのは、土地の再調査から始まったわけではない。
所有権の移転から始まったわけで、この違いというものを朝鮮の人々は再考してみる必要がある。
そして、日本がアメリカに占領されたとはいうものの、我々はアメリカの軍政の元にいたわけではない。
ところが、この日韓併合後の朝鮮というのは、日本は軍政をしかざるを得なかったわけで、このことは朝鮮の側が日本の施政に対して、素直に言うことをきかなかった、ということに他ならない。
「憎き日本に支配されて素直に協力できるか」という反応は、心情的には理解できるし、そういう感情を彼らが持つのは当然で、何ら不自然ではないが、その感情だけで、李氏朝鮮が過去何百年と生きて来たからこそ、1910年に至って、日本に支配された、ということを再考すべきである。
朝鮮の人々の抵抗というものは、感情では理解しえるが、過去何百年と感情だけで生きてきたからこそ、こういう事態に陥ったわけで、そこには理性というものが存在せず、研ぎ澄まされた理性によって物事を判断するということに欠けていたからこそ、こういう事態に陥ったという自覚がないわけである。
その事は同時に、日本と韓国の力の相違ということを全く理解していないということに他ならない。
「相手を知り、己を知る」ということは、理性がなければ出来ないことで、その部分が欠落していたわけである。
第3次日韓協約によって、日本が朝鮮の内政の権利を、把握すると同時に、朝鮮の軍隊というものを解散させて、朝鮮の軍人達はリストラにあってしまったわけである。
すると彼ら元軍人たちは、農民と組んで日本に抵抗しだしたわけで、これを義兵闘争といっているが、その行為そのものが、世間を知らないというか、感情に流された行為というか、「敵を知り己を知らない」典型的な行為であったわけで、完全なる無益な抵抗であったわけである。
しかし、日本人の中でも、こういう抵抗を、朝鮮のナショナリズムの高揚と捉える向きがいるが、これも無知な思考である。
朝鮮に少しでもナショナリズムがあれば、清に頼ったり、ロシアに頼ったりはしないはずで、それがなかったからこそ日本の支配を甘受したわけである。
過去の歴史を今の価値観で見るから、朝鮮民族にもナショナリズムがあった、という虚言となるのである。
時の経過ということを考慮にいれず、約90年前のことを、今の価値観で眺めるから、こういう陳腐な議論になるわけで、これが歴史の捏造といわれる所以である。
いきなり21世紀の日本の状況に移るが、小泉政権のできる前、森政権のとき、森義朗には内閣総理大臣の資質がない、と批判されていた。
1910頃の朝鮮の人々には、自分達の国を自主的に管理する資質がない、大韓民国という主権国家を維持する資質がなかった、という表現が適切かと思う。
極めて朝鮮の人々を侮蔑する言葉であるが、他に言い様がない。
そして21世紀においても彼らは独立国というものを作り上げていないではないか。
この1910年の日韓併合ということは、日本が武力を背景に、朝鮮民族という異民族を支配したことは確かであるが、これを今までの西洋列強の植民地経営と同列に見ることはいささか疑問な点がある。
同じ論旨の繰り返しになるが、これは私にとっては大事な論点であるから、何度も強調しておかなければならない点である。
まさしく「相手を知り己を知る」ということを頭から無視しているということで、これが無知といわれる所以である。
我々は戦争に負けて、アメリカとの国力の差というものを思い知ったからこそ、マッカアサーが厚木に降り立ったときでも無抵抗で処したわけである。
あの時、我々の側が、無駄な抵抗を無駄と知りつつ行ったとすれば、我々は軍政下に置かれたに違いない。
朝鮮の人々というのは、まさしくそれをしたわけである。
話を再び振り出しに戻して、何故に我々が朝鮮を直接支配しなければならなかったのか、と問い直せば、朝鮮が自主的に、自立した独立国として、清ともロシアとも日本とも、対等の立場で主権を確立していれば、その事が当時の日本の安全保障となりえたわけである。
ところが朝鮮というのは、清にもよろめき、ロシアにもよろめいていたので、日本は不安でたまらず、自分で納得のいく支配をしようとしたわけである。
李王朝というものが清の庇護の元にすがろうと思い、それが不具合になると、ロシアの庇護を受けようとしたものだから、我々は自分達の安全保障上不安になって、直接管理することにせざるを得なかったわけである。
朝鮮が主権国家として立派に存立していれば、日清戦争も日露戦争も存在しなかったわけである。
今の朝鮮の人々は、この時代の状況を考察ずることなく、「日本が支配した」という事実の一部を切り取って、結果のみを糾弾しようとしているが、やはり物事には因果関係というものがあって、日本が何の理由もなしにいきなり朝鮮の人々を苦しめるために日韓併合に走ったわけではない。
日韓併合には日本国内においても反対意見はあったわけで、それはこの当時の視点で、「朝鮮を併合すれば我々の側が損をする」という卓越した意見も存在していたわけである。
にもかかわらず、我々は、それを推し進めたということは、損を覚悟で行ったわけである。
自分達が損をするような植民地政策というのは、帝国主義的植民地政策ではないわけで、にもかかわらずそれを実行したということは、朝鮮を支配下において、そこに日本人を移住させ、そのことによって朝鮮の産業を育成させ、日本人も朝鮮人も共に共存共栄を図ろう、という遠大な思想が横たわっていたわけである。
それは思想というものではなく、理念であり、理想であり、ジャパン・ドリームであったわけである。
とは言うものの、朝鮮民族の側からすれば、李王朝5百猶余年の歴史から鑑みて、日本と朝鮮の共存共栄という発想が、一気に理解される筋合いのものでもなく、その戸惑いの過程が日本から彼らを見たときの蔑視という形で具現化したものと思う。
近代化にとって、中国や朝鮮民族の潜在意識としての儒教というものはマイナス要因であり、これからの精神の開放がない限り、近代国家というものは成立し得ない。
死んだ人や、長老や、もうろくした年寄りの意見を尊重したり、親戚縁者が大事だと思っている限り、近代的な政治システムというものは成立しないわけで、日本は率先して、そういうものを御破算にしてしまったわけである。
第2次世界大戦後の1949年に、中華人民共和国という共産主義国家が、昔の中国にとって変わって誕生したが、この共産主義というものは、古い価値観というものを一切容認しない考え方なわけで、儒教も、道教も、仏教も一切合財認めなかったため、現状に不満を持つ者にとっては、これほど魅力ある思考もなかったわけである。
だから中華人民共和国が誕生して1年も経たないうちに、それが北朝鮮を経由して大韓民国に攻めてきたとき、朝鮮の人々はことごとく共産主義者になりかかったわけである。
日本は、朝鮮の人々が、彼らの固有の土地を維持するのに、清と戦い、ロシアと戦ったにもかかわらず、朝鮮の人々はその意義を解する事が出来なかったわけである。そして、日本から開放されたと思ったら、今度は、自分達で戦いをして、自分の祖国を分断したまま、21世紀に至っているわけである。
1949年、昭和24年、中国大陸に中華人民共和国というものが誕生したということは、あの第2次世界大戦の連合国側、特に英米仏にとっては、非常に大きなインパクトではなかったかと思う。
そして、その翌年の、北朝鮮の南朝鮮への進撃というのは、日本が犯したとされる日中戦争から太平洋戦争というものの整合性を世界に知らしめたわけである。
この朝鮮戦争が勃発すると、日本を敗北に導いた連合国側の最高の立役者としてのマッカアサーが解任され、その解任されたマッカアサーがいみじくも戦前の日本の置かれた立場というものを容認して、「日本は自衛のために戦った」のだ、ということを述べたわけである。
つまり、ここで私が言いたいことは、日本が朝鮮を管理運営していれば、朝鮮戦争はありえなかった、ということである。
朝鮮戦争のような事態にならないように、そのことを恐れ、朝鮮半島が共産主義に汚染されないように、そうならない為に、我々は彼らを支配し、金を注ぎ込み、社会的基盤整備を行い、農業を指導し、彼らの富の蓄積に貢献し様としたわけである。
それが日清戦争であり、日露戦争であったわけで、この二つの戦争の目的が形骸化したときに、朝鮮半島というのは共産主義というものに蹂躙され、朝鮮民族というのは米ソの代理戦争をさせられたわけである。
我々は朝鮮民族の為に、清と戦い、ロシアと戦ったが、第2次世界大戦後の朝鮮戦争というのは、アメリカと旧ソビエット連邦、乃至は共産中国の為に、自分達が相対峙して戦火を交えたわけである。
よその国の利益のために、自分達が、つまり朝鮮民族同志が、血を流し合ったわけである。
あの未曾有の世界大戦が終わって、日本が完璧に敗北してみると、朝鮮と台湾は開放された。
その開放された後どうなったかと問えば、朝鮮は共産主義者に蹂躙され、台湾は中華民国に蹂躙されてしまったではないか。
この事実は、日本を敗北に導いたアメリカにとって利益だったであろうか。
朝鮮民族は日本から解放されて、民族自立という利益をこうむったであろうか。
日本が、朝鮮半島と台湾というものを、敗戦という結果で、無理やり手放されたことによって利益を得たのは、共産主義者としての旧ソ日エット連邦と、その盟友としての中華人民共和国のみではなかったのか。
朝鮮の人々は、日本から開放されたので、自分の国を作るのに一番恵まれた状況に置かれたにもかかわらず、それを成し得なかったではないか。
それが今日21世紀に至ってもなお実現していない、ということは、1910年、明治43年の状況、約90年前の状況と少しも変わっていないということになるのではないか。
日本は明治維新の当初から、朝鮮の人々に対して、こういう状況にならないようにと、つまりロシアや中国(途中で国体が変わってしまい、ソビエット社会主義共和国や中華人民共和国)の支配下にならないようにと画策してきたわけで、第2次世界大戦が終わって、日本の支配力というものがこの地で消滅してしまうと、見事に日本の危惧してきた通りになってしまったわけである。
それを国際的に認めたのが、先に引用したマッカアサーのアメリカ議会における演説であったわけで、そのことは日本が朝鮮や台湾を支配下においていたことは間違いではなかった、という事に他ならない。
明治維新は1868年に起きたということは歴然たる事実であるが、もうこの頃になると、世界各国というのは自国のことだけでは存立し得ない状況になっていたわけである。
つまり、今の言葉で言うところのグロ−バル化していたわけで、鎖国をして、自分ひとりだけの小宇宙の中で、泰然として生きておれない状況というものが出来上がりつつあったわけである。
今の価値観でそれを言うと、帝国主義ということになり、植民地支配ということになるわけであるが、そのことは地球そのものがグルーバル化して、如何なる主権国家も、他との連携なしにはおれない状況というものが出来つつあったわけである。
西洋先進国がインドから東南アジア、そして中国の沿岸にまで押し寄せてくるという事は、航海術の技術革新と同時に、航海術だけではなく、あらゆる場面で技術革新が起き、その結果として、他との関連なしでは民族国家そのものが存立しえない状況になっていたわけである。
植民地というのは、原料の供給と同時に消費地でもあったわけで、消費地を外に求めるということは、内地の産業に過剰な生産、生産の余裕が出来た、という事の現れであり、それをより充実させるためには、自国以外にもっともっと領地を広げ、原料の確保と消費地との拡大を図らねばならなかったわけである。
その為に領地を広げようとすると、相手側には当然自分の領域が侵食されることの不安・不満も出てくるわけで、この流れというのは必然的なものである。
日本は江戸後期の徳川幕府と、明治新政府の対応がうまくかみ合ったので、西洋先進国の植民地にはならずに済んだが、アジアの諸地域では、そこに住んでいた人々の意識が低かったが故に、西洋列強に辛酸を舐めさせられたところが多々あったわけである。
そして、この帝国主義的発想というものは、人種差別と表裏一体をなしているわけで、インドを征服したイギリス、インドネシアを征服したフランス、南洋諸島を征服したドイツ、フイリッピンを占有化したスペインというのは、基本的に人種差別の潜在意識の上に、植民地からの搾取ということが整合化されていたわけである。
彼らからアジアの人間を見れば、アジアの人間は人のうちに入っていなかったわけである。
だからアジアの人たちからいくら搾取しようとも、何ら精神的な痛痒を感ずることがなかったわけである。
そして、そういう連中が、朝鮮と中国を虎視眈々と狙っていたわけである。
日本が朝鮮に望んだことは、朝鮮の人々が一刻も早く儒教思想の弊害から脱却して、個の確立を達成し、意識改革をし、自分達の国は自分達で守り、その自分達の判断力で以って、日本と対等の交渉を持ってもらいたいということであったわけである。
朝鮮の人々が完全に自立してもらうことが、日本の安全保障にそのまま通じていたわけである。
ところが朝鮮の人々はなかなかそういう風になってくれないものだから、直接支配ということになってしまったわけであるが、ここでも我々の帝国主義的植民地経営というのは、西洋列強がしたような、キリスト教的人種差別に根付いたものとは違っていたわけである。
ところがここでも不幸なことに、朝鮮の人々にとって、日本というのは、あくまでも文化の流れの中で川上と川下の関係であり、兄と弟の関係でもあったわけで、弟分であるべき日本が、兄を差し置いてふるまうことが許せなかったわけである。
しかし、実力は既に弟のほうが持ってしまっていたので、そこに精神的なジレンマに陥ってしまい、日本側のいう事を素直に聞けなかったわけである。
そして今日でも、伊藤博文を暗殺した安重根が朝鮮では英雄とされているが、こういうテロ行為をしたものを英雄と崇める辺りに、民族意識の差異が感じられる。
朝鮮民族を苦難の道から開放しようとして失敗した安重根という捉え方であろうが、テロ行為が民族解放につながると思うところが未熟である。
1945年、日本がマッカアサーに占領されたとき、マッカアサーを暗殺すれば日本が占領から開放されると思い込むようなもので、日本人のうちで誰一人そんなことを考えた人間はいなかったわけである。
安重根の熱意には敬服するところがあるが、彼の行為はテロの域を出るものではないし、民族の開放とは逆に、民族に苦難の道を歩ませたのが彼であった、ということも言えるわけである。
抑圧された側がテロという手段をとれば、当然当局側は締め付けにでるわけで、自分で自分の首を締めるようなものである。
日本が朝鮮を併合してみると、日本の安全保障のラインというのは、朝鮮とロシアの国境ということになり、いわゆる鴨緑江のラインということになる。
すると、朝鮮の北側にもう一つ安全地帯というものを設けなければ枕を高くして眠れない、ということになってしまったわけである。
それだからこそ、日本国内でも、朝鮮の併合には反対の人もいたわけである。
この日本の朝鮮併合というのは、この時代の国際関係の中では、極めて有効的な整合性があったわけである。
というのは、日本が朝鮮を直接の支配下に置くことで、日英同盟を結んでいるイギリスが一番得をしたわけである。
つまり、そのことによって、ロシアが朝鮮を支配する気運が完全に葬り去られたわけで、イギリスは安心してアフリカでボーア戦争をしておれたわけである。
フランスとドイツは朝鮮には関心がなかったが、アメリカは中国大陸には関心があったが朝鮮にはほとんど関心がなかった。
ところが日本が満州に出ようとすると、アメリカは野心を出し始めたわけで、それは日本が鴨緑江の向こう側に食指を動かし始めると同時に、段々と露骨になってきたわけである。
日本が朝鮮の為に日清戦争をし、日露戦争をしたということは、不思議なことに国際的な評価を得ていたわけで、日本人が自らの血を流した結果として、朝鮮の併合というのは国際的に何ら批判をされたわけではない。
ところが満州に関しては非常な非難を受けたわけで、国際社会というものは、よく日本の行動というものを見ていたわけである。
その事は同時に、朝鮮の行動も見られていたわけで、朝鮮の人々はそのことをもう一度振り返ってみるべきである。
国際世論というものも、何時も正義とは限らないわけで、主権国家同志の集まりである以上、自分の国の国益が最優先することは論を待たないが、夫々が国益を追求する中においても、誰を買って誰を叩くかは、案外普遍性があるように見える。
イギリスが日英同盟で日本を買ったということは、世界の海を股にかけて飛び回っている彼らの非常に高い見識の現れであろうと思う。
その対極にいたのが朝鮮の人々で、侮日の意識が何時までも拭い切れなかったが故に、自らがその支配下に下ってしまったわけである。
イギリスというのは実にしたたかで、日露戦争の前、1902年に結ばれたこの同盟によって、日本は日露戦争に勝てたといわれているが、イギリス側から見れば、日本が負けたとしてもイギリスは失うものは何もないわけで、日本が勝てばイギリスとして労せずしてロシアの南下を食い止めることが出来たわけで、歴史はそのイギリスの思い描いた透りの軌跡を歩んだことになる。
イギリスは日本と組むことによって国益を守り、日本もその恩恵に浴したとはいうものの、アジアの民族の中で、日本と同盟を結ぶという判断は、やはり7つの海を制覇した結果としての判断力と見識の広さではなかったかと思う。