朝鮮の開国

明治8年(1875年)江華島事件

江華島事件というのは、我々の側が無理やり韓国の門戸を開放させた、といわれても致し方ない面がある。
しかし、そうは言うものの、それをしなければ我々の側の安全保障というものが危機に瀕する、という危機感にさいなまれ、緊急課題と思い込むのも自然の成り行きであったが、我々の側としてみれば、他民族を支配するという意味よりも、お互いが協力し合ってアジアにおいて共存共栄をしたい、という願望も併せ持っていたことも事実である。
ところが、それを頑なに拒んでいたのが当時の朝鮮であったわけで、その意識改革を促すにはやはり強硬手段もやむなしという状況ではなかったかと思う。
朝鮮というのは、歴代清国に朝貢していたわけで、この朝貢というのは朝鮮の側が勝手に貢物を清に送っていただけで、貢物を清に送れば、清はその見返りに朝鮮の安全保障を肩代わりしてくれる、というものでもなかったわけである。
積極的な「侵略はしませんよ」という程度の安全保障は確約されていたかもしれないが、朝鮮が第3国から威圧を受けた場合にも、その安全を守る義務はなかったわけである。
清の側からすれば、持ってくるものは素直に受け、その返礼として少々の土産も渡すが、「ただそれだけのことですよ」というわけである。
しかし、朝鮮の側からすれば、朝貢をした以上、一挙手一統足に清の指示を仰がなければならない、と思い違いをしていたわけである。
身も心も朝貢国に寄りかかっており、自らは何一つ決定する意思を持たなかったわけである。
民族自決という概念を全く持っていなかったわけである。
それが事大主義と呼ばれるもので、伝統と因習にがんじがらめに束縛されて、それからの逸脱がご法度であったわけである。
先にも述べたように、日本が明治維新を経て国家体制を新しくした旨を記した国書を朝鮮に送っても、先方は全く誠意のない対処の仕方をしたものだから、我々の側では急遽、「朝鮮何するものぞ」という気概が起きてしまったわけである。
それを助長したのが、維新後最初の海外派兵としての台湾征伐というものが成功裏に終わったことも起因していると思う。
江華島というのは朝鮮半島の西側の丁度真中辺り、今のソウルの西にあるほんとに小さな小島で、1875年、明治8年、維新後出来たほやほやの日本海軍の小さな砲艦雲揚と第2丁卯の2隻が、この江華島の周辺を遊弋し、測量とか薪炭の補給とかをしていたが、それに対して朝鮮が敵対行動に出てきたのを幸いとして、逆に攻撃を仕掛けたわけである。
ある意味で、向こうから先に攻撃を仕掛けるよう、挑発したといったほうが妥当かもしれないが、そういうことをしておいて、外交の席に先方をつかせたわけである。
これはアメリカのペリーの使節が日本に行ったことと全く軌を一にしているわけで、鎖国状態の国を開国させるにはこれしか道がなかったわけである。
ある意味では致し方ない手法である。
なんとなれば、話し合いのテーブルにつこうとしない相手に、何とかしてテーブルにつかせるためには、こういう手法しかなかったということでもある。
日本の鎖国でも、それを開かせるためにはアメリカは砲艦で脅すしかなかったわけで、それと同じ手法を日本が取ったわけである。
この戦闘というのは、今の時点から見れば、まるで小競り合い程度のものであるが、これをきっかけに日本は朝鮮にその鎖国政策をやめさせたわけである。
ここから朝鮮の人々の排日・抗日というものが潜在意識として刷り込まれたようにみえるが、基本的には、朝鮮の人々の排日・抗日意識というのは、こういうきっかけがなくとも民族の潜在意識として刷り込まれていたのかもしれない。
ただ「民族の潜在意識として生来もちあわせている」では、この今日的な民主主義の時代に差別意識を助長しているように捉えかねないので、何らかの動機が必要なわけで、便宜上、こういう歴史的事実を持って、排日・反日の根拠としているように思える。
問題は、その後の外交交渉であるが、ここでも日本は朝鮮の処遇に関し、清国の承諾というか、了解というか、清の意向を充分に勘案し、当事者同士の話し合いの前に、宗主国としての清の意向を正している。
そしてそれについても、西洋列強の意見を勘案しながら、我々だけで独断専行するという暴走を充分に自重しながら、周囲の状況に気配りしつつ、清国と交渉にあたり、その了解のもとに朝鮮に対して交渉をしているわけである。
この日清間の交渉において、朝鮮の立場というのは、完全に清国から裏切られているわけである。
清の側からすれば、朝鮮は勝手に朝貢し、冊封関係を結んでいるだけで、まさしく「化外の地」でしかない、というすげない弁明であったわけである。
「化外の地」ではあっても、日本がそれを統治するのは罷りならぬ、という清の身勝手な言い分であったので、結果的には日本は朝鮮の自主独立を維持するということで折り合いがついたわけである。
こういう宗主国の真意が読み取れなかった朝鮮の側というのも、ある意味では怠惰であったといわなければならないが、それも儒教思想で凝り固まって、発想の転換というものを極力抑圧してきた報いである。
それで日本側としては朝鮮の独立、その事は即ち朝鮮の鎖国をやめさせ、開国を迫るという手順に至ったわけである。
この時、日本側として清国の意向を充分に聞いたということは、その実体の裏を返せば、我々の側にも確たる自信がなかったわけで、それで清の了解を得た上で行動に出たわけである。
明治維新を経てわずか10年もしないうちに、他所の国に乗り出していこうとするからには、極めて慎重にならざるを得なかったわけである。
それで雲揚号を朝鮮の都の近くに派遣して牽制したわけであるが、その牽制にまんまんとひっかかってしまったのが、李朝内において大院君を退せた閔妃一族であったわけである。
同じ時系列では日本側も決して安定していたわけではなく、不平士族の反乱は日本のいたるところで起きて、その最後のものが西南戦争であったわけで、決して政局が安定していたわけではない。
そういう意味では、朝鮮としても同じ事であったわけで、西洋列強の圧迫に対して、大院君というのは果敢に抵抗し、従来の現状を維持するという意味ではある程度、日本よりも上手に対応していたわけである。
そして、日本が朝鮮に圧迫を加えようとしていた時には、この大院君は政局から引き剥がされ、次男の高宗の嫁の一派が政局を牛耳っており、その政府と日朝修好条規が取り交わされたわけである。
ただ惜しむらくは、いくら李朝内で政局の混乱があったとしても、それで視野が外には全く向かなかった、という点に朝鮮民族の悲劇があったわけである。
で、日本側は雲揚号で挑発しておいて、外交というテーブルに相手をつかせたわけであるが、この時でもまださほど露骨な態度で臨んだわけではない。
いわゆる我々が西洋列強から受けたのと同じ程度の要求であったわけであるが、これを今日の価値観で評価すれば、確かに妥当とは言い切れないが、時代が120年も前のことと考えれば致し方ない。
日本側の要求を具体的に述べると
  1、日本と朝鮮は永久の親睦を盟約し、対等の礼を以って交接すべし。
2、両国民は両国の定める場所にて貿易をすること。
3、朝鮮政府は釜山において日本人の商業を許し、ソウル近郊において日本人が居住したり貿易をすることを許すべし。
4、日本の軍艦や商戦が測量することを許すべし。
5、漂流民は相互に扶助すべし。
等々の文面はいずれも日本がかってアメリカをはじめとする西洋列強と取り交わしたことと類似しているわけで、我々の経験則から出た発想である。
しかし、当時の朝鮮サイドでは、これが不平等条約という認識が全くなく、それだけ「井戸の中の蛙」状態が続いていたのである。
これで朝鮮は今までの鎖国の状況から抜け出して、開国となったわけであるが、国を開くという事になると、朝鮮の人々にとっては新たな試練を経ることになるわけで、ものの考え方というものを根本から改めて考え直さなければならなくなったわけである。
この切り替え、つまり発想の転換というものを、我々は素直に、かつ迅速に行ったが、朝鮮の人々はこれがスムースに進まなかったわけである。
ある意味では無理もない事ではある。
なんとなれば、彼らから日本を見れば、日本の方が文化の面ではるかに川下なわけで、その川下の方から無理やり門戸を開かされれば、面白く思わないのも当然なことだと思う。
彼らにしてみれば、清の方向だけ向いていれば安泰だと思っていたところに、その川下のほうから無理やり開国をせまられれば、憤懣やるかたない心境にもなろうというものである。
何度も言っているように、朝鮮の人々にとって最大の不幸は、その事大主義なわけで、自分で自分のことが決められないという点である。
日本が国書を渡して「仲良くやりましょう」と言っているにもかかわらず、清に気兼ねして、一向に自分で決心できず、ぐずぐずしていたものだから江華島事件という武力衝突にまで行ってしまったわけで、このときに毅然と決断しておればこういうことにはならなかったに違いない。
(資料・江華島事件参照)

他から学ぶという謙虚さ

日朝修好条規というものは日本側からすれば朝鮮を開国させたように見えるけれども、これは明らかに不平等条約なわけで、日本もこういう不平等条約を解消し、名実ともに対等な立場に立てたのは、鹿鳴館時代という西洋列強の猿真似に等しく、西洋文化に少しでも迎合しようとする、むなしい努力の後なわけで、そういう努力の結果、西洋列強と対等という立場を確保したわけである。
それまでして西洋に迎合しないことには、対等という立場はあり得なかったわけで、その背景にあるのは、武力の相違というパワー・バランスであった。
鋼鉄の船に搭載した何門という大砲に対して、関が原の合戦と同じレベルの武器、いわゆる刀と槍では、そのパワー・バランスの相違というものは歴然としているわけで、それと同じ事が日本と朝鮮の間にも起きたわけである。
結果的には、日本が朝鮮の鎖国を止めさせた、という図式が成り立つが、その当時の日本の内情というのは、そう簡単なものではなかったわけである。
日本の立場に立ってみると、西洋列強とは明らかにパワー・バランスの点で見劣りがするのを自覚していたが、西洋以外の諸地域に関しては全く想像もできなかったわけで、その最大の心配事は清帝国の実力であったわけである。
そのために台湾に出兵する際にも、朝鮮と外交関係を樹立する際にも、清との話し合いをしたのちに行為を行っているわけである。
この時代のアジアにおいては、国家主権という意義が全く存在していなかったわけで、そもそも今の我々の概念でいうところの国家という概念さえも確立していなかったわけである。
国家という概念がないのだから、必然的に国家主権という概念も存在していなかったわけである。
朝鮮と清の関係というのは宗属関係というもので、朝鮮の方は清に貢物を朝貢すれば、清は朝鮮の人々の安全保障も請け負ってくれるもの、と勝手に思い込んでいたが、清から朝鮮や台湾を見れば、あの地域は「化外の地」で、当方は関知しないというものであり、相手が勝手に朝貢に来ているだけだ、という全く無責任な話であったわけである。
それでいて日本が新たにこの地を管理運営するとなると、「それはならぬ」というわけで、自分のほうに災禍がかかりそうな時は「化外の地」といって逃げておきながら、他所がその地を隷下に治めようとすると、「それは罷りならぬ」というわけである。
これ即ち中華主義の真骨頂である。
中華思想の上に儒教思想が覆い被さっているものだから、他から学ぶということが全くないわけで、自分以外のものは全て「化外」なわけで、これでは近代化した社会が作れないのも致し方ない。
昨今の人々の頭の中には、世界的な規模で、必ずしも近代化ということを是認する風潮を批判する傾向があるが、これは富める者の贅沢に他ならない。
近代化を否定すれば、今のポリネシアの人々や、アフリカのマサイ族の生活を理想としなければならず、現代人がああいう生活に戻れるであろうかと問えば、答えは「否」と出るに違いない。
ポリネシアの人々や、マサイの人々は、近代化に取り残されてきたものだから、今、宙ぶらりんな立場に置かれ、近代科学と古代文化の狭間で放浪しているわけである。
人間の生活、人類の生き様というのは、古代より連綿と近代化をめざして来ているわけで、より良く、より便利に、より豊かに、より快適な生活をめざし、日夜努力をしてきたわけである。
江戸時代の日本が西洋列強のパワー・バランスに屈服して開国し、明治維新を成し遂げ、西洋と同じような近代化の道を走りだしたということは、人間の欲求として、より良い生活にあこがれ、自分達も自分達の手でそういう快適な生活を実現したい、という人間的な欲求に根付いた運動であったわけである。
我々は便利なものを目の前に見たとき、自分達もああいう便利なものを手にしたい、という欲求に駆られる。
これを軽薄という事であざなうこともできるが、逆に進取の気性に富んでいるとも言えるわけで、又、好奇心旺盛とも言うことができる。
ところが中国や朝鮮の人々は、目の前に珍しいものが現れると、まず最初に拒否反応を示し、排除し、関わりたくない、という発想が先にたつわけで、それを受け入れることを忌み嫌うわけである。
これが中華思想の根本のところにあるわけで、その上に被さっている儒教思想というものが、古来の因習を重んじ、改革を拒否することを信条としているものだから、世の中が前進するという事がない。
恐らく近代化という意味も解していないのではないかと思える。
我々は将来の夢を実現しようとして、その手段・手法としてあらゆる情報を酷使、使えるものは何でも利用し、創意工夫をし、過去にはとらわれない生き方を信条としているが、中国や朝鮮の人々というのは、将来よりも過去に重点をおき、過去の追憶にふけりながら生きているわけで、将来よりも過去のほうが大事なわけである。
この生き様の違いというのは21世紀における今日でも生きているわけで、あの第2次世界大戦、大東亜戦争、日中15年戦争というものが終結して半世紀以上も経とうとしている今日においても、あれを回想し、追憶に浸りながら、被害者意識に耽溺しつつ、外交の切り札として、我々の側に朝貢させようとしているのである。
つまり21世紀の地球において、なおかつ日本との関係において、冊封体制の復活を夢見ており、日中関係というものをその延長線ぐらいにしか見ていないわけである。
中国側から見て日本に朝貢させるには、半世紀以上も前の「侵略の行為を償え」という形を強要することによって、朝貢のための切り札としているわけである。
この切り札がないことには中国側としては日本に朝貢を強要できないわけである。日本も日本で、この明治維新のときと同じように、先方から何か言われるたびに過敏に反応し、日本が過敏に反応する事によって、先方は日本に対する影響力を確認しているわけである。
将来の夢の実現にまい進する民族と、過去の追憶に浸って後ろ向きに生きている民族では、おのずから道の開きが大きくなるわけで、ただ21世紀に入った時点では、日本にはその夢というものがなくなってしまったわけである。
マラソン・レースで、順位が下のときは目標というものが存在し、その目標に追いつき追い越すことが未来の夢でありえたわけであるが、自分が先頭になってしまうと、その目標というものを見失ってしまうわけで、目標が定まらないので、将来の夢というものが見えなくなってしまったわけである。
人間の英知というのは尽きるところがないように思うが、今日においては、物質的なものはある程度満たされているわけで、これ以上の物質的な富というものは不要な時期に来ている。
今、我々、人類にとって必要なものといえば、精神的な安定を望む心ではないかと思う。
人と人が殺しあって領土を広げるという発想は過去のものとなったわけで、人類に残された最後の欲望というのは、人と人が殺しあう事無く、平和に仲良く暮らすことではないかと想像する。
こういう発想を披瀝すると、すぐに軍縮とか、安保反対とか、自衛権うんぬんという論議に擦り返られてしまうが、中国や朝鮮の人々が帝国主義というものに蹂躙されたのは、こういう平和思考に酔いしれて、他人はどう考えているのかという事を考えなかったからである。
中華思想というのは、漢民族のみが全宇宙を支配しうるものだ、という思い上がりであったわけで、地球上には多様な考え方というものが五萬とあるわけで、全宇宙がたった一つの考え方で成り立っている、と思ったのが大きな間違いであったわけである。
思い上がった思考の足元を掬う事態というのはいくらでも存在するわけである。人と人が殺し合う事無く平和裏に生きるためには、それなりの備えが必要なわけで、そういう備えをした上での話である。
考え方がいくら違っても、争いを避ける事は可能なわけで、争いを避けるためには、お互いが話し合いを重ね、相手の考え方というものを理解しあうことが必要なわけである。
そのためには有力なカードというものを持つ必要があるわけで、そのカードとしてもっともポピュラーなものが言わずと知れた武力であるが、武力のみがカードというわけではない。
経済力とか、地理的条件とか、外交手腕とか、宗教というものも充分の話し合いのカードとしては有効なわけで、何を以って自らのカードにするかは、それぞれの民族の判断によるわけである。
けれどもそのカードを如何に使うかは、話し合いのテーブルについてからの問題なわけで、明治維新当初の朝鮮は、日本とのその話し合いのテーブルにつく事さえも、遺棄したわけである。
そうなれば最後には武力で言う事を聞かせるほかなく、戦争という事になるわけである。
そうはいうものの、この時点ではまだ戦争という強硬手段には発展しえず、小競り合い程度の紛争を仕掛けておいて、後は外交という手段で解決を見ようとしたわけである。
昨今、朝鮮の人々が日本の支配を糾弾するに姦しいが、その遠因は、自らの自己改革に遅れをとった、という面が多々あるわけで、この江華島事件も、朝鮮側が彼らの民族の危機としての危機感にさいなまれて、一致団結して対処すれば、恐らく日本側が手を引いたに違いない。
なんとなれば、当時の日本というのは、明治維新を経たとはいうものの、極めて不安定な状況であったわけで、海軍の軍艦といったところで、第2次世界大戦のときの軍艦とは比べ物にならず、我々の側でも非常に心細かったに違いない。
そういう状況であったればこそ、清国とも話し合い、西洋列強の顔色を伺いつつ、外交という場で、ブラフを噛ましたわけである。
いわばハッタリをかましたわけで、こういう時に、内に腕力の無い者はあっさりと屈服してしまうわけである。
前から何度も言っているように、この時の日本というのは、非常に不安定な状況であったわけで、対外戦争などできる筋合いではなかったわけであるが、そういう面をひた隠しにして、外交のテーブルについたわけである。
こういう芸当が出来たのも、ある意味で、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ等々の西洋列強との今までの交渉の結果、習得したテクニックであったわけであり、こういうことが出来るようになった背景というのは、やはり「相手から学ぶ」という謙虚な態度があったからだと思う。
それにしても、我々日本も、非常に高価な授業料を払ったわけで、我々の無知を克服して、西洋列強と本当に対等な立場を得るまでは涙ぐましい努力があったわけである。
しかし、そういう苦労の末とはいえ、その努力が実ったわけで、それはやはり我々の持つ根本的な思考の中に、新しいものは素直に受け入れるという柔軟な考え方があったからである。
我々は、前に前にと進みたがるわけで、我々のそういう思考は、やはり大和民族の持つ宝と思っても差し支えないと思う。
ところがこれから約半世紀、昭和の時代になると、この我々の「相手から謙虚に学ぶ」という思考が薄れ、それまでの間に成すこと全てが苦労の末とは言うものの全て達成されたものだから、我々は大いに慢心してしまったわけである。
自分の実力に自信がなく、西洋列強のパワー・ポリテックスに畏怖の念を持っている間は、周囲の人々に非常な気配りをしながら事に当って来たが、自分が慢心してしまうと、そういう周囲への気配りを忘れてしまって、尊大になり、相手を見くびり、見下し、侮り、自分の実力に奢ってしまったわけである。
そのことで世界の中の孤児となってしまい、奈落の底に転がり落ちてしまったわけである。

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