日清戦争後の台湾と朝鮮

日本とアジア5 平成13年4月9日 台湾統治

当時の台湾の状況

1895年、明治28年3月20日に下関の春帆楼にて清国全権大使李鴻章と日清講和会議が開かれ、3月24日にその李鴻章が狙撃されるというハプニングを経て4月17日に条約の調印にこぎつけたと思ったら、4月23日になって3国干渉をうけ、遼東半島の返還を迫られたが、台湾というのはこの3国干渉から免れた。
その意味するところは、ドイツ、ロシア、フランスにとって、遼東半島は利用価値があったが、台湾には彼らが執着する理由がなかったということである。
つまり、彼ら西洋先進国にとって、台湾には魅力を感じていなかったということである。
3国干渉というものを彼らの立場から考えてみると、その結果を一番実効有らしめたのは言うまでもなくロシアであったわけで、ロシアのみがあの旅順という絶好の要塞を確保し、ロシアの潜在意識としての南の港、不凍港を確保するという願望を果たしたわけである。
他にドイツは山東半島を、フランスはアンナンという風に、清の領域内に多少の権益を確保する程度で、日本への恐喝に荷担した割には、得たものは少なかったわけである。
そういう状況下で、日本が得た台湾という地域は、これまた非常に難しい地域であって、先の台湾出兵でも梃子摺ったわけであるが、日本が血を流して獲得した以上、日本流に支配しなければならないという意識は、当然湧きあがってきたわけである。
台湾という島を地図でよく見てみると、太平洋に浮かぶ小島で、まんなかに澎湖列島を挟んで中国大陸ともそうは離れていないわけで、日本列島と同様、大陸との行き来も意図するとしないに関わらずあったわけである。
これはこの地球に住む人間が、自然の影響力で、その生を全うする過程で、必然的なことであったわけである。
つまり、この島にはもともとここに住む先住民と、中国大陸から意図するしないに関わらず渡って来た人がいたわけである。
その上、日本とか、その他アジアの海洋民族が流れ着いたものもいたわけで、これを中世から近世の時代的視点で見てみると、中国大陸を制覇していた明という漢民族は、この島を積極的の自分達の版図とはしていなかった。
明の次の清という帝国にとっても、この島は積極的に版図に入れ、積極的に管理する気はなかった。
いわゆる「化外の地」の域を出るものではなかった。
そのことはつまり、西洋列強が進出してくるまでの台湾というのは、中国大陸の本土の側から見て、何ら魅力のある地ではなかったわけである。
同じ事は朝鮮にも言えていたわけである。
中国大陸の本土で、人々の上にたっている管理する側、つまり統治する側としては、台湾とか朝鮮というのはあくまでも「化外の地」であって、自分達が積極的に管理運営し、統治の実効有らしめるべき地域ではなかったわけである。
但し、そういう地域であっても、他の民族が領有を唱えれば、その事が自分たちにとって脅威となるわけで、それは許されない、と思って抵抗はしてみるが、所詮無駄な抵抗に終わってしまったわけである。
地球規模で人間の生存というものを見てみると、あの広大なアメリカ大陸に住んでいた先住民というものは、統一国家というものを作ることなく、21世紀に至っているが、それに反し中国大陸に住んでいた先住民というのは、幾度となく統一国家を作り、そして幾度となくその統一国家がつぶれたわけである。
統一国家の主体となる民族、つまり種族が幾度となく入れ替わったわけである。それを日本とか台湾という小さな島に置き換えて見ると、日本は西暦1868年に近代的な統一国家というものをつくり、その近代的な統一国家というものは、地球規模で世界に認知されたわけである。
一方、台湾というのは、この時代に至っても未だに統一国家というものが確立されておらず、アメリカ大陸のネイテイブ・アメリカンと同じ状況にいたわけである。
つまりネイテイブな先住民と外来の、他からの移住者が混在していたわけである。この両者の間には当然のこと軋轢が生じ、攻めたり攻められたり、犯したり犯されたり、アメリカの西部劇のようにインデイアンと白人の闘争のような現況を呈していたわけである。
1874年、明治7年の台湾出兵というのは、日本が近代的統一国家として再出発したということの最初の国家的行為であったわけである。
その事は、我々日本人が、近代的な主権国家というものを自他共に認識したということである。
ところが、我々は明治維新により国家主権というものに目覚め、近代的な統一国家のあり方というものを認識したとしても、周囲のアジアの民族には、一向にその意味を悟るものがいなかったわけである。
隣の朝鮮の李王朝しかり、清帝国しかり、台湾の諸民族しかりで、これらは日本が近代的な統一国家になった、という意味を全く理解していなかったわけである。日本が日清戦争に勝って、さあこれから台湾を統治しよう、としていたその前の台湾というのは、先住民と外来の、中国大陸から渡ってきた人々の間に小競り合いが継続し、その上、明の王朝というのはオランダの東インド会社に管理運営を任せきりにしていたわけで、いわば無法地帯であったわけである。
解りやすく言えば、アメリカの西部劇で広大な大地の中で、インデアンと白人が戦っていたのと同じ情況を呈していたわけである。
つまり、この当時においては、台湾という統一国家というものは完全に存在せず、原住民と外来の人があい争っていたわけである。
だからこそ、中国側から見て「化外の地」であり、そうあり続けたわけである。それを日本が統治するといったところで、中国、つまり清にとっては痛くも痒くもなかったわけである。
ましてや、ロシア、ドイツ、フランスにとっても一向に構わなかったわけである。但し、遼東半島に関しては彼らの側から見て、直接的な利得があったわけである。日清戦争に関連して、日本は最初に仁川に上陸して以来というもの、その占領地の支配にはいろいろ苦慮していたわけで、いずれの司令官も、現地の人たちをむやみに苦しめることのないように心を配っている。
そこにはやはり武士道というものが生きていたわけであるが、司令官と一般の兵隊というのは、やはり言行一致とはならないわけで、司令官がいくら理念を説いたところで、その理念が下々まで行き渡るとは限らないわけである。
それは組織というものの宿命で、上がいくら立派な理念を説いたところで、その理念で下々の不平不満が解消できるものでもなく、下々は下々で、直接現地人と接触しているわけで、下には下の事情があるわけである。
例えば、その日の糧食を賄うこと一つとっても、補給が完全に実施されて、現地調達を全くする必要がなければ、理念が理念としてありつづけるが、補給が不完全だと、どうしても現地調達という事にならざるを得ず、そこでは下々のものが直接現地人と折衝することになるわけである。
この現実の接点では、理念が理念としてありつづける、ということは極めて稀有なことといわなければならない。
日本側の下っ端の兵隊が、相手の原住民と折衝するについても、お互いに敵同士ということは明白な事実なわけで、相手が日本の兵隊の言うことをそうそう素直に聞くとは思われない。
日本側の司令官がいくら「現地人を親切に扱え」といったところで、下っ端の兵隊で、直接現地の人間と関わりあわねばならない立場の者としては、相手が言うことを聞かなければ、最後は暴力という手段に出ないことには、自分の任務がまっとうできない事になる。
我々の側が、相手の領域の乗り込んでいったからこそ、局地的な占領ということになるわけで、その領域においては相手の土俵に上がっているわけで、その土俵の上では、相手の方が俄然有利なはずであり、それを克服するには最後は暴力に訴えるといことにならざるを得ないと思う。
先に日清戦争に関わった日本人の数を知らないと述べたが、その後判明したことによると、その数は約33万人という事である。
この33万人という将兵達が、直接間接に相手の国の民衆とかかわりあったわけで、その中には当然相手の反撃を食い、それに暴力で以って対応した例が多々あるにちがいない。
昭和20年の夏、日本が戦いに敗れたとき、マッカアサーが6年半にわたって日本を占領したが、このとき我々の側は一切抵抗という事をしなかった。
ところが日本が朝鮮、中国・清、台湾等を占領支配しようとしたとき、彼らは彼らのもてる力を総動員して抵抗したわけである。
それだけのパワーを持っていれば、もっともっと戦争を継続し、一致団結、民族の力を結集して、日本と正面から戦えばよさそうに思うが、そういう総力戦は苦手で、ただゲリラとして力を小出しにするような戦法でしか彼らには戦う意思がなかったわけである。
その事は、身の回りの財産が略奪される事には身を挺して抵抗するが、国家とか、自らの同胞とか、自らの民族とか、そういう大儀に対しては一向に戦う気を起さないというわけである。
実効支配しようとするものに対して、抵抗すればいらぬ殺傷が起きることはいた仕方ない。
昭和20年の夏、マッカアサーが日本に進駐してくるときにも、この抵抗があるのではないか、ということで日米の双方が緊張していたが、無駄な抵抗というものが一切なかったので、いらぬ殺傷という事も皆無であったわけである。
糧食を現地調達しようとする日本の下っ端の戦闘員に対しては、死に物狂いで抵抗するという事は、統一国家としての組織だった抵抗は出来ないが、各地方地方にける運命共同体としての集団、集落単位でのゲリラ的な抵抗は可能な限りしえたわけである。
そのゲリラ活動の精神的支柱として、排日感情、抗日感情というものを錦の御旗にしないことには、その抵抗の整合性がないわけである。
こういう風に、ゲリラ活動というものを反日、抗日の「民族自決の旗印」という捉え方をしないことには、現在の歴史に対して整合性を持たないわけで、これは日本の植民地支配を正面から迎え撃った「正規の民族闘争」であった、という位置付けが出来ないわけである。
こんな回りくどい言い方をせずにもっと単刀直入に表現すれば、この明治28年頃の台湾というのは、アメリカの西部劇に出てくるインデアンの置かれた状況と全く同じで、台湾自体の統一国家、民族自決を成した近代国家というものが存在せず、そこにいたのは土着の土人と中国大陸から流れついた無頼の人間が起居していたわけである。
(資料・清国の台湾領有と初期の経営参照)

台湾統治の指針

こういう言い方をすると、いかにも蔑視しているかのような受け取り方が成されるが、もともとアメリカ大陸とかオーストラリア大陸というのは、こういう状況の中から近代化がなされたわけで、アメリカ大陸に渡った清教徒、いわゆるピューリタンというのは、開拓精神あふれた心の清らかな宗教家の団体という捉え方が先入観として我々の中に刷り込まれているが、その実情というのは、台湾の状況と何ら変わるものはない。
オーストラリアなどはもっとひどく、囚人の捨て場であったわけで、そういう中から、近代化ということが湧き上がってきたわけである。
アメリカにおいてもオーストラリアにおいても、いわゆるそこに入植した白人というのは、結局のところ、原住民としての土人というものを融合することなく、差別したまま20世紀まできたわけである。
アメリカ大陸においてもオーストラリア大陸においても、ここを制覇した白人というのは、決して現地人、つまり土人、ネイテイブな人々というものを、自分達と同じ扱いをしたことはなく、こういう人々の上に君臨していたわけである。
当然、それには抵抗が伴うわけで、それが西部劇に登場してくるインデイアンであったわけである。
それと同じことが、日本が台湾を支配しようとした時にも起きたわけである。
我々の側がいくら原住民を丁寧に扱おうとしても、先方がこちらに意図を汲まず、抵抗すれば最後は暴力によってねじ伏せる以外に方法がないわけである。
3月24日に3国干渉があって、遼東半島を返還するということが5月4日に閣議決定したわけであるが、5月10日には台湾の総督に樺山資紀が任命された。
いよいよ台湾を日本が統治する最初の行動が始動したわけであるが、ここで台湾側の抵抗が始まり、昭和20年8月のマッカアサ−の日本進駐のようなわけにはいかなかったわけである。
ここで初代台湾総督の樺山が本国政府から受けた指示は、台湾の皇地皇民化政策と、それに伴う組織の編成であった。
組織の編成としては、総督府の構成を、治民部、財務部、外務部、殖産部、軍事部にするというものであるが、この時点ではまだ民政統治の方針であったが、ここで我々が敗戦の時経験したように、素直に施政権の返還が行なわれれば、文民統制が可能であったけれど、台湾内の反乱があちらでもこちらである以上、軍事統制にならざるを得なかったわけである。
樺山の下に置かれた衆議院書記官長水野遵の方針も、台湾占領の原義は「武備よりも、富源の開発にあり」とし、「科学を輸入し、その力によりて親切に誘導し、徐々に富の増殖を計るにあり」と述べている。
20世紀の後半をすぎ、日本が戦後の復興をのり越えた辺りになると、この「皇地皇民」という言葉は、非常に悪意を含んだ意味合いで、日本のマスコミ界を賑わしていたが、これは西洋列強の植民地主義とは真っ向から対立する概念で、西洋列強、キリスト教文化圏のアジア支配というのは、徹底した植民地主義で、アジアの植民地というのは、所詮「富の狩場」以外の何者でもなかったわけである。
ヨーロッパ人にとってアジアというのは、富を漁るか、宗教を押し付けるかの二者択一でしかなかったわけである。
ところが日本が台湾に皇地皇民化政策をしよう、というのはこれとは全くその発想を異にするわけで、我々の側にある潜在意識というのは、「同じアジア人だから、私たちはあなた方を我々と全く同じに扱いますよ」という発想である。
この考え方というのは、第2次世界大戦、太平洋戦争にいたるまで変わることはなかったわけである。
初代台湾総督府の樺山及び水野の両名の頭の中には、台湾を西洋列強の概念にあるところの植民地にして、そこから取れる富はすべからく搾取する、という典型的な帝国主義的植民地支配というものではなかったわけである。
しかし、そこに住んでいた人たち、つまり現地人からすれば、日本の言うことなどまやかし見えるのも致し方ないわけで、当然ゲリラ的な反抗という行為になって現れてくるわけである。
ゲリラ的な反抗、ゲリラ的な抗日運動というといかにも説得力があるように見えるが、これは言い方次第で、その実体は山賊や、海賊、盗賊の行為と何ら変わることはないわけである。
そういう行為を如何にも整合性があるかのように鼓舞しているのが、日本の進歩的と称する売国奴たちの論法である。
皇地皇民化政策というのは、その後の日本の基本的な対外政策となっていくわけで、その後朝鮮もこういう思想でもって統治するようになったわけであるが、この事が20世紀の後半において、「日本の悪行」と決め付けられては、台湾や朝鮮の発展に寄与した日本人が非常にかわいそうである。
文化や価値観の違う人たちに対して、「我々と同じ様に扱いますから、仲良くやりましょう」という施策を、弾圧と捉えられれば、我々としては何とも対処の仕方がない。
善意を仇で返されているようなものである。
川を挟んで向こう側に住んでいる人が、自分と比べて如何にもみすぼらしく、金もなさそうで、家庭内で常にいざこざが絶えず、皆からつま弾きされているのを見て、お節介にも手を貸して、何とか自分と同じような有り体の家にしようというのが我々の本意であったわけである。
そのお節介が、「いらぬお節介だった」と言われれば、我々は返す言葉もない。
台湾というのは、大陸本土と離れているとはいうものの、さほど遠い距離ではなかったので、もともとの原住民と外来の移住者が混在していたわけである。
しかし、本土の為政者の視点で考えて見ると、勝手に島に渡った連中が、本土に対してはむかって来ては困るわけで、それに対する管理は相当厳しく行ったつもりであるが、如何せん「化外の地」であるから、その管理をする官吏の成り手もなければ、選ばれた人も意欲をなくしてしまうわけである。
行き着くところは腐敗天国で、汚職、収賄、袖の下による管理ということになってしまうわけで、下々には当然不平不満が鬱積するわけである。
清国政府というのは、この地が日本に割譲されるということを最後の最後まで現地人に一言もいわなかったわけで、これでは現地の人たちが怒るのも無理ない。
しかし、それは清国側の事情なわけで、日本が関知した事ではなかったはずである。その事情を明かされた台湾の人々は、外国に救援を依頼し、それを神頼みにしていた、というのだから驚く。
こういう人々を普通の主権国家の人間として認め得るだろうか?
その頼んだ相手は、自分達を散々苦しめたフランスと来ているのだから噴飯物である。
台湾の人たちの中で、反乱をしでかすのは、その大半が本土から渡ってきた移住者達で、この人たちは原住民ともいさかいをおこし、自分達の政府機関にも楯突いているわけである。
アメリカ東海岸に渡ったイギリスのピューリタン達と全く同じ過程である。
その事は、私が常々言っている、統治国家、統一された近代的な主権国家の体を成していない、ということである。
朝鮮の人たちにしろ、中国の人たちにしろ、国内で反乱が起きるということは、統一国家というものが出来上がっていない、ということである。
国家としての中央の権力というものが、毛細血管のように、国土の末端にまで行っていないということである。
台湾という小さな島の中で反乱が起きる、ということはこんな小さな島でさえも統一された権力が隅々にまで行き渡らず、夜盗か盗賊の集団のようなものが方々にいたということに他ならない。
そういう状況を日本の立場から見れば、これは自分と比べて如何にも野蛮な国、野蛮な地域、住んでいる人たちは文明とかけ離れた野蛮人に違いない、と思うのも致し方ない。
文明の度合い、文明開化の度合い、近代化の度合いに格差があったわけで、この格差を無くそうとしたのが我々の発想であったが、それを「いらぬお節介」と言うとすれば、それは歴史というものの歪曲した見方だと思う。
未開の人にとっては、現状維持に甘んじて生きることが彼らの生活信条で、合理的な生活というもの忌諱するとすれば、これは西洋列強に良いように利用されても仕方がない。
それと不思議なことに、朝鮮に人々にしても、中国の人たちにしても、台湾の人たちにしても、日本の統治を受けることには嫌悪感をあらわにするが、西洋人には積極的にその支配下に入ろうとするのも不思議なことである。
西洋人からは散々ばかにされておりながら、それでも西洋人にすがりたがる心境というのは、我々の感覚からすれば理解しがたいことである。
その前に、自分達で何とかしよう、という意欲が全く見られないのも不思議である。
尤も、この時の台湾の状況というのは、日本の明治維新の前の状況と同じであったわけで、薩摩と長州、土佐、会津というようなグールプがお互いにいさかいをしている状況と同じではなかったかと思う。
朝鮮もしかり、中国もしかりで、統一国家というものが形成出来ていないわけである。
ここに台湾巡撫の唐景ッという人物がいた。
台湾巡撫ということは、日本流の言い方をすれば、清朝から派遣された台湾総督府の長官ということになるが、この時、この彼には日本への割譲という連絡が一切成されておらず、そのことが全島に知れ渡ると、彼が移住者の代表としてフランス艦隊に、日本の支配を排除するよう働きかけたわけである。
そして、それがかなわぬとなると、台湾を独立国として、その独立国を日本が侵略するという形にして、国際世論に訴えようとしたわけである。
そして本人が最初の総裁として、ここに「台湾民主国」というものができたわけである。
1895年、明治28年、5月23日のことである。
それは樺山資紀が、日本側の台湾総督府として、随員を従え日本を離れようとしていた頃である。
そして日本軍がいよいよ台湾に上陸する5月の末から6月の始めのころ、この「台湾民主国」の首脳というのは唐景ッを筆頭として、そろって台湾から逃げてしまったわけである。
こういうことは、我々、日本人の感覚からすると考えられないことである。
尤も、昭和20年夏の敗戦の時には、中国大陸にいた大日本帝国陸軍の内の関東軍という部隊は、これと同じ事をしたわけで、まさしく関東軍というのは支那人にも劣るわが同胞であったわけである。
大日本帝国陸軍の精鋭といわれていた関東軍が、ソ連の攻勢の前に、同胞の民間人を捨てて、自分達だけが先に逃げたことに対して、戦後の我々は、その罪を追及するという戦争処理を同胞に対してしていない。
東京裁判は勝者の裁判であって、同胞の裏切りに対して、同胞の内側からの断罪はなされていない。
これは2・26事件という軍の反乱に対して、同胞、同僚、仲間をかばいあうあまり、甘い措置をしたのと同根のことである。
台湾にかろうじて残っていた清国政府の官僚システムというものが完全にいなくなってしまえば、後は無法者の世界わけで、夜盗、山賊、盗賊の跋扈する無法地帯といってもいいと思う。
こういう状況というものを、20世紀の後半の知識人というのは「先住民を圧迫した」という表現で語りたがる。
こういう表現が先にあるものだから、全般の印象として、先進的な文明開化を経た人たちが、こういう人たち、未開の先住民に対して、「悪行」をした、という印象で捉えがちであるが、これはいささか歪曲し解釈ではないかと思う。
仮に、ハワイでも、フイリッピンでも、もっと大規模にアメリカ大陸でも、オーストラリア大陸でも、西洋人が近づかなければ未だに原住民の楽園であったに違いない。
その事は、原住民同志の闘争が全くない、ということではないわけで、彼らは彼らなりの古典的な武器で、古典的な闘争を繰り広げるに違いない。
原住民と先進的な文化を持った人たちが、ある地点で接触すると、当然そこには軋轢が生まれるわけで、この軋轢というのは現地人同志でも当然あるわけである。
基本的に、地球上に住む人間というのは、集団で社会的な生活を営んでいるわけで、その集団と集団が接触すれば、そこには必ず軋轢が生まれる。
この集団と集団を、権力なり、意識改革をしてある面で(地域的な面の広がりで)もって統一すると、そこの統一国家というものができるわけであるが、この時代においてもそういうものが出来ていないということは、そのエリアが未開な土人と先進的な文化人の葛藤の場という事になるわけである。
21世紀の地球、世界というのは、そういう状況を成していると思う。
未開な土人が、いくら自分達は自分達の世界で生きていたいと思っても、そこに近寄よろうとする先進諸国の側は、そういう気持ちを全く知らないわけで、彼らは彼らの倫理で近寄っていくわけである。
こういうことはすべからく人間の生き様わけで、人さまの生き様を、他人がとやかく言えないのと同じで、今日の進歩的な知識人が、日本の過去の行為を「悪行」と決め付けることは、その人としての生き様に対して高踏的な批判をしているわけで、過去に生きた人たちに対する冒涜以外のなにものでもない。
それはすべからく価値観の相違で、「価値観が違っているからあれは悪人だ」といっているに等しい。
人間の集団としての民族というものを捉えると、各民族によって価値観が違うということは、この21世紀にも厳然と生きている現実なわけで、その身近な例が韓国では日本の文化が今でも否定されていることである。
韓国で日本の文化を否定しようとしまいと、それは彼らの勝手である。
ところが、日本の教科書にまで嘴をいれてくる、ということは明らかに内政に干渉しているわけで、そこまでいくと異民族同士の軋轢になってくるわけである。
ここには明らかに価値観の不統一が横たわっているわけで、同じ価値観という、同じ精神的土俵というものが成り立っていないわけである。
日本が台湾を支配しようとした、と言うことは、台湾の人々を我々と同じ土俵に据えよう、という意図であったわけである。
これが「いらぬお節介」という事であれば、我々は潔く反省すべきであるし、事実何度も何度も反省しているわけである。
私の思っている価値観からすると、台湾の人々というのは、まことに気の毒な人たちである。
自分達の国・祖国というものが未だにないわけで、私が知っているだけでも明、オランダ、フランス、清、日本そして最後の中華民国となって、未だに独立国なのか植民地なのか定かにわからない状態の国である。
主権国家と果たして言えるかどうか解らない。

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