地球の緑を守るために
私たちが出来ること!
文化の発展は自然破壊の歴史
大気汚染の防止
木を切る事は罪悪である
マングロ−ブ
砂漠の開発
砂漠の緑化
1992年(平成4年)2月2日
文化の発展は自然破壊の歴史
1991年に米ソの東西冷戦が終決して、この地球上から米ソというビッグ・パワ−の対立が消滅した。
となると、次に人間が行なわなければならないことは、南北問題の解決と、環境保全の問題である。
南北問題、地球上の人類の貧富の差の是正ということは、これはこれで大事なテ−マであるが、今回のTogether Crewのテ−マではないので割愛するとして、環境保全の方を注目すると、今、地球規模で眺めた場合、早急に対処しなければならない問題である。
Together Crewの企画も、そういう観点から催されたものと思う。
環境問題というのは、最近になって世間で騒がれるようになったので、近世に入ってからの問題であるように錯覚しがちであるが、人類が農耕や狩猟を始めたときから、自然破壊は行なわれていた。
人が畑を作って作物を耕作すること自体が自然破壊であり、人が鹿や兎を追って狩りをすることすら自然環境の破壊につながっているわけである。
農耕というのは大地を耕作すること自体が自然界に影響を及ぼし、人が狩猟をすることにより自然界の食物連鎖に影響を与えることになる。
農耕にしろ、狩猟にしろ、自然界の法則に微妙な影響を与えているのである。
なかでも、狩猟よりも農耕の方が自然環境に対する影響は大きいはずである。
考えてみると、人間は存在することだけで自然破壊をしているようなものだ。
人が食物を摂取し、取った食物を排泄するという、自然のサイクルに素直に従っているだけでも、自然界に影響を与えていることには間違いない。
けれども、人類が文化文明というものを持たない間は、自然界の再生力の方が強かったので、ト−タルとして豊かな自然が残っていた。
ところが、人類というのが、文化文明というものを持つようになると、自然界の再生する力よりも、破壊する力の方が強くなってしまった。
例えば、人間が陶器というものを考案した時点で、粘土を焼くという文化を持つことにより、土の再生力及び燃料としての薪の再生力というものは、人間の消費する量を補う事が出来なくなってしまった。
陶器の文化から、鉄器の文化に移行すると、鉄鉱石の採取もさることながら、石炭の消費というものが、地球の環境により以上の負担を強いることになってしまった。
石炭を燃料とすることによる、炭酸ガスの排出量というのは目に見えないだけに、人間はその弊害に気付くのが遅れて、20世紀の後半になって始めて気付いた次第である。
これが石油を燃料とする時代になると、もっと複雑な様相を呈してきて、人類はいよいよ危機感を持つようになった。
炭酸ガスというのは植物の光合成によって、酸素に転換することが出来る。
しかし、硫黄酸化物や窒素酸化物というのは、こういう転換が出来ないので、出る時、発生源でコントロ−ルしなければならない。
けれども、炭酸ガスだけは酸素という人間の生存になくてはならない物質に転換できる。
農耕が自然破壊であるというのは、元々そこにあった木々、樹木、雑木林を切り取って、そこに耕地を作るという過程で、豊かな酸素発生源を消滅させるという事、又地表の土を耕すということは、農業の立場に立てばプラスの要因であるが、地球規模の自然と云う目から見れば、地表を荒らし、保水力を弱め、そして表土を風化させるという、罪を負うということになる。
自然破壊、環境保全ということが近年盛んに云われるが、人間は太古から自然を破壊し、環境を破壊し続けてきたのである。
20世紀になって始めて人類が自然破壊をしだしたわけではない。
文化文明の発達ということは自然破壊、環境汚染の歴史であったと考えなければならない。
大気汚染の防止
文化文明が歴史上最高度に発達した現代において、自然破壊も環境汚染も幾何級数的に大きくなり、そのことにより人類が心配しだし、又、自然の再生力が間に合わない状況になったわけである。
現在、炭酸ガスの国別の排出量というのは先進国よりも、後進国に、発展途上国の方が多いと聞く。
先進国は公害除去設備が完備しているが、後進国においては技術革新が遅く、動力源として石炭に頼っている所が多く、又、燃料の効率的な利用という面の技術も遅れ、公害除去の技術もそれなりに遅れているといわれている。
先進国はこうした国々に、公害除去の技術、燃料効率化の技術、というものをどんどん指導しなければならない。
環境問題を考える場合、昔の概念、国という概念、ナショナリズムというものは捨てなければならない。
というのは、環境というものは、その国の中だけの問題では納まりきれないからである。
大気汚染にしても、海洋汚染にしても、国という枠を越えて広がってしまう。
だから、環境問題に関する限り、先進国も後進国もないということである。
そのよい例が酸性雨である。
これは酸性雨の発生源というのは、遠く離れたところで排出された汚染物質が、国境を越えてよその国の森林を枯らしているのである。
この事実は、国という枠組に縛られていては解決できないということである。
つまりは、技術のあるところがその技術を発生源において使う、使う権利を与える、指導する、技術援助をするということをしないかぎり、その根源を断つことが出来ない。
そういう意味において、ナショナリズムを越えた行動をしないことには、環境汚染を根絶することが出来ない。
ナショナリズムを越えるということは、国際的な、協調の精神で、対処しなければということである。
大気汚染について云えば、日本でも四日市公害というものがあって、四日市の石油コンビナ−トから排出される硫黄酸化物の被害が大きかったが、これは公害防止設備の開発や、その他の手段により、以前よりはよい状況になったが、そういうことを国際的に行なわなければならない。
それこそ、地球規模で大気汚染の防止ということに努めなければならない。
そのためには、発生源で汚染防止をすることが一番ベタ−な方法である。
先進国ではそれが出来るが、後進国ではそう簡単にはいかない。
しかし、それでは大気汚染というのが何時までたっても改善できない。
一刻も早く善処しようとすれば、先進国は、公害防止の技術をどんどん後進国に取り付けなければならない。
そうしなければ火の粉、酸性雨のような被害が、結局自分達に降り掛かってくる。
木を切る事は罪悪である
我々日本人が見落としがちなことに、外国の焼畑農業の存在というものがある。
農耕が自然破壊であることは先に述べたが、現在でもこの古典的な自然破壊の農業、焼畑農業を営んでいる民族がある。
こういう人達に、焼畑農業を止めよということは少々酷であるが、自然を破壊していることに変わりはない。
ではどうすればいいのかということになれば、そういう民族が破壊する以上の再生力をどこかで補えばいいわけである。
そのためには直接的な手段として、植林ということがある。
人類が誕生以来、森の木を切るということが、罪悪であるという認識に立ったことは一度もない。これは今でもそうである。
けれども、これからの地球では許されることではないと思う。
焼畑農業を営む民族が、森を伐採するのは量が知れているけれども、ブラジルなどのような広大な土地を、ブルド−ザ−で伐採するのは今日では罪悪である。
これからの地球人というのは、そういう認識に立たなければならない。
ブルド−ザ−で伐採した森が、再び再生するには100年待たなければならない。
その間に大気汚染はどんどん進行してしまう。
ブルド−ザ−による伐採を止めさせるのは、相当に困難な仕事であろうと思う。
伐採する側には、それなりの生活が掛かっており、それなりの大義名分の元で行なっているので、その根本の所を是正しないことには根絶することは出来ない。
人間が木を資源としている間は難しい。木は資源と見なされている。
昔は魚も資源と見なされていた。
魚というのは、取っても、取っても、水の中から沸いてくるものと思われていた。
その魚も、今は資源保護の名目で、無制限には取れなくなった。
それと同じで、材木も昔は資源と見なされ、取っても、取っても、取り切れるものではないと思われていたが、これからはそうはいかない。
人間の建築物の素材が、木か、石か、土の間は、材木というのは切りだされると思う。
建築の材料に、材木を使うことを止めれば、材木の需要というものが減少するけれども、最近の傾向として、「木のぬくもり」などと称して再び木製品の人気が出てきた。
この傾向は、木の資源を保護するという目的とは相反する傾向である。
木が資源とみなされている間は、森林の伐採というのは続くと思われる。
今後、木を伐採することが罪悪であるということを、全地球人に認識させるには、モラルの向上しかない。
マングロ−ブ
焼畑農業を営んでいる人に、そのモラルを教育し、木をブルド−ザ−で伐採する業者に、モラルを説く以外に道はない。
その前に、木の製品を欲しがる一般大衆に対するモラルの向上ということも大事である。
しかし、こんなことはほとんど不可能に近く、全く理想であって、実現することはないと思う。
だとすれば森林が減る以上に、森林を作り出さなければならない。
木を資源として見れば、1本の苗木を育てるのに50年、100年の単位で眺めなければならない。
炭酸ガスの再生装置として、木を見れば、そういうサイクルを問題にしなくてもいい。
ただ、炭酸ガスを酸素に転換する物として眺めればいいわけで、資源という概念の外に置けばいい。
そういう意味で、マングロ−ブというのは格好な植物であろうと思う。
マングロ−ブについて詳しくは知らないが、東南アジア方面において海岸沿いに植わっており、成長が極めて早い、と云うことぐらいしか知らないが、そういう性質の植物を植林するということは、時宜を得たアイデアだと思う。
そういう性質の植物ならば、海岸の侵食も防げるし、護岸の役目も果たすだろうし、小魚の繁殖の為にも有効であろうし、まことに都合のいい植樹帯になるものと思う。
こういう植物ならば、東南アジアとは云わず、日本でも植林出来ないのかと思う。
日本でも、そういう植物が適しそうな場所というのがあるような気がする。
今まで日本に無いのが不思議な気がする(私が知らないだけかもしれない)。
植物のことだから、塩分の関係とか、気温の関係とか、問題もあるだろうが、ありのままの姿で存在するのが、その植物にとっても一番適切な生存条件のところであろうから、そういう条件を満たすところでは、どんどん植林すべきある。
砂漠の開発について
マングロ−ブの植林というのは有意義な企画ではあろうが、地球規模で、緑ということを考える場合、私個人としては、マングロ−ブよりも砂漠の方に関心が向く。
砂漠というのは、地球上の陸地の上にあって、海岸線とは又別な問題を含んでいる。
砂漠に関心が向くというのは、地球の緑と云うことと同時に、土地の有効利用という事に関心が傾いているからである。
この狭い、宇宙船地球号の中で、不毛の大地、砂漠が、あまりにも多くの面積を取っている。
この砂漠というのは、地球上の大陸が、均一に保有している、広大な面積であるにもかかわらず、耕作に適さないということが不思議でならない。
人類は、かって何度も、砂漠の利用を試みたのだろうけれども、それが20世紀も終わり、21世紀に入ろうという時期になっても、まだ解決の糸口も見つかっていないということが不思議でならない。
砂漠というのは、水さえあれば耕作が出来る、などという単純なものではないだろうが、それにしても、アジア大陸の中国に分布する砂漠、オ−ストラリア大陸の砂漠、アメリカ大陸の砂漠など、どれを取っても不毛である。
砂漠を一度も見たことのない者が、不思議がっていても始まらないだろうが、現代の科学が、海中の石油を掘りだしたり、月に人間を運ぶ技術を持ちながら、砂漠の緑化、乃至は有効利用が出来ない、ということが不思議でならない。
海中の石油を掘る技術や、月に人間を送り込む技術とは違う、と云ってしまえばそれまでであるが、やはり、砂漠の利用法が開発されないのは、人間の怠慢ではないかと思う。
人間が、砂漠を利用しなければ、という危機感の欠如ではないかと思う。
マングロ−ブを、海岸線に沿って植林するという事は、線の緑化でしかないが、砂漠というのは、面の緑化をしなければならない。
砂漠のことを考えるについては、砂漠のことを知らなければならないが、日本では砂漠というものがないので、直接的な研究ということはしにくいかも知れないけれど、砂漠に適した植物の発見とか、砂漠に適した作物の品種改良とか、とにかく砂漠というものを利用することを考える必要があるのではないかと思う。
砂漠というのは、常時風が吹いており、砂嵐が吹き荒れている。
ということは、風力発電なら可能ではないか、という発想で攻めていけば、その利用法の一つや二つは出て来るのではないかと思う。
今まで、人間が砂漠というものに、目を向けなかったので、誰もその気にならなかったのではないかと思う。
マングロ−ブというのは海岸線にあり、人々の目につきやすいところにあるので、その乱獲、伐採をなんとかしなければという発想になるが、砂漠というのは、誰もが避けて通るので、人の注目をひかなかったのではないかと思う。
少なくとも線の緑化より、面の緑化の方が地球の環境にとっては有意義である筈である。
その効果も大である。
砂漠を緑化することにより、地球の気候も変わるかもしれない。
現在の気候というのは、大陸の砂漠をより砂漠化する方向に進んでいる。
アフリカ大陸の砂漠は、以前はもっと小さかったもので、他は草原がアフリカ大陸をカバ−していたと云われている。
砂漠の緑化
アフリカ大陸が砂漠化した原因には、人間の農耕もその理由の一つかもしれない。
一旦砂漠化されると、それは加速度的に蔓延するものと思う。
ところが、砂漠化したところを緑化しようとすると、これは不可能に近い。
アメリカの大規模農業が、耕地の表土を削り取ってしまうことにより砂漠化していくという事も聞く。
このようにして、地球上の大陸は全て砂漠化の方向に進んでいる。
これを食い止めなければ、という意見はまだマスコミが取り上げていない。
酸性雨による森林破壊はニュ−スになっても、農耕の砂漠化はニュ−スになり得ない。
これは尤もなことである。
なんとなれば、人類は誕生以来、砂漠になるような農耕をしてきているからである。
だから砂漠化を食い止め、砂漠の緑化運動ということを始めるべき時期が今であると思う。「地球の緑を守るために!」というアプロ−チは消極的すぎると思う。
もっと積極的に「地球に緑を再生するために!」というアプロ−チでなければならないと思う。
「守るために」というのは、現在ある緑をこれ以上少なくしないように、という意味に取れるが、もっと積極的に「地球の緑を増やすために」という、インパクトの強いアプロ−チであれば、地球上の砂漠にも少しは人々の目が向くと思う。
21世紀には人口爆発が心配されている。
この人口爆発の震源地は、マングロ−ブの生い茂る地域であろうと想像されるが、この人口爆発を吸収するためにも、不毛の大地、砂漠いうものを、今一度、見なおす必要があると思う。
緑、植林、農産物が大事という認識を持っていても、他の国からの大気汚染で、酸性雨が降るような地球では困る。
この砂漠には雨は降らないけれども、反対に、北欧の森林が酸性雨で死滅するということは、これも一種の砂漠化の傾向である。
すると地球全体が、いずれ砂漠になってしまう、ということになり、砂漠の研究というのも必然的にしなければならなくなる。
又仮に、地球上の砂漠が、全部緑になったとすれば、きっと地球全体の気候も変わってくると思う。
現在に気候というのは、地球の真ん中の砂漠が熱せられて、乾いた空気が、海を越えてくる間に水分を含んで、横の移動をしているが、そのサイクルが微妙に変化する事により、乾燥地帯と多雨地帯が少しずつずれ込んで来ると思う。
つまり、砂漠が緑で覆われると、寒暖の差が少なくなって、地球全体が、もっと穏やかな気候になるのではないかと思う。
少なくとも、熱帯性のスコ−ルと云うのは、急激な上昇気流というのが出来ないので発生しないのではないかと思う。
急激な上昇気流が出来ないという事は、台風の発生も少なくなるのではないかと思う。
砂漠が今まで利用されなかったのは、水だけの問題ではないと思う。
又、風だけの問題でもないと思う。同じく砂だけという理由でもないと思う。
恐らく、この三つが相乗的に絡み合っての事だと思うが、人間の英知は砂漠の利用にもっと向けられるべきである。