朝鮮の開国

日本とアジア2 平成13年3月11日

画餅に終わった日本の理想

IT(インフォメーション・テクノロジー)革命という事が叫ばれるようになって久しいが、このITというものは非常に便利なものである。
こういう電子機器というのは年寄りには使いきれない、というのはいわば迷信で、今までの年寄りというものが、自らこういうものに挑戦しなかったから、先入観で「使い切れない」と思い込んでいるだけのことである。
使ってみればこれほど便利なものも又とない。
何処の世界でも、又どういう民族でも、年寄りというのは保守的で、新しいものに挑戦するという傾向に尻込みをしがちであるから、年寄りには向かない、という世評が出来上がっているが、使ってみればこれほど便利なものも他には見当たらない。
そういうわけで、インターネット上で、私の求める主題について検索してみると、実に立派な論文がこのインターネット上にはいっぱい散見できることに気がついた。
よって、そのインターネット上の論文を開いてみると、私の言わんとすることがそのまま載っているので、この項からはそういうものを掲載することにした。
当然、そういう論文には著作権というものがついて回るわけで、著作権というものは、人の論文をさも自分で考えた思考であるかのごとく掲載したときに問題になるわけで、その論考が「何の誰べえの論文である」という旨を明記すれば、著作権の侵害にはならないであろうと、自分勝手に解釈して利用させてもらうことにした。
それに私の文章など出版されるものでもなく、あくまでも私の自己満足の内に内包されてしまうもので、著作権をうんぬんするまでもないと思う。
よって、そういう視点からこのインターネットというものを見てみると、もうあらゆる研究対象に関し、書物というものは不要になった感がある。
参考書を調べたり、図書館で盲滅法書物を探し回る、という苦労というのは綺麗に払拭されてしまっている。
先の「隣国朝鮮と日本」の項では、観念的なことを記述して、それ故に私が日ごろ頭の中で考えていたことがそのまま文面に表れているが、この項以降というのは、人様の考えたことに私なりの考えを追加して、自分の論考を築き上げようと考えています。
その根本の主題は、何故、かっての日本が、朝鮮を支配するようになったのか、という点が私の一番興味ある観点であったので、それをキー・ワードとして、インターネットを検索してみると、さまざまな面白い論文が手元に現れた。
2001年、平成13年3月の時点で、日本の歴史の教科書に関して、再び中国と韓国からクレームが付けられ、その度毎に日本の政府は右往左往し、あっちの顔色をうかがったり、こっちの顔色を伺ったりしているが、明治初期の日本というのは、こういう軟弱な思考にはなっていなかったに違いない、と今の今まで思っていたが、これが案外見当違いで、明治初期の日本というのは、中国にも韓国にも大変な気配りをしていたことが分かった。
21世紀に至っても、尚日本がこういう国々に対して、顔色を伺いつつ、国際情勢の中を遊弋しなければならない状況は、日本が先の戦争に負けたという事から未だに立ち直っていないからだ、と思い込んでいたが、日本というのはアジアの諸国に対してもともと非常な気配りをする習性があったようだ。
それと同時に、アジアの人々の方は、こちらが弱みを見せると何処までも付け上がってくる、というのが人間の摂理であるということを充分に理解し、その摂理によって我々に向かってくるので、こちらの対応もそれに合わせなければならないわけである。
その事は、相手の脅しには、こちらも脅し返さなければならない、という単純な事であり、この単純な事を素直に行為に移さないと、相手はいくらでも高飛車になるということである。
逆説的ではあるが、こういう状況を作ってはならないという発想が、明治維新以降の日本の富国強兵という国策の下にあった、ということを考えてみる必要があるようにと思う。
「蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も眠れず」という状況から脱出するには、富国強兵しか道がないと思ったのも、そのときの状況を考えてみれば致し方ないことで、歴史というものを「善悪」とか「侵略した、しない」とか、「正義・不正義」という視点で見るとしたら、歴史というものは語れなくなってしまう。
その上、「歴史への反省」という事を言われると、もう歴史そのものを否定しなければならないことになる。
そもそも主権国家として、よその国の歴史をうんぬんすること自体、僭越な行為といわなければならないが、この韓国と中国の人たちには、そういうこと自体が理解されていないわけである。
こういう人々に対して、「弱みを見せるとつけ上がってくる」ということは、倫理的に精神状態の未発達な民族と言ってしかるべきであるが、今の我々、日本というのは、そういう認識を自ら否定しているわけで、これでは相手が言いたい放題のことを言っても、何一つ反論できない状態というのが今日の我々の姿である。
このこと自体が、既に主権国家同士のあり方としていびつなわけで、主権国家というものに倫理というものがあるとすれば、相手国の過去の歴史を説いたり、相手国の教科書に嘴を挟むこと自体が不遜な行為である、ということを悟るべきである。
こういう悟りを開かずに、何時までも被害者意識に凝り固まって、相手の国家主権を侵害するようなことを繰り返すということ自体が、既に後ろ向きの思考なわけであり、将来に向けての良好な善隣外交というものを頭から否定しようとしていることである。
日本の過去のあらゆる文献とか法令というものを紐解いてみても、こういう近隣諸国を隷属させよう、などと不遜な思考に至ったことは全くないにもかかわらず、朝鮮の人々は、日本から圧迫され、迫害を受けた、という被害者意識を振りかざしているわけである。
我々の先人達の理想としていた状況というのは、あくまでもアジアの開放であったわけで、それはヨーロッパの先進的な列強に対し、日本を含むアジアからヨーロッパの帝国主義的抑圧を排除しようというものである。
ところがアジアというのは極めて多様性に富んでいたわけで、お互いの民族の間に文化の面、ひいては思考の面でさまざまな格差が存在しておいたわけである。そういう状況のもとに押し寄せてきたのが西洋列強ということであるが、既に近代化を成し遂げた西洋列強諸国という立場からすれば、アジアの多様性というのは、弱いところのみを選択して支配すれば、それで彼らの目的であるところの富の収奪という事は達成できたわけである。
なんとなれば、ヨーロッパ列強からアジアを見れば、アジアというのは富の狩場に過ぎないわけで、富さえ得られれば、アジアの人々が死のうが生きようが関係なかったわけである。
ところが遅ればせながら近代化を達成しつつあったアジアの中の日本というのは、ただたんなる富の狩場としてアジアを見るのではなく、あくまでもアジアの中でアジア人の共存共栄を図ろうとしたわけである。
しかし、こういう理想というのは、いくら口で説いても、相手がそれを理解する度量がないことには画餅に終わってしまうわけで、20世紀のアジアの状況というのは、日本の理想が画餅に終わった全過程だと思う。

明治維新初期の日本と朝鮮

ペリーが始めて浦賀に現れたのが1853年で、そのときの日本の政治というのは、京都に朝廷を置き、江戸では幕府が政治の実権を握っていたわけである。
ところがペリーが現れたときの我々の方の政治の実情というのは、この江戸幕府の実権が既に砂上の楼閣として、実質を伴っていなかったわけである。
そのとき実質的に力を持っていたのは、西南の雄藩と称する地方であったわけで、その後の約10年間というものは、この地方の勢力が中央の実権というものを代替する過程であったわけである。
そこでこの地方の力を結集し、江戸を中心とした幕藩体制としての中央政府というものを倒し、京都にいた天皇というものを担ぎ出し、新しい体制を組み立てたのが明治維新であったわけである。
このことは明らかに、まぎれもなく偉大なる革命であったわけである。
革命には当然流血が伴うわけで、我々の大革命も、多大なる同胞の血が流れた事は論を待たないが、その革命を仕上げて新体制を作るには、一つの象徴が必要であったわけで、その象徴として京都にいた天皇というものを利用したわけである。
そして、旧体制の幕府というものが、政治の実権を天皇に返還します、というのがいわゆる大政奉還であったわけである。
日本は古来天皇が国を治めていた、ということは神話の時代にまでさかのぼるまでもなく歴然たる事実だ、という事をこの4つの島に住んでいる人はすべて知っていたからこそ、この大革命はスムースに運んだわけで、この大革命は異民族による征服という筋合いのものではなかったわけである。
それまでの考え方というのは、統治ということはもともと天皇がするものであるが、それを武士階級の総大将であるところの征夷大将軍が成り代わって執り行っていた、という解釈を万人が知っていたわけである。
それを元に戻すというだけのことであるが、そういう状況になさしめたのは地方の力の台頭であったわけである。
後に本論のテーマになる朝鮮の人々の間では、この地方の力の台頭という事がなかったわけで、その事はとりもなおさず、封建思想、封建的な制度というものを経ずに時代を経過してきたという事に他ならない。
江戸幕府、徳川幕府というものが政治の実権を天皇の返納してみても、日本を取り巻く周囲の状況というものは一向に変わるわけではなく、西洋列強の圧力というのは、そういう日本の国内事情とは無関係に押し寄せてきたわけである。
それに対応するにはやはり西洋列強と同じような主権国家という思想、思考、ものの考え方、概念の確立というものを彼ら先進国に合わせなければならなかったわけである。
つまり、我々が今まで疑いもしなかった封建思想というものを、西洋列強と同じ近代化した思考というものに合わせなければならないわけで、その事は、今まで自分達が固執してきた考え方というものを放棄して、新しい思想に順応しなければならないということである。
ものの流れとして当然といえば当然のことである。
1868年、明治元年・日本は今まで徳川家が政治の実権を握っていたものを天皇に移したことを内外に宣言し、西洋列強と同じ主権国家という概念を確立したわけである。
この主権というものは、概念上の産物で、実体として形あるものではない。
目に見える形はないが、その中には民族の誇りとか、自尊心とか、優越感という、又その逆に、差別意識とか、人間の持つもろもろの潜在意識を内包するもので、近代の社会では極めて重要な思考の一つとなっている。
天皇を戴いて、その天皇が日本の古来の4つの島を統治する統治者であるということになると、その事を内外の周辺諸国に周知徹底させなければならなかったわけである。
この時、我々の先輩諸氏が偉大であったことは、その前の江戸時代において、幕府と取り交わしたすべての条約をそのまま遵守する、ということを決定したことだと思う。
その事は、信義の問題で、当時の我々にとって不利な条約を敢えて反故にせず、信義を貫き通したという点は大いに賞賛に値すると思う。
こういう状況下で、日本は隣国である朝鮮にも、「今までは徳川幕府が日本を代表していたが、今後は天皇を中心とした主権国家として行きます」、という書簡を送った。
それに対する朝鮮側の対応が、その後の両国の禍根の元となったわけである。
日本が新しい国家になったとはいうものの、早々急に新旧体制ができるわけもなく、朝鮮に書簡を送ったとはいうものの、その使節には旧来どおりの対馬藩の人間があたったわけである。
ところが、朝鮮側では、そういう日本の西洋列強に対する処遇が不満であったわけである。
それもある意味では致し方ないわけで、日本は西洋列強というものにコテンパンに痛めつけられて、西洋列強の偉大さというものを悟らざるをえなかったが、朝鮮の方は、そういう列強を追い返した実績があるものだから、彼らから見ると、我々の方は旧来の思想を投捨てて、西洋列強に迎合したように見えたわけである。
それで対馬藩の人間が国書を持って朝鮮に渡っても、 誠意ある解答を示さなかったのである。
つまり1868年・明治元年12月19日、対馬藩の家老樋口鉄四郎一行が釜山に行き、草梁倭館に逗留、同21日より、先方の担当者・訓導・安ドンジュンと交渉を開始したが、先方は最初から聞く耳を持たないわけで、樋口鉄四郎が正規の使節でないとか、書契中に違格の文字があるとか、更には国璽の印についても疑義を差し挟む、というような口実でもって、この国書そのものを受け取ろうとしなかったわけである。
(資料・書契問題参照)
先方は、最初から日本と対等な関係をもつ気がなかったわけで、理由は何とでも勝手にこじつけていたわけで、当時の朝鮮がこういう態度に出る背景は、やはりそれなりの先方の事情というものがあったわけである。
しかし、それが後々自らの首をしめることになったわけであるが、1945年、昭和20年、日本の敗戦というかたちで、朝鮮の人々が日本からの頚城を脱してみると、再びこの唯我独尊的な思考に舞い戻ってしまって、自らの民族の発展性というものに自ら蓋をしてしまったわけである。
つまり、明治時代において、我々、日本の側は、近代思想とか、資本主義とか、工業生産という西洋先進国の有り体に一歩でも近づこうと努力したが、彼ら朝鮮の人々は、そういう思考に対して後ろ向きの発想に陥ったまま、それから抜けきれなかったわけである。
今、中国や韓国は、日本の歴史の教科書について、いらぬ干渉をしているが、この根底にある思考というのは、この明治維新の時、日本が朝鮮に対して日本の状況を説明したときの態度と寸分も変わらないわけで、先方側としては、日本とは「関わりたくない」ということの証左なわけである。
しかし、地理的条件を勘案すれば、いくら関わりたくないと思っても必然的に関わらねばならないわけで、そういう場合に、あくまでも唯我独尊的にありたいという願う思考があるわけで、そのことを平たく言えば、相手はどうあろうとも、自分だけは損することなく得をしたい、という発想に尽きると思う。
つまり、善隣外交の否定、隣近所などと仲良くしたくないということに他ならない。
この時の日本の状況というのも決して安定していたわけではない。
新政府は出来たばかりだし、それに付随して組織そのものも変革の途中であったし、財政的にも決して豊かではなく、そういう状況だからこそ、近隣諸国とはトラブルを起したくなかったわけである。
それだからこそ隣国の朝鮮に対して善隣外交を期待し、敵対関係を排除したかったわけである。
そういう状況のところに、先方の出方というのは、それに水を差すような態度であったわけで、この時から日本の側では「朝鮮、何するものぞ」という思考が醸成されて来たに違いない。
明治元年の時点で、日本には「征韓論」というのは、まだ萌芽も出ていなかったに違いない。
人の生き様、民族の生き様、主権国家のあり方というのは、周囲の状況に翻弄される部分が非常に多いわけで、自分がこうしようと思っても、周囲の状況がそれを許さない、ということも多々あるわけである。
日本が武力を使いたくないと思っても、周囲の状況がそれを許さず、結果的には武力で解決しなければならない状況というのも多々あるわけである。
交渉事というのは相手があることで、その相手も、つまり先方も、その交渉によって何らかの答えを必要とする場合でなければ話が纏まらないわけである。
先方にいくら話しかけても、先方に関心がなければ話は纏まらないわけで、このときの朝鮮側の態度というのは、先方に全くその意思がなかったわけである。
だからいくら押しても、いくら譲歩しても、いくら誠心誠意説明しても、相手は聞く耳を持たない場合は、暖簾に腕押しになってしまうわけである。
これを日本の側から見れば当然、「我々がこれほど誠意を尽くしているのに何事だ」という発想にいたるのも致し方ない。
朝鮮の側でこれほど強行な態度に出れたのも、それはそれなりの背景があったわけで、彼らにしてみれば、その場限りにおいては、西洋列強の矛先を撃退しえたわけで、自分達もやればできる、という自負心に満ちていたことは確かであろうと想像する。
しかし、その事が、その後の慢心に至ったわけで、その慢心があったが故に、西洋列強の力というものを見誤ることになったわけである。
それは昭和の初期の日本が、西洋列強の力を見誤ったのと同じである。
孫子の兵法で言うところの「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」の訓話の敵を知ることを侮り、己を知ることを侮った結果としか言いようがない。
この時、朝鮮側の政府内においても混乱があり、こういう時代の変わり目の混迷というものは避けようがない、と言ってしまえばそれまでであるが、同じことは日本側にもあったわけで、明治維新を成して新体制が出来たとはいうものの、日本の国内では、まだその混乱の尾を引いていたわけである。
朝鮮側の混乱の要因というのは、李王朝の慣習に則り、大院君という人物が、時代にあった施政を行おうとしたのに対し、その次男であるところの高宗の嫁さんにあたる閔妃の係累がしゃしゃり出て、政局に混乱をきたしたわけである。
大院君というのは、今までの慣習を打ち破って大改革を行ったが、そのゆり戻しというものを、この閔妃の係累が打ち出したものだから、政局は混乱をきたしたわけである。
そのとばっちりが、この日本の「国書を受け取る、取らない」という問題にまで影響を及ぼしていたわけである。
しかし、その事は朝鮮の人々の内政の問題であったわけであるが、ここに登場してきた閔妃一族に、問題の事大主義というものがあって、「自らの民族の独立ないしは自尊、自立」という発想に欠けていたがため、「清王朝に寄りかかることのみが最大の保身である」、という認識から抜けきれなかったところに、彼の民族の悲劇が内在していたわけである。
我々の側からすれば、朝鮮も清も、それぞれに独立した民族国家、主権国家である、という捉え方をしていたかったにもかかわらず、朝鮮の方では、あくまでも清王朝の属国に甘んじようと思っていたわけである。
大院君と閔妃一族の確執も、「独立・自尊を貫こう」とする思考と、あくまでも「清の隷下にいて清の保護のもとに生きよう」という思考の衝突であったに違いない。こういう状況を玄界灘を挟んだ対岸の日本から見てみると、清王朝にべったりの朝鮮という民族は、そのうちに清の領域に吸収合併されるか、ロシアに蹂躙されてロシア領になってしまうに違いない、という危惧を抱かざるをえなかったわけである。
そうなれば、これは直接日本の安全保障の問題に関わってくるわけで、そうならないようにするためには、朝鮮をきちんとした独立国として存立させ、清やロシアの属国にならないように干渉せざるを得ない、という発想にいたるわけである。これが明治初期の日本の理想であり、その理想に向かって突き進んだのが、それ以降の日本とアジアのかかわりとなってきたわけである。
今、朝鮮の人々は、日本が朝鮮民族を弾圧したという論調で我々に反省を強いているが、我々が望んでいたことは、朝鮮の人々が清王朝の属国、属領に甘んずることなく、確固たる民族自決の精神を持つ事であり、朝鮮の人々のきちんとした国家主権の確立であったわけである。
朝鮮の人々がきちんとした主権の意識をもち、その主権と主権が仲良く話し合うことで、両民族の温和な共存共栄を図ることであったわけである。
ところが、そのテーブルに全くつこうとしなかったものだから、最後に武力の行使という「衣の下の鎧」をちらつかせねばならなかったわけである。
民族自決の意思が希薄というのは、21世紀の今日においても、未だに南北が統一できていない、という点に如実に現れているわけで、同一民族が南北に分断されている、などという事は彼らの民族自身の問題なわけで、さっさと統一すればよさそうに思うが、それが出来ないというのは、このときの大院君と閔妃一族の確執のようなものを未だに引きずっているということに他ならない。

明治7年(1874年)台湾出兵

こういうわけで、明治維新を成した日本は、朝鮮とは平和裏に善隣外交をしようと思ったけれど、相手側から肘鉄を食らったようなものである。
それで日本国内では「征韓論」が台頭してくるわけである。
我々の意識からすれば「朝鮮はけしからん」という事になるわけである。
アメリカの使節、ペリーが浦賀に来たのが1853年、明治維新が1868年、この間15年、日本がこのアメリカと同じ事をしたのが1875年、明治8年のことである。
つまり江華島事件を引き起こして朝鮮を無理やり開国させたというわけであるが、その前に、日本は清国とも外交折衝を重ねなければならなかったわけである。
日本の側も1840年のアヘン戦争に関する情報は既にこの時知っていたが、やはり清国相手ともなると、清国はやはりわれわれの側からすれば「腐っても鯛」なわけで、早々侮れる相手ではなかったわけである。
清国との外交折衝における主題というのは、台湾問題であったわけで、この台湾問題というのは、琉球の島民が台湾に漂着した際、台湾の現地人がこれらの島民を殺害してしまったことに対する事後処理であったわけである。
この問題に対する日本側のアクションは、日清修好通商条規(1871年、明治4年9月13日締結、日清両国の対等条約)の批准の為に、1873年、明治6年、清国に送った特命全権大使副島種臣に、台湾での琉球島民殺害に関する交渉もあわせて行わせたことに始まる。
この時、清国側は、台湾は「化外の地」で、つまり清国としては統治外の地であるから預かり知らない、という態度を示してきたわけである。
つまり、台湾原住民の起した事件に関して、清は責任外のことである旨主張したわけである。
そういう確約を取っておいたうえで、1874年、明治7年、当時の日本政府は「台湾蛮地処分要略」を閣議決定したわけである。
つまり、台湾出兵を決定したわけである。
その「台湾蛮地処分要略」の趣旨というものは、要約すると、台湾の土着民は清国の統治の至らない地域に住んでいるので、わが国の領域の住民であるところの琉球の人々が殺害された際の報復をすることは日本政府の義務であり、今後このような無謀な行為をいたさないよう慰撫するものである、というようなものである。
日本がこの時期に清国にこれほど気を使ったのは、前にも述べたように、この時期の日本にとっては、まだまだ清国というのは巨大な存在で、アヘン戦争の結末というものを知っていたとはいえ、無視できなかったわけである。
その上、我々は基本的に、相手を征服するという発想を持っていなかったわけで、帝国主義的処世術というものに不慣れであったわけである。
相手を征服しておいて、そこから富の収奪を図るという発想を持っていなかったわけである。
我々は太古より和を重んずる民族で、人と争うことを基本的に忌み嫌う性癖を備え持っていたわけである。
台湾において琉球の島民が殺害された事の報復というのは、琉球の人々の心を慮ったの行為で、琉球の人々のために、日本が一肌脱いだというようなかたちであったわけである。
ところが、この琉球というものが案外曲者で、従来の琉球というのは、清に朝貢をしつつ薩摩藩にも属していたわけで、酷な言い方をすれば、二枚舌を使っていたということになるが、これも琉球の置かれた地理的状況を考えれば、ある意味では無理もない話である。
絶海の孤島で、そこに住む人々というのは、周囲の状況に合わせて、風見鳥的に自らを処しなければならない事は必然であるからに他ならない。
で、そういう前提条件のもとで、1874年、明治7年、清国との交渉には柳原前光を駐箚全権大使として先方に使わしたわけであるが、彼に内命した指示には大きく3つあって、
1、 台湾出兵は蛮人の討伐であって、清国と紛争する気はない、ということを先方に理解させること。
2、 台湾と清国との領海が曖昧であるので、それに付随する問題を処理すること。
3、 琉球が日本領であることを清国側に了解させること、
というものであるが、こういう場面になると、清国側は先回から言っていた「化外の地」という言質を翻してきたわけである。
清国、つまり、中国側からみて「化外の地」であれば、日本が台湾の蛮人を成敗しようが、しまいが関係ないはずであるが、我々の側がこういう立場を取ろうとすると、「それは罷りならぬ」という論法を出してくるわけである。
これは紛れもなく華夷秩序なわけで、この地球というものが漢人を中心にして回っているものだ、という思想に他ならない。
全地球、全宇宙は、漢人、つまり中国人がすべて支配しており、漢人以外のものはすべて「化外の民」で、「化外の民」というのは、全て漢人の言うことを聞かなければならない、という唯我独尊的な民族意識であったわけである。
自分の行っていることは全て「善」で、他人、他民族の行為というのは全て「悪」であり、それは許してならないという発想である。
中国人のこの民族意識というのは、この21世紀に至っても未だに続いているわけで、その歴然たる証拠が、日本の歴史の教科書に内政干渉の如く嘴を挟んでいることでも伺える。
ある主権国家が、その中でどのような教科書を使おうが、それは国家主権を尊重するというと意味からすれば全く関係ないことであるが、華夷秩序、中華思想に凝り固まっている人々には、それが理解できない。
台湾が清国にとっては「化外の地」という言質も、見方によっては非常に無責任な言い草で、同じ時系列で、日本は琉球というものを日本の領域として、その領域内の人々を同胞と思ったからこそ、清国とも交渉をしようとしていたのである。
国家主権というものはそういうものだと思う。
中国、具体的には清王朝というのは、見方を変えると、自分たちの同胞に対して非常に冷酷な面がある。
台湾が「化外の地」と言うところにそれは如実に現れているわけで、台湾の住民も自分たちの同胞である、という意識があったとすればとても「化外の地」などとはいっておれないように思う。
中国大陸の本土側からすれば、絶海の孤島のことなど最初から眼中になかったわけで、我々が琉球のことを思い、中国の人々が台湾のことを「化外の地」として意に介さないのも、所詮、その民族の潜在意識の成せる技だと思う。
つまるところ、中華思想というものが、自分さえ良ければ後のことは預かり知らぬ、という発想が根底にあるものだから、利害得失がないときには放り出しておいて、ならばこちらでそれを利用しようとすると、急に欲目を出して干渉しだすわけである。
日本は、清国がアヘン戦争によって香港がイギリスに割譲させられた、という現実を、中国の、清王朝の主権が侵害されたと見て、日本もそうならないように、という気概を持ったわけであるが、彼らにしてみれば、主権という意識がない上に、香港の一角をイギリスが如何様に使おうが、自分たちにはまだまだ有り余るほど土地というものがあるわけで、痛くも痒くもなかったわけである。
我々にとってペリーが浦賀に来る、イギリスが薩摩を砲撃する、下関が西洋列強の連合軍から砲撃を受ける、ということは大和民族の存亡の危機と感じたわけである。
民族の存亡の危機と感ずれば、「そうなってはならならない」と思う反発心が、当然、髣髴してくるわけで、それが明治維新の起爆剤となったように思う。
ところが清や朝鮮ではそういう危機感が全くなかったわけで、それは全地球、全宇宙というものが自分たちを中心にして廻っている、という思い上がりから脱却できないでいたからである。
つまるところ「人の振り見て我が振り直す」、という謙虚な気持ちが全くなかったものだから、西洋列強の力というものを最初から侮っていったわけである。
明治維新を成した日本が王政復古をして、今まで徳川幕府が大和民族を代表していたものを、これからは天皇が代表する事になった、という意味を彼ら清国や朝鮮の人々というのは全く理解できなかったわけである。
人々を統治するにはいろいろな方法、手法、ノウハウがある、ということを全く理解しえず、彼らが信じていることといえば、ただ単に武力という腕力でしかなかったわけである。
そういうわけで、日本は台湾出兵ということを清国の了解のもとに行ったわけであるが、これはこの時点ではまだ帝国主義的な植民地支配という意識は我々の側ではもっていなかった。
よって蛮族を平定した日本側は、清国と交渉の末、50万両という賞金を得る事で綺麗さっぱりと撤兵したわけである。
しかも、この事件は日本が一方的に独断専行したわけではなく、清国とも充分に話し合い、イギリスとも、アメリカとも、ロシアとも、お互いに相手の出方を探りながらの交渉を重ねつつ行われたわけで、逆にいうと、その事が西洋列強の信用を得た、という結果を招いたのではないかとさえ思えてくる。
日本側としては、西洋列強の力というものは、決して侮れるものではない、ということを肝に銘じて知っていたからこそ、彼らを怒らせないように配慮しつつ、事を押し進めたという見方も成り立つ。
この時点においては、我々はまだまだ「孫子の兵法」というものを謙虚に受け止め、「敵を知り、己を知る」ことに忠実であったわけである。
ところが、こういうことが首尾よく進むと、相手に対する謙虚さというものが薄れ、慢心してくるというのが我々の悪いところで、それが次に現れてくる江華島事件を嚆矢として、その後の日本の近代化の裏に潜んでいた病巣となってしまったわけである。
(資料・台湾出兵参照)

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