拭い去れない差別意識

日本とアジア7 平成13年5月13日

民族による幸福の違い

日露戦争を何とかポーツマス条約で終わらせることが出来たわけであるが、当時の日本国民というのは、自分の国の国情というものを全く知らず、この戦争によって勝ったにもかかわらず、賠償金が一銭も取れなかったことに対して非常な不満を露にしたわけである。
それもある面では無理からぬ事で、国民というのは、必ずしも政府の内情にまで通じているとは限らないわけで、政府が如何に四苦八苦して資金を工面していたかという事実を知らない、というのも致し方ない面がある。
その事は、大衆というものは、表面的な現象に左右されやすい、ということを端的に示しているわけで、いわゆる付和雷同と言うことの顕著な例である。
しかし、この日清戦争と日露戦争というのは、日本にとっては、明治維新の内なる精神の葛藤を外に向けたような出来事であり、約250年以上にもわたるそれまでの封建制度というものが、明治維新という革命によって、それが根底から覆された事による、内なる精神の再構築であったわけである。
それは明らかに価値観の大転換がそこにはあったわけで、この価値観の大転換というのは、そう一気になされるものではなく、どうしても今までのしがらみを後に引きずりがちである。
1945年、昭和20年の敗戦というのも、我々にとっては、価値観の大転換を強いられた出来事であったが、これは我々の祖国というものが、戦災、爆撃、原爆というもので全く無に帰していたわけで、その上占領軍という外圧が我々の上にのしかかっていたものだからあきらめがついた。
しかし、明治維新というのは、外圧という外部要因もあるにはあったが、それは間接的なもので、その基本的な部分では、我々の民族の内なる精神的な変革であったわけである。
そして、その内なる変革というのは、下からのボトム・アップではなく、上からのトップ・ダウンであったわけである。
将軍という現世のトップが、天皇という象徴に政権を移譲するということは、ある意味では復古であったが、この事実は、当時の人々からすれば非常に大きな価値観の転換に映ったに違いない。
版籍奉還、廃藩置県ということは、当時の人々からすれば驚天動地の出来事で、これを社会のトップが自ら率先して行った、ということは庶民感覚からしても考えられないことであったわけである。
他の国では、こういう場合、国のトップというのは、自分の財産を一切合財持って、他の場所に逃げてしまうわけで、徳川家がそれをしなかったという事は、やはり我々の国の特異なところだと思う。
しかし、この意識革命が、当時の日本人の庶民のレベルまで皆一斉に浸透したわけではなく、当然それには納得できないでいる人々もいたわけである。
それが明治初期においては内乱として国内においてはくすぶっていたわけで、その最終的な現象が、西南戦争というもので昇華したように思われる。
しかし、この西南戦争といえども、これはいわゆる武士の戦いであったわけで、庶民レベルの反革命ではなかったわけである。
あくまでも人々を統治する側の、武士階級の抵抗であったわけで、統治される側の意識革命としてのボトム・アップの戦争ではなかったわけである。
日清・日露の戦争というのは、庶民のレベルで、封建制度からの決別を強いた出来事ではなかったかと思う。
封建制度というシステムそのものを、そう早急に変えることは出来なかったが、意識のほうは大いなる変革をきたしたわけで、ある意味で意識改革を促進したということがいえると思う。
明治維新で四民平等になってみると、日本の大衆というのはまだまだ遅れていたわけで、その事は先の与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」の君、いわゆる与謝野晶子の弟が入隊した時の感想として、同輩の兵隊達があまりにも無学文盲であったことの驚きを示していることからも推察できる。
この事実は、昭和の時代になっても続いていたわけで、太平洋戦争の時代になっても、第一線、つまり前線で敵と対峙した兵隊クラスには、非常に無学文盲の人が多かったわけである。
考えてみれば無理もない話で、明治維新で学校教育が全国に普及したといっても、日本の国民のうちの全員がそこに通えたわけではなく、やはり恵まれた人たちだけが通学できたに違いない。
大体、親の方が初等教育というものに懐疑的であったわけで、その教育に懐疑を持たなくなったことは、ある意味で意識改革であったわけであるが、その結果として、学歴尊重主義が勃興してしまったわけである。
江戸時代の封建思想に凝り固まっていた人たちは、子供の初等教育などなくても人は生きれると思っていたが、これが意識改革して、教育の有効性を認識したとたん、教育が立身出世に非常に有効だ、という事に気がついたわけである。
そして、今度は、それに気がついてみると、それこそ猫も杓子も教育尊重、逆の意味からすれば、学歴社会というものに傾斜していったわけである。
日清・日露の戦争というのは、日本の大衆レベルに意識改革を蔓延させたわけで、明治初期の内乱が、統治する側の階層の反革命であったとすれば、大衆の側の反革命のエネルギーを外に向けさせたということがいえると思う。
それは明治政府というものが、意図して行ったわけではないが、結果としてそうなったように思う。
そして日本の大衆というものが、10万、20万という単位で外国を見たということは、大きなインパクトを内地にもたらしたと思う。
それはやはりなんと言っても朝鮮や中国の人々に対する蔑視観だと思う。
明治初期の、日本と朝鮮の風俗を比較してみれば、日本の農家というのは、木と紙と土壁で出来た家に住み、家畜は囲いの中で飼い、寝るところと普通に作業するところは分けて作られていたが、朝鮮の人々は、土間で、家畜も一緒に同居しており、トイレの区別もなく、人と家畜が渾然一体として生活していたわけで、これを目の当たりに見た日本の農村出身の兵隊達は、「朝鮮人というのはどういう下等な人達か!」と思うのも頷ける。
これは良し悪しの問題ではなく、現実の有り体なわけで、善悪で決め付けることは出来ないわけである。
まさしく事実の認識であり、当時の現実であったに違いない。
そして、朝鮮の地を踏んだ日本の農村出身の兵隊達は、組織として行動していたわけで、それが相手側からすれば非常に恐怖に映ったのもむべなるかなである。
朝鮮に進出していた清の兵隊たちは、ある意味で個人主義の集合で、一人一人の泥棒の集合であったが、日本の場合は、一人一人の個を殺した集団として、塊として存在していたので、良きにつけ悪しきにつけ、相手にとっては恐怖感が先にたち、憎悪の対象となったものと想像する。
この頃の日本の庶民の生活というのも、決して豊かではなかったわけで、まだ農地改革の前でもあり、地主の搾取を受けた小作農が大部分で、その小作農という団塊が、日本の大衆というものを形成していたと思う。
その団塊の小作農が、立身出世をして、その現況から、貧困から、一番容易に脱出する手法は教育である、ということに気がついたわけである。
教育の重要性というものは、すでに江戸時代から、もしくはその前から知られていたが、それを受ける側に、それだけの経済的余裕がなかったわけで、勉強に精を出す余裕があったとすれば、その前に食うための農作業をしなければならなかったわけである。
それが明治維新の学校制度の拡充で、誰でもが初等教育を受ける機会が与えられる状況ができると、その中において、優秀な生徒には、より上の段階に進むことも可能になったわけである。
同じような状況下において、朝鮮や中国の人々は、このような意識改革をすることがなかったわけで、そこの違いが20世紀において大きな相違点となって露呈したわけである。
私の個人的な偏見からすれば、このときに意識改革をするしないの選択は、それぞれの民族の持つ潜在意識によるものと想像する。
価値観の転換を容易にするということは、別の見方をすれば、自己の信念を安易に捨てる、という見方も可能なわけで、それは人の生き方そのものを束縛する絆を安易に断ち切るということでもある。
人の幸福をどういう風に考えるかという点に尽きると思う。
我々の場合、それは、より安逸な生活の追求、ということだと思う。
彼らの場合、夢の追求という行為そのものが否定されているわけで、明日の糧さえあればそれで良しとする生活信条ではなかったかと思う。
我々の場合、安逸な生活の追求ということは、あくまでも夢なわけで、夢を追いかけるには如何なる手段があるか、ということが生きる指標になっているわけである。

為政者のための国益

ここで不思議なことは、この当時の日本は、ロシアの南下を殊のほか恐怖に感じていたということである。
19世紀の後半から20世紀の初頭の時期において、西洋先進国の帝国主義というものでアジアは蚕食されていたが、ロシアの南下もそれと同じものだ、という見識を持ち、その触手が朝鮮に及ぶことを極度に恐れたということは、この当時の日本人が、ロシアの本質というものを既に知っていたという事に他ならない。
この時代において、日本がロシアの進出を恐れ、又ロシアの方は朝鮮に進出したいと思っていた、という事は非常に不思議なことだと思う。
この時代において、その国の政府というのは、まだ民主的な政府というには程遠い存在であったわけで、日本ならば明治天皇であり、ロシアならばロマノフ王朝、ニコライ2世であったわけで、君主というものが、こういう領土的野心というものを持っていたかどうかは非常に難しいように思う。
それにもかかわらず、ロシアなり、日本の、国全体の国家意思として、領土を広げたいという願望あった、ということは非常に微妙な問題ではないかと思う。
仮に、昭和天皇がアメリカとの戦争を決断したときにも、天皇は率先して戦争をするように言ったわけではなく、天皇は何も言わなかったけれども、言わなかったことが、それの承諾を得たという風にとられて、それが御聖断を仰いだ、という風に言い回しをされ、戦争に入っていったわけである。
当時の状況において、主権者としての君主の意向が曲解されていたわけで、それを故意に曲解したのは紛れもなく重臣達で、重臣達が本当は戦争をしたかったのではなったかと思う。
天皇の意思と全く逆の結果になってしまったわけで、恐らくロシアにおいても、似たような状況というのはあったに違いないと思う。
今の日本というのは、国民の総意を代表している形で内閣総理大臣というものが存在しているが、我々の今の現状では、国家意思というものがあるのかないのか全く分からない状況を呈している。
国家の意思というものは、このように本当の国民の意思とは、かけ離れたところにあるのではないかと思う。
庶民感覚としては、与謝野晶子の歌のとおりであるにもかかわらず、国家としては戦争をする方向に向かう、ということは一体どういうことなのであろう。
私が想像するに、やはりそこには国民の意思が反映されていたのではないかと思う。そして、この時代に徴兵で召集された兵隊たちというのは、恐らく納税をしていなかったのではないかと思う。
この時代には、国民の全部が納税の義務を負っていたわけではない。
納税の義務がなかった代わりに、兵役の義務は負っていたわけである。
これも今から考えるとおかしな事だと思うが、時代というものを考えると100年という幅のあることで、今と同じ感覚では語れないのも、ある面では致し方ないところである。
この時代の国益というものが、一部の政府首脳の考えで、それが国全体の願望となるというところをよくよく考える必要があると思う。
ロシアの南下を阻止したいという日本側の願望と、アジア大陸を南下して南に出たい、というロシアの願望はどういう風に解釈したらいいのであろうか?
政治の延長としての外交と言うものは、一部の為政者のものであろうか。
確かにそういう面は否定しきれない。
近代以前の諸国家においては、統治するものとされるものというのは、相対峙する階級として存在していた時期があったわけで、それが後の共産革命のベースになっていたことは承知しているが、日本においても、ロシアにおいても、朝鮮においても、中国においても、その国の国益というものが、その国の一部の為政者のものであったとしたら、その国の国民というものは、その国の為政者の犠牲になっていたわけである。
極端な話、戦争に負けると言うことは、その国の為政者が、その国の国民に対して責任をとらなければならないということになる。
20世紀の中ごろまでは、それは普通の国の、普通の在り方として通用していた。
ところが、それから半世紀たって、21世紀に差し掛かろうとした時、その概念は一気に崩れ、戦争は勝った国の独善である、という認識がアジアで蔓延した。

階層間の心の乖離

ここで私の本旨から少し外れるが、20世紀の半ばに起した日本の戦争というのは、果たして日本が本当に負けたのであろうか。
確かに、東京大空襲があり、広島、長崎があり、ミズーリー号上の降伏文書の調印があり、マッカアサーの進駐はあったが、それがそれから50年経って、21世紀にさしかかろうとすると、もうこの日本が勝ったのか負けたのかさっぱり判らない状況になっているわけである。
勝ったつもりでいる朝鮮や中国に人にとっては、今の日本がどういう風に映っているのであろう。
若い世代は戦争体験というものが希薄だから、これは日本もアジアもさほど違和感なく付き合えるが、戦争体験を持っている古い世代の人から日本を見ると、日本は果たして戦争に負けたのか勝ったのはさっぱり分からないのではないかと思う。
戦前の日本と戦後の日本は、確かに全く違う国といってもいいと思うが、その中身は同じ大和民族なわけで、この普遍的な同じ大和民族でありながら、全く違う国家体制の中で脈々と生き延びていることに、日本の外に住む人々は違和感を覚えているのではないかと思う。
この戦前の日本と、戦後の日本が全く違うといいながらも、その国家体制の中で脈々と生き伸びている我々の存在は、その前の明治維新についてもいえるわけで、維新の前と後では、やはり全く違う国家体制の中で我々の先祖達は脈々と生きてきたわけである。
明治維新と大東亜戦争というものは、日本民族の大きな節目であり、大きな歴史上の断層であり、変節点であったわけで、それを経る事で、我々は新しい世紀に向けて脱皮を繰り返してきたのではないかと思う。
違う言葉を使えば、意識革命の変革とも言え、価値観の大転換ともいうことができるが、いずれにしてもそれまで我々がひきずってきたものの考え方というものが、このエポックを境に大転換したことだけは間違いない。
日清・日露の戦争のころ、日本がロシアの南下を恐れ、ロシアはアジアへの南下を願望していたということは、どういう風に説明がつくのであろう。
ここでは両方の利害が真正面から衝突している、ということは理解できるが、その利害の中身というものを、どういう風に考えたらいいのであろう。
日本にしろ、ロシアにしろ、一般大衆としての人々は、いつも国家というものを意識して生きていたわけではないと思う。
しかし、その大衆の中から学問をつけた人が徐々に多くなり、そういう人々が徐々に国家の要職につくようになると、国の行く末が心配になってきたのではないかと思うが、この学問をつけ、国家の要職につくということが、一般大衆レベルではそう容易なことではなかたわけで、その事についてはロシアも日本の大差ないと思う。
封建制度の中で、一般の農奴というクラスの人が、そう容易に学問をつけるということにはならなったに違いない。
日本でも同じなわけで、水飲み百姓の子弟が、そう容易に学問を身につけて政府の要職につくということは安易なことではなく、稀有な事であったにちがいない。
しかし、我々の場合、学校制度というものを、明治維新を機会に充実させたわけで、日清・日露の戦争のころになると、そろそろ新しい学校制度の効果が現れてくるころで、この戦争のころ、一線で活躍した世代はそういう世代ではなかったかと思う。
ロシアの場合はいざ知らず、日本の場合だと、普通の初等教育と平行して、軍の機関の学校というものが同時に設立されたわけで、これには既に相当に素養のある人々が生徒として採用されていたわけであり、今流に言えば、若きエリートの教育は、一般大衆向けの初等教育よりも一歩先を行っていたわけである。
そのことを別の視点から見れば、軍人がその後の日本の時勢を左右するリーダー・シップを握る事になる要因を内在していた、ということでもある。
日本が明治維新を必然的にしなければならない状況に陥ったのは、紛れもなく、西洋列強の武力の本質を見せ付けられたからに他ならない。
西洋列強の武力を目の当たりに見せ付けられて、「我々もそういう力を持たなければならない、もしそういう力を持たなければ、中国や朝鮮のようになってしまうに違いない」という事に覚醒したわけである。
よって、西洋列強に追いつき、追い越せというスローガンが現実味を帯びていたわけである。
「そのためには如何なる手法があるか?」と問えば、軍の学校を作って、早急に優秀な軍人を養成しなければならない、という結論に達するのは当然の帰結である。
日清・日露の戦いというのは、今から思うと、当時の日本にとってみれば非常に危ない賭けであったわけで、結果が良かったから大過なく済んだようにみえたが、一歩間違えれば、首の皮一枚で頭が落ちてしまうところであったわけである。
ところが、当時の日本の一般大衆というのは、この首の皮一枚で生き残った、とい現実はさっぱり見えていなかったわけで、その部分において、統治する側とされる側では、大きな乖離があったわけである。
私が突き詰めようとしていることは、この部分の大きな乖離なわけで、統治する側にとってはロシアの脅威というものが幽霊の如く付きまとうが、一般大衆というのは、そんなことに全く無頓着なわけである。
だからこそ、与謝野晶子の歌のように、「君死にたもうことなかれ」という歌がもてはやされるわけである。
統治するものとされるものの、心の奥底の乖離というのは、今の政治でも全く払拭されたわけではなく、これは人間が複数集まって社会というもの作って生きている限り、永遠の課題として生き続けるに違いない。
ロシアという国は、その民族の潜在意識として、冬に凍らない港を確保する為に、南に下る政策を取る、というのも不思議なことである。
そして、日本は太古から、大陸に足場を作りたい、という民族的願望があったわけであるが、これにはおなじ同胞として理解しえる部分がある。
というのは、日本は昔も今も土地がないわけで、日本の農業というのは、山の斜面まで水田にするほど土地に逼迫していたわけである。
大陸のように、広い平らな土地が無尽蔵にあれば、米などいくらでも取れるに違いない。
是非とも、そういう土地を手にしてみたい、と思うのも必要がそうなさしめていたわけである。
そして、日清戦争も日露戦争も、その舞台はいづれも朝鮮が舞台となったわけで、朝鮮の人々からすれば、日本と清が自分の土地で戦争していれば、その双方を追い出すぐらいの気迫をもたなければならなかったわけである。
日本とロシアが戦争しているのに、その双方に媚を売って、中立を維持するなどという事は、民族の自尊心を自ら地に捨てているようなものである。
当時の朝鮮は弱くてとてもそんなことは出来なかった、という言い訳は、言い訳になっていないと思う。
「日本の圧政に苦しんだ」という今の朝鮮の人々の言い草は、日本に向けるのではなく、自分達の同胞に向けるべきである。
朝鮮が日本支配下に陥ったのは、その当時の朝鮮の指導者の選択であったわけで、それは朝鮮民族自らの責任のはずである。
今の我々が、若い世代の日本人が乱れているのは、占領政策が間違っていたから、アメリカが責任を取れ、と言っているようなもので、こんなことを言ってみても、全く通らない事は火を見るより明らかである。
日帝36年の圧制の責任は、日本にあるのではなく、朝鮮民族自らの内にあったわけで、そのことを自ら悟らない限り、朝鮮民族の将来はないものと思う。
民族とか国家というマクロの視点から、ミクロの視点に移して考えてみると分かりやすいと思う。
例えば、我々の身の回りの出来事でも、詐欺に遭う人もいれば、不合理な殺人事件で命を落とす人がいるのは民族を問わず普遍的なことであるが、これも本人が注意を払えば、ある程度は避けられるわけで、うまい話に飛びついたり、危険な場所には近寄らない、という自覚さえあれば避けうることである。
そして、きちんとした法体制が確立された主権国家の中であれば、そういう犯罪というはきちんと裁かれるが、国際間、国家と国家の間、民族と民族の間というものには、これを裁く法律というものは存在していないわけである。
21世紀においても、主権国家を拘束する、国際関係を正義で以って裁く法律というものは未だに出来ていないわけで、あるのは力、武力、軍事パワーのみである。
国連というのはただ単なる村の寄り合い程度のもので、裁判権を持っているわけではない。
よって徹底的に国連に反抗すれば、最後は武力による制裁という事に行き着くわけである。
昭和20年、1945年、日本がポツダム宣言を受諾した時点で、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、フイリッピン、中華民国、大韓民国、という諸国家は勝者であり、正義であり、力のバランスが逆転した時点で、朝鮮の人々も、かっての支配者であるところの我々に対して、容赦ない正義を振りかざして振舞ったではないか。
正義というものは、きちんとした法体制が確立したところでは存在しうるが、朝鮮の人々にとっては、このきちんとした法体制というものが確立されていなかったわけで、農民は全く開放されておらず、官僚は自分達の派閥抗争に明け暮れ、政府首脳は清の顔色を伺ったり、ロシアに援助を求めたり、他人任せで日和見な態度を取っていたわけである。
朝鮮のこの当時の民族的指導者というのは、自分の同胞のことが全く眼中になかったわけである。
どの民族においても、人間というものが、集団で一塊になって生きていく上では、社会というものを形成せざるを得ず、だとすれば、そこには必然的に階層というものが出来てくるわけで、自然界においても蟻の世界、蜂の世界というように、社会を形成する生き物では、個々の役割分担というものは歴然と存在するわけである。
これを人間の社会に置き換えれば、農民は社会全体の食い扶持を確保する役割を担っているわけで、政府首脳というのは民族の全体の安泰を考えるべき役割があったはずである。
その社会に他から何らかの圧力が掛かったとすれば、この民族の安泰を考える役割を担っている集団が、衆議一致してその外部要因というものに対処することを考え、尚且つ実施して、その要因を排除の方向に向かわなければならなかったわけである。
これは人間の集団としての機能、つまり民族としての社会がきちんとしていれば当然の行為であり、それが出来なかったということは、その民族における社会的にトップの人々の責任なわけである。
その事によって、その民族の他の階層のものが、異民族に従属させられという事は、その民族の当時の政治的指導者に責任があったわけで、非難の矛先は、自分の民族の内側に向けなければならなかたわけである。
我々が昭和20年、1945年の日本の敗戦という結果を招いたことに対して、我々は、その敗戦の結果の追求ということに関し、内なる告発というものは、しないうちに時が経過してしまった。
つまり、勝った側がそれを代行してしまったので、日本人の手による内側からの告発ということは無かったが、その政治的誤りが、軍人の横暴にあったという認識では、日本人の全部がほとんど認めている。

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