隣国・朝鮮と日本

文化の吹き溜まり・日本

平成9年に我が愚息が結婚した時、式を名古屋観光ホテルで行なった。
その時、我々の式場の隣では韓国人が同じように式を挙げていた。
その時に垣間見た光景で、彼ら朝鮮の人々の民族衣装というものが非常に美しく、なかなかのものだ、と感心したものである。
私は特に韓国人とか朝鮮の人々に対して違和感を持っているわけではないが、今の次点で、もうすぐに21世紀に入ろうというこの時期に、彼らを一体どう呼べばいいのであろう。
韓国人という呼称は、彼等の朝鮮の人々の一部を指しているにすぎず、北朝鮮人というのも、語感からして妙ちくりんだし、一括りに朝鮮人というと、戦前の語感を髣髴させるし、なんだか適当な違和感を感じさせない言葉というものが見当たらない。
巷には在日韓国人という表現があるが、この「在日」という言葉の中には、正確に韓国の人かどうかは分からないわけで、彼らを韓国人と一括りにしていいものかどうか、はなはだ疑わしい。
我々、日本人の側からすれば、北朝鮮とか韓国という政治体制を抜きにして、一括りに朝鮮人と呼びたいところである。
西暦2000年には、韓国の金大中大統領が積極的に北朝鮮側に働き掛けて、何とか和解の道が開けそうな雰囲気に至った、とはいうもののまだまだ道のりは遠いという感を免れない。
南北朝鮮の統一はひとえに彼ら朝鮮民族の問題にもかかわらず、これを日本の所為にする韓国の知識人というものの存在は、愁うべきことである。
私は20世紀の最後の時に「20世紀の怪物・共産主義」という本を書上げた。
そして21世紀には、私のライフワークを日本がアジアに及ぼした影響というものに焦点を絞ってものを考えたいと思っている。
そうすると、どうしても朝鮮との関係から入っていかなければならない。
日本の歴史というものは、アジアとの関係というものを抜きには考えられないわけで、家の造り方から米の栽培の方法まで、あらゆる事象でアジアの影響を受けている事は否定しがたい。
日本にそういう文化が入って来る経路については、沖縄、奄美大島、種子島という南の島つたいに入ってくるか、朝鮮半島から玄海灘を通過して入ってくるか、しかなかったわけである。
そういう意味からして、日本は文化の吹き溜まりであったことは否めない。
その状況というのは朝鮮の人々にも充分にわかっていたに違いないが、その解っていたということが、今日の問題の根底に流れていると思う。
つまり、彼等の立場に立って見ると、日本の文化というのは、朝鮮文化の「お下がり」である、という意識が抜けきれないわけである。
朝鮮の人々にとって、中国というのはあくまでも文化発祥の地で、崇めなければならないが、その反対に、日本というは自分達の「お下がり」の文化をありがたく戴いている下等な民族である、という認識になるわけである。
日本の仏像芸術にしろ、陶磁器の作成にしろ、中国から朝鮮を経由して流れて着たとみなしていいと思うが、それを彼らは自分達の優越感として誇示し続けているわけである。
これは私の持論であるが、日本が明治維新を経験した時点では、日本も、朝鮮も、中国もほとんど同じスタート・ラインに一直線に並んでいたと見なしていいと思う。
同じような時期に、西洋の近代化した物質文明に直面して、慌てふためいていた状況というのは、ほとんど同じであったに違いない。
ただ違ったのは、そういう西洋の近代化した文明に直面した時に、アジアの側で、それぞれの民族が押し寄せてきた西洋文化に対する、対応の仕方に大きな違いがあったわけである。
日本人も朝鮮人も中国人も人間の資質としては大した違いは無いように思う。ところがそれぞれの地で生まれた無垢な人間も、周囲の環境によって、それぞれの国土に合った人間に作られるわけで、それが一つの塊となると、それが民族の文化であり、伝統であり、民族主義となるわけである。
例えば、日本の江戸時代というのは、封建制度のもとにおいて、土地の利用ということが非常に進んでおり、士農工商の階級制度も土地を基盤として行なわれていた。
ところが、中国においては日本の封建制度が土地を基盤として行なわれたのとは違って、人治主義というか、人の情実による儒教の教えの中で、ある意味では無秩序の中で、人々はそれぞれの利害得失で生きてきたわけである。
朝鮮の人々は、これまた不思議なことに、その中国の家来でいる事で、中国の庇護の元に、封建性も不充分なまま、さりとて他に確たる信念もないまま、擬似儒教に寄り添って生きてきたわけである。
人を統治するという意味で、きちんとした体制が無かったわけである。 ところが我々、日本というのは、周囲を海で囲まれているので、逃げ場がないわけで、否応なく統治するものの下に従属しなければならなかった。
そういう自然環境が、日本という地域に生息した民を、社会的に確たる絆で結び付けていたのかもしれない。

朝鮮民族の事大主義

我々は、19世紀末に、西洋の近代化した文化が日本の周辺にひたひたと押し寄せてきた時、これに好奇心を示し、その実態をよりよく研究し、その合理性に気が付いたわけである。
そしてそれが未来に対しても普遍性を持つものである、と言う事に気が付いたので、それを模倣することをはじめたわけである。
ところが中国と朝鮮の人々は、そういう西洋文化に対して、徹底的に拒否反応を示し、受け入れようとしなかった。
何故この時に西洋文化を拒否し、受け入れようとしなかったのかといえば、そこには彼等の民族意識としての中華思想があり、儒教があり、現状を変える事を恐れたからである。
同時にそれは未来に対する先見性が欠けていたと言う事でもある。
それに反し、我々の文化というのは、そのことごとくが外来文化であったわけで、仏教にしても中国からの外来文化であり、文字にしても外来のものであり、その前においては、食文化でさえもが外来文化であったわけである。
その事は、外から来る新しいものに対して、畏怖の念というのは全くないわけで、当然そこには、自分たちの文化がこの世で最高のものである、という自負心もなかったわけである。
ただ輸入先が、中国から、西洋列強と変わっただけで、外来物であってもその出生はどうでもよく、入ってきたものが自分たちにとって便利だ、と思えばどんどん取り入れていったわけである。
ところが中国や朝鮮ではそういうわけにはいかなかったのである。
彼らにとって、生きる上での指針というものは儒教であったわけで、老幼の長を重んじ、年寄りを大事にし、縦列を重んじ、既成事実に忠実ならんとしていたわけで、新しいものには嫌悪感を示したわけである。
前にも記したように、生まれたままの赤ん坊というのは、日本人であろうと、中国人であろうと、朝鮮人であろうと、全く同じように白紙の筈である。
ところが両親の間、近所つきあい、という環境、長じてはそれぞれの職場というか、属する団体等の社会的な影響を受け、民族的な思考に洗脳される事により、排他的になり、「自分達は漢民族なるが故に優れているのだ」、という中華思想、乃至は儒教思想に染まっていくわけである。
そう考えると、これは民族の特質と言う事になってしまう。
こういう前提条件を踏まえて、朝鮮の人々のことを思うと、朝鮮の人々にとって日本はまさしく文化の吹き溜まり、いわば朝鮮の人々の「御下がり」を日本人は有り難がって敬っているという風に捉えるのも致し方ない。
それに反し、朝鮮の人々にとっては、中国こそ見習うべき、手本として崇めるべき、模範の国であったわけである。
しかしそうはいうものの、彼ら朝鮮の人々も、ある意味で非常に情けない面がこの時から存在していたわけである。
それは、その「先輩としての中国を乗り越えよう」という気概というものが全く無かった点である。
ある意味で、事大主義で、「中国にさえ気に入られれば我が身は安泰だ」、という事無かれ主義に陥っていたわけである。
アジア大陸の歴史を見ると、漢民族を押さえつけた民族は数々あれど、朝鮮民族だけはそれを成しえなかった。
日本も、日中戦争というか、15年戦争というか、中国大陸で覇権を争ったにもかかわらず、結局は諸般の理由でそれを成し得なかった事は周知の事実である。
古くは蒙古民族の元王朝、日本が覇権を争う前は女真族、いわゆる満州民族というべきか、清王朝というものは漢民族の上に君臨した民族である。
ところが朝鮮民族だけは有史以来中国に寄りかかるだけで、覇権のはの字も出しきれなかった。
これは前にも記したように、生まれたばかりの人の子というのは、どんな民族でも白紙の状態であるのに、成長するに従い、周囲の状況、環境からそういう処世術を身に着け、覇気を失うと言う事も一種の処世術であって、そうしなければ民族そのものが生存しきれなかったということである。
私は好戦的な気風を賛美するつもりは無いが、こういう民族の在り方というものが、今日の世界にも連綿と続いていると言う事を言いたいわけである。
今日、この平和な日本において在日朝鮮人の人々というのは、自分の生活の場としているこの日本の中で、日本人に向かってかなり辛らつな要求を突き付けようとしている。
従軍慰安婦の問題から、戦争中の謝罪がたらない、という問題まで、我々、日本人が黙っているとどこまでも突けあげてくるような雰囲気であるが、こういう態度そのものが朝鮮民族の固有の姿である、という事を我々は胆に銘じて知るべきである。
「犬の遠吠え」という言葉がある。
弱い犬ほどワンワンキャンキャンなくわけで、強い犬は声を上げる前に噛み付いている。
私はもうすぐ21世紀になるというこの時に、日本人だとか、朝鮮人だとか、言う区分け、呼び方というのはなくさなければならないと思う。
日本にいる朝鮮の人々というのは、顔かたちは元より何一つ我々とかわるものが無いわけで、我々と同じように仕事をし、収入を得、税金を納めれば、日本人だとか、朝鮮人だとか言う必要は全く無いように思う。
事実、我々はそういうことを日常生活の中で意識した事は無い。
ところが電車の中でチョゴリ姿の女学生を見ると、何故彼らは日本に来てゲットーを作るのか疑問に思う。
彼等の言い分とすれば、日本が彼らを差別しているから、自分達は自分達で自分達の文化を継承しているのだ、と言うに違いないが、日本に来て自分達の文化を継承しようとする事自体不合理である。
日本に来た以上、日本に同化しようとするのならば話はわかるが、日本という主権国家の中で、自分達の文化を絶やさないようにというのは虫が良すぎる。
日本という主権国家の中かに、自分達が選択して、自分達の意思で入ってきた以上、その国の主権は尊重してもらわなければ困るわけで、「庇を貸して母屋を取られる」ような事態が起きては困るわけである。
自分達の文化は自分達の祖国で維持継続してもらえばいいわけである。
「庇を借りたら母屋まで取ってしまえ」という発想が、朝鮮民族の中に渦巻いているわけで、彼等の発想の中には「自分さえ良ければ後は野となれ山となれ」という刹那的な思考から脱却できないでいるわけである。
その延長線上に事大主義があるわけで、中国に朝貢さえしていれば我が身は安泰という発想である。

民族の怨恨と反省

この中国に朝貢という事を我々はもっともっと深く考えなければならない。
その事はつまり強いものには媚び諂っているという事に他ならない。
先に述べた従軍慰安婦の問題や戦争中の謝罪がたらないという彼等の言い分は、日本の政府が弱いから、彼等はそこに突け上がっているわけである。
弱いものには高飛車に出、強いものには媚び諂う、というのはなにも彼らだけの専売特許ではなく、生きとし生けるもの、命を永らえるには普遍的な事で、卑下する必要はないが、それが民族としての特質となると考え物である。
そういうわけで、彼等朝鮮の民族について少し遡って調べて見ると、非常に面白い。
朝鮮においては世界的に普遍化していた封建制度というものがほとんど発達していない。
それと日本の天皇のように歴史を越えて連綿と続いた家系というものも存在していないようだ。
ものの本によると李王朝の起源は意外に古く1392年ということで、この時代は日本では南北朝合一の時で、足利義満が朝鮮に対して禁寇を誓うと記されている。
その事は、当時においても、日本の海賊が朝鮮半島近辺を荒らしまわっていたということであり、そう言う事からも、彼ら朝鮮側では反日感情がすでにこの時代からあったという事である。
ということは、李王朝というのが500年近くも健在であったという事であるが、これが案外曲者で、500年もその体制が維持されたということは、当然その中での政権交代はあったわけで、政権がいくら交代しても、前向きの交代が全く無かったと言う事の裏返しである。
それは、この王朝があまりにも儒教、朱子学に傾倒していて、それからはみ出る事を極度に恐れ、前に出る事を許容しなかったからである。
老幼の長を重んじると云う事は、現政権にとってはこれほど都合のいい論理も無いわけで、これさえ掲げれば、水戸黄門の印籠のように、周囲のものは皆ひれ伏さなければならないわけである。
少し変わった事をしようとしても、それは慣例が無いといわれれば、それ以上は前に進めないわけである。
ましてや、若手を抜擢するという事は全くありえないわけで、これではシステムは疲弊するだけである。
そして疲弊し、疲弊したまま西洋文化の波に洗われたわけである。
アジアに西洋の文化が漂ってきた、と言う事はある意味で文明の衝突であったわけである。
この文明の衝突という、新しい、そして未曾有の事態に対する対応の違いによって、アジアにおいては植民地に成り下がった国と、そうでない国の運命の分かれ道が出来たわけである。
朝鮮の人々に今日でも根強く残っている対日感情の悪さというものは、この文明の衝突というものを、日本人が西洋人に成り代わって、成してしまったからに他ならない。
彼らは西洋の物質文明に対して、西洋人相手には勝利しているわけで、西洋人に対しては誇りを失っていない筈である。
ところが、日本というのはこの西洋人との戦争でも薩英戦争、下関戦争ともども、そして浦賀における屈辱的な交渉においても、実質負けているわけで、そういう風に西洋人に対して負けた日本が、朝鮮に対しては勝利してしまったので、彼ら朝鮮の人々は其処のところに不可解な疑念を持ったまま支配されてしまったため、その怨恨というものはいつまで経っても晴れないわけである。
こういう怨恨を何時までもぶら下げている、と言う事そのものが民族の意識として不甲斐ないわけで、民族同志が支配したりされたりする事は歴史の流れとして必然的な事である以上、そういう節目には前向きに考えて、それを乗り越えなければならない。
我々は1945年、昭和20年、アメリカの原子爆弾の投下で全ての先行きを封じられ、戦争に負けたわけである。
あの原子爆弾の犠牲者というものは、たった一発の爆弾で20万とも30万ともいわれる犠牲者を出したが、それに対してアメリカに怨恨を持ったか、と言えば、我々はそういう風には考えずに、あの戦争の怨恨というのは民族の内側に向かい、戦争を仕掛けた我々の側に向けられたわけである。
その事を朝鮮の人々の立場に置きかえれば、日帝の支配を招いたのは李王朝の怠慢である、という風にならなければならないわけである。
原子爆弾の怨恨を内側、即ち我々の同胞に向けることにより、それが歴史の教訓となり、我々は戦後50年間というもの、戦争というものを遺棄しなければならない、という発想に至ったわけである。
その事を彼ら朝鮮の人々の立場に置きかえれば、再び日本の支配されない為には、如何なる心がまえで生きなければならないのか、という発想に立ち返らなければならないと思う。
1945年・昭和20年という年は、日本という主権国家としては、生まれたばかりの赤ん坊の状態で、我々は食べ物から住む場所、職も無ければ、夢も、希望の失っていたわけである。
それに反し、朝鮮の人々というのは、国土は復帰し、社会基盤は戦災も受けずそのまま残っていたし、教育機関もそのまま存在していたわけで、敗戦直度の日本と朝鮮の人々の生活の違いというのは雲泥の差であったはずである。
そういう条件が揃っていたにもかかわらず、統一できずに南北に分離したというのは、彼ら自身の生き様の結果であったわけである。
日本の支配された時の反省が全くなされていなかったわけである。
「何故、朝鮮民族は日本に支配されてしまったのか?」、という彼ら自身の反省というか、歴史から学ぶべき教訓を得る、という発想が全くなかったわけである。
1945年・昭和20年という年の日本というのは、まるで無一文、全国焼け野原で、人々は今で言うところのホームレスの状態で生きてきたわけである。
そういう経験を積んで生きてきたことに対して、我々、日本国民として、アメリカに怨恨を抱いていたか、と言えば、我々にはそういう発想は微塵もなく、敗戦の責任は我々の側にある、という反省の上に再建の努力があったわけである。
同じ年の朝鮮の人々は、我々とは逆に、日本との頚木から解き放たれ、夢と、希望と、自由を得たわけで、それが統一できなかったということは、彼ら自身の問題であったわけである。
この問題があったればこそ、昭和の初頭に、日本の植民地と成り下がってしまったわけである。
それをもう少し掘り下げて見ると、彼ら朝鮮の人々にとっては、民族の独立とか、民族の独立自尊という意味がわかっていなかったのではないか、とさえ思えてくる。
李王朝500年の歴史をつうじて、一貫して中国に朝貢することで、民族の安全保障というものを得てきたわけで、その事は、誰かに頼りきっていない事には、民族の独立自尊と言う事が果せなかった、ということである。
要するに「虎の威を借りる事」でしか民族のアイデンテイテーを誇示できなかったわけで、何時の時代においても、どこかの強国に寄りかからない事には民族の生存が成し得なかったわけである。

インターネットの論文

こういう状況下で日本が朝鮮半島に触手を伸ばそうという切っ掛けを作ったのは、やはり今までの論旨の元である所の彼等の侮日的な思考に起因している。
彼等は事大主義なるが故に、日本との対等な関係というものを蔑視しており、蔑んでいるが故に、日本の実力というものを過小評価していたわけである。
しかし、李王朝というのも時代の趨勢には逆らえないわけで、王朝内部にも改革改善を望む勢力が大きくなり、旧勢力と新勢力はお互いにシーソー・ゲームを演ずるようになったわけである。
その中で閔氏の登場が大きく影響を及ぼすようになってきたわけであるが、こういう構図というのは、いわば未開の民族の構図で、近代的な統一国家という体をなしていなかったという事に他ならない。
論旨がここに及んで、約2ヶ月以上停滞してしまった。
というのも私は朝鮮の近代史に関し非常に知識が乏しく、自分の考えを纏めることが出来なくなって、いろいろな参考書を読み漁ったが、どうにも考えが纏まらなかったからである。
ところが今年に入って一月も終わりに近くなった頃、インターネットで参考書で調べたキーワードを入れ検索してみると、私の考えていたことを全く軌を一にしたホーム・ぺージを発見した。
以下そのホームページを丸写しにした部分である。

HYPERLINK "http://www2justnet.ne.jp/" http://www2justnet.ne.jp/

朝鮮を独立させたのは「日帝」であった 戦後、コリア(韓国、北朝鮮両国)は戦前の日本植民地時代―いわゆる「日帝36年支配」を事あるごとに引っ張り出してきました。
それに対し日本も、これまたことあるごとに歴代の総理が謝罪を繰り返してきました。
しかし、考えて見ればこれは非常おかしなことなのです。
なぜなら、コリアは668年の新羅による朝鮮半島統一から、1897年、大韓帝国(旧称李氏朝鮮)の成立に至る1200年間、実は独立国ではなかったからです。
こんなことを言うとコリア人は逆上するかもしれませんが残念ながらこれは事実です。
百済、ついで高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した新羅は、その過程で東アジアの超大国「唐」の軍事力を利用しました。
それが災いして戦後、「唐」は新羅一国と成った朝鮮半島をも自からの領土にしようとしたのです。
つまり、「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」という言うわけです。
しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有を断念せざるを得ませんでした。
ただ、その過程で新羅に対して唐は自らの属国になることを飲ませました。
つまり、唐は新羅という属国を通して朝鮮半島を実効支配する道を選んだのです。
こうして、唐に始まる歴代シナ王朝を宗主国と仰ぐ属国コリアという関係、いわゆる朝貢関係が成立したのです。
さて、こうして始まった宗主国シナと属国コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。
例えば、国王、コリアではたとえ世子(皇太子)だったとしても、シナ皇帝の承認がなければ王位を継承することが出来ませんでした。
又、コリア王の地位はシナ皇帝はもとより朝鮮駐箚(ちゅうさつ)官よりも下位でした。
駐箚官(ちゅうさつかん)  シナがコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治、軍事全般を監督させた。
次に、元号、日本では一般に大化に始まった日本独自の元号が連綿と現在まで続いていますが、コリアではシナの元号を使わねば成りませんでした。
と同時に、政治、文化全般においてもシナの国教ともいえる儒教思想を規範としなければなりませんでした。
更に、朝貢制度によってコリアはシナに定期的に使節団を覇権、シナ皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢物を献上しなければなりませんでした。
こう言ったことが数百年も続くと恐ろしいもので、何時しか屈辱的ともいえる朝貢制度に何ら疑問を持たなくなり、自らを「小中華」と号し、本家シナ以上の中華主義に徹したのです。
そして、シナ明王朝が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の中華が死滅すると中華主義の本家が滅んだ以上、「中華主義を厳格に守るのは我々しかいない」という変な使命感を抱き、ますます小中華に徹してしまったのです。
そして時代は激動の19世紀を迎えたのです。
欧米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアにまで広がってきたのです。
まずその標的となったのは東アジアの超大国清朝でした。
アヘン戦争において清朝がイギリスに敗れたことにより「眠れる獅子」がその実「張子の虎」であることが白日の下に晒されてしまったのです。
この事件が契機となり、日本は幕末、明治維新という難産を経て、近代国家への離陸を果たすことと成ったのですが、清朝はあいも変わらず鈍重な「眠り獅子」を決め込み、その属国である李氏朝鮮も時代遅れな小中華に浸ったままだったのです。
近代国家への変貌を成し遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止するため、隣国である李朝に開国維新を迫りました。
つまり、日本と李朝が連携して、一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐し様と考えたのです。
しかし、小中華に腰からどっぷりと浸って、両班による政治腐敗の極地にあった当時の李朝は世界情勢、東アジアの植民地化の波が目の前に迫っていることが理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。
これによって日本は対話から砲艦による問題解決、いわゆる征韓論へと方針を転換、明治8年の江華島事件を契機に、翌、明治9年、日朝修好条規を締結し、李朝を開国させたのです。
日朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした独立国として承認しました。
よくコリア人は、「日本帝国主義は朝鮮の独立を奪い、挙句の果てに韓国併合という暴挙に出た」と声高に主張します。
しかし、当時、清朝は李朝に対する宗属関係を主張し、欧米列強も李朝を独立国として認めず、清朝の属国、属領として認知していました。
そんな中で、日本だけ唯一、李朝を独立国として承認したのです。
こんな気持ちを知ってか知らずか、李朝はあいも変わらず清朝を宗主国として仰いでいたのです。
その後、日本は朝鮮半島政策を巡って宗主権を主張する清朝と対立、明治27年ついに日清戦争へと発展したのです。
結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝はついに李朝に対する宗主権を放棄、明治30年、李朝は国号を大韓帝国、国王を皇帝と改称し、ついに独立を達成したのです。
言い換えれば日清戦争における日本の勝利がなければ李朝は独立国となれなかったわけで、コリア人はその事実を直視すべきだと思うのです。

この部分は私としてもよく理解できることで全くこのとおりだと思う。

問題は、朝鮮内部の政治的軋轢のあり方であって、その部分については次の論文がそれを詳しく解説しているので、それも丸写しにしておく。

幻に終わった朝鮮維新・甲申政変

前回のコラムで、李氏朝鮮の時代遅れの小中華主義に触れましたが、問題は更に根深かったのです。
コリアは新羅から高麗を経て李朝末期に至るまで、なんと日本の平安時代よろしく両班による貴族政治が連綿と続いていました。
このコリア版貴族、両班ですが、もともとは武班と文班を総称して両班と言っていたのですが、武班が蔑まれたことも手伝って、文班のみをさして両班と呼ぶようになりました。
現代風に言えば、軍人の地位が低下し、官僚の地位が向上した、ということになるのでしょうが、これがコリアの近代化を遅らせる大きな遠因となったのです。
両班による貴族政治体制は、コリアに封建時代、日本でいえば戦国時代を招きませんでした。
日本は、シナの場合にもいえますが、戦国時代は戦乱に明け暮れるというマイナス面も確かにありますが、それ以上に、地方の独自性が顕著に発達するというプラス面もあります。
しかし、コリアにはとうとう封建時代は訪れませんでした。
その結果、恐ろしいほどの強固な中央集権体制が完成してしまったのです。
現代日本でも言えることですが、中央集権体制は確かに国土を一元的に管理するのには非常に効率的なシステムです。
しかしそれが長く続くと弊害として汚職、政治の硬直化等を招くのも確かです。そうです、李朝も末期になると両班による中央集権体制の弊害がこれでもかといわんばかりに顕著になっていったのです。
両班政治の悪弊・具体的に挙げると、日本では江戸時代に東海道等に代表される街道が整備されたのに対し、李朝では末期に至るまで道といえるものはついに整備されませんでした。
あったのは「径」(こみち、畦道のような細い道)だけです。
こんな具合ですから物資はおろか隣同士の村でさえ、人的な交流はほとんど皆無でした。
又、徴税システムが完全に崩壊していました。
中央に納められるはずの税金のほとんどが途中で消えてしまっていたのです。
つまり中継ぎの役人の手を経る毎に次々と横領されていき、中央に着くときには、ほとんど無くなっていたのです。
更に、当時の国民のほとんどを占めた農民は、制度化されている税金の外に、当地の役人達が勝手に設ける私税も無理やり徴収され、現在の北朝鮮よろしく慢性的な食料不足の中、まさにこの世の地獄を生きていたのです。
そこへ現れたのが明治維新で一足先に近代化の道を歩み出した日本の黒船だったのです。
江華島事件、日朝修好条規を経て、新たに始まった日朝関係の中で、腐敗しきった両班を横目に、欧米列強のアジア進出と李朝の現状を直視する若者が現れたのです。
彼ら中堅青年官僚、いわゆる開化派(独立党)と呼ばれ、は日夜権力抗争に明け暮れ、自国が置かれている現状を省みない両班支配体制と、荒廃しきった国土を憂え、更に、いづれは列強の植民地になるだろう、という危機感の中、その活路を新興国・日本に求めたのです。
開化派は国王・高宗の許可を得てたびたび日本を訪れました。
そして、日本に着いた彼らが目の当たりにしたものは、今まで中華であるシナや小中華であるコリアよりも格下であるとして侮辱していた日本の驚くべき発展ぶりでした。
そこには李朝にはない、ありとあらゆるものがあったのです。
たかだか10年前は髷を結い、刀を差していた日本人が、いまではアジア一の近代国家へと変貌を遂げている…・・。
彼らは日本の現実を目の当たりにしたことで、初めて近代化の何たるかを知ったのです。
そして開化派は、旧態以前たる守旧派があいも変わらず清朝を頼るのに対して、新たなパートナーとして新興国・日本を選んだのです。
李朝政府内での開化・守旧派の抗争は次第に激しくなっていきました。
守旧派は清朝の属国としての立場を堅持するとして、清朝より派遣されているメルレンドルフ等の駐箚官に国政全般の監督をゆだね、ますます清朝への依存を深めていきました。
一方、開化派は金玉均をリーダーに、福沢諭吉等日本政財界のキーマンたちと親交を深め、日本の支援によって李朝の政治体制を変革する、李朝版明治維新を断行しようとしたのです。
1884年12月4日、夕刻、高宗の内諾と、日本の軍事支援を受けた金玉均率いる開化派はついに決起しました。
世に甲申政変と呼ばれるクーデターです。
彼ら開化派が目指したのは、日本同様に、国王を中心に戴く近代立憲君主国家でした。
その為、守旧派による国政専横と、清朝の政治軍事全般に渡る強圧的な干渉に強い不満を持っていた高宗は開化派に大きな期待を持っていました。
電撃的に断行されたクーデターは日本の2・26事件とは違い、玉である国王を手中にしていました。
その点、開化派にとっては非常に有利だったといえます。
しかし、運命は皮肉なものです。
高宗の妃である閔妃(明成皇后)等の邪魔、高宗の心変わり、そしてもっとも恐れていた清軍の出動によって事態は一気に流動化したのです。
開化派を支援していた日本でしたが、いざ、クーデターが断行されると、2の足を踏みました。
その最大の誤算は、清仏戦争の決着でした。
開化派、日本政府双方とも、清仏戦争の継続を望んでいました。
清仏戦争さえ続いていれば、いかに清軍とて、南北双方に派兵はしないだろうと踏んでいたからです。
しかし、清仏戦争の決着によって、清朝はクーデターの漢城(ソウル)に軍隊を出動させたのです。
クーデターには日本軍も開化派兵士として加わったのです。
その日本軍と清軍が王宮を舞台に対峙していました。
清朝との前面武力衝突をなんとしても回避したい日本軍は、ここでクーデターからの撤退をしてしまったのです。
日清戦争を遡る事10年、日本は依然腐ってもなおアジアの超大国として君臨する清朝との全面戦争はやはり避けたかったのです。
富国強兵にまい進しているとはいえ、いまだ近代化の途上にあった日本としては致し方ない選択であったといえます。
12月7日、開化派による新政府は崩壊、親清、事大主義者による臨時政府が樹立され、維新はわずか3日で幕を閉じたのです。
こうしてコリア版明治維新は失敗に終わりました。
その結果、李朝は今まで以上に清朝の干渉を受けることとなり、開化派が目指した自主独立の夢は潰え去ったのです。
その後、コリアは日本、清朝、ロシア3国の係争地となり、日清戦争、日露戦争を経て1910年、つい日韓併合へといたるわけです。
一方、クーデター失敗後、日本に亡命していた開化派の金玉均は清朝の北洋大臣李鴻章との対話を求めていました。
1890年、彼は李鴻章の養子で、駐日公使として日本に赴任してきた李経方を通じ、「日本、朝鮮、清朝3国の連携を以って、南下政策を進めるロシアと、アジアを蚕食する欧米列強勢力に対抗すべきだ」との持論を主張しています。
国を追われてなお、祖国の将来を憂えた愛国の士・金玉均でしたが、運命の女神は彼に過酷な運命を科したのです。
クーデターの恨みが消えぬ守旧派は彼を日本官憲の影響が及ばない上海に誘い出し、1894年3月28日刺客・洪鐘宇をして暗殺、よく4月、死体を切り刻んだ上「謀反大逆不道の罪人、玉均当日楊花津頭にて時を侍さず凌遅の斬に処す」と書いた木札を掲げて漢城市内に晒したのです。

以上、インターネット上の竹下義朗氏の論文を長々と記述したがその内容には全く同意しているわけで、私も全くこの通りだと思う。

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