戸塚宏は果たして教育者か?

 

1991年(平成3年)10月29日、戸塚ヨット・スク−ル事件の首謀者、戸塚宏の論告求刑の判決で検察側は懲役10年を求刑した。

まだ最終弁論が残っており、来年の1992年平成4年1月にあるので、刑が確定したわけではないが、この事件は1983年昭和58年、戸塚宏の経営する情緒不安定の子をヨットを通じて立直らせようという趣旨のヨット・スク−ルが、預かった子供に暴行を加え、死亡させたというものである。

新聞の報道によると今回の検察側の論旨は、いささか感情的なような気がしてならない。

新聞記事にも弁護士の言葉として、同じ事が述べられているが、本来、裁判というものは、ク−ルに考えなければならない。

裁判官が感情に流されて判決を出してもらっては困る。

裁判官の拠り所は法律のみで、個々の感情に流されて判決を出していては大岡越前守の判官贔屓になってしまう。

近代の裁判は感情で左右されてはならないと思う。

これは戸塚宏を養護するものではないが、それかといって感情論で語るべきものではない。これは戸塚宏の行った事が、教育ととるか暴行ととるかという大事な所に感情が入っている。

戸塚宏のやっていたヨット・スク−ルというのが教育に値するかどうかというところは大いに議論すべき点である。

この大事な議論を掘り下げなければならない場面で、感情を入れてしまってはいけないと思う。

確かに戸塚宏のやっていたヨット・スク−ルというものが教育に値するかどうかという疑問は残るけれども、情緒不安定な子供というのは親であろうが、学校の先生だろうが、警察であろうが、言って分かるものではないと思う。

言葉で理解させることは多分不可能であろう。

この戸塚ヨット・スク−ルに入れられている子供というのは、情緒不安定、家庭内暴力、登校拒否、非行と、どれ一つとっても反社会的なものばかりである。

1991年7月に入って、瀬戸内海で起きた「風の子学園」の訓練生の死亡事件においても、状況は同じだったと思う。

親がもてあましている子供を立直らせようという事は、並大抵の事ではない。

こういう子供に当たり前の手段として言葉で語りかけて立直らせることが可能かといえば、やはりこれは不可能であろう。

それが出来ていれば戸塚ヨット・スク−ルや「風の子学園」などというものが存在しえないはずである。

ということは口で云ったり言葉で語っていては改善の余地がないということで、最後の手段として、こういう施設に頼ってきているということであろうと思う。

今回の裁判の判決文では「教育とは個人の尊厳を重んじ、人格の完成を目指すもの」と述べているが、こんな綺麗事では情緒不安定な子供や、家庭内暴力をふるう子供や、非行や登校拒否が治るものではないと思う。

この論告のこの部分の論旨は、大学生でも対象にするのならば説得力もあろうが、対象が情緒不安定な子供だとすれば、そのまま当てはまらないと考えざるを得ない。

こんな綺麗事で情緒不安定な子供が立直れるものではない。

ここが感情論と云われる所以である。

情緒不安定な子供というものが果たして人間かという疑問がある。

我々の常識から判断すると、人間の姿をしておれば、すべからく人権という言葉を当てはめがちであるが、果たして本当にそれでいいのだろうか?

人間の一生を通じて、赤ん坊の時から70、80になるまで全て人権として人格を認め得るのかという問題である。

よく子供の人権という言葉が巷に飛びかっているが、果たして子供に人権というものがあるのかどうかという事である。

この場合、子供というのは18才未満で、選挙権もない者に果たして人権ということがあり得るのかどうかという事である。

又、「個人の尊厳」とか、「人格の完成」という言葉も綺麗であるが、果たして何の事を云っているのか分からない。抽象的すぎる。

又、文字通り素直に受け取るとすれば、今の高校や中学校の管理教育というものは全部この項目には抵触してしまう。

この場合も、高校や中学校の生徒を一人前の人間として認めるかどうかという事にも関連してくるが、この際人間の姿をしていれば赤子から老人まで、全部人権という言葉で一括りにする事は検討し直した方がいのではないかと思う。

戸塚ヨット・スク−ルに預けられた子供や「風の子学園」に預けられた子供を一人前の人間として見ることには疑問がある。だからといって殺してもいいというわけではない。

こうした問題に対するアプロ−チとして、人権という言葉を振り回さない方がいいのではないかという事である。

「命の尊厳」ということはそれこそ赤子から老人まで同一である。

人生のどの期間をとっても生命の尊厳が軽くなる時期というものは存在しない。

生命の尊厳と人権、人間の権利というものは自ずから違っており、その区別をしておいてから論議をしなければならないのではないか、ということを提言しているわけである。

人の命は守らなければならない。

けれども人の命を守ることと、人権の保護とは次元の違う問題だと思う。

実際問題として、こうした施設にくる子供というのは、実の親がもてあました末に入ってくるのである。

親が口で言っても、言葉を尽くしても改善の余地がないので入れられているのである。

ここで問題になるのは、その子供よりも親の方の問題の方が大きいのではないかという事である。 

親が口で言っても云うことを聞かない子供を作った親の方がもっと罪が重いし、なおかつ大事な問題である。

ごくありふれた家庭でも中学生から高校生になる時期というのは、何処の家の子供でも親の云うことを素直に聞かないのは当たり前のことで、何処にもある話だと思う。

子供が大人へ成長する時期で、精神的な脱皮の時期である。

子供の自我が確立される時期である。

子供がノ−マルに成長しておれば正常な状態であるはずである。

これが思春期というものである。

私自身の成長の課程を振り返ってみてもそうであるし、今、人の子の親になって、自分の子供の成長を見てみてもそうである。

この時期の子供というのは精神的にかなり不安定な状況であることは確かである。

その精神的な不安定を、影で支えてやることも親の務めである。

クラブ活動のことや、友人のこと、学業のこと、進学のことなど子供にとっては不安定な材料に事欠かない。

その中で子供は色々な選択を迫られて、不安な気持ちになることは致し方ない。

それがとめどもなく進行すると情緒不安定になり、登校拒否になり、非行になるのである。これをよく考えてみれば、その子の親の方の子育てに問題があると思う。

この論告でもはっきりと述べている。「登校拒否、非行、家庭内暴力などに陥った過程には、複雑な要因が絡み合っている」と云っているが、全くその通りであろうと思う。

この複雑な要因というのが問題である。

これは親の方に複雑な要因があるのではないかと思う。

例えば夫婦共稼とか、親が子に甘いとか、過保護だとか云うことだろうと思う。

両親が健全な精神と肉体を持っていれば、子供は素直に成長するものだと思う。

要するに自然の成り行きのままに流れていれば、このような事態にはならなかったはずである。

子供が思春期を迎えて親に反抗する時期を迎えても、親の方が自然体であればこれほど特異なケ−スにはならないはずである。

それが特異なケ−スになってしまったということは親の方に責任がある。

一昔前に「積み木くずし」という本で、こうした情緒不安定な子供を更正させたという本が出たが、この場合親が問題を真正面から受けとめたようである。

戸塚ヨット・スク−ルや「風の子学園」のような施設に入れるということは、既に親が親としての権利義務を放棄しているという事である。

常に事態から逃げよう、逃げようという態度である。

子供の方はそうした親の態度、心の動きというものを敏感に感じ取るものである。

そうした子供を立直らせるには、暴力が是認されるのかという事になると、これもなかなかむつかしい問題である。

けれども言葉で語って聞かないものは、やはり最後は暴力にならざるをえないと云うことになると思う。

暴力を是認するつもりはないが、やはり云うことを聞かない者に聞かせようとすると、行きつく先は暴力になると思う。

口で言って云うことを聞くのならこんな問題は起きてこない。 

それが後も断たずに次から次へと起きてくるということはこういうことだと思う。

戸塚ヨット・スク−ルでこの事件が起きたのは8年も前の事であるが、それでも現在13人もの子供が入所しているという事は、この親の方は一体どういう親かと云いたくなる。

「風の子学園」にしてもそうである。自分の子供を育てられないような親の方が悪い。

親としての資格がない。今の世の中そんな親が一杯いるわけだ。

こうした情緒不安対な子供というのは一種の精神病であろうと思う。

しかし、それは親の方がそういう風に仕向けたという面があると思う。

これは、故意に仕向けたことはないにしても、親としての態度そのものが、又、生き方そのものが、そういう風に仕向けたと見ていいと思う。

実際問題として体だけは一人前に成長して、どこも肉体的に悪いところがないのに、家庭内暴力を振るったり、登校拒否をしたりする子供を預かって、立直らせるということは大変だろうと思う。

教育か暴力かといえば、教育などという生易しいことでは出来ないのではないかと想像する。

体だけは立派に人権を確立していても、精神の方に人権が存在しないような人間に、通常の生活をするように指導するということは、並大抵の事では出来ないと思う。

だからこそ親の方も親権を放棄して、人頼りにくるのである。

論告が云うような「個人の尊厳」とか、「人格の完成」などという綺麗事ではとても追い付かないと思う。

教育という事も、正常な精神の子供なら口で言って聞かせる教育ということが成り立つが、精神に異常を来している子供には普通に云う教育などは通用しないと思う。

暴力を肯定するつもりはないが、最終的にはそれになってしまうのではないかと思う。

そうした子供を立直らせるに、誰でもその当人の子供のみを責めがちであるが、本当はここで親の方も教育をする必要があるのではないかと思う。

前に述べたように、そういう子供の存在は、親の方にも責任がある。

論告では「複雑な要因」ということを云っているが、ケ−ス・バイ・ケ−スで一概に均一的に述べられないという意味で「複雑な」という表現だろうが、こうした子供が生まれる背景には、親の方が子育てに自信がないのではないかと思う。

いろんな人の意見を聴く、聞いたことを自信のないまま実行するので、より複雑な事態を招くという悪循環ではないかと思う。

もし自分の子供がこのような事態に陥ったら、親はそれこそ職も家も何もかも投げ捨てて解決しようという、正面切って、真正面から立ち向かわないことには、子供に親の気持ちが伝わらないと思う。

職を捨てるのがおしい、金がもったいない、と親の都合ばかりで、親のエゴをそのままにしておいて、子供だけ立直ってくれといっても無理なことだと思う。

挙げ句の果てに戸塚ヨット・スク−ルに入れておいて、「金だけ払うので立直らせてくれ」では、余りにも親が勝手すぎるような気がする。

昔から子は親の後ろ姿を見て育つといわれている。

要するに親が一生懸命生きる姿を子供に見せておけば、そういう情緒不安定な子供になるわけはないと思う。

親子の会話が不足しているとか、家族の団欒がないなどと、近ごろの教育論では云っているが、我々が成長した頃などはそんな教育論など始めから存在していなかった。

我々以前の人達はどうやって子育てをしていたのかと云わなければならない。

ただ昔は子供の数が多かったと同時に幼児の死亡率も高かったということを忘れてはならないと思う。

兄弟の上の子は、下の子を子守しながら、棒切れを持って野山を駆け回っていた。

親は朝から晩まで野良仕事で、今のように子供の面倒を見る暇など無かったはずである。

それでも日本民族は存続し続けたのである。

その中には木から落ちて死んだ子や、川で溺れて死んだ子、又病気で死んだ子も沢山いたに違いない。

しかし、情緒不安定な子や登校拒否の子がいたかどうかは定かでない。

又、非行というのも存在しなかったはずである。

なんとなれば高等小学校を卒業すればもういっぱしの大人として扱われ、デッチ奉公にいけば先輩が頭から押さえ付けていたはずであるから、非行などという事はなかったと思う。

現在においては学校の嫌いなものに無理に学校にいかせるから登校拒否となるのである。

始めから学校にいかなくてもよければ登校拒否などありえない。

情緒不安定ということも環境に支配される病気であるので、親は環境の良いところに移り住めばいい。

今の社会というのはそういう選択には事欠かない。

けれども親の都合でそれが出来ないという事は、親自身が本当に子供のことを考えておらず、親のエゴである。

本当に子供の事を考えておれば、子供がどうしてそういう病気に陥ったか反省し、その解決に万難を配しても行うと思う。

それをせずにおいて戸塚ヨット・スク−ルに入れれば解決してくれるだろうと思って、逃げるのは良くない事である。

子供はきっと親の心を見透かしているはずである。

戸塚ヨット・スク−ルのやっている事を肯定するつもりはないが、他の方法があるだろうか?

「風の子学園」の事件でも、施設側のやっていることは教育に値しないとしても、他にどんな方法があるのだろうか?

あの状態にまでいってしまった子供は既に精神が病んでいる。

精神病というのは病気であって、治療すれば治るというのは理屈ではあるが、それならば一体誰が治療するのか。

以前、新宿駅でバスにガソリンを播いて人を焼死させた事件があった。

あの犯人は完全に精神病患者であった。

又、最近では守山の自衛隊で丹羽兵助代議士を殺したのも精神病患者であった。

この人達も人間の姿をしている以上人権があるならば、一体どうすればいいのか。

精神病患者は全部殺してしまえということも極端な云い方である。

だからといって戸塚宏の行った行為をそのまま容認するという事も出来ない。

それならばこうした精神を病んだ人々を一体どうすればいいのかという答えはない。

しかし現実は、ないでは済まされない。

少なくともそうした子供を持った親としてはなんとしても治したい。

そういう気持ちが我が子を戸塚ヨット・スク−ルに入れたり、「風の子学園」に入れたりするわけであろうが、こういう施設を頼りにすること自体が甘えである。

親の方がしっかり信念を持っていない事が最大の原因である。

親が信念を持ちえない社会のシステムというものも遠因にはなっていると思う。

こういう論理を展開すると何でもかんでも最後は社会が悪いという事になってしまうが、社会のせいにするのは逃げの姿勢である。

やはりここは逃げてはいけない、逃げずに真正面からぶつかっていくべきである。

社会が悪いという云い方は、裁判所の判決が往々にしてこういう意見に組しやすい。

裁判が感情に支配されると、結論の持って行き場のない場合、社会の責任にしがちである。子供が学校で怪我をして、親が責任賠償の訴訟を起こすと、大抵の場合自治体側が賠償金を支払う方法で解決される。

どんな原因があるにしろ、学校で怪我をした子供は可愛そう、という感情に支配された判決である。

自治体が払う金は市民の税金であるはずである。裁判所が払うわけではない。

このように学校に関する事故は大抵自治体側が賠償金を払うという形で解決をしている。

遠足の事故についても、体育の時間の事故についても、その大部分が監督が不行き届きだったという理由で、自治体が敗訴している。

他の子供は同じような事をしても、事故に遇わないのに、その子だけが不幸にして事故に遇う、これは元々その子供に状況判断の能力を欠けているものと思う。

クラスの他の子は同じ事をクリア−しているのに、その子だけクリア−出来なかった、という事は、他の子供より何かが欠如していたわけである。

けれども裁判所というのはそういう事を認めたがらない。

自治体が金を払えば誰も傷付かないという配慮があるのではないかと思うが、これは法に照らして公正な裁判ではないと思う。

やはり感情に流されているのではないかと思う。

けれども裁判というのは感情で左右されるベき物ではないと思う。

よく弱者救済という事があるが、裁判が弱者救済をしてはいけないと思う。

それをすること自体、感情に支配されるという事である。

裁判というものは理性でク−ルに法に照らして判断すべきものである。

だから今回の戸塚ヨット・スク−ルの裁判に於いても感情に流される事無く、一つ一つの事実を綿密に考察して、詰めていかなければならないと思う。

そのためには戸塚ヨット・スク−ルのやり方というものが、教育か暴力かという判断をもっと掘り下げて考えなければならないと思う。

しかしこれは難しい問題だと思う。

戸塚ヨット・スク−ルのやり方がベタ−かと云われれば、とてもベタ−とは云えないが、それではどんな方法があったのかと云われれば答えに窮してしまう。

最後の弁護人供述がどうなるのか興味を引くところである。

 

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