中東和平会議に寄せて
プロロ−グ
1991年、10月30日、スペインのマドリッドで、中東の和平会議が始まった。
この会議は中東の紛争を解決しようとする人々の願望でもあり、当事国ばかりでなく米ソの首脳を交えての大掛りなものである。
しかし、この中東という地域は我々日本人にはどうもよくわからない面がある。
我々の認識の中ではアラビアンナイトや月の砂漠のイメ−ジしか沸かないが、どうもそんな夢物語をイメ−ジできるような単純な物ではないようだ。
私の知識も確たるものがあるわけではない。
新聞の記事を寄せ集めて、後は想像で、以下の文章を書くわけであるが、私のごとき浅学のものでも、この中東という地域がエジプトのナイル川流域の文化とチグリス・ユ−フラチィス川流域の文化に挟まれた砂漠の荒野であるということは理解している。
世界の4大文明の発祥地のうち、その二つに挟まれた中間に存在しているということが、その後の発展になんらかの影響があったのかもしれない。
エジプト、チグリス・ユ−フラチィス川流域、インダス川流域、揚子江流域が文明の発祥地であるということは学校時代教わったことであるが、あと10年で、21世紀になろうかという、この時代にこの4大文明発祥地というものを眺めてみると、見事に近代化にとり残されている。
紀元前には少なくとも地球上で一番の先進国であった時代が続いたに違いない。
それが今日では歴史上に例を見ないほどの脚光を浴びて登場しているわけである。
二つの文明の発祥地に挟まれた地域は今日石油の生産ということで、20世紀になって一躍晴舞台に登場した。
けれども2000年の歴史を一気に再現しているようなもので、各種の小競り合いの連続、テロ、宗教戦争、民族紛争、経済戦争と在りとあらゆる悪の展示会場となっている。
2000年に及ぶ人類の歴史の縮図である。
宗教のかかわり
その根底に流れている大きな潮流はやはり宗教である。人間の心の問題である。
今、この時点でマドリッドで中東の各国が会議をしなければならないのも、その根底には宗教の問題がある。
宗教が前面には出ていないが、各国の主張の裏には宗教が存在する。
この中東のトラブルというのは宗教だけの問題ではなく、民族紛争と経済紛争が複雑に絡み合っているところに一層の困難がある。
今回の湾岸戦争においてもイラクがクエ−トに進攻した裏には宗教の問題があり、表面上は武力による領土拡大主義という形態になっているが、根底には宗教の問題を内在しているはずである。
私のような無紳論者では到底理解できない次元の問題である。
それはさて置き、今回の和平会議の主旨は、まず当事国を同一のテ−ブルに着かせるという事である。
云ってみればこれは平和解決のための具体的な案は何もなくてもいいという事である。
この会議のメンバ−はアメリカ、ソ連という、かっての二大パワ−と、イスラエル、そして反イスラエルのアラブ諸国である。
アラブ諸国のメンバ−はシリア、レバノン、ヨルダン、そしてパレスチナの代表団という形になっている。
要するにイスラエルを中心としてイスラエルの周辺国とパレスチナの代表団、そしてオブザ−バ−としてエジプトとECが入っている。
中東の問題において宗教に関する紛争は大なり小なりついて回るにしても、ここにイスラエルが入ることによりすべての中東の問題がより一層複雑になる。
一体イスラエルのユダヤ教というものはどう云うものなのか、今一つ我々には分からないところがある。
この中東の紛争というのは、イスラエルという国があの地に出来たときから表面化してきたような気がする。
けれども大昔にはイスラエル王国というのもユダヤ王国というのも存在していたようでもある。
その後ヘブライ王朝、バビロニヤ、アッシリア、アレキサンダ−大王等々に何度も進攻されたと歴史は語っている。
それは何故かといえば、ここにエルサレムがあったからである。
このエルサレムというのは元々はユダヤ教の聖地だったものが、このユダヤ教の宗教改革としてキリスト教が誕生してくると、キリスト教にとっても聖地であったわけである。
そこにもってきてこの二つに対抗するものとしてイスラム教が起こってきたら、その聖地がまたエルサレムである。
地球上のたった一つの地点が三つ宗教の聖地となってしまっているところに、この中東の悲劇が存在するわけである。
エルサレムという土地はこの抗争のため何度侵略されたか分からない。
この地域の人々の宗教に対する係わり方というものは我々日本人にとってはどうにも理解に苦しむところである。
前にも述べた事があるが、宗教というのは人間の心の拠り所であるはずなのに、この地方の人々の在り方というのは、宗教の為の人間といった感じである。
人の命より宗教の方が大事といった感じである。
キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、イスラム教にしても、もっと柔軟に考えればよさそうに思うが、どうしてそれ程までに宗教に拘るのか不思議でならない。
日本でもかっては宗教の横暴、仏教徒の横暴ということがあった。
その時の為政者が(織田信長であったが)きっぱりとそれを押さえ込んでしまった。
その時期を除いて宗教は国の保護のもとにあり、政治と宗教ははっきりと分離していた。
ところが中東の諸国では、いまでも政教分離が行なわれていない。
宗教の方が分離を許しておかないようだ。
宗教が国の政治と宗教を分離することを拒んでいるようである。
現代の先進国で政治と宗教が合体しているようなところは何処にもない。
政治は政治、宗教は宗教、経済は経済とそれぞれ分離している。
これは国の宗教というものを否定しているわけではない。
その国の宗教というものはあってもいいが、宗教が政治にくちばしを入れなければそれでいいわけである。
ところがこの中東地域はイスラエルもアラブ諸国も、それが合体してしまっている。
未開人?
こういう状態を俗な言葉で表現すれば未開な状態、未開人というべきだと思う。
政治と宗教が分離できないという事は精神的に未開人と決め付けてもいいのではないかと思う。
精神的に心が開かれていないという意味では未開人と呼んだほうが理解しやすいのではないかと思う。
今時のマス・メデイアの中では、差別用語かも知れないが、これが中近東の人々の総称としては一番理解しやすい概念ではないかと思う。
イスラエル人というのは非常に知識階級が多く、知能指数も高いといわれているが、その高度な知識、学識、知能指数のある人々が未開人と同じ事をしている。
つまり政治と宗教を分離できないでいるということは一体どういうことだろうか?
ユダヤ人というのは祖国を失って、世界各地に分離して、それぞれの国で知識階級に属しておりながら、どうして自分の宗教に拘るのだろう!
日本の新聞報道を見る限りにおいて、この中近東の小競り合いの中でも、たいていの場合イスラエル人の方が先に銃を発砲しているようである。
知識もあり、金もあり、分別もあるはずのイスラエル人がどうして小さなトラブルでいちいち銃を発砲するのだろう。我々日本人にはどうもこの辺りが理解できない。
トラブルの度に銃を発砲するという点をとっても、我々日本人から見れば未開人といいたくなる。
今回の和平会議についても会議のセットアップをアメリカが行なって、ソ連を呼んできて、エジプトとECをオブザ−バ−に据えて開催するということも、我々の常識では割り切れないものがある。
アラブとイスラエルの問題であるからには、自分達が話し合えばよさそうなものが、アメリカの声がかりがなければ会議が出来ないということも不思議なことである。
アメリカとソ連はつい最近まではそれぞれの黒幕であったことは確かである。
アメリカはイスラエルをバックアップしていたし、アラブ諸国にはソ連がバックアップしていた。
それぞれがお互いの黒幕の前で会議をするというのも、我々日本人のヤクザ同志の会談のような印象を受ける。
アメリカ、ソ連が大親分よろしく、その前で舎弟同志が話し合うという構図である。
大昔のいきさつはさて置いて、第二次世界大戦後の中近東のトラブルの原因は何といってもイスラエルという国があの地に建国されたことである。
イスラエルという国が建国されたこと自体にトラブルの原因がある。
逆に云うとユダヤおよびユダヤ教というものがそれ程までに憎まれているということである。
具体的にはイスラエルという国が建国されたことにより、そこに元々住んでいたアラブ人がその地から移住させられ、追い出されたことが発端である。
この事については詳しくは知らないが、アラブ側についてもさぞかし困った事だろうとは想像できる。
このイスラエルの建国をアメリカが認めたことにより、それ以来というものアメリカは常にイスラエルの後見者としての立場を維持しているわけである。
ところが一旦イスラエルという国が出来てしまえば、必然的に主権というものが生まれ、そうなると主権の侵害ということが起こり得るし、もともとこの地域に住んでいたアラブ人というのは遊牧民族で、牛や羊、ラクダを追って何処にでも移動していくので、入った入らないというトラブルはどうしても発生しがちである。
そこにもってきて宗教の違いというものが重なって、トラブルが大きくなる。
日本人のレベルで考えれば、イスラエルというのは知識もあり、学識もあり、知能指数も高いとしたら、そのトラブルを回避する方法が他にもありそうな気がするが、そうなっていないところが未開人と見られても致し方ない。
占領地の返還がポイント
先の湾岸戦争の時、サダム・フセインが自分でクエ−トに進攻しておきながら、このイスラエルの問題を持ち出して、イスラエルも国連の決議を無視していると反発をしていた。
この点に限って云えばサダム・フセインの云うことも一理ある。
確かにイスラエルはヨルダン川西岸、ガザ地区というのをヨルダン、又はエジプトから占領しており、ゴラン高原というのをシリアから併合してしまっている。
いみじくもサダム・フセインと同じ事をしていたわけである。
それでサダム・フセインは多国籍軍に参加していなかったイスラエルにスタッド・ミサイルを撃ち込んだわけである。
サダム・フセインがイスラエルを攻撃したということは既に宗教戦争である。
このサダム・フセインにイスラエルが反撃したら、それこそ終始のつかない事態になるというのでアメリカは必死になってイスラエルが反撃する事を自重するように説得をした。
そして結局イスラエルはアメリカの云うことを聞いて反撃しなかったので、この事により逆にイスラエルはアメリカに恩を売った形になってしまった。
それでアメリカは湾岸戦争が終わってみると、やはりイスラエルが占領しつづけている問題が解決しないことには中東の和平はないということに気が付いて、今回の和平会議をセットしたものと思う。
アメリカがこういう動きができた背景には、ソ連という脅威が無くなったというのは当然である。
冷戦が今まで通り続いておればアメリカとしてもイスラエルを自分の陣営に入れておきたいという気持ちがあると思う。
ところがソ連とアメリカがパ−トナ−シップで結ばれた今日においては中東の和平のためにはイスラエルの譲歩が何より大切である。
イスラエルの譲歩さえあれば中東の和平はある程度確保できるに違いない。
アメリカはそう読みとったに違いない。
このイスラエルの占領地というのは1967年の第三次中東戦争の時からである。
約25年経っているわけである。
その間にイスラエル人が入植開墾してしまっているので、イスラエル側としても素直に返すわけにはいかないであろう。
精神の進化
主権というものは一旦確立してしまうと、なかなか返したくないというのが何処の国でも、どの民族にとっても普遍的なことである。
日本の北方領土の問題でも同じ事が云えている。
北方領土の場合、ソ連が崩壊して、今はロシヤ共和国の所管になっているようであるが、そこに住みついてしまった人々にとっては今更返還するのは嫌だといっているようであるが、無理もない話である。
それと同じ事がこの中東でも起きているわけである。
日本の中においても、土地の賃貸に関するかぎりこれと同じ事が起きており、特に農地の場合、安い賃貸料で借りていても、いざ返納を迫られると返す側が色々と難癖を漬けるのと同じである。
要するに人間のやっている事は何処の国でも、何処の土地でも、どんな民族でも同じであるということである。
人間が人間である以上、人間のやることは同じであるという事である。
この人間の問題となるとこの中近東の、つまりアラブとイスラエルのトラブルというのは大昔から継続しているわけで、人間の使う道具というのは時代とともに性能向上をしてきたが、人間の精神というものは全く進化していないという事になる。
特に宗教というのは人間の精神の進化を阻害しているような感がする。
大体2000年も前の考え方、つまり宗教というものが進化していないという事は、人の精神というものはいかに進化からとり残されているかという事だと思う。
この地域の人々がユダヤ教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、宗教に固執するという事はそういう事ではないかと思う。
日本人の宗教感はどちらかというと無紳論に近いものである。
この小さな島国で全国民が一つの宗教に凝ってしまうことはありえない。
元々は神道の地盤であったところに、仏教が入ってきたが、この両者はお互いに共存共栄をしてきたわけだし、江戸時代にキリスト教が入ってきたときも、入ってきた時点で多少の迫害はあったけれども、今ではキリスト教も日本社会の中で定着している。
最近になって、創価学会とか、オウム真理教とか、「幸福の科学」などという新興宗教もそれなりに勢力を延ばしている。
日本国憲法は信教の自由をうたっている。
イスラエルやアラブ諸国に信教の自由があるかといえば、これは認められず、他の宗教を排斥することに勢力が集中している。
それがため2000年来争いが絶えないのである。
日本人のように宗教に寛大でないので、新しい宗教が起きてくるということ自体がありえない。
宗教に対して非常に偏狭な精神構造であるといえる。
こういう点から考えると我々日本人の精神構造というのは実に柔軟性に富んでいるように思われる。
神道も仏教もキリスト教も今の日本の社会では同じように存在しえると云うことはやはりアラブやイスラエルの人々よりも精神が進化していると考えていいのではないかと思う。
しかし、この平和な日本の中でも、キリスト教というのは日本人の本来の精神構造に削ぐわない面が見受けられる。
日本古来の神道も外来の仏教も精神的に非常に寛大寛容であるのに、キリスト教は偏狭であり、独善的である。
というのは政府の閣僚が靖国神社に参拝したり、戦没者の慰霊碑等に参拝することに横槍を入れてくる事がその証拠である。
これは政治にくちばしを入れてくるというほど大げさなことではないにしても、キリスト教の精神にはそうした行為に対する嫌悪感、乃至は忌み嫌う心の構造が内在しているが故に、そういうものに対する抗議という形になって現われてくるのだと思う。
それを突き詰めていくと偏狭で、独善的ということで、他の人々と共存共栄を図ろうという気持ちを否定するということになる。
手短に云えば、自分達さえ良ければいいという事になる。
つまりキリスト教徒だけが良ければいいという事である。
他の宗教を容認せず、ただただキリスト教とのみの繁栄さえあればそれでいいという事になる。
こうした偏狭で独善的な宗教がこの中東という限られたエリヤでひしめき合っているので、アラブ・イスラエルの問題というのは困難な問題といわざるをえない。
ユダヤ教というのはユダヤ人だけの宗教であり、キリスト教というのは常に拡大しようという内的な拡張主義というのがある。
宗教は洗脳である
ユダヤ人がユダヤ教に確執する、又キリスト教徒が勢力を延ばしたいと願うのは一つの洗脳である。
既存の考え方を一度洗い直して、新しい考えを植え付けようという洗脳である。
ユダヤ人の場合は赤ん坊に対して、キリスト教については異教徒に対して、洗脳をしようという潜在的な力が働いている。
日本の戦後においても、日本共産党が洗脳という言葉をよく使い、又実行していたようであるが、生まれ落ちた子供が成長するに従い、親が子に宗教感覚を植え付けると云うことは一種の洗脳である。
赤子の脳というのは白紙であるはずですから、厳密に云えば古い考えを洗い落とすという過程が欠落しているかもしれないが、人が成長する過程では自我の確立という時期があって、15才〜20才ぐらいの間に、それまでの子供の時の価値観を自分で問い直す時期というものがあるはずである。
けれども、こうした宗教圏の人々は、その時期に自我の確立に目覚めた人々を宗教の戒律というもので押さえ込んでしまうに違いない。
この戒律というもので、自我の確立を宗教にとって都合のいい方に歪曲してしまうに違いない。
この時に自我の趣くままに放任しておけば、きっと日本人のように神道も仏教もキリスト教も「幸福の科学」もあらゆるものを容認する社会が出来上がってしまう。
イスラエルもアラブ諸国も他の宗教を容認する寛大な精神をもった社会に変革できれば、今日の混乱は消滅するのではないかと思う。
かって共産主義が宗教を麻薬と決め付けて攻撃したことがあったが、この点についてはマルキストは正しかったと思う。
まさに麻薬である。この麻薬に取りつかれている限り、この中東の地に平和はこないと思う。
又、キリスト教を拡大したいという願望も、帝国主義的拡張主義と同じではないかと思う。キリスト教の各派の宣教師が地球上の未開地まで入り込んで布教し、宣教師として活躍しているという話を聞くと、如何にも人類に貢献しているような印象を受けるが、あれはまさに帝国主義的な精神の侵略ではないかと思う。
未開の地にはそれぞれ民族固有の神様なり、固有の信仰があるはずである。
それをキリスト教に洗脳しようなどということは独善的な、キリスト教との思い上った行為である。
これは何もキリスト教とのみならずイスラム教徒にも同じ傾向があるだろうと思う。
それが為あのような広範な地域に広がったのだと思う。
ユダヤ教については浅学の為よくは分からないが、少なくとも宗教である以上、全ての宗教が大なり小なり独善的なはずである。なおかつ排他的であろうと思う。
会議の意義
こうした宗教が国家と結びついているところがまたまた問題を複雑、かつ解決を困難にしている。
分かりやすく云えば、創価学会とオウム真理教と「幸福の科学」がそれぞれ独立国になって主権を持ったようなものだ。
この3つがお互いに武器を持って土地争いをしているようなものである。
日本では笑い話で済むが、実際アラブとイスラエルの問題というのはこういう事だと思う。この3つは日本の中の宗教であるので、その信徒というのは日本人という大きな枠にはまった、民族的な特徴というものを持っている。
それは一つの規範で、人を人として尊重するという人類愛である。
けれども中東においては、宗教が違えば人の姿をしていても、人と思わずラクダと同じである。
この違いに彼等は気が付いていない。
宗教が違っても、異教徒でも、血も涙もある人間であるということを認めようとしない。
今回の中東和平会議においてもイスラエルとアラブが同じテ−ブルで話し合うだけでも成功だとしている。
考えてみればこんな馬鹿げた会議はないはずである。
会議という以上話し合うべきテ−マがあって、解決すべき問題が提案され、一歩でも二歩でもそれに近づく方法を探すというのが会議であるはずである。
それを始めから成果を期待せず、テ−ブルに着くだけでも会議開催の値打ちがあったなどという会議もそう多くはないはずである。
結果的にはイスラエルもアラブ側も云うべき事は堂々と言い合ったけれども、言い放しで歩み寄りということは一切なかった。
彼等の頭の中には妥協とか、お互いに譲り合うという概念が喪失しているのではないかとさえ思える。
という事はこの記事を報道している新聞の同じ三面記事に、日本に留学している留学生が、どちらの側の留学生も「妥協するな」ということを述べている。
妥協することを敗北とみなしている。
その国の留学生がそう思い、そう感じていることは当局者も当然そう思いそう考えているということだろうと思う。
要するに一般国民が「妥協するな」と云っているとみなしていいと思う。
一般国民が「妥協するな」と云っているのに、交渉当事者が妥協してしまえば、国民を裏切った事になるであろう。
教育の只乗り
こういう頑なな態度が、中東の紛争を引き起こしていることは論を待たないが、何故にそれ程までに頑なな思考に陥っているのか、ということを今まで述べてきたが、我々ごとき素人が思い巡らす限りにおいては、ユダヤ人のユダヤ教というものにその根源があるのではないかと思う。
この世にユダヤ人とユダヤ教がなければ、中東の混乱というものは存在しなかったわけである。
ユダヤ人とユダヤ教が世界各地で嫌われるというのは、それなりに理由があると思う。
理由のないところにトラブルはない筈だ。
我々のごとく世俗的な日本人はユダヤ人は頭がいいと認識しがちである。
そしてあらゆる社会において指導的立場に人脈を張り巡らしているという、一種の高等民族というイメ−ジを持っているのではないかと思う。これはある面では事実であろう。
根も葉もない所から100%の虚像という事もありえないことから考えると、いくらかの真実はあると思う。
そうするとユダヤ人が他の民族よりも優れているという認識がユダヤ人そのものにもあるのではないかと思う。
ユダヤ人というのは世界各地のあらゆる社会には入って経済なり、金融という面で成功を修めている。
この事自体が世界の人々の顰蹙を買っているのではないかと思う。
一般的にユダヤ人というのは子息の教育に熱心だといわれている。
事実そうであろうと思う。
しかし、この教育という問題をユダヤ人との関係で考えてみると、他の民族や他の社会から顰蹙を買う要因の一つに突き当たるような気がする。
地球上の近代国家というものは、何処の国でも教育ということに真剣に取り組んでいる。
これは当然な事である。
そうした国家なり社会の中にユダヤ人の子弟も当然組み入れられているわけであるが、この教育制度の確立というものにユダヤ人というものが全くタッチせずに、出来上がった制度の上にただで乗ってしまうわけである。
そして仮にユダヤ人が頭がいいとすると、その一番いいところを、つまり上澄みの所を最大限利用してしまうわけである。
ユダヤ人が自分たちの国を今まで持ちえなかったということは、結果的にこういう事だと思う。
イスラエルの国内においては、こういうことは云えないかもしれないが、イスラエル以外の国に居住するユダヤ人については教育只乗り論ではないかと思う。
授業料を払っているということは又別の問題で、これは受益者負担ということで当然だとしても、その国家の教育制度をただで利用するという面では、その社会の人々が反感を持つのも当然な事かもしれない。
しかし、こうした反感もそれぞれの社会において、教育や教養の高い人々は露骨には表現しない、どうしてもレベルの低い人々は露骨に表現しがちである。
これが時々表面化してくる反ユダヤのトラブルであろうと思う。
もちろん宗教の違いということも当然内在している。
こうした感情というのは理性でコントロ−ル出来ている間はいいが、理性のコントロ−ルが効かなくなって、大衆運動にまでなりうるという事は、その国家なりその社会なりの潜在的な認識として内包しているわけで、これはそれぞれの民族の「業」としか言いようがないと思う。
今回の和平会議で双方がテ−ブルに着くだけでもいいというのは、その「業」の部分をそのまま残しておいても、双方が武力を行使しないだけでも由とするという事だろうと思う。
こうした連中から見れば日本人の平和主義というのも理解に苦しむ事だろうと思う。
彼等の論法によれば、平和とは武力の均衡の上に成り立っている状態だということで、武力そのものを否定する日本の平和主義など考えられない事だろうと思う。
けれども地球上の大部分においては、平和の概念というものは武力が均衡を保っている状態というのが普遍的である。
日本人のように武力そのものを否定する平和主義と云うのは異質であるという事を我々は知っておかなければならない。
アメリカとイスラエルの関係
今回の中東和平会議はアメリカのベ−カ−国務長官の8回にも及ぶ中東訪問によってセット・アップが可能になった。
又以前にはキッシンジャ−が10回にも及ぶ中東訪問によって、エジプトとイスラエルの仲を取り持ったことがあった。
これは1979年の事で、アメリカはこのように中東の和平には大いなる貢献をしている。この時点においても、現在においても、アメリカは地球上の巨大国家として、巨大国家としての責務として紛争解決に努力しようとする姿勢は評価すべきである。
日本が現在、世界No1のGNPを誇っていると云っても、中東和平に尽力する勇気があるかといえば、残念ながらそんな気概は全く無いと云わなければならない。
中東の事など石油業界以外の人々にとって何の関心も持ちえないことではないかと想像する。普通の人々にとってはあまりにも遠い国の事柄である。
イスラム教徒にしてもユダヤ教にしても、我々の日常生活とは余りにも掛けはなれた存在である。
イスラエルのキブツの事についても全くといっていいほど知られていない。
我々は中東といえば石油という事で、連想ゲ−ム的な発想になるが、石油以外のイメ−ジとなると全くといってもいいほど疎い。
けれども今までそうであったように、これからもこの地球上における火薬庫の一つであることには変わりはない。
中東和平会議においてもテ−ブルには着いたものの、平和に対する一歩と云うには程遠い。中東の平和というのは向き合って銃が火を噴いていないというだけの事で、何かのきっかけがあればすぐにでも双方から火蓋がきられる状況である。
我々がイメ−ジしているような生易しい平和ではない。
ただの「撃ち方止め」の状況である。
この「撃ち方止め」の状況を継続させるのに、なお武器の援助が必要であるというのは我々日本人の想像を越えた状況である。
というのはアメリカもソ連もこれまでこの中東に武器援助を餌にして、お互いの陣営に組み込もうとしていた。
アラブ側は主にソ連から、イスラエルはアメリカからという具合に、アラブの中にはソ連が援助を打ち切ると困るから、アメリカからも援助を受けてきたところもある。
武器援助というのが米ソ双方にとってこれらの諸国を味方の陣営に引き止めておく餌となっていた。
イスラエルなどはアメリカの武器で装備し、資金面でも国家予算の30%近くをアメリカに頼っていたわけである。
今後アメリカは資金と武器の援助をどうバランスさせて、イスラエルを手名付けるかという事が 今後の課題になると思う。
イスラエルは湾岸戦争の際、アメリカの言うことを聞いて、アメリカに恩を売っておいたという側面も考えられる。
イスラエルとアメリカが今後どういう話し合いをするのかという事が、中東和平の大きな鍵になると思う。
中東においてはイスラエルがおとなしくしておれば一応の安定ということは成り立つ。
イスラエルが占領地を返却すれば一応の平和の条件は満たされるはずである。
この点イスラエルがどの程度妥協、譲歩するかが最大にポイントである。