自民党政権の本質

 

戦後46年間の日本の歴史の中で、自民党が政権を担当しつづけてきたということは、国民がそれを望んだということである。

積極的賛成も社会党に対する批判をも含めて結果的にそうなっている。

しかし、自民党というのは明確なポリシ−というものをはっきり打ち出していたわけではない。

つまり、社会党や共産党に飽きたらない人々が、仕方なしに、選択した結果ということも云える。

社会党や共産党、つまり野党の批判票が自民党の得票であろうと思う。

その顕著な例が先の消費税の問題である。

金を払うという事になると、国民は敏感に反応して、税金を取られるという心理が、社会党の得票につながったわけであるが、もう一つ見方を変えると、自民党の落ち込みはあれだけで済んだと言うことも成り立つ。

あの場合、一気に社会党の政権が出来てもおかしくはない状況であった。

それが首相の交替劇こそあったが、政権の交替までは行かなかった。

こうした例は、イギリスのサッチャ−首相も同じような状況下にあったわけである。

与党が福祉の為に増税に踏み切れば、票を減らしても致し方ない。

この時点でも、国民は社会党よりも自民党を支持したわけである。

つまり、福祉を維持していく為には、増税は嫌だけれども止むを得ない、という判断をしたわけである。

この時点で、社会党にどういう対案があったのであろうか。

福祉と減税を同時に成立させる方法が他にありえたであろうか。

こういう訳で、自民党というのは、野党に対する批判票で成り立っているので、保守政党でありながら、積極的な保守ではなく、明確なポリシ−のある政党ではない。

大体、日本の政治というのは、ポリシ−のはっきりした政党が、そのポリシ−に則り、明確な政策を打ち出して、それを実行に移す、という積極的なものではない。

何か国政レベルで問題が起きると、その対策に対して、政党間の論争が起きるという風に、事後対策が主となっている。 

福祉が行き詰まったとき、湾岸戦争が起きたとき、国際貢献が問われたとき、という風に全てが事後対策の問題である。

だから、憲法第9条をそのままにしておいて、いざトラブルが発生し、その対策をどうするかという時になって、その解釈によって政党間の意見が分かれると云うことになる。

本来の政治というのは、先のことを見越して、憲法第9条をどうしようか、というのが政治の本質であるけれども、この問題に正面から立ち向かうと票が減る、という現実の前に、その問題を何時までも経っても棚上げのままにしておくのが日本の政治である。

また、政治という場合、とくに国会の答弁、国会の審議というのは、ある意味ではデイスプレイ、パフォ−マンスであって、実に形式的である。

質問書を提出しておいて、大臣がシナリオを見て答弁するなどということは、実は茶番劇である。

それかと言って、口から泡を飛ばすような激論がいいかというと、これも国会議員の振る舞いとしては感心できるものではない。

しかし、この二つの内どちらがいいかといえば、後者の方が民主的であろうと思うが、民主的ということは、とことん話し合う事だとすると、これも一口ではいいとは言い切れない面がある。

そもそも日本民族というのは、話し合う、とことん話し合う、ということが不慣れではないかと思う。

議論が伯仲して、それこそ口から泡を飛ばすような議論になると、汚い言葉での、ののしりあいになってしまう。

日本人というのは、議論が下手な民族ではないかと思う。

我々の価値観の中には「男は黙ってなんとか」という風に、沈黙に価値観を見出だす人種である。

冗舌というのは、あまり高い評価を得られない土壌に育っている。

だから議論が高じてくると、黙ってしまうか、口喧嘩になってしまう。

冷静に議論することが出来ないのではないかと思う。

日本民族というのは、以心伝心という風土の中で育まれてきたわけで、冷静に議論するということに不慣れである。

また、議論を尽くし、話し合うにしたところで、意見が違うもの同志が話し合ったところで、必ずしも妥協点が見つかるとは限らない。

ビジネスの話なら妥協点というのがありえても、政治の話では、論争の全部に妥協点があるとは限らない。

どこまでいっても平行線のままという状況もありうる。

言葉というのはまことに便利というか、厄介というか、こう言えばああ云う、ああ言えばこう云うという風に、議論が全く噛み合わない場合がある。 

今回のPKO法案でも、社会党は審議が短いといっているが、何時まで議論すれば、社会党の満足する話し合いが成立するのかは疑問である。

同じ事を何度も繰り返したところで、議論、審議していることにはならない。

どこかで採決をしなければならない。

社会党の云う審議未了という言葉を使えば、何事も決めることが出来ない。

民主主義、民主政治ということは、実に金と暇のかかる政治形態である。

日本の公共施設が、西洋に比べて立ち後れている、ということがよく云われるが、今まで述べてきた政治の状況を見ると、日本が民主主義、民主政治の間は、すぐに改善されるとは思われない。

民主政治というのは金と暇がかかる。

道路一本作るにも、水道一本通すにも、話し合いをするだけでも、相当の金と時間を必要とする。

それかと云って、そのままにしておけば住民の困惑は深まるばかりである。

民主主義、民主政治の命題が、最大多数の最大幸福でなければならないのに、少数派の最大幸福というのが実情である。

少数派の人権は手厚く擁護されているのに、多数の人々の利便、幸福は、犠牲を強いられている。

少数派は、声高に自己の利益を擁護できるのに、最大多数、つまり一般市民というのは、自己の利益を言いだすことが出来ず、ただ指をくわえて見ているだけである。

多数派が自己の利便、利益を強調すると、国家権力の横暴というレッテルを貼られかねない。

 

赤い裁判官

 

昨今のこういう風潮を助長しているのは、司法の問題が絡んでいると思う。

政治は民主化されたが、司法は民主化されていないところが問題である。

話し合いが平行線のまま裁判所に持ち込まれると、裁判所の裁定というのは、その大部分が少数派に有利な裁定である。

行政訴訟の大部分がこういう判決だと見ていい。

裁判官には民主主義の本質、最大多数の最大幸福という理念が理解されず、反権力、反国家、反社会的な意見に同情を示す傾向がある。

日本の裁判官の大部分は、心情的に共産主義に洗脳されているのではないかと思えてならない。

裁判官というのは官僚に近い存在で、日本でも一番難関といわれる司法試験と云うものを通過した人のみが許される業界であるが、残念なことに、この司法試験には思想のチェックはない。

現行の憲法では、思想信条の自由が保障されているので、原則的には共産党の裁判官というのがいても不思議ではない。

しかし、この自由主義の日本国内において、その職務に個人的な思想信条を持ち込んでは、不合理だと思う。

人間の組織である以上、個人的な思考を全くなしにするということは難しく、人間は大なり小なりそういうものを持ち合わせているのだろうけれども、共産主義的な物の見方で裁判の判決をしてもらっては、共産主義者でない一般国民はたまったものではない。

共産主義の国家の中での事なら致し方ないにしても、日本のような、民主的な資本主義の社会で、裁判官だけが共産主義の理論で動いてもらっては、我々にとって、何が正義なのかわからなくなってしまう。

考えてみれば、日本の社会の中で、あらゆる産業で共産主義者をチェックすることが可能である。

政界においては、共産党が政権を取るということはまず考えられず、産業界においては、共産主義者がビッグ・ビジネスのトップになることはありえない。

共産主義者がトップになりうる業界といえば、国家公務員では裁判官、地方公務員では首班になれるチャンスが多々ある。

共産主義者の本家本元であるソ連が崩壊したのは周知の事であるが、日本の共産主義者というのは、まだまだあの苔の生えたような、既に実績の証明がなされ評価の下りた思想から脱却できないでいる。

今の日本の共産主義者というのは、本家本元のものとは異質なものになっているとは思うが、裁判官がこうした特定の考え方に偏った判決をする、そしてそれがそのまま通用するということは実に恐ろしいことである。

「正義」とか「善」という価値観が逆転しかねない。 

 

野党の責任について

 

こういう訳で民主主義、民主政治という言葉は美しく、話し合うということは、素晴らしい事ではあるが、これほど難しいこともない。

政治論争の場でインタビュ−すると、必ず「もっと話し合えば!」という答えがあるが、これは一種の観念論であって、話し合えば結論がでるとは限らない。

話し合っても無意味な議論、空回りの議論だけで、結論に達しないときには、どうすればいいのか、という解答にはなっていない。

この結論をはっきり表明する勇気のない人が、話し合えばいい、という逃げの解答をしていると見ていいと思う。

つまり、本音を隠した答え、本音を言う勇気ないということである。

政党というのが本音を云えない、ということは既に政党としての機能を喪失いるということである。

本来、政党というのは本音を同じくするものの集まりでなければならないのに、本音を言えば票が逃げるという事自体、政党政治の終焉を意味している。

自民党は一党独裁をめざしているわけではないが、結果的にはそれと同じになってしまっている。

これは自民党の責任というよりも、野党の責任である。

特に野党第一党の社会党の責任である。

社会党が反政府、反自民の一点張りでは、国民の信頼を得られない。

先の消費税の問題においても、増税ということであれば現行政権が何党であっても、得票率が下がることは必然である。

それを承知の上で自民党、自民党政府は実行に踏み切ったわけである。

あの消費税の問題においても、その根っこの所には福祉の充実という事がある以上、本来ならば社会党が率先して推進しなければならない問題であった。

けれども反対反対で、福祉をどうするかという答えは出さずじまいである。

増税がはっきりしている以上、一時的に自民党の票が減ることは仕方がない。

日本国民をはじめ、世界中で、税金を取られて喜ぶ人はいない。

一時的に票が減ることは致し方ない。

民主主義のもとで、民主政治を貫こうと思えば、やはりデモクラシ−の基本である、最大多数の最大幸福の線にならなければならない。

社会党が増税に反対することは、一時的に、世間の印象を良くすることは間違いない。

しかし、そういうイ−ジ−な施策だけを狙っていては、本当の国民の信頼というか、国の舵取りを任せることは出来ない。

PKO法案でも、この法案が通れば、旧日本軍の侵略思想が復活する、と云うような論調は、大衆受けしやすいスロ−ガンであるが、憲法第9条を抱えた日本が、如何にして国際的な貢献をするのか、という方法論を論ずるよりもイ−ジ−な施策である。

こういう、一時的な大衆受けするスロ−ガンを並べることにより、いかにも国民全般の事を考えている、というポ−ズを取っていては国民の信頼を得られないのも無理はない。

これは心ある人から見ると、うわべだけの綺麗事にしかすぎない。

この20世紀も終わろうとするグロ−バル化された国際経済の中で、貿易立国でしか生き残れない日本にとって、GNPに相応した国際貢献というものが、全地球規模で求められているときに、一人の軍人も平和維持活動部隊に出せないでは、国際社会の中では通用しないと思う。

そういう事は、社会党の中でもわかっているにもかかわらず、政府提案だから反対というのでは、あまりにも国民を愚弄するものだと思う。

野党の立場というのは気楽なものである。

法案が通った後でも、結果が悪ければ「ソレ見ヨ!」と云っていればいいし、結果が良かった場合は、知らん振りしていればいいわけで、結果に対して何ら責任を負うものではない。

 

日本人の外交感覚

 

PKO法案をめぐる「激論、朝まで生テレビ」で、中国の学者であろうと思うが、国際キリスト教大学のカンという人物が面白い発言をしていた。

つまり、「日本は戦後、アジアで集団安全保障に関するイニシチャブを取ったことがない」ということを強調していた。これはいささか愚問である。

日本はアジアにおいて、あらゆるイニシチャブをとらないほうがいい。

ところが外国人の目から見ると、我々の感覚とはまた違った思いがあるのかもしれないが、日本はアジアにおいては、常にNo2の位置にいるべきである。

金だけ出して、発言には一歩下がって、No2の位置にとどまるべきである。

と云うのは、日本人というのはついつい自分の流儀で行動を起こしてしまい、その行動によって、新たな歪みを、自分の気が付かない間に作ってしまうからである。

そして自分では思っても見ない顰蹙を買ってしまうので、日本人というのはアジアでは一歩下がった立場で、ある程度のスタンスを保った上で、発言なり行動をすべきである。

国際キリスト教大学のカン教授は日本人の本質を十分解っているとは思われない。

日本の過去の歴史を知ってはいても日本人の本質を知らない。

我々、日本民族というのは、やはり世界の他の民族と比較すれば明らかに異質だと思う。

もしそうでなければ、戦後46年間で今日の様には成り得なかった筈である。

第2次世界大戦の戦勝国が、この間あまりウダツが上がらなかったのに比べ、日本の突出ぶりは、明らかに日本民族が他の民族よりも異質であることの証明である。

世界の常識が日本では非常識、また日本の非常識が世界では常識と云われている。

これは日本民族の異質ぶりを、如実に、ストレ−トに表現した言葉のような気がする。

世界の常識が、日本の中でもそのまま常識として通用していたならば、日本も地球上の標準的な民族であり、日本という国家も、標準的な国家であろうと思う。

世界の常識が、日本では非常識になっているところが、日本人のバイタリテイ−であり、活力であり、特異性であろうと思う。

憲法第9条の存在などは、その典型的なものだと思う。

世界の著名人の中には、日本の憲法第9条を誉めたたえる人がいる。

しかし、自分の国の憲法について、他国の人に意見を聴く事自体が可笑しいのであって、こういう点が日本人の外交感覚の幼稚な点であろうと思う。

外交音痴というか、井戸のなかの蛙というか、仮に、日本の憲法をどう思うか、と聞かれた外国人は、どう答えればいいのかといいたい。

相手が世界的に著名な政治家ともなれば、その答えはどうしても外交辞令になってしまうことは必定であり、少なくとも「貴方の国の憲法は間違っている」とは言えないことであるし、言うべきでもないし、答えは一つしかない。

腹の中はいざしらず「貴方の国の憲法は素晴らしい」としかいいようがない。

100年前ならば、その答え次第で、戦争にも成りかねないし、十分戦争の口実には成り得たのである。

だから、日本側から外国人に「憲法第9条をどう思うか?」と質問したところで、帰ってくる答えは一つである。

「あれは世界に類のない素晴らしいものである!」という答え以外にない。

しかし、相手は腹のなかで笑って「自分の国のことは自分で決めよ!」と思っているに違いない。

日本人の外交下手、外交音痴ということは、日本の民俗性に起因していると思う。

日本人が明治以降世界に出掛けていって、西洋の文化文明を吸収して帰ってきて、それを日本国内において普及させた功績というものは認めざるをえないが、外交というのは、文化文明とは次元の違う分野である。

外交と戦争、対外戦争というのは、紙一重の違いで、外交が上手でありさえすれば、不必要な戦争というものは、かなり減らすことが出来る。

しかし、今後の日本人が戦争というものを回避しなければ、という指針に基づいて生き続けるとすれば、外交ということをもっと真剣に考えなければならない。

外交というのは政治の一環であり、政治抜きで、外交だけということはありえない。

PKOの問題というのも、大きな視点に立てば外交の一環である。

国内法でありながら、国際関係、つまり外交問題と深く連携し、リンクしている。

日本人の外交下手は、すでに明治24年の日清戦争の時から連綿と続いている。

そして、最大の外交的失敗、外交のミスが太平洋戦争である。

あの状況において、外交というと野村全権大使のことになるが、本当は、その前においてABCD包囲網が最大の外向的山場であって、野村全権大使というのは、既に世界各国が戦争遂行の腹を決めた後のことである。

もっと言えば、アメリカが日本を罠にはめる決意をした後のことで、野村全権大使はどちらに転んでも、会談決裂の憂き目にあうことになっていた。

外交というのは、外交官の口先だけで出来るものではない。

日清戦争の時の、李鴻章など、実に鮮やかな外交手腕を取って、せっかく日本が戦争で取った遼東半島を、口先3寸で取り返してしまった。いわゆる3国干渉のことである。

これなどはまさに外交手腕の妙である。

東西冷戦の終決も、アメリカの外交の成果だと思う。口先だけの成果だと思う。

また、相手より有利、有利になるように振る舞うだけでも駄目で、その根底には、自国民もさることながら、地球規模の人類愛がないことには、外交交渉というのは良い結果が生まれないと思う。

日本が先の太平洋戦争で、外交的に失敗したのは、アメリカ側は最初から日本を戦争に引き込むことを考えていたわけで、それが見破れなかったから罠にはまってしまったことに起因する。

中国からの撤退を拒否しようとした結果がABCD包囲網となったということは、それまでのつなぎの経過であり、最終的に日米決戦という結果を招いたのは、アメリカ側の既定方針であったのである。

この例を見ても分かるように、外交というのは外交官だけのものではなく、政治全般が深く関わり合っているわけである。

最近の例では、一昨年の日米構造協議というのが隠れた外交問題だと思う。

しかし、あれが外交問題であるという認識はあまりない。

日本の知識人も、あれを通商問題だという風な認識に立っているが、あれは明らかに外交問題である。

日米構造協議が、お互いの国の内政にまで深く立ち入っているといる事を見逃してはならない。

だからといって、すぐ日米戦争になるかというと、これはまた別で、今時は、何処の国でも戦争回避の考え方が強いので、そう単純には語れないが、相互の不信感を取り除く努力というものは並大抵ではない。

そういう見方からPKO法案を眺めると、これは自衛隊を出す出さないというレベルの問題ではないはずである。

この部分を反対派の人々はどうしても理解しようとしない。

PKOというのは、Peace Keeping Opelation、文字通り、平和を維持するための活動、ということを理解しようとしない。

平和的な貢献なら民間ボランテイアで出来るといっている。

今の日本の状況、この恵まれた状況の中で、ボランテイアとして、一銭にもならない、風土病があるかもしれない、ポルポト派が銃撃してくるかもしれない、地雷があるかもしれない地域に入って、現地の人々を救けなければ、という奇特な人間が見つかるとでも思っているのだろうか。

先の湾岸戦争の際、クルド人の救援に、医師団のボランテイアを募った時、集まったのはわずか1割にも満たなかったではないか。

忘れてならないのは、こういう状況下の勤務地、任地には、自衛隊員でも本当は行きたくないということである。

PKO法案が可決した直後、TVの取材班が自衛隊員にインタビュ−していたが、大部分の隊員はコメントすることを避けていた。

自衛隊員の本音としても、出来れば行きたくないであろうと思う。

今の日本の状況から考えて、日本人は、金さえ出せば地球上何処にでも行ける。

アメリカのラスベガスから、スイスアルプス、アフリカのサバンナから中国の万里の長城まで、何処へでも行ける。

なにも好きこのんであんな危険な所に行きたがる人はいない。

しかし、それでは地球規模で見た場合、戦争や紛争の犠牲になって戦っている人々を、黙って見捨てていいのかということになると、これは何とかしなければならないと云うのが今回のPKO法案であるわけで、自衛隊が行くのだから憲法違反であるとか、戦争に巻き込まれる、という議論は成り立たない。これは即ち外交の一環である。

こういう状況というのは、我々の日常生活の身近なところにもあると思う。

例えば町内会でも会社の行楽でも、金だけ出して、全く参加しようとしない人間がいたとしたら、その人のことを周囲の人間はどう思うだろう。

おそらく面白くない気持ちであろう。

金も出したうえで、一緒に行動するということはこれと同じだと思う。

えてして知識人というのは、こういう別行動を取りたがる。

自分は並みの人とは違うんだ、という事を見せ付けたがる傾向がある。

それによって周囲の人間がどれだけ不愉快に思っているのか、というところまで考えが及ばず、知識人の特権だとでも思い込んでいる節がある。

社会党の主張を平たく噛みくだいて云えば、こういうことになると思う。

PKO法案のもとで、自衛隊も含めて、国際連合の下で、国際的な平和維持という貢献をしようというのは、明らかに外交の問題である。

日本が貿易立国として、これからも国際社会の中に受け入れられるためには、こういう実績が是非とも必要であろうと思う。

 

社会党の行動について

 

PKO法案成立の過程の中で、我々国民が最も危惧しなければならない事は、社会党の牛歩戦術と辞表提出の問題である。

牛歩戦術というのは全く意味をなしていない。

一つの法案を成立させようという場合、たとえ自分の意に沿わない法案に、反対するにしても、民主主義というのは、多数決が原則であるのだからこれは致し方ない。

牛歩戦術で時間を掛けたとろで、成立するのを阻止できない。

その前に、審議の中で堂々とその所信を述べて、後は多数決に委ねる、というのが民主主義議会制度の本来の姿である。

社会党は、時間切れを狙った時間稼ぎ、国会の閉会の時期が近いのを見越して、審議未了、廃案に持ち込もうとした牛歩戦術であったが、これは自公民路線の前に敢えなく失敗したわけである。

あの場合、社会党の取り得る最良の手段は、法案は通過させるが、その中に歯止めを入れる、という手段を取るべきであった。

しかしあの法案を読むと、社会党が歯止めを掛けなければならない点は何一つない。

実にそつなく出来ている。

あの中で、国会の承認を得るというのは、公明党の方針を入れたものだと思うが、一つか二つ交換条件を入れることによって、法案そのものは通過させる、という戦術を取るべきであった。

今回、公明、民社が自民党に協力した形になったが、本来、こういうのが本当の政党政治の姿であると思う。

何でも反対、1から10まで全て反対というのでは、真面目にものを考えている姿ではない。

反対のための反対と云われても仕方がない。

牛歩戦術というのは、まだ国会の中での戦術であるが、辞職願いの提出というのは、国会の外に出てしまって、国民から選出された国会議員という立場を放棄してしまったということである。

自分の後には自分を選出してくれた何10万という選挙民がいると云うことを忘れた行為である。

ここが私の云う党内ファシズムというものである。

国会議員がその立場を放棄してしまって、なにが国会議員かといいた、国会議員がその立場を放棄すればただの人になってしまう。

PKO法案によって自衛隊員は戦場に出掛けるわけではない、しかし、国会議員の戦場は、国会の審議の場が彼らの戦場であるはずである。

これは戦うことを忘れた兵士と同じで、国会議員の資格を自ら放棄した社会党の議員は、議員の資格がない。

社会党の下部組織は、よく黙ってみているものだと、これも不思議な現象である。

自分たちが選出した議員が、勝手に議員の立場を放棄してしまって、よく黙っておられるものだと思う。

自分たちが折角選出したのに、勝手に辞職するような国会議員に、いつまで義理立てするのかといいたい。

今回の法案には、公明党と民社党が自民党に協力する形で手を貸しているが、これは当然なことで、正常な政党であるならば、ある時はこっちにつき、ある時は反対側につくという、法案毎に流動的であるのが本来の姿だと思う。

政府のやることは何でも反対、という考え方では固定観念から脱却できないし、硬直した政党であるといわれてもし方がない。

前の消費税の時は、税金を取られて喜ぶものはいないので、公明、民社も野党に回らざるをえなかっただろうが、今回のような、地球規模の人類愛に根ざす問題においては、社会党のように、徹底坑戦をする必要はないわけで、あっさり与党側に回ったと見るべきであろう。

しかし、不思議なことに、社会党の中では、こうした人類愛というものが存在していないのであろうか。

東西冷戦が終焉したら、米ソの重圧が取れて、一気に民族紛争が噴出してきた。

旧ソ連領をはじめ、地球上のあちらでもこちらでも、民族紛争が沸き上がってきた。

それに伴って、避難民というものが、ぞくぞくと表れてきた。

こうした避難民を救助するという事が社会党の云うようにそんなに悪いことであろうか。社会党の言い分によると、「自衛隊でなければいい」というわけであるが、他にどんな組織があるのかといいたい。

国内において、普賢岳の避難民救済の例を見る迄もなく、ああいうことが、自衛隊の他の組織で出来得るものであろうか。

そういう現状を見るにつけ、社会党の言っていることは、マイナスになることはあっても、プラスには成り得ない。

 

マスコミの在り方

 

日本の政治を論ずる場合、マスコミの報道の仕方というのがどうも気に入らない。

今回の問題でも「海外派遣に道が開けた!」と云う論調である。

これでは、自衛隊員が際限もなく、どんどん出掛けていく、というニャンスを込めた見出しである。

PKO法案の主旨を、わざわざ曲解して報道するというのがマスコミの論調である。

マスコミというのが、故意に社会党や共産党に迎合するような論調をしていると、いずれ検閲という事態、というよりも、揺り戻しの風潮が出てくるような気がする。

マスコミというのは、政府の提灯持ちのような紙面を作っていては面白みがないから、センセ−ショナルな見出しを好んで付けるので、PKO法案が成立すると「自衛隊の海外派遣に道」、という云い方に成るかもしれないが、PKO法案をよく読んでみると、仮にPKO法案で海外に派遣されることになったとしても、自衛隊だけが単独で行くわけではない。

しかし、そういうセンセ−ショナルな部分でないところは、故意に表明せず、自衛隊のみを前面に押し出して、社会党や共産党に媚びる見出しを付ける。

一般国民は、自衛隊員が何万人も、銃を持ったまま外国に出掛けるのか、という印象を持つ。そういう風に仕向けるよう、マスコミはマスコミの論理で報道する。

自衛隊が憲法第9条に抵触しているので、その部分のみを強調するというのは、わからな出でもないが、このことが戦争に繋がるだとか、昔の軍国主義の復活だとか、そういう方向に生きつつある、というニュアンスで報道することは、事実を故意に曲解しているとしかいいようがない。

法案をじっくり読んでみれば、そんなことは見当らないし、派遣される側の自衛隊員においても、誰一人そういうことを考えている人間はいないと思う。

それよりも、この法案が真っ先に適用されるであろうカンボジアの場合、ポルポト派というのが今だに武装解除していないと聞く、これをどういう風に解決するのか、というのが目下のところ最大の問題である。

最近のゲリラ組織というのは、ギャング団と同じで実に困ったものである。

何処の国の政府も、やっていることが全て正しいわけではなかろうが、この政府に対するゲリラ組織とかテロ集団というのは、全く困ったものである。お手上げである。

アイルランドのIRAにしても、カンボジアのポルポト派にしても、フイリッピンにしても、南米の場合でも、反政府ゲリラ組織というのは、ギャング団と同じである。

カンボジアのポルポト派というのは、共産勢力といわれているが、それならば共産党が出掛けていって武装解除するように説得すべきである。

社会党にしろ、共産党にしろ、そういう危ないところに出掛ける事無く、火中の栗を拾うことは避けて、口先だけで反対反対である。

 

安保条約の効用

 

それともう一つ心配なことは、日本の国民の中で、戦争を知らない世代が多くなってきたという事である。

戦後の世相というのを眺めてみると、戦争体験のある世代は、私が想像するいじょうに革新的な政党を指示する傾向がある。

戦争中の体験が、反自民に走らせるということは理解し得るが、これと同じで、戦争の体験を知らない世代が、社会党や共産党の云っている事にころりとだまされる傾向がある。先程の、新聞の見出しをみても、PKO法案が通過したら、自衛隊がどんどん海外に出掛ける、ものと単純に思い込む節がある。

これはマスコミにも責任があるが、若い世代というのは、こういう新聞の見出しのようなものに簡単にひっかかる傾向がある。

それが証拠に、カ−ド破産というトラブルがある。

あれは、若い人が、前後左右の状況というものを考えずに、その場だけのフィ−リングで物事を処理する傾向があるから、こういう事態を引き起こすと見ていい。

若い世代が戦争というものを知らず、それと同時に、国際貢献ということも知らず、日本が貿易立国で成り立っている、という現実も知らず、いたずらに新聞の見出しだけで物事を考えているとなると、これは由々しき問題といわなければならない。

私自身、昭和15年、1940年生まれで、現在52才である。

52才の人間でも、戦争の体験というのは皆無である。

兵役の体験もなければ、学徒出陣の体験もない。

戦争を体験した世代というのは、少なくとも60才より上の世代でなければならない。

私の世代は、終戦後の体験は語れても、戦争の体験は語る資格がない。

この間46年間約半世紀近く我々は戦争というものを身近に経験していないわけである。これは実に有り難いことである。

我々は、半世紀近くも平和な環境のもとで、ぬくぬくと経済成長が出来たのである。

これを国際的な視野で眺めてみれば、日米安保条約のお陰であったと思う。

アメリカの傘の下で、自衛隊という、GNPのわずか1%の国防費で、ぬくぬくと経済成長、経済発展だけに専念できたのである。

一重に日米安保条約の賜物である。

先に外交の問題を述べたが、日米安保条約というのは、外交という面から捉えてみると、完全に成功した部類である。

60年代、70年代に、この日米安保条約の改定の時期に、日本の進歩的知識人の大部分は、すべからくこの日米安保条約の自動継続に反対したものである。

もし日米安保条約がなく、日本が独自で、自衛、防衛ということをしていたら、国防費というのは、GNPの1%では納まっていなかったであろう。

国防費、防衛費がGNPの1%で済んでいた、ということは実に素晴らしいことである。安保只乗り論というのも、ここに起因するのであるが、国防に金を掛けずに済む、ということは実にありがたいことである。

自衛隊というのは、ほとんど発足以来、定員を充足したことがない。

ということは、別の言い方をすれば、その分、民間の方に人間が流れてしまって、自衛隊員になりたいという人間が集まらなかったということである。

日本の高度経済成長は、慢性的に自衛隊員の定員不足を招いていたのである。

これは極めて平和的であり、歓迎すべき現象であった。

世界の全ての国々が、この日本のような状況になれば、この世から戦争も、紛争も、民族闘争もなくなるであろう。

そうすれば、PKO法案によって自衛隊員が海外に出掛ける必要もなくなるであろう。

この慢性的な人手不足で、民間企業はロボットやオ−トメイションの導入をせざるをえず、そのことが日本の民間企業の合理化を一層進め、その合理化が、民間企業の経営者の至上命令になったわけである。

日本のGNPを支えるためには、人手不足が致命的な障害であったわけで、これを克服するために、合理化が推し進められ、合理化に成功すると、さらにGNPが延びるという良い方向への、経済成長を助長する方向に、世の中の歯車が作動したわけである。

その元の所には、日米安保条約で、日本は国防費を節約すると同時に、人の面でも労働力を節約できたわけである。

国防費の節約ということは、ただ単に予算の節約ばかりでなく、人的資源の面でも同様のことが云えたわけである。

仮に、日本に徴兵制があったとしたら、18才から22、3才の青年を強制的に兵役につかせたとしたら、どんな現象が起きるか想像してみると、とても今までのようなGNPの延び、経済的発展は望むべくもない。

若年労働者というのは、今でも不足している。

その反面、合理化、ロボットの導入というのも、そろそろ限界にきていると思う。

開発されるべきロボットは、ほとんど開発され尽くしたのではないかと思う。

日本がこういう状況に立ち至ったのも、日米安保条約があったればこそである。

60年代、70年代の、安保闘争において、日米安保条約の自動延長に反対した人々は、この状況をどう説明するのだろうか。

日米安保条約の傘のなかにおりながら、アメリカの悪口を言っておれるのも、誰のお陰か考えたことがあるのだろうか。

日本の進歩的知識人の憧れの的であった旧ソ連の現状がどうなったのか、とくと眺めてみるがいい。

旧ソ連の内部で、体制批判が自由に出来たかどうか、旧ソ連の実態は、崩壊後ぼつぼつ公開されてきているが、そういう現実をどう認識しているのか。

旧ソ連というのは、国防費に莫大な投資をして、パンクしたのである。

アメリカも今パンクしかかっている。

その中で、日本のみは、安保只乗りで経済成長をとげ、金がだぶつき、黒字が溜まって困っているのである。

PKO法案というのは、人を出して国際的に貢献しようというものであるが、金もどんどん出せばいい。

黒字がゼロになるまで出し続ければいい。

どうせバブルで集めた泡銭である。

悪銭身につかずの例えの通りゼロになるまでODAに寄付すべきである。

しかし、ODAと云うのもあまりあてには出来ない。

 

ODAについて考える

 

ODAと云うのは政府間開発援助

Offcial Develpmento Acisutanceと云うことで、先方は未開発の国、貧困な国が対象である。

こういう国家に金だけ出しても、上手に運用することができない。

そういう事例は枚挙にいとまない。

考えてみれば、この地球には一般大衆でも、車に乗ってク−ラ−のある家でテレビを見て楽しむことの出来る国と、裸で椰子の葉でふいた家でハンモクに寝転んでいても済む生活があるわけで、そういう人々が地域的にかたまって生活しており、全体として共存共栄しているわけである。

ODAを必要としているのは、概して後者の部類である。

ODAをしなければならない地域というのは、往々にしてPKOが出ていかなければならない地域と合致している。

未開の人々、低開発国の人々というのは、車とか、ク−ラ−とか、立派な家と云うものを望んでいるとは限らない。

彼らには彼らの生活の規範があり、我々が自分のレベルに照らし合わせて、勝手にそう思い込んでいるとも云える。

彼らにしてみれば、経済問題も、国防の問題も、国際貢献も、日常生活にとっては全く関係のない問題であろう。

彼らに与えなければならないのは、豊富な天然資源、つまり、汚染されていない魚とか、綺麗な海とか、経済に毒されていない自然のままの人間の心、とかが必要なのであって、我々とは欲望の在り方が違っていると思う。

こういう人々を、我々の欲望のレベルまで引き上げようとするからODAであり、PKOであると思う。何のことはないこれは環問題である。

彼らに、ODAでトラクタ−や高速の漁船を贈ったところで、彼らは経済的な競争を否定しているので、その使い方も覚えようともせず、それを利用して金を沢山稼ごうという欲望もないわけである。

日本がODAで金をばらまいたところで、その金は回り回って、再び日本に帰ってくるか、現地の一部の支配者の懐を肥やすだけにおわってしまう。

一昨年、南米で日本の海外青年協力隊員の方々が、被害に会われたことがあるが、彼らの認識はあの程度である。

自分の国に技術的な指導にきてもらっても、有り難いという気持ちはさらさらなく、その場限りの金、乃至は身の代金目当ての行為であり、自らがそういう援助を拒むような状況を作り出している。

こういう、海外の協力隊員の安全をフォロ−することにかけては、日本政府というのは実に冷淡である。

PKOとういのは、こういう地域に出掛けていくわけであるが、カンボジアというのは、まさしく今述べた条件がぴったりと当てはまる。

けれどもPKO活動というのは、日本の派遣隊員が単独で行動するのではなく、国連としてのチ−ム・ワ−クで行動するので、海外協力隊員が被害にあうような状況にはならないだろうが、こういう状況を考えるに、どうして社会党や共産党のように反対しなければならないのだろうか?

 

世の中の浄化

 

政党の発言というのは全く無責任なことばかりである。

参議院選挙が始まった7月10日、各地で一斉に各政党の党首の演説が行なわれているが、その中で共産党の金子書記長の演説に「自公民が作ったPKOで動員されるのは国民だ!」と云う下りがある。

これなどは全くの嘘というか、虚偽の演説というか、事実ではない演説である。

憲法第9条の拡大解釈というのは理解できるが、PKO法案をいくら拡大解釈しても金子書記長の云う「自公民が作ったPKOで動員されるのは国民だ!」という事にはならない。こういう例は枚挙にいとまないが、こういう間違った事を、堂々と声高に拡声器で流し、「赤旗」で書き散らすと、何も知らない国民は、共産党の言っていることを信じてしまう。

今の日本の現状では、共産党や社会党がこういう虚偽の宣伝をおこなっても、何ら取り締まることが出来ないのではないかと思う。反論するにしても、反論の場がない。

「朝まで生テレビ」という番組では、論者を多方面から集めているので、こういう場面の反論はあるが、こうした虚偽の宣伝で、国民を惑わすような発言、というのは何らかの制裁が必要ではないかと思う。

全くの事実無根、事実の曲解を、堂々と国民の前で、声高に行なうというのは、犯罪に近い行為だと思う。

公約と実際の行為とが食い違う。公約通りに実行が伴わなかった、というのならまだ情状酌量の余地があるが、事実というか、本義を全く無視した虚偽の発言、というのは何らかの制裁があって然るべきである。

こういう発言をすると、昔の検閲の復活を望んでいるように受け取られそうであるが、あまりにも世の中が乱れてくると、検閲の復活もあり得るのではないかと思う。

世の中があまりにも自由で、何の規制もないと、人間は自制心まで失われてしまい、それが普遍化してしまう。

世の中を浄化する、というと検閲の復活、という事態を容認しなければならなくなる。

だから昨今というより、共産党や社会党のモノの云い方も、程々にしておいてもらわないと、また世の中が窮屈になる。極端から極端に走りすぎるきらいがある。

世の中が、あまりにも民主化されて、何を云っても容認されるとなれば、その反動、揺り戻しということが出てくると思う。

この揺り戻しが検閲につながらなければいいと思うが、私はそれを危惧する次第である。                         

社会党の作戦

 

今回のPKO法案成立の全過程を通して、社会党の取った作戦は全面的に失敗であった。法案の中に妥協点を入れて、程々のところで妥協しなかった、という面を含めて、あの牛歩戦術も、辞職願いの提出も、この両方ともが、作戦の段階で敗北であった。

そして公明、民社は上手に振る舞ったという事が云える。

このPKO法案というのは、消費税の問題と違って、国民の大部分の心の中では、国際的な貢献というものはなんとかしなければならない、という心理があったと思う。

ところが、この心理は社会の中にも大なり小なり存在しているはずなのに、自衛隊絶対反対という、従来からの建前上、自衛隊ということにあまりにも固執し過ぎて、自衛隊という部分を除けば、社会党といえども妥協できる点はあったに違いない。

公明、民社というのは、自衛隊というものを容認しているので、その分、自民党と手を結びやすかった。

社会党も心の中では、国際的な貢献というものを全く否認しているわけではなかろうに、別組織という対案まで言い出すくらいである。

PKOの中に、自衛隊さえ入っていなければ、妥協すべき点はあったに違いない。

しかし、今回の騒ぎを、全般的に見ると、社会党は国際的な貢献そのものに反対しているという感じがする。

それ故に、自衛隊の海外派遣、という印象を植え付けようとしている風に見える。

PKO法案をよく読んでみると、あの中には、海上保安庁も入っており、その他の行政機関という表現で、他の官庁も入っている。

他の行政機関に対しては、明確な記述はないが、多分、警察や消防であろうと推測する。PKOというのは、自衛隊だけが鉄砲を持って出掛けるのではない。

その点を社会党は、あたかも自衛隊が戦場に出掛ける、という感じでPRしているが、これは、この法案を読んでみれば、決してそうではないことがわかる。

社会党は自衛隊にこだわるあまり、こういう宣伝というか、キャッチ・フレ−ズの元で、何が何でも反対、という態度を崩さなかったが、かえってこの方が社会党の評価を下げさせる要因であろう。

そのことを強調するあまり、全地球規模で人命救助を行う、という事を否定した形になっている。

良識ある人が、PKO法案を読めば、これは社会党の言っている事とが、間違っているということに気が付いてしまう。

この一連の騒ぎの中で、公明、民社が自民党に協力したことについて、日本のマスコミは与党連合がこれからも続くのか、という質問を公明、民社にぶつけていたが、マスコミというのは、どうしてああ短兵急に結論付けたがるのであろうか。

この質問に対して、両党とも個々の法案に対して反対もあれば協力することもあると回答していた。

これは聞く前から答えが分かっていることであるし、またそうでなければ、政党政治の意味がないではないか。

こんな馬鹿げた質問もないと思うが、マスコミは、これからも自公民3党が結束していくことを願っているようなニュアンスが感じられた。

これは質問する方、に政党政治の何んであるかを理解していない、のではないかと思えてならない。

投書の件

 

新聞というのは、あまり信用できるものではないが、読んでいて面白い事も事実である。

平成4年7月13日、の中日新聞に次のような投書が掲載された。

これはなかなか面白い投書なので、全文引用させてもらうことにする。

「民主主義放棄、厚相の暴言

山下厚生大臣が河本派のセミナ−で、名古屋テレビ朝日系「ニュ−ス・ステ−ション」の国連平和維持活動(PKO)報道について、「久米宏は偏った報道をしている」とか「ああいう番組のスポンサ−の商品は買わないくらいのことを自民党はやる必要がある」などと発言したそうであるが、事実とすれば、日本の国是にかかわる重大問題だ。

本来、民主社会におけるジャ−ナリズムは、国民の側に立って国家権力をチェックする機能を果たすことを使命としている。

つまり「国民の側に偏った報道」をすることによって、はじめて巨大な国家権力と、無力な国民とのバランスが保たれる。

だからこそ、民主社会においては言論の自由が不可欠なのだ。

かって敗戦前の日本では、ジャ−ナリズムが上記の使命を放棄し、政府の宣伝機関に成り下がったために、国民を戦争地獄にかりたて、国家を破滅に導いたのではなかったか。

山下厚生大臣は、再びその過ちを繰り返せというのか。

民主主義国である、わが国の大臣としてあるまじき発言である。

陳謝して発言を取り消すか、さもなければ閣僚として不適格である、と認めて辞任するかはきりさせてほしい。  名古屋市昭和区 吉田 理 無職 60才」 

この文章を読んで、これは相当なインテリの人ではないかと思った。

しかし、私はこの文章で、二つの点でひっかかるところがあった。   

その一つは、前半において「ジャ−ナリズムは国民の側に立って、国家権力をチェックする機能」という部分と、後半の「ジャ−ナリジムが上記の使命を放棄し、政府の宣伝機関に成り下がったために」という部分である。

この部分は、私の意見と全く同感である。

ジャ−ナリズムは国家権力をチェックする機能を持つものであるし、それが国家権力に屈して、云うべきことを云わなくなったので戦争につながったということも同感である。

しかし、この筆者は、短い紙面の中で書き尽くせなかったのかもしれないが、本当はジャ−ナリズムの姿勢そのものが問題なのである。

ジャ−ナリズムというのは、反政府、反自民の一辺倒では、チェック機能をはじめから放棄していると言ってもいいと思う。

はじめから色眼鏡を掛けていては、国民にとってはチェックする機能がないに等しい。

世の中のジャ−ナリズム、マスコミというのは、全部が全部、反政府、反自民、反国家ではチェックのしようがなく、選択枝がないではないか。

かって岸首相だったと思うが、「新聞は嘘を書くから、テレビで語る」と言ったことがあるが、しかし、テレビといえども、情報操作というのは可能なわけで、写っている間は真実であっても、その真実を繋ぎ会わせる段階で、どういう風にでも情報操作ができる。

新聞が嘘を報道するということは、今でも変わっていない。

新聞が故意に嘘の報道をしなくても、嘘の発言をそのまま報道すれば、嘘の報道ということになってしまう。

この状況がこのまま続けば、検閲という反動もあり得るのではないか、と云うのが私の心配であって、マスコミ、ジャ−ナリズムというのが、バランス感覚を取り戻さないことには、先行きが心配なことは先に述べた。

甲の意見も、乙の意見も、丙の意見も、バランスよく按配して報道してこそ、マスコミ、ジャ−ナリズムの国家権力のチェックということが成り立つのであって、マスコミ、ジャ−ナリズムが最初から色眼鏡でものを見ていては、国民の判断は、又、間違ってしまう。

というのが、私の持論である。

また、国民と国家、政府というのは、最初から対立するものではない、ということも忘れてはならないポイントである。

我々は共産主義の一党独裁の政治体制の中で生活しているわけではない。

自由主義、民主主義という、恵まれた政治体制の中での国民である。

自由主義体制であればこそ、社会党も共産党も自由奔放に、政府や国家の悪口を言っていられるのである。

マスコミも、又、然りである、自由主義体制の中においては、国民と国家の間には、最初から対決するものではない。

そういう意味で、ジャ−ナリズムと国家というのも、最初から対決するものではない。

自由主義体制の中でのジャ−ナリズムであればこそ、政府批判、国家権力のチェックができるのである。

国家権力のチェック、批判ということは、対決するという、立場とは違っている。

ところが、日本の知識人というのは、国民と国家とは対立の存在だと思い込んでいる。

又、ジャ−ナリズムも、国家とは最初から対決すべきものだ、と思い違いをしている。

この投書した人が、後半に述べている、ジャ−ナリズムがチェック機能を放棄したので、戦争になった、という部分は共感を得るところであるが、私もそう思う。

がしかし、あの時点では、機能を失うというよりも、ジャ−ナリズム自身も軍国主義者になってしまったのである。

つまり、ジャ−ナリズムは国家権力のチェック機能を放棄したのではなく、ジャ−ナリジムが国家権力に迎合したのである。

何故、迎合したのかといえば、軍国主義という、姿の見えない悪党、悪魔の金縛りにあったのである。

この姿の見えない悪党、悪魔に取りつかれたのは、ジャ−ナリズムだけではなく、農民も、学校の先生も、鉄道員も、政治家も、大学も、日本の国民の全部がそうであって、ジャ−ナリズム、マスコミだけがいくらあの時点で頑張ってみても、悪魔の力には勝てなかったであろう。

この投書のきっかけとなった、山下厚生大臣の発言は確かに不穏当ではある。

今日の世情の中では、格好のニュ−ス・ソ−スにはなり得るであろう。

しかし、山下厚生大臣にこう云わしめた久米宏の発言の方はどうであったのか、という点では、審判のしようがない。

事の流れから推測すると、始めに久米宏のPKOに関する発言があって、それに対する山下厚生大臣のコメントが不穏当であった、ということだろうと思う。

こうなると喧嘩両成敗でなければならない。

山下大臣が閣僚だからいけない、というのであれば、久米宏というのは、ニュ−ス・キャスタ−である以上、偏った、偏見に満ちた発言は慎まなければならないと思う。

マスコミに、こういう偏見に満ちた発言を許されるとしたら、不偏不党という看板を下ろして、「我が新聞社は何何政党を支持します、我がTV局は何何政党を支持します」ということ、つまり政策、ポリシ−を、明確に表明してから報道すべきである。

公には、どの政党にも肩入れしない、不偏不党ということを公約しておきながら、故意に偏った報道やコメントをしては、国民を惑わす元である。

「赤旗」や「聖教新聞」のように、社のポリシ−を明確に表明すべきである。

ジャ−ナリズムが国民の側に立って国家権力をチェックする、という表現もおこがましいと考え方だと思う。

日本は主権在民である、国家権力をチェックするのは国民でなければならない。

ジャ−ナリズムが国民の側に立とうが、国家権力の側に立とうが、それはジャ−ナリズムとは直接的な関係はない。

ジャ−ナリズムというのは、国民がチェックする判断材料のみを提供するだけでいいのである。

それを自ら審判を下そうと思い上がっている、ところが不遜である。

ジャ−ナリズムというのは、国民の意識を、ジャ−ナリズム自身が望む方向に、作為的に導くことが、権力のチェックだと、勘違いしているところが思い上りである。

ジャ−ナリズム、マスコミというのは、この思い上りがあるので、我々国民サイドから見ると、鼻持ちならない。

久米宏のニュ−ス・ステ−ションというのは、人気のある番組であることは認めざるをえないが、それならば、一層、久米宏というのは、自分の発言に気を配って、片一方の意見のみに偏らない、慎重な発言をすべきである。

それでこそ、国民に国家権力をチェックする、正確な判断材料を提供できるというものである。

テレビの電波を利用して、個人的な感情で、安易な個人的な意見を述べてもらっては困る。マスコミの業界というのは、こういう平衡感覚に欠けるところがある。

同じテレビ番組でも、「激論、朝までテレビ」というのは、各界の、立場を鮮明に表明している人を登場させているので、これはこれで、かなり公平な平衡感覚であると思うが、こういう討論の場になると、社会党や、共産党というのは、論理的な整合性があろうがなかろうが、事実であろうが間違っていようが、とにもかくにも、自分の主張だけはとうとうと述べる。

人が納得しようがしまいが、全く意に介せずという状況である。

これは「激論、朝までテレビ」だけでなく、NHKの討論番組でも同じである。

まさに鉄面皮としか言いようがない。

こういう政党を支持する国民というのも、一体何を考えているのか分かったものではない。民主政治というのは、理想的には2大政党があって、それが交互に政権を交代するのが本来の姿であろうとおもう。

そのためには、2大政党の間に、共通の精神的基盤というものが共存しないことには成り立たない。

日本の場合、2大政党の間に、この基本的な共通項目というものが存在しない。

基本的な国策、国是というものを、共通にした基盤のうえに、その実現のための、細部の手段方法論のところで、枝葉末節の部分で、二つの政党の意見が食い違うというのが、本来の2大政党の在り方だと思う。

野党と与党が交替で政権について、夢の実現に向けて努力する、というのが本来の政党政治であり、2大政党政治の理想であろうと思う。

今の自民党というのが金まみれで、社会党というのが何でも反対では、この理想の実現は程遠いものといわなければならない。

前に述べたように、今の自民党の支持者というのは、積極的な自民党支持ばかりではなく、社会党に対する批判票と云うのもかなりの部分あると思う。

逆の言い方をすれば、社会党がもう少ししっかりすれば、自民党に取って代るチャンスはあると思う。

しかし、現実の社会党の姿を見ていると、それも幻にすぎない。

まして国民の反政府、反自民というポ−ズはあてにならない。

世論などというものは、犬の遠吠えと同じで、国策、国是の決定には何ら力になり得ない。民主政治と云う言い方は、美しい響きを持っているが、裏を返せば衆愚政治である。

社会党の支持者というのは、衆愚の集団で、選挙の度毎に、自民党の票が減ったとか、社会党が伸びたとか云って一喜一優し、単純に喜んでいるが、選挙などというものは、人気投票と同じで、世の中が平和な証拠である。

平和ボケでいられる日本の状況を感謝しなければならない。

 

政府調査団の報告書について

 

カンボジアのPKO活動の在り方を調査する、政府の調査団が7月15日、調査報告書を政府に提出した。

 

7月15日、発表されたカンボジア政府調査団の報告書要旨は次の通り。

 

調査結果の概要

 

1 調査団の構成・日程−−−−略

2 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の活動状況

 (1)全般

    UNTACは軍事部門と文民部門(人権監視、行政、選挙、文民警察、難民帰還    、復旧)の計7部門から構成、計2万人以上が展開することになっており、軍事    部門1万6千人、文民部門は数千人の要員を予定。

    このほか(来年の憲法制定議会議員)選挙時には6万人のカンボジアのボランテ    イアを予定。

    軍事部門は停戦監視、外国軍隊の撤退の検証、武装解除、後方支援などを行うと    ともに、5分野(国防、内務、外交、財政、情報)を直接管理する文民部門は活    発に活動。

    上水道、電気などの社会生活環境は十分整備されていないが、十分な準備をすれ    ば活動に大きな支障はなく、健康面では各種予防接種と薬の服用などで問題はな    い。

 (2)分野別活動

    人権監視分野   刑務所を巡回して改善要求を行うとともに、法体制整備の提             言など、20人程度でカンボジア全域をカバ−している。

    選挙分野     選挙6週間前に千人の専門家が必要とされるため、選挙監視             要員訓練所で、カンボジア語研修と行政研修を8週間にわた             り実施、日本からも27人程度が参加。

    停戦監視分野   異なった国籍の要員で編成するチ−ム(8人程度)が85の             宿営地や国境地帯で、ブル−・ベレ−と国連旗だけを手段に             業務を行っており、武器は携行していない。

             海軍監視部隊は武器、麻薬などの密輸を監視している。

    後方支援分野   基礎のインフラストラクチャ−(社会資本)が劣悪で施設(             道路、橋の補修・整備等)、航空、通信、医療、補給といっ             た分野の後方支援が特に重要。

             文民部門への物資補給も国連が実施。

             物資、病人を含む人員を輸送する航空機(ヘリコプタ−を含             む)数が不足、UNTACの物資補給も不十分。文民部門が             保有する車両、器材の整備支援機能が不足しており、ニ−ズ             が高くなっている。

    行政分野     ブノンペン近郊のカンガル州のUNTAC行政部門の事務所             は財政、治安等の分野で政治的中立性確保のため、チェック             機能を果たしている。

    文民警察分野   主目的はカンボジア警察活動の監視と教育、訓練。

             また帰還難民の保護、選挙人登録の公正確保も重要な任務で             あり、原則として武器携行はしない。

             約3千6百人の要員予定があり、10月にも開始される選挙             人登録のため全土への展開が必要。

    難民帰還分野   約6万人の難民の帰還が大きな問題だが7月9日現在の帰還             者は約4万7千人。

             難民帰還促進の上で定住先の不安定性、受け入れ体制の欠如            、飲料水や潅漑用水不足、医療関係要員の不足などに直面して             いる。

 (3)地方視察

    カンダル州、ベトナム国境CV6のチェック・ポイントを視察、地方では道路や    通信、電気などインフラストラクチャ−の状況がさらに悪く、衛生状況なども

    UNTAC要員生活環境は決して楽とは言えない。

 

 まとめ

1 カンボジアは国家再建に向けて取り組みを開始し、フン・セン首相、ソン・サン議長  も平和を維持し、こうした動きを一層確実なものにしたい意欲を強く表明している。  これは国民の意志であり、国連の活動の背景であり、前提だ。

2 和平の基盤は、パリ包括和平協定であり、現状では、一派が協定の義務を履行してい  ないなど懸念材料もあるが、いずれの派も協定そのものに異論を唱えているわけでは  なく、枠組みは引き続き維持されており、各派間の大規模な戦闘が再会されるような  状態が生じているわけではない。

3 特に強調しておきたいのは、極めて広範囲にわたる活動が「中立」「非強制」を原則  として、国連の権威によってその役割りを果たしていることだ。 

4 明石UNTAC特別代表、フン・セン首相、ソン・サン議長から、UNTACへの日  本の参加に極めて強い期待が改めて示され、シアヌ−ク・カンボジア最高国民評議会  (SNC)議長からも同様のメッセ−ジが伝えられた。

5 国連平和維持活動が準拠すべき原則の、停戦の合意、受け入れ側の同意、および中立  性の要件は、今回の調査の結果、現状においてUNTACについて満たされていると  認められる。

6 教育、訓練の充分に行き届いた、意欲ある日本人であれば、期待されにこたえていく  ことは十分に可能と思われる。

7 わが国としても、期待される協力を、効果的にかつ時宜を得た形で行うためには、各  般の準備を調えておく必要があろう。

  必要に応じ今後改めて専門的な調査を行うことが望まれる。

 

 

以上、全文引用させてもらったが、要するに、日本がPKOの分野で協力できる場面はあるし、先方からも要請があるあるというものである。

ここで問題となるのが、ポル・ポト派の言動であるが、ポル・ポト派というのは、共産勢力であり、この共産勢力が平和の構築に、なかなか思うように手を貸そうとしない。

共産主義というものは、今や現代の亡霊である。

この亡霊に、75年間取りつかれていたのが旧ソ連であり、その旧ソ連も、いまや崩壊してしまったが、その生き残った亡霊が、世界各地で、ほそぼそと生き永らえている。

カンボジアにおけるポル・ポト派というのも、この共産主義という亡霊に取りつかれて、何百万人という人命を奪った。その正確な数は未だに不明である。

しかし、こういう共産主義という亡霊に取りつかれた、ポル・ポト派というのは全く人類の敵といっていいと思う。

1992年、7月15日、の新聞にポル・ポト派の声明というのが掲載されていた。

 

ブノンペン政府解体条件に武装解除を受諾  ポト派表明

バンコク14日、山田哲夫  

パリ和平協定に基づく武装解除を拒否しているカンボジアのポリ・ポト派は、14日までに、ブノンペン政府の解体を条件に武装解除に協力するとの声明を発表した。

声明は、同派が段階的に武装解除をするのに応じて、ブノンペン政府の解体を要求。

同派が4週間ですべての兵士を宿営地に入れる代わりに、ブノンペン政府は

   1 国務、内務両省の解体と大臣、次官を廃止、

   2 外務、財務省の解体、

   3 情報省の解体、

   4 国会、首相の廃止。  

を順次すすめることを条件としている。

同派は、声明で、武装解除受け入れの条件を初めて公にしたが、パリ和平協定はブノンペン政府の容認を前提にして調印されており、声明は、同派の非妥協的態度を改めて示した形だ。

 

これを読んでみると、全く共産主義者の本質をそのまま表現しているものである。

まさに、自主的な革命をしないことには、ポルポト派としては、武装解除に応じないという脅しである。革命を要求しているようなものである。

従来の共産党というのは、自ら革命を実行し、武装蜂起することで現政権を倒し、それに取って代るというのが過去のパタ−ンであったが、ポル・ポト派というのは、革命を現行政府に要求しておいて、その後、政権の奪還をしようというものである。

もう少し穿った見方をすれば、自分達だけでは革命ができないので、そちらで革命をしておいてくれたら、ポル・ポト派は武装解除しよう(この部分が信用できない)というもので、共産側にとってまことに都合のいい、身勝手な要求である。

こんなことを現在のブノンペン政府も飲むことが出来ないので、全く空想的、挑発的な

条件を掲げた声明といわなければならない。

武装解除に応じる気持ちなど、さらさらないということである。

相手が共産主義者であれば、こういう意思表示というか、声明というか、政治的プロパガンダもありうる。

まさにポル・ポト派というのは、妥協の余地のない古典的な共産主義者、共産教という宗教の集団と同じである。 

人間の自然のままの発想、人間が生まれながらもっている自然な考え方、というものが通用しない、共産主義という宗教に洗脳されてしまった、集団としか言いようがない。

今の日本の共産党も、これと同じ轍を踏んでいる。

その証拠に、今回の参議院選挙にあたっても、このPKO法案を俎上に上げて、選挙戦を行っているが、まるで嘘の事を云い、出鱈目な事を宣伝し、選挙活動と称して、日本中に声高に公言している。

共産党の本質においては、ポル・ポト派と日本共産党というのは、同じ根を持つ集団、組織である。

日本共産党というのが、本質的に暴力を肯定し、武力を肯定しているにもかかわらず、今それを表面に表さないのは、目下のところ政権を獲得する自信がないからであり、そうなるためには無知な国民を騙して、その支持を得なければならないからである。

共産党というのが、武力や暴力を否定していては、共産党でなくなってしまい、党の名前と実体が離れてしまうはずである。

現状においては、日本共産党は武装していないだけの事で、日本共産党が武装すれば、ポル・ポト派と同じ事をし、同じ行動をすることは間違いない。

考えてみると、日本共産党というのは、本家本元のソ連共産党とも仲たがいし、中国共産党とも同じで、まして日本の政府に対しては敵対している。

という事は、全世界、全地球規模で孤立しているということである。

最近、日本社会党が旧ソ連から援助を受けていた、ということが新聞で暴露されていたが、共産党は全地球規模で見捨てられており、社会党はまだ力を貸してくれるところが存在していたということである。

まるで、日本そのものが世界の中で異質であるように、日本共産党というのも、共産党の世界の中では異質であったわけである。

それはそうなるのが当然であるかもしれない。

日本共産党の人々も、日本人である以上、全地球規模で、世界の国々の人々から見ると、我々、日本民族の特質を同じように持っているわけで、共産党員のみが、日本人離れしているわけではない。

日本共産党が世界の共産党の中で異質であっても何ら不思議ではない。

こういう政党にとって、民主主義というのはまことに都合のいい世界であろうと思う。

嘘のPRをしても、虚偽の選挙演説をしても、デマを飛ばして国民を先導しても、したい放題できる。

そういうものを規制しようという動きに対しては、やれ弾圧だ、信教の自由を侵すだとか、権利の侵害だ、とかいう言葉を投げ付ければいいわけである。

今回の参議院選挙にも、多量の候補者を立てて、とにもかくにも、共産党の宣伝にこれつとめている。

共産党の行動には、国民の大半は冷静に判断して、共産党が政権を取る、という事はまずありえない、と云う事が共産党の側にも、国民の側にもあるので、その前提のもとに、共産党というのは、在りとあらゆる選挙に立候補者を立ててくる。

田舎の、地方の、議会議員選挙から、国政レベルまで、全ての選挙に候補者を立ててくる。まじめに政治をする気があるのかどうかはともかくとして、選挙運動だけはしっかりやている。

これは選挙という、公的な機関を利用した党の宣伝でしかない。

いくらPRしても、共産党の本質を知っている人々は知っており、その本質を知らない、若い人々に対するアプロ−チであろうが、公的機関を利用する共産党の宣伝は、なんらかの規制が必要になるのではないかと思う。

信教の自由、言論の自由のもとで、亡国の思想が蔓延しそうな気がしてならない。

共産党にとっては日本人も、日本民族も関係がないので、あるのは、共産党による、共産党員のための、共産党の政治が実現すればそれでいわけで、日本人も、日本民族も何ら問題とならないはずである。

しかし、この実験は、旧ソ連邦の崩壊ということで、答えが出たにもかかわらず、それが分からない人民が大勢いるということである。

 

衆愚政治?

 

政府調査団の話から共産党の悪口へと話がそれてしまったが、政府の調査団が出向いてみても、先方では日本がPKOで協力してくれることに期待を掛けているのではないか。

こういう報告書というものを、100%信用するということは危険な事ではあるが、我々、庶民としては信ぜざるをえない。

PKO法案というものをよく読んでみれば、決して自衛隊が、鉄砲持って戦争にいくとは書いていない。

カンボジアの各派(ポル・ポト派は例外)から歓迎されて然るべきものであり、UNTACの明石代表も言っている事ではないか。

そういう状況が、なぜ社会党や共産党には分からないのであろう。

極楽トンボの私は、人の云うことをすぐ信ずる悪い癖があるが、少なくともカンボジアで、共産勢力によって滅茶滅茶にされた土地を復興しよう、復興に手を貸すそう、という事に反対しなければならないのだろう。

こういう人道的な、人間愛の問題を、派兵というものに結びつけてしまうのであろう。

こういう発想は一種の観念の問題である。

自衛隊イコ−ル戦争という古い古い苔のはえたような、単細胞的な、固定観念が抜けきれない人の発想ではないかとおもう。

固定観念に凝り固まっている、と云うことは、時代に順応した発想が出来ないという証拠である。

昨今の日本の町を歩いていて、かっての軍国主義時代のような、凛々しい顔をした若者を見かけるのかといいたい。

軍国主義を賛美するつもりはないが、50年前の若者と、今の若者を比較すれば、この違いは歴然としてくる。

暴走族に、シンナ−遊び、受験戦争、オタク族、テレビ・ゲ−ム等々、昨今の若者の行動を見ていれば、戦争をせよといっても、出来るものではない。

そういう現実を知りながら、どうして海外派兵につながる、などという突飛な言葉が出てくるのだろう。

この風潮というのは、今の進歩的な人々というのが、政治をファジ−感覚で捉えているからではないかと思う。

世の中に、あまりにも不確定要素が多く、又、マスコミの多量の情報過多の中で、情報のエッセンスを見分けることが出来ないので、その情報、真の情報の周囲のファジ−な部分のみが勝手に一人歩きしてしまっているからだと思う。

民主主義というのは、衆愚政治でもあるわけである。

その真の本質というものが、無知の大衆の中に、埋没してしまっているわけである。

その証拠に、PKO法案をじっくり読んで見れば、社会党や共産党の言っていることが、間違っているという事がすぐ分かるのに、PKOイコ−ル海外派兵につながる、という云い方をするものだから、マスコミもその部分を拡大解釈するわけである。

マスコミが故意に嘘の報道をしているとは云いたくないが、そういう風に思えてならない。というのは、社会党や共産党の言う部分を正確に報道すると、マスコミ自身は嘘を言っているつもりでなくても、結果的に嘘の報道をしたことになる。

マスコミが、社会党や共産党に迎合して、そちらの側だけの真実を報道すれば、全体として嘘を報道したことになってしまうと思う。

 

 

「朝日ジャ−ナル」の消滅

 

朝日新聞の週刊誌「朝日ジャ−ナル」が今年6月でもって休刊するというニュ−スが流れた。

この週刊誌は私がまだ高校生の頃、昭和33年頃発刊されたように記憶している。

当時からかなり高踏的な週刊誌で、こういうジャンルの週刊誌は他に無かった。

月刊誌には当時から「世界」というのがあったが、これと内容的には同等であったように記憶している。

1960年の安保闘争の年が昭和35年であるので、この頃には「朝日ジャ−ナル」も

「世界」も飛躍的に売れたのではないかと思う。

その底流にあるものは、すべからく反政府、反自民で一致した思想である。

反体制のバイブル的な存在であったといってもいいくらいである。

この週刊誌が休刊というのは、時代の波に飲まれたという面もあるが、その前に、反体制そのものが流行らなくなったということであろう。

いやそれよりも、反政府活動に共産主義を用いることが流行らなくなった、と言い換えるべきかもしれない。

反政府活動というのは今でも立派に存在している。

世の中が反体制であるということは、裏を返せば、まだ貧しかったということである。

日本の高度経済成長というのは、この「朝日ジャ−ナル」が発刊され、その売れ行きが好調になると同時に、それと合わせるように、日本の経済も成長の波に乗ったわけである。という事は、この日本の経済成長の間中、「朝日ジャ−ナル」は売り上げを延ばし続けたわけである。

つまり、日本経済の高度成長を、反対向きに引っ張る働き、言い換えれば高度成長をさせない方向に油をさし、水をさし、邪魔をしてきたわけである。

突き詰めれば、日本の国民が豊かになりたい、良い生活がしたい、という願望を達成するという向上心に、精神的なブレ−キを掛け、世の中を悪い方向に、つまり共産主義ファッショの方向に仕向けよう、仕向けよう、と後向きのファクタ−、ベクトルを加え続けてきたということだ。

左翼運動というのは、日本の経済成長には何一つ貢献していない。

常に世の中の動きにブレ−キを掛け、負の方向に作用している。

日本は戦後民主主義の国になった。民主主義というのは、反対意見があるのが当然、と云う理念のもとで存在しうるが、しかし、反対意見というのはあくまで意見であって、物事が決定し、採決されたときには、自分自身は反対であっても、一致協力するというのが、民主国の国民としての義務であると思う。

民主国家というのは、少人数の団体とは限らない、物事を決定するのに、少数のワンマンな特定の人が、勝手に思いついたことを命令するのではない。

国民の審判を仰いだ代表者が、決められたル−ルにしたがって決定、採決したことは、国民の義務としてきちんと守り、行う事こそが基本的人権であると同時に基本的義務である。その決定の仕方が悪いといって、反乱や内乱、内戦のような事をしていいわけがない。

これは暴動と同じで、何ら正当性を見いだせないし、正統なる根拠とはなりえない。

「朝日ジャ−ナル」というのはこの部分で極めて有効なPRというか、反乱、内乱、暴動を容認するような精神的構造のもとで発行を続け、そういう行為に正当性を見付けだそうという主旨のもとに発行されていた。

民主主義というのは、反対意見というものを容認することを前提にして存在されているが、朝日ジャ−ナルの論旨によると、反体制派の言っていることは「善」で、反体制派が政権を取れば、世の中は良くなるという風にしか取れない。

この場合、反体制というのは共産主義者のことである。

彼等の言い分が正しければ、彼等は多数派になるのが自然の摂理であるが、そうならないのは、彼等の言い分が正しくなかったという事が彼等には解らないようだ。

彼等が少数派であり続けたということは、国民の大多数のものは「朝日ジャ−ナル」の言っている事には反対であるということである。

だからこそ思い上りであったわけである。

「朝日ジャ−ナル」が進歩的文化人を対象とした読者にいくらアピ−ルしたところで、国民の大部分は進歩的文化人ではなかったわけである。

国民の大部分は文字通り一般大衆、つまり庶民であったわけである。

アメリカ帝国主義反対、共産主義万歳よりも、明日の一粒の麦の方が大事であったわけである。

例えが飛躍しているが、少なくともアメリカ軍の基地を云々するよりも、新しいテレビや、新しい車を買う方が大事な問題であったわけである。

政府のやる事が気に入らないからといって、反乱、内乱、暴動を扇動するという事は、先の太平洋戦争の時の、軍部の独走と全く同じ精神構造に陥っている、と云ってもいいと思う。

この「先の太平洋戦争の時の軍部の独走と全く同じ精神構造」ということに「朝日ジャ−ナル」は気が付いていない。

もっとも「朝日ジャ−ナル」がそういう反体制運動の先頭に、率先して立つことはなくても、「朝日ジャ−ナル」の使命というのは、そういう先鋭化した分子、洗脳された破壊分子の、精神的なバック・ボ−ンになることを狙っていたものと思う。

すると此処に、日本の全ての先鋭化した精神的構造というものが浮かび上がてくる。

つまり、黒子の役割である。

「朝日ジャ−ナル」というのが、日本の暴力的左翼分子の精神的バク・ボ−ンであり続けることにより、自分は直接角棒を振り回す事無く、反乱、内乱、暴動を扇動しているという構図である。

この構図というのは、以前の軍人の独走、5・15事件、2・26事件、満州事変等々の軍人の独走と軌を一にしている。

この構図というのは、暴力団の構図とも酷似している。

又、自民党の派閥争いとも酷似している。

つまり、自分は後で糸を引きながら、実際に行動するのは、忠実な手兵であり、とかげの尻尾を切り捨てるという図式である。

彼等は自分達がこういう日本人独特の図式にはまり込んでいるとは思ってもいないであろう。

けれども、我々庶民の目から見れば、明らかにこういう図式が浮かび上がって見える。

60年代の安保闘争、又70年代の大学紛争というのは、どう見ても「朝日ジャ−ナル」が目指した方向であると思う。

ここで繰り広げられた社会的騒乱はまさしく暴動である。又、小規模な内乱である。

しかし、これによっても世の中というのは、大きく変化したわけではない。

この二つの騒動で残ったものといえば、社会的公共施設の破壊だけである。

この社会的な公共施設の破壊による損害というのは、一体誰が償うのか?

「朝日ジャ−ナル」はこれに答えを出してから休刊すべきである。

「朝日ジャ−ナル」の経営の後ろ盾には、当然のこと、朝日新聞という巨大マスコミ・シンジケ−トがある。

子会社である「朝日ジャ−ナル」の扇動により、社会的混乱の責任は、親元である朝日新聞が負うべきではないか?

人間の成長において、肉体の成長は目に見える変化であるが、精神の成長というのは、目に見えない変化である。

けれども、人間の精神の変化というのは、当然、無い方が不思議で、これは個人でも同じであろうが、集団としての精神の変化というのは、存在するものと思う。

つまり、国民としての社会的思考の向上ということである。

その良い例が、ソ連の崩壊、CISの誕生である。

ソ連の崩壊というのは「朝日ジャ−ナル」にとってはどのように受け止められたものであろうか。

さぞかし評論のしようもなかったのではなかろうか?。

発刊当時の論調を知るものにとっては、不思議でならない。

精神の変化、思考の向上ということがある以上、発刊当時の編集者がそのまま今日まで継続して携わっているとは思われないので、言い訳的な論文でも掲げているのではなかろうか?とにかく最近は目を通したことがないのでその辺はわからない。

しかし、60年代の安保闘争や、大学紛争の精神的バック・ボ−ンであった「朝日ジャ−ナル」の休刊ということも、ソ連が崩壊する時代ともなれば致し方ない。

時代の変化と見るべきかもしれない。

という事は、日本の左翼運動というものは一体何であったのかということになる。

旧の日本帝国の軍隊というものは、日本を敗戦に陥れ、結果として、新生日本というものを誕生させた。

その犠牲者の数は計り知れず、失われた価値というものも、同じく、計り知れない。

しかし、敗戦前の日本とは全く別の国になって再生された。

この一連の大転換の中で、日本の左翼、マルクス主義に被れた進歩的知識人というのは、45年前から綿々と日本に生息し続けたわけである。

が、その存在価値というものは一体何であったのか?

戦前も反体制、反社会的行動に現つを抜かし、若い優秀な青年が特攻機に乗ってアメリカと戦っているときに、売国行為をし、朝日新聞の尾崎秀美のように、日本の秘密をソ連に流したりして、日本を不利に追い込んだり、そして、戦後も一貫して反体制、共産主義国家が出来上がるまで、反体制のつもりだったのであろうか?

しかし、共産主義国家というのは今日、その欠陥が露呈して、その本家本元でさえ崩壊したことは周知の事実である。

だからこそ「朝日ジャ−ナル」というのは存在価値を失ったのではないか?

こういう背景を踏まえて眺めてみても、戦前戦後を通じて、左翼の運動というのは生存し続けてきたということは、そこに何かが存在し続ける元になるものがあったに違いない。我々、ノンポリの人間から眺めると、左翼といわれる知識人というのは、何時の時代にも、人民に対して紛争を播き散らしてきたとしか見えない。

つまり、一般大衆というのは、普通に生活することにより、日本という国家に貢献してきたわけである。

言い換えれば、戦前の日本ならば、徴兵だろうと徴用だろうと、烏合の衆のように、普通に生活することで日本という国家に某かの貢献をしてきたわけである。

本人に不満、義憤があるないにかかわらずである。

戦後の日本ならば、会社の仕事を普通にこなすことにより、日本の経済成長に貢献してきたわけである。

ところが、左翼的な知識人というのは、「朝日ジャ−ナル」をひけらかして、こうした庶民的な普通の生活というものに、ことごとく抵抗し、そういう庶民、一般大衆の普通の生活というものを破壊しようと、覆そう、という方向にエネルギ−を傾注した。

その理論的根拠というものを「朝日ジャ−ナル」は提供してきた。

それが進歩的知識人、いわゆる左翼と呼ばれる人々の実態であった。

詰まる所、何一つ日本国、日本の一般大衆、庶民の集合体としての国というものに、貢献していないということになる。

こういう存在感というのは、人間としての存在価値がないのではないかと思う。

まるで犯罪者と同じである。

世の中には必要悪と呼ばれるものがある。

しかし、これは「悪」そのものであり、「0」にしなければならないものではないか?

「0」という存在価値しかないとなれば、この世の中から抹殺しなければ、残された一般大衆、もくもくと生活をし、ささやかなレジャ−を楽しむべき、庶民に対して申し訳がたたないのではないか?

これは極端な言い方であるが、戦前戦後を通じて日本、つまり日本の国土に生存する全ての人々に対して、何一つ貢献することのない人間というのは、人間の形をしている、と云う理由だけで、人権を付与する必要はないのではないかと思う。

太古、パスカルという人が「人間は考える葦である」と言ったといわれている。

人間がものを考えるということは、本当は、自然の摂理に逆らうのではないかと思う。

人間がどうしたら旨いものが食べれるかとか、どうしたら金が儲かるか、という事を考える分には自然の摂理にかなっているが、人間はマルクス主義の社会を作らねばならないとか、アメリカ帝国主義は粉砕しなければならないとか、という思想について考える事は、考える事自体が、考えさせられる事であって、こういう事を考えるのは、自然の摂理に反しているのではないかと思う。

人間は自然のままに考えれば、社会的混乱も少なくなるけれど、人間の自然の行動を、無理に定義付けようとして、民主主義とか、資本主義とか、社会主義とか、マルクス主義だとか云って、人間の考えを型に填めようとして、つまらぬ考えを起こすので、世の中が混乱するのである。

これは考える事、思考を弄んでいる事に他ならない。

人間が考えるという事は、自然の摂理で、人は常に「HOW TO」と云う疑問を持ち、その答えを出そうとあくせくしているが、進歩的知識人というのは、その考えるという行為そのものを弄んでいる。

これは人類を冒涜するものである。

大多数の人々が、その全部が積極的賛成ではないにしても、現状を考え、将来のことを思えば致し方ない、という決済をしたとする。

それに対して全面的に反対、反対するだけならまだしも、その反対を実力行使という形で具体化しようとするところが反社会的である。

これでは聞き分けのない子供が駄々をこねているのと何ら変わるところがない。

反対意見というのは、人間の集まりである以上致し方ない。

けれども、その反対意見を実力行使、つまりデモ活動、デモだけならまだいい。このデモというのがしばしば社会的暴動、反乱、内乱になる。これは当然の成り行きである。

デモ隊の中には、故意に暴動を起こすことを目的とした左翼分子、極左分子が紛れ込んでいるのである。

その故意に暴動を起こそうとする人々を、精神的に支えているのが、この「朝日ジャ−ナル」である。

デモ行進、民主政治の中で反対意見があるという事を示すデモンストレイション、というのは正統な手続きをすれば法的に許されている事である。

その中に入って、暴動、騒乱、革命にまでもっていこうとする考え方は、完全に共産主義者のものである。

日本人民というのは、革命というものには、なじまない民族である。

日本人でなしえた革命というのは、明治維新のみで、敗戦、終戦、新生日本の誕生というのは外圧による革命であって、日本人民の内部からの革命というのは、明治維新のみである。

その明治維新というのも、その根のところには、西洋列強の圧力というものがあったとすれば、日本人民の内部からの革命というのは、ありえなかったということになる。

しかるに「朝日ジャ−ナル」を精神的バック・ボ−ンとする革命分子というのは、デモ行進をエスカレ−トさせて、それを革命にまでもっていこうとする読みの浅さがあった。

その結果として残ったのが、社会的な公共施設の破壊、その修復に、彼等が云うところの日本人民の血税が使用されたということである。

だから彼等の存在価値は何であったのか?という疑問が出てくるのである。

日本民族というのは農耕民族である。

農耕民族というのは、本来、大変革というものを好まない人種である。

農業というのは自然に左右されやすい生業であり、牧畜民族というのは、自然に適合するということをしない民族である。

我々の先祖は、時の流れに沿って生き続けることを本望と思っている、そういう民族が、革命という人為的な大変革を願望するようなことはしない。

それを忘れて「朝日ジャ−ナル」のような、無責任な思想誌に洗脳された、一部少数の人々が、「朝日ジャ−ナル」の云うことを心から信じて反社会的な行動に出たわけである。人が食物のことや、金のことについて考えることは、人類としての自然の摂理であるが、「朝日ジャ−ナル」の目指していたものは、考える事自体を弄んでいるのである。

人の世界というのは、支配する側とされる側の二極分化している。

支配される側は、する側を常に批判、反発している。

これは何処の国でも、どの民族でも、どんな社会体制でも同じである。

支配される側は、支配されているという現実から、常に何らかの不満はあるわけで、その不満を拡大、膨張して煽り立てているのが「朝日ジャ−ナル」であったわけである。

人間の集まりが、支配される側とする側の二極分化することは、人間が複数生存する以上致し方ない事で、全ての人間が、全員納得する社会というものは、この地球上には存在し得ないのである。

もし有るとすれば、完全なファシズム体制でしかありえない。

ファシズム乃至は旧ソ連の共産主義体制においては、社会の不満と云うものは、有るにはあったに違いないが、無視されていたか、抹殺されたか、人間の命ごと消滅させられてしまったわけで、何一つ不満のない社会というのはありえない。

民主国家、民主主義的な体制の国家であれば、反対意見、政府に対する批判というのは、あって当たり前、無い方が不思議である。

政府に対して不満があるからといって、すぐそれを反体制運動としての実力行使、つまり、暴動を煽るような行為をしていいとは云えない。

反対意見があったとしたら、それは合法的な手段で、時間が掛かっても、少しずつ是正していくというのなら理解できるが、それを実力行使、デモ隊による暴動で解決しようとしても、一般大衆の共感は得られない。

それが出来ないという事は、政府なり、体制側を、国民の大部分が支持しているという事である。

安保闘争しかり、消費税の問題でもしかりである。

反体制の人々は、自分たちは如何にも立派な活動をしているかのように思い込んでいるようであるが、国民はやはり冷静な目で見ているのである。

安保闘争でも、日米安保条約があれば今すぐにでも戦争に巻き込まれるようなことを云っていたが、国民の大部分は、安保も致し方ないという判断であったわけである。

消費税に関して云えば、安保とは少しニュアンスが違っていた。

税金というのは、誰しも余分に取られたくないし、払いたくない、だから消費税の導入後には、社会党の票が延びたではないか。

つまり、国民の意志がそれを示したわけである。

ところが、福祉を充実させるには、財源の確保も致し方ない、という判断もそれなりに存在していたわけで、保革伯仲という選挙結果になったわけである。

「朝日ジャ−ナル」がいくら反政府、反体制、反自民を唄い上げ、煽り立てても、国民の大部分は、アカイ、アカイ、アサヒには同調しなかったわけである。

今、ソ連が崩壊した時点では「朝日ジャ−ナル」もその目標がなくなってしまったに違いない。

支配する側とされる側という立場の違いで、昔の封建主義的な社会ならいざしらず、民主主義の体制では、支配される側の方が気分的に相当安楽な生活が出来るように思う。

特に、日本のような社会においては、又、日本以外の社会では、とてもこれだけの安楽な被支配階級というのは存在しない。

けれども日本にいる限りにおいては、被支配階級の方が安楽でイ−ジ−な生活が出来る。医療の問題、老人の問題、教育の問題、どれ一つ取って有り難い事であると、思わなければならない。

この一つ一つに、個人としては大なり小なり不満はある。

だれしも不満の一つ二つは持っているであろう。

しかし、個人の不満と「政府が自分の思うとおりにやってくれない」という事は訳が違う。いくら日本の官僚が優秀だからといって、国民一人一人に満足のいくようには、行政サイドも面倒が見れないと思う。

「朝日ジャ−ナル」とそれを愛読している読者というのは、ここの所を混同している。

国民一人一人の願望を聞き入れてくれない政府は倒せ、という論法である。

これが巨大マスコミ・シンジケ−トの「朝日」の本質である。

終戦、敗戦という転換期、タ−ニング・ポイントを境として、その前と後では、同じ日本でも、大きく変化している。

国家の体制が大きく変化したけれど、その中で生存している人間は同じ日本民族である。しかし、このタ−ニング・ポイントを通過した後の日本人というのは、今までの価値観が大きく変化した、という経験を踏まえる事により、随分と戸惑った人々であったに違いない。

この価値観が変質したことにより、今までの価値観として日本民族の美徳であったところの、感謝する心というものが失われてしまった。

それ以前の日本人は、国家を通称で呼ぶとき、「お上」と云う言い方をした。

又、「お上」とは天皇陛下を指し示す言葉でもあった。

天皇制のもとでは当然な事であるが、ここでも「朝日ジャ−ナル」というのは、この天皇制と国家というものを区別せず、一緒に論じようとしているところは、田舎の年老いたお婆さんやお爺さんの発想と同じ感覚である。

戦前の価値観の中には「お上」に感謝し、それに報いる事は、当然な行為であるという認識があった。

ところが戦後は、主権在民という民主主義の世の中になると、国家というのは 自分達が選んだ代議士のものである、という風に、或る一種の錯覚に陥ってしまった。

そして、その国家は「朝日ジャ−ナル」を筆頭として、左翼知識人が忌み嫌う、自民党の政府である。

ここで国家とか政府に対して、感謝するという、かっての日本の美徳である、感謝の気持ちというのが失われてしまった。

だから自分の願望をきいてくれない国家、政府は、つぶせという発想になる。

しかし、これは進歩的知識人の思い上りというものである。

国家というのは、進歩的知識人だけで成り立っているわけではなく、種々雑多な日本人、つまり、田舎のお婆さんやお爺さん含めた、種々雑多な人々で成り立っているわけで、自分に不平不満があるからといって、安易に潰せでは、他の者ものが迷惑するわけである。結果的に云えば、今の医療の問題、老人の問題、教育の問題、等々、だれしも多少の不平不満は有ろうが、これは進歩的知識人が忌み嫌う、自民党政府が作り上げたものである。日々の生活の中で、少なからずその恩典に浴している以上、少しは感謝というものがあって然るべきである。

今の医療の問題、老人の問題、教育の問題、等々においても、所詮、人間が考えたシステムである以上、不備欠陥も有るには違いない。

しからば、それは正統な手続きを経て、つまり、自民党に変わりうる政党を作った後、改めるべきで、それが出来ないのであれば、自民党政府のやる事に甘んじていなければならない。

しかし「朝日ジャ−ナル」というのは、そういう狙いで発刊されたものであろうが、今以て自民党に変わりうる政党というものを作り上げていない。

と云うことは、裏を返せば「朝日ジャ−ナル」の云っていることは、国民から信用されていないという事に他ならない。

それは無理からぬ事で、思考を弄び、こ難しい言葉の遊びをしているだけで、感謝の念を忘れた者が、何故に国民の賛同を得られようか?

こういう私自身は、決して自民党の支持者ではない、しかし社会党、乃至他の革新政党を信頼しているわけでもない。

今の日本の政治状態のなかで、何党を選ぶべきか、誰を選ぶべきか、と云う事は極めて難しい。

しかし、大局的に誰か一人をどうしても選択しなければならないということになれば、嫌々、渋々、自民党の候補者ということになる。

目下、政治改革が声高に叫ばれており、日本の国民の大部分がそう思っているにもかかわらず、いざそれをしようと思うと、野党を始め、自民党内においても反対意見が噴出して、これはなかなか思うようには行かないと思う。

政治改革に対して反対ということは、政治改革をしなくてもいいのか、という事かと思うと、そうではなく、政治改革はしなければならないが、自分が不利になるような政治改革には反対であるというのである。

これはまさしくエゴイズムの見本である。

これでは日本の政治は良くはならない。

「朝日ジャ−ナル」ならずとも腹は立つが、だからといって革命をということではない。「朝日ジャ−ナル」が日本の政治に不満な気持ちは理解できる、しかし、だからといって日本を外国に売るような売国的な発言、発想というのは許せるものではない。

「朝日ジャ−ナル」の云っていることは、まるでソ連の提灯持ちのようなことばかりである。

しかし、その提灯の方が消滅してしまった、今「朝日ジャ−ナル」がなくなるのも致し方ない。

ソ連の消滅とともに消えるという事は、ソ連の回し者であったのではなかろうか?

 

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