世論というものの本質
この北清事件というのは、このように日本軍の活躍で納めることができたわけであるが、問題は、それ以降ここに進駐してきた連合軍が何時撤退するのか、ということであった。
弱い清国から幾らかでも自国に有利な権益を引き出そうと、各国とも疑心暗鬼のうちに、駆け引きをしていたわけである。
中でもロシアというのは清と地続きなるが故に、実質的に中国の東北三省というのは既に実効支配していたようなものであり、1902年にはシベリア鉄道というものをウラジオストックからハバロフスクまで伸ばしてきていた。
つまり、不凍港を手に入れる寸前まできていたわけで、清の後背からじわじわとその触手を伸ばしてきていたわけである。
そしてイギリスはといえば、アフリカの先でボーア戦争を繰り広げていたわけで、当面アジアにまで軍事勢力を伸ばす目途が立っていなかったのである。
丁度、その時、日本という新興近代国家が、天津で目を見張るような活躍をしたものだから、イギリスは「日本と手を結んでおけば、ロシアの南下にブレーキが掛けられるのではないか」、と判断したわけである。
このイギリスの思惑は、やはり日本の思惑とも合致したわけで、日本は日本で、この際、「イギリスと組んでおけば、何かと援助が期待できるのではないか」という思惑があったわけである。
それで1902年、明治35年、ロンドンにおいて日英同盟が締結されたわけであるが、この条約は、その後の日本にとって大きなウエイトをしめることになる。
条約というものは、個人の約束事と同じで、双方でそれを守る意思のないときには、本当にただの紙切れ一枚に過ぎないわけで、あろうがなかろうが意味をなさないわけであるが、双方が約束を守らなければならない、という理性にもとづき、愚鈍なまでに信義を貫き通せば、これほどありがたいものもないわけである。
ドイツとソビエト(独ソ不可侵条約)、ソビエットと日本(日ソ不可侵条約)というのは、その意味で信義を欠いた裏切りの歴史であったわけである。
ロシアが有史以来アジア大陸において南下政策をとっているというのは、ロシアという地理的条件からして、致し方ない願望で、それとは逆に、日本は自国の国土が狭いという地理的条件なるが故に、大陸に出たいという潜在的願望を持っていたわけである。
ロシアの南下というのはイギリス・当時のグローバル化した世界帝国にとっても面白くないことで、そこでイギリスは我々と手を組んだわけである。
西洋先進国の中でも、イギリスが一番進取的観測に長けていたわけで、我々の側とすれば、イギリスという当時の世界で最強の国家に認められた、という状況であったわけでる。
この事実は、アジアにおいて、日本以外の諸民族ではなしえなかったわけで、それはアジアにおける民族間の近代化の優等生であったということである。
21世紀という時代では、近代化ということが「悪行」のようにいわれているが、それは奢れるものの慢心以外のなにものでもない。
自分は富の宝の山に埋没していながら、自然のままの生活にあこがれを抱いているようなものである。
1902年の時点で、イギリスはアフリカで一つの戦争をしていたものだから、ロシアの南下を牽制する勢力を割くことが出来なかったわけで、その代わり日本を利用したことになるが、そんな事を全く解することなく、ロシアはロシアの論理で清に居座ってしまったわけである。
日本がイギリスと手を結んだそのとき、ロシアは清と条約を結び、清に延ばした触手を引っ込める約束をした。満州還付条約である。
義和団の乱を平定するために満州に進駐したロシア軍を、乱が平定されたので、引き上げさせ、同時に満州の権益を清に返す、という内容のものであった。
これにもとづきロシアはここで満州からの撤兵をしなければならなかったわけである。
ここでロシアは約束違反、条約不履行をしたわけで、一回目の撤兵は実施したが、二回目は撤兵をする振りを見せておいて、またそのまま駐屯地に戻ってしまい、そのまま居座ってしまったわけである。
これは明らかに条約違反なわけで、信義を欠くものである。
しかし、この帝国主義の時代、条約の効能というものは、それほど有効なものではないわけで、強い国というのは、自分の都合で条約を守るも破るも勝手なわけであり、それが常識でもあったわけである。
日本のように律儀に守るほうが珍しいわけで、それだからこそ、富国強兵であり、力さえ持っていれば、何をしても許された時代がこの時代であったわけである。
自国の国益に前には、信義などあってなきがごとき状態であったわけである。
このときの日本側の考え方の中には、朝鮮の実効支配をロシアに認めさせ、尚且つ満州にも何がしかの権益を持ちたい、というものであった。
そのことは朝鮮を支配下に置き、満州におけるロシアの行動には制約をつけたい、ということであったが、一方、ロシアのほうは逆に、朝鮮における日本の行動には何がしかの制約をつけ、満州においてはロシアの実効支配を狙う、というものであったわけである。
要するに、この両国の利害は正面から衝突していたわけで、これでは妥協の余地がまったく無かったわけである。
朝鮮と清という国のことを、この日本とロシアという国が、当事国を抜きにして分捕り合戦をしている図である。
こういう歴史的経過の中で、この当時の日本の国民、我々の先輩諸氏、我々のおじいさんか、そのまた上の祖父に当たる人たちの中には、この状況を鑑みて、「ロシアを早急に撃つべし」という好戦的な人が非常に多かった、ということを知るべきである。
これがいわゆる世論というもので、名も無き大衆の意見を集約すると、「日本の権益を守るためには、ロシアを早急に撃つべし」という意見が大勢を占めていたわけである。
この大勢の意見というのは、太平洋戦争に至るまで、我々、日本人の潜在意識として底流でありつづけたわけである。
それで、この当時を振り返ってみると、国民世論は「早くロシアを撃て」といっているが、政府のほうは、その内情を知っているものだから、早々大衆の思っているように簡単に、安易には開戦に持ち込めないわけである。
戦後の日本の知識人というのは、日本のこれまでの戦争というのは、政府と天皇が、好き勝手にしたという捉え方をしているが、それはあまりにも物事を知らないという事である。
こういう中でも、非戦論、反戦論というものはあったわけで、国民の大勢が早期開戦を望んでいる時に、こういう意見を言うということは、非常に勇気のいる事だと思うし、その場が与えられていたということは、まだまだ世の中が健全であったということでもある。
ここで特筆すべきトピックスとして、1903年、明治36年、東京帝国大学法学部の7人の博士が、開戦をあおる扇動意見を述べ、当時の有力新聞紙もそれに同調していたということである。
今流に言えば、東京大学の教授連中が率先して日本の大衆、民衆、草の根の市民の意見を最大限に代弁し、迎合していたということである。
これと同じ事は戦後も起きているわけで、昭和23年、平和問題懇談会というものが出来た。
これは日本が講和条約を結んで再生しようかどうかというときに、「ソ連と中国を含む全面講和でなければならぬ、アメリカに組みする単独講和は罷りならぬ」という意見を述べて、大衆を惑わしたことがある。
時の内閣総理大臣吉田茂は、ソビエットと中華人民共和国を除いた、単独講和という形で我々はアメリカの主導する西側陣営に組する決断をしたわけである。
このときの平和問題懇談会というのは、各大学の教授錬を集めた、日本の知的集団であったが、これら知的集団の先の見通しというのは、全く当てにならなかったわけである。
こういう連中が、したり顔で日本の大衆、民衆、草の根の市民をあおるわけであるが、実際の政治家というのは、極めて現実的で、人間の汚い部分もそれなりに理解しているがゆえに、理想論では終わらないわけである。
ある意味で現実主義なわけで、その意味からして、夢を喰う獏ならぬ、象牙の塔に閉じこもっている大学教授よりも、視野も展望も広く、先が見えていたわけである。
ところがこの日露戦争の時点では、当時の政治家というのは、こういう東京帝国大学の7博士の意見にかなり迎合したわけで、徐々に日本では戦争への機運が高まっていったわけである。
戦後の場合は、政治家がこういうに日本の知性の言うことを真っ向から無視し、「曲学阿世の輩」と決め付けて、政治家がリーダー・シップを発揮したが故に、その後の日本の発展があったわけである。
この政治家のリーダー・シップというのは、こういう日本の知性との抵抗にあい、その分摩擦も大きかったわけであるが、基本的に日本の知性、日本の学者の言った将来予測は全て間違っており、政治家の先見性のほうに軍牌が上がったことになる。
政治は結果が全てである。
日露戦争は1904年、明治37年2月4日の御前会議によって開戦の決定がなされ、直ちに動員令が引かれて、日本軍は勇躍朝鮮半島に渡ったわけであるが、2月8日には韓国の仁川沖でロシアの軍艦と砲撃戦を交えることになった。
日本は日清戦争で一旦は支配権を確立しかけた遼東半島を、3国干渉で返還せざるを得なかったが、ロシアはそれを清国から租借という形で取り上げて、ここに要塞を築き、軍港を築き、ロシアにとっては格好の軍港に仕立ててしまったわけである。
そのことは我々、日本側にしてみれば、のど元に刺さったトゲ、目の上のたんこぶのようなもので、まことに具合悪かったわけである。
朝鮮に進出しようとするときに、ここから睨まれると、なんとも動きが取れない位置にあったわけである。
そしてロシアは、内陸、つまりシベリアのほうから、ここのつなぐ鉄道までも作っていたわけで、こうなれば完全に清というのはロシアの支配下になりかねない状況に陥っていたわけである。
ロシアが旅順で睨みを利かせる、ということは日本の黄海における制海権というものが死んでしまったわけで、日本が起死回生気するためには、どうしてもこの地の奪還が必要であったわけである。
そのことは朝鮮の地図を見れば一目瞭然と理解しえることである。
それで、旅順の港というのは、開口部が非常に狭いので、ロシアの東洋艦隊をこの港に追い込んでおいて、その入り口を閉めてしまおう、という案が実施されたが、ここは港ばかりでなく要塞でもあるわけで、港の近くでうろうろしていれば反対に攻撃されてしまうため、この案は結果的に失敗に終わった。
しかし、こういう日本の積極果敢な作戦に対し、ロシア側は戦闘意欲をなくして、積極的に外洋に出て真剣勝負をする意欲をなくしてしまった。
というのも、インド洋経由でロシア本国からバルチック艦隊が来ることが分かったので、それまで持ちこたえれば何とかなるだろう、という気になったに違いない。
日露戦争の山場といわれるものは、やはり奉天会戦と、旅順の攻略、そして日本海海戦であるが、時系列で示すと、旅順の攻略が1937年6月、奉天会戦が翌1938年3月、日本海海戦が同じく1938年5月となっている。
なんといっても、この当時、ロシアと戦うには旅順を落とさなければ動きが取れなかったわけで、ここでは日本側の犠牲も多かったわけである。
旅順というのは、ロシアによって難攻不落の要塞と化していたので、日本軍が苦難を強いられたのも無理はない。
日本軍は5万7千の兵力でこれを落とそうとしたが、日本側の犠牲は1万5千人以上に達していた。
一方、ロシアは4万2千人の兵力でこれを迎え撃ったわけであるが、そのうち降伏の時点で、3万5千人以上もいたというのだから、これは我々の感覚からすれば非常に奇妙なこととなる。
嘘か本当か定かには分からないが、このロシア側の旅順降伏には、ロシア内の共産主義の画策が大いに関係ある、という説を聞知したことがある。
ロシア側の状況というのは、ロマノフ王朝のニコライ2世に対する不満が充満しており、革命機運が最高に盛り上がっていたわけで、その背景というのは、言わずもがなロシアの共産主義者たちによる、既成の秩序の破壊にあったわけである。
彼ら、共産主義者の立場からこのロシアの置かれた状況を勘案すれば、彼らにとって祖国ロシアよりも、共産主義革命というものの方が優先するわけで、ロシア帝国主義よりも、共産主義革命のほうにウエイトがあったことになる。
よってロシアは、旅順という難攻不落の要塞の中に、3万5千人以上の将兵と武器、弾薬、食料等を充分に確保しながら、共産主義者たちが内部から嫌戦気分を扇動し、それが嵩じて降伏という事態に立ち至ったという説である。
共産主義者にとっては、自分の祖国よりも、革命のほうが大事であったわけで、この発想が彼らには付いて回ったからこそ、自分の祖国の皇帝までも殺してしまうという仕儀に至ったわけである。
それはさておき、この旅順陥落に伴い、攻めた側の日本の乃木希典と、相手方のステッセル将軍との水師営の会談は、やはり武士道にのっとった見事なものだと思う。
ところがこのステッセルというのは、このときの敗戦の責任を負わされて、本国の軍法会議では死刑になってしまった。
この時点におけるロシアの内情というのも、革命の前のことではあるし、実に混乱を極めており、政治が政治としてきちんと機能していなかったという節がある。
ステッセルという軍人も、気の毒なものである。
部下からの反乱はあるし、国に帰れば帰ったで、極刑が待っていたわけで、まさしく踏んだり蹴ったりの不幸な人であったようだ。
この旅順を落としてからというものは、北のほうに戦線が上っていったわけであるが、当然、そこには旅順から落ち延びたロシア兵がいたわけで、奉天の会戦ではロシア軍は32万という大部隊で待ち構えていたわけである。
それを攻める日本軍も、25万という勢力であったが、7万人という死傷者を出したものの、かろうじてこれを制することができたわけである。
ロシア側の死傷者も9万人というのだから互角の戦いであったわけであるが、ところが相手方の司令官クロポトキンは、戦線を徐々に後退させていったので、実質的日本が勝った形になったけれど、ここではロシア側の息の根を止めたわけではなかった。
しかし、日本側ももうこれ以上は前線を前に進めることはできなかったわけで、そのことは日本側の限界を示していたわけである。
そして、最後の山場が、日本海海戦であるが、これはもう私が屋上屋を築く必要は無い。
数多の優れた研究書が山と出ているわけで、それでも要点だけは記しておくと、対馬海峡に入ってきたバルチック艦隊は、ウラジオストックに向けて走っていたのだから北東に進路を取っていた。
それに対し日本の連合艦隊は、索敵のために南東に進路をとり航行していた。
ほとんど同時にお互いを視認したが、日本側は攻撃方法を色々考えて、その中でどの手法で攻撃するか迷っているうちに、双方の距離はいっそう縮まってしまい、攻撃のチャンスを逃がしそうになったので、旗艦「三笠」が大きく取り舵、つまり90度の方向転換したものだから、バルチック艦隊の舳先を横断する体制になってしまったわけである。
これが結果的には大成功で、わずか30分で攻撃がほぼ終わってしまったわけである。
これが後に「敵前大回頭」「T字戦法」と呼ばれることになったわけである。
しかし、その実情というのは、お互いの艦隊がすれ違いざまに攻撃するのか、反転して後から追いかけて追撃した方がいいのかどうか迷いに迷っている最中に、捨て鉢式に敵の前面を通過する航法を取ってしまったものだから、予期せぬ大成果を収めたというものである。
事実というのは実に不思議なものである。
勝てば勝ったで、失敗も特殊な戦法ということで、不問に付されるばかりでなく、賞賛さえあたえられたわけで、これも我々は歴史から大いに学ばなければならない項目だと思う。
しかし、このときの海戦、軍艦という巨大な浮かぶ城としての兵器を運用するということは、言わずもがなチーム・ワークの勝利なわけで、軍艦というものは乗り組員の全員のチーム・ワークが無いことには、動きもしなければ戦うこともできないわけである。
その上、システムとして艦隊を組んでいる以上、全ての船に同じように機能しないことには、全く無用の長物と化すわけである。
思えばバルト海から、インド洋を越えてはるばるやってきたバルチック艦隊というのも気の毒な艦隊であった。
日本がバルチック艦隊を撃破して、日本海海戦に勝利したのが1905年、明治38年5月27日で、6月1日には駐米高平小五郎公使がアメリカのルーズベルト大統領に日露間の調停を依頼している。
これを受けてルーズベルト大統領は、日露双方に講和を斡旋し、日本は全般的にに勝利していたにもかかわらず、先にこの斡旋を飲み、ロシアの方は2日後になってこの斡旋を受諾をしたわけである。
これは後にポーツマス条約となるわけであるが、そのポーツマス条約の本旨というのは次のようなものであった。
1、 朝鮮に対する日本の指導、保護、監督の権利の承認
2、 遼東半島の租借と長春・旅順間の鉄道の権益の日本への移譲
3、 樺太の南半分を日本に移譲する
4、 沿海州での日本の漁業権の承認。
5、 鉄道守備のために日本兵の配置の承認
ということで、この中には賠償金の問題が全く無かったので、これが日本国民の怒りを買ってしまった。
確かに、この日露戦争では、日本はあらゆる戦闘で勝利を納めたが、それは帝国主義に則って、具体的に賠償金というものを得ない事には、自分達が血を流した意味が無いと思われたからである。
帝国主義的領土拡大主義を内包する大きな意味の戦争というものは、版図を広げるか、多大な賠償金というものを得ないことには、戦争をした意味がなかったわけである。
中国にしろ、ロシアにしろ、大陸国家というのは、懐が深いわけで、旅順を取られ、奉天を取られ、バルチック艦隊が全滅しようとも、ロシアにとっては自国の土地というものは何一つ失ったわけではない。
樺太といったところで、ロシアのロマノフ王朝、ニコライ2世からすれば、それこそ「化外の地」で、いくら取られようとも痛くも痒くも無かったわけである。日本では「勝った勝った」と浮かれているが、ロシアのモスクワやぺテルスブルグから見れば、象の尻尾の毛が2,3本抜けた程度のことでしかなかったわけである。
そこにもってきて、この戦いの場が全て清という国の領土内で行われたわけで、自分の領地内で日本とロシアが戦争をしていて、自分達は局外中立をしていたわけである。
こんな馬鹿な話もないわけで、清という国が主権国家としてあたりまえの国家であれば、当然双方に「俺の国で戦争なんか止めてくれ」ということ言うべきではなかろうか。
それが言えなかったからこそ、西洋列強、その尻馬に乗っかって、後発の日本も、清という国の中で勝手気ままな行動をしてきたわけである。
この当時の日本が中国を侵略したというのも事実であり、それを否定するものではないが、侵略されっぱなしの中国もどうかしていたわけである。
それに中国を侵略したのは日本だけではなく、西洋列挙の中でもロシアの侵略は日本以上であったわけであるが、中国の人たちというのは、今のロシアに対してもそういう抗議はしていない。
ただ日本に対してのみ、そういう抗議をしているわけで、これは一体どういうことなのであろう。
日露戦争の場合でも、日露双方とも他所の国の中で戦争をしていたわけで、そのことは当然のこと、戦場近くの人々には迷惑この上ない話で、双方が土地の人たちに大きな圧迫を加えたことは想像に余りある。
と同時に、彼らの土地の人間が、双方に情報を流し、双方から何がしかの物資を横取りし、敗残兵から物取りをしたこともあるわけで、こうなると、その戦場の付近というのは無法地帯そのもので、銃を持ったものが強者となるわけで、夜盗、山賊、追いはぎの跋扈する地域となったわけである。
そしてそれが、中国の物言わぬ一般大衆と、一括りに表現されるわけで、そこにあるのは原始社会に他ならない。
日本は占領地を管理するのに、自分達ではいろいろは法律を作って、それに基づき管理しようとしても、相手はロシアであり、中国人であり、こちらの言うことを素直に聞かない場合はどうしようも無いわけで、当然そこには無益な殺戮が起きることになる。
中国の統治権力がきちんと機能していれば、そういうことは無いが、中国の統治機能がきちんとしていないからこそ、戦場になるわけで、日本が日清戦争で手に入れたいと思った遼東半島というのも、日本が返還したらすぐさまロシアに租借させる、などと言うことは、まさしく清という国は一体何をしているのか、主権というものがあるのか、と言いたい。
中国人には西洋コンプレックスが潜在的にあるようで、紅毛碧眼のヨーロッパ人には幼児にさえ徹頭徹尾卑屈になっているようで、彼らからものをいわれるともう口答えも出来なかったに違いない。
こういう状況を、明治時代の後期の日本人が見れば、蔑視するなといったところで、現実の彼らの生活を見れば、蔑視したくなるに違いない。
文化大革命の論理でいけば、「造反有理」ではないが、蔑視されるには、やはりそれだけの理由があるわけで、その理由を自らが解決しないことには、世界に認められるということにはならないと思う。
日本とロシアが、中国の土地で戦争をして、各戦闘では日本が勝っていたが、戦争のトータルとしては、得るものが少なかったことに対して、日本の世論というのは激昂したわけである。
尤も、戦争中は「勝った勝った」という報道ばかりを聞かされていた銃後の国民は、政府が先行きに困っている、という内情を全く知らなかったものだから、日本が「楽勝」しているように受け取っていたわけである。
よって、戦争に勝ったにもかかわらず、「賠償金も取れないというのは、どういうことか」といきまいたわけである。
ここでも面白いのは、東京帝国大学の7博士が、こういう世論の提灯持ちをし、あるいは扇動という事をしていた、という事実である。
世に、学者馬鹿という言葉があるが、まさしくそれを絵に書いたようなものである。
先にも述べたが、戦後でもこれと同じことがあったわけで、大学の先生がつるんで反体制の気勢を上げたが、事態は全く逆の方向に進んで、大学の先生の声を無視した政治家のリーダー・シップのほうが、日本のその後の繁栄に寄与したという事実がある。
人の世の不可解なところは、政治家と学者でどちらが頭がいいかと問えば、学者のほうが頭がよさそうに思えるが、実際の人の世というのは、政治家のリーダー・シップのほうが、より最大多数の最大幸福につながっているから不思議だ。
政治家のリーダー・シップというのは、一般大衆と同じ視線でものを見ていては駄目で、一般大衆が反対するようなことを敢えて行わないことには、世の改革ということにつながらない。
大衆に迎合する事が、民意を反映することだと思っていると大間違いである。
ポーツマス条約の批准に激昂した大衆というのは、「もっともっと戦争を継続して、沿海州からシベリアまでを分捕れ」、という過激なものであったわけである。
これ即ち、帝国主義的領土拡張主義の真骨頂なわけで、それを声高に叫んでやまないのは、一般大衆の側であり、草の根の一般市民の側であり、それを扇動したのが、東京帝国大学の7博士であり、当時のマスコミとしての新聞であったわけである。
戦後でもこれと同じパターンが再現されたことは既に述べたが、大衆の意見を聞き、民意を汲むことの難しさというのは、この辺りにある。
大衆の意見をきき、民意を汲み取り、世論を尊重するということは、こういうことなわけである。
政府というのは、自国民といえども、そうそう手の内を見せられないわけで、日露戦争遂行のため、国庫が空になっていても、その事実というものは、早々安易に公開できないわけである。
なにが何でも秘密にしておかなければならない、というものではないにしても、戦争継続が不可能である、ということが相手方にわかってしまえば、あらゆる場面で不利になるわけで、いわゆる国益が損なわれる事になる。
意図するとしないにかかわらず、ある程度の秘密の保持は必要なわけである。
そして、日露戦争で、我が同胞が沢山血を流した割には得る物が少なかった、という大衆の不満は、この時代においては大いに整合性があったわけで、整合性があるが故に、それは正義であったわけである。
戦後のパターンでも同じ事が言えるわけで、日本が単独講和でもかまわないから、早急に戦後の復興するためには、アメリカの陣営に入ってでも、食うことが先だという考えが戦後の保守陣営の考え方であったわけである。
それに対して、戦後の日本の文化人、いわゆる大学教授を中心とする日本の知性は、ソビエット、中華人民共和国を含む全面講和でなければ日本の将来は無い、と思い込んでいたが、これは明らかに思い違いであったわけである。
日本はアメリカの陣営に入っても、再び武器を取ることはしなかったわけで、この判断の間違いというのは、当時の日本の知性といわれる人々は、自分の同胞が何を考えているのか、ということもきちんと把握できていなかったというわけである。
つまるところ、日本人でありながら、自分の同胞としての日本人というものを理解し切れていなかった、ということに他ならない。
戦後の日本の知性といわれる人たち、大学教授を中心としたインテリと呼ばれる人たちが、自分の同胞が何を考え、何処に向かって進もうとしているのか、全く把握できていないという事は、彼らは「象牙の塔」の中で何を研究しているか、ということにつながるわけである。