PKO法案を通じて政治を問う

 

憲法第9条の存在

 

1992年、平成4年6月15日、PKO法案が国会を通過、曲がりなりにも可決した。

この法案の成立というのは、文字通り、曲がりなりという表現である。

社会党、共産党による牛歩戦術、そして社会党議員の辞表提出という異例の事態を招いた。翌日の新聞にはPKO法案の全文が掲載されていたので、その全文を読んでみたが、社会党がそれほどまでに抵抗しなければならない理由というのは見当らない。

その後、6月26日、民放の「激論、朝まで生テレビ」という番組でも社会党の議員が登場して、文字通り激論が戦わされていたが、社会党の反対の根拠というのは論理的には不在、はっきりとした理由というのは見当らない。

ただ[始めに反対ありき!」、その理由というのは反対のための反対、乃至は、感情論による反対である。

そして「朝までテレビ」においても、その他の人々の反対意見の論点というのも、すべからく感情論、乃至は「始めに反対ありき」の論理である。

私自身は、自民党にも、政府にも、肩を持つ義理は、何ら持ち合わせていないが、国論を二分する論議の中で、感情論が罷り通る、感情論で反対というのでは、日本の進路を危惧せざるを得ないものと思う。

先の第2次世界大戦にのめり込んでいったのも、いわば感情論に押し流されて、理性的な判断力が麻痺した結果だと思う。

これは私の持論であるが、だいたい日本において、法案の成立の過程を眺めれば、その最初の起案というのは、官僚が作成するわけである。

日本の官僚というのは、いろいろ弊害が指摘されているとは云うものの、東大出身者による頭脳集団である。

少なくとも海千山千の国会議員よりは、頭脳的には優秀な連中が考えているのである。

そういう連中の作った法案を、国会という立場でチェックする必要は有るけれども、そういうチェックをされても大丈夫なように出来ている。

私個人としても、国会で可決した法案に全部目を通すということは、今までにしたことはないが、今回のように、余りにもマスコミを賑わせている問題であるので、ためしにPKO法案というものがいったいどういうものか知りたいと思い、新聞に掲載されたものを全文、目を通してみた。

しかし、社会党があれほどまでに反対しなければならない理由というのは見当らない。

逆に云えば、それだけそつなく出来ているということになる。

今回のPKO法案というのは、日本の国防の根源に係わる問題でもある。

つまり、平和の概念が問われているということである。

戦後46年間というもの、日本、および日本人というのは、この憲法9条というものを正面から議論してこなかったと思う。

それは自民党も社会党も同様である。

これは民主主義である以上、自民党が憲法改正を正面から捉えれば、敗北につながりかねないという点で、現状維持に頼ってきたためである。

同じ事が社会党についても云えるわけで、これは既に、自民党や社会党の、党レベルの問題ではなく、国民全体の問題となっていると思うが、現在の日本の現状では、憲法第9条を改正しなければということを正面に打ち出せば、完全に国民の反発をかうこととなる。

そういう状況において、自衛隊の存在というものを容認しつづけ、憲法第9条には抵触しているが、現状は認めざるをえないという事が今後とも継続するものと想像する。

つまり、何時まで経っても曖昧模糊とした憲法解釈が続くものと思う。

見方を変えれば、それはそれで平和が継続すれば、それでも結構である、という考え方も成り立つし、なにも黒白をそう明確にしなければならない、という理由にはならないということも言えなくもない。

そうすると、今後の日本の、世界的な立場において、あらゆる面で、この問題が絡んでくるということが予想される。

今日の日本の経済力では、世界からあらゆる要請、援助、貢献が求められるという状況で、そのたび毎に憲法第9条が足枷になりかねない、という危惧が残ると思う。

PKOの問題においても、この憲法第9条が足枷となって、世界の普通の国と同じような行動がとれない、というジレンマに陥っているわけである。

そういう状況の中で、PKO法案というのが浮上してきたわけである。

日本の憲法第9条というのは、世界的視野に立って眺めれば、明らかに異質である。

異質なるが故に、世界の国々と同じ歩調がとれない。

つまり、国際連合を通じての世界平和の維持に貢献することが出来ない。

憲法第9条を現状のままで我々が持ち続けるということは、世界のあらゆるところで起きるかも知れない、紛争の解決には何一つ貢献できない、平和に向けて手助けすることが出来ないということになり、日本は経済発展のみを邁進して、トラブルが起きたときは、金だけを出す、すべて金で解決するという事になり、これでは世界から嫌われ、侮られ、馬鹿にされても致し方ない。

そういう状況、金だけ出して済ませる、という状況から脱却しようとしたのが、今回のPKO法案であったわけであるが、そういう目的にもかかわらず、この法案の本当の目的を故意に曲解し、曲解された、歪んだ見方のみを、野党を始め、マスコミが報道しているというのが今日の状況である。

何度も云うようにこのPKOの問題はその底流に憲法第9条のことを抜きには語れない。

だから、憲法第9条が存在する限りにおいては、こ難しい言い訳をしながら、実施するということになる。

官僚の起案する法案というのは、この難しい部分を上手に言い逃れているように思う。

私は個人的に単細胞なので、条文の裏の思惑までは斟酌する事が不得意であるが、PKO法案を全部読んでみれば、これはなかなかいいこと云っていると素直に受け取っている。

こういう見方で、この法案をストレ−トに読むと、反対に憲法第9条というもののひっかかりが出てくる。

この憲法第9条をストレ−トに読めば、自衛隊というのは明らかに違憲になる。

だから、現実の問題として、自衛隊というものを認める以上、憲法の方を改正しておかないことには辻褄が合わない。

政治的な、こうした類の曖昧さと云うのは、歴史的に見て大きな問題点になると思う。

日本の過去のアジアへの侵略というのは、軍人、軍部の独断専行と云うのを黙って許したことによる。

軍人が威張っていたので仕方がなかった、という面があるにしても、それは後からの言い訳にすぎない。

憲法の解釈を、その運用で誤魔化すと云うのは、姑息な手段で、本来ならば現実に則した法律というものを作っておくべきである。

憲法にしろ、他の法律にしろ、現実に合わせて、世の中の動き、つまりは、科学技術の進歩とか、国民の考え方の変化に対応して、時代に合わせたものを作るということは、その国民の英知だと思う。

ところが、日本の憲法第9条というのは46年前のまま、その場で変化が止まってしまって、不動の物となってしまっている。

それが苦しい憲法解釈、自衛隊の運用の面で、言い訳的ことを云っているうちに、自衛隊はアジアで最強の軍隊となってしまっている。

アジアで最強の軍隊が、日本の国から一歩も出られず、難民救済も出来ない、なんてことは実に可笑しな事である。

世界の不信感を煽るものである。

今回のPKO法案もそうした世界の非難、不信感に少しでも応えようというものである。

しかし、このPKO法案は、世界に向かって、及ばずながら日本も国際的な紛争の解決に人を出します、ということを宣言したようなものであるが、日本国内においては、憲法第9条との矛盾を抱えたままであるので、社会党の反対ということになるわけである。

社会党は、自民党および政府のやることはすべからく反対であるので、その本心はともかく、反対の立場である以上、憲法第9条が反対の理由付けとしては立派な口実となりうる。

 

自衛隊の誕生の経緯

 

社会党の言い分に少なからず無理な点があることを上げてみると、このPKO法案の海外派兵につながるという論拠は、この法案をじっくり読めば的外れである。

PKO法案には、国連の要請で、内閣総理大臣が派遣する、ということがうたってあり、国会の承認も要る、と云うふうになっている。

これを文字通り読めば、社会党の云う事はあたらないわけであるが、この論議そのものが、言葉の遊びの部類の議論で、社会党の言い分の最大の欠陥は、その本質を忘れ、枝葉末節的な、言葉の遊びに陥っているところに問題がある。

この問題の本質というのは、世界的規模で平和維持に貢献するというところがポイントに成っているはずなのに、PKO法案の何処を読んでも、何処の国に対しても、戦争をする、交戦する、武力で相手と戦うという事は書いていない。

これは当然といえば当然で、法律に武力を使う事を公然と書くものはいない。

しかし、社会党の反対する理由と云うのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、こじつけの論理である。

我々が社会党の言い分を非難する前に、人類の歴史上、侵略戦争というのは本来ありえない訳で、過去のすべての戦争が自衛戦争であったわけである。

これはどういうことかというと、戦争の結果として勝敗がつくわけであるが、勝った側からすればすべて自衛的であり、防衛的であり、正義の戦争であったわけである。

負けた側からすれば、すべてが侵略戦争であったわけである。

この地球上で、戦争に負けておいて、自ら侵略したと声高に言っているのは、日本ぐらいのものであろう。

そういう意味においても、日本は世界の中で特異であると同時に異質な国であるといえる。前の第2次世界大戦というのはグロ−バル化された世界戦争であったとも云える。

日本は負けたと、通常云われており、日本人の国民の全部が全部そう思っている事は疑いない。

今思うと、あれは本当に負けたのかどうかという事自体に疑問が生じてくる。

その証拠に、わずか50年で世界有数の経済大国になってしまっているではないか。

敗戦国が戦勝国よりも経済発展が目覚ましく、成長の度合いが活発であるという事自体が人類史上ありえないことである。

過去の歴史が普遍的なものであるとしたら、今頃の日本は、良くしても戦前の生活を維持できるかどうかというぐらいであろう。

今、我々は、謙虚な気持ちで終戦直後の生活を振り返ってみると、車もテレビもなく、せいぜい自転車かラジオしかない生活を考えた場合、国際関係がどういう状況に陥っているのかと考えたとき、韓国の李承晩ラインは拡大され、今居る在日朝鮮人は、ほとんど本国に帰り、沖縄を始め在日米軍基地というのは依然として実在しつづけるであろう。

当然、米の自由化など問題にならず、国民の半分以上が農業で生計を立てており、宅地開発やゴルフ場開発等は存在し得ず、すべからく農業一本槍で、今の中国と同様の生活であろうと想像する。

敗戦国である以上、そうした生活を余儀なくしなければならないであろう。

しかし、こうならなかったのは、日本人の民族としての資質としか説明のしようがない。

戦後、アメリカが日本国民に対して色々と援助してくれたことは歴然としている。

しかし、これはやはり成長の火種であり、一種のきっかけにはなっていたが、それが有効に日本国民の福祉全般に貢献し得たのは、やはり1951年9月8日のサンフランシスコ対日講和条約の発効である。

それ以降の日本の発展というのは、やはり日本人自身の資質によるものが大きいと思う。

日本の自衛隊のことを論じようと思うと、どうしても1950年、昭和25年の朝鮮動乱の時に設立された警察予備隊にまで遡らなければならない。

この時の状況というのは、朝鮮動乱、朝鮮で戦争が勃発したので、当時の日本の占領軍、在日米軍が朝鮮に出動し、米軍の抜けた穴を埋めるために警察予備隊というものが泥縄式に設立された。

警察予備隊を作れという占領軍司令官・マッカアサ−の命令に、当時の吉田茂総理大臣は反対したけれども、占領中という日本の置かれた立場というものを勘案すれば、マッカサア−の命令を聞かざるを得ず、それ以降今日まで、結果的に見て、丸々アメリカの軍事力の傘の中で、ぬくぬくとしておれたわけである。

当時は、今の社会党の立場と同じで、発想が逆転していたわけである。

政府が警察予備隊、今の自衛隊なんか要らないというのを、アメリカ占領軍が無理矢理、作らせたものだから、その時、憲法第9条というものに手を加えなかった。

それが今日の禍根となったわけである。

確かに、この当時の警察予備隊の武器というのは、兵力と云うにはあたらないようなものであった。

アメリカ軍払下の小銃以外なにもなかったわけであるから、戦勝国側には、軍艦も戦車も戦闘機もそのまま残っているのに、日本には中古の小銃以外何もないのであるから、これは厳蜜にいっても兵力にはあたらないようなものである。

そういう状況で発足した自衛隊が、その後の40年という歳月の経過とともに、アジアで最強の軍事力となってしまったわけである。

わずかGNPの1%以内の予算しか取っていなくても、GNPのト−タルが、この40年間で巨大化してしまって、その比率で自衛隊の費用も大きくなり、気が付いてみたらアジアで最強の軍事力となってしまっていたわけである。

この40年間というもの、我々日本人は、かっての富国強兵を願っていたわけではない。

こんな壮大な野心を持って経済成長をしてきたわけではない。

我々が戦後40年間してきたことは、産業界の中での過当競争だけである。

富国強兵という、国家規模の野心ではなく、同業他社に負けるな、という過当競争である。国家のこと、世界の人々のことなどは眼中になく、ただ単に、同業他社との競争だけである。

しかし、これを全部寄せ集めると、巨大なGNP、と云う結果になってしまったわけである。それに比例して、自衛隊の費用というのも、アジアでもトップということになってしまった。

 

思考の停止の弊害

 

こうして、戦後の日本の発展というものは、世界の人々の自由主義体制の中での、資本主義、および自由貿易の恩恵というものに、100%支えられてきたわけである。

その結果がGNP世界No1ということである。

こういう状況において、世界の2国間の紛争、乃至は、民族間の紛争の解決に、何か手を貸そう、手を貸さなければ、という発想にどうして賛成できないのか、私個人としては理解に苦しむ。

PKO法案に反対する人々の言い分の中には、自衛隊でなく、何か他の組織ならいいという考え方があるが、これは世界的なレベルで物事を知らないということを示しているわけで、困窮している人からすれば規律正しい軍隊こそ信頼にたるのである。

自衛隊イコール軍隊という短絡的な発想から抜け切れていない無知によるもので、無知なるがゆえに戦争というものの本質、紛争というものの本質を、つまり現実を理解していない人々の考え方である。

地球上何処にいっても同じであるが、日常生活が正常に機能しておれば、何ら問題はないけれども、戦争、紛争、民族闘争、または大災害というのは、そういう平和的な日常生活が維持できていない状況である。

そういう中では、組織だった訓練を受けた人間でないことには、救援活動が十分に機能しない。

PKOの法案に反対する人々には、自衛隊という言葉を、見たり聞いたりすると、条件反射的に反対という態度を示すが、これは逆に云うと、思考が停止しているということであり、現実を直視することを拒む、偏狭な考え方である。

また、PKO法案をじっくり読めば、PKO活動には、自衛隊だけが行くとはなっていない。民間組織の活動も認められ、文民の活動の場も与えられている。

自衛隊であっても、武力の行使はしてはならないと明記されている。

こういう内容を読んでいれば、反対しなければ成らぬ理由は見当らない。

社会党や進歩的な知識人というのは、戦前の軍隊と、今の自衛隊というものを、全く同一という捉え方をしているが、これは全く異質なものである。

そのことの認識が不足している。

自衛隊が違憲だ合憲だという不毛の議論をしている間に、当の自衛隊というのは、現実に則した組織に変質しており、昔の大日本帝国の軍隊とは別のものになっている。

ただ、ここで問題点として我々、日本国民が危惧しなければならないのは、旧日本の軍隊は天皇陛下の軍隊である、という風に日本の全国民がそう思い込んでいた、という過去の現実がある。

社会党の大部分が、今の自衛隊もそれと同じだと思い込んでいる。

ここが、先の戦争の根本的な間違いであった。

私の言いたいことは、旧大日本帝国の軍隊は天皇陛下の軍隊ではなく、日本国民、ひいては日本民族の軍隊であって、それ以外の何物でもなかった、ということが言いたかったのである。

それをあたかも天皇陛下の軍隊であるように思い込ませ、全国民に、そう信じ込ませたのは軍人であり、軍部であったことは否めない。

しかしその前に、大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法下における政治家の責任である。

軍人、軍部というのが大きな顔をするようになった時点で、政治家は軍人、軍部の所業に対して、もっともっと抵抗しなければならなかったわけである。

それが簡単に大政翼賛会というものに、やすやすと統合されてしまったことが、最大の原因である。

そういう流れというかム−ドに、心から浸ってしまって、何も疑問を感じなかった政治家、官僚、および大部分の国民というものにも一抹の責任はある。

今で云うところのシビリアン・コントロ−ルというのが上手に機能しなかった、その原因というのはやはり、日本人の国民、政治家も官僚も軍人も国民各層も全部が全部、軍国主義、富国強兵、と云うものに被れていたためだと思う。

ところが、今の日本というのは、軍国主義、富国強兵の願望などと云うのは過去の亡霊でしかない。

今の日本国民は、誰一人そういう考えを持っていない。

こういう状況の中で、自衛隊というものを過去の亡霊だと思い込むことは、新しい危惧を生むことになる。

過去の政治家が、真の民主主義を真に理解しえず、大政翼賛会にやすやすと統合されたように、政治家が民主主義というものを本当に理解し、最大多数の最大幸福という信念をないがしろにして、その場の感情で反対、反対と言って党利党略のみにきゅうきゅうしていると、また過去の二の舞をしかねない。

終戦の翌年、昭和天皇は人間宣言をされた。

これは軍人、軍部によって現人神として祭り上げられていたことを自ら否定されたということで、そういう架空の御神体というものを作り上げて、国民を戦争という国家プロジェクトに駆り立てたのが軍人であり、軍部であったわけである。

軍人、軍部にそれを許したのは政治家の責任である。

旧大日本帝国憲法、明治憲法のもとでも、内閣があって、国会があって、司法当局があった。この部分では今日の体制と何ら変わるところはない。

以前でも天皇陛下というのは象徴にあったにすぎない。

象徴なるが故に軍人、軍部がそれを政治の道具として使ったために、第2次世界大戦、太平洋戦争の根源があると思う。

現在これと同じ状況は、憲法第9条の存在だと思う。

この憲法第9条を、永久不滅、金科玉条の存在だと思っていると、天皇陛下を現人神と思い込むのと同じ事を繰り返す可能性があると思う。

この憲法第9条というのは、自民党も社会党も正面から取り組めない要素を抱えている。

仮に自民党が憲法第9条を改正すると、正面切って言えば票は逃げるし、社会党が改正を絶対阻止すると言い切れば、社会党の票も少なくなる可能性がある。

だからPKOの問題についても、自民党は現行憲法のもとで出来るというし、社会党は憲法違反という論調に崩せないでいる。

こういうタブ−を作り上げると云うことは、天皇陛下をタブ−視したのと同じ事である。

問題は、世の中の人間には現実的にものを見る人と、感情的にものを見る人の、二種類の人間しかいないという事である。

現実的にもの見る人は、現実に合わせて憲法を改正せよというが、感情的にものを見る人は、憲法を改正すれば又昔に戻ると思い込んでいる。

人間の思い込みを取り除くという事は人間の力では出来ない。

天皇陛下が人間であったとわかるまでに、日本はどれだけの犠牲を払ったのかと云いたい。日本民族の単純な思い込みのうえに成り立っていた天皇制、この思い込みがあればこそ日本は西洋列強とあれほどまでに苛酷な戦争をしたのである。

つまり、日本全体が狂信的な軍国主義、および帝国主義に陥っており、他の考え方が思い浮かばなかったわけである。

今日、憲法第9条を考えるとき、日本のおよそ半分の人々は完全なる妄信に陥っている。すなわち、憲法第9条を改正することは、戦争につながるという妄信、昔の軍国主義に立ち帰ると思い込んでいる。

そういう人々は、日本が前の悲惨な戦争から何一つ反省していない、という国民不信につながる。

終戦、敗戦、占領、復興というものから日本人は、その前の日本人、軍国主義を盲信した日本人、と同じ考え方を今も持っていると思っている。

しかし、現実的にものを見る人々というのは、現実的にものを見ることが出来るが故に、決して前の日本人に立ち帰ることはない。

戦争の反省は骨身にしみている。

かえって、前の日本人に立ち帰る、軍国主義に戻ってしまう、と思い込んで、反対している人々の方が、固定観念に縛られ、思考の柔軟性に欠けている。

今の日本人は、何が何でも、戦争は回避しなければ、という気持ちを持っている。

文字通り平和主義者であろうと思う。

 

政治家の資質の問題

 

しかし、最近のように、人、物、資本が、地球規模で移動する時代に、日本一国のみが、貝のように、自分の身だけを守っていれば済む時代ではなくなってきている。

あちらで戦争があれば難民を救け、こちらで大災害、噴火、洪水があれば、出掛けていって、被災者を救助しなければならない、という時代に成ってきているのである。

PKOに自衛隊を出す、といっても戦争をしたり、武力行使をするために出すのではない、ということはこの法案の中にきちんとうたってある。    

法案、法律というのは、きちんと運用されてはじめてその趣旨というものが生きてくる、という点から見ると、憲法第9条というのは、これ自体に矛盾を含んでいるので、きちんと運用されていない。

拡大解釈のうえに成り立つ砂上の楼閣である。

PKOの法案をきちんと運用しようと思うと、こちらの方から手を付けるのが本来の姿であるはずであるが、自衛隊という組織が現実に運用、運営されている以上、このPKO法案も、これと同じ運用がなされるであろうと思う。

この、思う、思わないという事は、この法案に反対意見の人も、賛成意見の人も、同じような危惧のうえに立つ。

将来の憶測に則って、それぞれ主張し合っている訳である。

先の帝国憲法、つまり明治憲法も、今から思えばいろいろ不備な点も多々有ったとはいえ、現行の政治体制と良く似たものであった。

それを大きく牛耳ったのが軍部であって、軍部が都合のいいように解釈、運用したところが、大きな間違いであったわけである。

そういう点で、現行憲法も一部の人々に、いいように牛耳られると、先の大戦と同じ轍を踏む恐れがある。

そうならないためには、政治家がしっかりしてもらわなければならない。

政治家にリ−ダ−としての資質が欠落すると、先の大政翼賛会のような不様な事になりかねない。

政治というのは、美辞麗句を並べるだけでは駄目で、ましてや、一般大衆の人気取りだけでも駄目である。

昔も今も洋の東西を問わず、国の政治を司るのは政治家である。

この政治家が弱腰だと、大政翼賛会になってしまって、軍人、軍部の提灯持ちになってしまう。

そして戦前の政治家も、戦後の政治家も、選挙という選択を受けなければならないことは同じであるが、この選挙による選択の仕組みが、旧帝国憲法と現行憲法ではいささか違っている。

ここに民主主義の未熟な時代と、成熟した時代の相違がある。

明治憲法と現行憲法において、政治に直接関係する部分で、一番大きな違いといえば、明治憲法においては被選挙人、つまり政治家になりたいと思って立候補する人に対して一定額以上の納税の枠があり、要するに金持ちでなければ政治家になれなかったわけである。

つまり立候補が出来なかったわけである。

ところが、現行憲法においては、納税上の枠は外され、誰でも立候補出来る仕組みになっており、つまり政治家になるチャンスというのはより公平になったわけである。

日本の近代化の中で、政治家の果たした役割というのは、我々が思っている以上に低いのではないかと思う。

明治維新以降で政治が光っていた時代というのはほとんど無かったといっていいと思う。

日本の政治家が、いくらかでも精彩を放ったとすれば、それは官僚出身の政治家の存在だけである。

政党出身、つまり官僚の経験のない政治家というのは、実に下らない存在で、まさに政界における盲腸のようなものである。

あってもなくても大勢に影響はなく、民主政治を行なっています、という形骸を示しているだけの存在である。

今の日本の社会党の存在など、まさしく民主主義政治の盲腸のようなもので、民主政治の看板のみである。

しかし、こういう本質を知らない国民が、日本の全国民の半数近くいるということは、かって軍国主義という民族的なコンセンサスが日本を支配したように、政治音痴というコンセンサスが日本の人々の半分を占めているということである。

私は何も自民党を賛美しなければならない義理はないが、社会党の発想があまりにも幼稚じみているので、その腑甲斐なさに怒りを感じているのである。

日本の近代化において、日本人のなかにも、個々に優秀な人物は、かっては軍と官僚に流れた。今も産業界と官僚に流れている。

日本の歴史の中で、優秀な人材が官界に流れた、ということは紛れもない事実である。

だから官界から政界に移った人というのは、平衡感覚がすぐれており、物事を論理的に眺めることが出来る人々である。

けれども政党出身者というか、官界を経験したことのない政治家というのは、感情で物事を判断し、観念による思い込みが強く、固定観念を崩そうとする気持ちがない。

だから何時まで経っても万年野党でおわってしまう。

日本の官僚というのは、アメリカなども一目置くほどのすぐれた組織だと思うし、優秀な人材を集めていると思う。

大蔵省にしろ、通産省にしろ、極めて優秀な人材を集めていることに変わりはない。

ところが、そのトップの席というのは、政治家のポストである。

優秀なブレ−ンを、阿呆な政治家がコントロ−ルするというところに、日本の政治のアキレス腱が存在する。

政治家というのは、テストを受けてなるわけではない。

官僚というのは国家公務員試験というフルイを掛けられた人々がなっているわけである。

最近の世の中で、仕事をしようとした場合、何の資格もいらず、何の試験を受けなくても済む職業というのは、政治家以外ないのではないかと思う。

選挙というのは、政治家の資質を問うものではない。

選挙に立候補するということは、政治家任用テストに合格したという意味ではない。

選挙というのは、それなりの作戦と、金が要る事は理解できるが、政治家としての均衡が取れているとか、資質が十分であるからというものではなく、一言で云えば、人気投票と同じである。

タレントの人気投票と同じレベルである。

政治家のリ−ダ−・シップということが云われるが、日本の政治家というのは、このリ−ダ−・シップに欠けており、リ−ダ−・シップの取りようがない。

何故なら、自分よりも優秀な官僚に対して、リ−ダ−・シップの取りようがないからである。

逆に、官僚のお膳立てしたものを、如何に上手にコ−デイネイトするかというのが、日本の政治である。

PKO法案を見ても、すべて官僚が作ったものを、如何に上手に可決させるのかというのが、政治家の役目であるということが如実に表れている。

自民党の政治家、民社党、公明党の政治家が集まって、いくら議論をしてもあの法案というのは出来るわけがない。

彼等に出来ることといえば、国際的な貢献をするにはPKOに協力しなければ、という概念を宣伝することのみである。

理論的にそれを説明、理解させるのか、それとも観念的にそう思い込ませるのか、という戦術戦略の問題である。

何でも反対の社会党の政治家というのは、観念的な感情論で、PKO反対のキャンペ−ンを張っているだけである。

社会党の政治家というのは、だいたいが労働組合系の組織から選出されてきている。

労働組合というのは、昔も今も良い人材、優秀な人材には恵まれていない。

これは無理もないことで、民間企業でも、官界でも、優秀な人材というのは、管理する側に回ってしまって、管理される側には入ってこない。

今の日本のあらゆる組織において、その人物が優秀であればある程、自然に管理する側に入っていってしまう。

いきおい管理される側というのは優秀でない人々の集団、要するカスだけの集団ということになる。

このカスだけの集団が、政治家を選出したところで、やはり優秀な政治家にはなりえない。だから社会党の論理というのは、幼児的な思考停止に陥っているのである。

ここで云う優秀ということは、漠然とした云い方であって、人間の才能というものは、いろいろな分野があって、学校の勉強が出来なくても金儲けの才能は人より優れているというケ−スは、この世のなかに五万と存在している。

そういう意味で、優秀という一言で片付けるわけにはいかないが、政治とか政治家に関して優秀といえば、これは平衡感覚の問題ということになると思う。

今の日本が民主主義の世の中である以上、最大多数の最大幸福という命題に対する平衡感覚のことだと理解すべきである。

政治家と官僚の違い。政治家の資質の問題が、日本の政治を左右していることに、昔も今も変わりはない。

政治家、つまり国会議員になるには、資質を一定のレベルに統一する試験というものがない、昔は納税の額によって、立候補するのに誰でもという訳にはいかなかった。

現行憲法ではその枠もなくなり、文字通りある年令に達すれば、誰でも立候補できることになっている。

しかし、官僚というのは、国会議員になるよりも困難なわけで、一言で云えば、馬鹿やチョンでは成り得ない。

この国会議員にも官僚から入る人は多々あるが、こういう人はすべからく自民党に入る。

野党に入る官界出身者は皆無といっていいのではないかと思う。

 

本音の語れない政治

 

国会議員の弱いところは、選挙という洗礼を受けなければならない点である。

これがあるのが民主政治であり、民主政治であるが故に、政治家というものが本当のリ−ダ−・シップを取り得ない。

政治家がリ−ダ−・シップを取るということは、戦前のナチズムや、スタ−リンのやったことと同じ事になってしまう。

政治家のリ−ダ−・シップと、民主政治というのは相反する矛盾を抱えている。

日本の政治も、国会議員が本音で物を言っているとは思われない。

これは自民党、社会党とも同じである。

PKO問題についても、自民党にしろ、社会党にしろ、本音を語っているわけではない。

お互いに、歯に物が挟まったような議論をしている。

これはPKOの問題、PKO法案をいくら頭のいい官僚が作ったところで、憲法第9条というものをそのままにしておく以上、本音で語り合うことはできない。

民主主義、民主政治というのは、最大多数の最大幸福を追求するものである以上、最大多数からもれる人々、最大の幸福にあずかれない人々というのが存在しうる訳で、この少数の意見を尊重せよという話になると、民主主義、民主政治というのは一体何んなのかという命題に立ち帰ってしまい、その根源に戻って考え直さなければならない。

つまり民主政治の否定と云うことになってしまう。

PKO法案のように、国民の意見を二分するような意見の分裂のある場合、すでに民主政治の終焉の時期に差し掛っているといわなければならない。

とくに日本の場合、既成の政党というのが、固定観念で凝り固まっている。

新しい発想が生まれる事を拒む風潮がある。

まだ自民党の中では、個人の意見というのが尊重される余地があると云えば、聞こえがいいが、別な言い方をすれば、少数意見の我儘が許されている。

ところが、社会党となると、党首でさえも党の方針に抵触する発言は糾弾される、という風潮がある。

党というのは同じ意見、同じ考え方の人々の集合という点から見れば、こうならざるをえないが、党という集団の、基本的な線では確かにそうであっても、個々の政治、法案に対する立場ということになれば、党員の個人の意志、意見を前面に出してもおかしくはない。

野党の方はその自由が束縛されている。

この束縛がゆるいのが自民党であり、きついのが社会党、共産党である。

だから党利党略と云わざるをえないことになる。

個々の法案に対して、党として賛成、反対という立場をとる以上、自民党はあくまで与党であり、社会党は野党でありつづけるわけである。

だから法案の審議の過程で、自民党も社会党も個人の意志、意見、気持ちというものを前面に出せば、全面的賛成、絶対反対という両極端なことはなくなる。

つまり、党内にファシズムがはびこっているということである。

その程度は自民党よりも、社会党、共産党の方がより顕著である。

考えてみれば国民の各層、各階級から選任された代表者たるべき国会議員が、国民と国会の中間の組織である党の中で、ファシズムに支配されているということは、きわめて遺憾なことである。

これは国会議員だけの問題ではなく、日本の政治の根源にかかわる問題であると思う。

日本で国会議員の選挙という場合、立候補者というのは、まず党の選択から始めなければならない。

こういう状況の中で、今の日本においては自民党も社会党も、自分の党の明確な進路、方針というものを打ち出せないでいる。

国民に愛されるだとか、国民の為にだとか、美辞麗句ではあっても、その語ろうとするところは曖昧模糊とした表現で塗り固められている。

出来上がった宣伝文句、コピ−(宣伝用のキャッチフレ−ズ)というのは、自民党も社会党も共産党も全く同じような文面になってしまう。

本当はここに本音の部分を書き入れておかなければならないのであるが、本音を素直に表明すると、国民、つまり選挙する側の人々が離反してしまう。

仮に自民党が憲法第9条を改正してPKOを出す、とはっきり表明したとすると、自民党の票は少なくなるし、社会党が何が何でもん憲法第9条の改正は阻止し、徹底的に守って、自衛隊は違憲、PKOも出す必要はない、とはっきり表明したとすると、これもまた票の減少ということになる。

ただし、共産党が明確に意志表示が出来るのは、共産党が政権を獲得するチャンスというものが、未来永劫ないことを、党自身が知っているからである。

だから現状に対して、無責任にも本音を言い続けることが出来るわけである。

前後左右の状況を全く無視して、本音だけを表明するというのは、本来ならば善であるべき物が、無責任というのも、矛盾したことではあるが、これが現実の政界の姿である。

要するに、自民党も社会党も本音を前面に出して、それを強調すると、選挙民が離れ、得票率が下がる、という矛盾に陥ってしまうわけである。

この状況から推測して、誰に一番責任があるかといえば、国民自身だと思う。

国民の半数がPKO法案反対、地球規模で人類に奉仕する必要はない、と云う選択をするということは、日本民族の半数近くがそういう心理状況、つまり自分さえ良ければ他はどうなってもかまわない、という利己的な精神構造になってしまっているということである。

これが歴史の流れである以上、これに逆らっても無意味である。

今更、日本民族の堕落を嘆いてみても仕方がない。

戦後の日本人は、こういう民族になってしまったのである。

だから今の日本の政党は、各党同じように、玉虫色で、曖昧模糊とした表現で、政策、施政方針をPRせざるを得ない。

党が明確な指針を出さず、本音の意思表示をしなくて、美辞麗句を並べ、曖昧模糊とした指針を掲げている中で、立候補する人は、自分の魂をいづれかの政党に売らなければならない。

政治に無関心な一般大衆の側から見て、自民党は保守的に見えるし、社会党は革新的な印象は受ける。

しかし、これは外側から眺めた印象だけで、私個人の印象では、実情は全く逆になっていると思う。

社会党が一見革新的に見えるのは、革新という言葉を多用するだけのことで、あの固定観念から脱却しえないでいる点においては、頑健な保守である。

戦後40年間、社会党が本当に革新であったならば、たった一度だけでなく、もっと政権の座につくチャンスはあったはずである。 

 

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