日清戦争

日本とアジア4 平成13年3月31日 日清戦争

開戦までの紆余曲折

朝鮮の南部において、東学党の乱が起き、その騒乱が朝鮮全土に及ぶ雰囲気の中で、朝鮮政府の反乱鎮圧の部隊が各地で敗北すると、朝鮮政府は清にその反乱鎮圧の要請をした。
これに呼応する形で日本も朝鮮に出兵する、という対応で以っていよいよ戦乱の渦に巻き込まれていくことになるわけであるが、我々の側としては、一部の好戦主義者達が独断専行するという形で日清戦争にのぞんだわけではない。
明治維新以降日本は日清、日露、そして日中戦争を経て太平洋戦争という対外戦争というものを数多経験してきたが、そのいずれも日本人の中の一部の好戦主義者達が、好き勝手に戦争をしていたわけではない。
1945年、昭和20年の日本の敗北を経た以降の我々の同胞の中には、近代的な戦争、つまり現代という時代の中で、戦争というものが国家総力戦という形態を成した結果、一部の戦う人のみの戦争ではなく、戦場から遠く離れた内地においても、その被害を直接受けるような戦争形態を経験する事によって、嫌戦気分が嵩じたあまり、戦争というものは一部の好戦的な人達が、自分達の趣味で、自国民の犠牲の上に、相手国の人々をむやみやたらと殺すものだ、という浅薄な概念から抜け出せていない人がいるが、戦争というものは如何なる国家、如何なる種族、如何なる民族にとっても、究極の政治選択であったわけである。
まさしく戦争というものは、政治の延長線上に存在するもので、これは現代の戦争にもそのまま通用する概念である。
この21世紀においても、地球上の各地で戦争が起きている。
コソボ、アフガニスタン、アラブとイスラエル、コンゴ等々、地球上には戦争の火種はいくらでも転がっているわけである。
これを全面戦争に導かないようにするには、政治でその舵取りをする以外に、その手法が無いわけである。
その為には、まず第一に、当事者達が、戦争を放棄することが先決であるが、この当事者達の戦争放棄ということが我々、日本民族、大和民族のように簡単には行かないわけで、逆に言うと、我々の戦争放棄ということは、地球規模でいえばまことに稀有なことで、まさしく「日本の常識は世界の非常意識、世界の常識は日本の非常識」なわけである。
しかし、我々の歴史を紐解いてみると、この日清戦争の頃の我々の思考というのは、遅れて開国し、文明開化の波をもろにかぶり、西洋列強の不平等条約に切歯扼腕していた頃の日本というのは極めて「世界の常識」に則って政治・外交をしようと努力していたように見える。
それで話を元に戻すと、日本は朝鮮を開国させ、その条約にもとづいて、日本人が朝鮮領内で居住することが許され、その範囲内で日本人居留民というものはいたわけであるが、ここで朝鮮内部で反乱が起きたとなると、日本政府の対応としては、その居留民の保護ということが大きな主題となることは当然の成り行きである。
そして、その課題に対応するについて、我々の政府は、その時の世界の常識に則り、いろいろな苦慮をしているわけで、その苦慮があったからこそ、政治的な究極の選択という事になるわけである。
日本には古来から「喧嘩両成敗」という言葉がある。
つまり、戦争は両方が悪いということであり、一方のみが悪くて、片一方が全面的に良いということはありえないわけである。
しかし、その双方の言い分を公平に判断するということは不可能なわけである。20世紀の後半に至って、日本の知識人といわれる人々は、過去の日本の罪科をあげつらって、日本が極悪非道な国という印象を内外に鼓舞宣伝しているが、これは世界の常識も知らなければ、自らの国の現状も知らない、無知をさらけ出しているようなものである。
先の節で、この当時の朝鮮の政局の動き、大院君と高宗、そして閔妃一族の三つ巴の確執を散々揶揄したが、これと同じようなことは当時の我々の側にもあったわけで、政治というものはもともとそういうものなのかもしれない。
しかし、この当時においても、朝鮮と我々とでは、その政治の形態というものが根本的に違っていた事は特筆すべきである。
日本は朝鮮のような王朝政治というものから脱皮して、今から考えれば拙いとは言うものの、一応は近代的な民主主義国家としての体裁を整えていたわけである。朝鮮で農民の反乱が起き、「在留邦人を如何にするか」という事では、政府及び与野党とも真剣に討議しているわけであるが、その考え方の相違というものは、如何ともしがたいわけで、それは全て「結果よければ全て由し」という事にならざるを得ない。
この時点に於ける日本政府の政治的最大の課題は不平等条約の解消であったわけであるが、こういう政治課題に対しても、これを「改正する必要がない」という意見もあったわけで、一つの事柄に対して表から見る見方と、裏から見る見方があるということは一つの大きな真理である。
不平等条約を解消し、西洋列強と平等な立場に立つ、ということにさえ政府部内で反対意見があったわけである。
この現実を朝鮮の状況に当てはめると、あの金玉均の甲申政変と同じ主張であったわけであるが、その彼は暗殺された上、その死体まで辱めを受けたわけで、その意味からすると、日本の政治感覚というのは、朝鮮の人々よりも数段進んでいたといわざるを得ない。
ところが、私ども同胞から、この日本の政局というものを見ると、政府と言う場で、閣議という場で、政治家どもが足の引っ張り合いをしているという感を免れない。
こういう認識が我々、日本人の頭から払拭しきれないので、日本人の中で少々知識を持った人達は、政治家の言うことを馬鹿にしているわけである。
よって、自分の祖国を韓国や中国に売るような発言をして糊塗をぬぐっているわけである。
朝鮮で東学党の乱が起きたとき、日本の政府は不平等条約の解消に関して議論が沸騰して、てんやわんやの紛糾を極めていたわけである。
そういう状況下でも、在留邦人の保護ということが緊急の課題であったことは論を待たないわけで、その為には軍隊を派遣しなければならない、しかしそれには天津条約が足枷になってしまうので、さてどうするかと言うことで鳩首階段になるわけである。
時の総理大臣・伊藤博文、外務大臣・陸奥宗光であったが、この二人は先の不平等条約改正に関し意見が合わなかったため、とりあえず朝鮮に出兵することのみを決めて衆議院を解散してしまったわけである。
これを私の個人的な感覚で表現すれば、「国難に際して政治家は一体何をしているのか?」という事になるが、これを別の視点から皮肉な見方をすると、「朝鮮侵略の嚆矢が放たれた」という言い方も成り立つわけである。
言葉というものはまことに便利なもので、白を黒とも言いくるめ、赤を青とも言いくるめれるわけで、言い方次第でどういう風にも使い分ける事が可能である。
天津条約というのは朝鮮からの撤兵を約したものであり、同時に再度出兵するときには双方に事前通告する、という内容であったわけで、清が正式に出兵しようとすれば、当然日本への通告が義務付けられていたわけである。
同時に、日本側にも好き勝手に出兵することは拘束されていたわけである。
ところが、ここに一つの落とし穴があって、朝鮮側では中国、つまりこの時点で清から朝鮮に派遣されていた朝鮮駐箚が袁世凱であったため、清の側としてみれば、清の軍隊を移動させる件に関し、非常に工作がしやすかったわけである。
事実、そういう動きを察知した日本側としては、条約の存在など考慮する暇などなかったに違いないが、何ともやるせない気持ちで傍観しているほかなかった。
袁世凱の工作により、清の行動はかなり早かったが、これを時系列で表すと、
1894年、明治27年、2月15日 東学党の農民の最初の蜂起
            3月28日 金玉均暗殺。
            6月 3日 朝鮮国王清国に正式に出兵依頼
            6月 7日 清より出兵の通知あり
               同日 日本からも清国へ出兵の通知
これで日本は天津条約に違反する事無く事なきを得たわけで、当時の国際法、いわゆる万国公法にそむくことなく信義を貫き通せたわけである。

戦いの整合性の模索

そうはいうものの、日本の陸軍というのは、早々急に海外派兵できる体制ではなかったわけで、最初は海軍の陸戦隊が朝鮮に赴いたわけである。
ところがその後、6月12日に広島の第5師団の先発隊が仁川に上陸し、漢城・今の京城に向かって進軍していくと、もう農民の反乱は沈静化しつつあり、出兵の意義が失いかけたわけである。
その後16日に本隊が仁川に上陸してみると、その環境が著しく劣悪で、先発隊の漢城における進駐もあまり歓迎されたものではなく、出兵して来た意味はほとんど失いかけた状況であったわけである。
それで、日本も清もこのまますぐに撤兵する事に双方依存はなかったが、ここで一つ問題が起こった。
これは一種の軍人の面子という問題で、些細な問題のように見受けられるが、その後の日本を奈落の底に転がり落とした隠れた原因ではなかったかと思う。
つまり、「折角ここまできたのだから、何か手柄の一つも持って帰りたい」という極めて日本人的な潜在意識としての面子の問題である。
こういう面子で政治が振り回されたわけで、実に日本的かつ刹那的な思考が沸騰してきたわけである。
その事は、このときの内閣総理大臣としての伊藤博文の野心であったわけである。野心というと語弊があるが、伊藤博文にしてみれば、朝鮮をもっともっと近代化しようという気持ちであったかと思う。
こういう善意を野心と呼んでいいのかどうか、帝国主義的支配意識と呼ぶべきか、それとも100%素直に善意と取るべきか、歴史観の有り方でどういう風にも解釈が成り立つので、その判断に苦しむところである。
それで伊藤はこれを文書にしたためて「対韓善后の策」というものを閣議に提出し、それを見た陸奥宗光はそれを参考にして「日清共同内政改革案」なるものを閣議に提出した。
この両者の韓国に対する認識としては、まだ朝鮮というものを日本の支配下におこうという意図はなかったに違いない。
朝鮮という国が独立国として清やロシアの影響下から抜け出し、独自の判断で日本と対等の立場で外交というテーブルについてくれればそれでよかったと思っていたのではないか想像する。
そうなることが日本の安全保障上一番の得策であり、アジアの安定につながると思っていたわけである。
それで緊急派遣した第5師団をそのままの位置に貼り付けたまま、この「日清共同内政改革案」なるものを清国側に提示したわけであるが、先方は当然のこと拒否してくるわけで、それが一つの狙いでもあったわけである。
朝鮮に出兵するという段階では、清国の方が一歩先走った感があるが、この時点で日本側が清国との全面戦争をするという決断をしたとなると、我々の側が清国を嵌めた感がある。
外交という事が話し合いという事は論を待たないが、その話し合いの中身というのは、想像以上にえげつないわけで、朝鮮という立場からこの日清間の話し合いを見てみれば、彼らは全く蚊帳の外なわけで、力のない民族の悲哀を呈していたわけである。
これだからこそ主権国家として自立するにはミニマムの力というものは持たなければならないわけである。
そしてその力というものは、ただ単なる武力とは限らないわけで、国民の結束したナショナリズムというものでさえ立派な力になりうる、という事を知る必要がある。
この時代の朝鮮にはそれがなかったわけである。
だからこそ自分の国のことを日本とか清が頭越しに語り合っているのを指を舐めて見ていなければならなったわけである。
「日清共同内政改革案」というものは紛れもなく朝鮮の内政に関する事柄なわけで、明らかに朝鮮の内政干渉にあたるもので、それを清に提示することは、清の面子をつぶす事であり、即ち宣戦布告をしたようなものであったわけである。
清が承知するはずがないということを見越して提示したわけで、日米開戦の時のハル・ノートと同じ事であったわけである。
            6月16日陸奥から清国側に提示
              22日清国側から批判と拒否の回答書あり
              23日単独で内政改革に着手する旨通知
              27日仁川上陸京城征圧
というわけで日清全面戦争に突入していったわけである。
伊藤博文、陸奥宗光という連中が、ここに来て清と本気で戦うことを決断したのは、やはりその奥には朝鮮の人々の対日感情の悪さにあったのではないかと想像する。
もともと日朝修好条規というものは日本が無理やり朝鮮に開国を迫ったというものであるからして、彼らが面白く思わないのも頷けることではあるが、これはその真意が、「朝鮮の人々よ、近代化に目覚めなさいよ」というメッセージでもあったわけで、目先の利害関係をうんぬんする筋合いのものではなかったはずである。
伊藤と陸奥の頭の中には、西洋列強に対する劣等感に近い、危機感というものがあったのは確かだと思う。
危機意識というものが切迫して、西洋との間にある現実の問題としての不平等条約というものからの脱却が頭からはなれず、日本が西洋と同じ立場に立つためには、彼ら西洋と同じ事をしなければ、それが認知してもらえないのではないか、という危惧が潜んでいたに違いない。
そして、朝鮮という隣国を一つの独立国として主権を尊重し、その主権にもとづいて対等の相互扶助関係を結びたい、という願望があったものと思う。
この発想の根拠には、西洋事情をよく知っていた、ということがあると思う。
ところが朝鮮の方は、そういう日本側の意図を全く知らなかったというよりも知ろうともせず、唯我独尊的な世界観に浸っており、千年も前の夷狄の感覚しか持っていなかったものだから、ここに相互認識のずれがあったわけである。
そういう状況下において、日本と清が、朝鮮の人々の頭越しに駆け引きをしているものだから面白くないのも当然である。
その後1ヶ月の間に、日本と清の間を取り持とうとする、ロシアからの仲裁の申し入れ等複雑な外交交渉があったわけであるが、日本が朝鮮の内政を改革するという案は、基本的に日本側の決定事項になってしまった。
その事は同時に清との全面戦争に突入するということでもあったわけである。
それと平行して、このとき伊藤と陸奥はイギリスとの不平等条約の改定の交渉も行っていたわけで、これが効を奏して1894年、明治27年7月16日、日英通商航海条約というものが成立したわけである。
この事の意義は非常に大きく、それはすなわちイギリスという西洋文明の旗手が、日本の実力というものを認識しだしたという事に他ならない。
それは同時に、清や朝鮮というのは「どうにもならない」という偏見の醸成でもあったわけである。
ぶっちゃけた言い方で、かつ下衆な言い方をすれば、イギリスは清や朝鮮というものを見限ったわけである。
この認識は今でも生きているわけで、イギリスをはじめとする西洋文化圏というものは、今でも中国や朝鮮・韓国というものを正当に評価はしていない。
その意味からすると、彼ら西洋のアジア研究というものは、正しい認識眼を持っていたわけで、アジアでは何処の民族が将来性を持っているのか、という認識も既にこのときから持っていたわけである。
それで、日本側は漢城の周りに屯していたわけであるが、いよいよ7月23日に宮殿に攻撃を掛けてここを制圧してしまった。
国王・高宗はもはや籠の鳥であったわけであるが、ここではたと日本側が困惑してしまった。
というのはその攻撃、つまり戦争の整合性に欠けていたわけで、整合性の欠けた武力行使となれば、これは侵略以外のなにものでもないわけで、国際世論では認知され得ないことを知っていたわけである。
だからここでなんとしても整合性のある理由をでっち上げなければならなかったわけである。
大儀としては朝鮮の内政改革であるが、これは内政干渉そのもので、日本が以前から求めていた朝鮮の自主独立、主権尊重とはあい矛盾することになるわけである。
それで考え出された手法が政界を引責された大院君をかつぎだすことであった。しかし、この大院君というのは、朝鮮の政界の中ではなかなか骨のある人物で、日本の言うことなど素直に聞く耳を持たなかったが、ただ一つ閔妃一族に対する恨みだけは強力であったので、その恨みを晴らす為にだけで日本に迎合したわけである。
大院君を政界に据えることで、内政改革を行った、という整合性を持たせようとしたが、これが虚構であることは誰一人疑うものはなかったわけである。
大院君もかなりしたたかではあったが、彼は日本と清が戦争して、清が負けるということなど頭から信じていなかったわけである。
この認識が朝鮮の人々とイギリスの指導者との格差であったわけである。
日本、清、朝鮮というアジアの人々を、西洋という他所からの目、西洋文化の目、価値観の違う側からの視点で見たとき、彼ら西洋人の認識というのは誤っていなかったわけである。
日本軍が漢城の王宮を制覇して、首を挿げ替えたとて、朝鮮の内政というのは全く変わらなかったわけである。
それも無理ないことで、いくら首を挿げ替えたところで、人々の意識が前進していない事には、同じ事に繰り返しに過ぎず、混迷をきたすのみである。
事実、混迷のきわみに達していたわけである。
そして、日本が日本独自で朝鮮の内政改革と称する干渉をしだしたものだから、他の国が黙っていなかったわけである。
この首を据え変えて傀儡政権を作るという手法を、再び満州において日本軍が取ったわけで、こういう事をすれば、国際社会というか、国際世論というものが承知しないことに、我々の側は謙虚に悟らなければならなかった。
そのことは昭和の初期の軍人というのが、明治の指導者達が持っていた、国際世論を尊重する気概、国際間の信義は守らなければならない、とする気概を失っていたわけである。
それはさておき、ここまでは朝鮮に対する干渉であったが、日本が朝鮮に関してあの手この手で干渉するのを清国が快く思わないのも当然のことで、これまでの日本の態度というのは清を戦争の場に引き込む誘い水であったのかもしれない。
しかし、明治維新を経て近代化を推し進めてきた日本といえども、この時点で清国と戦争をするにはいささか不安であったに違いなく、その心配を払拭したのがイギリスの日本に対するアプローチではなかったかと思う。
この当時の西洋列強の考え方の中には、当然、武力なき民族は他民族に支配されても致し方ない、という帝国主義的植民地支配というのは彼らの世界、西洋文化圏の常識になっていたわけで、日本がそういう思想に被れたとしても、彼らの側に依存はないわけである。
但し、ここで国益が衝突するようなときは、それこそ力がものをいうわけである。
そういう状況下で、朝鮮半島を挟んだこの地域において、西洋列強の既得権はあまりなかったわけで、あるとすればロシアの権益だけであったわけである。
日本軍の漢城・京城征圧はあくまでも日本と朝鮮、李王朝との紛争であったが、この後に及んでも、朝鮮の人々というのは清に信頼感を寄せ、清に頼りきり、独立自尊という認識が全くなかったわけである。
憎き日本とは、民族の力を結集して力一杯戦ねばならない、という意思が全くなかったわけである。

戦いの中にある倫理観

日本という、彼らの認識にたてば夷狄だと思っている民族から、不合理な要求を突きつけられれば、全国民一致団結して日本と戦えばよさそうに思うが、そうしなくて、清に救援を依頼しているわけである。
この有り様というのは、丁度、今の21世紀の日本と同じで、10年前の中東の湾岸戦争の時、日本は石油を中東に依存しているにもかかわらず、そこで戦っているアメリカ軍を平和ボケの目で傍観していたのと同じ構図である。
よって、朝鮮は清に救援を依頼したものだから、清はそれに答えて行動に出たわけであるが、そこで起きたのが豊島沖海戦である。
豊島というのは、先の江華島の近く、漢城の西の海上に浮かぶ小さな島で、ここで日本と清が海戦の火蓋を切ったわけである。
日本にたとえれば東京湾といったところである。
ここでアメリカとソビエットが日本の頭越しに戦争をおっぱじめたという構図である。
これが1894年、明治27年7月25日、午前4時頃の事で、この時点で清国の北洋艦隊の済遠と広乙の2隻の軍艦と、日本の吉野、秋津洲、浪速という軍艦が、この場所、豊島沖で遭遇したわけである。
清国軍艦2隻は、我が方の軍艦の劈頭を横切ろうとし、なおかつ最初の発砲は済遠からなされたわけである。
これに吉野が応戦し、日清双方の最初の海戦は11時40分ごろ終焉を迎えようとした際、ハプニングが起きた。
というのは、この戦域に、清のチャーターしたイギリス船籍の輸送船が入り込んで来たのを、浪速艦長、東郷平八郎大佐が撃沈してしまった。
そこでこの問題が後に紛糾する事になったわけである。
この船は高陞号といい、前にも記したように、清国がイギリスからチャーターした船で、清はこの船で朝鮮への応援部隊の兵士を乗せ朝鮮に渡るところであった。
高陞号は浪速より停戦命令を受け、日本側の臨検を受けたので、イギリス側船長はUターンするつもりでいたところ、乗船していた清の兵士達が戦わずして帰ることを拒み、反乱を起し、浪速に発砲してきたので、結果として撃沈させられたわけであるが、この問題は日本、清、イギリスにとって非常に困惑した問題であった。
ここでものを言ったのが、陸奥宗光外務大臣が7月19日、清国に掲示した対清最後通牒交付であった。
一枚の紙切れが日本を有利に導いたわけで、このことを考えると、この当時の国際法というものは非常に武士道精神というものを尊重していたということである。
国際法を遵守するということは極めて武士道の精神に近いものがある。
この武士道というものに通じる概念は、西洋にもあったわけで、いわゆる騎士道として、そのスピリッツは残っていたわけであるが、第2次世界大戦ではそういう精神が地球規模で失われてしまったことになる。
日本側がこのイギリス船籍の船を沈めてしまったことで、我々の側は、折角イギリスと取り交わした条約に関し、イギリス側の不信を買うのではないかと恐れ、イギリス側も日本を信用出来なくなり、清は戦う前から兵力を失ったわけで、そのままでは日本はそれこそ世界の孤児になるところであった。
ところが、この紙切れがあったが故に、高陞号の行為は敵対行為である、という判定が下され、日本はおとがめなしに済んだわけである。
こういう事件に関し、調停機関がきちんと裁定して、それに従うということは、国際法の基本のはずであったが、日本はそういう気運が最初から強かったが、朝鮮の人々と清つまり中国の人々というのは、こういう国際法というものを遵守する気持ちが最初から欠けていたわけである。
国際法、当時の日本の言葉で言えば万国公法であるが、こういうものをきちんと守ろうという気運は、この当時の日本人には皆等しく備わっていたが、これが昭和の時代になると我々の側には非常に希薄になってきたわけで、その事は我々の側の驕りと捉えて謙虚に反省すべきことである。
国際法の枠の中で自己の主張をし、その判定には潔く従う、という心構えというのは、そのまま武士道にも通じ、西洋の騎士道にもそのまま通じるものであったが、ここに価値観の全く違う儒教思想の発想が入り込むと、このルールが成り立たなくなってきたわけである。
そして、その後の第2次世界大戦ともなると、まさしく「ルールなき戦い」となってしまったわけで、条約は自分の都合で勝手に破るは、国家総力戦と称して女子供まで動員するは、無差別殺傷はするはで、昔の武士道、騎士道というものは地に落ちてしまったわけである。
それでこの豊島沖海戦というのは、日本側の圧倒的勝利に終わったわけであるが、戦争はまだこれからなわけで、個々の戦闘における詳細は他の参考書に譲るとして、ここで一つ特筆すべきことは、「成歓の戦い」というのがあり、これは日清両軍の地上での最初の戦闘であったが、ここで韓国の民衆というものが清軍の実体というものに触れたことになる。
一方日本側では史上最初の対外的近代戦争というものを体験し、戦争美談というものが出来上がったわけである。
それは木口小平というラッパ手が、敵弾にあたって倒れてもなおラッパを手放さなかった、という戦闘時の美談が後世にまで語り継がれて残ることになったわけであるが、この事はその後の日本の人々に大きな影響を残しているように思う。
第2次世界大戦、太平洋戦争の時に、神風特攻隊として散っていった英霊の中にも、この木口小平と同じ精神的基盤の上に、ああいう自己犠牲の精神が醸成され、それに触発された部分が多々あるのではないかと思う。
それに反し、清国と朝鮮の兵隊というのは、非常に倫理観にかけていたわけで、まず清国の兵隊というのは、地上戦の戦闘が不利になるとさっさと逃亡、戦線離脱をし、その際、朝鮮の農民から略奪をほしいままにし、ただただ自分の身の安全のみを図ったわけであり、朝鮮の民衆の中で、日本軍に雇用された作業員も、これと類似の行為をしていたわけで、我々の倫理観からすれば、野卑な盗賊の域を出るものではなかった。
上陸してきた日本の軍隊に金で雇われた、という不条理があったとしても、そういう契約、口約束というものは守る必要はなく、金だけもらえば後は野となれ山となれ、という発想は我々の側には全くなかったわけで、そこにはっきりと倫理観、道徳律、順法精神、法を遵守するという意識改革というものがあってしかるべきであるが、彼らの方にはそういう意識そのものがなかったわけである。
戦場となった農民にしてみると、規律に厳格な日本軍と、行きがけの駄賃に、撤退する際になんでもかんでもかっさらっていく清国の兵隊を目の前にみたわけである。
敵側とはいえ、日本軍と雇用契約をして荷物を運ぶことを請け負った朝鮮の民衆の逃亡、進駐してきた清軍の農民への略奪というようなことは、当時のマスコミが不十分だとはいえ、口コミでもある程度は広がるわけで、日本の側においては、この木口小平の「死んでもラッパを放さなかった」という美談は、最大限に鼓舞宣伝されたわけである。
それはその後、第2次世界大戦、太平洋戦争が終わるまで日本側では立派に美談としての価値をもっていたが、戦後はその価値も薄れてしまった。
そして問題は、契約を反故にする事をなんとも思わない朝鮮の側の民衆や、敵前逃亡をする際、人のものを掠めとる兵隊を要する清国にあったわけであるが、下々の民衆の意識がこの程度であったからこそ、これらの民族はその後日本の支配下に入れられてしまったわけである。
こういう民衆を統治するには、力でもって上から押さえつけるほかなく、民主的な政治手法というのは、これら清国や朝鮮の人々には通用しなかったわけである。
木口小平という人物も、決して立派な出自の人間ではないわけで、いわば日本の典型的な大衆の中の一人であったわけである。
そういう一般大衆の中の人間でも、軍隊という組織の中で、自分の義務感と、責任感と、使命感をきちんと遂行し、果たしたということは、美談として仕立て上げるのは最も適した主題ではあったが、そういうものが朝鮮の人々や、中国の人々には全くなかったわけで、これは価値観の違いなどという生易しい言葉では語り切れない問題だと思う。
この時代、明治の中期の戦場というものをイメージしてみると、日本軍と清国軍の対峙している前線というものは、双方とも、その前線で銃を向け合っているのは日本側は徴兵で集められた日本の大衆の一部としての兵隊であったわけで、清国の軍隊の兵隊というのは、恐らく金で雇われた傭兵というようなものであったに違いない。
どちらにしても大衆の一部であるわけで、その国の一般大衆の凝縮したものが、前線という場で対峙しているわけである。
そこでその大衆のあり方というものを比較検討してみれば、その国の文化・精神文化・民主化の度合いというものが測れると思う。
それが顕著に露呈したのがこの「成歓の戦い」であったわけである。

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