日露戦争

日本とアジア6 平成13年4月21日 日露戦争

一般大衆の本音と建前

君死にたまうことなかれ


(旅順口包囲軍の中にある弟をなげきて)
末に生まれし君なれば
、 君死に給うことなかれ
ああ弟よ、君を泣く
親の情けはまさりしも
親は刃を握らせて
人を殺せとおしへしや
人を殺して死ねよとて
24までを育てしや
旅順の城は滅ぶとも
ほろびずとても何事か
君知るべきやあきびとの
家の掟に無かりけり
すめらみことは戦いに
おほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは
死ぬるを人の誉れとは
大みこころの深ければ
もとよりいかでおぼされむ
嘆きの中に痛ましく
我が子をめされ、家を守り
安しと聞ける大御代も
母の白髪はまさりけり
十月も添わで別れたる
乙女心をおもい見よ
この世一人の君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ
知る人ぞ知る与謝野晶子の「君死にたもうことなかれの」の歌で、参考書から私が自分で読みやすいように書き写したものであるが、やはりこの歌には人間の本心が出ているとおもう。
この中の「君」と言うのは自分の弟なわけで、出征した弟を読んだということは誰でも知っている事実であるが、このときの作者の年齢は24,5歳であったというから、その事実には驚かざるを得ない。
この節で、私がこの歌を冒頭に持ってきたことには大きな理由があって、私のような素人が歴史を論ずることは、所詮、犬の遠吠えか、猿のせんずり程度のもので、専門の研究者と正面からぶつかったら勝ち目はない。
もともと私の考察というのは、私自身の考えを述べているだけのことであって、歴史的事実を忠実に追い、それを再現し、実証するものではない。
あくまでも私という個人が、自分で考えたことを書き留めているだけのことで、毒にも薬にもなりようがない。
そういうわけで、日清戦争なり日露戦争というものは既に考察され尽くし、立派な研究書も山と出回っている。
そういう状況下で、少し視点を変えて、斜めからこの日露戦争というものをみて見るとどうなるであろうか、という疑問から冒頭の与謝野晶子の歌となったわけである。
この歌の背景には、晶子自身は実家を飛び出して好きなことをしているが、家に残って、家業を継いでいる弟が出征してしまえば、後に残されたもの(年老いた母と、弟の新妻)は、どうなるのであろうか?という危惧が後に横たわっていたわけである。
要するに、今の言葉で言えば、生活者としての実感が素直に表れているわけで、その実感が読む人の実感とも共振しているわけである。
この歌に対して、時の文壇の重鎮であるところの大町桂月が噛み付いているわけで、私はここに日本の民衆というものの本質があるように思う。
時の文壇の重鎮ということは、その時代の「時代の雰囲気」というものを体現しているわけで、「時代の雰囲気」というものを体現しているからこそ、時の文壇の重鎮という地位を占めているわけである。
こういう現実というものを、我々はよく注視してみなければならないと思う。
この歌に反戦歌というレッテルを貼ったのは、戦後の知識人ではないかと思うが、私の主観でこの歌を見てみれば、これは反戦というよりも、嫌戦、厭戦気分を歌ったもの、と言うほうが適切ではないかと思う。
しかし、その前に、人間としての素朴な感情があまりにも素直に前面に出すぎてしまっているわけで、ここに歌われている感情というものは、これ全て当時の日本人の偽らざる気持ちではなかったかと思う。
その当時、誰しもが皆これと同じ気持ちを共有していたに違いないと思う。
即ち、それは人間の感情として、感情の赴くまま書いたものであったわけで、人々の心がそのまま素直に吐露されていたわけである。
だからこそ今日でも生きているわけで、それはまさしく、その当時の一般国民の本音をストレートの表したものであった。
そういう気持ちを批判する大町桂月というのは、晶子の感情とは対極の位置にある当時の日本人の理性というか、理念というか、常識というものであったわけで、人が人として感情を乗り越えて、国の将来を愁いていたとすると、こういう発言になるわけである。
約10年前、日清戦争で、当時の日本人の先輩諸氏が、血で血をあがなって獲得したと思った遼東半島というものを、3国干渉という形でロシア、フランス、ドイツという列強に、「漁夫の利」として取られたということは、当時の日本人の気持ちとしては、それこそ理不尽なことと思われたに違いない。
そして、この3国干渉というのはまさしくパワー・ゲームであったわけで、力のないものは指をくわえて、ただ見ているほかなかったわけである。
その悔しさが、この与謝野晶子の歌に対する反発となって表れているわけで、「我々はこんなに悔しい思いをしているのに、何故生きて帰って来い、等と軟弱なことを言うのか!」、という憤慨となって露呈したわけである。
今流に言えば、軍国主義を鼓舞したということになってしまうが、やはりそれは当時の現実を知っているが故の杞憂であったことは確かに違いない。
ここで今日に生きる我々は、この時代において、大町桂月の言っていたことが当時においては整合性を持っていたということを考えなければならない。
与謝野晶子の歌は、この当時においては、異端であった、ということをよくよく考えてみなければならない。
つまり与謝野晶子の歌は人間の本音ではあっても、それを口にすることが異端であった、という現実を直視する必要がある。
この現実は、当時の日本の大衆というものがそれを望んでいた、ということと同じなわけで、この大衆というものが、何時の時代にも、隠れた歴史の要因になっているわけである。
大衆と統治者の在り方そのものが政治という情況を呈するわけである。
政治というのは、人間の集団として、管理するものとされるものの状態をさすものではないかと思う。
管理という言葉も新しい概念ではないかとさえ思えてくる。
ネイテブ・アメリカンのインデアンも、南洋のアポリジニも、アフリカのマサイ族も、日本のアイヌも、リーダーが居たことは疑いがないが、果たしてそのリーダーが管理者であったかどうかは、はなはだ疑問なわけで、ただただ人間のグループを象徴する代表者に過ぎないのかもしれない。
しかし、ヨーロッパの諸民族、日本の封建社会に生きた人々、古代から生き続けた中国の人々にとっては、集団のリーダーたるものは、同時にそのグループの管理者であったわけである。
つまり、社会としての組織というものを作り上げていたわけであるが、この人間が作った社会組織というものには、グループとしての集団ごとに優劣があったわけで、その優劣というのは、あくまでも今日的な認識に根ざした思考であるが、それは自然発生的に生まれ、同時に自然淘汰もされているわけである。
その時点では、どのグループが優れているのか劣っているのか、当人達は知る由もなく、歴史という結果のみがそれをさし示していることになる。
結果として、他の人間集団がもう一方の人間集団を隷属させた、ということは社会組織、社会システムの優劣といわざるを得ない。
この人間集団としての社会というものに、個々の人間が組み込まれた場合、個人の意思というのは、その組織の中に埋没してしまって、個人レベルでいくら本音を語ったとしても、それは組織というものにかき消されてしまうわけである。
個人の本音のレベルの願望と、組織全体としての利益というのは、時と場合によっては相反することになりかねない。
それがこの与謝野晶子の歌を巡る大町桂月との論争であったわけである。
近代的な主権国家というのは、大勢の国民というものを内包しているわけで、この当時の日本が天皇制の欽定憲法の封建主義的な国家であったとしても、天皇陛下が独裁政治をしていたわけではない。
天皇陛下が戦争が好きで、好き勝手に戦争をして、他所の国の国民を搾取していたわけではない。
天皇の下に政府があって、政府の下には国会議員というものがおり、その国会議員が国会という場で議論した結果を天皇の名で施行されたわけで、手続き上はきちんとした民主主義の段階を踏んでいるわけであるが、こと、軍事に関しては国会議員がタッチ出来なかったということは紛れもない事実であった。
軍事に関してはどのような国でも、大なり小なり秘密のベールというものはあるわけで、もしそれがないとすれば、軍事が軍事たりえない。
「今度、何処何処に軍を出す」ということが公開の場で審議されれば、それは作戦というものがなりたたなくなってしまうわけで、軍の行動と言うのは、大なり小なり秘密性を持つものである。
そして、徴兵制というのも、近代化の過程では、どの主権国家でも取る手段なわけで、日本だけが特別に国民を軍隊に狩り出したというわけではない。
与謝野晶子の歌というのは、何も我々だけに通用するものではなく、世界のあらゆる国で、兵役に男手を取られた家族の心情としては、地球規模で必然的なことである。

北清事件に関する考察

本論に戻って、日本が日清戦争に勝ったということは、アジアの状況に非常に大きなインパクトを投げかけたわけで、アジアへの進出を鵜の目鷹の目で狙っていた西洋列強には、日本の実力と、清・中国の実力というものの認識を新たにしたに違いない。
戦争の前には、日本が清に勝てるなどとは思っていなかったが、それが勝ってしまうと、その強い日本に対抗するよりも、弱い清の方に食指を動かしたわけで、強い日本に対してチョッカイを出すことを控え、弱い清のほうを蚕食することを狙ったわけである。
3国干渉というのは、いわゆる3国が連合して日本に迫ったわけで、一国のみでは日本に文句を言えなかった、ということは、やはり日清戦争での日本の実力というものを考慮に入れ、一国で言うよりも、三国束になって、連携して日本に難癖をつければ、日本も飲まざるを得ないだろう、という読みがあったからに違いない。
だから下関条約で日本が台湾を取り、その後、朝鮮をも管理下に置こうとした日本の動きを許容していたわけである。
彼らにしてみれば、清という大きなパイの分け前として、自分達の分にありつければ、日本が自分達の国益と正面からぶつからない限り、寛容に見ていたわけである。
この状況を分かりやすく羅列してみると、
1896年、明治29年、下関条約の翌年、清はロシアと対日密約をし
1897年、明治30年  1月アメリカ資本、上海に上陸
            11月ドイツ山東省?州湾占領
            12月ロシア旅順占領
1898年、明治31年  5月イギリス九竜租借
             7月イギリス威海衛租借
            11月フランス広州湾租借という風に、
西洋列強というのは、日清戦争で清が弱いということが露呈すると、怒涛のように清に押しかけたわけである。
そして、これら西洋列強のアジアを見る目というのは、私が今まで何度も述べてきたように、彼らにとってアジアのというのは「富の狩場」以外のなにものでもないわけで、スペイン人が南米で先住民族を根絶やしにしたような発想と同根である。
これが世界史・人類の歴史のありのままの赤裸々な姿なわけで、こういう状況というのは、人間の理性では計り知れないわけである。
こういうものが歴史であったわけで、それを今日的な視点から眺めて、侵略したとかされたとか、正しかったとか正しくなかったとか、人間の理性で裁くことは出来ないわけである。
人間の理性とは別の次元で歴史は動いているわけで、日清戦争後のこのような世界の情勢を、日本という立場から敷衍してみると、日清戦争には勝ったものの、もうそれ以上は戦い切れない、という現実を目の当たりにして、3国干渉を受け入れざるを得ず、我々の側は臥薪嘗胆、切歯扼腕せざるを得なかったわけである。
そして、西洋列強が清にしたことと同じことを、我々は台湾と朝鮮で行ったわけである。
西洋列強、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、スペインという西洋諸国というものが、アジアに植民地支配に出向いてくる、ということは一体どういうことなのであろうか。
イギリスといえば国王を戴く立憲君主国であり、ドイツとかロシアというのは皇帝を戴く専制君主国だし、アメリカというのは大統領を戴く共和制の国であったわけで、こういう国が国の方針としてアジアに出てくる、ということは女王なり、皇帝なり、大統領の命令によって行動しているのであろうか。
しかし、国家という組織で動いていることには変わりはないわけで、その最終段階の承認というか、決裁というものは、当然、君主に帰結しているとは思うが、君主が率先して「中国を分捕れ」というようなことを言うわけはないと思う。
それは当然我々のところでも同じなわけで、我々の国が天皇制の国だからといって、天皇陛下が自ら「台湾を取れとか、朝鮮を支配せよ」ということを積極的に言ったわけではないはずである。
当然、幕僚というか、政府というか、重臣というものの意見を聞きながら、最終的に仕方がないから御璽を押す、という形で最終的な決裁が下りたものと考えざるを得ない。
上に立つ人というのは、下々のものよりは情報が沢山集まってくるわけで、組織というのは、上の人のゴー・サインが出ないことには動きが取れないわけであるから、その意味からするとゴー・サインを出さざるを得ないような状況を重臣達が作り上げてしまうわけである。
そのことは、ある意味で統治者というのはロボットに過ぎない。
問題は、その下にいる重臣達の考え方にあるわけで、この重臣達というのは、会社に例えれば中間管理職の人たちにあたるわけである。
よって西洋列強といえども、また我々の国においても、国の指針というのは、この重臣とその下の官僚とで左右されているわけである。
そして、このクラスというのは、下々の情報にも精通しているわけで、下々の隠れた願望というものを上手に具現化することに長けているわけである。
そして、下々は下々で、大衆という烏合の衆といえども、その潜在意識というのは流動的に変化しているわけである。
日本の場合で言えば、江戸時代約250年の間においても、大衆としての意識の変化というものがあったればこそ、明治維新というものが成功したわけである。
朝鮮や中国では、この民衆レベルでの意識の変化というものがなかったが故に、近代化というものの本質を会得できなかったわけである。
その意味からすれば、西洋というのは、我々東洋人よりも数段その意識改革に先んじていたわけである。
そして明治維新の途中ではあったが、近代化というものに着手した最初の試練が日清戦争であったわけである。
これにかろうじて勝利してはみたが、まだまだ西洋列強との格差を思い知らされたわけで、これからも尚いっそうの近代化をなさない事には、西洋列強にしてやられる、という危機感が政府というよりも、当時の日本の民衆の側に蔓延したのではないかと思う。
不思議なことに、日本の政治家というのは、その在職中に私利私欲に走って、自分の私服を肥やした人というのはあまりいない。
一般の庶民の所得に比べれば、多少豊かな生活をエンジョイした政治家というのはいたかも知れないが、在任中に蓄財にのみ奔走し、職を下りたらその財産を持って海外に逃げた政治家というのは聞いたことがない。
国内でいくらたたかれようと、ある意味では世界の政治家に比べれば、かなり精廉潔白なわけで、政治家だからといって、庶民から搾取するという構図は当てはまらない。
忘れてはならないことは、何処の国においても、政治家というのは、大なり小なり国民の潜在意識を具現化する存在ということである。
冒頭の与謝野晶子の歌は、庶民の偽らざる本音であるし、大町桂月の批判は、これまた庶民の潜在意識を具現化したものであったわけである。
個人としては与謝野晶子の歌に共感を覚えるが、自分の国の将来のことを考えれば、大町桂月の言っていることにも整合性がある、と思っていたわけである。
そこには個人としての個の存在を第一に考えるか、組織の一員としての、自分以外の、その他大勢の同胞の、将来のことにウエイトを置くか、という価値観のバランスの問題に帰することになる。
西洋列強がはるばるインド洋を越え、太平洋を越えてアジアにまで触手を伸ばしてくるということは、その背景に、当然それらの祖国の庶民、国民、市民その他有象無象の人々の潜在意識を代弁しているわけである。
つまり、国威掲揚という形でそれは表面に現れるわけで、それは船に乗ってはるばるやってくる人々の名誉とか、忠誠心とか、愛国心というもので代弁されているわけである。
それらを煽ることで、実際に船に乗ってやってくる人たち、あるいは軍隊の組織の中の一員としてやってくる人たちに、その行動の整合性を与えるわけである。
日清戦争後に、イギリスがロシアの南下を恐れて、日本と同盟を結び、日英同盟を締結したということは、このころの基本的な世界観の見解であったわけで、ロシアというのも、清という国にあくことなく触手を出しているわけで、それと同じ事はイギリスも行っていたわけである。
ロシアもやって、イギリスもやって、フランスも、ドイツも同じ事をしているわけであるが、それと同じ事を日本がやると、何故に侵略になるのであろう。
ロシアもイギリスも、フランスもドイツも、この当時、日本が台湾や朝鮮に行ったことは非難していないわけで、それは当時の状況を考えれば、まさしく世界の常識であったわけである。
その当時では、世界的に常識で通っていたものを、20世紀の後半になって、何故に我々の内側から、同胞の中から、「侵略したにもかかわらず、その反省が足りない」という言葉になって出てくるのであろう。
侵略であった事は紛れもない事実であるが、それは世界の常識として、その当時には通用していたわけで、それを1世紀近く経過した時点で、「反省せよ」と言われても仕様がないように思う。
ここで問題となってくることは、国家の意思というものである。
国家が個人の意思と同じように、自分の意思をもつということはどういうことなのか、ということを考察する必要があると思う。
イギリスが中国に地盤を築きたい、ドイツが山東半島に地盤を築きたい、ロシアが東北3省を手中に入れたい、というのはいずれも国家の意思であったわけで、日本が3国干渉で遼東半島を返還せざるを得ない、と思うに至ったのも、同じように国家の意思であったわけである。
この国家の意思という場合、その背景には、その国の国民の存在というものが当然あると思わなければならないが、これは世界の中の数ある主権国家にとって、全部が全部、皆同じ情況ではなかったわけで、仮に、日本のような小さな国ならば、国民の全体的な雰囲気というものが国家の意思を形成しているように見えるが、ロシアのような巨大な国家になると、あの広い国土の中の農奴というものが、国家首脳の意識を覚醒する力があったかどうかはなはだ疑問である。
ところが、あの広大な国家の、旧制ロシア帝国というものは、ロシアという国家の意思でもって中国の領土に触手を伸ばし、蚕食しようとしていたわけで、この場合は、明らかに皇帝とそれを取り巻く重臣の考えが、一般国民の思考とは、かけ離れていたに違いない。
だからこそ、その後、共産主義革命というものが起きたわけである。
ところが日本やイギリスというのは、比較的小さな国で、こういう小さな国では、一般国民の考えている事というのは、その場の統治者や、それを取り巻く重臣というものの中にも浸透しやすいわけである。
なんとなれば、人間の行動範囲というものが狭く、人々は狭い地域の中で行き交っているわけで、そういう環境ではあらゆる状況を見聞きする機会が多いからである。
いわゆる世論というものが、如何に国政及びその延長としての外交というものに結びつくか、という問題に還元されるわけである。
今日においては、世論というものは、マスコミによって形成され、マスコミによって拡大され、マスコミによって鼓舞宣伝され、最後はマスコミから忘れ去られるわけであるが、この日露戦争の時代というのは、このマスコミの媒体というものがまだ未熟で、新聞と少々の雑誌しかなかったわけである。
こういう状況下で、1900年、明治33年、北京で義和団という宗教団体というかなんというか、得体の知れない集団が、各国公使館を包囲するという事件が起きた。いわゆる北清事件というものである。
この義和団というのが「扶清滅洋」ということスローガンにしていたわけであるが、これは明らかに中国のナショナリズムを具現化したもので、中国を植民地化しよう、という西洋の力を排除して、清帝国を盛り上げようというものに他ならない。
中国の人々の側からすれば、当然、起きるべくして起きたようなものであるが、このエネルギーと情熱が、中国の人々の全部にあれば、これはナショナリズムたりえるが、如何せん、部分的にしか有りえなかったわけで、攻撃の対象にされた側からすれば、盗賊の反乱、有象無象の、無為徒食の、暴徒としか映らなかったわけである。
この反乱は一国のみを集中的に攻撃するものではなかったので、北京に公使館を持っていた諸国は、当然のこと、連合して自国民保護という名目で軍隊を送り込んだわけである。
この義和団の乱に対して、清国政府の対応もまことに不味かったわけで、初期のころは、これを容認するようなことをいっていたわけで、それが後に自分達に不利になると、前言を翻して弾圧に回るという、まことに不味い対応をしたわけである。
こういう失政が清という国をますます弱体化してしまったわけである。
義和団の挙兵に関し、連合軍側は日、英、米、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ロシアと8ヶ国にも及び、総勢1万9千名にものぼったわけである。
一方、義和団の方は2万4千名にも達していたわけで、これはもう立派な戦争であるが、ここでも日本は西洋列強からある意味で頼りにされたわけである。
というのは、西洋から見て、この中国の北京というのは、やはり遥かかなたの僻地なわけで、日本は一番地理的に近いということで、日本の出兵が嘱望されたわけである。
そして、それに応え、日本も天津から北京に至る軍事行動の中で、その規律が厳しく厳正に処したことが評価され、連合国の信頼を得てしまったわけである。
その反対に、清国の兵隊というのは、戦が不利になり、自分達が撤退しなければ命が危ないという究極の局面に来ると、自分達の同胞の財産を略奪、狼藉をほしいままににして、遁走してしまったわけである。
まさしく「烏合の衆」と化してしまうわけで、こういう事実は、いっこうに戦後の日本では報じられていないが、やはり中国に対する贖罪のなせる技かもしれない。
贖罪の念が強くて、現実の中国の民衆の醜態というものには、故意に目をつぶり、「ハエが一匹もいない清廉潔白な理想の国」というイメージを壊されたくないのではなかろうか。
話は飛躍するが、我々が持つ中国に対するコンプレックスというのは一体どこからきているのであろう。
平成13年4月23日の時点で、台湾の李登輝前総裁が日本で病気治療をするのに、そのビザの発給に中国の顔色を伺いながら、びくびく出している姿というのは、見ていてまことに情けない。
毅然たる態度のとれない我々も情けないが、それに嘴を入れてくる中華人民共和国というのも実に尻の穴の小さい大人たちである。
中華人民共和国が日本に対して難癖をつける、ということは一種のプロパガンダで、心からそういうことを思っているわけではなく、ただ単に、「日本には勝手なことはさせませんよ」というパフォーマンスなわけである。
相手がそうならば、こちらも軽く受け流して、人道主義を前面に出して、応酬すればいいわけである。
相手の心を先走って慮る、という点が一番いけないわけで、それをするものだから、本旨が何処かにいってしまうわけである。
日本の政治というのは、これに関連した失政が山ほどあるわけで、それはそのまま、我々の甘えの構造につながっているわけである。
相手の心を先走って慮り、よかれと思ってしたことが、結果として相手を怒らせるというわけで、先走って慮ったことには悪意がなかったのだから、その部分は寛大に扱おう、という発想につながるわけである。
相手の心を先走って慮るという行為には悪意がなかったのだから、その部分は寛大に処置してしかるべきだ、という部分に「甘え」があるわけである。
そこに、同じ同胞だから、という「甘え」が2重にだぶるわけである。
そして人類の歴史を見るときに、もう一つ注意してみなければならない事は、「退却の仕方」を見なければならない。
日清戦争でもこういう場面が多々あったわけであるが、前線のこう着状態の均衡が破れ、一方が退却しなければならない状況になると、それらの軍隊は、もう既に、軍隊としての規律も何処かに吹き飛んでしまい、まさしく暴徒と化すということである。
大学教授の書く歴史というものには、こういう場面がほとんど登場しないが、実際の戦場というのは、戦いに敗れた側というのは、もう盗賊以外のなにものでもない。
これが清という国、中国という国に生を受けた民衆の実態だったわけである。
日本でも戦国時代には、これと同じ状況であったから、彼らを笑うことは出来ないが、兵隊の本質というのは、こういうところにあるわけである。
一方、義和団のほうも盗賊と紙一重の状態ではなかったかと想像する。
人間が理性を持ち、法を守るという意識があるとすれば、こういう騒乱というものはありえないわけで、これは日本の戦後の安保闘争の時の学生にも言えているわけである。
彼らが理性を持ち、順法精神に満ちていたとすれば、ああいう騒動はありえないわけである。
60年代の学生運動としての安保闘争というのは、共産主義に扇動された無法者がのさばった時代で、共産主義というものは既成の秩序を壊し、無法者の天下を作ることを革命と称していたわけである。
彼らは革命を成し遂げるということを大義名分にしていたが、その実体は無法者の集団であったわけで、それを日本の識者というのは、イデオロギーの擁護というオブラートに包んで、同胞としての暴徒に同情を示したわけである。
ここに戦後の日本の民主主義の甘さがあったわけである。
大儀があれば手段を選ばず、何をしても許されるのであれば、戦前の軍国主義者と全く同じ轍を踏んでいたわけで、人間の理性とか、知性とか、思考力というのは一体どうなっていたのかと問いたい。
あのときの若者、学生、知識人にはそういうものが一切無かったわけである。

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