日清戦争

国際法と倫理のはざま

ここで不思議なことは、これまでの戦いで宣戦布告が成されていないということであり、それは同時に日本の天皇、このときは明治天皇であったが、この天皇というものは常に対外戦争というものには不賛成というか、消極的であったということである。
戦後の日本の教育というのは、これまでの日本の戦争というものは「天皇が好き勝手に発令し、好き勝手に外国と戦い、我々一般国民というのは、その犠牲者、被害者である」という事を強調して教えてきたが、事実は天皇というのは常に対外戦争には消極的で、出来得れば避けたい、という意向を持っていたということである。
宣戦布告がなかったということは、国際法というものが、この時点ではまだ不備で、「開戦の規定」というものがまだできておらず、地球規模で見て、国家主権同志の衝突という、国家総力戦という戦争の形態がなかったという事に他ならない。その意味からすると、主権国家同志の全面戦争というのは、これが史上最初のことで、この時点まではなかったわけで、国際法というものが、そういう状況を考えていなかったわけである。
それが出来たのは1899年、明治36年のハーグ平和条約ではじめて国際間の開戦規定というものができたわけで、それ以前の日清戦争の場合は、まだそういう規定がなかったわけである。
ところが当事国同志としては、それでは具合が悪いわけで、それに代わるものとして、「交戦告知状」を各国公使に渡したので、これによってそれを受け取った側は、「日本と清国は今戦争中である、よって中立を維持しなければならない」ということを知ったわけである。
日本側として、何時、誰が、どういう風に、どういう説明で、国際世論に知れせるかと言う事は、非常に微妙な問題であったわけで、その事は本来内政の範疇に属し、我々の内側の問題であり、この当時でさえ日本の行政、政府というのはこういう細かいことにも気を使っていたわけである。
決して天皇や政府、伊藤博文や陸奥宗光が、好き勝手に、安易な気持ちで戦争をおっぱじめたわではなく、ましてや朝鮮を支配下におこうという気持ちを最初から持っていたわけではない。
明治維新からまだ30年も経っていない時点で、清と全面戦争するということは並大抵の決断ではありえないわけで、そんな安易な気持ちで兵を進めたわけではない。
天皇は天皇で、仁義に劣るような戦争をそれこそする気はなく、するに値するだけの大義名分がないことにはなかなか承知しなかったわけである。
それを知っているからこそ、伊藤と陸奥は苦慮していたわけで、今の閣僚というのは、国会のみ説得すればそれで事が済むが、この時代の閣僚というのは、天皇も説得しなければならず、軍部をも同じように説得しなければならなかったので、さぞかし大変であったに違いない。
伊藤と陸奥にしてみれば、天皇から開戦の詔勅をもらわないことには、自分達のしていることの意味が失われてしまうわけである。
いくら良い案を推し進めても、天皇が首を立てに振らないことには、それは成果たりえないわけである。
その事は、行政のシステムがきちんと機能していたということであり、これが日中戦争を経て太平洋戦争になると、この機能がいびつになり、円滑に機能せず、「無理が通れば道理が引っ込む」という状況になってしまったわけである。
それはある意味で組織疲労でもあるが、その背景に潜んでいた潜在意識というのは、人々の困窮ではないかと思う。
困窮という点では、明治も昭和も大差ないはずであるが、人間の欲望、つまり昭和の日本人の欲求というものと、現実の生活とのギャップが大きくなりすぎて、分を超えた欲望に追いかけられた結果ではないかと思う。
我々が自分の分をわきまえずに、それ以上の欲望に現を抜かした所為ではないかと思う。
この時代、明治維持の中ごろの日本人というのは、まだまだ謙虚で、清、中国にも畏怖する気持ちを持ち、当然西洋列強に全くかなわない、という現実を知っていたわけで、そういうものがなくなったのが昭和の初期の時代ではないかと思う。
そういう成り行きで、戦闘は進んでいってしまったわけであるが、漢城を制覇して更に平壌にすすむと、この平壌攻略では非常に苦戦を強いられたわけで、しかしここは9月15日前後に陥落し、清国側の多量の捕虜を受け入れざるを得ないようになってしまった。
この捕虜の扱いというものが、国際法上非常に難しい問題で、今世紀に至ってもその本当の解答は見当たらないままである。
この日清戦争の状況でも、日本側が捕獲した清の捕虜を如何に取り扱うか、という問題はそう安易に答えの出る問題ではなかった筈である。
一番手っ取り早い方法は、敵側の戦闘員として、戦場での戦闘行為として皆殺しにしてしまえば誰にも文句を言われる事にはならないが、なまじ白旗を揚げてぞろぞろ出てこられた日には、皆殺しにするわけにも行かず、捕獲しなければならず、そうなったらなったで、後はこちら側で食わせなければならないわけである。
憎むべき敵の兵隊を、3食昼寝付きで扶養しなければならないわけである。
自分達だけでも食う物にも事欠く戦場で、敵の兵隊に3食昼寝付きで無為徒食させなければならない、というのもおかしな話で、当然そこには管理する側の虐待という事が必然的に起こるのも致し方ない。
捕虜に関して言えば、管理する側も管理される側も、ほんの少し前までは敵同志であったわけで、隙あらばお互いに殺戮を内在した状況がそこにはあるわけである。
その上、この捕虜という概念は、もともとが西洋のキリスト教から来た概念で、アジアには全くない考え方である。
アジアの概念でいえば、皆殺しかさもなくば奴隷にするという事になるわけで、生きたまま降伏して生き長らえる、ということは概念の外のことであったわけである。
しかし、西洋人が捕虜を生かしておくということは、後々自分達の使役に使うためという隠れた目的があったわけで、後で使えないような人間は、その場で殺戮されていたわけである。
その意味では洋の東西において戦いに敗れた側の人間は殺されても仕方がないということに尽きる。
よって、戦争に負けるという事は、即ち死を意味していたわけで、ならば死ぬまで戦ったほうが精神衛生上いいわけである。
捉えた相手側の捕虜を如何に取り扱うかという点で、儒教を生きる支柱にしている人たちと、その他の意識改革を経た人たちでは、大いにその扱いが違うわけで、特に中国に潜入して捉えられたスパイというのは、我々の常識を越えた報復を受けるわけである。
我々には考えられないような残酷な手法でもって殺され、殺されるだけではなく、その死体さえも凌辱されるわけである。
彼らはそういう状況を自分達では十分の知りながら、敵対国が日本だと舐めてかかるわけで、「白旗を揚げれば皆殺しにはしないだろう」ということを読んでいるわけである。
我々は我々の思惑で、捕虜を虐待すれば国際世論から非難を浴びるであろう、との思い込みから、捕虜を丁重に扱おうとするのだけれど、今度は捕虜の方が素直に言うことを聞かないわけである。
そこに待ち受けているのは無用な殺傷ということになる。
朝鮮や中国の兵隊というのは、国際法というものを知ろうともしなければそれに従う気もないわけで、あるのは自分達の知っている価値観しかないわけだから、相手、つまり日本側が国際法を遵守しようとしても自分達は自分達の価値観で行動するわけである。
当然、自分達で日本の捕虜を捕らえたとすれば、自分達の価値観でそれを処理してしまうわけであるが、これは自分達の枠の中での行為であるから、外には全くもれないわけである。
ところがそういう場面にたまたま居合わせた日本の人間がそれを見ると、「朝鮮人や支邦人はこんな残酷なことを日本人にしている、こんな野蛮な行為に対しては断固これに報復しなければならない」という論理になってくるわけである。
戦後の日本の売国奴たちは、物事には因果関係があって、事の良し悪しを決めるには、その因果関係から調べなければならないのに、結果だけを見て良し悪しを決めるものだから、我々の同胞なのか、朝鮮人か中国人の回し者なのか定かでないとさえ思えてくる。
この平壌会戦では700名近い清、中国側の捕虜が出てしまって、日本側もさぞかし困ったことだったろうと思う。
敵の地盤の中で、敵との戦闘中に、敵の捕虜を700名も抱え込んでしまえば、それらを引き連れてこれからも戦闘が続くとなれば、これは日本軍にとってまことに困ったことになったに違いない。
第2次世界大戦中にドイツ軍は、捕虜にしたソビエット軍の兵士を、再び前線に送ってソビエットに向けて戦わせた、ということがあるが、我々の場合そういうことはありえない。
日本側が捕虜の扱いに苦慮するというのも、国際法、いわゆる当時の概念で言えば「万国公法を尊重しなければ」と言う気概を我々の側が持っていたからに他ならない。
もしそういうものが何もないとしたら、自分達の今までの倫理観でもって事の処理をしてしまったに違いない。
朝鮮や中国の人々のやっていたことというのは、そういうことであったわけで、自分達を国際的な基準、「万国公法ではどうなっているのか」という事を少しも考慮せず、従来の自分達の手法がそのまま通用すると思い、させようとしていたわけである。

戦闘のハードとソフト

この平壌の会戦と時を同じくして海では日本海軍の総力戦が始まろうとしていた。
平壌で陸軍が攻め倦んでいた頃、海軍は敵を求めて渤海湾を索敵行動中、9月17日に清の北洋艦隊を発見、ここで黄海海戦が始まったわけであるが、日本側10艦に対し、清国側も約10艦と兵力としては均衡を保っていたわけである。
そしてその結果としては清国側に3隻の沈船という被害を出し、日本側は各艦に多少の損傷があるとはいえ、撃沈されたものは皆無で、日本側の完勝という結果になったわけである。
しかし、その戦果を詳細に検討してみると、北洋艦隊の定遠、鎮遠という軍艦は当時の巨大軍艦で、日本側の最大の軍艦であるところの1・5倍の排水量を持った最新鋭のものであった。
ここに日本側は巨艦巨砲の威力を見せつけられたわけで、日本側は相手の威力を自らの速力を増すことで回避し、巨大にして緩慢な動きを、軽快にして正確な射撃でカバーし、互角の戦闘に持ち込む事が可能にあったわけである。
北洋艦隊の主力艦の威力は日本側にとって非常に脅威であったが、惜しむらくは清国側の戦闘員に錬度が備わっていなかったので、その巨艦巨砲を生かすことが出来なかったわけである。
今の表現で言えば、ハード・ウエアーとしての艦の能力としては日本をしのぐものがあったが、ソフト・ウエアーとしての戦闘員の熟練度が欠けていたということになる。
それに反し、我々の側は、先方の巨艦巨砲に対抗すべく接近戦で、威力は少々劣るが数打つことで対抗したわけである。
結果として日本側の勝利という事になったが、こういう手法が通用したのは、やはり我々の側の組織力の強さではなかったかと想像する。
軍艦で砲を放って敵の船を沈めるということは、非常に緊密なチームプレーが要求されるのではないかと思う。
陸上の狙撃兵ならば個人プレーで成果を上げることが可能であるが、軍艦という大きな乗り物で、移動中に鉄砲を撃って、動く相手を倒す、ということは非常な錬度が要求されると思う。
撃つほうも標的も移動しているのである。
その熟練度の元は一糸乱れぬ組織力ではないかと思う。
清国の軍艦が日本のものよりも大きかったということは意外なことだ。
しかし、こういう近代兵器を十分に使いこなすには、人間の方にもそれに応じた意識改革が必要なわけで、旧意識のまま、兵器のみいくら新しくしても、その効果は上がらなかったわけである。
昭和の日本の軍人、特に海軍の首脳に、この巨艦巨砲の信仰からなかなか抜けきれなかったのは、このときの戦果が尾を引いていたのではないかと思う。
我々は歴史から学ぶということが案外下手で、過去の事件を徹底的に分析して、失敗から学ぶということが得意ではないが、昭和の日本の軍人というのは、この黄海海戦を研究した結果として、昭和の時代になってもなおかつ巨艦巨砲主義から抜けきれないでいたのではないかと思う。
一度思い込むとそれを金科玉条のように信じ込む、というのも信念が固いといえば誉め言葉になるが、それとは裏腹に、頭脳の柔軟さに欠けているという言い方もできる。
1894年、明治27年、今から107年も前に、中国の人たちが巨大な軍艦を自由自在に操って海戦をするということは、今から思うと非常に驚異的なことではなかったかと思う。
我々の側の組織力というものは、民族誕生以来培われてきているが、中国においては、その民族の潜在意識として、人と協力して事を成すということに価値観をおかず、外来のものを遺棄し、受け入れることを拒む、という生理的な思考のものが、近代兵器を操るということには、どうしても限界があるような気がしてならない。
しかし、戦闘機のようなものはまだ個人プレーの要因を多く含んでいるが、軍艦で戦うとなると、これはもう組織と組織の戦いなわけで、個人プレーをしていては埒があかないわけである。
100年以上も前の中国の人がそういうことをしたということは非常の驚異的なことではなかったかと思う。
清朝の末期に中国がこういう艦隊を装備して以来というもの、共産中国になってからでも、これほどの艦隊を持ったことはないのではないかと思う。
日中戦争の最中でも、日本艦隊が中国艦隊から逆襲を受けたという話は寡聞にしてきかない。
もともと中国というのは大陸国家で、海での戦いというのは不得意だとは思うが、100年も前の中国がこういう巨大な戦艦を持っていたということは驚きである。
平壌を制圧し、黄海海戦に勝利した日本は、なおも進撃を続けるわけであるが、次は遼東半島の先の旅順を攻略するため、その手前の花園口への上陸作戦となったわけである。
これは完全なる敵前上陸になる。
当然、敵側の反撃も厳しくなると予想していたが、これがどういうわけか拍子抜けで、容易に上陸作戦が功を奏してしまった。
そこでいらぬ憶測が飛び交ったわけで、普通の理性があるならば、ここで当然清国側の北洋艦隊がもてる全力を投じて日本側に攻撃を仕掛けて来るはずであるが、それがないということは丁汝昌が気が変になったのではないかという憶測である。
事実、黄海海戦で大きな被害を受けた丁汝昌は、大きなショックを受けた事は確かであるが、まだ戦争に決着がついたわけではないので、普通の軍人ならば決着がつくまでは死力をつくさなければならない、と思うのが我々の倫理である。
それで花園口に上陸した日本軍は、遼東半島の先にある大連、旅順と攻め上っていったわけであるが、ここでも清国兵隊の戦意は劣悪で、戦わずして遁走してしまった。
しかし、旅順というのは、もともと要塞として恵まれた立地条件を備えていたので、そうそう簡単には陥落せず、日本軍も苦戦を強いられたわけであるが、結果的には、大連占領から4日後に陥落している。
そして、日清戦争というのは、ここから終盤に向かうわけであるが、仁川に上陸して、漢城を制覇し、平壌に攻め上った日本軍は、渤海湾をショートカットして、朝鮮半島の付け根にある遼東半島の真中あたりから、その先のほうを占領する事に成功したわけである。
後は清国の本土に攻め上ることであるが、それは翌年のことになってしまった。この朝鮮半島の付け根にある遼東半島と、対岸の山東半島というのは、渤海湾を抱え込むような形になっているが、共に清の領域であり、遼東半島の先の旅順と、山東半島の先の威海衛というのは、天然の地理的条件が要塞に最適な条件を備えていたわけで、守るにやすく攻めるのが難しいものであった。
しかし、守るのも攻めるのも人間がすることであるわけで、守り切れなかったというのも人間の所為であり、陥落させたというのも人間の行為の結果である。
それには当然、ヒューマン・ファクターというものがあるように思う。
天然の自然条件に恵まれた要塞であれば、普通の常識で守っていればそう安易には陥落しなかったろうし、普通の常識どおりのセオリーで攻略しつづけていれば、恐らく陥落ということもなかったに違いない。
それが陥落したということは、今までの常識では計り知れない何が作用したと見ていいと思う。
そこで考えられることは、近代兵器の発達と、それを使うに当たって人間の側の意識改革ではなかったかと推測する。
銃器の発達というのは、日本と中国ではそれほどたいした違いはないはずで、この時代の銃器といえば、陸上では小銃とそれのもう少し規模の大きい機関銃、軍艦では主砲という大砲であるが、これらの兵器を使いこなすにはハードのみを備えればそれで事が済むというものではなく、組織的な運用というものが必然的に必要なわけである。
日本と中国ではこの部分で大きな違いがあったのではないかと思う。
映画等で見る銃というのは、最も効率よく人を殺したとしても、一発で一人以上はありえない。
その前提を踏まえて考えてみると、集団で集団に対抗して射撃の効果を有らしめるためには、撃つほうにシステマチックな攻略方法が確立していないことには、その効果はありえない。
この頃になれば、すでに西部劇の撃ち合いの場面とは違っているので、敵対する双方の武力集団というものが死力を尽くして戦っているのであり、そういう場面では、このシステマチックな兵力の運用ということが戦闘の効果を左右していたわけである。
で、日本軍がこの威海衛の要塞を攻略すると、最初のうちは反撃があったが、そのうちに反撃が少なくなってしまって、最後は敵側が逃亡してしまい、日本軍の勝利ということになったわけである。
その過程において、この威海衛の湾の中にいた清国北洋艦隊の殲滅ということがあったわけで、そういう現実を突きつけられて、清の兵隊たちは勝ち目がないと、遁走したということはいえる。
そしてこの北洋艦隊を率いていた丁汝昌提督という人物は、艦隊の殲滅を悲観して自殺をしてしまった。
その際、彼は将兵の命を救うよう請願した降伏文書を渡してきたので、これを知って彼と親交のあった日本連合艦隊長官伊東祐亨は、敵将を充分にねぎらい、称え、礼節を尽くし、将兵を捕虜にする事無く開放したといわれている。
まさしく軍人としての武士道、騎士道の鏡であるが、これもある意味で時代が悠長な時であった、ということが言える。
戦後の教育では、こういう美談を一向に教える事無く、日本側の悪いところのみ強調して教える、というのはどういう神経から来ているのであろう。
尤も、こういう美談も、日本側から見ての美談であって、相手側、つまり朝鮮の人々や中国の人々から見れば、無視したい気持ちも解らないではない。
なんとなれば、それは相手側からすれば屈辱以外のなにものでもないわけで、勝った側の慈悲に過ぎないのだから無視したくなるのも致し方ない。
この北洋艦隊の殲滅に関し、この艦隊の近代化を、清の女帝・西太后が謂和園を作るためにその予算を横流ししたので、近代化が成されなかった、という話も興味深い話である。

外交という利権あさり

この段階で、一応日清戦争というものには区切りをつけてもよさそうに思うが、この明治維新後初の対外戦争の裏には、政策としての当時の日本政府の各人各様の考えがあって、それぞれの持ち場立場で様々な考え方の相違が見受けられる。
それには外的要因として、西洋列強の仲裁案という形の干渉に如何に対応するかで各人各様のアイデアがあったわけである。
この時代、日本は明治維新という政治改革をして近代国家に脱皮しつつあるとはいえ、その渦中での対外戦争であったわけで、近代主権国家としてはまだまだよちよち歩きの赤子同然であったわけである。
そこでは、成熟しきった西洋の干渉がましい親切が日本を取り巻いていたわけである。
これは、親切ごかして、利権の確保を秘めた外交交渉でもあったわけである。
その最初のものは、駐日ロシア公使ヒトロボーが、1894年、明治27年6月25日に開戦の前から牽制していた。
同じく日英通商航海条約を取り交わした英国が7月19日に、そしてイギリスはドイツとも共同で仲裁を提議、10月8日同じく英国のトレンチ公使から仲裁の提議あり、どう9日イタリアが仲裁を提議、11月6日アメリカ・ダン公使から仲裁の提議ありと、西洋列強というのは仲裁というポーズをとりながら日清間の戦争の間に漁夫の利をあさっていたわけである。
これが現実の国際間の主権というものの葛藤であるわけで、これをただただ日本の侵略という形でのみ糾弾するということは、国際間の主権の尊重というものを頭から否定するようなものである。
国際間の利権というのは、それぞれに国益がからんでいるわけで、こういう中では、綺麗事は通用しないものであり、現実をしっかりと認識し、現実に沿った生き方を模索しなければならないのである。
過去のこととはいえ綺麗事で歴史は語れないわけで、汚い部分をはっきりと認識して、それを踏まえて先のことを考えなければならないのである。
西洋列強の親切ごかしの仲裁の提議というのも、当時の日本の指導者、政府の人間、閣僚というのは充分に見通していた。
しかし、こちらはこちらで又それぞれに思惑を持っていたわけで、その思惑の違いというのは目標に達する手法の違いだけで、目標そのものは皆同じであったわけである。
この時代の日本人の目標というのは、いうまでもなく富国強兵であったわけである。
この時代、日本の富国強兵というのは、日本の全ての人々の願望であったわけで、「それを成すには如何なる手法があるのか?」、という点で各人各様の考え方の違いがあったわけである。
そのことは既に、この時点で戦後のことを考えていたわけで、先見性があるというか、侵略的意図が見え見えであったというか、今の我々の思想的根拠によっていろいろな解釈の仕方が異なってくる。
その主なものは、台湾を手に入れるか、遼東半島を手に入れるか、山東半島を手に入れるか、という帝国主義的領土拡大方針に沿っていたことはいうまでもない。その前提として、朝鮮の自主独立ということがあるわけで、朝鮮の自主独立ということは即ち、日本の支配下に入るということに他ならなかった。
これを今の価値観で「悪」と決め付けることは、人類の歴史というものを冒涜するものだと思う。
この時代の国際間のコモン・センスとしては、いずれの先進国も帝国主義であったわけで、それが当時の世界の常識であったわけである。
この時代の地球上において、誰も手をつけていない空白地帯は、自分が取らなければ、誰か他のものが取ってしまうわけで、それが常識として整合性を持っていたからこそ、西洋列強というのは、仲裁という体裁のいい格好で、調停を提議してきたわけである。
それに対応するには、こちらも同じ土俵に乗って、同じ発想に立たなければならなかったわけで、そこに至る過程でいろいろな対応の仕方の中からベストの道を選択するのに我々の側は悩んだわけである。
いろいろな考え方を一つに集約するということが、これ即ち政治なわけで、そこに政治的駆け引きが存在することになるが、この場合、日本の各層の意見を調整する手間を省いて、あらゆる意見を全部盛り込んでしまったのが後の下関条約ということになったのではないかと推測する。
外交交渉というのは当然相手があることで、こちらの要求がそのまま通ることは全くないわけで、いくら欲張っていろいろなことを盛り込んだとしても、それがそのまま通る訳ではない。
この時の交渉の結果として残ったのは
1、 朝鮮を完全なる独立国として認めること。
2、 清は日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲すること。
3、 賠償金2億両、日本円で約3億1千万。
4、 その他の西洋列強と同じ内容の条約を結ぶこと。
というものである。
講和会議という外交政策というものは、国益を左右するものであるから、場所とタイミングが重要なファクターとなるわけで、このときは日本が旅順を陥落させるという一番有利な状況で、会議を提議したわけである。
この旅順の陥落という状況下で、清国側もそろそろ自分の立場を理解し始め、講和の条件を探る動きを出してきたわけであるが、ここはお互いの腹の探り合いがあったわけで、相手の言い分をすぐその場で飲むということはありえないわけである。
それで実際の交渉は1895年、明治28年3月20日下関の春帆楼という旅館で行われた。
この会談は3月20日から4月17日の間、7回にも及ぶ長期の会談となった。
日本側、伊藤博文、陸奥宗光、清国側、李鴻章という第1級の両国の首脳同志で行われた。
会談の意義としては、その後の日本の歴史家達は、ここから日本の中国大陸への侵略が始まったかのような認識に立っているが、問題は清の側の民族意識、つまり中国の人々のナショナリズムにあるように思う。
そこには日本と中国という地球規模で見たときの地域の特性、アジアの東の端の海の中にある小さな4つの島で汲々と生きてきた民族と、広大な大地の中で、国境線など全く意識することなく遊弋しながら生きてきた民族では、その思考が根本から違っているわけで、それが共通認識の上に立って、お互いの共存共栄するつもりならば、その前提となる双方の民族の意識を、共通の尺度で統一しなければならないわけである。
20世紀という状況下では、それは民主主義というものが共通の尺度であるわけであるが、この民主主義という共通認識には、日本と中国ではかなりの温度差があったわけで、この温度差の違いというのは、21世紀に入っても同じになったわけではない。
現に今日の中国では、未だに共産主義から脱却しえず、改革開放経済とはいうものの、人々の思想を全く自由にしたわけではなく、民主化の度合いはいたって低いわけで、こういう共通認識を欠いた会談で、それが双方にとって全く平等という事はありえない。
明治28年の時点で、中国側から朝鮮や台湾を見た場合、これらの地は彼らの認識からすれば「化外の地」に他ならないわけで、日本にくれてやっても痛くも痒くもなかったわけである。
日本という小さな国が、その領有権、つまりこの地に日本の主権が及ぶということを声高に叫ぶと、彼らの側として欲が出て、ダメ元で「それは俺のところの土地だ」と面子を振りかざして叫び返しているようなものである。
自分達にとっては「化外の地」であるが、みすみす日本にくれてやるのはしゃくに障る、という程度のものであったわけである。
しかし、ここで思わぬ不測の事件が起きた。
第3回の会談を終えて宿舎に帰る途中の李鴻章を、小山豊太郎という暴漢が拳銃で狙撃するという事件である。
李鴻章は顔に怪我を負ったが、その対応には天皇陛下は詔書を出し、そういう行為を戒め、皇后は日赤の看護婦を派遣するなどして慰問するという事態になった。
こういう事態を憂慮して、日本側は厳戒態勢を取っていたが、それにもかかわらず起きるときには起きるもので、そのために行政の各機関では大勢の処分者を出すことになった。
テロ行為というのは、何時如何なる場面でも許されるものではないが、やはり大勢の人間の集団の中には一人や二人は紛れ込むものである。
そういう突発事件がおきたとはいえ、日清講和条約というのは4月17日に調印を見たわけである。
4月17日に調印、4月20日に批准すると、23日にはもう3国干渉が始まったわけである。
3国干渉はドイツ、ロシア、フランスの3国の公使が4月23日に外務省を訪れ、「遼東半島を日本領とすることは、清の都北京に脅威を与えるのみならず、朝鮮の独立を有名無実にするものであるから罷りならぬ」という主旨のことを言ってきたことである。
もともと遼東半島というのは、鴨緑江を挟んで清の領土であったわけで、清からしてみれば本土であったわけである。
日本側からしてみれば、ここで日本兵がたくさんの血を流した激戦地であり、中国大陸に足場を築くには最適の自然の要衝であったわけである。
攻めるに難く、守るに容易な要塞であれば、敵も見方もそれを手に入れておきたかったわけである。
3国干渉の問題点はこの遼東半島にあったわけで、これを日本から返還させておいて、その後ロシアがこの地を租借して要塞にした、ということかれすれば、この3国干渉というのは、西洋列強のまことにえげつない帝国主義領土拡張主義の発露以外のなにものでもない。
まさしく弱肉強食の国際間のパワーゲームであったわけである。
そしてそれがこの時代の世界の常識でもあったわけである。
このように世界の常識というのも、その時代時代に合わせて、常識そのものが変遷していくわけで、そういう時代のうねりを無視して、現代の価値観で歴史を断罪することは基本的に間違っている。
歴史というものを「正悪」とか、「善悪」、「道徳不道徳」という倫理観で糾弾することは、人の生き様を見間違うもとである。
日本が折角血を流して領土を拡大しようとしても、この時代のパワー・バランスによって、それに答えることができなかったわけである。
日本にとっては、もうこれ以上戦いを進める力がなかったわけで、それ以降もその後の台湾の処遇で軍費というのはのぼり詰めたわけである。
ここで話がわき道にそれるが、日清戦争というのは1894年、明治27年から翌年にかけて約8ヶ月に及ぶ戦争であったが、これに動員された日本軍の将兵の数というものは正確には掌握していないが、恐らく何万人という数に違いない。
しかも兵隊、将兵という事であれば、青年、壮年の日本男児の集団であったわけで、そういう人達が異国の地に渡る、ということは非常に大きなカルチャー・ショックがそこにはあったと思う。
我々は先進国に足を踏み入れると、その文化の華やかさ、絢爛豪華な文物に接して、大きなカルチャー・ショックを受けるが、それと逆のカルチャー・ショックがそこにはあったわけである。
徴兵で軍隊に入れられ、初めて白い飯にありつけたような人々も、朝鮮、中国に渡ってみると、そこには自分達よりももっともっと貧しい生活があったわけで、そういう人々が戦争が終わって故郷に帰還してみると、自分達の生活の豊かさを再認識するわけである。
そのことはつまり、朝鮮、中国を蔑視する意識というものが自然に沸いて来たという事である。
これは日本の大衆が戦争で、外地、朝鮮、中国に行った人たちが見聞きした話が口伝えで広がった結果であって、我々が朝鮮人、乃至は中国人を蔑視するという風潮は、戦地に行った兵隊達が帰還したことによって、自然に浸透したわけで、ある意味で不可避なことではなかったかと想像する。
逆の意味の文化の伝播とも言える。
それとは反対に、太平洋戦争のときに戦地に出向いた兵隊達は、敵からの攻撃よりも、日本の内側の統帥、作戦、施政、政治の犠牲になったわけで、その恨みを骨身にしみて感じていたので、戦後の日本では、つまり自分の祖国を相手国に売り渡しかねない思考に陥ったのではないかと想像する。
明治27年、日本の貧しい農村から借り集められた青年が、兵隊として朝鮮、乃至は中国に渡ってみると、そこに見た相手側の大衆、一般国民、普通の農民の生活というのは、貧しいと思っていた自分達よりもまだ貧しかったわけで、それが彼らに対する蔑視感となって、その後の日本に蔓延したのではなかと思う。
我々、日本人がそう思っていたことは、世界もそう思っていたわけで、「遼東半島を日本の返せ」というロシア、ドイツ、フランスの要求は、清国に同情してそういう提議をしてきたのではなく、「日本が弱っているから、自分達で分捕ろう」という魂胆でそういう行為になったのであって、その時点で朝鮮のことなど彼ら西洋列挙には眼中になかったわけである。
いわば朝鮮というのは西洋列強から見捨てられていたわけである。
彼らの思惑としては、「朝鮮など利用価値がないから日本にくれてやっても差し支えない」、という腹であったわけで、それに反し遼東半島というのは、自分達にとっても利用価値があったわけである。
この辺りの西洋列強の深層心理というものを充分に吟味することなく、表面の成り行きばかりを追っていては、国益を損なうことになりかねない。
ところがマスコミというのは、その表面のみを追いまくるものだから、間違った世論というものが噴出しかねない。
それに戦争というものはマス・コミ二ケーションにとってこれほどのニュース・バリューもないわけで、そこでは木口小平のような英雄や、敵を何人殺した、という実績が英雄としての効果を高からしめるわけであり、大衆というのはそういうものに一喜一憂するわけである。
その反面、戦争を遂行している立場の政府というのは、その裏側を知っているわけで、金もなければ物資が底をついていることも十分知っているからこそ、これ以上戦争遂行が不可能であるというジレンマに陥るわけである。
そして、そのことは国民に公開出来る筋合いのものではないわけで、もし公開すれば敵側にアキレス腱を握られてしまうことになり、そういうことを隠し続けながら、外交交渉を有利に持っていかなければならなかったわけである。
国民とか一般大衆、つまり統治されている側というのは、こういう場面では実に無責任なわけで、自分の国の苦境というものを理解しようとしない。
自分達が血を流して占領した土地というものが漁夫の利で第3国に取られるのはそれこそ臥薪嘗胆の気持ちで見ていたことは否めない。
以上の文章は講談社発行、檜山幸男著、「日清戦争・秘蔵写真が明かす事実」を非常に参考にさせてもらった。

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