拭い去れない差別意識

偏見と差別

私はこの見方に対して非常に不満があるが、世論というものは、個人の思いとは全く別の動機で動いているわけで、これは個人がいくら悔しい思いをしたところで意味が無い。
然るに、朝鮮の人々や、中国の人々が、日本の教科書にも嘴をいれて内政干渉まがいのことをしているのは、自分達の苦難の道が、当時の彼等の民族の社会的トップの政治的無能がなさしめた、という自らの反省が足りないからだと思う。
「自分は決して悪くはなく、悪いことは全部人の所為にする」という彼等のものの考え方というものは、我々の側では思い込みによって潜在的に刷り込まれてしまっているわけで、これは完全なる差別意識であり、蔑視観であるが、これを覆すような彼等の行動というものが全くないわけで、実績が実績を生んでしまっていたわけである。
私、個人に付いて言えば、やはり朝鮮の人々や、中国の人というのは信用できないという潜在意識は拭い去れない。
完全なる差別意識であるが、この思考というものは、民族の違いというものが存在する以上、生きつづけているわけで、朝鮮の人々が、今日本の教科書にまで嘴を入れる主張というのも、いわば逆差別なわけで、双方が同じように差別意識をもっているということに他ならない。
我々が差別意識を持てば、彼等の側はそれに対抗すべき逆差別の意識をもつわけで、それは硬貨の裏表と全く同じ事なわけである。
この差別意識というのは、人間の感情なわけで、生きた人間からこれを無くせということは「死ね!」ということに他ならない。
しかし、人間というのは、感情を持っていると同時に理性というものも併せ持っているわけで、お互いが差別意識丸出しで生きていてはトラブルが絶えないので、これを理性で打ち殺しているわけである。
理性で抑えているから社会というものが荒立たずに回っているわけで、その根底にある差別意識というものが、全く無くなったわけではない。
その人間の理性というものを、若い人たちに植え込む作業が、本当は教育でなければならないわけで、それを朝鮮や中国のように、学校教育の段階から差別意識を強調するような方針をとるということは、大いに再考しなければならない。
21世紀の日本では、日本の将来をになう子供に、我々の過去の行為を再び繰り返してはならない、という事を教えているのに、彼等の側では、「日本人はこういう悪い事を我々に対して行った、それを忘れるな」という被害者意識を売り物にする教育をしているわけで、これはまさに差別意識を強調することであり、自分達の民族の失敗というものを覆い隠すことである。
我々も、朝鮮や中国に人々も、お互いに人間である以上、自分の暗部とか、恥部というのはあまり後世には残したくなく、出来うれば忘れ去りたいと思っていることは同じである。
我々にとっての暗部とか恥部というのは、やはり真偽はともかく、南京大虐殺であったり、従軍慰安婦の問題であったりするわけであるが、彼等にとっての暗部と恥部は、彼等の過去の指導者が彼等の同胞を日本に売った、乃至は、そういう状況に自分自身を追い込んでしまった、という事実でなければならない。
今の朝鮮や中国で、日本に対する差別を助長するような教育が行われているという事は、彼等の失敗の原因、つまり、何が原因で殻らは日本の支配を受けたのか、という自らの反省を究明することなく、悪いのはなんでもかんでも日本の所為にする、という攘夷思想そのものである。
生きた人間の理性を磨くことを否定し、感情に訴えて、その民族の奥底にある潜在意識としての差別意識というものを助長しようとしているわけである。
これもその民族の社会的トップのしていることで、社会の階層の下の部分は、そのトップの指針から脱することが出来ず、民族全体として、再び盲流しなければならないことになる。
この21世紀において、韓国では日本の文化を拒否するようなことをしている。
これは明らかに差別であるが、この差別に対して、日本の側からもクレームをつけたことはないし、韓国が勝手にしているわけで、もしクレームをつければ、これは明らかに内政干渉であり、我々の側としてはつけるべきではない。
これは我々の側の理性なわけで、私個人では「何を馬鹿なことをしているのか」と思っていても、それは日本人全体としては声にならないわけである。
我々の側で声を出さず、知らん顔をしていること事自体が、我々の側の理性なわけである。
我々、日本民族として知らん顔をしていても、マスコミ、特に電波というものには戸が立てられないわけで、遠慮会釈なくあちらに入ってしまうわけである。
それを見聞きしたあちらの人間は、どんどん日本に来たがるわけである。
ひところ流行ったキーセン買春旅行なども、従軍慰安婦の問題であれだけ日本に抗議するぐらいならば、韓国の政府がそちらのキーセンというものを自らの力で完全に取り締まって、ゼロにしまえば、そのまま自然解消するのに、そうしないで、外貨獲得のために残しているわけである。
それでいて口先だけは姦しく騒ぎ立てるわけで、ここに朝鮮民族の本質が隠されている。
ここで言う理性というものが案外あてにならない事は重々承知している。
理性の名で行った事が、不本意な結果をもたらした事例というのは、刷いて捨てるほどあるわけで、それとは逆に、感情の赴くままなした行為が全て良かったかというのも間違いであり、要するに、理性も感情も結果から見れば、功罪は相半ばするわけである。
日本と韓国の関係をインターネットで調べていたら、「日本がアジアにしてきたことに対してアジアの人がどう思っているか」というものにぶつかって、それをよく読んでみたら、日本と韓国の意識調査をしたものが見つかった。
その中で「韓国人が日本といえば何を連想するか」という質問項目があり、その回答の3割以上が、日本の植民地統治のことと述べている。
その事は、韓国の人というか、政府というものが、教育の現場で反日的な教育をしているという事に他ならない。
ここに私の言う民族の反省が現れているわけで、我々ならば、戦争の敗因は我々の内側にあるという反省に立って、その後の生活信条というものを築き、その後半世紀生きてきたが、朝鮮の人々は、自らの失敗の原因を追求することなく、又反省もすることなく、自分達の失敗の原因を他人の側に押し付けて、自分は少しも悪くなく、悪いのは全部他人の側にある、という論理がそこには流れているわけである。
その論理の上に立って、未だに反日教育をしているわけである。
このインターネットの調査には、末尾において、在日朝鮮人にインタビューした記事が掲載されているが、そのインタビューに応じた人は、「12歳で奉公に出され、13時間にも及ぶ長時間労働を強いられて非常に苦労した」という主旨のことを答えている。
まるで以前NHKの朝の連続ドラマで放映された「おしん」の物語と同じであるが、あの「おしん」の物語というのは、あの時代の日本では極あたりまえの話で、日本中何処でも転がっていたわけである。
そして、朝鮮人なるが故にいじめにあって、惨めな思いをした、というお涙頂戴式の話になるが、いじめというのは日本だけの問題ではなく、人間の集まりにはついて回ることなわけで、それさえも日本側の朝鮮人支配の典型的な例にしようという魂胆は、非常に悪意に満ちた発想といわなければならない。
日本の若い世代が、自分の祖国の悪行を裁こうと、安直な義侠心にかられて、朝鮮の古老に話を聞きに行けば、当然「昔は苦労した」と言う話になるわけで、同じ事を日本人の古老に聞けば、同じように「昔は苦労した」という話を聞かされるわけである。
同じ内容の話をきいて、朝鮮人の古老の話には感動して、自分の同胞の古老の話は信じようとしないのは何故だろ。
ここには明らかに意識の内側、つまり自分では全く意識していないにもかかわらず、差別意識が心の奥底に内在しているわけで、自分のおじいさんやおばあさんの話は空気のように全く意識の外にあるが、目の前で語ってくれている人が、朝鮮人であると最初から意識していると、素朴な感情としての同情心がふつふつと内側からこみ上げてくるわけである。
その事は、人間としては、非常に素直な気持ちを持っていることであり、純真であり、感情的であることの証左であり、決して咎める必要はないが、その内側には、本人自身も気がついていない差別意識というものが内在しているわけである。
しかし、自分達の先祖が、朝鮮の古老と同じような苦労をしてきた、ということには全く無関心ということは、ある意味で亡国的な現象で、日本の将来を予見させるものである。
如何なる民族においても、又何処の主権国家であろうとも、若い世代というのは、純真で、穢れを持たず、素直なわけであるが、国家というものが、こういう若い世代に対して、ある限定したイデオロギーを植え付けるようとするから、この世は混沌とするわけである。
その典型的な例が、戦前の日本の軍国主義の吹聴であり、20世紀後半においては、韓国や中国の反日教育である。
我々がアメリカに負けたからといって、それから半世紀以上も反米教育をしてきたとしたら、この日本だけではなく、アジアだけでもなく、世界そのものがいびつな有り体になっていたに違いない。
「米帝6年半の屈辱」などといって、自衛隊を軍隊に改変して、自力で国防というものを持ったとしたら、今の韓国や中国というのは、枕を高くして寝れないに違いない。
日本そのものの発展もなければ、アジアの発展も考えられず、当然、朝鮮半島というのは戦争の火種を未だに抱え込んで、世界の発展そのものもありえなかったわけである。
我々は、戦争で我々を負かし、そして我々を占領統治した側とも仲良く手を結んだからこそ、今日の発展があるわけで、そのことの恩恵は、韓国の人々も充分に享受しているわけである。
朝鮮の人々が日本に対してよい感情をもたないというのも、第2次世界大戦前のこういう歴史的経緯を見れば、心情的には我々も理解しえる。

何故統一のチャンスを失ったのか?

日本が彼等を支配したことは歴史的事実として消しようがないが、ここでもう一歩掘り下げて考えてみると、朝鮮の人々というのは、1945年、昭和20年の8月において、本当に日本の植民地支配下から、いや大日本帝国から独立したのかどうかということである。
少なくとも、朝鮮民族の内なるナショナリズムで、朝鮮民族が独自に日本という頚城を打ち破って独立したわけではない。
昭和20年、当時朝鮮にいた大日本帝国の軍隊というのは、朝鮮に進駐してきたアメリカ軍とソビエット軍に降伏したわけで、朝鮮の抗日レジスタンスに降伏したわけではない。
アメリカ軍とソビエット軍が来る前に、天皇の詔勅で、大日本帝国軍人は、武器を置いた、ということはあったかもしれない。
少なくとも、ベトナム戦争のときのアメリカの軍隊のように、その当時の大日本帝国の軍人達が海に追い落とされたわけではない。
我々の先輩諸氏が、朝鮮の人々にしたことは、アメリカが日本のしたようなことをしたわけではない。
アメリカが日本にしたことは東京大空襲であり、大阪、名古屋という大都市も、東京と同じような空襲にあい、日本は焦土と化し、広島、長崎の例はもとより、憲法までも変えさせられたわけであるが、これを朝鮮流に表現したらどういうことになるのであろう。
私がこれまでに何度も指摘してきたように、人間というのは、過去に固執していては進歩はないわけで、過去の事は過去の事として、それを外交のカードとしたり、相手を誹謗するカードにしていては、将来に向けての展望は開けないわけである。
昭和20年の時点に立ち返って考えてみれば、彼等は開放され、日本の頚城から脱し、独立を得る機会を得、戦勝国になったわけで、その時にそうしなかったのは彼等自身の民族の問題であったわけである。
日本に支配されるようになったのも、彼等の内側に要因を含んでおり、日本が敗戦で無一文になり、国土が焦土と化し、全く国力というものを失ったときにおいても、彼等朝鮮の民族、朝鮮の人々が統一国家を作りえなかったのは、自分自身を律する事が出来ず、自分の祖国を自主独立するに値する熱情を欠いていたからに他ならない。
北からソビエットという共産主義者に蹂躙され、南はアメリカ帝国主義によって開放されたとはいうものの、それを未だに一つに統一できないでいる、という事は彼等朝鮮の人々、朝鮮民族自身の問題なわけで、それが55年を経過し、21世紀に差し掛かってもまだ出来ないでいる、というところに日本に支配されても仕方がない要因が潜んでいたと思う。
昭和20年という時点で、彼等は開放されたわけで、その時日本は連合軍、実質はアメリカ軍に占領されていたわけである。
開放されたということと、占領されたということは、天と地ほどの違いがあるわけで、その点をよく考えなければならないと思う。
日本の知識人も、その違いには言及せずに、朝鮮の人々も、その違いを全く無視しているというか、気がつかないでいるというか、深く考えようともしていない。
昭和20年、1945年、日本は連合軍とは言うものの、実質アメリカに占領されたわけであるが、朝鮮半島というのは、北半分はソビエット連邦共和国に、南半分はアメリカによって開放されたわけである。
この「占領」ということと、「開放」ということは、もっともっと厳密に比較検討する必要があるように思う。
「軍事占領」と「民族開放」とでは、どう考えても天と地ほどの違いがあるように思う。
この時点で、朝鮮半島というのは、社会の基盤整備というのは完全に温存されていたわけで、朝鮮の都市というのはアメリカ空軍の戦略爆撃というものは全く受けていなかったと思う。
東京、名古屋、大阪、広島、長崎というように、日本の都市は全く灰と化していたとき、朝鮮の都市の機能は完全に生きていたのではないかと思う。
台湾でもそうである。
完全に機能している都市と、灰と化した荒野から、都市を再建するのとでは、それに費やされる人間の努力というものは計量の仕様がないのではないかと思う。
第2次世界大戦において、アメリカの敵は日本であったわけで、朝鮮ではなかったわけである。
だからアメリカは朝鮮半島には空襲ということをしなかったわけで、その事は都市が全く破壊されずに残った、ということである。
しかし、その生き残った社会的基盤というものを、朝鮮の人々は有効に継続して使用したかといえば、必要に迫られて使わざるを得なかかった部分もあるが、それから50年も経つと、それを怨念の象徴として見るようになった。
こんな馬鹿な話もないわけで、解放直後に日本のものは全部壊して、その後に自分達の気に入ったものを造る、というのならば理解できるが、散々使っておきながら、50年も経ってから、あれは「日本が作ったものだから、怨念がこもっている」という発想は、理性的なものの考え方ではない。
恩を仇で返すパフォーマンス以外のなにものでもない。

民族の本質とその相違

平成13年の5月10日において、NHK BS放送では、アメリカにおいて白人警官による黒人への過剰なる暴力について放映していた。
白人警官が、黒人容疑者に対して、いくら過剰に反応しても、それらはごく軽い刑罰で済んでしまう、ということを報じていたが、これはアメリカ社会における、白人と黒人の差別意識が、この21世紀においても厳然と存在するということの明らかな証拠わけである。
アメリカの人種差別というのは、第2次世界大戦の終わった1957年、昭和33年頃まであったわけで、アメリカにおいては白人と黒人というのは、いがみ合って生きているわけである。
社会の表面でいがみ合うということは、双方の理性が機能して、あまり露骨には表面化していないが、それはあくまでも表層のことであって、お互いのトラブルを避けるための方便であり、心の奥底では差別意識というものが厳然のこっているわけである。
これについては最初にも述べたように、人間の感情というものは、他人がいくら示唆したところで、善導できるわけではない。
人間の好き嫌いの感情は、「それが間違っているから改めよ」といってみても改まらないわけで、これは致し方ない。
嫌いな人間を、無理に「好きになれ」といっても出来ないのと同じなわけである。人間というのは、常に感情を100%表に出して生きているわけではない。
こんなことをすれば、同じ民族内においても生きてはおれないわけで、我々は自分の感情というものを、理性で以って押さえに抑えて生きているわけである。
理性で自分の感情を抑えて生きている、ということは、その理性の向こう側にある潜在意識というものまでを否定しているわけではなく、この潜在意識というものは、否定するもしないも、理性でさえコントロールの効かない部分である。
第2次世界大戦後とは言え、アメリカ社会では、表向きは人種差別というものは社会の表面から消えたように見えるが、人々の心の奥底には厳然と残っているわけで、アメリカ市民は、それを個々の理性でもって表面化させないように努力しているわけである。
今、我々日本と、韓国及び中国との関係においても、お互いの理性で交渉をしているときは問題はないが、理性の裏側にある本音の感情を前面の出だそうとするから暗礁に乗り上げてしまうわけである。
国同志の交渉事ともなれば、表面では物分りの良い事を言い合うのが礼儀であり、相手に対する敬意でもあるが、その中にもちょいちょいと本音の感情が露出することがある。
それぞれの主権国家として、人間集団としての社会の代表として、他集団と交渉するときには、この本音の部分と理性の部分を上手に按配して、自らの立場を有利に持っていかなければならない。
それが外交というものの本質である。
人間の数が多くなって、社会というものを形成すると、全員が話し合いの場に居座るということは物理的にも成り立たないわけで、どうしても双方が代表を立てて、その代表同志が話し合いをする、という形にならざるを得ない。
それが外交というものの本質なわけであるが、その事は同時に、非常な駆け引きをしなければならないわけで、ポーカー・ゲームのように、時にはブラフを掛け、ハッタリをかまし、自分の側に有利な条件を引き出すように、交渉をしなければならないわけである。
今の朝鮮の人々が、日本の教科書に差し出がましい嘴を入れるという行為も、そういう外交交渉の前哨戦であり、日韓外交の延長線上にあるわけで、常にそういう虚勢を張りつづけることで、何かの時に自分に有利な結果を導き出そうとする政略である。
今回成立した小泉首相はその件に関し、「慎重に考慮する」と言っていたが、これは駆け引きなしの外交的常套手法であり、その意味からすれば、理性で感情を抑えた妥当な答えであり、それ以外の答えはありえない。
政府の答弁としては、これ以外の答えはありえないわけであるが、先方がそういってくるについて、我々の側は、その裏側を考える必要はある。
日本が戦争に負け、朝鮮半島は解放され、その後朝鮮は独立したのかしなかったのか分からないが、少なくとも半世紀以上の時が過ぎた時点で、韓国という朝鮮半島の南半分の地域では、この半世紀の間というもの、反日教育、抗日政策というものを継続して行ってきたわけで、その結果が先のインターネットの結果にも歴然と出ているわけである。
だからといって、今の日本がその「反日教育を止めてくれ」とは先方に言えないわけで、その理由は、言えば完全に内政干渉と取られることが分かっているからである。
しかし、先方は、そ知らぬ顔で、我々の側に内政干渉してくるわけである。
ここまで考えると、民族の本質が見えてくる。
つまり、彼等は、強い者には媚をうり、弱い者に威張り散らす、という民族の根源的な資質が露呈してきているわけである。
しかし、こういうことは公の場ではいえないし、理性的な発言ではないことは重々承知しているが、私はこういう理性的な人間ではないので、感情の赴くままものを言っているわけである。
民族の相違を考えるとき、やはり綺麗事では済まされない部分があると思う。
奇麗事を言っているだけでは国益を損なう事があるわけで、日本の進歩的と称する人が、先方のいうことを鵜呑みにして、ODAなどと称して金をばら撒いていることなど、明らかに日本の国益というもの損ねている。
日本はアジアで屈指の金持ちの国だから、金をくれてやって、相手が黙っている間はそれでも済むが、我々の側に金がなくなり、自分達でさえもセーブマネーを強いられるような状況に陥ると、今度は金の切れ目が縁の切れ目となりかねない。
縁が切れるだけならまだ良い。
金のない日本から、まだまだ搾り出そうとするようになると、これは容易ならざる状況に陥る。
今が丁度そのときで、日本の高度経成長が頭打ちになり、下降線をたどりはじめると、それと呼応するかのように、アジアからの日本への謝罪問題が浮上してきたわけである。
彼等、アジアの諸国家から日本を見れば、戦後の日本は、打ち出の小槌のようなもので、何かもっともらしいことを言えば、ざくざくとODAという形で金が降って沸いてきたわけである。
そして、彼等の信条としては、「人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」ということがあるわけで、恩も義理も感ずることなく、もらえるものは何でももらうことが生きる術であったわけである。
「アジアは多様性に富んでいる」といわれているが、この言葉は、最も典型的な奇麗事を言っているわけで、地位や名誉を持った知識人の詭弁でしかなく、その言葉の裏は「アジアには理性がない」という事に他ならない。

詭弁に惑わされる夷狄

平成13年5月12日の朝日新聞の読者投稿欄「声」に、68歳の大学教授が投稿しているのを見ると、「君が代」が若者の間で軽いノリで歌われ、小泉首相が靖国神社に公式参拝に行く、ということを非難する投稿が載っていた。
こういうことに大変危険感を感じるという主旨である。
又、同じところに、64歳の無職の人の投稿で、アジアの諸国から、日本の歴史教科書が、「事実をわい曲している」という指摘を受けて、小泉首相が教科の再修正に何色を示していることに関して、同じようにクレームをつけていた。
本人の言いたかったことは、首相たるもの歴史上の事実をしっかりと認識して、教科書の再修正には、相手のいう通り素直に応じるべきだ、という主旨だと思うが、よりによって、分別盛りを過ぎ、成熟しきって、達観しかけた世代の人間が、こういう思考に陥るのか不思議でならない。 「事実の歪曲」も「事実の認識」も全て言葉としての詭弁以外のなにものでもない。「事実の歪曲」については、南京大虐殺がよく引き合いに出されるが、確かにあの当時、あの場所で、日本軍による無意味な殺戮というものが起きたことは事実の一部であろうが、その事実の真の姿というのは誰にも分かっていないわけで、その真実がわからないまま、被害者の数字のみ、過小であったり誇大であったりするものだから、歪曲という言葉になるわけで、中国側があの南京大虐殺というものを日本との外交交渉の切る札として使う以上は、その正確な調査をしたうえで切り札にするのなら説得力があるが、ただ政治的に有利にしようと思って、「白髪千丈」式に誇大な言い方をしているとすれば、我々はそれを「歴史の歪曲」と言わざるを得ない。
「事実の認識」という点でも、「閔妃殺害」とか「張作霖爆殺」というのは、歴史上における、日本側の歴然たる汚点であることは紛れもない事実である。
事実は認識しているが、その認識と、その事実の歴史的解釈とは大いに違っているわけで、この歴史的解釈というのは、一つの事実に対して当時の状況から、又立場の違いから、又人々の考え方の違いから、千差万別の解釈が成り立つわけで、その千差万別の解釈の中から、たった一つの認識に絞り込むというのも無理な話である。
そして、それを「正悪」、「偽善」という価値観に絞り込んでしまうということも、人間の持つ傲慢というものである。
我々、日本民族の中には、古代から「泥棒にも3分の理」という言葉があり、近代化した中国でも「造反有理」という言葉があるわけで、悪いことをする人間にも、何かしらそれなりの理由がある、ということである。
事実を認識するということは、そういうことまでも含めて考えなければならないわけで、我々は事実の認識を怠っているわけではない。
但し、今日の日本とアジア諸国との関係というのは、先方は彼等に有利な「事実の認識」を外交の手段として講じてきているわけで、それに答えて、日本の知識人の態度というのは、先方の言う「事実の認識」をそのまま鵜呑みにして、日本の国益を相手に売ることで自分の糊塗をしのいでいるので我慢がならないわけである。
1910年、明治43年の第2次日韓協約によって、日本が朝鮮を併合したという事実は、軍事占領ではなかったわけで、1945年、昭和20年の日本の敗戦というのは、明らかにアメリカによる軍事占領であったわけである。
その意味からしても、前者は双方の合意で行われたのに対し、後者は戦争勝利者による一方的な行為であったわけである。
「事実を認識」するといった場合、この二つの事実をどういう風に認識すれば良いのか示してもらいたいものである。
事実の歴史的解釈ということならば、百人百様の解釈が成り立っても不思議ではないが、「認識する」ということとなれば、具体的にどこをどう認識すればいいのか、答えは不毛でしかない。
21世紀のアジアにおいて、アジアの諸国家が、日本に対して様々な干渉がましいことを言って来る背景というのは、この55年前には、彼等は日本を叩き潰したつもりでいたものが、その後日本は再び息を吹き返して、経済的にはアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になってしまって、彼等の上に君臨してしまったという事実にねざしたやっかみにあるわけである。
彼等とて、日本が敗戦当時のままで、東京にはぺんぺん草が生え、日本の都市は焼けたままで、子供は鼻をたらし、赤ん坊を背中に括りつけて、失業者が町にあふれている日本ならば、こういう態度なり、行為なり、発言というものは恐らくしないに違いない。
なんとなれば、それは彼等の立場からすれば、夷狄の姿であり、夷狄の本質であるから、日本が東の海のかなたにいる夷狄である限り、彼等の精神構造においては、非常な安心感を得るわけである。
ところが日本というのは、明治維新というものを経験した以降というのは、彼等の目から見て、昔のままの夷狄の存在でもなければ、化外の民でもなくなったわけで、そこが彼等の民族的潜在意識の琴線に触れるわけである。
彼等の側から見て、日本が夷狄でなくなり、化外の民でなくなるということは、非常に面白くないわけである。
というのは、彼等の立場に立ってみると、彼等の安全を脅かすのは常に夷狄であり、化外の民であったわけで、そういうものが力を持つということは、常に恐怖感が伴うわけである。
ところが、アメリカとの戦争に負けた日本というのは、それ以降というもの、自力で自分の身を守る事さえ放棄してしまったわけで、まるで丸裸で国際社会という町を歩いているようなものである。
いくらちょっかいを出したところで、決して反撃に合うことは無い、ということを知っているからこそ、内政干渉まがいのことをいってくるわけである。
彼等にしてみれば、中国4千年の歴史の重みをそのまま露呈しているわけで、夷狄であり、化外の民であるところの日本に、漢民族の威厳を示しているわけである。

前に戻る

目次に戻る

先に進む