日清戦争後の台湾と朝鮮

恥ずべき乙未(いつみ)事件

台湾を実効支配しようとして武力で以って台湾統一を成そうとしていた矢先、朝鮮では日本人による大事件が勃発した。
これは明らかに日本人によるテロ行為そのものである。
つまり、当時の日本の朝鮮駐在公使三浦悟楼が、日本人の警官や大陸浪人と結託して、朝鮮王宮に進入し、高宗の妃、閔妃を殺害してしまうという事件である。
世に乙未(いつみ)事変といわれるものであるが、これはこの当時の日本の最大の汚点だと思う。
前にも記したように、日清戦争では33万人もの人間が朝鮮、中国に渡ったわけで、そこで彼らが見たものは、朝鮮の劣悪な庶民の生活であったわけである。
そういうものを見た我々、遠征軍としての出征兵士達は、そこで自分達が優越感に浸るのもある程度は理解しえることであるが、しかし、日本の政府としては、朝鮮というものを完全なる自主権を持った独立国、主権国家と見ようとしていたわけで、その膝元からこういうテロ行為が起きては、日本の信用に関わることも致し方ない。
朝鮮においては前々から大院君と高宗、そしてその妃としての閔妃との確執が表面化していようとも、それは朝鮮政府部内のことで、独立国として認める以上、関与すべきことではなかった。
そこでこうした暴挙が起きたということは、我々の側の驕りであり、慢心であり、不遜な行為であり、弁解の余地のない行為である。
そして、この張本人である三浦悟楼を裁くのに、日本に召還して、日本側で裁判をしたという事は、全く以って政府の対応もまずかったわけである。
朝鮮の独立を尊重する、という言葉の裏に隠された、治外法権という刃のようなものである。
そしてこの三浦悟楼という人物は、その後の日本では学習院院長、貴族院議員、枢密院顧問官、政治家として生きていたわけで、これはまさしく我々同胞の恥そのものである。
三浦悟楼がテロ行為に走ったことにもそれなりの理由はあったわけで、それというのは、日本が日清戦争に勝って、遼東半島や台湾を手中にしようとしたのを、ロシアが阻止したこと、つまり3国干渉でロシアが主導権を握っていたことによって、この閔妃というのは、寄りかかるべき大木として、ロシアを選択したわけである。
清が既に当てにならないとすれば、次はロシアに寄りかかろうとしたわけである。そこで三浦たちは、これを「亡き者にしてしまえ」、ということになったわけである。
ここにお互いの国益が絡んでいたわけであるが、この乙未事変というのは、やはり我々の側の汚点に変わりはないと思う。
訪日中のロシアの皇太子を撃った大津事件とか、下関で李鴻章を撃った事件とか、そういう一連の流れの中のテロとは思うが、それを国家の首脳に近い人間、公使という立場の人間が犯したとなれば、これはもう民族、大和民族の恥と捉えなければならないと思う。
そしてその犯人を日本側が裁き、その上、相手の立場を無視したような寛大な措置をしたとなれば、これはもう戦争の立派な原因となってしかるべきである。
朝鮮の人たちにとっては、これほどの屈辱もないわけで、そうであるとすれば、朝鮮民族一丸となって日本に対抗してしかるべきである。
しかし、ここでも国を挙げて朝鮮民族が一丸となって正面から戦いを挑んでくるという動きにはならず、抗日、反日という陰湿な抵抗しかできなかったわけである。
その後においても、閔妃の夫であるべき高宗は、日本に対して戦う意思を持たず、ますますロシアに寄りかかっていってしまうわけである。
即ち、朝鮮の人たちにとっては、日本と正面から戦うことは出来ないが、陰日なたに日本の悪口、つまり反日、抗日、侮日という事が、生きるための念仏になっているわけで、それは念仏以外の何者でもなかったわけである。
この状況というものを今の視点から見るとすれば、どういう風に解釈したらいいのであろう。
この時、朝鮮というものがきちんとした主権国家として確立し、機能していたとすれば、我々の側もそういう不遜な行為を、自重するに違いなかった、ということはいえると思う。
例えば、この時点でも我々にとって西洋列強というのは脅威であったわけで、彼らに対しては、こういう行為はしえなかったに違いない。
その仕返しが非常に怖かったわけで、だからこそ血であがなった領土を、彼らの言うとおりに返還しなければならなかったわけである。
しかし、朝鮮の人々に対しては、そういう仕返しの恐怖というものが全くなかったから、己をわきまえず不遜な行為がしえたわけである。
同じ構図が21世紀の今日でも立場が逆転して生きているわけで、我々は武力というもの一切使わないことを広く世界に公言しているがゆえに、武力を持って、なおかつそれをいつでも使う用意をしている朝鮮の人々が、我々の教科書にまで干渉してくるわけである。
しかし、20世紀の後半から21世紀にかけての時代というのは、武力を使うということが、攻めるほうにも攻められるほうにも意味をなさなくなった時代で、武力は持ちつつ、それを背景に口喧嘩をする程度のことしか出来ない状況になってきたわけである。
それは言わずもがな、兵器の近代化というものが、昔のような部分的な紛争の解決をはるかに越えた力を持つようになってしまって、一部の戦闘員だけのものではなくなってしまったからである。
我々は確かに100年前から、アジアの人々を蔑視し、蔑んだ目で見がちであったが、これも当時の視点に立てば致し方ないことで、人間の集団として普遍的な視点に立てば、弱肉強食、栄華盛衰等の言葉にもあるように、人間の生存としては、ごく自然な成り行きであったと言わなければならない。
アメリカ・インデアンが今日のアメリカ大統領に「謝罪せよ」と迫ったところで意味はないし、オーストラリアのアポリジニが、今のオーストラリア政府に「我々を抑圧した事を謝罪せよ」といってみたところで意味がないわけである。
我々、アジアの場合は、アメリカ・インデアンとかアポリジニの相当する人たちが、それぞれに独立国として主権国家として独り立ちしているので、アメリカやオーストラリアとは状況が違うため、そこがアジアの多様性といわれるところである。
我々日本人が、自国の歴史を研究していて、このときの「我々の先輩諸氏のしたことは確かに間違っているな」と思ったところで、それ以上は何とも仕様がないわけである。
それは歴史の中に埋没した事実という重みだけが残り、それを教訓として、将来再び同じ事を繰り返さないよう、未来に向かって生き続けなければならないわけである。
当時の朝鮮における我々の立場というものを考えてみると、我々は朝鮮というものをきちんとした独立国として扱おうとしても、その朝鮮の首脳の心は日本に向かうことなく、清やロシアに向かっているわけで、これでは我々の側が思い知らせなければならない、という心境に至るのも当然の成り行きとも言える。
それを具現化したのが三浦悟楼の乙未事変であったわけで、その事は朝鮮の人々が素直に日本側のいうことに従えば、そういうことはなかったかもしれない。
言うこと聞かないものに、無理に言うことを聞かせようとすれば、最終的には暴力に行き着くわけで、昭和20年のアメリカの日本占領というのは、被圧迫者が素直に相手の言うことを聞いた顕著な例であった。
それと比べ、朝鮮側が日本の言うことを素直に聞かなかった、ということを今日どう解釈したらいいのであろう。
当然、日本側としては朝鮮を独立とは名ばかりで、実効支配する欲望というものをあらわにしていたとしても、その当時の朝鮮には、それに逆らうべき実力がなかったわけで、いわば昭和20年の日本と同じ立場にたたされていたわけである。
実力の差というものが歴然としていたにも関わらず、なおかつそれを認めようとせず、無駄な抵抗をしたものだから、あらぬ殺傷事件がおきたという見方が成り立つのではなかろうか。
その状況判断が出来なかった、ということは朝鮮側の責任ではなかろうか。
この乙未事変を起した日本側は、ここで再び大院君を引っ張り出して、高宗と面談させ、日本が推し進める朝鮮政府の内政改革ということを押し付けたわけである。
今までのいきさつから朝鮮側もこれを快く思わないのも当然である。
妃を殺された高宗は、その事が起きると、ロシア大使館に逃げ込んでしまったわけである。
このことをさして「露館播遷」というが、一国の元首が、外国の公使館に逃げ込んでしまって、そこから自らの政府に指令を出す、ということをしていたわけである。
こういう事実を具体的な解りやすい表現で言い換えれば、アメリカ先住民としてのインデイアンの酋長が、イギリス入植者の圧迫に耐えかねて、フランスの入植地に逃げ込んだようなものである。
こういう酋長、乃至は民族を、イギリスもフランスも大事にはしないわけで、その場の利得のみを計算して、計算づくで、場当たり的に、本人の便宜を図っているだけである。
つまり、この時代の朝鮮の首脳者、大院君、高宗、閔妃というのは、世界の情勢というものが全く分かっていなかったばかりでなく、自分達の民族を統治するということまでもわかっていなかったわけである。
近代的な政治という意味が分かっていないものだから、自分の身の回りのことしか眼中になく、自分達の同胞が如何なる状態にあるのか、ということなど意に介さなかったわけである。
今の言葉で言えば、意識改革が全くなされていないものだら、政治、統治、国家主権、国際法というものが思考の外にあったわけである。
だからアメリカ・インデイアンと同じだった、と言っているわけである。
アメリカ・インデイアンと、ヨーロッパからの入植者では、価値観が根本から違っていたわけで、この価値観の違うもの同士が、仲良くお互いに助け合って生きる、ということはあり得ないわけで、20世紀においてはネイテブなアメリカ先住民というのは、居留地に押込められ、その範囲内で、その枠の中で彼らの価値観で生きていたわけである。
これを西洋人がネイテブな先住民を圧迫したと取るか、彼らの価値観を尊重して住み分けている、と取るかで21世紀における彼らに対する評価は分かれてしまう。
我々がアジアにおいて朝鮮や台湾でしたことも、それと同じなわけで、「彼らを我々と同じレベルまで引き上げよう」としたものの、彼らの方で我々の真意を汲み取ることを拒否し、最後の最後まで抵抗したものだから、そこに無用の殺傷が起きたわけである。
国の元首が、外国の公使館に逃げ隠れて、その外国、つまりロシアの公使館から発令する、ということが自主独立国家としてあるべきことであろうか。
そのロシアの後ろ盾で、高宗は1897年、明治30年、国号を大韓民国とし、年号を光武元年とした。
そして自分は皇帝と称した。
朝鮮国王はその後、朝鮮皇帝閣下と改められたわけである。
改めるまではよかったが、それを外国のロシアの公使館から発令し、自分はそこから一歩も出ない、というのはあまりにも皇帝として情けない状況ではなかろうか。
我々、日本人のテロ行為というのも、誠に恥ずかしい事ではあるが、国の元首が外国の公使館に逃げ込んで、出てこないというのも如何にも情けない有り様ではなかろうか。
朝鮮の人々というのはその点の反省をしているのであろうか。
ここで我々の側が反省しなければならないことは、閔妃を殺害した三浦悟楼という公使を始めとする一連の事件の関係者を、日本側が裁いたということである。
1891年、明治24年に起きたロシア皇太子殺傷事件、大津事件の犯人の裁判においては、ロシア側の報復を恐れて厳罰に処そうとする日本政府の意向に反し、時の裁判官・児島惟謙は、法治国として法律に厳密に照らし合わせて裁いた、ということがあった。
これに反し、三浦悟楼の場合は、外国の王妃を殺したものを、日本の裁判が身内びいきで処罰した、という点が最大の汚点である。
この場合ならば、当然、朝鮮王朝に犯人を引き渡し、先方の処罰に甘んじなければならなかった。
当然、犯人は極刑に処せられるに違いないがそれは致し方ない。
ところが、日本人として、同胞を思うあまり、順法精神のほうを曲げてしまったわけである。
無理が通れば道理が引っ込むということである。
私は専門の研究者ではないので、日本とこの当時の朝鮮の間に治外法権を認めた項目があったかどうか知らないが、もし仮にあったとしても、相手国の王妃を殺したとなれば、厳罰に処さなければならないと思う。
ところがこの三浦悟楼という人物は、その後日本で政治家として活躍したわけで、こういうことでは我々は朝鮮の人々から恨まれても致し方ない。
この点に関しては素直に反省しなければならないが、それをもって外交の切り札にするというのも幼児的な発想であることも又事実である。

同胞愛と倫理の狭間

この同胞を擁護したくなる信条というのも分からないではない。
20世紀の日本の歴史というのは、すべてこのことに掛かっているような気がしてならない。
その後、支那事変を経て太平洋戦争にいたる過程というのは、小さな事件を起した同胞をかばうあまり、事が大きくなってしまったわけである。
昭和11年の2・26事件にしても、反乱を起した同胞をかばうあまり、その処罰が寛大すぎて、「ああいうことをしてもいいのだ」という風潮が日本に蔓延してしまったわけである。
我々、日本人というのは農耕民族として潜在意識の中に、暗黙の中にもお互いが分かり合える、という以心伝心という情実があり、同じ日本人同士ならば、「泥棒にも3分の理」という、その「理」に理解を示すことが奥ゆかしさに通じていると勘違いしている節がある。
この奥ゆかしさが同胞に対する甘さに通じてしまうわけで、法治国として厳密に法と照らし合わせて判断することは、何か冷酷な人間のすることのように思い違いをしているわけある。
卑近な例で、役所に出す書類に印鑑を押すべきところに押印を忘れて書類が受理されないと、「あの役所は印鑑ぐらいで書類を受理しない」と不平をこぼす。
このことは自分の手落ちを相手が融通してくれなかったことへの腹いせなわけで、基本的に、自分の過失を棚に挙げて、相手の親切を期待している、と言うことであり、相手に甘えたがっていることの証拠わけである。
同じ日本人同士なのだから、「少々のことは寛大に扱ってくれるであろう」、という甘えが、その内側に隠されているわけである。
寛大な処置という事は、曖昧な処置という事にそのままストレートに繋がってしまうわけで、それがあの2・26事件の事後処理であったと思う。
三浦悟楼の閔妃殺害、河本大佐の張作霖爆死事件、2・26事件の反乱軍の将兵達は、いづれも私利私欲でああいう事をしたわけではない。
彼らの行動の大儀は、やはり「日本のため」ということであったわけで、「日本のためなら何をやってもいいのか?」という疑義を行動の前にさしはさめば、当然、その答えは「否」となってしかるべきである。
この自問自答を普通に行って、普通に考え、普通に判断すれば、当然日本の歴史は違った道を歩んだに違いない。
同胞をかばいあうと言う事を、別の視点に立って眺めてみると、主権国家としての同胞の結束がより強固になったということでもある。
しかし、その同胞の結束がより強固になると、法秩序というものを越えてまで、それが優先してしまったわけである。
大津事件のとき日本は、上から下までロシアの報復という事を心から心配したわけである。
そして日本の大衆の意見というのは、犯人を極刑に処すことを願っていたわけである。
ところが、そこで法を司る立場の人間が、「日本は法治国だから法によって裁くべきだ」、という決断を下したものだから、死刑が無期懲役になったわけである。
しかし、冷静に考えてみれば、日本は明治維新によって近代化を成した結果として法治国になったわけであるから、法によって裁く事は普通のことで、特別のことではなかったはずである。
ところが、日本の一般の人々というのは、ロシアの報復を恐れるあまり、法を曲げてでも厳罰に処すことを期待していたわけである。
犯人を人身御供に差し出せば、ロシアは報復しないであろうと思ったわけである。
三浦悟楼の場合はこの逆のケースになるわけで、同じような刑事事件に対して、その処罰が全く正反対になったわけである。
ここに民主主義の難しい点が内在している。
つまり、我々、日本の大衆というのは、そのときの感情に左右されて、感情の前には法秩序というものの優先順位が下がってしまうわけである。
民主主義というものの未熟さがそこにはあるわけで、自分の都合にあわせて法のほうを無視してはばからないわけである。
閔妃殺害に対する日本政府の見方というのは、「朝鮮人を殺した程度のことだから、そう大層な処罰をしなくても大丈夫だ」という朝鮮蔑視の姿勢だったと思う。
当時の状況から、日本側が朝鮮の人々を蔑視したくなる事は重々理解できる。
私のこれまでの記述でも、朝鮮の人々は蔑れてもし方がない面が多々あったわけで、それだからこそ、我々は手本を示す意味でも、順法精神というものをきちんと具現化しなければならなかった。
異民族との接点では、往々にして自分のほうに有利な行動をして、それが愛国的態度として通るような場面があるが、これは我々の側の大衆がそういうものを望んでいる、ということでもある。
しかし、世界史というものを冷徹な視点で眺めてみると、これこそ帝国主義的植民地支配の典型的な例であったわけである。
生き馬の目を抜くような、地球規模で繰り広げられた、西洋先進国のアジア進出という帝国主義の蔓延に際しては、こういうことの連続で、その現実を知っているからこそ富国強兵であり、植民地獲得であり、不平等条約であったわけである。
力、武力、ナショナル・パワーの欠如は、こういう事態を甘んじて受けなければならなかったわけである。
法よりも感情が優先する、ということも強い国の特権であったわけで、弱い国はそれを指を加えて見ていなければならなったわけである。
だからといって100年も前のことを外交のカードとして引っ張り出して、「謝罪せよ」だとか、「金を出せ」という主張は、これまた非常識というもので、そういう非常識がまかり通っているから世界の孤児になるわけである。
高宗、大韓民国皇帝が、ロシアの公使館に逃げ込んで、そこから政策の指令を出す、ということも地球規模で見れば往々にしてあることで、これはいわば世界の常識でもあったわけである。
その点、我々の側のように、玉砕してまでも逃げ出さない、ということのほうが世界的には非常識なわけである。
しかし、その事は我々の側からすると非常に軟弱に見え、不甲斐ない態度に見え、我々の常識ではありえないことである。
そこには価値観の違いが横たわっているわけで、この価値観というものは、意識改革が伴わないことにはなかなか同一の土俵にはなりえないものである。
「同胞に甘い」ということは、統一国家を作るようなときには有利に作用するわけで、国家という枠組みの結束が固くなるわけであるが、この結束が固いということが、他の集団と接触したときには今度はマイナスに作用するわけである。
仮に、閔妃を殺害した三浦悟楼をあっさり朝鮮側に渡してしまったとしたら、彼は当然処刑され、死体は引き裂かれ、石で打ち据えられるに違いない。
それは同胞として忍びない、同胞としてあまりにも冷酷すぎる、というわけで、日本側で裁判をするわけであるが、これが異民族との軋轢の元である。
我々は民族としてこういう感情を払拭しきれないわけで、その行為の裏に潜む、その奥に横たわっている、大儀というものに理解を示そうとし、価値を見出そうとするものだから、どうしても処分が甘くなってしまう。
相手にしてみれば面白くないのは当然である。
20世紀の日本の歴史というのは、これの連続であったと思う。
法とか、ルールとか、倫理というものが大儀の前に萎縮してしまって、法を何処までも厳密に貫き通すということが不得手である。
朝鮮の人々や、中国に人々の間では、こういう傾向が強く、我々はそれを人知主義と称して、少々軽蔑の意味をこめて呼んでいたが、我々の側も考えてみると大なり小なり人知主義に陥っていたわけで、決して彼らを笑える立場ではなかった。
同じアジア人として、その根っこの部分に共通する潜在意識があるようにも見えるが、それでも近代化という人類の大きなうねりに対処するには、その潜在意識の上にのっかっている何かが違っていたに違いない。
明治時代の中期において、我々が朝鮮や中国の人々を蔑視するようになったのは、日清戦争で我々の側の33万人という集団としての青年・壮年の日本男子が現地を見たからに他ならないと思う。
そこにもってきて、3国干渉というもので、力の無さというものを痛感したわけで、そこで富国強兵ということが国民的スローガンに成りきれたわけである。
そういう状況のところに、国民を鼓舞するに最適なスローガンを打ち上げれば、後は我々の民族的な同胞愛というものが刺激されて、国民の一致団結という事が可能になったわけである。
その下地になったのが、当時の日本の青年層の多くの人たちが、朝鮮、中国の現状というものを、兵役という過酷な使命を負いながらとはいうものの、見聞したということである。
現地を見れば、「力、武力、国力のないということはこういうことか?」ということを身をもって体験したわけである。
これらの体験は、政治の場で華やかな脚光を浴びる事はなかったが、当時の拙いマスコミを通じ、はたまた口伝により、日本の全土に広がっていったに違いない。
それまでの我々、日本の大衆というのは、朝鮮や中国・支那のことなどほとんど知らなかったに違いない。
江戸時代の末期の文化人や、幕府の高官ならば、多少は知っていたかもしらないが、一般大衆レベルでは、やはり、日本文化の先輩というか、先人という意味では知っていたかもしれないが、その実情というものはほとんど知らなかったに違いない。
知らないということは、当然、差別意識もなかったということだと思う。
それを実際に自分の目で見、自分で体験することによって、逆に差別意識が芽生えたものと推測する。
当然、それを助長したものとして、稚拙だとはいえマスコミとしての新聞や雑誌があったと思う。
しかし、考えてみると我々日本人というのも、お人よしなわけで、あれだけ西洋の思考に感化され、不平等条約に切歯扼腕しながら、自分達が植民地の支配者になろうとしたとき、被支配者に同情心を見せ、完全なる富の収奪の場として、割り切って考える事ができなかったわけである。
西洋先進国のように、冷酷に割り切って、富さえ得られれば、そこに住む人間のことなどあずかり知らぬ、と割り切れなかったわけである。
ここで冷酷に割り切れなかったものだから、政府としては相手の国の人を、自分達と同等に扱おうとし、そのために乗り込んだ日本の下々の者達は、差別意識を払拭することが出来ず、優越感に浸り、それを鼻にかけて自己満足に浸ってしまったわけである。
政府の考えていることと相反する行為に出る、ということは日本の近代史にはついて回ることで、それが最終的には日本を奈落の底に突き落としたことになるわけであるが、歴史というものは往々にして政治史の感を呈するわけで、一般大衆の普遍的な考え方というのは、歴史の表面にはなかなか出てこないわけである。
朝鮮国王の妃を一官僚が殺害する、などという事は、その背景に日本の一般大衆の願望が潜んでいた、とみなしてもいいと思う。
日本の近代・現代史では、昭和の中ごろの軍人の横暴という事が日常化していたわけであるが、この軍人というのが日本人の中の特殊な人たちではなかったわけで、日本人の一般大衆の中から選抜された人々であったことを考えると、それらの軍人の行為というのは、その背景に日本の大衆の願望を背負った行為とみなさなければならないと思う。
私自身も反省しなければならないが、昭和の初期の軍人の横暴というのは、軍人という職業に携わる特殊な人たちという言い方をしてきたが、軍人を輩出した基盤というか、土壌というか、背景には、当時の日本の一般大衆の願望があったわけで、それが軍人の行動というものを甘やかしてしまったのではないかと思う。その線をたどっていくと、日清戦争の時に、日本の大衆の中の一番分別盛りの青年・壮年たちが、朝鮮なり、中国の現状というものをつぶさに見てしまったことに起因しているのではないかと思う。
世界的に普遍化した認識の中で、兵隊というのは何時の世、何時の時代、何処の国においても、あまり誉められた職業ではなかったわけで、日本でも戦国時代の足軽というのは、雑兵と呼ばれ、蔑まれて見られたわけであり、これは地球規模で同じような傾向があったわけである。
戦う頭脳集団としての司令官・将校とは一線を画して評価されていたわけで、それが近代化した軍隊になり、徴兵で借り集められた集団ともなれば、それこそ有象無象の集団であったわけで、その有象無象の集団をきちんと管理するには、よほど軍規を厳しくし、自己の管理を厳正にしないことには、それは夜盗集団と化してしまうわけである。
とにかく兵隊というのは武器を携行しているわけで、何時如何なるときにも夜盗化し得る集団なわけである。
自分達は武器を支給されて、軍隊という集団として、貧しい人々の中に進駐して行けば、当然、そこには優越感が生まれ、それと裏腹に、蔑視感、差別意識というものが生まれてくるわけである。
とはいうものの、日本の政府の上のほうでは、それとは又別の思惑があって、もっともと大所高所からの物の見方をするわけである。
それが政府の理念であり、理想であり、国家としての基本方針のはずであるが、これが実施の段階に来ると、その高い理念というものが、その場その場の状況に振り回されて、雨散霧消してしまうわけである。
戦後の民主教育というのは、一般大衆というものは、立派な常識を持ち合わせた、倫理観に満ちた、素晴らしい市民の集合、という捉え方をしているが、これこそ馬鹿げた幻想であると思う。
その実体というものは、よくよく注意して観察しなければならないと思う。
大衆の言うことを取り入れることが民主的な政治だと思い込んでいるが、その大衆の思い込みが間違っていたことは、これまた枚挙に暇がない。
この時代、明治の後半から昭和の前半までの日本のアジア進出というのは、日本の大衆の願望を具現化したものであった、という事をもう一度根本から見なおして見るべきである。
戦後の日本の知識人といわれる人たちは、この大衆の願望の具現化であった、ということを抜きにして、ただ極悪非道で好戦的な軍人と政治家が、自分の趣味で戦争をしでかした、というような捉え方をしており、日本の大衆というのは、その犠牲者であるかのような言い方をしているが、それは我々同胞というものに対する認識が欠けている証拠だと思う。
私は、自分を知れば知るほど、日本人を知れば知るほど、こういう歴史的経過は避けられない軌跡ではなかったかと思う。
その遠因は、我々は同胞というものをきちんとした法律で裁けず、なあなあ主義で、曖昧のうちに、同胞愛で、うにゃむにゃにしてしまうところがあるからである。
法の冷酷な施行ということになんとなく嫌悪感を感じ、情が先走って、法の前に情が立ちはだかってしまうからである。

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