日清戦争の前

朝鮮の人々の政治感覚

このクーデターは3日天下で終わったわけであるが、その後の朝鮮の政局は、相も変わらず3つ巴の政争の場となっており、金玉均は日本に亡命、大院君は過去の人となり、閔妃一族はより清に偏り、高宗はロシアに偏ってしまったわけである。
この図式でも分かるように、朝鮮のこの時期における政治というのは、誰一人自分達の民族の誇りというものを持ち合わせていなかったわけである。
常に誰かに寄りかかり、その庇護のもとに甘えることのみを考えていたわけで、自分達で事を決し、自分達でそれを推し進めよう、という意思が全く見られなかったわけである。
これを称して、私が言うところの「過去の追憶に浸って、前を見ようとしない人々」というものである。
金玉均のクーデターが失敗に終わったということは、彼に続く人達が限りなく少なかったからだと思う。
その事は、現状を改革することで、自分達の将来が明るくなるであろう、という夢を抱いて、その夢に向かって突き進もう、という発想の人がいなかったということである。
その他大勢、つまり朝鮮の人々の大部分が、現状に甘んじ、現状を壊すことに恐怖感を持ち、既得権益を損なうことに畏怖の念を持ち、冒険を恐れ、事なかれ主義に埋没していたということに他ならない。
それでいて、恨みの信条は極端に深く、恨みとか、妬みというのは人間の感情の中でもマイナスの要因であるが、これも過去に比重を置く思考から抜けきれない以上、発想の転換を期待することは不可能なわけである。
甲申政変が失敗するということは、いわゆる再び閔妃一族が復権し、勢力を伸ばしたということであり、その事は同時に、清朝の庇護を希うという事でもあったわけである。
そして、清もこの場に便乗して、いろいろと干渉して来るようになったわけで、前に日本と台湾の件で双方が話し合ったときには、朝鮮もアンナンも「化外の地」といっていた事など綺麗さっぱり忘れたかのよう態度を示した。
甲申政変の後、日本と李王朝の間では漢城条約(1885年、明治18年)を締結、そして同年、日本と清の間にも天津条約を結んで、日清双方が朝鮮から撤兵することに合意が出来た。
日清戦争の10年前のことである。
朝鮮と日本、及び日本と清の間で一つの均衡が生まれたわけであるが、この時というのは朝鮮の人々、朝鮮民族にとって真の独立を達成する千歳一隅のチャンスであったわけである。
「化外の地」と言いながら何かと宗主面をして関与してくる清もいなくなり、日本も兵を引いたわけで、完全に主権を歌い上げ、高らに独立を誇示する、最良のタイミングであった。
ところが朝鮮の人々、朝鮮民族にはそういう発想が微塵だになかったわけで、それだからこそ、甲申政変も失敗に終わったわけであるが、これを無知と言わずしてなんと言ったらいいのであろう。
1885年、明治18年、日本と清国、共に兵を退ける旨条約で約すと、高宗は事もあろうにロシア・ウラジオストックに密使を送り、自分の祖国を売るような密約を交わしたわけである。
そして閔妃一派は、これまたよりによって別ルートで、自分の祖国をロシアに売り渡そうという計画を練っていたのである。
高宗が祖国を売り渡そうとした朝露密約の内容と言うものは
1、 金玉均がウラジオストックに渡った際には、ロシア官憲が逮捕し、その身柄を朝鮮側に引き渡すこと。
2、 朝鮮の対日賠償について、ロシアは日本に対し要求しないように圧力をかける。
3、 第3国が朝鮮半島を侵略した際には、ロシアは軍事力を行使して朝鮮を保護する。
4、 ロシアは皇帝の勅命を受けた大臣を漢城・ソウルに駐在させる。
5、 朝鮮の海域はロシア海軍の軍艦が防衛の任にあたる。
6、 朝露両国間には陸路での通商を開く。
というものである。
(資料・朝鮮をロシアより防衛せよ参照)
第1項に関しては事の成り行き上致し方ないにしても、第3項と第4項に至っては、売国奴以外のなにものでもない。
第2項のみが外交交渉の真髄に近いものであるが、その発想の根底には、人の褌で相撲をとろうとする利己的な部分が丸見えである。
一方、閔妃一派の売国行為というのは、清朝から朝鮮に派遣されていたメルレンドルフと言う雇われ外人顧問が、甲申政変の事後処理で日本に派遣されてきた際、閔妃一派の要請を受け駐日ロシア公使館に入り浸って、ロシアの軍事顧問を朝鮮に招聘することを頼んでいたわけである。
事ほど左様に朝鮮の人々、特に宮廷の人々、政治に関与している人々というのは政治意識が低かったわけである。
その事は、統一国家というものの認識が未だに醸成されておらず、国家というものに対する認識が無かったという事である。
今の日本の言葉でいうと、いわゆる「部族」という言葉の範疇を出る事が出来ず、アメリカ・インデアンやアフリカのマサイ族というようなジャンルで称される人間の形態であったわけである。
清朝において、その末期には中国各地に軍閥というものが跋扈したが、朝鮮のこの時代の状況というものも、あの軍閥と同じで、自分達の生きている宇宙というものが、大昔の集落としての人間の集合に過ぎず、国境も、国益も、自治も、自主自尊も全く関係なかったわけである。
あるのは既得権益の温存、乃至は宮廷内の同僚同士の噂話か、足の引っ張り合い程度の政治感覚であったわけである。
国家主権という概念が無いところに、「民族の自主」という事もありえず、自らの独立自尊という概念も必然的に沸きあがってこなかったわけで、あるのはただ単なる保身だけであったわけである。
自分の国という概念がない以上、自己の温存は日和見にならざるをえず、自分に慈悲を与えてくれるものならば、相手は何でもかまわなかったわけである。
清でも、ロシアでも、日本以外ならば何でも構わなかったわけである。
ところが日本は、朝鮮を完全なる自主権を持った独立国として扱いたかったわけで、完全なる独立国として独り立ちさせるためには、様々なことを口やかましく干渉せざるを得なかったわけである。
日本がいくら朝鮮を完全なる独立国として独り立ちさせようと思っても、清のほうに擦り寄って、その庇護を得ようと画策したり、ロシアに擦り寄って、その庇護を得ようとするものだから、ますます干渉を強めなければならなかったわけである。

甲午農民戦争について

このように高宗の施政というものが曖昧なものだから、官僚システムも行政システムも、機能的に動くことが無く、下々には不平不満が充満してきたわけで、それが農民の反乱という形で噴出するようになったわけである。
大院君が執政をしていたときには、朝鮮にキリスト教が広がりかけたが、彼が強いリーダーシップで、これに強力な弾圧を加えた。
こういう弾圧が成功して、他からの圧力を排除できている間というのは、見方を変えると、強力な鎖国状態が続いていたということでもあったわけだが、今度は内側からの農民の突き上げがあったわけで、その事は管理する側と管理される側の確執が表面化したということに他ならない。
金玉均が説くような、開化を目指す気持ちを一つに集合すべき潮流が朝鮮には出来なかったという背景には、この政治の場で、管理するものとされるものの中間の層が全く無かったという事に他ならない。
今の言葉で言えば、草の根運動の地盤が全く無かったという事である。
日本の場合、徳川時代という江戸幕府250年間を通して、士農工商という身分制度の枠内においても、下級武士と、富裕な町民の融合というものがあって、中間層というものの幅が広かったわけで、この中間層というのはなにも政治の場のみでその力量を発揮したわけではなく、政治の場以外でもその力を大いに発揮したわけで、そういうことが意識改革に大いに役立っていたのではないかと思う。
朝鮮に限って言えば、管理する側と、される側の間に中間層というものの存在が全く無かったので、金玉均に続く人が一向に現われなかったわけである。
で、管理する側というのが何時までたっても意識改革をしないものだから、管理される側の農民のほうの不満が累積して、飽和点を突破したのが東学党の乱という事ではなかったかと思う。
私は不勉強で、この東学というものが今ひとつ理解しきれない。
西洋の学問、いわゆる西学に対する東学なのか、それとも全く別の概念であるのか定かに分からない。
朝鮮民族の民衆宗教といわれても、太古から続くシャーマニズムに近いものなのか、中国を経由して日本の来る途中の仏教に近いものなのか、さっぱり理解しがたいものである。
それで広辞苑を紐解いてみると、朝鮮の古来のシャーマニズムに儒教、仏教、道教というものが混ざり合ったもの、という趣旨が記されており、これが西洋的文化要因を排斥する形で朝鮮の人々の広がったということは、朝鮮民族は王朝から下々の農民に至るまで、上下一貫して西洋化というものを拒否したということに他ならない。
これでは開化派としての金玉均をフォローしようとするものが現れないのも致し方ない。
我々の場合、「蒸気船たった四杯で夜も眠らず」と世情を揶揄しながらも、上も下も好奇心に燃える眼差しで、西洋文化に接しようとしたわけである。
行政システムの幕府としては、それぞれの立場持ち場で西洋に対処しようとしており、このことは西洋文化というものを頭から排除しようとしたわけではない。
下々は下々で、100%完全なる好奇心で、怖いもの見たさで、おそるおそるではあるが、西洋の文物に近づこうとしたわけである。
我々と朝鮮の人々の西洋文化に対する対応は180度の開きがあったわけである。この東学党の指導者全準という人物の出生が分からないというのも不可解である。そういえば高宗の妃・閔妃の出生も定かでないということであるが、その事は朝鮮民族というのは、その戸籍というものがいささか曖昧で、係累をあまり大事にしていないということだと思う。
日本でも出生の定かでない人は多々いるであろうが、その人が時の人ともなれば、その時点で誰かがその出生を追い、「誰それの末裔」という言い方で語り継がれるのが通例である。
朝鮮に限って言うと、分からないものは分からないまま放置されているとしか言いようが無い。
朝鮮では結婚しても女性は生家の姓を変えない、といわれているが、それならば先祖の追跡が我々よりも楽なような気がするが、そうなっていないところが不思議だ。
尤も、昔は下々のものには、姓も無かったので、その出生が分からなくても不思議ではない。
それで東学というものが民衆宗教といったところで、その宗教が如何なものか、さっぱり理解しがたいものであるが、その宗教団体というものが、徒党を組んで現行政府に日頃の不満鬱憤を晴らした、という言い方をすると下衆な表現になってしまうが、そういう大きなうねりが高宗の現実政治と対峙したことには違いがない。
このとき朝鮮の王朝、高宗というのが取った選択というのが最悪の選択であったわけである。
事もあろうに、ここでも又例の大国寄りかかり思考、事大主義というものが前面に出て、清に派兵を依頼してしまったわけである。
(資料・甲午農民戦争参照)
この事は、朝鮮政府、李王朝、朝鮮の行政システムというものの無知というか、馬鹿さ加減というか、西洋的契約関係、近代化された思考というものからほど遠い位置にいた、ということを晒しているわけである。
それは日本と取り交わした漢城条約、日本と清の間の天津条約という、外交上のルールというものを全く無視した行為であったわけで、そういうものがありながら、その意義を全く理解しておらず、そういうものを遵守しなければならない、という意思が全くなかったということに他ならない。
日本は江戸時代の末期に、無知からとはいえ、不本意に契約してしまった不平等条約というものを、維新後も遵守することを、不平等と知りつつも契約を守るという信義を貫き通したわけであるが、朝鮮政府というのは、その契約というものは守らなければならない、という信義すら理解していなかったに違いない。
東学党の乱というのは、今の歴史では甲午農民戦争という言葉がつかわれているが、言葉を変えるということに、どういう意味があったのであろうか。

死者を鞭打つ残虐さ

1894年、明治27年2月、東学党の乱蜂起、同3月28日金玉均が上海で暗殺されている。
そして暗殺するだけでは事足らず、彼の死体を切り刻んで晒し者にするという発想には我々、日本人としてはついていけない面がある。
日本でも晒し首という刑罰は過去には有ったが、近代化した日本では、そういう前近代的な刑罰は影が薄れ、法律に準拠した裁判により、法律に基づいた刑罰がなされるようになったわけである。
この甲申政変、朝鮮版2・26事件の首謀者であるところの彼を、政府の暗殺団・刺客が、上海まで彼を追って暗殺するという事は、一体どういう意味を持っているのでろうか。
彼が日本の庇護を受け、日本の恩恵を受けていることの怨念が如実にあられているようにも見える。
朝鮮民族の潜在意識として、ただでさえ日本が憎いのに、その憎い日本の庇護を、彼のみが受けていることの恨み辛みと、やっかみが頂点に達していたとでも言う他ない。
朝鮮の政治というか、行政というか、施政というものには、こういう場面が往々にして散見される。
今の韓国の大統領、金大中氏も野党のとき、日本のホテルから忽然と連れ去れ(1973年)、それは韓国政府の完全なる政府機関が行ったわけであるが、それとは又別に、金賢姫の旅客機爆破事件というのも、北朝鮮の直接の行為であったわけである。
このように政府機関が、直接海外にまで暗殺団・刺客を繰り出すというのは、朝鮮民族の特徴である。
テロの容認、乃至は遂行という事が、政府機関の意思で行われるということは、我々の思考にはない発想である。
暗殺の対象、刺客の目指す相手というのは、彼ら朝鮮の人々からすれば同胞なわけであるが、それでも考え方の違う人、乃至は政敵、論敵というものに、死を以って報いるという点は我々には考えつかない思考である。
朝鮮の人々には「怨」の思考が有るということが言われているが、この発想というものは、朝鮮の人々の思考方法が前向きにあるのではなく、後ろ向きの過去に重点をおいた発想だからだと思う。
日本でも反体制側が政府当局から弾圧を受け、死に至らしめる事件というのは多々有るが、それはただ処罰の形として死を以って報いるというのではなく、裁判の結果としての刑の施行であり、その死は同調者からは愛情を以って迎えられ、体制側からは本人の不運に同情さえも得、愛惜を持って迎えられる場面が有る。
反体制だからといって、本人の死を「石をもってなお打つ」というような場面はありえない。
死人に対して甘いといってしまえばそれまでであるが、死人になお辱めを上塗りするような発想は、我々の側には存在しない。
生前の行為は裁判によって処罰を受け、その罪の償いとして死という結果を招くことは有るが、その人が処罰の結果として死に至らしめれば、その死に対してそれ以上の凌辱は我々の場合はありえない。
人は死ねば神様になってしまうわけで、その神様になお恥辱を加えることは、罰当たりなこととして通例許されない。
ところが朝鮮の人々には、こういう発想が全くないものだから、犯罪者は死んでもなおその罪を負わされて、恥辱を受けるということになっている。
このことは「悪い事をすると死んでもなお処罰を受け、安心して天国にいけないぞ」ということを民衆に知らしめているわけで、いわば民衆を恐怖というもので押さえつけようという発想に他ならない。
民衆の倫理観を恐怖で以って押さえつけようという事は、人間の感情に訴えているわけで、人間の理性に訴えているものではない。
我々の場合は、人間の理性に照らし合わせて判断をしているわけであるが、朝鮮の人々の場合は、人間の感情に訴えて物事のよしあしの判断をしているわけである。
この相違は非常に大きく、我々の場合は、事のよしあしを法律というものに照らし合わせて判断している、いわゆる法治主義であるが、朝鮮の人々は、法律の前に人間の感情が先にあるわけで、これは典型的な人知主義というものであり、統治者の意向で「赤が黒になり、白が赤になる」という前近代的な思考という事になるわけである。
反体制の者を、政府当局の息のかかった者が、外国にまで追いかけて暗殺するという行為も、前近代的な発想から脱却出来ないでいる証拠である。
朝鮮の人々が、朝鮮の同胞を始末するのだから、何処で何をしようと第3者は関係ないと思っているとすれば、これほどの独り善がりも又とないといわなければならない。
先に引用した金大中氏の拉致事件及び金賢姫の航空機爆破事件等を考えても、当事国のことを全く考えておらず、そういう行為が、当事国の主権を犯しているということに考えが至っていない。
その事は、自分達の行為が当事国の主権を犯している、という事の意味が分かっていないということであり、同時に、自分達の国家主権の意味もわかっていない事に他ならない。
「朝鮮人が朝鮮人を成敗するのだから、何処で何をしようと勝手だ」と思い込んでいるわけで、その事が当事国の法律を犯している、ということには全く考えが及んでいないわけである。
朝鮮の人々がこういう発想から抜けきれない、というのは地球規模で押し寄せている近代的な思考方法というものから遠ざかっていたから、その潮流に取り残された結果である。
結果論的には、厳重な鎖国を長いこと続けており、その上、事大主義と儒教思想に凝り固まって、新しい思考を忌み嫌い、改革を忌避し、過去にしがみつき「井戸の中の蛙」に徹しつづけたからに他ならない。
朝鮮半島のみが全宇宙と思って、外の世界を知ろうとせず、入ってくるものを拒み、出ることを恐れ、過去のみを追憶し、現状に甘んじ、明日の糧さえあればそれに満足して、夢を追うことを忘れていたからに他ならない。

究極の政治的決断

ところがこういう状況下でも、人々はいよいよ明日の糧にもありつけなくなってきたのが、この東学という宗教団体が蜂起するきっかけになったわけである。
こう述べると、如何にも歴史的事実として説得力が増すが、私が勝手に推測するところ、この「東学党の乱」という「甲午農民戦争」というのは、ただの民衆の反乱ではなかったかと思う。
東学党という宗教団体の蜂起というのは、便宜上の命名で、何か事件が起きたとき、それに名前がないことには、その後の言い伝えに不便だから、こういう命名がなされたもの推測する。
民衆が立ち上がったとしたら、それにはリーダーが必要なわけで、人は何事をなすにもリーダーを必要とするわけで、この時のリーダーとして全準という人物が登場したわけである。
しかし、この時代において朝鮮半島の全土で農民の反乱が漁火のように全国に広がった、ということは我々には考えられないことだと思う。
日本の歴史においては、こういう形の庶民の支配階級に対する反抗というのは全くなかったわけで、我々にあったのは戦国時代においても、それぞれに地方が地方の反乱として、百姓一揆とか、代官所を襲うという規模の小さなもので、朝鮮半島や中国大陸のように全土が反乱の渦に巻き込まれる、という歴史はなかった。
その事は別の言い方をすると、地方、地方がそれぞれに独立しており、その地方と地方の確執はあったが、それが日本の全土に広がるということはなかった。
豊臣秀吉の中国攻めにしても、地方の農民の蜂起という性質のものではなかったわけで、関が原の合戦においても、農民の蜂起という筋合いのものではなかったわけであり、いわば政治的主導権を誇示するパフォーマンス的な要素が強く、不平不満の百姓の蜂起という性質のものではなかったわけである。
日本でそういうことが起きず、朝鮮ではそういうことが起きたということは、それぞれの国の歴史の中に、そういう要因が含まれていたわけで、その事は、日本では中央の力というものが非常に強力であったので、その力が地方というものを統率していたわけである。
徳川約250年の歴史というのは、徳川家のこの統率力が厳として威力を発揮していたわけで、そこには人を統治している、という自覚にもとづくポリシーがきちんと機能していたということである。
一方、朝鮮民族のほうは、この力が非常にフラットになっており、中央と地方の間に行政システムとしてのピラミット型の権力構造というものが存在していなかったわけである。
統治、管理する側と、される側のたった二つの階層しかなかったわけで、中間層というものが全く存在していなかったものだから、農民の反抗というのは、漁火のようにフラットに全国に広がってしまったわけである。
よってこの反乱を鎮めるための措置が、外国軍隊の要請、言わずと知れた清に、自分の国の反乱鎮圧を要請したものだから、事態は極限的な混乱をきたしたわけである。
ここでも外国と交わした条約のことを考える、という余地が全くなかったわけで、場当たり的に、目の間の混乱を静めるのに安易な思考に陥って、後先の事、はたまた日本及び清国と交わした条約のことなど眼中になく、事の解決をしようとしたものだから、破局的な結果を招いたわけである。
この状況というのは我々、日本人には考えられない状況で、百姓一揆が全国規模で起きるということと、そしてその鎮圧を外国に依存するということは、我々の発想にはないことである。
ということは、この時点、いわゆる1894年、明治27年という時点で、日本と朝鮮という海を挟んだ隣同士の民族の間で、その民族の持つ潜在意識というものが180度の乖離があったということに他ならない。
こういう状況を当事者の立場、いわゆる同時代に生きた人々の主観で以って眺めてみると、必然的に差別意識というか、優越感と劣等感というものが、この両者の間に沸き起こることは致し方ないと思う。
近代科学に準拠するマス・コミにケーションというものは、その時の時代背景に準じて、それなりに発達するもので、それから得る情報というのは、その時代に合わせてそれなりに啓蒙する力を持っていたわけである。
その時代の世論というものは、今ほどの政治を動かす力になりえないとはいうものの、その時代の世評を形成するには充分であったわけである。
今の世論と、その時代の世論というのは、同じ世論という言葉で表しても、約120年という時代の流れを加味しなければならないわけで、その時差というものを考慮にいれると、当時の日本の民衆が「朝鮮人何するものぞ」と意気込むのも致し方ない面があると思う。
相手は相手で「我々の内輪もめを日本人なんかに相談できるか」という意識があったのも当然の成り行きに違いない。
ここで問題になってくるのが、朝鮮民族の華夷秩序で、朝鮮民族にとって頼れるのは清という中国であり、日本は朝鮮の川下で、何時までたっても蛮人である、という認識が潜在意識として払拭していなかったわけである。
日本は明治維新を成して27年も経っているわけで、その間というものを西洋の物まねと侮られていたとはいえ、近代化ということに闇雲に突き進んでいたわけで、その進取の気性が西洋列強に共感を与え、後に不平等条約の解消という実績になって現れているわけである。
そういう状況の中で、朝鮮で農民の反乱がおき、その朝鮮に居留民保護として軍隊を派遣するについては、我々の側には清とも朝鮮ともかわした条約があったわけで、日本の支配者、統治者としては、自分勝手に軍隊を派遣できるわけではなかった。
ここのところを21世紀に生きる我々、日本人もよくよく研究する必要がある。20世紀の後半において、革新的と称する共産主義者とそれに同調する教育者、先生に指導された戦後生まれの若い日本人は、この部分で、日本が日清戦争とか日露戦争を行ったのは、日本人の中に住む軍国主義者という悪魔が好き勝手に悪事を働いた、という歴史観を教え込まれているが、それは大きな間違いで、やはり対外戦争というのは究極の政治的決断であったわけで、すべきかすべきでないか、というのは当時の統治者にとっても苦悩の選択であったわけである。
そして、それは如何なる人間の生き様にも言えている事であるが、苦渋の選択をするにも、あらゆる情報を慎重に分析した上、先の見通しを充分に勘案し、清水寺の舞台から飛び降りるような決断のすえ、事が決されるのである。
当然、そこには民族としての総合的な雰囲しての世論というものが影響することは論を待たない。
明治以降、我々は天皇を戴いた国民であり、天皇制の元で生きてきたわけであるが、日本の天皇というのは独裁者ではないわけで、太古から民族の象徴的な存在であったわけである。
天皇が積極的に政治に関与する、ということはほとんどなかったといっていいと思う。
ある意味では「蚊帳の外」という感があるが、これを政治的利用したからこそ、昭和時代の日本は奈落の底に落ちてしまったわけである。
朝鮮で農民の反乱が起きると、われわれの側の統治者は、当然、朝鮮にいる同胞の安否を気遣うわけで、そこに清国の軍隊が派遣されてくるとなれば、安閑とはしておれないのも当然で、すぐに対処しなければならなかった。
それが日清戦争の誘引となったわけである。

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