論 題

 

 

 

現代日本におけるマスコミの功罪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

私は個人的にマスコミというものが嫌いである。

その上、マスコミ関係に、知人友人が居るわけでもなく、親類縁者に、新聞社の人が居るわけでもない。

何故、マスコミが嫌いかと云うと、放送にしろ、新聞にしろ、あの取材記者の態度が嫌いである。

人を人とも思わず、傍若無人に振る舞い、鼻持ちならない。

又、写真記者の態度も同じである。

新聞社や放送局の腕章さえ着けておれば何をやっても許されると思い込んでいる態度には、実に鼻持ちならない気持ちを持っている。

だから、マスコミの業界というものに、好感は持ち得ない。

こうした、個人的な感情はさておいて、新聞社なり放送局というものの機能、企業内の機構と云うものについては何も知らない。

そういう私が、この論題について挑戦させたものは、やはりマスコミの力というものの認識である。

マスコミの力というのは、国を動かす程の力を持っていることは疑いない。

この事については本文の中にも述べておいたが、マスコミに何ら関係のない者が書いたため、マスコミの表層的な面に沿った記述になっていると思う。

マスコミというのも、私企業で、収益を上げないことには、企業として成り立たないということは理解できるが、そのためには何をやってもいいのかという、経営の本質を突いてみたいという気はあった。

マスコミ業界といえども、他の産業と同じように、時代の流れに乗って、近代的な経営というものを目指している。

つまり子会社、外注会社、系列化という、他の産業と全く同じ方向を進みつつある。

そのことは、経営としては悪くはないが、マスコミというのは文化、文明に直接的な関わりを持っている。

これは他の産業にはない特質で、自動車メ−カ−が新車を発表し、OA化、FA化を進めるのとは、近代化の意味が違う。

自動車メ−カ−が、新車の開発に失敗したところで、国が傾くということはないが、マスコミというのは、その方向を誤ると、国を傾けるほどの影響力を持っている。

その国を左右するという前に、我々日本人というものが、この先どうなるのかという心配が先に立ってくる。

一つの事実を正確に事実として報道する、するとそれは報道されたという事実が一人歩きしてしまうことがある。 

これは厳密に云うと、マスコミの責任ではないかもしれない。

一人歩きする要因というものが、そこにあったのかもしれない。

これが国民の生活、社会のために良い方向に進めばいいが、こういうことに限って悪い方向に作用する。

又、この良いか、悪いかというのも、それぞれの見方があって、一概にこれが善でこれが悪とは決め付けられない。マスコミというのはそういう難しい面を持っている。

その点を追求したつもりであるが、充分には出来ていないような気がしてならない。

 

例えば目下テレビでグルメ・ブ−ムによって、名物店を紹介する番組が流行っているが、これに紹介されると、急に客が増えて、喜ぶ店がある反面、困ったという店もあるわけで、マスコミの影響というのは事程左様に敏感である。

社会を良い方向にしなければと云ってみたところで、何が良い社会かという事も、それぞれの個人で、その定義はまちまちであろうし、目指す方向も千差万別であるはずである。

だからマスコミ・サイドで、仮にそういうことを意図したとしても、当然、反発もあるだろうと思う。

しかし、マスコミも人間社会を形成する一つのシステムだとしたら、一般国民と同じレベルに立って、人間として最低のモラルというものはある筈である。

けれどもマスコミというのは、そういうモラルに縛られていては面白いもが出来ないということを知っている。

知っているが故に敢えてモラルから逸脱しようとしている。

昔、アメリカのジャ−ナリストで「犬が人を噛んでもニュ−スにならない、人が犬を噛めばそれはニュ−スだ!」と云ったという事が伝わっているが、まさに云い得て妙である。

ところが日本のマスコミは、犬が人を噛んだだけでもニュ−スにしている。

今の日本には、犬が人を噛んでもニュ−スになる土壌というものがある。

犬が人を噛んでもニュ−スになる土壌というものは「そんな危険な犬は駆除せよ!」という声や、「犬に噛まれる様な事をした人が悪い!」という声や、色々な声が有るのを意識するがためニュ−スになりうるのである。

しかし、このニュ−スというのは、問題提起をするだけで、問題を解決しようという気は全くない。

要するに、騒ぎを起こさせようということだけである。

あたかも「対岸の火事は大きいほど面白い」というのと同じである。

騒ぎを提供しておくだけで、その解決法を示さない。そういう面で無責任である。

マスコミの使命というのは、速報性であり、正確さであり、ワカリヤスサであるが、それだけでは役不足で、問題解決の方法を提示するという使命もあると思う。

ところが、この部分は、政治とか行政にすり替えてしまっている。

実際の実行者は、確かに政治なり、行政かもしれない。

けれども政治家なり、行政サイドに、こういう問題はこういう方向で、乃至はこういう方法で、問題を処理せよ、という指針を示すぐらいのことは出来そうである。

しかし、仮にマスコミ・サイドがそういう指針を出したところで、現実離れをしており、当事者の納得は得られないと思うが、それでもマスコミの責任において、そういう案の提示は行なうべきである。

それをしないで、批判ばかりというのは無責任である。

騒ぎだけ越しておいて、後は頬冠りでは無責任極まりない。

本文の中に、そういう不満をぶつけてみたが、思っていることの半分も表現できていないような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目 次

 

 

国家権力との関係

 

「無冠の帝王」

 

報道の倫理

 

イ−ジ−な批判

 

マスコミ界の系列の問題

 

経営の姿勢

 

マスコミの功罪

 

テレビ放送の盲点

 

ニュ−ス選択のモラル

 

テレビ業界の自助努力

 

新しいジャンル・劇画

 

結論として!

 

 

 

国家権力との関係

 

1991年(平成3年)12月末日でもってソビエット社会主義共和国連邦というものが消滅して、独立国家共同体というものになった。

こういう事態を引き起こした原因の一つは、元のゴルバチョフ大統領のペレストロイカと、グラスノスチというものが大きく関わり合っていると思う。

中でもグラスノスチというのは、情報公開ということで、マスコミ界においてはこちらの方が密接なつながりがあったわけであるが、この二つは車の両輪のようなもので、一つ一つを切り離しては考えられないことだと思う。

ソ連という社会主義国において、昨年のような大きな激動が起こり得たということは、マスコミの力が大いに関係しているということは認めざるをえない。

しかし、マスコミが活躍できた、という事の裏には、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチという民主化の基盤があって、その基盤の上に乗ってマスコミの活躍する場が与えられたと解釈すべきである。

ソ連の例を見る迄もなく、マスコミというのは、その国の政府に従属するのが普遍的な立場で、これはかっての日本のマスコミにおいても、ソ連のマスコミと同様の立場に立っていた時期というものがあった。

マスコミの関係者は、そういう過去があったということを忘れてはならない。

政府におもねる事無く、マス・コミニュケ−ションを行いえたのはアメリカのマスコミぐらいのもので、そのアメリカにおいても、多かれ少なかれ政府に遠慮したり、表現を和らげたりするマスコミ・コントロ−ルというのはあったものと思う。

その場合、マスコミ界が政府に対して良識的にというか、協力的に、センセイショナルな報道を控える、つまりマスコミ界の自主規制という形を取ったことがあるかもしれないという程度であるが、ソ連や、かっての日本の場合は、政府はマスコミの活動そのものを牛耳っていたわけで、その中でも、顕著なのは報道の検閲という制度である。

報道して良いか悪いかということを、政府がチェックするわけであるが、この検閲のうちはまだニュ−ス・ソ−スを自由に取捨選択する余地が残されていたが、これがソ連のマスコミや、日本の太平洋戦争中の報道というのは、ニュ−スそのものを政府から貰い受けているという有様であった。

従軍記者という、一見勇ましいように見えるが、記者に裁量権はなく、軍部として都合の悪いことは全てカット。

これではマスコミとはいえない、政府の機関誌でしかない。

これと同じ事が、ゴルバチョフの出現する以前のソビエットでは普通の有様であったと想像する。

これではマスコミ本来の意義が失われているわけで、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチにより検閲は廃止され、共産党の干渉がなくなったとき、結果的に言うとソ連邦の崩壊ということになってしまったわけである。

過去の日本の報道においても、ソ連邦においても、ファシズムなり共産主義なり、こういう専制政治、独裁政治の元においては、明らかにマスコミというのは弾圧を受けていた。

民主化という事の一つに、言論の自由の保証、つまりマスコミを弾圧しないということがある。

この事により、民衆というのは一斉に各人の言いたい事を云う気運というものが出来る。

マスコミは、この気運を上手に利用して、国民をある程度コントロ−ルすることが出来る。

しかし、ソ連の場合はこのマスコミの力が、ソ連邦を崩壊というところまで進んでしまったわけであるが、日本の場合も太平洋戦争中、弾圧されていた新聞界というものが、アメリカを始めとする占領軍の開放政策により解き放たれると、一斉に各社各様に勝手なことを言うようになってしまった。

 

「無冠の帝王」

 

特に朝日新聞というのは、その振幅の幅が一番大きい。

こういう固有名詞を引き合いに出すことは良いことではないが、60年安保闘争の時の朝日新聞というのは日本の新聞社ではないような、反政府、反体制、反米に偏向した報道を繰り返していた。

「無冠の帝王」などと豪語して、如何にもオピニオン・リ−ダ−の様なポ−ズを取っていた。

60年代以降の日本の歴史を眺めると、朝日新聞を始め60年代に反体制、反政府であったマスコミ界の予言、予測というものはことごとく外れ、根も葉もない嘘で固まった予言、予測であり、虚構の論理であったことが実証された。

こういう場合マスコミ界としてはどのように責任を取るのか。いたずらに世間を騒がせたことに対して何らかの謝罪があってもいいのではないか。

これだけ世間を騒がせて、一片の「詫び」の言葉もないというのは、マスコミ関係以外の国民の立場としては納得できない。

オピニオン・リ−ダ−としての、予測が的中しなかった事に対して、何らかの謝罪があってもいいのではないかと思う。

これは日本のマスコミ界の大きな汚点である。

政治家、特に自民党の政治家というのは政治の当事者である。

政治に失敗、乃至はマスコミから強く要望があれば、職を辞して責任を取ることが出来る。過去においてもマスコミのキャンペ−ンで職を辞した政治家というのは数限りなくある。

けれどもマスコミ界で業界上げてキャンペ−ンを張って、それが予想どおりの結果にならなかったとき、マスコミ界の人事が刷新されたと言うニュ−スは聞いたことがない。

私企業の人事だから、広く国民大衆に報せる必要がないかもしれない、けれどもマスコミというのも権力、権威に弱いわけである。

ソ連のマスコミも共産党には弱かったわけだし、日本のマスコミも軍部というか、ファッショ的な政治に対して非常に弱かったわけである。

これはある意味では同情の余地がある。

ソ連の場合、下手な事を言ったり書いたりすればすぐ強制収容所かシベリア送りであった。とてもではないが、正直な事は発言できなかったわけである。

日本の場合でも同じで、すぐに「赤」だと烙印が押される。

こういう政治システムの中ではマスコミは「無冠の帝王」といえどもおとなしくせざるをえない。

それと反対に、政府なり体制側が民主化と称して、民主主義を尊重するという良心的な政治態勢を取ると付け上がってくる。

 

報道の倫理

 

この付け上がった頂点が、日本の場合60年代の安保闘争の報道であり、ソ連の場合自分達の国家の崩壊である。 

ソ連の場合はともかく、日本の場合、政府が弱腰と見るとすぐに、どこまでも付け上がってくる、まるで暴力団の抗争と同じである。

民主主義という事は、言論の自由ということを最初から保証されているので、報道ということで直接の弾圧はない。

これは裏側から言えば何でも報道してもいいというわけである。

しかし、「報道」ということは、報道をする側には何らかの意図を持って報道している。

報道を受ける側は、自分の主旨主張とは関係なく、とにかくやみくもに入ってくる情報から逃れることが出来ない。

出来得ることといえば情報を取捨選択するだけで、この取捨選択が自分で出来る人はいいが、入ってくる情報を全てストレ−トに受けとめてしまう人も大勢いるわけである。

今日のテレビの深夜放送というのも実にナンセンスなマス・コミニュケ−ションである。

あんなものこそ政府が規制すればいいと思うのだけれど、テレビの業界サイドに言わせると、あれも言論の自由の一貫であり、知る権利の一つであるという論法である。

その前に日本のテレビ局の数、特に民間テレビは私企業である、私企業であるが故に深夜放送をすることにより利潤があるのであれを続けているわけである。

くだらない低俗な深夜番組といえども、テレビ局にとっては利潤追求のネタになっている。

昨年のバブル経済が問題視されたとき、金儲けのためなら何でもする企業というのが槍玉に上がって、マスコミもこぞってそのことを報道していたが、自分達も金儲けのためには何でもやっているわけで、そこには公序良俗とか、モラルの低下を憂うる気持ちというものは微塵もない。

マスコミという言葉はマス・コミニュケ−ションが詰まったものであるが、このコミニュケ−ションというのが一方通行である。

新聞、ラジオ、テレビといづれをとっても一方通行である。

消費者、つまりコミニュケ−ションを受ける側は、情報を発進する立場をコントロ−ルすることが出来ない。

出来るのは、入ってきた情報を選択することだけである。

つまらない深夜番組は見ない、新聞の記事は100%は信用せず、信頼性は30%しかないと自分に言い聞かせて読む、という消極的な抵抗手段しかない。

ここで問題になるのが、我々消費者が30%しか信頼しないにもかかわらず、新聞を発行する側が「無冠の帝王」とか「公の器」などと思い上がっていることである。

昨年の証券不祥事が問題化したとき、企業間の株の持ち合いということが問題提起されたが、特に系列企業同志の持ち合いということが批判を浴びたにもかかわらず、マスコミ界でも同じ事が行なわれている。

昨年の年末に降って沸いたように起きた宮沢リエの写真集がそれである。

あれなども話題を作為的に、センセ−ショナルに報道しておいて、利益誘導を図っているとしか受け取れない。

マスコミ界の誰かが裏でコントロ−ルしているとしか見えない。

このコントロ−ルされているということは、共産党にコントロ−ルされたり、ファシズムにコントロ−ルされたりする可能性があるということである。

この言論の自由を保証された現代においてもあり得ることである。

日本のような自由な社会、自由主義で、なおかつ資本主義体制においては、利潤の追求ということは、生きていくための必然的な条件であるが、そのためには何をやってもいいというのでは、証券スキャンダルで槍玉に上がった企業と何ら変わるところがない。

政治家に倫理が要求され、医者に倫理が要求されるように、マスコミ界においても報道の倫理というものがあって当然である。

しかし、この倫理も「無冠の帝王」などと奢り高ぶっていては真に理解出来ないと思う。

 

イ−ジ−な批判

 

ヒトというのは、社会的な生活を行なう、社会性を帯びた種族である。

社会を形成するには、社会の共通の規範として、モラルというものが存在しなければ、円満、円滑な社会生活と云うものが成り立たない。

モラルということは、第一に人に迷惑をかけないということであるが、昨今のマスコミというのは、人に迷惑をかけることを全く厭わない集団、企業人の集まりである。

これは「無冠の帝王」などと思い上がっている証拠であり、その迷惑というのは取材される側の迷惑ということを全く無視している。

取材される時の迷惑、取材された当人の迷惑、というものを全く無視するという形で報道というものが成り立っている。

このモラルの低下を自分達でしておいて、それを社会のせいに転嫁する、というのは新聞でも放送でも、その会社の人間のみでは報道が成り立たず、社外の人間をニュ−スのネタにしている。そのニュ−スのネタにしている人のことを全く考慮しない。

これはマスコミに関係している企業全体の問題である。

マスコミというのは全てが、いづれもビッグ・ビジネスであるので、消費者というか、報道を受ける立場の我々としては、マスコミの取材というものを一切拒否することにより、「無冠の帝王」に対抗する以外方法がない。

「無冠の帝王」という表現は言云えて妙である。

ソ連の崩壊というのもゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチでマスコミが自由を得たお陰であれだけのことが実現できたのである。

そういう意味で「無冠の帝王」というのは、共産主義の独裁者よりも強かったわけである。しかし、日本においては帝王に匹敵するような強力な権力者というものは存在していない。その中で「無冠の帝王」といって、人に迷惑をかけていては、「裸の王様」であって、自分では帝王のつもり、オピニオン・リ−ダ−のつもりであっても、国民、いや消費者は30%ぐらいしか信頼していないとなるとまさに「裸の王様」である。

「無冠の帝王」と、マスコミ関係者が自負している背景には、常に政府乃至は体制側を監視監督しているという自負があるものと思う。

これも一見尤もらしく見えるが、よく考えてみるとおかしなことである。

つまり政府というのは、国民の選挙で選出された人々がそれを行なっているわけである。

海部元総理であろうと、宮沢総理であろうと、彼らのバックには、何千何万という選挙民という支持者の支援を受け、又自民党という党を考えてみると、日本の過半数に近い国民の支持を受けて、総理なり自民党というものが存在しているわけである。

そういうバックを抱えて選出されてきた人を批判するということは、その後に居る選挙民も同時に批判していることになる。

現在の政府、自民党は批判されても致し方ない面があることは認めざるを得ないが、そういう前提においても、なおかつ民主主義の政治においては、政府にしろ、自民党にしろ、国民の為に善かれという前提で物事を決め、政策を実行しようとしている筈だ。

そういう立場に対して批判するということは自由である。

これは言論の自由が保証されているので、批判することは自由であるが、ならば政府の方針に賛成することがそんなに悪いことなのかという疑問が沸き上がる。

政府のやることなすこと全部が批判である。

批判ということは一番イ−ジ−な行為、一番イ−ジ−な問題提起である。

消費税の問題にしろ、湾岸戦争の貢献の問題にしろ、PKOの法案にしろ、批判して反対することは一番イ−ジ−で、安易なことである。

ウルグアイ・ラウンドの農業の問題、米の問題にしても然りである。

政府にしても、官庁にしても計画、立案、実行ということは大変な事で、人のやることを批判することは、遂行することに比べ、実に安易で、簡単なことである。

マスコミというのは批判という、一番イ−ジ−な方法のみをしているわけで、マスコミの力で消費税の問題が解決できるかといえば、これは政府の仕事だと逃げる。

正真正銘、これは政府の仕事であるが、他に消費税を取り入れなくてもいい方法が提示出来るかといえば、その方法はないわけで、湾岸戦争の貢献についても、PKOの問題についても全く同様なわけである。

批判はするが、解決案を出さない、出し得ない。

マスコミが報道しているのは、一つの意見である、と云ってしまえばそれが免罪符になってしまって、マスコミの業界も国民も黙ってしまう。

これにはマスコミ界の編集に携わる人、解りやすく云えば、知識人と云われる人々の発言が大きく左右すると思う。

日本の知識人というのは反体制でなければ人にあらずという傾向がある。

60年代の安保闘争華やかな時代には、ソ連贔屓の人間ばかりであった。

日本人でありながら日本人であることを恥、自分の国を否定しかねない人々ばかりであった。

政府を批判しながら、日本政府の保護の元で、反政府行動に現つを抜かしていたわけである。

政府に迎合せよ!と迄は言わないまでも、政府のやる事、政府の考えている事にはそれぞれに背景があるわけで、消費税にしても、湾岸戦争にしても、PKOにしても、そういう背景の中からやらざるをえないという事で、マスコミから反対されて引っ込められる様な事柄ならば最初から浮上してこないはずである。

せざるをえない背景というものを無視して、ただただ反対というのでは我々国民としてはマスコミを支持できない。

 

マスコミ界の系列の問題

 

ただ、反対意見を述べているだけ、と言い逃れをしたとしても、この反対意見の効果というものは実に大きな力を持っている。

日本のマスコミ界において新聞もテレビもラジオも新聞社を軸として系列化されている。

そして各社一様に不偏不党、政治的中道を旗印にしている。

そう言いながら朝日のように明らかに偏向しているところもあるが、建前としては特定の政党にとらわれないという方針を掲げている。

これは産業界で云うところのカルテルと同じである。

自由競争を否定して、収益、利益を維持するための談合と同じである。

言論の自由を保証された日本で、主要マスコミ企業が、新聞、テレビ、ラジオと各メデイアが縦割りに系列化し、なおかつ一様に中立をうたう、などという事は、ソ連崩壊前のプラウダやイズベスチャと全く同じである。

そしてニュ−ス・ソ−スも同じ、記者クラブの存在なんてものは一種の談合である。

カルテルそのものである。

そしてマスコミ界全体としては反政府、反自民、反体制ということまで足並みを揃えているとなるとカルテル以外の何物でもない。

日本の中で不偏不党、政治的に偏らないメデイアはNHK一つあればいい。

あとの民間マス・メデイアは各社共、自社の政治的立場というものを明確に掲げ、その政治的信念に基づいた報道をすべきである。

又、新聞と放送というメデイアの違いが同じ資本系列にあるというのも考え直すべき時である。

これも大きな問題で、他の産業においては監督官庁というのがあるが、マスコミ業界に限っては監督官庁というものが存在しない。

放送が郵政省の監督を受けているとはいえ、あれは電波の使用に関するもので、その内容については野放しの状態である。

放送の内容に立ち入ると言論の自由、表現の自由の侵害という論法になる。

ここにマスコミ界のモラルという事に立ち返ることになるが、この内容に立ち入ろうとすると検閲ということにならざるをえない。

マスコミ界もあまりにモラルを欠いた事をしていると、再度検閲という、反動になる可能性が生じてくる。

つまるところ放送のモラルの低下ということは、ひいては経営のモラルの低下につながり、金儲けであれば何をやってもいいという経営状態というのは、1991年のバブル崩壊の他の産業と同一のレベルである。

このバブル崩壊、その前の土地改革の問題についてはマスコミは比較的おとなしく、60年代の安保闘争や消費税の時ほどキャンペ−ンを張らなかった。

これはマスコミ界が資本系列の関係で、マスコミの業界そのものが資本レベルでバブル経済の片棒を担いでいたからに他ならない。

又、民放の場合スポンサ−とかクライアントの関係で契約を切られるという恐怖感から土地改革の問題、バブル経済の問題については政府を叩くほどの矛先を向けることが出来ず、どうしてもへっぴり腰にならざるをえなかった。

1990年秋に、NHKは一週間にわたって土地改革に関する大キャンペ−ンを行なったが、ああいう企画は民間放送では実施できない。

どうしてもスポンサ−とかクライアントの意向というものを念頭に置かなければならないので、こういう事になる。

つまるところ「無冠の帝王」といいながら叩けるところを叩いているわけで、叩いても跳ね返りの無いところのみを攻撃しているにすぎない。

政府というのはいくら叩いても、現在の民主主義の体制の元ではマスコミに対して反撃してくることはない。

マスコミを潰す事は出来ない。

それを知っていればこそ反政府、反体制で金儲けをしているわけである。

これではモラルの向上もあったものではない。

 

経営の姿勢

 

放送を通じて人々の精神の向上に努める、マス・コミニュケ−ションという手段で人々に貢献しようという、人間としての本質は何も見いだされず、ただただ金儲けが有るのみである。

弱いものを叩く、これでは町の暴力団と何ら変わるところが無い。

もともとマスコミ関係者を称してインテリ・ヤクザと云う言葉もあるくらいで、報道という手段でもって金儲けをしている暴力団と同じである。

ここに報道のモラルというものが問われる根本原因があり、それと合わせて経営姿勢も問われるべきである。

50年前の話になるが、先の太平洋戦争に日本が進んだ際、あの時点においても、日本は戦争をしてはいけない、という本当の事を述べていた人がいたわけであるが、あの時マスコミ界、当時は主として新聞と雑誌がメインであったけれども、マスコミというのはそういう意見をマイナ−な意見として、大きくは報道しなくて、全て御用マスコミとして、政府の提灯持ちをしている。

この節操の無さは、昨年の土地改革、バブル経済の時の報道と同じである。

当時の状況というものは、誰が見ても軍部の横暴、ファッショ的な政治と云う背景があった事は認めざるをえないが、それだからこそマスコミ界は同業者同志の確執を打ち破って一丸となって反体制、反政府にならなければならないはずである。

この時の状況は土地改革、バブル経済についても云える。

この問題に真正面から立ち向かったのはNHKのみである。

というのは今まで述べてきたように資本でつながり、系列でつながり、スポンサ−、クライアントの関係でつながっているからである。

自社の収益の減少につながる批判は、出来なかったと云うことである。

これでは「無冠の帝王」などと傲慢な態度でいられるわけがない。

報道人としてのモラル、企業経営を通じて社会に貢献しなければ、という使命感もない。

これはマスコミというのが、商品としての新聞紙面、ないしは放送内容の中身で国民に支持されていないからこういう事態になっている。

新聞でも放送でも、商品を売って成り立っているわけでなく、公告という別の儲け口で経営が成り立っているからである。

新聞はまだしも、放送となると一般国民はタダで商品を手に入れているわけである。

資本主義体制において、タダの商品というのは放送以外に存在しない。

その点、NHKというのは受信料というのを取っているのでタダというわけではなく、その分、自主的な判断で放送の企画が出来るけれども、民間放送というのは一般国民、つまり消費者にタダで商品をばらまいているわけである。

民間放送の経営というのは、莫大な公告料、スポンサ−料というもので成り立っている。

ここにスポンサ−とかクライアントに対する遠慮、乃至は契約カットというマスコミ側のアキレス腱があるわけで、新聞というのは放送の場合のようなNHK的な存在というものはない。

日本の新聞というものは、全部民間放送と同じ経営基盤にたっている。

新聞社の経営というのは一重に公告料で成り立っている。

1ヵ月の購読料だけで、あれだけの紙面を作っていれば、赤字になるだろうと想像する。

こういう状況であればこそ不偏不党という事にならざるをえない。

政府というのも、たまには新聞公告というのも行なうが、大体においてスポンサ−には成り得ることはない。

よって経営的な立場から、新聞社側が政府に媚を売る必要はないわけで、だからこそ日本の新聞というのはどれもこれもが反政府、反体制でいられるのである。

だから逆に日本全体をミス・リ−ドすることにもなりうるわけである。

何となれば、国民が新聞の公告主になることはなく、そのため新聞は国民に対して媚を売る必要はないのだから。 

 

マスコミの功罪

 

太平洋戦争前夜のマスコミの在り方というのは明らかに戦争を煽っており、あれは明らかにミス・リ−ドであり、60年代の安保闘争の時のマスコミの報道の仕方というのも、故意に日本をミス・リ−ドさせようとするものである。

ただ政府と国民の選択がマスコミの言っていたことに騙されず、結果的にミス・リ−ドに陥らなかったと云うことである。

太平洋戦争は国民が新聞、雑誌のミス・リ−ドに乗ってしまい、軍国主義、ファッショにうかれてしまった結果であり、60年代安保は乗らなかった結果である。

ことほど左様にマスコミの功罪は大きいのである。この事実に国民は気付くべきである。

こういう事態に陥ったとき、マスコミ界はどういう責任を取るべきか。

マスコミ界は、こういうミス・リ−ドに対して何ら責任を取ろうとしない。

先の太平洋戦争の場合は、マスコミのミス・リ−ドに国民が漫々とはまってしまって、日米開戦を始め、鬼畜米英というキャンペ−ンに踊らされて、若くして散っていった若者が沢山居たわけである。

軍部の横暴や、ファシズムに同調し、それを美辞麗句で鼓舞し、国民を戦争に駆り立てたマスコミ、このようなミス・リ−ドに対してどう責任を取るのか。

この責任をマスコミ界として、どう解決するのか未だに答えを出していない。

敗戦という外部要因で、日本が民主主義の国に生まれ変わると、マスコミ界も手の裏を返したように反政府、反体制、反米、反自民、親ソ、親中国である。

この節操の無さは一体どうしたことだろうか。日和見主義もいいところである。

この節操の無さは、マスコミ界ばかりでなく、日本の知識人一般に、節操の無さというものが蔓延していた。

日本の知識人というのは、以上述べてきたように、実に節操がなく、保身の術に長けている。

軍人というのは、直接の実行者として、敵国の人を殺さねばならない立場に立たされ、戦後においても、その立場ゆえ戦犯という立場に立たされたが、マスコミ界において戦犯という立場に立たされた人はほとんど居なかったのではないかと思う。

軍部に協力し、ファシズムを日本中に宣伝したマスコミ界の戦争責任というのは一体どうなっていたのだろうか。

そういう意味において、日本の新聞社は日本共産党の赤旗や、公明党の聖教新聞のように社としての信条を明確に表明すべきである。

不偏不党などと曖昧な表現で、反政府、反体制、反自民だけではいけないと思う。

これではあまりのも狡い態度で、責任逃れである。

もっと報道の内容に責任を持つべきである。

そしてメデイア間の系列も解消すべきであり、資本も分離すべきである。

こうなると記者クラブという談合、乃至はカルテルそのものも否定されて然るべきである。ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチが東欧の自立権を確立し、ドイツが統一され、ソ連邦が崩壊したというのはマスコミの力だと思う。

ゴルバチョフがマスコミに対する統制というものを取り払ったので、ああいう事態になったものと思う。

けれども日本のマスコミというのはあれだけのことが出来ただろうか。

現在の日本は45年前から、今のソ連や東欧のマスコミと同じ立場にいるわけであり、つまり開放された状況であるが、それと同じパワ−を保持しているだろうか。

今の東欧やソ連のマスコミのように生き生きとした活力にあふれている状況だろうか。

我々の見るところ情報という金ツルを握って金儲けに奔走しているようにしか見えない。

マスコミというのはまさに虚業の最いたるもので、実業に携わる人々よりも利に諭い。

まさにインテリ・ヤクザの本質そのものである。

一般国民としてはくれぐれもマスコミに踊らされないように心していなければならない。

 

テレビ放送の盲点

 

マス・コミュニケ−ションの媒体としては色々なものがあろうが、その中でも代表的なものといえば、新聞とテレビである。

マスコミと言う場合、この二つを指すのと同意語である。

この二つは、マスコミという本領を十分に発揮し得るものであるけれども、それが一方通行であることは先に述べた通りで、世論形成上でも、この二つは大きな影響力を内在している。

1991年2月7日から平成4年度の予算審議が国会で行なわれていた。

テレビも新聞もこの様子を報道している。

テレビなどは午前中も午後も国会の審議を報道している。

これはこれで結構な事である。

国会の審議を密室の審議から、オ−プンな審議にしており、国民は国会の中で何が行なわれているのか、自宅に居乍らにして知ることができる。

まことに結構な事である。

ところがこの国会中継を見ていて、それがニュ−スとして編集されてくると、視聴者とニュ−ス編集者との観点の違いから、こんなことをニュ−スにしなければならないのか、という疑問というか、感覚のズレを感ずることがある。

国会中継という、何時間にもわたる質疑応答を、わずか20秒とか30秒という短い時間に凝縮しなければならないので、その質疑応答の一番のポイントというものを引き出さなければならないところにニュ−スを編集する人の感覚というか、奥義というか、そういうものが要求される。

だから、その質疑応答のテレビ中継を、のんべんだらりと眺めている視聴者とのズレが生じてくることは致し方ない。

けれども、それがニュ−スで取り上げれられると、一段と重みを持ち、世論形成の要因となってしまうところに、マスコミの、特にテレビ、新聞の責任の重大さがある。

テレビで云えば定時のニュ−ス、新聞で云えば見出しの活字の大きさというものが世論形成の大きなファクタ−になってしまう。

ここに、マスコミの大きな責任が生じてくる。

2時間、3時間、いやもっとそれ以上にもわたる長時間の質疑応答を、わずか20秒、30秒に圧縮するときに生ずる、視聴者との感覚のズレ、というものが世論形成の要因になるということは実に恐ろしいことである。

国民の全部が、国会の予算審議の全部を、テレビ中継を通じて、理解した上で、各人の考えを形成するのなら心配はいらないが、大部分の国民というのは、テレビのニュ−スとか新聞の見出しの活字の大きさで自分の考えを固定しがちである。 

確かに、国会の予算審議の全部、乃至はその一部分は、そのままテレビで中継され、放映されており、新聞にも、ほぼ全内容が掲載されているが、人々はどうしてもダイジェストされたニュ−スや見出しの大きさで左右されがちだと思う。

これを逆の観点から見ると、ニュ−スや活字の大きさを決める人は、本人が意図するしないにかかわらず、一種の情報操作をしているということである。

けれども、この情報操作はしばしば意図的になされる。

そこに、偏向があるなしにかかわらず、こういう過程を通らない情報というものはないのである。

プロ野球の放送でも、生の実況放送と、ハイライトというのがある。 

ハイライトというのは、その試合の山場のみを集めているわけで、ニュ−ス番組においても、このハイライト部分が定時のニュ−スであり、新聞の活字の大きさとなる。

国民はこれによって自分の考えを形成し、それが集まって世論となる。

1992年、正月早々に起きた、櫻内衆議院議長や宮沢首相の、アメリカの労働者に対する失言の問題も、そういう要因を含んでいる。

櫻内議長にしろ、宮沢首相にしろ、公の場で失言というものをしてはならないのは当然であり、心の中でそう思っていても、それを公の場で口にすべき事ではない、ということは論を待たないが、それかといって、ほんの少し本音を洩らしたからといって、現在の日米関係を否定するものでもないし、大きな論争を引き起こすつもりもなかったろうと思う。

それを大きくしたのはひとえにマスコミである。

この場合は、アメリカ側のマスコミがアメリカ人向けに騒ぎを大きくしたきらいがある。

アメリカ側のマスコミが大騒ぎをしているの見て、日本側のマスコミが、その騒ぎを報道するという図式であるが、政府高官が一言しゃべる度に、その言葉尻をあげつらうようなニュ−スというものは、ニュ−ス編集者、つまり情報操作の次元が低いものと思う。

この情報操作をするということは、現代の社会においては、一番大事な民主主義の根源にかかわる問題である。

ここに本当の民主主義者が存在しないことには、民主主義というものが国民に敷衍していかない。

ニュ−スにさえなれば何を報道してもいい、という気持ちの者が座すれば、国民をミス・リ−ドしかねない。

真実であれば、何でも報道すればいいのか、という問題とも絡んで、この問題はマスコミ界において一番難しい問題であろうと思う。

先の、国会の予算審議の報道においても2時間も、3時間もにわたる質疑応答を20秒か30秒に凝縮してニュ−スとして流すわけである。

ニュ−スとして報道される画像は100%真実である。

けれども20秒か30秒の定時のニュ−スというのは、その前後の関連を無視しているわけで、予算審議を始めから最後までじっくり眺めていれば納得できる場合でも、そのワン・カットをピック・アップして、その部分のみ真実として取り出して、見せ付けられるわけで、受け取る側は別の意味に受け取るという事もあると思う。

前後の関連がわかれば納得できることも、そのワン・カットのみを見ただけでは誤解する機会が多いという意味である。

そういう危惧を抱えながら世論というものが形成され、国民の批判材料となってしまう。

 

ニュ−ス選択のモラル

 

又、最近の日本のマスコミ界の傾向として、ニュ−スを娯楽の対象としてとらえる傾向がある。

マスコミ界そのものが、虚業である以上、マスコミが国民を啓蒙するしないという責任は始めからないものと見做していいと思うが、前に述べたニュ−スの選択の問題とかけ離れて、一旦出来上がったニュ−スを俎板に乗せて、それを好きな様に料理するという、社会的な現象や、国際的な事件を、娯楽の対象にしてしまう傾向がある。

先の、湾岸戦争の報道などは、戦争が、茶の間で見るプロ野球と同じレベルになってしまっている。

この、ニュ−スを娯楽にするということは、ある意味で社会現象や世界の出来事を解りやすく解説する、というプラスの要因も含んでいることは確かであるが、湾岸戦争のような、全地球規模で大きな問題となっている事柄ならそれでもいいが、こうした大きな事件はそう何時も何時も有るわけではない。

そういう時はどうなるかというと、有名人のスキャンダルの暴露という方向に向かう。

こうなると、トタンに低俗というレッテルが貼られ、事実、低俗以外の何物でもない。

それも、民放各社が同じようなニュ−ス・ソ−スを追い廻して、レベルの低い会話を交わして、それを視聴者が娯楽として眺めるという図式は遺憾ともしがたい。

作る側の知的レベルも、視聴者側の知的レベルも、なんともしがたい。

こういう番組に、スポンサ−が付くということが問題である。

民間のテレビ局というのは、スポンサ−の公告料で成り立ているわけであるが、こういう番組にスポンサ−が付くということは、スポンサ−側の良識も、同時に問われて然るべきである。

公告として効果があれば、どんな番組にでも公告料を払うという考え方は既にモラルの問題であり倫理の問題である。

スポンサ−にしてみれば、公告主になるという顧客としての権利というものを武器に、もっと番組を選択すべきである。

公告主が、もっとモラルを持って、番組の選択をすれば、世の中の低俗番組というのは減少すると思う。

低俗な番組というのは、誰が見ても低俗であるが、この低俗の定義も、マスコミ側の論理で弁護すると、価値観の違いという一言で片付けられてしまい、世の良識というものはこの価値観の違いという言葉に対して反論する言葉を持たない。

低俗なものを、低俗と認識し得ず、そこに価値観があると、思い込んでいる人間というのも遺憾ともしがたい。

そういう人々に、迎合するマスコミ界というのも、合わせて何ともしがたい存在である。

良識ある人は、そういう番組や新聞とは毅然と決別している。

マスコミというのは、ある面では、有り難いことに一方通行である。

一方通行なるがゆえに 拒否することも出来る。

低俗なテレビ番組は見ない、低俗な新聞は買わない、という手段でコミットしないという自衛手段が我々には有るが、そういうものが存在を許されていること自体が、私個人としては不満であるが、これ以上は言論の自由、表現の自由を侵犯する事になるので、ここらで控えておくべきであろう。

低俗なテレビ番組はエネルギ−の浪費以外の何物でもない。

言論の自由、表現の自由ということも、民主主義の世の中では当然のことのように思われているが、これも公序良俗の範囲内において、ということが前提になっている。

けれども、マスコミ界の人々は、その前提条件の有ることを忘れてしまっている。

公序良俗という言葉は古い言葉であるが、これは一種のモラルのことである。

言論の自由、表現の自由ということは、無制限に何をやってもいいというわけではない。

そこのところを故意に無視したがるのが日本のマスコミである。

昔、流行ったストリ−キングという遊びがある。

裸で町中を駆け抜けて、人々が驚くのを面白がるという遊びであるが、あれを行なえば警察に捕まって軽犯罪法でお灸を据えられるが、これは個人の責任である。

叱られるのは本人で、本人もそれを承知で行なうわけである。

ところがマスコミがこうした類の、つまり公序良俗に反するような報道を行なって、官憲の取締にあうと、言論の自由、表現の自由の侵害という論法になる。

ストリ−キングそのものは、ニュ−スのネタとして、マスコミが飛び付きそうなニュ−ス・ソ−スであるが、このネタの取り扱い方にモラルというか、公序良俗の範囲内の報道の仕方というものが存在するはずである。

報道の自由ということは、報道すべき内容の選択の自由ということであるが、自由ということは何でもかんでも無制限ということではない。

 

テレビ業界の自助努力

 

そういう意味で日本の民間放送局の乱立の現象というのも、必要かつ十分な数量をはるかにオ−バ−していると思う。

数有る放送局の中で、NHKのみが半官半民で、電波の面でも、内容の面、運用の面でも国の指導のもとにある。

指導のもとという意味は、検閲を受けているという意味ではなく、自主性は尊重されているが、偏向した考え方には傾かないという意味である。

ところが民間の放送局、民間のマスコミというのは、全く金儲け一辺倒であり、金にさえなれば、つまりスポンサ−さえ付けばなんでもやるという無節操に近い状態である。

それかといって毎日の出来事をNHKの定時のニュ−スのようなものばかりでも潤いがない事は理解できるが、だからNHK自身が出来るだけくだけた内容という方向に進もうという気配が感じられる。

ところが、NHK以外の民間放送というのは、もうこれ以上落ちようがないというような内容ばかりである。

民間テレビ局の中でも、皆が皆というわけではないが、確かに民間テレビ局の中に良い番組というのは存在する。

しかし、その放送局の数と放送時間を掛け合わせたト−タルの放送の中では、微々たるものである。

仮に、民放5社が1日20時間放送すると、一日で100時間の電波が、低俗な番組で占められていることになる。

この中でなんとか見るに耐えるという番組は1時間あるかなしである。

これが全て、私企業の利潤追求のために使用されているのである。

放送で使用される電波というのは、厳密に云えば公共の物である。

いわば情報伝達の道路と見做せば、民放というのは、その公共の道路を私企業が占有している事になる。

低俗な番組を整理すればその分、別の情報の伝達に使用できる。

この事を放送する側も、受け取る側も忘れがちである。

そして何が低俗で、何が低俗でないか、という問題は世代により、時代により、千差万別である事は論を待たない。

けれどもスポンサ−になる側、クライアントの側は、自社が公告用に契約した番組が自社のイメ−ジにマッチしているかどうかぐらいのチェックはすべきである。

スポンサ−が契約する際には、当然値段の点も交渉の場に出ているだろうけれども、値段さえ安ければ、どんな低俗な番組にでもスポンサ−に名を連ねるという、安易な考え方では世の中の浄化は出来ないと思う。

浄化という表現は、穏当でないかもしれないが、少なくとも軽薄な方向には向かはないという意味である。

特に、テレビという不特定多数の人が、好むと好まざると見ているのである。

その中で表現される日本語というのは、出来るかぎり美しいものでなければならない。

これは、日本の伝統を云々する前に、見ている人、聴いている人、受け取る側に、判りやすい、理解しやすい日本語でなければならない。

そういう意味においては、NHKが一番堅実である。

ところが、民放では日本語の訓練を受けていない人を使っているので、実に聞き取りにくい、特に若い出演者の早口の語り口は実に見苦しい。

今の若い世代は、あれが当然だと思い込んでいる。

ここに日本の文化が変質する要因があると思う。

文化の変質、変遷というのは有っても悪くはない。いや、あるのが当然である。

日本人の歴史の中でも逐次、文化というのは変化し、変遷してきていることは認めなければならないし、文化が時代の流れとともに変化していくのに、個人で立ち向かっても、文化の変質、変化を止められるものではないが、テレビの画面で出演者が早口で会話して、出演者自身が楽しんでいる番組があまりにも多い。

討論会とか、ト−ク番組で、個人のキャラクタ−として、たまたま早口の語り口というのなら、それはそれで納得できるが、出演者が視聴者の存在を忘れ、自分が楽しんでしまっていては、何をか況んやである。

又、方言というのも、時と場所による。

地方の人にインタビュ−して、地方の人々が方言で応えるのは、ロ−カル色が前面に出て非常に好ましいが、方言を前面に出して、それを売り物にするようなケ−スは自重すべきである。

低俗な番組というのは、誰が見ても低俗だろうと思うが、この低俗な番組でも、電波に乗るまでには、色々な段階でチェック機能があるわけで、企画の段階から見れば、何段にもわたってチェックされてきているわけであり、それでもそれが番組として電波に乗るということは、この段階においてチェックする人が低俗と思わなかったと云うことである。

仮に思ったとしても、低俗なるが故に視聴率がアップする。

つまり、スポンサ−が付いてくれるいう読みが有ったものと想像する。

民放において、低俗な番組が多いというのは、文化とか知性とかというものを全く無視して、ただただ視聴率のみを競い合っている結果だと思う。

今の日本のマスコミ界においては、テレビの影響力が一番大きいと思うが、その一番大きな影響力を持つテレビ局、民間テレビ局が、視聴率の競争でしのぎを削っているかぎりに於いては、テレビ業界の内側からの自助努力、文化を浄化しなければという発想は出てこないと思う。

 

新しいジャンル・劇画

 

日本のマスコミの中で、テレビについで影響力の大きいのが新聞であり、新聞を代表とする活字による媒体である。

これには新聞、雑誌、単行本、等々、活字による媒体というのも数々有るが、この中で最近とみに大きな影響力の出てきたのが、漫画というか、劇画というか、私個人は劇画も漫画の一のジャンルだと思うが、漫画というのがマスコミの仲間入りをしてきた。

昔、漫画といえば新聞のカットや、雑誌のカットに入れられる程度であったが、最近では完全にマスコミの中においてテレビ、新聞、雑誌と並んで、媒体としての地位を確立してきた。これもマスコミの発達した究極の姿であるのかもしれない。

少なくとも活字による媒体においては、新聞、雑誌、文庫本、単行本に次ぐ大きなジャンルを築き上げたようである。

我々の世代、昭和10年代生まれの者にとっては、漫画よりも文庫本なり、単行本のように、活字ばかり並んだものの方が馴染みやすいが、今の若い世代は、漫画の方が馴染みやすいようで、活字で読むよりも、漫画で読むだ方が理解しやすい、という面もあるようである。

今では漫画によるハウ・ツ−ものまで出現しているようである。

我々のような、古いタイプの人間は、漫画というと、どうしても一段見下したイメ−ジを持ちがちであるが、これからの若い世代にとっては何ら違和感なく受け入れられているようである。

古いタイプの人間が、一方的に思い込むことは、どうも間違っており、これからはマスコミのジャンルとして、大きな地位を築くものとなる可能性を持っている。

しかし、その内容というのは、文庫本や単行本と同じ物差しで評価されるのではないか、と思う。

文字による伝達と、絵による伝達、という違いはあっても、印刷という形態を取っている以上、同じ目で見られるものと思う。

映像による伝達とは違った基準で評価されるものと思う。

当然ニュ−ス性よりも物事の理解を深め、知的な好奇心を満たす方向に進むものと思う。

ニュ−スの速報性は、テレビに適うものはなく、活字による媒体、というのは物事の理解を深め、考察し、思考の素材として機能するものと思う。

現代の日本のマスコミの功罪としては、公序良俗のモラルの範囲内で、国民の知る権利を満たし、知的好奇心を刺激する方向に進むべきで、今のところテレビの大半の番組はそういうものとは程遠い存在である。 

 

結論として!

 

冒頭にも述べたように、ソ連邦を崩壊に導いたのは、明らかにマスコミの力であったろうと思う。

だがマスコミがあれほどの力を発揮し得たのは何故かと云えば、これはゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチという基盤があったからだと思う。

マスコミには、こういう国の方向を決定するほどの、大きな力をも持ち合わせているわけである。

我々、西側陣営にいるものにとっては、ソ連の崩壊、共産主義国家の敗北、ということは喜ばしいことに違いない。

けれども、これを反対側の立場にいた人々から見れば、今回のソ連の激動は由々しき問題として写ったに違いない。

それでも、マスコミがソ連という巨大国家を動かした、という事実は認めざるをえない。

過去において、東西という立場の違いを越えて、マスコミの力というものを、両方が認めなければならない。

それと同じ事が、50年前の太平洋戦争の時の日本のマスコミの存在についても云える。

あの時点において、日本人の中にも、対米戦争は避けなければならない、という意見を述べていた人も居た筈であるが、その当時のマスコミは、そういう考え、意見を、拾い上げることを拒否し、ファシズム、ないしは軍国主義に迎合した。

軍部の言う事を鵜呑みにして、国民に戦争を鼓舞し、戦意高揚に力を貸したわけである。

ソ連邦の崩壊がマスコミの力によることは、我々、西側サイドにとってみれば、誠に結構なことであるが、これを苦々しく思っている人も沢山いるわけで、日本の50年前においてもそれと同じ事があったわけである。

ただ残念なことに、日本の歴史では太平洋戦争は、日本の軍部の行なった侵略だという形で、軍部に全責任を負いかぶせてメデイァはその被害者という認識が罷り通っている。

この軍部の言う事、為す事を、美辞麗句で報道して、戦争協力したマスコミの存在というものに我々は注意しなければならない。

この時期に反体制、反軍部、反帝国主義を唱えれば、それはたちまち「赤」というレッテルを貼られ、特高警察や憲兵に付け狙われるという状況は理解できる。

しかし、そういう状況が出来上がる前に、マスコミはその影響力というものを発揮すべきである。

何故、そういうことが出来なかったのかといえば、マスコミが当時の政治家、軍人、官僚、経済界の誰からも信用されていなかったということができる。

先に新聞が30%しか信用されていないということを述べたが、50年前においても政治家なり軍人なり、国を動かす立場の者は、マスコミというものを信用していなかったわけである。

日本の政治家や、官僚、経済界の人々がマスコミを信用しないということは昔も今も変わりがないわけである。

日本のマスコミに、ソ連のマスコミを見習えというつもりはないが、日本のマスコミが日本の政治家、経済界の人々から信用されていないということは真実であろうと思う。

それは記事に責任を持たないから、そういうことになると思う。

テレビの場合でも「ヤラセ」というのがあるので、写っている映像が100%真実かどうかという事から疑ってかからなければならないし、新聞に至っては、執筆者が判らないまま、無責任な反政府、反体制の記事を読まされるということになり、これでは信用できないといわれてもし方がない。

50年前の太平洋戦争の時でも、戦争をしたのは確かに軍であるが、軍国主義を煽り、ファッショ体制を煽りたてたのはマスコミ以外の何物でもない。

新聞、ラジオ、雑誌で煽りたてられた若き青年が、軍国主義に陥り、国民の全部、老若男女が軍国主義に洗脳され、帝国主義的植民地支配に何の疑問を持たず、戦争を遂行し、戦地に出征していったのである。

この時期においては、マスコミが美辞麗句で塗り固めた、軍国主義乃至は帝国主義に一番素直に順応したのが、若い世代の人々である。

中でも地方の学校で1番2番を競うような、優秀な若者が軍国主義にかぶれ、帝国主義に洗脳された。

優秀であればこそ、純真であればこそ、マスコミの扇動にのりやすく、マスコミが報ずるところの日本の置かれた立場、というもの憂いたわけである。

こういう状況に導いたのは、紛れもなくマスコミである。

あの時代に、一番優秀な人々は東大とか京大、勿論旧帝国大学であるが、そういうところを差し置いて、海軍兵学校や陸軍士官学校に進むことを希望した。

こうした風潮というのは、紛れもなくマスコミの効が奏していたわけである。

その当時は今ほどマスコミが発達していなかったにしても、新聞、雑誌、ラジオ程度はあったわけで、この未熟で未発達なマスコミでさえ、日本の優秀な人物を、青年達を、軍国主義、帝国主義に洗脳することに成功したわけである。

これは日本を間接的に崩壊に導いたといってもいい事で、まさに今日のソ連の崩壊に匹敵するものである。

今日のソ連邦の崩壊は、ほとんど無血革命に近いが、日本の崩壊について言えば、何千何万という犠牲の上にそれがなされたわけである。

日本の例においても、ソ連の例においても、マスコミには国を動かす程の大きな力が存在していることが、これで理解できたと思うが、それだからこそ、今日の日本のマスコミは、もっと堅実な、媒体としての使命感というものを持ってもらいたいと願う次第である。

マスコミが信用できない、ということは昔も今も変わらぬ、国民の信念である。

政治家から一般大衆に至まで、マスコミは信用できないという概念を持っている。

だからと云って、マスコミの全部が嘘を言っているとも思っていない。

マスコミ全体としては、速報性、正確さ、わかりやすさ、という大きく分けて3つのポイントあると思うが、それぞれのメデイアにおいて、一長一短がある事は否めない。

速報性において、テレビに適うものはないし、わかりやすさにおいては新聞、雑誌、漫画という活字による媒体に適うものはない。

メデイアの違いにより、それぞれ特性がある。

我々、情報を受け取る側は、それを上手に使い分けなければならない。

このそれぞれの特性を持ったメデイアが、資本系列でつながっているというのは、経済の面から云うと、コンツエルンとなる。

それは寡占ということにつながり、ひいては自由競争の喪失ということになりかねない。

この裏にある精神構造、経営の姿勢というものは、儲かればいいという、儲かれば何でもやるという発想である。

日本のバブル経済が破裂したとき、心ある経営者は、本業で儲けることが経営者の手腕だ、という意味のことを述べていたが、まさにその通りだと思う。

マスコミの業界も、本業である新聞とか、放送の内容で、収益の上がるように自助努力をすべきである。

公告料で経営するなどと云うことは邪道だと思う。

新聞社なら、新聞の紙面の内容で競争すべきで、放送局なら、放送の内容で、視聴者を引き付けるものをスポンサ−に提供し、スポンサ−も良心的な作品にのみ公告料を払うという姿勢にたち返るべきである。

以上述べてきたように、マスコミの力というのは非常に大きい。

国を動かすような、大きな力を持っている。

国を動かすのは、政治家の仕事のようであるが、その政治家が、マスコミの動向を伺いながら政治をしている。

ことほど左様に、大きな力を持っているマスコミは、まさに「無冠の帝王」にふさわしいが、そうした大きな力を持っているからには、批判というものももっと素直に受け入れ、その批判というものを、政治家や政府に転嫁すべきでない。

太平洋戦争においては、軍部と政治に責任を転嫁し、最近の世の中の乱れを、政治家の責任にする事無く、マスコミ内部でも自己批判すべきである。

政治家の悪業を弁護するつもりはないが、その悪業の根を断つためには、日本人全体のモラルのアップが必要である。

悪い政治家のバックには、悪い選挙民がいるわけで、こうした全体のレベル・アップにマスコミはその力を結集し、充分に威力を発揮し、21世紀の日本に貢献すべきである。

 

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