共存共栄の理念

日本とアジア9 平成13年5月27日

祖国の失い方

1907年、明治40年7月24日、日本は第3次日韓協約で朝鮮の内政に関する権利を委譲させてしまったわけであるが、それに付随して韓国の軍隊というものを解散させてしまった。
8月1日には京城において軍隊の解散式というものを行ったわけであるが、この軍隊の解散ということは、主権国家の主権というものを完全に封殺するものである。20世紀の後半から21世紀にかけての、日本の知識人、及び左傾の進歩的と自認している人々からすれば、軍隊の解散ということは、平和主義の具現であって、この世に、これほどの善行はまたとない事であり、人類の理想に一歩も二歩も近づいた事になるが、これが現地朝鮮の人々にとっては非常に不満であったわけである。
解散させられた側の朝鮮の軍人達は、これを機会に朝鮮領内で騒動を引き起こしたわけである。
第2次世界大戦後の日本人の知識層というものは、軍隊というものを極端に罪悪視する事が人間の理想であり、人間の善だ、と思い込んでいて、少しでも軍事力というものが関りそうなことには、すべからく反対するという思考を展開し、そういう行為を由としてきた。
もし、それが善であるとすれば、日本が朝鮮の軍隊を解散させた、ということは戦前の日本の最大の善行として評価しなければならないことになる。
ところが、世界に普遍化している価値観としては、こういう独善的な価値観というものは全く容認されていないわけで、主権国家たるものは、自前の軍隊を持つことこそが主権の主権たる所以である、という思考が普通の常識であったわけである。
戦後の日本の知識人が考えていた、軍隊というものがない国家というものを容認するということは、昔も今も世界の常識からずれていたわけである。
この「常識からずれている」ということは、言葉だけのことではなく、このずれがあるからこそ、自らの国を誤らせ、相手の国を怒らせることになるわけである。
日本が朝鮮の軍隊を解散させてしまったので、朝鮮の軍人達が怒って各地で反乱を起すことは極自然なことである。
自国の軍隊が解散させられる、ということは自分の国の存亡に直接かかわりあうことで、もうこの時点で、朝鮮の人々というのは、祖国を失う瀬戸際に立たされていたわけである。
つまり、祖国というものが無くなりかけていたわけである。
同じ事は我々日本も経験しているわけで、朝鮮の人々は1907年に祖国を失い、我々は1945年に祖国を失ったわけである。
ここで私が言いたいのは、その祖国の失しない方である。
1907年の時点に立ってみると、日本と朝鮮の立場の違いというのは歴然としていたわけである。
我々は、朝鮮民族とは激烈な戦闘ということはほとんどしなかった。
旅順の攻防戦というようなものもなく、奉天会戦というような死闘もなく、日本海海戦というような激烈な戦闘というものを経ずして、その実力の差というものが歴然としてしまったわけである。
我々は、眠れる獅子の清帝国とは正面から戦闘を交えた。
そして、当時の世界最大の陸軍大国としてのロシアとも正面から死闘を辞さなかった。
ところが、朝鮮とは、こういう戦闘をほとんど交えなかったが、1907年という時期には、そのことによって日本と朝鮮の国力の差というものは歴然としてしまったわけである。
そして、そのことを世界中が認知してしまったわけである。
つまり世界中が、朝鮮民族というのは日本に統治されても致し方ない、その方が朝鮮の人々にとっても幸である、ということを認めてしまったわけである。
そういう状況下で、日本は朝鮮の内政を支配する手法の一環として、軍隊を解散させたわけで、そのことは同時に、朝鮮の国防というものを日本が肩代わりする、ということでもあったわけである。
まさしく保護である。
それは同時に、1945年、昭和20年8月に、日本はこの1907年の朝鮮の人々の状況と寸分違わぬ立場にたたされたわけである。
問題は、同じ状況下で、我々と朝鮮の人々はどういう対応に出たか、ということである。
我々と朝鮮の人々が、同じ状況下で、同じような環境のもとに放り出されたとき、その対応の違いということを、その後の歴史において、世界中が注視していたわけである。
そして、その違いというものは、民族の違いそのものであったわけである。
日本が1907年から1910年の間に、内政権の剥奪に関連して、主権の基幹である軍隊を解散させたという事は、朝鮮の人々は完全に日本の占領下に置かれた、ということと同じである。
この占領下に置かれてしまったという朝鮮側の状況は、国力の差というか、軍事力の差というか、軍隊の実力の差というか、強権力の差というものが歴然としてしまったということに他ならない。
日本の側に関して言えば、我々は1945年8月にノックアウトを食らって、マッカアサーが厚木に降り立った、ということと全く同じであったわけである。
自分のおかれた状況というものが、何とも改善の余地のない状況に置かれたとき、無駄な抵抗をするかしないかの相違となって現れたわけである。
無駄な抵抗をすれば、より以上に殺伐さが増すだけであるが、無駄と分かっている抵抗をしなければ、被害はそれ以上大きくならないわけである。
自分のしようとしている抵抗が、無駄か無駄でないか、という判断が大事なわけで、ここで適切な判断が出来ていないということは、それこそ「敵も知らず同時に己も知らない」ということになるわけである。
日本に軍隊を解散させられて、その軍隊にいた人々の不平不満というのは察して余りあるものである。
今の言葉で言えば、日本という外圧でリストラに遭ったようなもので、翌日から糊塗をしのぐのに、路頭に迷わなければならなかったわけで、不平不満と言うものは噴出して当然である。
自然の感情として極ありふれた成り行きである。
まさしく、自然人の自然な振る舞いでもある。
と、同時に、自然人でありすぎて、そこには人間としての理性というものが微塵も存在していない、ということにも注目すべきである。
社会を形成している人間として、社会性というものが全く具現化していない、ということに注目すべきである。
1945年、昭和20年、マッカアサーが厚木に降り立ったとき、我々の側には、敗者とは云うものの、人間としての社会性があったのかと問えば、これは歴然と存在していた。
あの当時の我々の先輩諸氏というのは、戦争に負けても、民族の誇りと自覚は明らかに堅持していた。
これが1907年の朝鮮の人々には全くなかった。
だから解散させられた朝鮮軍の軍人達は、各地に散った後、各地で反乱を起こしたわけである。
NHKが報じた「20世紀の映像」というテレビ番組で、1945年8月、この時の映像、マッカアサーが厚木から横浜に進駐する時の映像を見たが、我々の側の、戦争に負けた側の、大日本帝国に軍人達は、アメリカ軍の進める車に全員が背を向けて、直立不動の姿勢で沿道を警備している映像であった。
そして、その後の約7年間という占領期間中、進駐した、勝った側の軍に対して、テロ行為というものは一切なかったわけで、その意味で、我々は占領され、主権を剥奪され、支配され、抑圧されていたにもかかわらず、無駄な抵抗というものは一切しなかったわけである。
これは自分の置かれた状況がよく分かっていた、ということでもあり、同時に相手の実力というのも充分に知っていたからこそ、無駄な抵抗という事をしなかったわけである。
この映像を見ていて、進駐するアメリカ兵に背を向けて立っている同胞を姿を見ると、涙が出てくる。
同胞といっても、この映像に登場している兵隊達は、私からすれば父親か、おじいさんの世代であろうが、さぞかし悔しい思いで立っていたのであろうと思う。
しかも、彼らはまだ武装解除されておらず、全員武器を携行した姿で映っていた。この我々の、占領のされっぷりというものは、朝鮮の人々にはない側面である。
自然人ではなく、自然人の感情を理性でコントロールして、悔しさを歯を食いしばって耐えている姿というのは、目頭の熱くなる光景である。
朝鮮の軍人達が、他国の強圧によって、自分達の軍隊を解散させられた、ということは彼らにしてみれば切歯扼腕するほど悔しいことで、怨恨の元となることは我々もよく理解できる。
しかし、そこに至るまでの過程の反省と、先の見通しというものを無視した無駄な抵抗というのは、彼らの判断であり、彼らの決断であり、彼らの選択であったわけである。

固定観念の打破

明治初期の書契問題から、1907年にいたる約30年間の彼らの対応が積み重なって、こういう事態に立ち至ったわけで、その事は何度も言い古されているように、「相手を知り己を知れば百戦危うからず」の格言通りのことであったわけである。
「相手を知る」という事は、なにも日本だけのことを指すのではなく、「視野を世界に向けて、世界はどうなっているのか?」という認識を持つことも含むわけで、「己を知る」ということは、自己改革でなければならなかったわけである。
朝鮮の人々というのは、それを怠っていたわけで、その積み重ねとして、戦争もしないうちから占領状態に陥ってしまったわけである。
そしてその上、日本のしようとしたことを曲解して、無駄と分かっている抵抗をするものだから、無用のトラブルが絶えなかったわけである。
今、21世紀に生きる我々、現代の人間というのは、我々日本人も、朝鮮の人々も、中国の人々も、今の視点、今の価値観で過去の歴史を論じがちで、当時の価値観に立ってみようとはしないので、立場立場で色々な齟齬がある。
どうしても、人間というのは、自分に都合にいいように物事を見がちであり、自分に都合にいいように物事を解釈しがちである。
ところが歴史上の事象には、その時の状況、その場の状況、自然災害は別として、人間の織り成す行為には、必ず因果関係があるわけで、人間の集団というのは、何の理由もなしに、川の流れのようにとうとうと流れているわけではない。
地球上の、全部の人間が、川の流れのように、時の流れに身を任せていれば、たいした歴史上の事件というのはありえないが、この時の流れに対抗する集団があちらこちらに出現するから、それが騒動の因子となり、それが連鎖反応を起して、歴史の渦ができるわけである。
その渦の一番外側から、渦の中心を覗いて、その視点で物事を見ても、それは歴史としての価値を持たないわけで、我々はその渦全体を上から俯瞰して眺め、渦の態様を見定める事を指針としなければならない。
21世紀という今日の次元において、日本とアジアの関係を見るとき、日本が明治時代から第2次世界大戦で敗北するまで、台湾と朝鮮を支配下においた、その支配の仕方というものは、人類史上まことに稀有な事だといわなければならない。
1910年の日韓併合というのは、今日、日本の犯した罪悪という捉え方で評価が流布されているが、これは今まで地球上に存在したことのない、全く斬新なアイデアであったと思う。
それこそ人類平和に貢献しうる最大の理想であり、理念であったに違いない。
今から遡ること90年も前に、地球上のあらゆる先進国が、帝国主義というものにどっぷりと漬かっていた最中に、日本は異民族を同等に扱い、民族の壁を無にする方向に国策が動いていた、ということはまさしく東洋の神秘であり、日本の神秘であったと思う。
地球上に生存した諸民族を、自然人という観点から眺めて見ると、アジア大陸で最初に文明を築いた中国人の持つ中華思想、それに付随した華夷秩序というものも、明らかに彼らの独断と偏見に満ちた考え方であったわけで、その後、西洋列強が植民地というものを持つ発想に至った、帝国主義的植民地主義というものも、ヨーロッパ人の独断と偏見に満ちていたわけである。
中国人が「自分達こそ、この地球上で一番だ!」と思っていたところに、ヨーロッパ人が入ってきて、そのヨーロッパ人は、アジアの富を収奪することを「なにもやましい事ではなく、人類生存の不可欠な要因だ」と思い込んだわけで、これも明らかにヨーロッパ人の独断と偏見であったわけである。
近世になって、そういうヨーロッパ人が、アジアに姿を見せるようになると、彼らヨーロッパ人というのは、既にその時点で鉄砲というものを持っていたため、アジアの人々は、最初から「これはかなわない人たちだ」という思い込みに陥ってしまったわけである。
インド人、そしてインドネシア人、中国人の多くはこういう西洋人を見ると、その幼児に対してさえも卑屈になってしまったわけである。
そして白人というものが、神様以上の存在となってしまったわけである。
これを大きな歴史的スパンで眺めてみると、西洋人の独断と偏見、アジア人の卑屈さとあきらめ、というものが地球規模で固定化してしまったわけである。
つまり、白人の優秀さと、有色人種の劣等さ、というものが固定観念化してしまったわけである。
日本が、日清戦争と日露戦争で勝ったという事実は、この固定観念と言うものを根底から覆してしまったわけである。
それには白人の側も驚き、有色人種の側も同様に驚いたわけである。
今まで、白人に対しては仕えるだけの存在であった有色人種というものが、自分達も「やればできる」という確信を持つに至ったわけである。
とは言うものの、それはすぐには実現不可能なことで、やはり10年20年という準備期間というものが必要なことはいうまでもないことで、意識改革の潜伏期間というものが必要であった事はいうまでもない。
アジアの有色人種から見て、日本が太平洋戦争で西洋先進国と互角に戦い、最終的に敗北ではあったが、西洋人の鼻をへし折ったという実績は、アジアの人々の潜在意識に信じがたい自身を植え付けた違いない。
それが第2次世界大戦後のアジアの民族開放につながったものと思う。
こういうものの見方に立ってみると、1907年の第2次日韓協約から1910年の日韓併合条約にいたる朝鮮の人々は、自らの自意識の覚醒に至っていないわけで、この時点でも、旧来の儒教思想の呪縛から脱しきれていなかったわけである。
そして、それは21世紀の今日でも払拭されていないわけである。
今の韓国というのは、日本と同様に、経済的にも大いに発展して、近代国家として押しも押されもせぬ立派な国家となっているが、その国家存立の基盤というのは、この時、日本が朝鮮民族というものを統合したことによって、旧来の弊害を断ち切ったことによると思われる。

史上稀に見る異質な発想

朝鮮の人々が、今のネイテイブ・アメリカン、南洋諸島のアポリジニ、アフリカのマサイ族と同じ生活様式をしたいというのならば、我々の朝鮮民族統治は100%罪悪と捉えられても致し方ないが、彼らが近代的な国家としてありたいと思うならば、我が貢献した部分というものも、少しは認めてもらわなければならない。
これまでの間に、朝鮮の軍隊の解散と、日本の敗戦のときの情景を比較して述べたが、日本を占領したアメリカは、その後アメリカの納税者の金で、日本に大学を作っていったかといえば答えはノーである。
日本は朝鮮の軍隊を解散させたことは事実で、朝鮮の安全保障を丸ごと肩代わりしたとはいうものの、我々は朝鮮に日本の納税者の金で、日本よりも速く大学を設置したではないか。
京城帝国大学というのは、日本内地の名古屋帝国大学よりも早い時期の出来ていたわけである。
日本を占領したアメリカは、その後朝鮮半島で戦争が起きると、掌を返したように、日本に軍隊を作り、丸ごと肩代わりしたつもりの安全保障を、自分の都合でスポイルし、その穴埋めに自前の軍隊を作ることを押し付けたではないか。
今まで何度も言及してきたように、西洋先進国の植民地主義というものは、富の収奪に徹することであったわけである。
ところが我々のしてきた台湾と朝鮮の支配というのは、これと全く同じ植民地主義ではなかったわけである。
台湾と朝鮮を支配下に置いたことは事実であるが、これが植民地経営というものであったとすれば、この二つの地域の社会的基盤整備というものは不要なわけで、京城帝国大学も、台湾帝国大学も全く不要なわけで、強制連行と強制収容、そして強制労働を徹底的に課して、生かさぬよう殺さぬよう統治していればよかったわけである。
異民族を新たに統治するに際し、日本は日本流のやり方をその地で実施しようとした事は確かで、それが現地の人々の意に添わない、ということはある程度致し方ないことである。
我々が、アメリカ占領軍の5大改革が気に入らない、といって抵抗したとしたら、敗戦の焼け野原の中で、再び血で血を洗はなければならない抗争になって、混乱に輪を掛けてしまうことになる。
アメリカ合衆国というのは、アメリカ大陸の東海岸に流れ着いた清教徒達が、西へ西へと進む中で、町を作り、鉄道を敷き、学校を作りつつ太平洋岸まで達して作り上げた国である。
そこにもともと住んでいた原住民というのは、隅に隅にと追いやられて、最終的には居住区という地域に押込められてしまったわけである。
ヨーロッパ先進国というのは、航海術と銃でアジアから富を収奪して、その収奪した富で以って、自分達の町、自分達の都市の社会的基盤、つまりロンドンとかパリという近代的な都市を整備したわけである。
ところが日本というのは、このどちらでもなかったわけで、台湾でも朝鮮でも、そこから搾取した富で、東京や大阪という近代都市を作ったわけではない。
そこにもともと住んでいた人たちを追い出したわけでもない。
支配した地域に住む人々を、自分達の同胞として取り込もうとしたわけである。
自分達と同じように、教育の機会が得られるように、農業を営めるように、社会的恩恵を受けられるように図ろうとしたけれど、それは一気呵成に成せるものではないわけで、時間が掛かるわけであるが、そこのところが理解されなかったわけである。
もともと異民族同志であるから、一気には行かないことは火を見るより明らかである。
ある意味では、無謀な理想であり、無謀な理念であったかもしれない。
その突飛さにおいては、戦後の日本国憲法の第9条に匹敵するほど、高潔な理想であり、高尚な理念であったわけである。
そして、突飛なるがゆえに、誰からも理解されない不幸を背負っていたということになる。
その根底に流れている思想というのは、我々はアジアの一員ということで、基本的には、朝鮮の人々や中国の人々を蔑視する気はなかったが、現実の生活の相違という事を考慮すると、明らかに雲泥の差が実際に存在していたわけで、そのギャップというものは、当時の日本人の視点から見て、未来永劫解消しきれるものではない、と思い込んだことによると思う。
この明治時代の日本の指導者層というものは、明治維新を経験してきた連中であったわけで、そういう人達から、台湾とか朝鮮、はたまた中国の人々を見ると、自分達の意識と彼らの意識の間に隔世の差があったわけで、その事が我々が彼らの上に君臨して、彼らを善導してやらなければならない、という思考につながったものと思う。
この根本にある思想が、西洋列強の植民地思想とは大いに異なっていたわけで、彼らは富の収奪に徹していたが、我々はお互いにレベルアップを図り、それが成った暁には、共存共栄をしましょうというものであったわけである。
この発想というのは、実にユニークなもので、そのユニークさというのは、まさしく憲法第9条に匹敵するものである。
日本国憲法の第9条というのは、日本との戦争に勝利したアメリカの理想であったわけで、我々はもともとこんな気高い理想に心酔していたわけではない。
時の日本政府が、「戦いに敗れた」という慙愧のあまり、無抵抗こそが日本民族の生存の道だ、と早合点してしまったための産物で、瓢箪から駒が出てきたような産物であったわけである。
しかし、その理想という点では、人類全般において、これほどの高尚な、且つ高潔な理想もないわけで、なんびとも瑕疵を差し挟めない程の理念なわけである。
通常的に、人間の自然のあり方というものを信じている人間にとって見れば、これほどの噴飯物もまたとないわけである。
あまりにも気高い理想なるが故に、現実とは大きく乖離せざるをえず、文字通り画餅におわっているわけである。
日本が朝鮮の人々を日本人と同等に扱おうとしたことも、その当時の国際常識から見れば、この憲法第9条に匹敵するぐらいに異質な発想であったわけである。
別な言い方をすれば、そんなことは実現不可能なことである、というに等しいわけである。
事実、今日、朝鮮の人々から何ら感謝もされることもなく、謝罪を要求されているということは、我々がこの当時考えていたことが間違っていたといわざるを得ない。
それを、間違わずに対応するという事はどういうことかと反問すると、我々は徹底的に搾取だけしておけばよかった、という矛盾に突き当たってしまう。
日本が植民地にしなければよかった、という反論に対しては、独立し得なかったのは誰か、という返し言葉になってしまう。

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