ロスアンジェルス暴動について

 

平成4年5月1日、日本ではゴ−ルデン・ウイ−クに入っていたが、日本の新聞はアメリカ、ロスアンジェルス市で起きた暴動の報道で埋めつくされていた。

事の起こりは、スピ−ド違反の黒人を警棒で殴った白人警官に対する裁判判決が白、つまり無罪という判決が出た事に対して、黒人側の怒りが爆発したという形で起きている。

1991年(平成3年)3月、アメリカ、ロスアンジェルスで黒人青年ロドニ−・キング、27才という人物がスピ−ド違反で捕まり、その時白人警官が4人で寄ってたかって警棒で殴り付けているビデオが日本でも報道された。

日本でテレビの映像として流れたということは、当然全米にも流れているわけで、あのビデオを見る限りにおいては、白人警官のいきすぎ行為である。

何の予備知識も持たない人なら、明らかに警官を非とするに違いない。

しかし、この警官に対する裁判に対して、その結果を見る限りにおいて、これは明らかな人種差別としか言いようのない判決が出た。

黒人の青年を、警棒で打ち据えている警官が全く無罪というのは、誰が見ても納得のいく判決ではない。

アメリカの裁判制度を詳しく知っているわけではないが、テレビの画面から見る限りにおいては、白人警官の過剰防衛は明らかであり、白人警官が無罪という判決は、我々の常識でも割り切れないものであり、納得できるものではない。

だからといって、暴動という行為を容認できるものではないが、ここで明らかになったことは、アメリカ社会の疾病である。アメリカの精神的荒廃である。

アメリカの人種差別というのは1964・7、公民権法の成立を境にして、表向きは消滅したはずなのに、それが人々の心の奥底には生き続けていたということである。

事の発端は、ロドニ−・キングという人が、4人の白人警官から過剰防衛、あのシ−ンを見る限りにおいては、過剰防衛を通り越して暴行行為になっている。

ロドニ−・キングの方は、何も武器を持っておらず、ただ一方的に暴行を受けて、逃げ廻っており、白人警官の方は警棒で力一杯打ち据えている。

このシ−ンに写っていない場面には、ロドニ−・キングが警官の尋問に素直に応じず、反抗的であったという報道もあるにはあったが、正確な真偽のほどは定かでない。

しかし、そのビデオを見る限りにおいては、白人警官側には弁解の余地がないように思われる。

そしてこの警官を裁くべき裁判が、どうも結果を予測して色々と工作が行なわれたようである。

我々レベルでも理解出来る事を記せば、事件が起きた地域で裁判が行なわれるべきものを、裁判の開催地を変更しているということは、結果を予測して工作をした、ということを歴然と表していると思うのだが、そういう状況の中でも、明らかに人種差別という評決が出たという事に対して、不満が高まるのは当然であろうと思う。

しかし、ロスアンジェルス暴動の報道を見ても、この裁判の開催地を変更するということ自体は合法的のようである。

そのことを違反とする発言が見当らないので、私が勝手にそう判断したわけであるが、勿論確かなことは知る由もない。

今回の事件で、アメリカの裁判制度を考えてみると、この陪審員制度というのもなかなかの曲者である。

本来は民主主義の見本のような陪審員制度であるが、陪審員制度そのものが、こうした人種差別を助長するような意図でコントロ−ルされるような陪審員制度では困った物である。

これは制度の欠陥というよりも、その制度を運用する人間の欠陥というべきであろうと思う。

今回の警察官を裁く裁判でも、地元で行なえば、白人警官に不利な判決が出ることを予測して、開催地を変更したわけであるが、ここにすでに人種差別の潜在意識が作用しているということである。

又、陪審員そのものも、色々と余分な知恵ないしは強迫のような事に左右されているという事も考えられる。

このアメリカの裁判制度というのは、テレビ映画でよく登場するので、大雑把なことはわからないでもないが、アメリカの裁判制度では、有罪か無罪かという決定を下すのは陪審員のようである。

又、この陪審員というのは無作為に選ばれるということである。

無作為という事が、本当に民主的であるかどうかという事も難しい問題だと思う。

無作為に選ばれた陪審員というのは、法律的知識ばかりでなく、常識的な知識をも十分備えているのかどうか、という点でもはっきりしていないわけである。

今回のケ−ズでも陪審員があのビデオを見て、なおかつ白人警官の肩を持って、無罪という評決を出すという事は、彼らは無意識のうちに人種差別をしておきながら、自分達の考えが普遍的なものだ、と思い込んでいたとしか言いようがない。

まあ、あのビデオを見ていたのか見ていなかったのか、という点も定かではないが、もしビデオを見ておれば、無罪という評決はありえないと思う。

アメリカでは、日本人の我々が思いもつかないようなことが、しばしば起きるけれども、あの陪審員の評決というのも、そういう類の一つではある。

けれども、だからといって暴動を起こしていいという結論にはなりえないし、陪審員の評決というのは、アメリカ社会では法律と同じ比重を持っているということを考えると、アメリカ社会にそのまま受け入れらるとは考えにくい。

アメリカの良心が許さないと思う。

アメリカの社会というのは、非常に振幅の大きい社会である。

多民族がモザイク状に混在した多民族国家である。

我々日本人のような単一民族でない。我々には計り知れない奥深いものを内在している。

この裁判に対して、暴動という暴挙に出るのもアメリカ人ならば、略奪したものを返しにいくのもアメリカ人である。

暴動が起きたという事実は、そういうフラストレイションが社会の中にあったということだと思う。

ここでいうフラストレイションというのは、言うまでもなく人種差別、人種的偏見、貧富の差による不平不満というものが、白人警官の無罪評決というものきっかけとして噴出したと見るべきである。

しかし、この暴動は3日間ぐらいで鎮静化したとはいうものの、途中で、その暴動の質が変化している。

最初は確かに黒人の暴動であった。

ところが時間が経つにつれて、これが在米韓国人、朝鮮人との抗争という形になり、その後は、全米に散発的な暴動として広まるというふうに、暴動というものがお祭騒ぎになりかけている。

この最初の暴動というのは、正真正銘の暴動で、非文化的な行為そのものであった。

次の在米韓国人、朝鮮人とのトラブルとなると、国際問題になりかねない。

そして全米に広がった暴動というのは、暴走族の無法行為というものに近いもので、最初の動機とはかけはなれてしまっている。

暴動というものに理由付けも、正当性も見いだせないのは何処の国においても同じだろうけれど、この第一段階を経過した後の、在米韓国人、朝鮮人とのトラブルというのは深刻な意味合いを持っているものと思う。

韓国人、朝鮮人というのは、何処の国にいってもあまり評判がよくない。

ベトナム戦争の際にも、韓国から出兵した部隊が一番残忍だったというし、キム・ヒョウヒの大韓航空爆破事件にしても、乗員乗客の何一つ現われていないし、日本近海の漁業の問題にしても、資源を根こそぎさらってしまうという問題を提起していたし、20世紀の主権国家のなかでも一番野蛮なような気がする。

日本人も朝鮮人も、同じモンゴリアンという意味では、先祖が同一であるけれど、個々の人間として集団を形成すると、集合体としての朝鮮人と日本人では明らかに相違が見られる。

ロサンジェルス暴動の際の、テレビ・ニュ−スの映像でも、韓国人は暴徒に対してピストルで威嚇しているシ−ンが写っていたけれど、こうした対応でも、堂々と武器を持って対抗しているという見方も出来るが、日本人の商店が同じ立場で略奪にあったしても、おそらく朝鮮人と同じ対応の仕方はしないものと思う。

黒人と朝鮮人の衝突が発生するには、やはりその前に一つの原因があった。

それの日時は定かでないが、黒人の少女が朝鮮人の経営する店から物を盗もうとしたところを、朝鮮人の女性経営者の見つかり、射殺されたという事件があり、その時の朝鮮の女性経営者が無罪になるという事件があった。

こういう事件に対して、それが今回の事件と重なりあって、黒人のフラストレイションが朝鮮人に向けられたと見るべきである。

 

自己の身を守るという事

 

黒人というのは、今でもアメリカ社会の中でマイノリテイ−であることに変わりはない。

アメリカ社会というのは、基本的に白人の作った社会であり、白人の社会である。

アメリカの黒人というのは、例のリンカ−ンの南北戦争の時と、1964年公民権運動の時と、2度開放されたわけであるが、それにもかかわらず、今日に至るまで黒人差別は継続しているわけである。

しかしこの公民権運動というのを引き合いに出すまでもなく、黒人というのは白人社会において、存在するだけでもトラブルが内在していたわけである。

これはある意味では仕方のない面もある。

白人も黒人もお互いに人間である以上、偏見というものをなしにするわけには行かないと思う。

それが理想とはいうものの、お互いに人間である以上、人間の精神的特質を排除するというわけにはいかないからである。

人類が戦争というもの止めなければと言いつつ、20世紀になるまで止められず、今でも部分的に継続しているのと同様、偏見というものも、お互いに人間である以上、完全に払暁するわけにはいかないと思う。

黒人の全部が悪いわけではないだろうが、一部でもそういう人間が居れば、全体がそう見られても致し方ない。

日本国内においても警察官や学校の先生が犯罪を犯すと、日本中の人々が憤慨するのは、警察官や先生という立派な人格者であるべき人が、と云う一種の良い意味での偏見が裏切られたことによる憤慨である。

それと同じで、そういう人間性に基づく普遍的なものというのは、一朝一夕では拭い去れるものではない。

ロサンジェルス暴動においても、黒人としての怒りが込上げて来るのは、わからないでもないが、だからといて暴動を正当化することは出来ない。

暴動を起こして、事件とは何の関係もない一般市民に迷惑をかけるような事が、許されるわけはない。

しかも、これを最初に起こしたのが黒人で、その騒ぎに乗じて、朝鮮人の経営する商店から品物を略奪する等という事が許されるわけがない。

これをしたのが黒人である以上、黒人の非を咎められても致し方ない。

この行為は、黒人差別を助長する以外の何物でもない。

真面目な生活をしている黒人までも、暴動を起こした黒人と、同じ目で見られることは火を見るより明らかである。

黒人全体の評判を下げることはあっても、上げることはない。

この事件で、朝鮮人の店が略奪の標的にされたということは、朝鮮人というものがアメリカ社会の中でも、地位の高い評価を享けていないということである。

朝鮮人が対象とされた経緯は先に述べたが、朝鮮の人々が、アメリカ社会においてブロック作り、ゲット−を作っている結果が、この騒ぎを引き出したとも云えると思う。

西洋人、つまり白人というのは、アメリカという新大陸、社会全体としてヨ−ロッパ社会から見れば新大陸であったわけであるが、この新大陸において、個として存在しうるが、日本人や朝鮮人というのは、どうしても個の集団としてしかアメリカ社会に入り込めない。

これには皮膚の色ばかりでなく、過去の生活、民族としての生活、というものがそうさせるのであろうが、どうしても自分達でかたまってゲット−を作って、アメリカ社会の中にブロックとして、入り込むという傾向がある。

ロスアンジェルスのリトル・ト−キョウとか、コリア・エリアというように、点としての存在ではなく、大きなブロック、固まりとして存在しがちなところに、こうした偏見を助長する原因があったと思う。

過去に日本人がアメリカ社会から排斥されたのと同じ道を、今朝鮮人が辿っているように見えるが、素人目に見ても、日本人は従順であるが、朝鮮人というのは、日本人ほど従順ではない。

暴徒に対して、ピズトルで威嚇するなんて行為は、日本人ではちょっと考えられない。

日本人というのは、豊臣秀吉の刀狩の時代から、銃砲に対して異常な嫌悪感を抱いている。日本で銃砲になれている人というのは、警察官と、自衛隊員と、暴力団のみである。

しかし、このいづれにおいても、通常的に銃砲を扱っているわけではなく、警察官がピストルを発砲しようものなら、日本中が大騒ぎである。

こんな風潮は、一概にいい事とも云えない筈であるけれども、今の日本では人々の心の中で、銃砲というものは悪の根源である、という認識が一般化している。

この日本人の、銃砲に対する嫌悪感というものが、日本の国際貢献という論議の中にまで入りこんできている。

日本人の特性として、権力に対する従順さと、銃砲に対する嫌悪感というものは、今日の日本人には、実に普遍的に潜在意識の中に埋没されている。

これがアメリカ社会における、多民族モザイク社会においても、日本人の特性として生き続けている。

ロスアンジェルス暴動の際の、朝鮮人のような積極的自己防衛というのは、日本人には出来ないのではないかと思う。

これが良い事か悪い事かの問題は差し置いて、日本人には銃器で自分自身の身を守るという概念がない。

相手が武器を持っていて、自分が殺されても、これが運命であるとして、素直に受け入れてしまう傾向がある。

少々根性のある日本人の場合、それをネタにして、国家なり政府なりから金をせびり取るという方法、つまり取れる所から賠償金として取る、という姑息な手段を弄する程度で、基本的には泣き寝入りの方向である。

その点、日本人以外の民族は、自分の身は自分で守るという事が常識になっている。

ロサンジェルス暴動の朝鮮人の行動が世界の常識である。

自分の身は自分で守る、法律が用をなさなければ、自分の身を守るのに銃器だろうが、刀であろうが、その他の武器であろうが、相手が理性的でない場合は、それにふさわしい対応をするということに何ら良心の仮借を感じていない。

日本人の銃砲アレルギ−というのは、世界的には極めて異質であると思う。

自分の身に降りかかってくる危険には、銃器であろうが、その他の武器であろうが、とにかく自分が生き延びてから、法の裁きを受ける、法の審判を仰ぐという考え方があるが、日本人の場合は、運よく生き延びれた暁には、金を要求するという方向である。

生き延びれるかどうかは全く運次第である。

運が良ければ、賠償請求を行なうという発想で、実に刹那的である。

ある意味ではいさぎよいが、その後がセコイ。姑息である。

理性的でない相手に直面したとき、何が何でも生き延びる、そのためには相手を倒すためには銃器の使用もいとわない、とにかく自分が生き延びるためにはあらゆる手段を講ずる、という生き延びるための執念がない。

殺されるかどうかという時点でも、鉄砲の使用は悪であると、律儀に思い続けているのが日本人である。

日本人が銃砲を極度に嫌悪する心理は、今、日本の政治の舞台で問題になっている、PKOの問題とも関連しているのである。

PKOに自衛隊を派遣するのに小銃を持っていくとかいかないとか、指揮権があるとかないとか、危ないところには派遣しないとか、こういう低次元のことで、論争の為の論争が繰り広げられている。

実にナンセンスな問題である。これも一重に日本人の銃砲嫌悪感の為せる業である。

 

 

 

日本国憲法は今の時世に適合しているか?

 

ここから先は憲法問題に入り込むことになるが、日本国憲法第9条というのも、日本人の銃器嫌悪感が改正を阻んでいると思う。

これは悪いとか良いと云う次元の問題ではなく、日本人というのは自分さえ武器を使わなければ相手も使わないと、心からそう信じ込んでいる事を云っているのである。

そう信じ込む原因が,日本人の武器というものに対する嫌悪感だと思う。

第2次世界大戦という,日本にとっては民族の破滅にもなりかねない敗北を経験した日本人民は、豊臣秀吉の刀狩以上の武器不保持を心の中で誓ったに違いない。

これは一人や二人の政治家のレベルではなく、民族として,誰からも強制されたわけでもないのに、「武器不保持の誓い」というものが民族的潜在意識として、日本民族にプリンテイングされてしまったとしか言い様がない。

プリンテイングという言葉は動物、特に鳥類において卵から雛に還った時、傍にいるものを親と思い込んで、親の真似をすることにより、種としての特異性を確立するということを指す言葉である。

日本民族というのは、敗戦というショッキングな出来事により、生まれ変わったわけであるが、その時に、連合国、特にアメリカ合衆国というものが、新生日本の生みの親に見えたに違いない。

そして、この生みの親が武装解除という事をした。

これは戦勝国としては当然な行為であるが、この武装解除という事が、新生日本にとって非常にインパクトが強かったと見えて、この時、日本人、日本民族にとって武器不保持、銃器を所持することが悪、という概念がプリンテイングされてしまった。

一度刷り込まれてしまうと、その後、周囲の環境がどう変わろうと、周囲の状況がどう変化しようと、武器の保持は悪である、という認識が蔓延してしまった。

そして戦後の日本が、まだ経済力が無く、模造品の輸出で国が成り立っていた頃は、憲法第9条というのは日本国内でも十分通用し、海外においては日本の憲法など眼中になかった。

ましてや海外に自衛隊を出さなければならない、という状況というものもなく、巨大なアメリカ軍というものがアジアには存在していた。

当時の日本の国力から見ても、自衛隊の戦力、機動力から見ても、日本が海外に自衛隊を派遣しなければならない状況というものはなかった。

ところがそれから45年も経過すると、日本は世界でNo1の経済力を持ち、日本のGNPのわずか1%の国防費でも、アジアでは最強の軍事力という風に、日本の状況も、周囲の状況も変化しているのに、一度日本民族に刷り込まれた、憲法第9条の理念というものを見なおそうという気運が沸いてこない。

改憲論者というのはいるにはいるが、まるで悪者扱いである。

日本人は意見の相違ということを容認できない民族である。

あなたと私は意見は違うけれど、人間としては尊敬し合うという発想が出来ない。

意見が違えば、相手を悪人と決め付けてしまう。

一旦戦争放棄という事を思い込むと、災害派遣も駄目なら、難民救済も駄目、という風に考え方が硬直してしまう。

そして海外に自衛隊を派遣するのに、小銃を持っていくかのかいかないかとか、云う議論になってしまう。

今、日本が問われているのは 国連に協力するのかしないのか、ということが前提条件で、自衛隊だから海外での協力が可能か可能でないかという問題ではない。

だいたいSELF DEFENSE FORCEと云うからややこやしいのである。

JAPAN ARMY、JAPAN NAVY、JAPANN AIR FORCEとしないので、問題が一層ややこやしくなるのである。

自衛隊の存在そのものがARMY、NAVY、AIR FORCEなのに、その前に

DEFENCEをくっつけるので、国内では議論が噛み合わないのである。

ARMYといえば、小銃を持たないARMYというのはありえないし、軍艦のない

NAVYというのもありえない。

SELF DEFENSEであるがために、小銃はどうのピストルはどうのと云う議論になるのである。

今の日本の自衛隊を、「軍」と呼べば国を挙げての騒動になるだろうが、しかし日本をこの宇宙船地球号の一乗組員と云う立場に立って物を考えれば、やはり他の諸外国と同じような立場というか、人並みの体裁というものにしなければならないのではないかと思う。

自由主義というものが普遍化し、かっての共産主義国家も自由化の波にのまれて、西側自由主義圏の諸外国と同じように肩を並べるとなると、この地球号の乗組員として、日本だけが憲法第9条を盾に国際協力が出来ないというのは理屈が通らないと思う。

この場合、日本人の発想には軍事面でない、民生部門で協力すればいいという発想が生まれるが、世界の民族が、又多くの主権国家が、今でも武器を取って戦争をしている、又その現実をテレビが報道しているではないか。

こういう状況の中で民生だけの協力という事はありえない。

ベトナムで地雷を除去するという作業が民生部門の協力といえるであろうか。

こういう局地的な紛争、民族紛争、自然環境紛争、難民紛争というのは、紛争の当事者同志が武器を使用して、攻めたり攻められたりしているのである。

そういう中での国連の活動を支援しようというのに、小火器の携行ぐらいは認めないことには、国際貢献そのものが成り立たない。

そういう事を理解しようとしない日本人があまりにも多すぎる。

戦争、紛争、あらゆるトラブルと云うのは自分一人では起こりえない。必ず相手がある。

この相手が一切武器を使わないという保障がない限り、自分の身は自分で守る他ない。

日本人には、この自分の身を守る、という概念が欠落している。

自分の身を守ることに長けているのは暴力団ぐらいである。

残りの日本人は、自分の身を守るのは、政府なり国家であると思い込んでいる。

だから身を守れなかった時は、政府なり国家なりに損害賠償という発想になる。

青年海外協力隊という組織で、日本の若者が、何もない外国の僻地でそれぞれ活躍しているが、こういう人達がときどきゲリラ組織とか、強盗にあって被害をこうむり、命を落とす事件がある。

こういう青年海外協力隊員には、各人に一挺ずつピストルを与えるぐらいの配慮が本当は必要なのである。

それを使わずに済めばそれに越したことはない、そうであれば日本側も相手側も結構な事であるが、不幸にしてピストルが無いばかりに命まで落とすケ−スがある。

それでも、こうした不幸なケ−スが少ないために、日本国内では武器を持たせよという世論は沸き上がってこない。

日本人というのは、自分の国が安全なので世界中何処にいっても日本と同じだと思い込んでいるが、これだけ日本人が世界各地に出掛けている世の中になっても、青年海外協力隊員に武器を持たせよう、という発想は生まれてこない。

ここ数年来、南米で日本の商社の人が被害にあったり、海外協力隊員の人が被害に会うのは、日本人は無抵抗であるというのが、そういう悪意を持った人々に浸透した結果だと思う。

ロスアンジェルス暴動で朝鮮人が示したように、日本人も自分の身は自分で守る、という気概が相手にも分かれば、少しはそういう被害も減少するものと思う。

自分の身を守る、と云うことは自分の理性だけでは何ともしょうがない。

目には目を、歯には歯を、武器には武器を、銃器には銃器を、という気概を持つ事も、時には必要である。

これは良い事とは云えない。

しかし、自分の身を守るために、綺麗事を云っていたのでは身の安全は確保できないのが世界の常識である。

日本国憲法第9条についても、戦争放棄という理念は実に素晴らしい事である。

だからといって、自衛隊が海外の災害派遣や、難民救済にまで、この第9条で縛り付けることは明らかに時代錯誤である。

この論議の問題点というのは、問題の本質を論ずるのではなく、枝葉末節的な言葉の字句にこだわりすぎて、議論が空回りしているところに今の日本の政治の盲点、日本の外交の虚しさがある。

外交というのは、今や自国の国益だけで、乃至は、自国の都合だけで論じ合っている時代ではない。

地球規模で、世界的視野に立って、議論をしなければならないのに、小銃の所持とか、憲法違反だとか、議論の次元があまりにも低すぎる。

憲法第9条の存在が今日の世界に貢献できないものだとすれば、これを国際的な貢献の出来るような憲法に見直すべきである。

前にも述べたように、我々日本人は、今、自分達の日本の事だけで憲法を論じ合っている時代ではない。

終戦直後のように、一面の焼け野原で、GNPも低く、輸出力のない時代ならば、日本の国益という民族主義的な発想も許されるが、今の日本の力というのは、既に日本一国の枠を出てしまって、地球規模と考えなければならない。

当然、日本国憲法というものも、地球規模で、全世界の人々に、どうすれば貢献できるかという視点に立った発想で考え直さなければならない。

今、日本はGNPでアメリカと1、2を争っている。

これは言葉でいえば簡単なことであるが、その重々しさというのは、実感がともなわないのも無理からぬ話である。

アメリカと肩を並べるということは、実に大変な事である。

アメリカの国土の広さと、人口の多さを日本と比較して、それと1、2を争うということは、我々が考えている以上に大変な事である。

単位面積当たりのGNP、人口一人当たりのGNPということを考えると、日本が世界に与える影響というものは計り知れない。

そういう日本が自分の事だけを考えていたとすれば世界から顰蹙を買っても致し方ない。

戦後の日本はアメリカ、ヨ−ロッパに追い付き追い越せというのが国民的コンセンサスで、45年間経過してきた。

気が付いてみると、日本の経済発展の原動力である石油の供給地、中近東で戦争が始まった。

この戦争の原因というのは、かっての日本が行なったのと同じ、帝国主義的侵略戦争であった。

それに対して世界中が「この戦争は許されるものではない」という国連決議のもとに、イラクの制裁という事を実行し、その一貫として、又その手段として、直接的な武力行使ということを行なったわけであるが、これに対して、日本がこの地域から多量に石油の供給を受けていながら、直接的な人的協力、つまり兵力の提供ということはしなかった。

90億ドルという金を出し、戦後処理の一貫として、掃海艇の派遣ということは行なったが、この両方において、国民がこぞって賛成したわけではなく、野党の強力な反対というものを押し切って、政府が行なったわけである。

こういう状況では、反対意見が出てくること自体がおかしい。

冒頭で述べた、ロサンジェルス暴動の人種差別の評決とはわけが違う。

結果的には日本の経済発展の血であり肉である中近東の石油というものは、アメリカをはじめイギリス、フランス、その他の多国籍軍の直接的武力行使に携わった人々の血で守られたわけである。

こういう状況を、日本人としてテレビという桟敷席で眺めているだけで善いものだろうか?こういう状況で日本の国際協力ということがありえるだろうか?

私としては、この日本の状況というのは、由々しき問題だと思っている。

この時、クルド人難民の救済という問題が湾岸戦争と平行して持ち上がったが、このクルド人の難民救済も、日本の野党勢力の反対で、政府は行なうことが出来なかった。

こんな状況で、日本が国際協力を云々するということが言えるであろうか?

この時の状況というのは、政府は憲法第9条を拡大解釈して協力しようとするし、野党はその拡大解釈を許さず、厳密に規定通り解釈するという関係で終始したが、国際的な協力ができないような日本国憲法ならば、国際協力が堂々とできるような憲法に作り替えるべきである。

日本国憲法が日本人の物であることに変わりはないが、それは世界の人々に貢献しうる、という前提条件のもとで、日本の国民を規定すべきである。

この日本国憲法が制定された時点においては、日本が直接的に世界平和に関わり合うという状況が存在しなかった。

アメリカという親鳥のヒヨコ、雛のような存在であった。

ところが今の日本というのは、親鳥以上に巨大化してしまったわけである。

その巨大化した経済大国が、小銃一挺出さずに、一人の人間、兵士も提供しないとあっては、世界が納得しないのも当然である。

中近東の石油の恩典を一番受けている日本が、世界で一番貢献度が少ないとあっては当然である。

日本は90億ドル出したではないか、と云う日本人の反論もあるが、金持ちが寄付する事が美徳だと思い込んでいるのは日本人だけで、世界の常識では、金持ちが寄付するのは当然の義務という国が大部分である。

金持ちが金持ちの義務として、90億ドル出したところで、義務という事であれば、世界的規模で眺めれば、何ら感謝されないという状況もあるわけで、日本は90億ドル寄付したのだから、人間の方は出さなくてもいいだろうというのは甘い認識で、日本人以外の認識では、金持ちが金を寄付するのはそれなりに大事なことであるが、それよりも一緒に汗を流し、一緒に塹壕を掘り、一緒に戦う方により多くの価値観があるのである。

特に戦場という状況下では、共に戦うという事は、より以上の団結を生むことになるのである。日本はそれをしなかった。

ここで最初の問題に戻るわけであるが、日本をそういう立場に追い込んだのは紛れもなく日本の野党勢力である。

 

民主主義の終焉

 

今、日本の政治で与野党の勢力が伯仲していると云う事は、日本人の半分が政府自民党に反対しているということで、まさに国論を2分していることである。

これは言葉を変えて言えば、民主主義の終焉である。

一つの判断、一つの採決事項に、意見が半分半分という事は、それが採決されたところで、半分の人が反対しているということで、この事実は、民主主義そのものが成り立たないということである。

最大多数の最大幸福が民主主義の原点だとすれば、半分の人々の幸福であり、残りの半分の人々にとっては不幸ということになり、こういう状況では民主主義というのが死滅したのも同様である。

ただ、民主主義の原理で多数決ということも、51:49では多数決の意味が消滅してしまっている。つまり民主主義の死滅である。

こういう状況で、日本人の半分が憲法改正反対、国際貢献反対では、日本の前途は暗澹たるものである。

日本人の議論の悪いところは、全ての議論が総論賛成、各論反対である。

各論反対で、全体が動かなくなってしまうところが、日本の政治の欠点である。

国際貢献でも、それ自体は非常に結構な事であるといいながら、自衛隊を出すことは罷りならぬ、自衛隊を出しても危ないところは駄目で、銃器は持つこと罷りならぬ、と理由に合わない些細なことで、結局何も出来ないという事になってしまう。

国民の世論が二つに割れるという事は、日本人の発想が二者択一の思考になっているのではないかと思う。

黒か白、善か悪、YESかNO、という二者択一の選択に限定されてしまって、中間色、中間の考え方、というものを認めたがらない思考方法が、こういう事態を引き起こしているのではないかと思う。

そういう目で日本の政治を眺めてみると、自民党というのは、党内に様々な意見の存在というものが許されているが、社会党の場合、完全に党の綱領で束縛されており、自由な発想、党の選択以外の道というものが抹殺されてしまう。

共産党というのはその最たるもので、過去の共産党のテ−ゼを頑なに守り続けている。

いわば共産主義のシ−ラカンスである。

その点、公明党とか民社党というのは、中庸な選択をしているが、野党第一党の社会党の存在が日本の外交、国際貢献の足を引ぱっている。

この社会党の思考方法というのが、数を頼みとする、数の論理で押し切られてしまう。

日本の経済発展を評して、「洪水のような輸出攻勢」ということが云われたけれど、社会党の場合「洪水のような」思考統制、つまり数の論理で、前後の関係、左右の関係、というものを無視して、党利党略のみ、反自民のみを旗印にして押し寄せてくるので、数の上で国民の世論が半分半分という結果になる。

この「洪水のような輸出攻勢」という言葉が示しているように、日本人の特性として、数が多くなると傍若無人になる、という性癖がある。

あの「赤信号、皆で渡れば恐くない」という戯言葉が、その本質を見事に突いている。

この標語、戯言葉は、見事に日本人の特質を言い表わしている。

日本人の行動パタ−ンは、全くこの言葉と同じである。  

日本の経済活動もこの「皆で渡れば恐くない」という心理が作用して、結果的に洪水のような輸出攻勢ということになってしまったわけである。

この「皆で渡れば」という思考の前に、「隣の芝生」という心理が働いているものと思う。以前「隣の芝生」というテレビドラマがあったが、その言わんとするところは、自分に家の事よりも、隣り家の事が気になって仕方がなく、隣りがやれば自分もやるという、日本人独特の、付和雷同性を揶揄したテレビドラマであった。

これも日本人の特質を上手に表現しているものと思う。

隣りがやるから自分もやる、あの会社がやるから我が社もやる、あの人がやるなら自分もやる、という心の動きが結果的に「赤信号、皆で渡れば恐くない」という結果を招き、それが日本人の行動パタ−ンになって、日本民族の特性として、世界の人々の目に映るのではないかと思う。

それで日本人の半分が、国際貢献を口で唱えながら、自衛隊を海外派遣に使う、という段になると口をそろえて反対を唱える、という行動パタ−ンになるものと思う。

ここには自分で判断をするということをしない。

人の意見に対してYES、NOの判断は自分でせざるをえないが、問題の本質については、自己の信念を持ち合わせていないということである。

人が考えを纏めるには、最初、情報を得、その情報を自分の考えで吟味して、思考推察を重ね、その後に、自分の結論を出さなければならないが、日本人というのは、その時、その場の雰囲気に左右されるという傾向がある。

これが日本人の行動を律する行動パタ−ンである。

このム−ドに押し流されやすく、理詰めの論議を重ねるということが下手であることにより、隣りがやれば自分もやる、人がやれば自分もやる、というイ−ジ−な発想に陥りがちなのである。

これには当然、隣がこければ自分もこける、というリスクもついて回るわけである。

その典型的な例が先の太平洋戦争であり、今日のバブル経済の崩壊である。

日本人の政治経済の根本にある深層心理には、以上述べたような欠陥があるものと思う。

太平洋戦争も、あの時点において、やれば負けるという先見性のある意見もあったにもかかわらず、大部分の国民的コンセンサスとしては、米英との決戦止むを得ずというム−ドに押し流された結果である。

今回のバブル経済の崩壊についても、個々の経営者は、経営として危険な橋を渡っているという認識を持っていたにもかかわらず、バブル経済が崩壊するまで、その反省をしようという気運は出てこなかったではないか。

完全に日本人の行動パタ−ンで、隣りがやれば自分もやる、人がやれば自分もやる、という行動様式を如実に示している。

この日本人の特性というのは、政治の世界にもそのまま表れている。 

特に社会党の思考にはこれが如実に潜んでいる。

個々の人間一人一人は、国際貢献には自衛隊の派遣も致し方ないと思っていても、党内に居る限り、それを表明することが出来ない。

先の太平洋戦争の時の世論形成と同じである。

反対意見を封じ込めるというのは絶対主義と同じである。

こういうことが社会党なり共産党なり左翼政党の中には存在する。

これは全く太平洋戦争開始前のム−ドと同じである。

だからこそ社会党は一見一枚岩のように見えるわけで、政党である以上、ある程度党利党略という面が存在しても仕方がないが、日本の政治ということを考えた場合、党利党略であってはならないと思う。

日本全体として、地球規模で、世界の人々にどういう貢献が出来るのか、という視点に立った党利党略でなければならず、自分の党の党益だけを優先するような狭い了見では、この激動の世紀を乗り切る事が出来ないのではないかと思う。

党利党略の前に国益という前提を考え、国益を考える前に、地球人として世界の人々になすべきことは何か、という前提条件を忘れてはならないと思う。

狭い意味での党利党略であってはならない。

ところが社会党の政治家の中には、日本国民のためにとか、世界の人々のために、という発想が欠落している。

あるのは社会党の党利党略、乃至は反自民という発想のみである。

そこには、日本の立場ということも、世界が今日本に何を期待しているのかという思慮も欠落している。

この社会党の思考パタ−ンというのは、日本人の基本的な行動パタ−ンと全く同じである。以上述べてきたように、日本人の銃器を嫌悪する思考と、隣の芝生を羨む日本人の基本的思考パタ−ンは、社会党の行動パタ−ンに如実にあらわれている。

これがあるが故に、日本人は政府が国際貢献しようと思っても、野党の反対でそれが出来ない。

日本の国民の考え方が半々ということでは、これからは何一つスム−スに決定することが出来ない。

あらゆる問題が暗礁に乗り上げてしまうということが予測される。

日本の前途は実に多難な時期に入ってきていると思う。

 

労働に対する価値観の違い

 

話を冒頭のロスアンジェルス暴動の件に戻すと、アメリカ社会においては明らかに人種的偏見は残っているといわなければならない。

我々が日本でテレビの映像により、アメリカの風物を見ている限りにおいては、白人も黒人も仲良く市民生活を楽しんでいるように見えるけれども、アメリカ社会には、人種による偏見というのは生きているわけである。

この人種差別が生き続ける原因も、黒人サイドにあると思うが、日本にも同じような状況はあるわけで、日本においては、在日朝鮮人の問題がそうであるが、今の日本ではロスアンジェルス暴動のような不穏な動きというのはありえない。

というのは日本の中においては、朝鮮人の方も非常に向上心が強く、常にレベルアップを図っている。

日本人は昔から向上心が強く、常にレベルアップを考えている民族である。

「隣の芝生」に負けないためにも、「バスに乗り遅れない」ためにも、常に向上心を働かせている。

現状維持ということに我慢のならない民族である。

これは同じアジアの民族である朝鮮人においても、日本人と全く同じである。

だから日本国内において、朝鮮人に対する偏見というのは、さほど顕著な問題とはなっていない。

私がテレビの映像で見る限りにおいては、黒人といわれる人々の中にも立派な人々は大勢いることは当然としても、そうでない人々も又大勢いるものと想像する。

これは一言で云えば、教育の問題であろうと思う。

それと合わせて、あまりにも自由な自由主義というものの弊害だと想像する。

あまりにも自由ということは、理性のある人々にとっては善い事であるが、そうでない人々にとっては、自分自身の存在すら認識し得ない、見失いがちである、という弊害を含んでいると思う。

例えば、小中学校の規則一つとっても、自由すぎるということは、個人の理性が確立していない人々にとっては、百害あって一利なしだと思う。

それでもアメリカ社会というのは、自由を尊重し続けてきた。

その結果、自由を上手に利用しえる理性的な人々は、自由に自分の才能を開花させることが出来たかもしれないが、そうでない人々は、ドロップアウトするしかない。

つまり暴徒にしかなりえなかったのである。

ドロップアウトした人々というのは、最終的には犯罪者ということになってしまう。

ロサンジェルスが犯罪都市になり、危険な町というものが出来上がってしまう。

ドロップアウトするのはどうしても黒人をはじめ、ヒスパニクに代表されるマイノリテイ−である。

白人にも当然ドロップアウトする人間はいるだろうと思うけれども、数の上では黒人の方が目立ってしまうのは致し方ないだろうと思う。

それに加えてヒスパニックというスペイン語圏の人々が、どんどんアメリカに流れこんで、アメリカ社会の底辺の裾野を広げていることも事実であろう。

今回のロスアンジェルス暴動について、ブッシュ大統領の政策まで、合わて論じられているが、これは少し論理が飛躍しすぎていると思う。

昨今のアメリカ経済の低迷は、ブッシュ大統領一人の責任ではないと思う。

アメリカ社会全体の問題である。

人種差別、人種的偏見と経済の問題は、それぞれ別々の問題だと思う。

経済が低迷しているので、ホ−ムレスが増加しているというのは事実であろうが、それと人種的偏見とは同一の根源とは思われない。

人種的偏見というのは、アメリカ社会の根源的な精神構造の問題だと思うし、経済の問題は、明らかにアメリカ経済の構造的なものである。

今日のアメリカ経済の低迷を、旧ソ連邦の崩壊と結びつけたがる人もいるが、アメリカの構造不況というのは、その前の時代から始まっているわけで、ソ連の崩壊とも直接の関係はないと思う。

むしろソ連の崩壊により、アメリカの巨大な軍事費が浮く、という考え方に立てば、それが民生部門に流れ景気は良くならなければならない、ところが経済というのは教科書どおりには動かないもので、そこが経済の難しいところである。

私が推察するところ、アメリカ社会というのが、製造業に価値観を見失ったことが原因だと思う。

物を生産するということは、人間の生存にとって一番尊重されるべき事だと思う。

それをアメリカ社会では、物を生産する第1次産業とか第2次産業というものより、第3次産業のサ−ビス業の方に価値観がシフトした結果だと思う。

第3次産業というのは、物を生産することはない。

銀行のマネ−・ゲ−ムにしろ、マスコミの大キャン−ペンにしろ、物を作ることはしない。この第2次産業から第3次産業へ、価値観がシフトしたことが、アメリカ社会の低迷を招いている最大の原因だと想像する。

かって、イギリスも同じような経過をたどっている。今、アメリカがそれに直面しているわけで、アメリカの次に日本がその撤を踏襲するものと想像する。

イギリスも産業革命の頃は、第2次産業が絶頂期であり、その次にきた社会主義的な福祉国家になって、急速に国際競争力を失ったではないか。

アメリカ社会も、冷戦華やかな時期には、まだまだ第2次産業というものは価値を失わずに健全な経済であった。

それが第3次産業の方へ価値観が移ったことにより人々が肉体労働を嫌うようになった。

これが第一の原因だと思う。

肉体労働を嫌い、不労所得を得る方に価値観が移ったので、これが不健全な社会になる第一の原因だと思う。 

以前ならば勤勉ということが美徳であったが、それが失われ、金や物を移動させることにより、利潤を得ることの方に価値観を見いだしたのである。

又、マスコミというのが人々に知る必要のない内容のことまで、「知る権利」という妙な論理で、報道するという風潮になった。

第3次産業というのはボルト一本作るわけではない。麦一本生産するわけではない。

立派な肉体を持った人間が、やれ金利が上がった、下がったと一喜一憂し、町の暴力行為を、お面白お可笑しく、微にいり細にわたって報道して金儲けをするわけである。

知る必要のない人々にまで無理遣り情報を押しつけることに血道をあげているのである。

経済活動が、あらぬ方向に進んでいくのも当然である。

アメリカの経済で、一番問題になっているのが貿易の対外赤字、特に日本に対する対日赤字である。

この対日赤字の是正という事になると、日本も傍観者でいるわけにはいかない。

という事は、アメリカの経済がアメリカだけの問題ではなく、アメリカの経済と、日本の経済はリンクしているということである。

日本が終戦直後のように、国力の貧弱なときならば、アメリカの経済政策に負ぶさっていればよかったけれど、今ではもうそんな時代ではなく、日本経済というのは、アメリカ経済のパ−トナ−として、対等の立場でアメリカ経済の立直しを考えなければならない。

以前はアメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひくといわれていたが、今ではアメリカが風邪を引けば、日本にもそれが感染してくるという直接的な関係にある。

アメリカがダウンすれば、日本もダウンしてしまう。

アメリカ経済は破綻したが、日本の方は大丈夫ということはありえない。

もっともそんな事になれば、世界中が大混乱になることは火を見るより明らかであるが、そうならないためにも、日本はアメリカ経済の立直しを真剣に考えなければならない。

対岸の火事として、高見の見物ということは許されない。

戦後、日本は安くて良いものを作れば世界中の人々に喜んでもらえると思い込んでいた。

ところが最近になって、盛田さんは、世界ではどうもそうではないらしいということをマスコミに発言している。

安くて良いものを作れば喜んでもらえるというのは、日本人の勝手な思い込みであったかもしれないという事であるが、云われてみれば案外そうかもしれない。

安くて良いものを、西洋諸国と同じ労働時間で作ればそうかもしれない。

ところが日本人というのは、西洋人が当然仕事を休んでボランテイアしているときや、レジャ−を楽しんでしているときにも、働き続けて、安くて良いものを作っているわけで、これが彼らにとってアンフエアという事になるらしいと述べている。

だから日本人は、西洋人と同じ労働時間で、安くて良いものを作れば、西洋人も納得するかもしれない。

とにかく日本人というのは、働かない事は悪だ、という認識から抜けきれないでいる。

働く事は美徳である、という概念から抜けきれないでいる。

キリスト教文化圏では、日曜日は安息日ということで働くことが禁止、強制的な禁止、働くべき日ではない、という概念が存在していた。

ところが農耕民族である我々は、そういう発想がない。

農耕民族である以上、農業に休日はなかったわけである。

だからこそ勤勉という事に罪悪感がない。

むしろ人間である以上、死ぬまで働くべきだ、という考え方であるが、キリスト教文化圏では、人間は本来労働は自らすべきではなく、ましてや休日まで働くのは、罪悪であるという発想が根強い。

つまり労働性悪説であるが、日本人はその反対に、労働性善説である。

卑近な例でも、私の周囲の人々は実に良く働く、会社の仕事ばかりでなく、家庭生活においても実にこまめに働く。

このあたりが明らかに日本人の特性が出ている。

近くで見ていて、よくあれだけ仕事があるものだ、と感心するほど働く。

趣味でしているわけではなく、運命の糸に操られている感じで働き続ける。

西洋人がアンフエアだというのも無理からぬ話である。

そういう人々に支えられているのが日本の会社であり、こういう人間的な性癖、民族的な性癖が、少しでも黒人とかヒスパニックの人々に内在していれば、ロスアンジェルス暴動というのはありえなかったのではないかと思う。

第一、人種的偏見というのがもう少し違ったものになっているものと思う。

黒人の中にも立派な人が沢山いるという事は分かっているが、それでも黒人全体の評価は、悪くなる事はあっても良くなる事はないであろう。

 

日本人のエゴイズム

 

4月10日、中日新聞によると、奈良市内において、住宅の値下げに対して、先に購入した人が、その値下げ販売に反対して、仮処分申請を大阪地裁に申し入れたと云う記事が載っていた。

バブル経済の最中に高い値段で家を買った人が、その後のバブル経済の崩壊で、物件が売れず建築会社の方は、値下げして売り出したところ、先に買った人が、資産価値が下がるので値引き販売は止めよと云う事であるが、これにはいささか驚いた。

人間のエゴイズムが、ものの見事に露呈している。

この事件はテレビでも報道されていたが、人間の欲望をこれほど赤裸々に表現した事件もあまりないのではないかと思う。

要は、購入した時期の問題で、一昔前には車のモデルチェンジのさいにも一時問題になった事がある。

つまり購入した直後にモデルチェンジが行なわれ、折角購入した新車が旧式車になり、下取り価格も下がってしまうので、どうするんだということで、購入した側とデイラ−でトラブルになるというケ−スである。

車の場合は、モデルチェンジを予め客に知らせるということで、いくらか良心的に対応することが出来るかもしれないが、バブル経済の崩壊というような社会的なというべきか、経済的というべきか、こうした大きな世の中の動きに対し、クラ−ムを付けるというのも考えてみれば可笑しな事である。

訴訟を起こした側の云分も、分からないではない。

1億数千万円のものが6割引と云うのだから、腹の立つのも無理からぬ話ではある。

逆に云えば不動産会社というのは、如何に儲けていたのかということでもある。

それを6割引で売ると云うことは、不動産会社の方も損失をいくらかでもカバ−しておこうという事だと想像する。

6割引で売っては、利潤というものは期待せずに、今まで投資として注ぎ込んできた資金を幾らかでも回収しておこうという気持ちだろうと思う。

だから高い値段で買った人は、その差額分をなんとかせよという話ならまだ分かる。

けれども、自分たちの買った値段はそのままでいいから、売れ残ったものも、その値段で売り続けよという魂胆は、高値安定を狙ったもので、あまりにもエゴイスチックである。

差額分を返せというのならまだ単純明快、きわめて人間的であるが、差額分は返さなくていいから今迄通り高価格のままで売れというのは、きわめて狡猾、ずるい人間である。

資産価値の高値安定を狙い、バブル経済の根源的精神構造である。

こういう人間が、バブル経済を助長させたのである。

一人よがりで、自分さえ良ければ後はどうなってもかまわないという態度である。

つまり、この心理が日本経済をバブルに走らせた根源であり、土地神話を助長し、自分さえ儲かれば他は関係ない、という心理が日本の経済に蔓延した結果がバブル経済になったものと思う。

家とか、土地というものを、資産という感覚でとらえている人はこの人達ばかりでない。

日本全国津々浦々そういう認識が蔓延している。

だからこそバブル経済ということになったわけである。

しかし、資産である以上、その価格というものは、流動的である事もこれ又常識というか、普遍的なことで、資産である以上、その価格のアップ、ダウンはついてまわる。

しかし、自分が不利な立場に立たされたとき、其の事を忘れてしまって、自分の被害だけを大騒ぎするというところが、人間のエゴイズムである。

いわば、株を買って下がったので証券会社に「何故安くした!私の買った以上で売れ!」と云うのと同じである。

資産であり、投機の目的をもって家や土地を買った以上、リスクも自分で背負うべきであるのに、そのリスクの分のみ、不動産会社に文句を言うという事が、我々、投機ということに関心が無いものにとっては不可解である。

自分がバブル経済の一翼を担っておいて、その見通しの甘さが投機の失敗を呼び、その責任を他人に転嫁しようとする心理があまりにも見え透いている。

しかし、こうした人々の心理が、バブル経済を助長したことは否めない。

バブル経済というのは、すべからく虚構の経済である。

虚構の上に成り立っている経済である。

家でも土地でもマンションでも、本来の衣食住だけの単純な価値、本来の価値以上に、付随した、虚構の付加価値がもたらした経済である。 

人々が、この虚構の部分に振り回されていたわけである。

高級分譲地が売れないというのは、この虚構の部分に投機をするのを控えただけで、経済活動に波がある以上、何時かはこういう事態は起こり得る。

経済活動というのはサインカ−ブで、尻上がりに昇っていくとこもあれば、当然、下ってくるときもある訳で、自分の買った土地なり家なりが下がり始めたとしても、それは投機に失敗しただけのことで、その自分の失敗を、売った側に訴えるという事も理不尽なことである。

これが認められれば、株屋、証券会社というのは存在しえないし、投機が絡む業種というのは否定されることになる。

私の個人的な考えでは、家や土地を投機として見る事、自体が罪悪であると思う。

しかし、これは個人的な事であって、世間で認められている以上は、リスクも個人の責任である。

ましてや「安売りを止めよ!」という事は、相手の会社に、引き続き暴利で儲けよというようなもので、反社会的なことである。

売手の不動産会社は、もう暴利を得るような旨味が無くなったので、損をしてでも叩き売ろうとしているのである。

欲で高値安定を狙ったところが、その目論みが外れただけのことで、だからといって「高値のままで売れ」というのはあまりにも自分勝手なことであると思う。

この辺りの感覚は、私ども庶民とは異質な感情である。

だいたい1億数千万円の家を買えるという事自体が、庶民とはかけはなれている。

それが6割引になったところで、庶民にとっては関係のない話である。

こういう人達はもっともっと損をすればいいのである。

こつこつと働いた金では、手の届かない金額である。

どうせ、バブル経済に便乗して得た金であるので、ゼロになってもそれまでである。

家や土地、マンションの、虚構の付加価値で、バブル経済を沸き立たせた事自体が一種の罪悪である。

が、不労所得を狙うというのも、バブルと同じように悪であり、人間を堕落させる元だと思う。

一連の訴訟事件というものの中には、こういうものも入っているように思う。

しかし、それよりも私が問題にしたいのは、特許侵害の問題である。

最近起きた事件で、ミノルタカメラ(株)が自動焦点技術で莫大な金を払い、又、コンピュ−タゲ−ムのソフトで、同じく43億円という金を払うはめになったという事件である。

これらは、いずれも訴訟という段階を経て問題化されているが、特許侵害ということで巨額の金が動く。

つまり、訴訟に持ち込んで、金を取るという風潮も嘆かわしい問題である。

特許制度というのも、この技術革新の時代に、対応できていないのではないかと思う。

これは、先回の日米首脳会談でも、知的所有権ということで問題提起されているが、知的所有権とか、特許権という概念も理解できるが、しかしその反面、「そのアイデアは俺のものだから金を出せ!」というのも困った風潮だと思う。

物を作る側が、意図的に人のアイデアを借用したとすれば、これは金を払えといわれても仕方がない。

しかしアイデアを考えた人は、自分では自分のアイデアを生かすことが出来ず、人が自分のアイデアを使って成功したら、その人の所にいって金を出せ、と言うのもなんとなくひっかかるものがある。

特許というのは、元々そういう事を前提にして、アイデアを考えた人を保護する、という目的を持った制度ということは頭では理解できるが、アイデアを考えても、生かす事が無ければ、それは人類にとって不幸なことである。

始めから無かったも同然である。

日本人は自分ではアイデアを出すことが下手で、人のアイデアを上手に利用することに長けているので、特許侵害ということは、日本人に振りかかりやすいテ−マかもしれない。

日本のメ−カ−も、アイデアを借りる時には、それなりの調査はしていると思う。

人のアイデアを全く無断で借用するということは、私個人としては信じられないが、案外、有名企業の中でもアイデアの無断借用ということが行なわれているのかもしれない。

日本の企業には、倫理感というものが無いので、これは考えられる。

企業に倫理感があれば、バブル経済だって起こり得なかったし、土地投機、低利の融資、など全て企業倫理の欠如の問題である。

アイデアの無断借用というのも、企業倫理があれば、当然、その前に予防措置がとられ、後になって、巨額な金を支払わなくても済んだに違いない。

日本の企業が、それに応じたということは、その否を認めたからに違いない。

しかしアイデアを登録しておいて、不労所得を得るという風潮は良い事ではないと思う。

以上述べた、二つのケ−スはいずれも対象がアメリカであるが、アメリカの低迷はこうした、不労所得を狙って自ら勤労しない、勤労を嫌う、という風潮が原因している。

日本でも3Kという職場は嫌われているが、勤労を忌み嫌って、裁判に持ち込んで、相手から金を取る、という風潮は実に煩わしい風潮である。

特許権、知的所有権というのは大事なことであるけれども、これも50年前ぐらいまでは有効に機能していたかもしれないが、今日では時代の流れにマッチしていないのではないかと思う。

私の想像では、より積極的な企業は特許申請するよりも、自社の企業秘密として、自社内で温存しているところもあるのではないかと思う。

少なくとも、その開発技術を自社で開発し、自社製品に応用しているかぎり、その特許を申請したところでメリットというのはあまりない。

精々、他社がそれを応用できないという程度で、それによって競争力が維持出来るというぐらいである。

特許が生きるのは特許侵害に対してのみで、先のミノルタの場合や、セガ・エンタ−プライズのようなケ−スのみである。

企業として、絶大なる自信を持って開発した技術で、卓越したアイデアであれば、特許権を確立したところで、差程メリットはないと思う。

日本の企業というのは競争が激しい、ということは同じものを作る会社が沢山有るという事である。

自動車会社、カメラ会社、電気製品の会社などを見ても分かるように、一つの製品に対して、それを作るメ−カ−は複数ある。

外国との競争となれば、同業者の数はもっと増加する。 

それが、それぞれに、業績を上げ、商売が成り立っているという事は、開発の面でもそれぞれに、しのぎを削っているということで、一つの目標に向かって突き進む段階で、アイデアも同じものになってしまうということもあると思う。

こうした状況では、特許申請というガ−ドをしなければならないが、一つだけ卓越したものを持つ企業で、他の追従を絶対に許さない会社というものがあったとすれば、その企業にとっては特許も意味をなさない。

特許申請をして、アイデアを盗まれるチャンスを作るよりも、自社内で企業秘密にしておいた方がメリットがあるという企業もあると思う。

特許権の保護というのは、時代遅れの感がしないでもないが、それなりに大事なことではある。

けれどもこうしたことに訴えて、巨額の富を得よう、というその魂胆にはいささか抵抗を感じる。

所謂、不労所得を期待する、という心の在り方が我慢ならない。

この風潮は、日本よりもアメリカの方が顕著に出ているが、こと特許という事になると、アメリカ考える人、日本、まね乃至は模倣する人、という構図が出来てしまっているが、これこそが日米経済問題の根源だと思う。

アメリカの人々は、物を作ることの大切さを忘れてしまっている。

こうした訴訟に持ち込んで、金を得ようという風潮が顕著である。

このことは今に始まった事ではない。

前々から、アメリカは訴訟の国だといわれてきた。

何事も、弁護士に頼んで訴訟を起こす国である、という風に教えられてきた。

つまりこれは、自己の権利の主張が通る国ということである。

アメリカは昔から民主主義の模範的な国である。

民主主義の国である以上、自己の権利の主張ということは当然であるが、それによって金をせしめようという事になると話が又複雑になる。

しかし、全体の流れ、日本のマスコミの報道を見ている限り、自己の権利を主張する事によって、金を得ようと企んでいる、としか見えない。

裁判に訴える事の究極の目的は金である。

特許権侵害というのも元々、経済活動であるので、当然、金が目当てな事は分かるが、これ以外の、諸々の裁判も、結局の所金目あてである。

この風潮は日本にも及んできている。

冒頭述べた、住宅の安売り禁止の裁判は、全くこれと軌を一にしている。

それよりももっと面白いのが、セクハラの問題、所謂、セックス・ハラスメント、性的嫌がらせの問題である。

こんなことが問題になる事自体、人間がいかに無味乾燥した精神状態になっているかという事である。

これは女性の精神の荒廃以外の何物でもない。

人と人、女と男の接点を、否定しようとしている事である。

これも日本とアメリカで同時に、同じようなパタ−ンが報道されていたが、この地球上に人類は女と男、男と女しかいないのに、その接点を拒否しようとする風潮である。

日本の場合、福岡で出版社に努めていた女性が、セクハラで会社を辞めたので金を出せというものである。

そのセクハラの実態がどういうものか、詳しくは知らないが、セクハラ、性的嫌がらせを受ける前に、その女性が女性として魅力ある人間だったかどうかが問題である。

人間である以上、全ての人間が魅力ある人間という訳にはいかないが、ただ理由もなく、虐めが行なわれるわけがない。

又、虐めがあったとしても、それに対する対応の仕方次第で裁判ざたにしなくても他の方法があったとも言える。

人間的な魅力の無い人にも、人権というものがある以上、殺すわけにもいかず、企業側は人の採用には、慎重にならざるをえないと、私個人の感情としては、企業側に肩を持ちたくなる。

この裁判の弁護団側は、女性ばかりであったようであるが、確かに、人間的な魅力にかけた女性でも、人間である以上、無闇矢鱈に解雇することは出来ない。

そういう女性を採用した企業は、その人を機械か道具のように、無味乾燥、ことごとく割り切って、冗談一つも言わず、ただただ退職するのを待つ外無い。

しかし、そうは言うものの、男性側にも人間味の欠けた男というものは掃いて捨てるほど存在するわけで、人間味の欠けた女性と、人間味の欠けた男性が、机を並べて仕事しなければならないとなると、これは裁判ということになっても致し方ない。

所詮、人間模様であり、男と女、女と男の仲である。

夫婦喧嘩なら犬も食わないが、これは夫婦ではないので、裁判まで発展するわけである。

しかし、人権というのはいい金づるである。

アメリカのケ−スは日系企業に採用された現地女性というのが、セクハラを受けたということで裁判に訴えた、というシ−ンがテレビで報道されたが、ここで暴露されたのは、日本人男性の性に対する認識というのが露呈してしまったという感じである。

アメリカ女性が訴えるには、日本人はプレ−ボ−イをその辺に置いておくとか、パンテイ−を机のうえに置いてあったとか、ビデオを廻し見しているといったものであったが、こういう点については、日本人の認識はかなり甘い。

男同士では、何でもない事を、女性の前でも平気で行なう、という認識の甘さがセックス・ハラスメントにつながっている。

アメリカを始めとする日本以外の国では、宗教というものが、人々の心の底に根強く生き続けていることを、我々日本人は忘れてしまっている。

我々日本人は大部分が無神論者であるので、相手も自分たちと同じだと思い込んで行動しているが、どっこい相手は、宗教を心の支えにしていたりして、こういう無神経なところが、女性に対してもそのまま表れているわけである。

日本人は、建前と本音の使い分けを、ビジネスの場で行なうが、女性の前ではそれを忘れてしまっている。

こういう無神経さが、アメリカ女性に訴えられる原因である。

日本人というのは、全般にセックスに対しては大らかである。

それ故に日本国内においてもアメリカにおいても、そのつもりで行動しているわけで、知らず知らずに、セックス・ハラスメントをしているわけである。

アメリカの風俗を我々が知るのは、マスコミを通じてであるが、マスコミから流れてくる情報を、ストレ−トに受け取ると、こういう失敗をしでかすのである。

日本以外の国では、まだまだ宗教というのが倫理の規範になっている。

そのことを忘れると、セクハラで訴えられるという事態になる。

日本人の性的な感情のふしだらな事は、やはり世界的に見ても特異な現象であり、性的な規範とか認識が甘い。

エロ本、エロ・テ−プの状況を見ても、日本人はセックス・アニマルの感を出っしきれない。

日本人は抑圧されているから、ああいうものに憧れるのかと思うとそうではない。

これもつらつら考えてみると、隣の芝生と同じで、まわりの日本人がやっているので、自分もやってみる、といった程度のことだろうと思う。

こういう付和雷同というのは、私が常々主張していることであるが、これが日本経済の原動力になっている事は否めない。

それが、エロ本の持ち込み、というレベルまで沁みわたっているものと推察する。

日本人というのは、「赤信号、皆で渡れば恐くない」という戯歌と同じで、隣の日本人がやっていることしか出来ない。

常に隣の日本人が競争相手である。

エロ本の持ち込みまで、競争の続きなわけである。買春ツア−も同じである。

良い事でも、悪い事でも右へならへ、自分一人の考えでは、行動できず、ましてや判断することが出来ない。

隣の日本人がやっていることをやる、その隣の輪が、日本人の経済力の元である。

 

日本人と旅

 

日本人が海外旅行に出掛けるようになって久しい。

日本が戦後の打ちひしがれた生活から復興して、生活にゆとりが出てくるようになる共に、海外への観光旅行というものが盛んになってきた。

又、日本が経済大国になって、日本人観光客が強い円を持って海外に出るようになると、この観光客を受け入れる側も、この強い円に惹かれて、日本人観光客を受け入れ、外貨を獲得する傾向が顕著になってきた。 

私の周辺でも、こういう観光旅行を経験する人々が増えてきたけれども、そういう人の話を聞いていて、ふと日本人とは何ぞや、という疑問にぶつかることがある。

かっての日本人観光旅行の対象は西洋先進国であり、西洋先進国に出掛ける人々というのは、100%観光という気分で出掛けたのではないと思う。

とにかく、西洋先進国の文化文明というものに触れて、我々日本人に何か参考になるものはないかと、観光というより、視察というニュアンスの方が強かったものと思う。

ところが、最近の海外旅行というのは、100%観光ということが目的となっている。

すると未開発国、発展途上国をも、その観光の範疇に入ってしまう。

つまり旅行先が、西洋先進国でなくてもいいわけで、そこで、日本人が東南アジアに観光旅行、物見遊山に出掛けるという風になってきた。

観光旅行である以上、何の使命感もなく、下呂温泉や、熱海や、伊豆の温泉旅行と何らかわらない精神状態、つまり物見遊山の気分で、こういう地域に出掛けるわけである。

言い換えれば、気分的にリラックスした気持ちで、出掛けるわけである。

すると、そこで繰り広げられることは、人間の本質が正直に発露される。

つまり現地の人々は、日本人の外貨を獲得するために、土産物を売り付けるわけである、ところが日本人観光客の方は、そういうところで売っている土産物など、買っても買わなくても、生活や旅行に不可欠の物ではない筈で、買う行為、売買のやりとりを楽しむ。

という事は、値切るわけである。値切ることがゲ−ムになっているわけである。

ところが先方の方は、日本人がゲ−ム感覚でやっている事にも、生活を賭けて、必死に取引をしているわけである。

日本人観光客は遊び半分で値切るけれども、先方にしてみれば1円でも10円でも100円でも、日本の円が欲しいという切実な問題である。

現地の人々が手間暇掛けて作った物といっても、彼らにしても生活に打ちひしがれた、という感じとは又別であろうが、少なくとも外貨の獲得という意味では、日本の円が欲しいわけである。

日本人は遊び半分で土産物を値切る、彼らは少しでも外貨が欲しい、そこで日本人観光客が現地に行った感想としては、値切ればいくらでも負けてくれるという感じを持って帰ってくるわけである。

この話を聞いて、私の頭に浮かんだことは、かって日本人がアイヌ民族を騙して、撲滅させてしまった話と全く同じだということである。

北海道に生活圏を持っていたアイヌ民族は、江戸時代から内地から渡ってきた和人によって、露骨な表現をすれば搾取、もっと温和な表現をすれば騙されて、滅亡させえられてしまった。

アイヌ人というのは、数の概念のない民族だったといわれている。

それで和人の方は、交易をするにあたって、数を誤魔化して、結果的に滅亡に追いやったといわれている。

今、日本人が東南アジアに出掛けていってやっていることは、これと同じ事をしているわけである。

かっての日本人だって、決してアイヌ人を滅亡しようとして、アイヌ人を誤魔化したわけではないと思う。

ただ自分が儲けさえすればいいわけで、アイヌ人を滅ぼそうなどと大袈裟なことを考えていたわけではないと思う。が、結果としてそうなってしまった。

物事というのは、最初の意図とは全く関係のない結果が導きだされることが多々あると思う。

この意図と無関係な結果が出る、という事が実に恐ろしいことで、世の中のトラブルというのは、この一言に尽きると思う。

今、問題になっている環境問題、海洋汚染、大気汚染というのはその最たるものと思う。

人類の為に、と思ってしたことが、その反対の結果になろうとしている。

日本人が東南アジアで土産物を買うのに、一つ分の値段で2個、3個買ったところで、たいした問題ではないと思うが、そういうことが民族の滅亡にもつながる可能性があるという事になると、笑って済ませるわけにはいかなくなる。

ここで心しなければならない事は、人間の知恵というのは、持っている方がその知恵を使わなければならないと云う事である。

知恵のないものに、知恵を出せ、といっても出てくるものではなく、知恵のあるものが、知恵のない人々にも、知恵をわけ与えなければならないということである。

環境問題を解決するについても、開発途上国に先進国と同じ負担をさせようと思っても出来ず、開発途上国の負担分を、先進国の方が受け持たないことには両方が滅んでしまう。

最早、かってのアイヌ民族のように、自然の流れに放任しておくことは出来ない。

そんな事をすれば、両方が滅んでしまう。

私の周囲で東南アジアに観光旅行に行った人の話を聞いて、そんな印象を受けた。

東南アジアに出掛けていって、物見遊山をしている人は、そんな深い意味を考える事無く、旅行を楽しんでいるが、こういう無意識の行為の中に、日本人の潜在意識が隠れ、それこそ無意識のうちに出てしまうものである。

かって先進国の探検隊というのが、世界の遺蹟を巡って、そういう品物が、例えばロンドンの大英博物館とか、アメリカのメトロポリタン美術館に保存されている。

こういう事実も見方を変えれば、発展途上国からの文化遺産の搾取であり、掠奪である。

これは博物館や美術館に、貴重な遺品を温存する事が美徳と考えられていたので、過去においては世論の批判というのは受けなかったが、物を見る視点を変えれば、こういう事だと思う。

不孝な事に、貴重な文化遺産を取られた方に、そういう認識が無い事である。

それこそ文化遺産を持っていかれた方では、外貨が入ってくるので、文化的な遺産よりも、目の前の現金の方が大事であったろうとは想像がつくが、それと同じ事を、今、日本人の観光客が行なっているわけである。

日本人と旅、というテ−マは面白い問題提起になっていると思う。

日本人が旅先で土産物を買うという行為は、日本人にとって、旅ということが日常的でないので、その記念という意味があるものと思う。

日本人でも海外出張や、国内の出張で、旅なれた人は、いちいち旅先でお土産を買うなんて事はしない。

やはり土産物を買う、という行為は旅なれていない人の特徴であると思う。

そして、そういう旅なれていない人は、どうしてもパックツア−という事になる。

パックツア−という事は、団体旅行であり、集団行動である。

この日本人が集団で行動すると、ロクな事が無い。

かっては農協の団体旅行が、世界の顰蹙を買ったが、とにかく日本人が集団で旅行をすると、日本人の評価を下げることだけは確実である。

この日本人の集団行動というのは、日本人の特性を秘めた、ある一種独特の文化的特質を持っているのではないかと思う。

日本人が団体で旅行をすると、それこそ旅の恥は書き捨てという行為になってしまう。

例の、日本人の韓国買春ツア−などというのはその最たるものである。

日本人が海外旅行に出る場合、大なり小なり買春という問題がついて回る。

日本人の買春ツア−という場合、これは男性だけの問題ではないと思う。

日本人女性の方にも、その原因の一端はあるような気がする。

という事は、日本人の性に対する考え方、そのものからきている問題だと思う。

ここで考えられることは、日本人の宗教の存在ではないかと思う。

日本人の宗教感というものは、やはり世界的に特異な存在だと思う。

日本人以外の民族というのは、キリスト教であろうが、マホメット教であろうが、大なり小なり、宗教による精神的な束縛の中で生存している。

ところが日本人というのは、宗教による精神的束縛というものが存在しない。

地球上の日本人以外の民族には、売春婦というのが普遍的に存在している、ところが日本では売春婦というのが存在しえない。

戦後法律でもって、売春婦の存在というものを禁止してしまった。

これは人類の中でも極めて稀な法律であり、憲法第9条と並んで、極めて希有な法律ではないかと思うが、やはり憲法第9条と同じで、今日の日本で、全く売春というのがないかというと歴然と存在している。

こういうところが、法治国であるのかないのか、法律があるのか無いのか、分からないような存在であり、そういう民族そのものが、他の民族に較べると特異であり、特質であると思う。

日本国内では売春を禁止しておきながら、買春の方はOK、戦争放棄しておきながら、自衛隊は合憲、という論法は日本人独特のものであろう。

日本人の性というのは、昔から大らかに表現されていた。

江戸時代の浮世絵というのは、それを赤裸々に表現していたので、西洋人が持ち帰ったのである。

又、日本の古典というのはセックスの心理描写としては今でも十分通用する作品である。

戦後、我々は外国映画で諸外国の性描写を垣間見るようになり、その性描写も時代が下がるにしたがい、段々と露骨になっているのを見て、かっての青年たちは胸をときめかしたもののであるが、アメリカ、ヨ−ロッパでああいう映画が作られるようになった背景というのは、アメリカ、ヨ−ロッパでは、宗教によって性がタブ−化されていた事の裏返しであったわけである。

日常的に、ああいう行為を散見できたわけではないと思う。

ところが日本というのは、映画という形でそういうものを見せ付けられると、如何にもそれが西洋文化というもののように感じ、アメリカ、ヨ−ロッパでは性が解放されているものと勘違いしてしまったわけである。

ところが性の解放という事は、日本ではもともと閉ざされていたものが解放されるという概念が無かったわけで、毎日の生活の中で、性のタブ−そのものが存在していなかったわけである。

ところが過去の日本には、映像による文化というものが存在していなかったので、どうしても絵画とか文章による表現にならざるをえなかったが、この方面では、最初から性のタブ−というものはなく、又、性そのものが生殖オンリ−に考えられていたわけである。

性を楽しむというのは、一種の文化だと思うが、そういう意味で、貧乏人は性イコ−ル生殖であり、性を楽しむゆとりというのは、金持ちの特権だったのではないかと思う。

だいたい精神にゆとりがなければ、性を楽しむということが成り立たない。

そういう意味で、洋の東西を問ず、売春という行為は存在し続けたわけである。

が、日本人以外の民族においては、心のゆとりというのは、宗教の許す範囲内であったけれど、日本人というのは、最初から精神的束縛というものが無かったので、性に対しては極めて大らかな考え方を持っていたわけである。

これは男性も女性も、日本人である以上同じである。

目下、日本人の韓国への買春ツア−というのが問題になっていたが、同じ日本人として、そういう旅行をする同胞を、情けないと思いながらも、そんなことを問題にする側も、少し妙な感じがする。

もし日本人の買春ツア−が、韓国側にとって不都合であれば、韓国サイドで禁止すれば済むことである。

これは韓国ばかりでなく、他の東南アジアの諸国でも同じである、ところが、現実は禁止する風でもなく、値段が段々上がっているという風に聞いている。

需要と供給のバランスであり、資本主義の原点である。

所詮、外貨獲得の一翼を、先方は売春婦に頼っているわけである。

日本人の方は、外貨減らしに貢献しているわけである。

これと同じ状況は、戦後の日本にもあった。

我々が子供の頃、昭和23、4年頃、日本の基地のあるところでは、アメリカ兵にぶらさがるように連れ添った、パンパンとかオンリ−とか云われる女性が普通に見られた。

当時1ドルは360円であった。そういう意味で、彼女たちは外貨不足の日本政府に随分と貢献していたのではないかと思う。

当時、基地周辺の農家は、鶏小屋まで改造して、宿として提供して、竹藪のなかにピンクのカ−テンをした家があったりして、子供心にも違和感を感じたものである。

つまるところ国力の無い弱い国にとっては売春が外貨獲得の手段でもあったわけである。経済大国になった日本は、かっては売春であったものが、今は、買春という立場の転換になったわけである。

ところが日本人というのは、極めて自虐的な面があるので、先方が何も言っていないことにまで、罪の意識を感じている。

しかし、ここでは自虐的に罪の意識を感ずることは、良い事であると思う。

我々は無意識のうちに、アイヌ民族を滅ぼしてしまうということをしてきたし、一生懸命経済成長をしようとして、無意識のうちに公害をまき散らす、という過去を持っているのである。

自分のした行為を、自虐的に反省するということが、今後の人類の生存には大事なことだと思う。

東南アジアで、遊びで値段を値切るというのも、自ら反省する必要がある。

世間からとやかく云われてから反省するのではなく、一歩進んで、先方が気付く前に反省する、ということは大事なことだと思う。

しかし日本人が物見遊山で海外に出掛けるということは、日本人の遊びも、実にグロ−バル化したものである。

かって日本人が海外に出るという時は、先進国に行っ、何かを吸収して、それを持ちかえる、というのが旅の目的であった。

けれども最近においては、行くこと自体が旅の目的となっている。

旅というものは、すれば何か得るものがある。

仮に物見遊山であったとしても、精神的にリラックスするという効用はあったわけである。楽しい旅行を次にも、という人生の目標の一つになり得れば、大いに効用があったことになる。旅というのは本来そういうのが本当の旅かもしれない。

むしろ何か得るものがないかと、鵜の目鷹の目で眺めてくるほうが邪道かもしれない。

日常生活の煩わしさを忘れ、良い食事をして、土産物屋で値切って、そして明日への闘争心を養えば、それで旅の目的は達成されているのかもしれない。

しかし、私個人としては、そんな悠長な旅は多分出来ないであろう。

根が貧乏人であるので、その根性が抜け切らず、何か得るものはないかと、鵜の目鷹の目で、虎視眈眈と、何か見落としたものはないかと、探し回ってくるものと思う。

それもこれも価値観の問題であろうが、コストに見合った収穫、という経済観念が抜けきれないものと思う。

我々が、旅の恥は書き捨てと云う場合、私を含めて、それは悪い事である、という認識に立って考えがちであるが、これももう少し深く考えれば、一種のカルチャ−・ギャップと云う意味合いも含んでいると思う。

見知らぬ土地で、自分自身の生活習慣を無意識のうちに行なえば、これは旅の恥の書き捨てということになってしまう。

見知らぬ土地にいって、先方の生活習慣に合わせるということが、誰にでも出来るでとは限らない。

もしそうしようと思えば、事前に綿密に調査し、下調べを行なわなければならない。

旅をする以上、当然そういうことを実行するに越したことはない、けれども、これは誰でも普通に出来ることではない。

時間的余裕、知的余裕がないことにはそれは出来ない。

旅をする人がそうでない場合、先方についていきなり自分自身の生活慣習で押し通そうとすると、旅の恥は書き捨てという結果になってしまう。

農協の団体がホテルの中を浴衣がけで歩くと云う類のトラブルはまさしくそれだと思う。しかし、こういうトラブルは卑下する必要はない。

こんな程度のことであれば、一種のカルチャ−・ギャップであって、そう問題視することもない。

問題なのは、そういう団体が海外に出掛けるということは、反対にそういうレベルの外国の人間も、日本にやってくるということである。

最近のように、日本の賃金が高いと、今問題になっている海外からの不法な労働者の流入である。

日本国内に仕事がある間は、そういう人間にも仕事をわけ与えることが出来るが、昨今のように、日本国内において景気の陰りが出てきて、そういう人間が失業するようなことになると、不法入国した外国人労働者が町に屯するような状況が生まれると思う。

こうなると、単純なカルチャ−・ギャップなどと呑気な事は云っておられない。

最近、名古屋周辺でも深夜営業の店や、宝石店が被害に遇う、という事件が起きているが、あれなどもそういう人が絡んでいるような気がしてならない。

日本人が海外に出ると云うことは、反対に外国の人も日本に入ってくるチャンスが増えるという事である。

旅のグロ−バル化ということは、そういう事でもある。

日本が経済的に先進国になることにより、日本人が海外に出るチャンスが増えると同時に、外国の人が日本にくるチャンスも増加し、それにともなう弊害も増加するという事である。当然トラブルもその分、増加するということである。  

 

次に進む

 

目次に戻る