日韓併合への道程

日本とアジア8 平成13年5月16日 日韓併合

近代化のレース

日清・日露の戦争を経て、いよいよ日本は朝鮮というものを併合する方向に進むわけであるが、これは西洋列強が力の誇示によって、有無を言わせずアジアの人々を植民地にしたのとは大いに異なる。
かっての日本は、朝鮮の人々を完全なる自主権にもとづいた独立国として扱おうとしたわけであるが、朝鮮の側がこの日本の真意を汲み取ることなく、清に依存したり、ロシアに依存しようとしたりと、自分の国のことを自分で決めるということをしなかったものだから、最終的には日本が保護国として、朝鮮の主権をもカバーしなければならないという結論に至ったわけである。
日本は、朝鮮という国を、自主権を持った独立国として扱うことを念頭においていたにもかかわらず、朝鮮の人々は、一向に自分の国の自主権という事を理解せず、従来通りの両班制度というものに固執し、長年の伝統から抜け出して近代化を図らねばならない、という意識にいたらなかったわけである。
この意識改革に対する認識の甘さが、結局のところ、日本がこの地を統治しなければならない、という指針にさせたわけである。
朝鮮の民衆は、日本が経験した明治維新のような意識改革に覚醒されず、現状を認識し、外圧の存在というものを無視し、自分達だけの井戸の中の蛙の状況から脱することを拒否しつづけたわけである。
自分達の小宇宙の中だけで安穏と生き、人の足の引っ張り合いから脱して、目を世界に向ける、ということを否定しつづけたわけである。
日本が明治維新を経て、徳川家というものはその主権を天皇に返還して、王政復古をなし、天皇を中心とした新しい主権国家になった、ということを朝鮮、李王朝に報告と同時に、「今後ともよろしく」という国書を携えた使節を送ったとき、先方の対応というのは、けんもほろろな扱いであったわけである。
しかし、そういうことは外交である以上、時と場合によっては致し方ない。
日本もアメリカのペリーに対して、最初から友好的な扱いをしたわけではない。
当時のロシアの使節ラックスマンに対しても、江戸時代の幕府の役人はひどい扱いをしたわけで、お互いに外交というものに対して不慣れなときは、こういいう齟齬というものは致し方ない。
しかし我々は、こういう失敗を重ねたことから大いに学んだわけで、失敗を重ねるに従い、目が開けて、海の向こうには我々の知らない世界がいくらでもあるようだ、ということに気がついたわけである。
このときの状況というのは、日本も朝鮮も大して変わりはなかったわけで、近代化というものをレースに例えれば、同じスタート・ラインに並んでいたとみなしていいと思う。
同じスタート・ラインに並んでいても、日本はその地理的条件から、たった一人で独立独歩の状況にいたが、朝鮮というのは、やはり地理的条件から、陸続きということで、清という保護者が後にいたわけである。
いわば我々、日本というのは、家もなければ親もない孤児みたいなものであったが、朝鮮の人々というのは、後に清という保護者がおり、何か事があれば、その庇護の元に逃げ込む場所があったわけである。
つまり、虎の威を借りて威張っておれたわけである。
過保護の子供が親に甘えている図である。
このことは裏を返すと、朝鮮の人々にとって、近代化のレースという意味も分からず、競技場の雰囲気も分かろうとせず、他の競技者の存在も分からなかったわけで、その上、自分の庇護者である清という国の実体というものも、さっぱり分かっていなかったということである。
このことに覚醒しなかった朝鮮の人々というのは、自らの不幸を自ら招いたようなものである。
そして、歴史というものは「善悪」とか「正邪」で、後から裁くことは出来ないわけで、後からいくら「お前が悪かったから謝れ」といったところで、意味がないわけである。
仮に謝ったとしても、それは何の足しにもならないわけで、それよりも「目には目を、歯には歯を」という敵愾心を持つほうがよほど精神的に健全である。
日本が第2次世界大戦で完敗して、ソビエット連邦は日本の固有の地であるところの北方4島を強奪したままでいるが、その返還をめぐって、「返して欲しかったらもう一度戦争をやろう」と、ロシアでは笑い話で言われているという。
これが人間としての本音であり、偽らざる潜在意識だと思うし、アメリカは再び日本が覇権を持つことのないように、日本を徹底的に愚民化する政策を実施していったではないか。
これもやはり彼等の本心であり、正直な潜在意識だと思う。
それに加え、日本は自らの国を自分で守ることさえ放棄して、アメリカの軍事力に完全におんぶに抱っこされ、その裏で世界一の経済力を蓄えたわけで、やはりここに見る有り体というのは、狐と狸のだましあいのようなものである。
これこそ近代化というレースの全貌であり、騙された振りをして、けっこう相手を出し抜いている場面もあるわけである。

日韓議定書

日露戦争というのは、日本が朝鮮を完全なる独立国として維持し、そこからロシアの影響を駆除しようとしたことに発端があったわけであるが、その事は、日本の国益とロシアの国益というものが、朝鮮という舞台の上で衝突したわけである。
よって、日本側としては、自らの所信をはっきりさせるために、朝鮮と条約を交わしたわけである。
それが日韓議定書といわれるもので、1904年2月23日付けでこうなっている。
第1条、大韓帝国政府は大日本帝国を確信し、施設の改善に関し、その忠告を入れること。
第4条、第3国の侵害のより、若しくは内乱のため、大韓帝国の皇室の安寧あるいは領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国は速やかに臨機必要の措置を取るべし。
第5条、両国政府は相互の承認を経ずして、従来本協約の主旨に違反すべき協約を、第3国との間に訂立する事を得ざること。
この内容というのは、明らかに朝鮮領内のロシアの影響力というものを排除する方向に向いている。
日本がこういう態度に出るには、やはりそれだけの理由があったわけで、それは当然、日露戦争の原因とオーバー・ラップしているわけである。
ロシアと戦う以上、その主戦場が朝鮮半島であったが故に、その了解を取り付けたともいえるわけである。
第1条で言うところの「施設の改善」ということは、旅順の要塞化のようなことを指している、ということは歴然としている。
旅順と言うのは、厳密には清の領域であるが、ここが要塞化されたことによって、日本はそれこそ目の上にたんこぶが出来たようなもので、極めて戦略的に不利に立たされたわけである。
以下の条文は、ロシアが侵略的な行為に出てきたときは、日本が断固対応するから任して置け、というようなニュアンスである。
もし、ロシアと手を結ぶようなときは、我々に黙ってはするなよ、ということを言っているわけである。
こういう手順を踏んで、日本は朝鮮の地でロシアと戦争をしたわけである。
この時、朝鮮は中立を宣言しているわけであるが、ここがそもそも彼等の自意識の欠如である。
朝鮮というのは実に不思議な国である。
日清戦争というのも、基本的に、その戦場は朝鮮半島であったし、日露戦争においても全くそれであったし、第2次大戦後の朝鮮戦争というのも、自らの民族を二分して、自らが敵味方に分かれて戦った部分もあるが、実質的には米ソというか、米中というか、共産主義と資本主義の代理戦争であったわけで、いづれにしても朝鮮半島は主戦場であった事は紛れもない事実である。
自分の国で他国が戦っているのを傍観していたわけである。
だからこそ21世紀に至っても民族統一がなされないわけである。
日本の識者の中には、日露戦争で、日本が韓国の首都漢城を軍事占領して、日韓議定書を無理やり押し付けて、日本軍の朝鮮での行動を阻止できないようにした、という意味のことを述べるものがいるが、これはあくまでも手順なわけで、ロシアの方は、そういう手順を踏まず、勝手に押しかけ勝手に陣を張ったわけである。
しかも、ロシアは清とは条約を交わしているが、朝鮮とは何もなかったわけで、この違いをどう説明したらいいのであろう。
日本の識者というのは、どうして自分の祖国を、卑しめることに熱心なのであろう。日本が手順を踏むと、それは侵略であったわけで、ロシアの方は傍若無人に振舞っても全くお構い無し、という思考は、何処から出るのであろうか。
ロシアの方はどんどんと内陸のほうから鉄道を引いてくるのに、朝鮮は何もそれに対して言わないのは、どういうわけのであろう。
要するに、彼等朝鮮民族にとっては、有史以来、日本に対しては高飛車な態度に出ても良心の呵責に触れないのである。
しかし、ロシア人というのはやはり紅毛碧眼の人種で、彼等に対しては、支那人も朝鮮人も、実に卑屈になっているわけである。
これは明らかに朝鮮人の持つ差別意識であり、日本に対しては舐めてかかっているが、紅毛碧眼の人種に対しては、無意識のうちに卑屈になるわけである。
しかし、純粋にこの日韓議定書なるものを読んでみれば、これは明らかに日本が韓国を保護下に置くという主旨のものであり、韓国は日本によって、その安全保障を得るというようなものである。
それを実効有らしめるには、勝手に外国と条約を結ぶなよ、という主旨のものである。
まるで戦後の日本とアメリカの日米安保条約のようなものである。
日本の朝鮮支配と、戦後のアメリカの日本占領政策というのは、よく似た部分が非常に多いわけであるが、決定的に違うところは、アメリカは日本を間接統治したが、日本は朝鮮を間接統治できなかったという点である。
何故、日本は朝鮮を間接統治できなかったかといえば、朝鮮があまりにも政治的に未熟で、政治が政治にならず、行政が行政として機能しなかったからである。
それが明治初年の書契問題から発して、日本に征韓論が沸騰する原因でもあったわけで、朝鮮には政治感覚というものが無に等しかったわけである。
すなわち、統一国家というものが出来ていなかったからである。
日本の場合、アメリカに戦争で負けたとはいえ、進駐してきたマッカアサーの命令は、焼け野原の日本の隅々にまで行き渡ったわけであるが、それは日本では政治システムといい、行政システムといい、敗戦の何もないに日本の中でも、見事に生きていたからである。
だからマッカアサーは、日本のその生き残った政治システム、行政システムを利用して、間接的に戦後の日本を支配しえたわけである。
ところが日本が支配しようとした朝鮮には、その政治システムもなければ、行政システムもないものだから、その場その場で力を誇示しなければ、朝鮮の人々というのは動かなかったわけである。
日本人の言うことだから動かなかったというのならば、まだ理解の余地がある。
しかし、彼らは同胞同志でも、人の言うことには動かなかったわけで、これでは全く進歩ということは望めなかったわけである。
この根本のところにある発想の違いを、分かりやすい例で引用すれば、日本も今の韓国も資本主義の社会であるが、資本主義の社会では、物を作って売らなければならないが、このものが売れないとき、韓国の人々は「物が売れないのはおまえが買わないからだ、お前は差別をしている、ついては金よこせ」という発想で、自分の不利なことは全部人の所為にして、自己への反省が全くないわけである。
ところが我々の場合は、「物が売れないのは何処に原因があるのであろう、それを探し出して、そこを是正しなければならない」という自己への反省が先に立っているのである。
この積み重ねが、日本と韓国の相違となって現れていると思う。
自己への反省ということが、民族の内側に向けば、民族の統一ということも夢ではないと思うが、夢が実現しないのは全て他人の所為で、他人の所為で自分達の夢がかなえられない、と思う限り民族の統一もありえないと思う。

第1次日韓協約

というわけで、日韓議定書というのは、日本が韓国を支配する、というよりも保護国とするための第一歩であった事は間違いない。
この保護国ということは、朝鮮はもはや完全なる自主権を持った独立国としては認めがたい、という結論でもあったわけである。
日本は朝鮮半島という地域に、完全に自主権を持った国、独立国を作ることにより、その国との対等の立場で、双方の国益を重じ、同時にロシアの南下を食い止めよう、という日本の理想というものが、根底から崩れたということでもあったわけである。
この日本の理想というのは、その後ソビエット連邦が崩壊し、東西ドイツが再統一されたときの深層心理と相通ずるものがあるわけで、東ドイツと西ドイツでは大きな経済格差があったにもかかわらず、西ドイツは敢えて東ドイツ国民の負担増を背負うことにより、民族再統一のほうを選んだのと同じ発想であったわけである。
今、朝鮮半島で再統一が実現しないのは、双方が面子を盾に、犠牲を払うことを避けているからであって、その事は自分達の未来に対して投資し、リスクを負い、人の為に何かをなそう、という発想が欠如しているからに他ならない。
現状が壊れることを極端に恐れ、未来に夢を託すことに消極的で、我が身の安泰だけを願っているからである。
日本が朝鮮を保護国にしようと思ったのは、決して西洋先進国の帝国主義、乃至は植民地主義と同じ発想ではなかったわけで、朝鮮の民族から富の搾取をするつもりはさらさらなかったわけである。
泥棒のように、黙って人のものを取るつもりならば、相手を保護しようという気は根底から不要なわけで、相手をどうにかして立ち直れせようと思うからこそ、保護であるわけである。
搾取するだけならば、保護など不要なはずである。
日韓議定書が1904年、明治37年2月23日に締結されたが、その半年後、8月22日には、第1次日韓協約というものを締結した。
それは
第1条、韓国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財政顧問として韓国政府に招聘し財務に関する事項は全てその意見を詢とすべし。
第2条、韓国政府は日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問として外部に招聘し、外交に関する要務は全てその意見を問い施工すべし。
第3条、韓国政府は外国との条約締結その他重要なる外交案件即ち外国人に対する特権譲与若しくは契約等の処理に関しては、あらかじめ日本政府と協議すべし。
となっている。
これらの日韓の条約というのは、日本とロシアが朝鮮の目の前で戦争をしているときに行われたわけで、その条約そのものは、日本の支配権の露骨な提示であったにもかかわらず、朝鮮側ではそれへの抵抗ということが全くなかったわけである。
全くなかったというわけではないが、その抵抗がテロとか騒動で終わっているうちは、民族の自主独立運動のうねりとはならないわけで、一部の跳ね返りとして、押さえ込まれてしまうわけである。
自らの屈辱が、民族的運動とならなければ、自主独立ということにはつながらない。
こんな馬鹿なことが歴史上許されていいものかどうか実に嘆かわしい限りである。
朝鮮民族というのは、民族の誇りというものを持っていないのかと言いたい。
21世紀の今日、朝鮮の人々は「日帝36年の怨」と言う事を言っているが、明治の後半のこの朝鮮の人々の態度というか、生き方というか、この情けない精神構造を見ると、彼等の言う「日帝36年の怨念」というのは、自分自身、つまり朝鮮民族の内側に向けなければならないと思う。
この私の感想というのは、何も私の思い上がりでもなければ、私の偏見でもないわけで、この当時、既にそのことを指摘しているジャーナリストはいたわけである。そして、この朝鮮の人々の腰抜けの精神構造というのは、この当時既に世界に知れ渡っていたわけで、知れ渡っていたからこそ、日本が朝鮮を実質支配しても、世界の常識としては、それを容認していたわけである。
この第1次日韓協約の締結を報じたタイムズ紙はこう報じている。
「日本人は朝鮮との間に追加条約を取り決めた。
条約によって望ましい改革への道が開ける。
それは朝鮮の利益にとって望ましいばかりではなく、疑いもなく日本のためにも望ましい改革である。
朝鮮は日本人の財政顧問と日本の信任を受けている外交顧問の採用を契約している。
日本人は、朝鮮が進歩の名に値する進歩を達成するためには、他にも数え切れない改革が肝要な事をよく知っている。
しかし、また、この時代の朝鮮が、自発的にこれらの改革を採用する見込みのないこともよく知っている」
まさしく的を得た論評であると思う。
そして、日露戦争が終わった時点では次のような論評もあった。
「一部の外国人や朝鮮人は、日本が保護統治を行っていると非難するが、日本は会戦以来、保護統治を行っている。
朝鮮の災いの元は日本ではなく、無知と迷信と残酷がまかり通る宮廷にある。
戦争は朝鮮人に関係あるのに、何の苦労もしなかった。
そこに気づいて、はじめて保護統治と日本人の横暴に反対の論陣を張ることが出来よう。
君等も、支那も、全力を尽くして極東をロシアに売り渡そうとし、日本は巻き込まれた。
今、その決算の日がきたのです。
君等の愚かな行為のために、日本がどれだけ金額を支払わねばならなかったのか、どれだけの命を失ったかを考えても見なさい」
これは私の考えではない。
日露戦争直後に、西洋人のジャーナリストが、日本と韓国の関係を冷静に見たときの感想であり、考えであったわけであるが、この論評を見ても、私の言っていることと大差ないわけで、私は今この文章を書いているとき、たまたまこの文章に出会ったわけである。
そこには私の考えていたことを全く同じ事が記されていたわけである。
その事は、当時の常識ある知識人には、普遍的なことであったわけで、その事は、同時に日本の統治者も、また当時の西洋先進国の間でも、同じような考え方が普遍化していたし、その見方というのは共通していたと推測する。
日韓議定書というのは、明らかに、日本が韓国を保護の下に置こうとしているわけであるし、第1次日韓協約というのは、明らかに韓国の自主権を制限し、外交権にも制限を加える事を目的としている。
もし、こういうものを他民族から突きつけられたとしら、その民族なり、主権国家というのは、死に物狂いで抵抗してしかるべきである。
しかし、そういう死に物狂いの抵抗をするには、民族の心を一つにするというか、統一された民族意識をもつというか、その民族が一丸となって抵抗しないことには近代的な軍隊には抵抗しきれないわけである。
その事は逆に言うと、この当時の韓国には、高宗の政治システムとか行政システムというものが全く機能せず、国家が国家足り得なかったわけで、ただ単なる朝鮮民族の烏合の衆の集団であった、というに過ぎなかったわけである。
だからこそ、「無知と迷信と残酷がまかり通る宮廷にある」という表現になるわけである。
自分の領地内で、日本と清、乃至は日本とロシアが戦争をしているのに、傍観者として見ていると言う事は、「戦争は朝鮮に関係あるのに何の苦労もしなかった」という表現になっているわけである。
日本から理不尽な条約を突きつけられたら、徹底的に交戦すべき事が、彼等の民族の誇りでなければならなかったわけである。
そして、日露戦争が終わり、日本は死力を尽くして戦ったにもかかわらず、賠償金も得る事が出来なかったということは、血であがなった戦争にもかかわらず、得るものが何もなかったという大きな不満となり、その不満は、日比谷公園の交番焼き討ちということで鬱憤を晴らす方向に向かったわけである。

第2次日韓協約

その後、日本は本格的に朝鮮の支配を強めていく事になったわけである。
それはその年の11月17日に締結された第2次日韓協約である。
その内容の一部は
第1条、日本国政府は在東京外務省により、今後韓国の外国に対する関係及び事務を管理指揮すべく、日本国の外交代表者及び領事は、外国における韓国の臣民及び利益を保護すべし。
第2条、日本国政府は、韓国と他国と間に現存する条約の実行を全うするの任にあたり、韓国政府は今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らかの条約もしく約束をなさざることを約す。
第3条、日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の闕下に1名の統監をおく、統監はもっぱら外交に関する事項を管理するため京城に駐在し、親しく韓国皇帝閣下に内謁するの権利を有す。
日本国政府は又韓国の各開港場及びその他日本国政府の認める地に、理事官を置くの権利を有す。
理事官は総督の指揮のもとに従来在韓国日本領事に属したる一切の職権を執行し、合わせて本条約の約款を完全に実行するために必要とすべき一切の事務を掌理すべし。
第4条、 日本国と韓国との間に現存する条約及び約束は、本協約の約款に抵触せざる限り全てその効力を継続するものとする。
     第5条、 日本国政府は、韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保障する。
この条約を韓国に認めさせるに、日本側の伊藤博文は、確かに恫喝的な文言を用いて相手に迫っていることは確かである。
そしてそれを受けた韓国側の担当者も、実にその場の状況に切歯扼腕していることも確かである。
「外交すら貴国に委任せんか、全くの命脈断絶の悲境に沈むべし」と、偽らざる心境を吐露している。
しかし、如何せん、実績がものを言うわけで、ある日突然降って沸いた悲運ではないわけで、明治維新に遡っても、書契問題からして、清の頚城から脱する事にも躊躇し、その上西洋の力を見くびり、日本を夷狄だと思い込んでいた付けが、この時になって露呈したわけで、その時になっていくら切歯扼腕しても遅かったわけである。
こういう事実は、今の韓国にとっては、「民族の負の遺産」又は「民族の恥部」になるわけで、恐らくこういう自らの民族に反省を強いるような内容の教育は行っていないに違いない。
そしてその事は同時に「歴史の歪曲」でもあり、過去の歴史を直視していないことであり、歴史認識の欠如にもなっている、という事が彼らには分かっていないということでもある。
日本が朝鮮の人々を支配しようとした過程は以上のようなものであったが、ここで注目しなければならないことは、日本は決して朝鮮の人々を奴隷にしようとか、搾取しようとか、ホロコーストしようとか、そういう発想は全くなかったということである。
ソビエットが崩壊して、東西ドイツが統一したとき、西ドイツの人々は、東ドイツの人々を温かく迎えようとしたが、この時点では経済の格差というものが大きくたちはだかっていたわけである。
日本が朝鮮を支配しようとした時にも同じ状況があったわけで、我々は温かく迎えようとしても、経済の格差、及び教育の格差、風俗の格差、因習の格差というものは歴然と残っていたわけである。
それと、東西ドイツのように、我々の場合は、同一民族ではなかたったわけで、このあらゆる社会的な格差の是正が、「いらぬお節介だ」と言われれば、我々の側としては返す言葉もないわけである。
韓国を実効支配はするが、韓国臣民の利益は保証するといっているわけで、そのことは当然、野放図に生きることを保証するというものでもないわけである。
朝鮮の人々は、自分達を自分達で治めきれないので、我々が変わりに治めてやるが、その代わり、我々の決めた規則はきちんと守りなさいよ、というものである。
21世紀の今日、日本の識者も韓国の世論も、日本が植民地支配をしたと言う表現を安易に使っているが、この表現を使うと、何か日本が悪い事をしたというイメージが自然に湧き上がってくる。
植民地という言葉を広辞苑で引いてみると「ある国の海外移住者によって、新たに経済的に開発された地域。本国にとって原料供給地、商品市場、資本輸出地をなし、政治上も主権を有しない完全な属領」となっている。
日本の朝鮮支配そのもののことが書かれているが、朝鮮は植民地になる以外の道で近代化をなしえたであろうか?ほかに選択の道がありえたであろうか?という問いかけ、ないしは発想というものには未だ出会ったことがない。
「政治的にも主権を有しなかった」という事も、日本が主権を取ってしまったから、「日本は悪魔だ、」という言い方が普遍的であるが、果たして朝鮮には実質的な主権があったのか?という疑問は誰も呈していない。
大韓民国の高宗は果たして本当に朝鮮の、韓国の主権者であったのかどうか、誰も疑問を呈していない。
朝鮮民族が、自らの主権を持っているのかいないのか分からないからこそ、「保護しよう」という発想が我々の側に生まれたわけである。
先の日韓議定書の文言を素直に読めば、「我々日本が守ってやるから、軍隊の移動には便利を図れ、そうすれば我々が外敵の進入を食い止めてやる」といっているわけで、それは、戦後の日米安保のようなものである。
1945年、昭和20年、我々は第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争に敗れ、国土は灰燼と化し、都市は焼け野原、失業者は町にあふれ、浮浪者は上野の山にねぐらを求めて集まり、食糧難で、食うものもなければ着る物もない生活を余儀なくされたが、朝鮮の人々と違って、政治システムとして、行政システムとして、国家のシステムは完全に機能していたわけで、そこに進駐してきたマッカアサ−と彼のGHQというのは、日本の行政システムに命令さえすれば、それは日本の隅々にまで伝わっていったわけである。
ということは、戦争で敗れ、無一文になったとはいえ、統一国家としての体はなしていたわけである。
ところがこの明治後半の朝鮮では、こういう統一国家として機能そのものが存在していなかったわけである。
それは日本が圧迫したからそうなったのではなく、もともとそういうものが存在していなかったから、日本が高圧的にそういう形を整えたわけである。
民族として、その地に営々と生活をしていた事は疑う余地はなかったが、それは近代的な社会というものを形作らない、烏合の衆として、そこに存在していたということである。
そこがアメリカのネイテブ・アメリカンと同じで、ネイテブ・アメリカンというのは未だに自分の国というものを持たず、アメリカという大陸に、自分達のテリトリーの中で小宇宙を作り、そこからは出ようとしていないわけである。
朝鮮の人々も、そういう生活がしたかった、といわれれば我々は返す言葉もないが、朝鮮の人々が近代化の波の乗ることを躊躇した、ということは彼等の心の奥底にはそういう気持ちがあったのかもしれない。
しかしそうは言うものの、清の庇護を認めたり、ロシアの領事館に逃げ込んだり、ということは必ずしも、2千年前、3千年前の小宇宙の中の生活を欲していたわけではないと思う。
朝鮮の人々は、宗主国に清を戴いていたときには、旧態依然とした生活の中で自己満足の世界に浸りきっていたわけであるが、宗主国というものが日本に変わると、日本は、自分自身のためにも、朝鮮の人々を旧態依然のままの状態には置いておけなくなったわけである。
なんとなれば、そのままの状態にしておけば、いずれ清が自分の領域にするかもしれないし、ロシアが自分の領域にするかも知れなかたったわけで、そうならないためには、朝鮮を一刻も早く近代化して、日本と同等の力を持つ国として、対等の立場として、そこにあってほしかったわけである。
朝鮮、つまり韓国が、日本と同等に近代化した主権国家として統一されておれば、日本にとっては、その存在そのものがロシアの防波堤になり、清の防波堤になると思っていたわけである。
ところが朝鮮の人々というのは、自分で自分を統一することさえできず、ロシアに身を売ろうとしたり、清に身を売ろうとしたものだから、「これでは直接管理しなければならない」という結論に達したわけである。
最初は、朝鮮というものを、保護するという形で管理しようとした、ところがこの保護という形は、朝鮮の側にある程度の自助努力が必要なわけで、その自助努力が全くないということが分かれば、次は自分の側に取り込んでしまわなければ埒があかないということになったわけである。
19世紀から20世紀前半における世界の流れとして、この帝国主義的植民地支配というのはある意味で正義であった。
イギリスのように、自分達の血を流して獲得した植民地というのは、純然たる「富の狩場」として情け容赦なく「富の収奪」をした国もあったわけで、西洋列強というのは、そのことによって近代化を成し遂げたといってもいい。
ところが日本というのは、獲得した植民地というものを「富の狩場」としては見ていなかったわけで、あくまでも獲得したテリトリーの中の人々の生活の向上までも視野に入れていたわけである。
これは従来の帝国主義的植民地経営にはない発想で、日本独自のアイデアであったわけである。
第2次世界大戦に敗れるまで、日本が持っていた台湾と朝鮮というのは、日本人の感覚からすると、全く植民地と思っていなかった。
第2次世界大戦が終わって日本が敗戦し、勝った連合軍が台湾や朝鮮を開放したとたん、植民地という言葉が出てきたわけで、我々の祖父の世代の人々は、朝鮮や台湾を植民地などとは思っていなかった。
内地と外地という言い方はあったが、植民地などという感覚は微塵も持っていなかった。
植民地などと思っていなかったから、日本は「韓国の領土及び臣民を保護する」という発言になり、その事は「韓国の安全を脅かすものは日本が代わりに成敗する」ということを保証しているわけである。
そして、この日韓協約というのは第3次まであり、その前文では日本政府及び韓国政府は、速やかに韓国の富強を図り、韓国民の幸福の増進せむとするの目的を持って左の約款を約定せり、といっている。
この協約のポイントは、要するに「今後、韓国の政治は統監の元で行え」ということに他ならないが、ここで言っている「韓国の富強をはかり」という文言と、「韓国民の幸福の増進せむことを目的とする」という文言は、非常に重要だと思う。
自分の国の国民の血であがなった植民地において、その植民地の「富強を図り」「その国民の幸福の増進を図る」帝国主義国家というのが、この地球上に存在していたであろうか。
イギリスがインドを植民地にして、インドの富強を図り、インド人の幸福の増進に寄与しただろうか。
フランスがインドネシアを植民地にして、インドネシアの富強に寄与し、インドネシア人の幸福に寄与しえたであろうか。
こういう事を考えると、日本が朝鮮を支配したということは、普通に歴史の教科書で言うところの、ただの植民地支配とは異質なわけで、日本が朝鮮を保護国として扱ったということは、親の庇護の元で生きる子供のようなものであって、子供が親の庇護の下でおとなしくしていれば何ら親の折檻は受けないが、親の言うことに逆らえば折檻を受けても致し方ない、という状況ではなかったかと思う。
彼等の立場に立てば、こういうものの見方には承服しかねるであろう事は大いに想像できるが、ならば未だに南北が統一できないでいる、ということを彼等はどういう論理で説明するのであろう。

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