日本とアジア3 平成13年3月20日
日本が明治維新をきっかけとして近代化を成そうともがいていた頃、朝鮮王朝では高宗という人物が王座にいたが、この人物は幼少であったがため、その父親が摂政を勤めていた。
これが通常大院君という呼ばれるものであるが、この大院君という呼称は、もともと「王の父」という意味で、固有名詞をさすものではない。
ところが近代朝鮮では大院君という言葉は固有名詞として通用している。
高宗は1863年、王座についたわけであるが、それから10年間というもの、大院君が摂政として高宗に成り代わって執政を行ったわけである。
こういうことは日本でもしばしばあったわけで、別に珍しいことではないが、問題は、その時期が地球規模で近代化が進む中でのことで、朝鮮の後進性によりいっそうの拍車をかけてしまったということである。
高宗は1852年に生まれているので、王座についたのは11歳のときである。
その時、大院君の方は43歳であったから、摂政をするには一番妥当な頃合であった。
ところが問題は、その政治の中身の方で、政治・治世が完璧であったという人類の歴史は如何なる民族にもないわけで、いかなる人種、民族、主権国家でも、その政治が完全に善政であったということはありえない。
安定していたか、不安定でいつもいつも政情不安であったかどうか、という問いかけは出来るにしても、過去の政治が善政であったかどうか?という質問は成り立たない。
現代人の感覚からすれば、政治が安定していれば、人々が幸せだったかどうか?という見解も成り立たない。
我々、日本の歴史を見ても、江戸時代、徳川幕府の約250年間というものは比較的安定しており、人々は幸せに生きていたのかと問えば、答えようがない。
確かに江戸時代というのは、政情は比較的安定しており、日本国内での戦乱というのは皆無であり、文化は爛熟していたことは認めなければならない。
しかし、これは鎖国という「井戸の中」のことで、あくまでも「井戸の中」という条件付の平和であったわけである。
政治というものは、人と人との関わりを総括するもので、自分達の仲間内のみで仲良く暮らせても、他との関わり方が不味いと、その仲間にも大いなる迷惑を及ぼすわけで、そこで政治そのものが評価されてしまうわけである。
徳川幕府約250年間というものは、我々は鎖国という「井戸の中」で平和に暮らしていけたが、この間の平和というのは、徳川幕府というものが絶大な力を持っていたからこそありえたわけで、その意味では、その力の維持そのものが善政であった、ということがいえるのかもしれない。
まさしく政治は力である。
そういう視点から対岸の朝鮮というものを見てみると、狭い海峡を挟んだ両民族においても、その民族の根源的な発想というものには大きな違いがあるわけで、この違いが、地球規模で押しかけてきた近代化という、民族の枠を超えた大きなうねりに如何に対応するかで、両民族のその後の生き様に大きな影響を及ぼすことになったわけである。
自分達の仲間内の内紛というものを、内政という言葉で置き換えれば、政治というものは、この内政ともう一つ、対外的な身の処し方、外患というものに如何に対処するか、という外交という二つで成り立っているように見える。
内政というのは、常に如何なる民族でも何らかの確執を持っているものであるが、対外的な、外から来る圧力に対処するには、国家的な結束が必要なわけで、それには内政面でさまざまな確執を克服しないことには、外からの圧力に対して抗しきれないわけである。
ヨーロッパでは、早い時期から、封建的で専横、横暴な領主に対して、農民等、貴族以下の身分の人たちが革命を起し、自分達で、自分達の生き様を考える、という機会を自分達で作り出すことに成功した。
これが非常に大事なことで、自分達で、自分達の生き様を考える、ということは民主主義に対して一歩も二歩も近づいたわけで、これが人権意識を人々の間に根付かせ、それが集合して、民族国家というものを作り上げてきたわけである。
人々の間に人権意識が芽生えると、必然的に民族国家という概念が出来、国家主権という意識も覚醒され、主権国家という概念が醸成されてきたわけである。
ある限られた地域に住む人々が、仲間内のさまざまな確執を克服して、隣接の地域に対して差別意識をもち、「我々は彼らとは違うんだ」、という意識を持つことが、主権を尊重することの目覚めではなかったかと思う。
国家の主権を尊重するということや、人権を尊重するということは、お互いの差異を素直に認め合い、同一化を要求する事無く、差別意識を強調する方向ではなく、無視する方向に自らの気持ちを向けることだと思う。
今日、差別意識というのは、非常に悪く評価され、それを撤廃する方向に人々の心が向いているが、差別というのは人間の持つ「業」でしかなく、意識的に払拭できるものではない。
その極端な例が、韓国人や中国人の持つ反日感情である。
彼らに「何故、日本をそれほど嫌うのか」と問いただしたところで、整合性のある答えは返ってこないわけで、ただなんとなく生まれ落ちたときから日本人が嫌いだったわけである。
そんな理由では100%完全なる差別意識そのもので、今日的な状況では倫理的に不都合なわけで、倫理的な説得力を持たせるために、「日本がかって朝鮮を支配したからだ」という理由を当てているだけのことである。
基本的には潜在的な差別意識に他ならない。
だから、この差別意識を「悪い事」だと決めつけるから、我々の理性が迷路にはまり込んでしまうわけで、差別意識というのは、この地球上に住む人類からは払拭しきれないものである、と開き直ることが必要だと思う。
ヨーロッパで人権意識が芽生え、民族国家が出来たということは、その差別というものをお互いが素直に認め合って、認め合った上で、お互いのその差異を尊重しましょう、という発想に落ち着いたものと思う。
その事は同時に、個の尊重であり、それは個の確立とも連動していたわけである。
ヨーロッパにおいて革命で貴族や王侯を倒した人々が、仲間内の確執をじょじょに克服して見ると、あちらにもこちらにも民族国家が出来ており、お互いの差異を尊重しあうとすれば、そう安易に隣の仲間の領域には入っていけないわけで、ならばどうしようかという事になって、未開のアジアに目が向いたわけである。
アジアに来て見ると、ここは富の狩場であって、選り取りみどり、苦労する事無く富が手に入ったわけである。
こういうヨーロッパに対し、アジアというのは、封建領主の専横や横暴を、人民の力で倒して、革命を成すということがなかったわけである。
中国の場合はあまりにも国土が広大で、統一国家というものが存在しえず、唐、元、清といったところで、これらの国家というのも、ある民族が一時的に覇権を得たというに過ぎず、統一すべき国家というものは、あまりにも国土が大きすぎて、民族国家というものはありえなかったわけである。
自分達が全宇宙のなかで最も進んだ民族だ、と思い込んでいたとしても、周囲にいる夷狄に何時圧迫を受けるか分からなかったわけである。
「万里の長城」を築いたところで、それが万能ではなかったわけである。
仲間内のさまざま確執を克服して、自分達だけで仲良く暮らしたいと思っても、常に外からの圧力というものを警戒しなければならなかったわけである。
その上、国土が広大に広いものだから、農業を基本とする封建制度というものが未発達で、王様とか、地方の部族の長といったところで、それはある限られた部族社会だけのことで、それを統一して管理すべき社会制度というものは発達しきれなかったわけである。
戦後の日本で、焼け跡の野外で上映された、アメリカ映画の西部劇に登場してくるインデイアンの社会と同じであったわけである。
アパッチ族とか、コマンチ族とか、スー族とか、そういう部族の群雄割拠が中国の現実の姿であったわけである。
ヨーロッパで、人権意識に目覚め、民族意識に覚醒し、国家主権というものを認識した人達が、大航海時代の波に乗ってアジアにやってくると、彼らは鉄砲という合理的な武器を持っていたが故に、アジアの人たちはこれに対応できなかったわけである。
そのヨーロッパ人も、中国と日本では地歩を確保することに成功したが、朝鮮に限っては全く寄るすべもなく追い払われてしまったわけである。
その意味では、大院君が統治していた頃の朝鮮の人々というのは、極めて優秀であったといえるが、後に時代が下ってくるとそれが災いとなってしまったわけである。
我々の場合、自分達の内側ではいろいろな紆余曲折の後、彼らヨーロッパ諸国に門戸を開放し、最初のうちは不平等条約で切歯扼腕したけれど、徐々に彼らの理解を得る努力をした結果、対等の主権国家としてヨーロッパ人に認知してもらえるようになった。
ところが朝鮮に限って言えば、彼らは最初ヨーロッパ人を寄せ付けないことに成功したものだから、後になればなるほど、ヨーロッパ人のほうから敬遠されてしまったわけである。
このヨーロッパ人を撃退したのが、高宗の父であるところの大院君であったわけで、その事は朝鮮歴代の歴史の中で稀有なことであった。
朝鮮の政治的バックボーンとしては、その背景に両班制度というものが連綿と生きていたわけで、これらは一種の貴族制度であったわけである。
朝廷の管理運営を武班と文班の二つの班でのみ行うというものである。
この両班の内のどちらかの出身者でなければ官吏登用試験、いわゆる科挙の受験資格がなかったというものである。
その中でも、文班のほうが重用され、武班のほうは冷遇されていたわけである。こういう制度は、日本でも過去の歴史の中に歴然と存在していたわけであるが、日本においては、そういう制度そのものが、時代とともにスクラップ・アンド・ビルトされ、人々の意識の変化とともに変わっていったわけである。
ところが朝鮮民族においては、そういう制度のスクラップ・アンド・ビルトというものが全くなく、連綿と生きていたわけで、別の言い方をすれば、非常に安定していたということもいえる。
逆説的な言い方になるかもしれないが、こういう風に制度が安定していたということは、平和的な思考が普遍化していて、善政がしかれていたと言うことになるのかもしれない。
「井戸の中の蛙」としてはこれで充分である。
しかし、地球規模で人々が移動し、地球規模で人々の欲求が行き交う時代になると、外部からの軋轢というのは避けられないわけで、自分達の井戸の中で、自分達だけで平和を享受しつづけると言う事は不可能なわけである。
好むと好まざると、外との関わりを余儀なくされるわけで、外との関わり方の最初の頃は、この大院君の業績というものは、彼らの立場にたてば賞賛に値するものであった。
日本と朝鮮との関わり方をつぶさに見てみれば、なにも明治維新のときの国書の問題が最初ではなかったわけで、歴史以前から人々は行き来していたわけであり、問題は、近代的な時代の流れに順応した思考方法を、この両者がどのように会得したのか、というその相違点を比較検討してみる必要がある。
その会得の度合いの差が、差別意識とした内在してしまったわけである。
日本においても両班制度というようなものは平安時代に経験したわけであるが、その後、日本では武家社会が実現し、江戸時代というのは封建制度というものが爛熟し、それが再び崩壊して、近代的な資本主義というものの台頭を見たわけである。
つまり、日本の社会というのは、内側でダイナミックに社会制度、行政システムというものが変革をし、スクラップ・アンド・ビルドしていたわけである。
ところが朝鮮の人々の歴史というのは、この内なるダイナミックさに欠け、両班という貴族身分と農民という階層は、どこまでいっても交わることのない平行線のままであったわけである。
そういう状況のところに、外国からの刺激が及ぶと、そのショックというものは、当然、社会のリーダーであるところの貴族階級を直撃するわけである。
今回、この文章をしたためるについて、いろいろな参考書を読み漁ったが、そういうものから推測すると、朝鮮の貴族階級というのは、地理的移動という事を全くしていないように見受けられる。
「未知の土地を見る」という行為を、如何にも蔑んだ行為としてみているような印象を受けるが、これは人間の基本的欲求というものに、彼らの倫理観というものが蓋をしてしまった結果だと思う。
この世に生まれた普通の人間ならば、大なり小なり、好奇心というものを持って生まれてくるのではないかと思う。
その好奇心を少しでも満たしたい、というのは人間の持つ基本的な欲求だと思う。しかし、母親から生まれた赤ん坊も、成長の過程では様々な大人の介添えを経て成人するわけで、その過程で周囲の大人の思考方法というものが刷り込まれてしまうわけである。
だから折角同じように持って生まれた好奇心も、それを伸ばす方向に育てられた人と、それを押さえ込む方向に育てられた人間では、全く違う思考方法になってしまうわけである。
朝鮮の社会では、この人間の好奇心というものを、押さえ込む方向に育てることが優先していたわけで、人々は自分の好奇心を満たすことを悪いことのように養育を受けてきたわけである。
よって、人々は自分の住む生活環境から一歩も外に出ることをせず、それが人の道として普通のことだ、と思い違いをしていたわけである。
朝鮮では道路というものが普及していなかった、ということもこれでうなずける。
そういう状況下では、内政というものはどうしても宮廷内の確執そのものが政治となってしまうわけである。
この時代、日本の明治維新頃までの朝鮮の政治では勢道政治という言葉や、垂簾政治という言葉があったという。
勢道政治というのは、権力を握った一族が、その一族郎党の全てを政治の要職につかせて、国政を私物化するというものであり、垂簾政治というのは、女性が権力者になった場合、簾の奥から王に助言をしながら政治を執り行うというものである。
こういう言葉から推察できることは、朝鮮の人々、特に王朝の担い手として、国政を司る立場の人達が統治、人民を統治する、という意識に欠けていて、身内だけの利害得失に固執し、自分さえ良ければ後は野となれ山となれ、という発想に浸っていた、ということを如実に語っていたわけである。
それだからこそ太古から道の整備が不十分で、折角徴収した税というものが、王朝の手元まで上がって来なかったわけである。
考えられることは、宮中において、先の両班という貴族階級のものが、人の足の引っ張り合いに明け暮れて、それが政治と思い込んでおり、下々のことなど寸分も考えなかったに違いない。
そして、貴族という上流階級のものが、国内にしろ、領内にしろ、地域間にしろ、移動するということが全くなく、自分の目で他人の生活とか生き様というものを見る機会がなく、見聞を広めるということがなかったからこういう事態が長いこと続いたに違いない。
我々の先人たちは、古の昔から、上流階級は上流階級なりに、下々は下々なりに熊野詣、伊勢参り、寺参りとか、防人とか、様々な理由をつけては、それなりに他所の土地を見聞する機会を自分達で作り、商取引を通じて移動していたわけで、特に江戸時代の殿様は、参勤交代という制度のおかげで否応なく移動を強いられていたわけである。
人間、旅をしてみれば、それなりに価値観の多様性を認識し、見聞を広めるわけで、そのことによって考え方の幅というものも広がり、他を思いやるという気持ちや、他人の考えている事にも寛大になれるわけである。
朝鮮の人々が狭い地域、限られた地域の中で、人の噂話に花を咲かせ、権謀術策を労し、官職の取り合いに現を抜かしていたとしたら、集団として、民族として、朝鮮王国として、李王朝として、一歩も前に進むことはあり得ないわけである。
しかし、世の中というものがそういう状況を許している間はそれでも良い。
ところが、自分の意志とは無関係に、他からの影響力というものが大きくなると、井戸の中が井戸では済まなくなってくるわけである。
朝鮮の王朝に高宗という人物が収まっていたときが、丁度、彼の地がそういう状況に晒されたわけで、自分達は朝鮮半島という井戸の中で平和に暮らそうと思っても、他から圧力がどんどん掛かってくるようになったわけで、統治者としては嫌も応もなく、それに対応しなければならなかったわけである。
高宗が王になっても、最初のうちはその父親であるところの大院君というのが対応してくれていたが、この大院君が宮廷内の確執で放り出されると、高宗自身が様々な決断をしなければならなくなったわけである。
大院君が高宗の摂政として頑張っていたときは、彼は彼なりに、従来の政治を改革する意欲は見せた。
しかし、高句麗時代から1200年以上も続いた生き様というものは、一朝一夕では修正が効かないわけで、所詮、線香花火的な改革に終わってしまったわけである。
朝鮮の人々が近代的な思考に変換するには徹底的な意識改革が必要であったわけで、その意識改革というものが未だに不十分だからこそ、今もって日本の植民地支配というものに怨念を持っているわけで、その事は、未だに朝鮮民族古来の儒教の世界に舞い戻りたいという宿念の発露に違いない。
朝鮮民族の民族的潜在意識として、儒教への懐古があるわけで、この懐古趣味が前向きに物事を考える事よりも、後ろ向きに物事を考え、過去にこだわる思考になるものと思う。
地球規模で見て、この地球上に住む人々というのは、如何なる人間も、昔には戻れないわけで、前に前にと進まなければならないのである。
その事は、我々人類の心の中、精神、ものの考え方というものも、前に前にと進むわけで、これを後ろに後ろにと戻す事は不可能なわけである。
21世紀の今日において、朝鮮の人々が、半世紀以上も前の我々の過去の行為に怨念を持つということは、人間が基本的に内包している、前向き信仰というものに逆らっているわけで、物事を前向きに考えようとする思考が少しも進歩していないという事である。
1945年、昭和20年に、我々はアメリカから2発の原爆を落とされ、それで戦争を止めざるを得ず、その後6年間にわたる占領時代というものを経験した。これは完全なる歴史的事実であるが、そのことに我々が怨念を持って、アメリカを憎んで、アメリカに協力しようとしなかったとしたら、戦後の日本の発展というものは全く無かったに違いない。
我々は怨念を越えて、敗者の悔しさにも耐え、ひもじさに耐えながら自分を奮い立たせ、自らと自らを取り巻くあらゆる世界と協力することを誓い、そういう指針で以って、頑張ってきたわけである。
2001年、平成13年の時点で、日本の経済というのは低迷しているが、これは世界のトープ・ランナーとして先が見えないことのジレンマで、日本が約半世紀間でここまで来れたのは、我々の国民の内なる力、つまり我々の持つ潜在意識としての前向き信仰の所産だと思う。
1945年、昭和20年という年は、朝鮮民族や中国の人達にとっては戦勝国として日本を十分の懲らしめるチャンスであったはずである。
部分的には武装放棄した我々に対して、そういう報復をした中国人、朝鮮人もおり、報復を受けた日本人もいたわけであるが、国レベルでは米ソに対抗しうる力は作りえなかったわけである。
半世紀前の我々の国土は、文字通り、「国敗れて山河あり」という状況で、都市は全部焼け野原で、食うものもなければ、職もなく、住む家もなく、今のホームレス以下の生活を余儀なくされたわけであるが、朝鮮の国土、中国の国土というのは、B−29による絨毯爆撃もなく、原子爆弾の投下もなかったわけで、社会的基盤整備という点では当時の日本とは雲泥の差であったわけである。
戦勝国として日本以上に世界のリーダー足りうるチャンスに恵まれていた彼らであるが、儒教という根源的な思考から脱却できないでいた彼らは、意識改革というものを否定しているものだから、近代的な発想に行き着かず、国の発展そのものがありえなかったわけである。
よって50年経ってみると、勝ったはずの自分達が、負かしたはずの日本より経済成長でいささか遅れをとっていることに気づき、カビの生えたような怨念の思考を持ち出して、日本から金をせしめようというのが、昨今の彼らの考え方の底流にあるのではないかと思う。
明治の初期と今日とでは同じ尺度では測れないが、朝鮮の人々には、民族的にこの時代の儒教思想、小中華思想というものから未だに脱却できないでいる部分があるように思う。
で、大院君というのは、従来の李王朝内にはびこっている悪しき因習を改革をしようとしたが、それが思うようには行かなかったわけである。
その足を引っ張ったのが、自分の息子・高宗の王妃、平たくいえば嫁さんとその取り巻き連中という事になる。
狭い宮廷内の確執となれば、言わずと知れた骨肉の争いとなるわけで、その事は開化派と守旧派という色分けになることは火を見るより明らかで、大院君が改革しようとしたことを、須らく元に戻そうという気運が盛り上がってきたわけである。
大院君が改革しようとした事というのは、あくまでも国内向きの政治に関してであって、彼とても視野が外に向いていたわけではない。
この時代の朝鮮では、国の外に気を配っていた人間というのは、ほとんどいなかったわけで、我々の場合ですと、江戸時代の鎖国中から、限られた情報からでも外では如何なる世界が広がっているのか、興味津々と好奇心を研ぎ澄ましていた人物がいたが、朝鮮にはそういう人間が全くいなかったみたいだ。
とは言うものの、情報というのは段々と浸透するもので、意識も徐々には変わっていくものであり、こういう朝鮮にも自らの勢道政治、垂簾政治に疑問をもち、自らの民族の将来を愁う気持ちを持った人物があらわれるようになった。
こういう人達はある意味では反体制であるわけで、言い方を変えれば革命家でもあるわけである。
日朝修好条規で日本が朝鮮を開国し、その結果として、日本人が朝鮮に足を踏み入れる機会が多くなれば、それに付随して、その影響を受けた人々が現れてきたわけである。
ところがそういう人たちというのは朝鮮側からすればあくまでも反体制であり、異端者であり、いくら心の中で同胞の将来を愁いたとしても、それを理解してくれる同胞は少なく、あくまでも少数派でしかないわけである。
こういう現象というのは朝鮮民族だけの特異なことではなく、地球上のありとあらゆる民族、ないしは主権国家内、地域内において、変革の時代を迎えるときに起きるわけで、ヨーロッパではそういう変革を経て、人権意識が普遍化し、アメリカでは南北戦争というもの経て国家意識というものが芽生え、日本ではそれが明治維新であったわけである。
1868年、明治維新でもって我々は旧体制を放棄し、新体制になったことを朝鮮の李王朝に通知しようとして起きたのが書契問題であり、その朝鮮側のけんもほろろな対日対応の屈辱に耐え、清帝国の顔色を伺いつつ成した台湾出兵では成果を収め、その勢いで江華島事件を契機として朝鮮に開国を迫ったのが1876年、明治9年の日朝修好条規であった。
この条約に従い日本との折衝が多くなると、当然、朝鮮側にも日本から感化される人間が出てくるようになったわけである。
ある意味では文化の伝播であり、相互理解の端緒でもあったわけである。
今の韓国が、ついこの前まで、つまり20世紀に最後の最後まで、日本の文化を拒否しており、日本の文化をマスコミで報ずることを禁止していたが、戦後の日本の文化というものは、電波というものを媒介していくらでも先方に入っていたわけである。
こういう政府の処置、統治するものの独り善がりな独断というのは、全く無意味なわけで、そういうことを第2次世界大戦後50年以上も、そして20世紀の末まで続けていたと言うことは、政府の政策として全くの愚策であったわけである。
20世紀という科学技術の世紀において、科学の力というものに目をつぶって、念力さえあれが他所から入ってくる文化も阻止し得ると思っていた証拠である。
それは反日感情を煽り続けるための、ただ単なる大儀のみで、いわゆる朝鮮民族として、対日感情は悪く持たなければならない、という彼らの差別意識、優越感の裏返してしての劣等感を忘れないようにするためのプロパガンダに過ぎなかったわけである。
戦後、東西冷戦の最中、東欧諸国の自由主義への憧れ、東西ドイツの再統一の根底には、西側陣営の科学の輝かしい発展に裏付けされた、マス・コミ二ケーションのハードとしての限りなき発展があったわけで、それは国境という壁や、イデオロギーの壁とは関係なく、人々の意識の覚醒を促したわけである。
それと同じ事がこの時の朝鮮にも起きたわけで、条約にもとづき日本人のなかで朝鮮に渡る人が多くなると、それを見聞きして、自分達の生き様に疑問を感ずる人が出てくるのも自然の成り行きである。
このとき朝鮮の政府、李王朝の宮廷の中というのは、大院君、そしてその息子・高宗、そしてその嫁さんの一派が複雑に利害関係を絡め、三つ巴の混乱を極めていたわけである。
大院君、高宗、閔妃一派と三つ巴の宮廷内権力抗争が起きていたわけである。
この三つ巴の権力抗争を色分けしてみると、大院君というのは従来の枠の中で腐敗を撲滅し、儒教思想の中で秩序を立て直そうと図ったわけであるが、その対極にいたのが閔妃一族で、これは徹頭徹尾、清に寄りかかって、清の保護下で生きていこうという発想であったわけである。
その中間点に高宗がいて、中間点なるが故に一番日和見で、あっちに傾いたり、こっちに傾いたり、定点が全く無かったわけである。
これで分かるように、この三派が三派とも、視野が外に向いているものは一つも無かったわけで、ここの朝鮮民族の悲劇が潜んでいたわけである。
こういう状況下では、正式な、そして名実ともに王であるべき高宗がしっかりしておれば、こういう内紛というのは抑え切れるはずである。
惜しむらくは、高宗にはそれだけのリーダー・シップが欠けていたということである。
こういう状況下で、日本の影響を受けた人物の中に、金玉均(キム・オクキュン)という人がいた。
彼は李王朝の王であるべき高宗の庇護のもと、日本を見聞し、当時の日本のキー・マンとも親交を得、従来の朝鮮の生き様からの脱却を図ろうとした。
当然、日本としては、この金玉均をフォローしたわけである。
よって、金玉均は1884年、明治17年12月4日、宮廷内クーデターを起し、玉であるところの高宗を取り込んで、革命を挙行しようとした。
このクーデターには日本の軍隊もフォローするはずであったが、我々の側にも、それなりの理由があって、完全にはフォローできなかったわけである。
このクーデターは、反乱側に王、王としての高宗を取り込んでいたので、基本的には成功するはずであった。
しかし、悲しいかな、その王そのものが優柔不断で、拳を振り上げたまでは良かったが、それを下ろす場が無く、クーデターそのものが腰砕けになってしまった。
それには、妻であるべき閔妃の懐柔が奏を効したこともあるが、彼ら王朝を取り巻く人々、乃至は政治を司るレベルの人達が、改革の必要を認識していなかったということが大きな原因であった。
(資料・幻に終わった朝鮮維新、参照)
我々の戦後の日本の政治でもよく散見できることであるが、既得権を持っている人々というのは、革新という事を非常に遺棄するわけで、自分の既得権益を失う改革には極めて冷淡なわけである。
、
それと同じ事がこの場面で起きていたわけである。
既得権益に何時までもしがみついていると、組織そのものが消滅してしまうにも関わらず、それでもそれを変える勇気がなかったわけである。
行き着くところが組織の崩壊そのものである。
金玉均のクーデターは甲申(かぶしん)政変と呼ばれたが、この事件に日本が関与しきれなかったのは、清の存在があったからである。
清はこのときフランスとアンナン、今のベトナムと戦争をしていたが、この年に双方で和解が成立してしまったので、日本が朝鮮に出ても清は出てこないであろう、という日本側の目論見が狂ってしまったわけである。
まだ日清戦争の前の段階で、日本にとっては清の実力というものを測りきれなかったわけである。
清が横槍を入れて来るようなことになればこれは事だと思ったものだから、金玉均を積極果敢に支援することが出来なかったわけである。
そういう事情で日本側が躊躇していると、閔妃一族の要請を受けて清軍が漢城・ソウルに進軍してきたわけである。
よって漢城・ソウルの宮殿をはさんで、日本軍と清軍が対峙することになったわけであるが、清の実力を読みきれなかった日本軍が、清の全面介入を恐れ、クーデターから一歩引いてしまったわけである。